小説家の憂鬱
彼は自称、小説家である。自称、と言ったのは、彼はまだ、一回だけ、自費出版で一冊、本を出した事はあるが、それ以来、本を出版していないからである。つまり商業出版の本を出した事が無いからである。一般の人の感覚でもそうだろうが、小説家と自他共に認められるのは、何かの文学賞を取り、書き下ろしで商業出版の本を出したり、週刊誌の連載小説で、小説を書き続け、一定のファンの読者層を獲得し、世間で知名度を博し、コンスタントに毎年、文庫本を、何冊か出し、その印税によって、生活している人を小説家と自他共に小説家と呼ぶからである。つまりはプロ作家である。そういう点からすると彼は他人が、小説家と、認めるかどうかは怪しい。
しかし彼が、小説家を自称するのは、彼にとっては、抵抗がなかった。なぜなら。確かに、彼は、世間の知名度も無いし、印税も全く無い。つまりアマチュアである。しかし、彼は、学生時代から、ずっと小説を書いてきて、社会人になっても、毎年、コンスタントに、何作か小説を書き上げて、完成させ、ホームページに発表しているからである。彼の念頭には小説を書くことしか無いのである。そして、それを毎年、続けてきているので、彼は自分を小説家と自称することに抵抗を感じていないのである。完成させてホームページに出している小説も100作以上になっている。彼は死ぬまで、小説を書き続ける強い信念を持っている。だから、彼は自分を小説家と自称することに抵抗を感じていないのである。
それに彼には、プロ作家になることに抵抗を感じている面もあるのである。彼は過敏性腸症候群という苦しい病気をもっており、そもそも子供の頃から、喘息の虚弱体質で、彼はもはや睡眠薬を飲まなければ、一日たりとも眠れず、また過敏性腸症候群によって、うつ病が頻発して起こり、とても連載小説を書きつづける体力などないことを痛感しているからである。勿論、彼も、今までに名のある小説新人賞に三回ほど、応募してみたことがある。しかし、三回とも予選にも通らずに落ちた。勿論、残念ではあったが、彼はあながち落胆しなかった。新人賞に通るためには選考委員に認められるものを書かなくてはならない。単なる面白さではダメなのである。しかも筋の巧妙さ、奥の深い視点のあるものでなければ、文学性が無いということで落ちるのは目に見えていた。そういう奥の深い、(あるいは斬新な、あるいは鋭い)視点を持っている人は幸いである。また、たとえ新人賞を一作とっても、その人の感性が世間の人に受け入れられなければ、一作作家として終わりである。
世間で名をなしている作家は自分の感性が世間の読者の感性と、一致している幸運な人と言える。振り返ってみるに、彼は、表現したいものというものを持っていた。彼は、大学に入るまで小説というものを一度も書いたことが無く、また書き方もわからず、作文から小説を書き始めた。大学で文芸部に入る事を親しい友達に誘われたが、彼はかなり躊躇した。文芸部に入るには小説を書かなくてはならない。と彼は思っていたからである。しかし、彼は誘われたから文芸部に入ったのではない。それまで彼は表現したい潜在意識が強くあったのである。ただ、小説を書く技術がないため、それは、はるか彼方の夢でしかなかったのである。大学に入って、人生の虚しさを感じ出すと同時に、表現したい欲求がどんどん募っていった。それがついに爆発したのである。文芸部に誘われていたという事も幸いした。彼は書き出した。小説など書けないから、作文もどきの小説から始めた。そして作文ではあっても、何作か作品が出来た。それ以来、彼の創作にかける情熱は、どんどん強くなっていった。たとえ作文もどきの小説とはいっても、作品は作品である。作品を書き上げて、完成させると、自分にも、作品を書く能力はあるんだ、という強い自信になった。それが創作の情熱を強めた。書きたいものがあっても、書く技術がないだけである。なら書く技術を磨けばいい。書く技術を習得するには、実際に骨を折って作品を書くことと、優れた作品を熟読することだと思った。それで彼は手当たり次第に、名作を片っ端から読み出した。そして、骨を折って作品を書いた。彼は先天的倒錯者だったので、エロティックな小説を書きたいと思っていて、また書けるとも思っていた。しかし、書く技術がない。それでも挑戦して書いてみたが、幼稚になってしまい、自分にはとても、エロティックな小説は書けないと思った。またエロティックな作品を書く事を受け入れることも出来なかった。それで恋愛小説的なものを書いた。それは、彼が書きたいものでもあり、また、書けるものでもあった。彼は恋愛小説を書いていこうと思った。大学の時には、勉強が忙しく、そのため、長編は、とても書けず、掌編小説、短編小説しか書けなかった。
彼は、小学二年生の時、一度、国語の授業の時間に創作をする課題が出されたことがある。教科書に載っていた、ある作品の続きを書いてみなさい、という課題だったが、この時、筆が走りに走った。書いていて面白くなってきて、書きながら笑ってしまうほどであった。なので、彼には子供の時から、創作の才能が十分、あったのかもしれない。それに気づき、それ一筋に夢中になって小説を書いていたなら、小学校、中学校、高校と、どんどん書く技術がついていき、プロ作家にまでなれたかもしれない。しかし、その国語の創作の授業は一回だけであって、それ一回きりで、一度の楽しみとして終わってしまった。彼には、他にも勉強やら、運動やら、遊び、やら、色々やりたいことがあった。小学生の創作なんて遊びに、価値があるとも思えなかった。もし、創作の授業が一回だけでなく、何度も行なわれたら、彼の人生は変わったものになったかもしれない。
大学生になって、やっと彼は自分の本当にやりたいものに気づき、遅ればせで不利な条件ながら、ついに決断し、書きはじめたのである。一度、火がついた創作欲は、もう燃えさかる一方だった。そもそも彼は、何かをし出すと、それにとりつかれてしまって、無我夢中で邁進する性格でもある。
彼は医学部を卒業して医者になった。医学は深い理論があり、非常に面白いものである。彼は一時は、医学に夢中になったこともあるが、やはり、自分のしたい事は、結局は創作で、それに戻った。
社会人になると、もはや躊躇いがなくなり、エロティックなものも書いてみるようになった。すると書けた。一作、書くと、それが自信となる。彼は次々とエロティックな小説を書いた。書き上げる事の喜びと、書けることの自信との相乗効果で、彼はエロティックなものにだけに焦点を当てて、書くようになった。もはや、彼は、一生、エロティックなものを書き続けられる自信がつくほどにまでなった。文芸的なものは書かなかったが、彼は作品を書いていれば、それで満足であり、またエロティックなものは、嫌々、書いているのではなく、書きたいから書いているのであり、書き上げた時には十分、満足できるからである。それに歳をとると性欲が低下して、エロティックなものは書きたくても書けなくなるのではないか、という心配のため、若く性欲がある内に、エロティックなものを書いておこうという考えもあった。
彼は精神科を選んだ。それは精神科は比較的、楽だからと思ったからである。彼は二年の研修の後、精神保健指定医の資格を取るという条件で、少ない給料で、常勤で田舎の精神病院に就職した。だが、院長はしたたかで、精神保健指定医の資格をとって辞められることを怖れ、彼に指定医の資格を取らせなかった。彼は指定医だけは取っておこと思っていたのである。精神科では、精神保健指定医という国家資格がないと、給料も低く、就職も難しいのである。医者の求人も指定医の資格があることが絶対の条件である場合が多い。つまり指定医の資格がないと、就職できないのである。何度、院長に交渉にいっても、「そのうち取らせる。そのうち取らせる」と言いながら、結局は取らせてくれない。政治家の「前向きに対処します。前向きに対処します」と言いながら、結局は、何もしないのと同じである。結局、彼は、一つの病院に医者の数が多いと、病院の評価があがるため、そのための手段として採用されたのに過ぎなかった。また学閥の強い田舎の病院で、医師を募集しても医者がなかなか医者が来ない。そのための用心のためでもある。つまりは、飼い殺しである。唯一の、医者集めの手段は、院長の出身大学の医局に、数100万、教授に渡して、「どうか医者を一年、派遣させて下さい」と、教授に頼みこむしかないのである。そこの病院は学閥が強く、彼は一人ぼっちだった。彼など、空気同様いないに等しい。そんな中、大学の医局から派遣されてきた女医だけは、彼を可哀相に思ってか、優しい言葉をかけてくれた。その頃、精神科専門医という、新しい資格を学会がつくった。そして、古参の医者は、「精神科専門医の資格のためのレポートには協力しますよ」と彼にしたたかに笑って言った。これは思いやりなんかではない。精神科専門医は、精神保健指定医と違って、学会が認めるだけの資格で、ほとんど何の権限もない。では、なぜ、そんな事を言うかというと、精神科専門医のレポートにサインすると、精神科の指導医という肩書きができるからである。つまりは、自分の事しか考えていないのである。ウソで飼い殺しにしようとする悪徳な院長、偽善者の指定医、などの集まりの病院に、もう身も心も疲れはてて、彼は病院を辞めた。それで、医者の斡旋業者に頼んで、非常勤で働いたり、健康診断や当直などのアルバイトで、やっていくことにした。また、どこの病院に常勤で就職しても、病院の院長などというものは騙すことしか考えていない医者がほとんどである。なので彼は指定医の資格はもう諦めた。
だか、常勤をやめて、時間的に自由になると、ほっとした。元々、小説を書くことが、彼の人生の一番の目的であり、指定医だけは、医師免許と同じように、精神科医として、やっていくためには、なくてはならないものだったから、それだけには何としてもこだわっていたのであるが、そのこだわりが無くなると、ほっとした。精神的ストレスも無くなり、小説もどんどん書けるようになった。指定医取得で悩んでいた時は、身も心もボロボロで、うつ気味であり、小説も書けなかった。しかし、それを吹っ切って自由になると、精神が実にリラックスした。彼は、毎日、家の近くの図書館で、朝から、図書館が締まるまで、机に向かって小説を書いた。
図書館とは、healing space of the soul とも言われる。つまり魂が癒される場所という意味である。なぜ図書館かというと、図書観の方が緊張感が出るからである。それに彼は、頚椎の湾曲が少なく、直線ぎみであり、肩が凝りやすい体質でもあるからである。
彼は小説を書いた。しかし彼には、実生活というものが、ほとんど無い。元々、内向的な性格の上、過敏性腸症候群のため、友達がいない。仮に友達を無理して作っても疲れてしまうだけである。そのため、彼の小説は、頭で考えた空想的なものが多かった。しかし、彼は、子供の時、喘息の施設に二度ほど、計三年入っていたことがあり、そこでは本当の友達が出来たし、保母さんは、憧れの異性でもあった。そういう現実の体験を元に、それからイメージを膨らませて、小説を書いた。これは何も、彼だけに、いえる事ではない。ライナ・マリア・リルケも言っているが、もし、どうしても書く事がなくなっても、少年期の体験だけは、書く事が出来るのである。
彼は机に向かって、一日中、ウンウン頭を唸らせながら小説を書いた。書いている時だけが、彼にとって幸せな時であった。不思議なことに、もはや学生時代に書けた掌編小説というものが書けなくなってしまった。掌編は、ただ短いだけの小説ではない。掌編はラストが、キリッと纏まるかが、全てであり、それが上手くいくと、掌編といえども、小宇宙、ミクロコスモスの一つの世界になるのである。学生の時、それが出来たのは、長い小説を書く時間が無く、掌編しか書けず、まさに必要が発明の母だったのである。しかし小説も、ある程度の長さを越すと、もはや、ラストをどうするか、ということは重要でなくなってくる。中身のボリュームが長い小説の、美味しさだからである。
そして、ある程度、長く書いた段階になると、もっともっと、いくらでも話が続けられることに気がついた。しかし彼は遅筆なので、一つの小説を延々と長く書くより、ある程度の所で切り上げて、次の小説を書いた。一年で、一作だけの長編というのは、さびしく、それをするくらいなら、短めの小説を五作、書きたかったからである。それは、多くの作品を書く事によって、自分に自信がつくからである。また、話によっては、長い作品を書いていると、色々イメージが沸いてくるが、中には惰性で、話がつまらなくなってくる性格のものもある。つまり、原稿用紙の枚数は多くても、キリッとラストを纏める方がいい掌編的な性格の小説もあるのである。
これのいい例がある。それは梶原一騎の漫画である。梶原一騎の漫画のほとんどは、ある所でクライマックスに達する。そこで終わりにした方が、しぶいのだが、長編の連載ということで、クライマックスの後でも、話を考えて、つづけて書かなくてはならない。例を挙げれば、「巨人の星」では、大リーグボール一号を完成した時、あるいは、花形満が、大リーグボールを打った時が、「巨人の星」の絶頂のクライマックスであり、そこで終わりにした方がいいのであるが、連載漫画は続きを書かなくてはならない。そして、クライマックスの後では質が低下しているのである。他の作品では。「夕やけ番長」は、七巻の、赤城忠治と鮫川巨鯨との対決がクライマックスであり、「侍ジャイアンツ」では、番場番が巨人とのケンカに勝った時がクライマックスであり、「愛と誠」では、高原由紀のリンチが終わった時が、クライマックスである。(もっとも、愛と誠、では、ラストが見事に決まっているが)
プロと違い、アマチュアだと、きりのいいクライマックスで、お仕舞いにすることが出来るから有利なのである。
しかし時には、新しい小説を書こうと思っても、どうしても書けない時もある。
小説を完成させて、ホームページに出した時は最高の快感であり、大得意である。だが、その後、すぐ、話が思いついてくれればいいのだが、書けないと、一日経ち、二日経つ内に、だんだん、憂鬱になってくるのである。
不思議なことに完成させてホームページに出してしまって、数日経ってからでは、つづきを書こうと思っても、後の祭りであり、書けなくなってしまうのである。これは非常に怖いことである。こんなことなら、話を切り上げないで、もっと長く話をつづけた方が良かったと、つくづく後悔することもよくあった。
作家とは、書いている時だけが生きている時であり、書けない時の作家は、まさに地獄の苦しみである、プロ作家なら皆そうであろう。哲学者のメルロ・ポンティーが言っているように、作家にとっては、今、書いている作品こそが全てであり、過去の作品は作家にとって、墓場であり、過去の栄光にいくら浸っていても何の感慨も受けない。
彼は小説を書けない時は、ブログの記事をストックとして書くか、本を読んだ。読むのは、ほとんど小説である。ただ読むのは、楽しみのためというより、自分が小説を書くヒントになる本を読んだ。また大作家の小説を読むことは、小説を書くファイトにもなる。
そういう考えで彼は、読む本を選んでいるので、必ずしも全ての本を読んでいる文学通ではない。一読して、ああ、楽しかったで、翌日になると忘れてしまうような作品は読まない。文学青年は、ドフトエフスキーとか、トルストイとかの大長編を読むが、大長編は自分の身につかない。それよりも掌編、短編で、重みがあり、ストーリーを忘れないような印象の強い作品を読む方が、自分の創作の勉強にはいいのである。
また、何も小説に限らず、ある単語や、ある場面が小説のヒントになることがある。ネタ探しのアンテナを絶えず張っていれば、小説のアイデアが沸くことがあるのである。これは何も、読書だけに限らず、日常生活で、絶えず小説のネタを探す気持ちで生活していれば、アイデアが沸くことがあるのである。インスピレーションとは、努力によって起こるのである。ボケーと待っていては、インスピレーションが降臨してくることはない。誰でも、そんなドラマになるような生活を送っているわけではない。人は、一生に一つは小説を書ける、と、よく言われるが、それは、言葉を返せば、たった一つ、というほど、人の一生に、小説になるようなドラマチックな事は起こらない、という事である。
そういうわけで、職業作家として、小説を書き続けるには、ドラマチックな事が自分に起こってくれるのを指を咥えて待っていては書けない。勿論、日常、人との付き合いが多い行動的な人は、日常の雑感であるエッセイを書く事はできる。しかし、小説は書けないし、エッセイにしても、芸術性の高いエッセイが書けるかどうかは、わからない。
そこで、プロ作家として、小説を書きつづけるには、積極的に、今や昔に起こった事件、人物などで、小説になりそうなものを、徹底的に調べて、頭を絞ってストーリーを考えて、小説に仕立てるのである。推理作家では、平和な土地に、わざと凶悪な犯罪を、頭を捻って考え出さなくてはならない。平和な土地に住んでいる人にとっては迷惑かもしれない。
彼は、以前、新宿のカルチャー教室で、「取材の仕方」という教室に出たことがある。三回の講義で、一回目は、口の悪い元、編集者で、取材の仕方の話をせず、自分の言いたい政治的な主張を乱暴にぶちまけただけだった。そのためか、二回目からは、100人いた受講者が、10人くらいに、ぐっと減ってしまった。しかし二回目からの講義は良かった。二回目は、作家の嵐山光三郎先生だった。先生は、ちやんと、取材の仕方の講義をした。彼はこんな事を言った。
「作家は、小説に限らず、何かものを書く時、取材しなくてはならず、取材の費用は自腹を切らなくてはならない。だから、原稿料が入っても、取材の費用で、差し引きゼロとなってしまう。では、どうやって収入を得るか、というと、連載した作品が単行本や文庫本になり、本が売れることによって、その印税が作家の収入源となる」
これは、全ての小説で言えることではない。小説には、取材などしなくても、資料がなくても書けるものもある。しかし、念入りな取材をして、資料を集めなくては書けない作品もある。氏は後者のような作品を書くことが多いのだろう。実際、氏の作品には、そういうものが多い。
アメリカを舞台に小説を書こうと思ったら、やはりアメリカに行かなくてはならないだろう。今は、インターネットで、画像や文献を集めることは容易である。しかし、その場所の空気、雰囲気、人々の様子、町並み、などをリアルに書くためには、実際に行って実感しなければ書けない。百聞は一見に如かず、である。だから、本格的な小説を書くためには、取材の費用を先行投資として払わなくてはならないのである。最も、海外旅行が好きで、色々な所に趣味も兼ねて行っている人は、その点、有利である。作家は何事にも旺盛な好奇心を持っていて、仕事のためではなく、どうしても調べたり、行ってみたりしてしまうような好奇心旺盛な行動的な人が有利なのである。
そういう点、彼は小説創作に不利だった。アマチュアで、収入をはじめから考えていないのだから、取材の先行投資は、小説を書くために支払うだけのものとなる。彼は小説を書くのが好きだが、取材のために、かなりの金を払ってまで、本格的な小説を書きたい、とまでは、思っていなかった。そこで、映画と同じように、安上がりで書ける小説となると、ポルノ小説となるのである。だから彼が妄想的なエロティックな作品ばかり書く事になるのも、必然の結果だった。そして、彼は妄想的なエロティックな作品を書くことに、満足しているのであるから、なおさらである。
さらに、彼は、孤独で友達がいない。孤独であるということは、小説家の良い特性ともいえるが、それは精神的な孤独であって、物理的に話し相手がいない、ということは、小説を書く上で、極めて不利である。人との会話や、付き合いは、それだけで、上手く加工すると小説になりうる可能性がある。また、一人の人間は、その人の視点で世界をみているから、つまり、一人の人間は無限の情報を持っているから、一人の友達がいるということは、自分とは違った視点の、無限の情報を持った人から、無限の情報を聞きだせるということである。そういう点でも彼は小説創作に不利だった。たとえば、ある場所から、ある場所へ車で行く時、友達は、いい抜け道を知っているかもしれない。何か困った時にも、どうすればいいかも、友達が、そういう経験をして知っているなら、教えてもらう事も出来る。近くに美味い焼き肉屋があって気がつかなくても、友達は知っているかもしれない。そういう、あらゆる事で、一人でも友達がいると、非常に有利なのである。しかし、それは、友達を情報入手のための手段として利用することである。彼は人を自分の目的のために利用することが嫌いだった。しかし、それならば、彼だって、彼という視点を持った一人の人間だから、友達が知らない事で、彼が知っている事を教えてやればいい。ギブ アンド テーク である。しかし彼は、内向的な性格で、自分の関心のある事には、熱中してしまって、知識もあるが、それ以外の世事には疎いのである。外向的な人間は、その逆で、世事には広いが、一つの事に熱中してしまう、という事がない場合がほとんどなのである。また内向的な人間は外向的な人間のように、世事の全てに、広く関心を持っていないため、話が噛み合わないのである。噛み合わない、だけでなく、疲れてしまうのである。そもそも友達との雑談というものが苦痛で、一人で自分の好きな事をしている時だけに、心が落ち着き、和らぐのであるから、友達というものを作れないのである。それに内向的な人間は無心になって遊ぶという事も苦手である。そのため彼の情報入手は、子供の頃から書店や図書館の本やネットだった。また、友達がいないと、夏休みの旅行という事も出来にくいから、ますます世間知らずになってしまう。勿論、旅行や遊びは、一人でしても違法ではない。しかし、やはり旅行は友達と行くのが楽しく、それが普通であり、一人で行くのは虚しいし、恥ずかしい。遊びも、友達とするのが、一般的である。一人でボーリングに行っても、一人で屋外バーベキューを焼いても違法ではない。しかし夏祭りも一人で行って、一人で金魚すくいをするというは虚しいものである。さらに、夏の海水浴場のナンパというものも、男二人なら、恥ずかしくはなく、友達同士の女二人に声を掛けることも出来やすいが、一人では、困難を極める。それでも、京本政樹のような超美形なら、可能だろうが、残念なことに、神は彼に、平均的な容貌しか与えなかったのである。そういうことで、一人というのは、生きていく上で、極めて不利なのである。ただでさえ、そうなのに、過敏性腸症候群が発症してからは、彼の人づきあいは、さらに困難になっていった。そもそも内向的な人間は、集団帰属本能が無いのである。
内向的な人間は、一つの事をやり出すと、それに凝ってしまい、幅広い世事に疎く、また無心に遊ぶ事が苦手なのである。
そういうことで、彼は、常勤で働くのをやめてから、ほとんど毎日、図書館で小説を書くようになった。図書館にいる時が、唯一、心の和む時間だった。
彼は、図書館で、あらゆる分野の書棚の本の背表紙を眺めるのが好きだった。出来る事なら、図書館にある全ての本を読みつくしたい衝動に駆られるのだった。どんな事にも理論がある。それを学びたいのである。しかし、彼にとっては、読むことより、作品を作ることの方が絶対的に価値が上だったので、一日中、机に向かって、小説を書いていた。彼は、遅筆で、また、体調に非常に左右されるため、一日かけて、原稿用紙一枚しか書けない時もあった。一日、原稿用紙10枚、書ければ多い方だった。また、アイデアが浮かばない時など、一日かけて、一行も書けない時もあった。それは彼が文章をスムースにつなげ、ストーリーにも頭を捻って、最高のものにしようとの、凝り性の性格のためだった。そのため彼の作品は非常にスムースに読める。彼は文体を持っていると自負していた。では、文体とは何か、というと、それは、人によって定義が異なるだろうが、まあ、文章の読みやすさ、と言っていいだろう。ひとつの文を書くと、次の文は、前の文を引き継いだものとならなくてはならない。一つの文は、次の文章を決定する。だから、次の文章は、前の文章に責任を持ったものでなくてはならない。軽い気持ちで、一文を書くと、その後の話の展開が大きく変わってしまうこともあるのである。文体にこだわると、そういう事まで起こってしまうのである。この事を雑にしてしまうと、本人には、わかっても、他人には読みにくい文章になってしまう。そういう人は、自分の書きたい事を、無考えに次々、書いて、読む人のことは、考えていない。自分の書きたい事を目一杯書いて、自己満足し、読む人は、かってにどうぞ、という、デリカシーの無い性格である。一方、文体を持っている人、特に彼のように、読まれることを、絶えず意識して書いている凝り性の人は、どうしても筆が遅くなる。そういう人は、読者を意識するあまり、自分の書いた作品が、読者に読んで欲しい、という意識が非常に強いのである。音楽には、絶対音感というものが先天的にあって、それが無い人は作曲することが出来ないそうだ。それと同様、文章にも、絶対文感というものがあって、それが無い人は、作品を書く事が出来ないそうだ。もっとも、作品を書く時に、一番大切なのは、書き手の精神的コンディションであって、精神的コンディションが良好な時は、速く書いても、文体が滑らかで、ストーリーも崩れず、見事な作品を書く事が出来る。彼の場合、過敏性腸症候群による体調不良のため、精神的コンディションが、悪い時の方が多いので、筆が遅いのである。彼も精神的コンディションがいい時は、頭より手の方が先に走って止まらない、という事も経験している。
人生の時間は限られている。その限られた時間の中で、何をするか、という決断に人間はいつも、さらされている。彼にとって、それは作品を書く事だったので、一日、原稿用紙一枚しか書けなくとも、彼は読むことより、書く事をとった。そのため、図書館にある膨大な本は、背表紙を見るだけにとどまった。残念だが仕方がない。
彼は、図書館にある、松本清張とか山本周五郎とか、その他、多作の大作家の全集を見ると、よくこんなに沢山、作品を書けたなと驚きを持って感心した。彼は一生、創作一筋に打ち込んでも、絶対、これほどまでの分量は書けないだろうと、残念ながら確信していた。それは、今までの創作のペースから考えて、どんなに無理してでも、彼らほどの分量は書けないと、残念ながら確信していた。
そして、もちろん嫉妬の感情も起こった。しかし、それは、そんなに激しいものではなかった。彼の創作の動機は、名誉欲でもなければ、金銭欲でもない。創作は自分との戦いであり、自分にしか書けないもの、そして自分がどうしても表現したいものの作品化であったからである。もっともそれは、どんな作家でも持っている感情だろう。同じジャンル、たとえば、推理小説を書く作家なら、すぐれた推理小説の大家に、質、量、において嫉妬する事もあるだろう。しかし、恋愛小説の作家が推理小説の大家に嫉妬するということが、あるだろうか。作家は自分の好みのジャンルの作品を創って表現したがっている。それが自分の価値観であるからである。特に個性の強い作品を書く作家にとっては、創作は自分との戦いだろう。だから、違う別のジャンルの作家に対する嫉妬というものは、あるだろうが、そんなに激しいものではないのではなかろうか。実際の所、それは、各作家によって異なるだろう。たとえば野球選手が、日本一のサッカー選手に嫉妬するということがあるだろうか、という疑問と同じである。野球選手は野球に価値をもっていて、サッカーには価値をもっていないだろう。作家が一番、幸福を感じる時は、自分が表現したいと思っていた作品を見事に完成することができた時であろう。ともかく膨大な多作の作家の全集を見ると、自分の創作に対するファイトは、間違いなく起こる。
そして彼は、過敏性腸症候群であり、不眠や鬱に悩まされており、創作にとって著しく肉体的、精神的、条件が悪い。彼は、キリスト教の教えにある、タラントの喩え、通り、自分に与えられたタラントを精一杯、努力して発揮する事が、自分にとって大切な事なのだと、かなり達観していた。自分は、大作家の十分の一のタラントしか、与えられていない。しかし、量は少なくても、自分に与えられたタラントを精一杯、努力して発揮することが、価値のあることなのだ、と思っていた。
そんなことで彼は、仕事のある日以外は、図書館の机に向かって、じっと座ってノートに向き合っていた。彼は、パソコンにそのまま入力して書くという事が出来なかった。これは作家の気質もあるだろうが、ワープロが使えても、ワープロで文章を書くということが、どうしても出来ない作家というが、プロ作家にもいる。長年、文章を鉛筆で原稿用紙に書いてきた習慣のため、文章を書くという脳の働きが、原稿用紙に、文字を一文字、一文字、筆に圧力をかけて、原稿用紙の升目を埋めていく、という方法と一体化してしまっているからである。そういう人には、たとえワープロが使えても、文章は筆でしか書けない。また小説のアイデアが、筆で原稿用紙に文字を書いているうちに、沸いてくる、などという習慣が身についている人には、どうしてもワープロでは書けない。ワープロで、キーを押す動作では、文章も作品も軽くなってしまい、重い、魂の入った文は、書けないという人もいるだろう。特に、ワープロが出来る前から、書いていた人には、そういう人が多い。彼も、はじめはそうだった。ワープロが使えるようになっても、今までの習慣から、どうしても文章はノートに鉛筆でしか、書けなかった。それで、彼は鉛筆で文章を書いて、それをワープロに写す、というようにして書いていた。文章を書くという脳の機能と、その手段は、一体化しているからである。しかし、だんだんワープロを頻繁に使っているうちに、ワープロでも書けるようになってきた。ワープロのキーを押す、という方法が、文章を書くという脳の機能に適応しだしてきたのである。すると一旦、ワープロで文章を書くという方法が、文章を書く脳の機能と一体化してしまうと、今度は逆に、鉛筆で、ノートに書くということは、おっくうになっていった。
彼は、小説を書く時、必ず、何冊かの、読みかけや、既読の文庫本を横に置いていた。
作家は小説を書く時、特にストーリーを考える時、何をヒントにしているだろうか。おそらく、毎日の生活の中での、何かの出来事をヒントに、それを想像の力で膨らませたり、加工させたり、変形させたりして、お話を考えているのでは、なかろうか。しかし彼には実生活というものがない。人との付き合いが全く無いのである。それで、彼は小説のヒントを、生活ではなく、虚構の小説の中に求めた。彼が小説を書き出した時の、ストーリーを考えるヒントも、小説を読むことであったが、その後も、彼には生活というものが無いため、ストーリーのヒント探しとして文学作品を読んだのである。そして、ある作品なり、作家なりが気に入ると、これは自分の創作のために、吸収することが出来ないかと、徹底的に精読した。彼の読んだ小説には赤い傍線が一杯書き込まれている。彼は小説を自分の創作の能力を広げる勉強の目的で読んだのである。彼は、日本の近代小説で、短めのものを読んだ。それは、彼の書きたいもの、書けるものの性格からして、筋が複雑に入り組んだ推理小説は、無理だと諦めていたからであり、また推理小説を書きたいとも思ってもいなかったからである。さらに、長編の推理小説は、読んで数日すれば、忘れてしまう。推理小説とは、読む人を、ハラハラさせ、面白がらせるために書かれたものであり、読むには面白いが、少なくとも彼の小説の勉強には、向かないかったからである。同様に外国の長編小説も読まなかった。外国を舞台にした小説を書く気はないからである。しかし、日本の古典は、筋は入り組んでいなくても、一文、一文に味があった。彼もストーリーの奇抜さではなく、文章や作品自体に味のあるものを、書きたかったからである。
そもそも、小説の勉強をするには、日本の古典を読むことである、というのは、よく言われる事である。
一つの作品や作家が気に入ると、彼はとことん精読した。自分にも、こういう小説なら、書けるのではないか、と共感できるような作品を見つけると、大変な喜びだった。しかし、それに習って、書こうとしてみも、やはり無理だった。彼は世事に疎く、観念ばかり肥大していて、世を描写することが出来なかったからである。やはり小説を書くには、思想を深く持っているより、世のあらゆる雑事を、幅広く知っていなくては、駄目なのである。彼は自分の創作の肥やしにならないと諦めた作家の作品は、読まなくなり、さらに別の、自分の創作の肥やしとなるような作品、作家を探した。それを見つけると、彼は、今度こそ、と一心に精読した。だが、書く段になると、やはり書けなかった。そういう風に、彼は多くの作家の作品を、次々に鞍替えして読んでいった。そのため、古典や文章の味が分かるようになった。つまり、彼は、小説を鑑賞する能力が、結果として身についたのである。
気に入った小説を横に置いておくと、自分も、こういう作品を書きたい、という創作のファイトになった。だから彼は、書く時、既読か読みかけの小説を横において置くのである。
だが、彼は、いざ小説を書こうとすると、結局は、自分の頭の中にある空想を駆使して搾り出すしかなかった。そして、一つの小説を書く事は、一つのパターンの発見だった。彼は、発見した一つのパターンを元に、別の新しい小説を書いた。そうやっているうちに、いくつかのパターンを持つようになった。
☆ ☆ ☆
平成21年の冬になった。
冬は彼にとって地獄の季節だった。冷え性で便秘症の彼にとって、一冬、乗り越せるかどうかは、動物の越冬にも近かった。蒸し暑い夏が過ぎ、爽やかな秋も過ぎ、日の暮れるのが早くなって、寒い日になってくると、だんだん元気がなくなって、胃腸の具合も悪くなってくるのだった。そうなると創作も出来なくなってくる。精神が活き活きとしている時には、筆がどんどん走るのだが、元気がなくなってくると、書けなくなってくるのだった。
だが、書けない時でも、書きたい気持ちは、逆に一層、強まった。むしろ書けない時の方が、書きたい創作意欲が激しくなった。
彼の家から少し離れた所に市民体育館があった。
「肉体的条件が悪いから創作できないのだ。ならば体を鍛えて肉体的条件を良くすればいい」
そう思って、彼は市民体育館のトレーニング室で、マシントレーニングをする事にした。以前から、彼は体を鍛える必要を感じてはいたが、億劫がって、やらなかったのである。だが、とうとう彼は決断した。トレーニング室は、一回、300円で、何時間でも出来る。だが、彼は、運動は、いくつか出来たが、技の訓練だけに価値があって、基礎体力を侮っていたためしなかった。彼は、今、はじめて、基礎体力を鍛える重要性に気がついたのである。それで彼は、基礎体力のトレーニングをするようになった。しかし今まで、基礎体力のトレーニングをしてこなかったため、彼の体力はサラリーマンとほとんど変わりなかった。バーベルもよう、持ち上げられないし、続かない。何より、単調きわまりない。彼には、こういう単調なトレーニングが苦手だった。というか性に合っていなかった。体育館の近くには、通年やっている温水プールもあった。そこで、温水プールで泳いでもみた。しかし、水泳もマイペースで、出来てしまう、休みたくなったら休めるので、あまり、運動したという実感は得られなかった。
そもそもマシントレーニングにしても水泳にしても汗を流さない。こういう一人でマイペースで出来る運動では、休みたい時に休めてしまう。それでは、大した運動にならない。それに単調で面白くない。もっと、汗をかくような激しい運動で、やって面白いものをやろう。そう思って彼は、テニススクールに入ることにした。テニスは、かなり以前にも、やったことがあり、ラリーがつづくほどにまでなっていたのだが。普通の人なら何でもないだろうが、持久力の無い彼には、90分の1レッスンでヘトヘトに疲れてしまい、これは、ちょっと無理だと諦めていたのである。しかも彼は、何かの集団に入るという事が、嫌いだった。それで、ネットで探してみると、スクールに入らなくても、一回、三千円で、好きな時に受けられるスポットレッスンというのをやっている所があったので、そこで、レッスンを受けることにした。そこは屋外コートだった。ので、雨が降ると出来ない。長くテニスをしていなかったが、数回、練習するうちにカンをとり戻した。今度は、技術よりも、体力強化が目的たった。90分という時間は、ちょうど良かった。終わる時には、全身、汗びっしょり、だった。プレーが終わった後に飲むスポーツドリンクは最高だった。プレーが終わって、図書館にもどってくると、心身ともに絶好調だった。ただ運動していなかったため不快な足の筋肉痛が、数日、続いた。心身は好調になるが、足の筋肉痛がつらい。だが、しかし、テニスは、彼の怠けていた心肺機能をも鍛えた。そもそも、一人きりでやる運動と違って面白い。こうして彼は、テニスを、始めるようになった。そこは車で20分の所だった。また、テニス自体が、面白くなっていった。一回のレッスンには必ず、何かの発見があった。そんなことで、彼はテニスを始めるようになった。ゴルフ場が隣接している清閑な所である。通う道には、果樹園があったり、田んぼがあったりして、図書館にばかりいる彼は、この行き帰りの風景に季節の安らぎを感じた。運転していて後ろ姿の女子高生を見ると、つい目が行ってしまうのだった。テニススクールに通うようになって、日が経つにつれ、だんだん足腰が強くなっていった。心臓も強くなり、体が丈夫になっていった。地獄の冬も難なく乗り越えられた。それまで彼にとって、冬は地獄の季節だった。アパートが断熱材が使ってなく、寒く、エアコンの暖房を入れても寒い。風邪をひくと、便秘症のため、こじらす事が多く、二週間以上も寝たままの日々が続くこともあった。腸が動かないため、食べられないし、吐き気さえ起こる。そういう時は心身まいって、熱がひくのを、一日中、布団の中で寝て待つしかなかった。
だが、その冬の12月になると、夏のような活気が起こらず、図書館で机に向かっていても、創作の筆は進まなくなった。腹痛も出てきた。
ある日ふと、彼は、ハワイに行ってみようと思い立った。それまで彼は一度も海外に行った事がなかった。遊びのため、海外に行きたいとも思わなかったからである。しかし一日、机に向かっていても一向に筆が進まない。これでは生きている時間が勿体ない。確かに図書館は暖房が効いているが、体が芯から暖かくはならない。なら、湿度が高くなく、気温が高い、この世の理想の常夏のハワイへ行ってみよう。そうすれば書けるかもしれない。一度くらいは外国にも行ってみよう。行ったら何か、小説のヒントが思いつくかもしれない。彼は思い立ったらすぐ衝動的に行動する性格があるので、彼は図書館を出て、駅の近くの旅行代理店に向かった。
旅行代理店の前には、パック旅行のチラシがたくさん並んであった。安い。ハワイ一週間、7万とある。
彼は、パック旅行に一度も行った事がないので、飛行機代と一週間のホテル宿泊費込みで、7万でハワイに行ける事が信じられないほどだった。彼は、店に入った。そして椅子に座った。受け付けの女性は広末涼子のような、きれいな人だった。
「あの。ハワイ行きたいんですけど・・・」
彼は彼女に言った。
「ご出発の日にちは、いつですか?」
広末涼子のような、きれいな女の受け付けの人が聞いた。
「今週中は、出来ますか?」
彼は思い立つと、すぐ行動する性格があるので、そう言った。
「パスポートは、持っていますか?」
広末涼子が聞いた。
「持っていません」
「パスポート取るのに10日、位かかります」
彼はパスポートについて全然、知らなかった。勿論、海外に行くには、パスポートが必要である、という事は知っていた。しかし、パスポートは、直ぐ取れるものだと思っていた。今は、十二月の中旬だから、となると、早くても年末ということになる。
「じゃあ、早くても年末になりますね」
彼は言った。
「ええ。でも年末、年始は、混みますから料金が高くなります」
そう言って彼女は、出発日と料金の書かれた表を出した。確かに、年末、年始の出発だと、同じ7日でも、20万以上と倍以上、値段が高くなる。それでは、とても行く気にはなれない。
「高いですね」
「ええ。出発日を、少しずらす事は出来ますか?」
「ええ。出来ます」
「では、6日の出発ですと、一週間7万というのが、一番早くて、あります」
「では、それでお願い致します」
こうして決まった。
「いくらでもいいですので、いくらか、前金を頂けないでしょうか?」
彼女は前金を求めた。
「どの位ですか?」
「3万円位、いただけないでしょうか?」
財布には5万あったので、彼は3万、渡した。
「病気になったり、万一の時の保険がありますが、それには入りますか?」
そう言って彼女は、その保険も見せたが、彼はそれには入らないことにした。保険料は一万近くかかり、そうやって、次々とオプションをつけていくと高くなってしまう。彼は7万できっちり、おさめたかった。
「あらかじめ円をドルに替えておいた方がいいと思いますが、空港でも出来ますが、どうしますか?」
「じゃあ、お願いします」
彼は心配性なので、万一、空港で、両替が出来ない事を心配して、あらかじめドルに替えておくことにした。
「いくら替えますか?」
「いくらくらいがいいでしょうか?」
彼は逆に聞き返した。
「そうですね。ディナーショーや、食事や、レジャーなどで、10万円くらい持って行った方がいいでしょう」
「じゃあ、10万、ドルに替えて下さい」
彼はレジャーを楽しむ気もないし、食事も、高級レストランではなく、安物で済ますつもりだったが、心配性のため、万一のため、10万、ドルに替えておくことにした。両替は別に金がかかるわけではない。ホテルは、オアフイーストホテルというワイキキビーチに近い所だった。彼女は、ホテルの地図や旅券、案内などを彼に渡した。
こうしてハワイに行く事が決まった。
彼は、急いで書店に入り、ハワイの旅行ガイドブックをニ、三冊買った。旅行用の英会話のガイドブックもあったが、パラパラッとめくってみたが、中学生程度の英会話で、ほとんど全部、知ってるので無駄なので買わなかった。彼は自転車で図書館に戻り、図書館でもハワイに関する本を持ってきた。どうせ行くなら、ハワイに関することは、あらかじめ調べ尽くしておきたかったからである。寒くて、腹も痛くて創作もはかどらない。彼はワイキキの町の道路とホテルを覚えた。色々なレジャーもあったが、それには興味がなかった。
翌日、彼はパスポートを取るために、戸籍謄本が必要なので、車で鎌倉の市役所に行った。本厚木のサティーに、パスポートを申請する所があるので、戸籍謄本を受け取ると、そのまま本厚木に向かった。パスポートは一週間くらいで出来るとのことだった。申し込みが終わると彼は家に戻った。ネットも使って、ハワイに関する情報を調べた。沖縄に以前、行った時も、行く前に沖縄を徹底的に調べてから行った。しかし、今度は外国である。言語がどうなっているのか、とか、チップはどうなってるのか、とかネット喫茶はあるのか、とかは、わからなかった。一番気になったのは、パソコンの電源である。電圧はそれぞれの国によって違い、ハワイは110ボルト、60Hzである。コンセントの差込口の二つの穴の長さが違う。ネットで検索すると、海外でパソコンを使うには、それぞれの国に合わせた変圧器が必要とあった。パソコンが使えなくては、ハワイに行く意味がない。遊ぶために行くのではなく、寒くて小説が書けないから、暖かいハワイならきっと書けるだろうと思って、そのために行くのである。彼は急いでパソコンショップに行った。海外対応変圧器というのが売ってあった。2千円少しである。コンセントの二つの差込口の長さが違うので、
「これでハワイでパソコン使えますか」
と店の人に聞いたが、使えると言ったので、信じることにした。
一週間して、パスポートが出来たので、本厚木に取りに行った。旅行代理店でも、10万円分のドルができていたので、受けとった。1ドル=約100円だから、1万ドルである。アメリカの札を見るのは、はじめてだった。これでもう準備が整った。
寒くて小説を書けないので、小説を読んだりハワイに関する本を読んだ。
そして働いたり、テニススクールに行って、テニスをしたりした。
数日して、咽喉に抵抗を感じるようになった。それが、だんだん悪化して、熱を出してしまった。急いで、かかりつけの医院に行った。インフルエンザだった。彼は秋にインフルエンザの予防接種を受けていたが、かかってしまったのである。風邪薬と解熱剤を出してもらい点滴を受けた。そして、家に帰って、布団に入って寝た。頭痛がして、だるく、咽喉が痛い。彼は頻繁にうがいをして、咽喉についているインフルエンザウイルスを早く追い出そうとした。だがなかなか、咽喉の痛みがとれない。そのため、何日も寝たままの生活がつづいた。一週間くらいして、ようやく熱が下がりだした。ちょうど、年末になっていた。大晦日の夜には、藤沢の白旗神社に行った。初詣に来ている人が何人もいた。除夜の鐘が聞こえ出した。神社では、甘酒と、味噌おでんを、ただで配っていた。これが美味く彼は三本、食べた。焚き火をしていて、木材がパチパチと音をたてながら激しく燃え盛り、真っ黒な空に金砂子を噴き上げていた。彼は、神社の階段を登り、
「今年も小説がたくさん書けますように」
と祈願した。そして車で家に戻って、また布団の中に入った。まだ、咽喉に軽い違和感があったため、熱がぶりかえさないように慎重を期したのである。熱を出したまま、ハワイへ行くのでは、何も出来ないから、ハワイへ行く意味がない。そのため正月は寝正月になった。
ハワイへの出発日の1月6日(水)になった。
夜、9時の出発だった。家から成田空港までは電車で2時間かかる。出発の1時間前には空港に着いているようにと、あったので、6時に出ればいい。だが彼はゆとりをもって、3時に家を出た。空港に着いたのは5時少し過ぎだった。彼は出発ロビーの前の椅子に座って、電光掲示板を眺めた。世界各国への飛行機が次々に出発していくのが、表示されている。長い時間、待った後、ようやく出発時間に近づいた。搭乗口が開くと彼は直ぐに入った。手荷物検査では、ハサミとペットボトルをとられた。また、しばし待って、ようやく飛行機へ乗る時間になった。ゲートから飛行機に乗るバスに乗り、飛行機に乗った。彼の席は右側の窓側だった。いよいよ飛行機が動き出した。飛行機は、滑走路の上をゆっくり動きながら、いよいよ離陸のため、加速度をつけて全速力で走り出した。彼は、飛行機が離陸する時の主翼がバサバサ揺れ、フワッと大空に舞い上がる感覚が好きだった。今回は、夜のせいもあって、離陸する瞬間はわからなかった。気づいたら離陸していた。真っ暗な空の中から、夜の町の電灯によって、下の町がまるでミニチュアの町のように見える。やがて飛行機は千葉県の九十九里浜を越えて、太平洋の上の雲の中へと入っていった。これから7時間の空の旅である。スチュワーデスは、日本語が話せない。しばしして、スチュワーデスが、ワゴンを押しながら、やってきた。
「ビーフ オー チキン?」
意味がわからなかった。隣の人が、
「機内食で、ビーフかチキンか、どっちがいいかって聞いているんですよ」
と教えてくれた。彼はチキンにした。便秘で腹が張って、食事はあまり食べないようにしようと思っていたのだが、機内食なるものは、はじめてなので食べることにした。蓋を開けると、いかにも美味そうだった。それで全部、食べた。彼は睡眠薬を飲まねば眠れないので、眠れないことは覚悟していた。やる事がないので、持ってきた、読みかけの文庫本を取り出して読んだ。体調が悪いので、なかなか読み進めない。彼は、文庫本を読んでは、真っ黒の窓の外の夜空を見た。彼は泳力に自信があったので、ハワイくらい泳いで行けるなどと思った。しかし、それは、飛行機の上から見下ろした穏やかに見える海だからであって、現実の太平洋の荒波を泳ぎ渡る事など不可能である。ただ太平洋のど真ん中で、泳いだら、どんなに気持ちが良くて痛快かと思った。機内の前方に、パネルがあって、今、日本とハワイの間のどの辺りを飛んでいるか、が表示されていた。考えてみれば、彼は国内線には何度か、乗った事があるが、1、2時間で着くが、今回は7時間である。トイレに行くため席を立ったら、かなりの客が寝ていた。文庫本を2、3冊持っていったが、もし持っていかなかったら、この単調さには、耐えられなかっただろう。本を読んでいても、退屈になってくる。長い夜中の真っ暗な空の中のフライトがつづいた。日本時間と現地時間とでは時差がある。彼は腕時計を取り出して、時間をハワイの現地時間に合わせた。ハワイには朝の8時に到着の予定である。彼は写真家がシャッターチャンスを待つように、真っ暗な夜が明けて、太陽が水平線の上に表れる瞬間を待った。6時頃である。周りが明るくなり出した。水平線の彼方に、小さなオレンジ色の発光体が見え、それは徐々に大きくなっていった。夜明けだった。感無量だった。飛行機は雲の上を飛んでいるので、太平洋の海は見えなかった。一面の雲は、まるで柔らかいベッドのようで、この上になら乗っても落ちないような気がした。ハワイに近くなってきたこの海はさぞやきれいだろうと思われた。スチュワーデスが、朝食を運んできた。わりと軽いものだった。飛行機は高度を下げていき、雲の中に入っていった。乗っかることが出来ると思っていた分厚い雲のベッドは、その中に入ってみると、やはり薄い水滴の集まりだった。飛行機はその薄い水滴を切って飛行した。高度が下がるにしたがって、青い海原が見え出した。感無量だった。島が見えた。おそらくニイハウ島かカウアイ島だろう。機内アナウンサーがあり、やがて飛行機はホノルル空港に着いた。曇り空である。着陸の音がして、飛行機が止まった時、はじめて外国に来たという実感が沸いた。税関を通り、旅行会社で指示された場所に行った。空を見上げると曇り空で少し残念だった。だが、温かい。まさに真夏である。旅行会社のバスに乗って、アロハタワーへ向かった。時間が惜しく、直ぐにホテルに行って荷物を預け、ワイキキビーチに行ってみたかった。ワイキキビーチの海水浴場を早く見たい衝動が強かった。だが、パック旅行の特典として、バス旅行、か、クルーザー乗船か、ダイヤモンドヘッドの早朝散策か、ワイキキ市内旅行の一つをただで出来ることになっていた。10時から、アロハタワーから、バスが出るという。なので、2時間待って、バス旅行をすることにした。行き先は、モルアナガーデンと、ドールプランテーションと、ハレイワである。つまりオワフ島を北西に向かうバス旅行である。モルアナガーデンは、傘のような変わった形の木がある公園で、合歓の木であるが、その木は日本のコマーシャルにも使ったことがあり、有名な木だった。ドールプランテーションは、パイナップルの観光所であり、ハレイワは、ハワイの北西の町で、サーフィンの町だった。これで、だいたいオワフ島の主要部は見れる。モルアナガーデンの、合歓の木は、確かに変わった形の木である。だが、たいして面白いとも思わなかった。次のドールプランテーションも。次のハレイワは、波が高くなることもあって、サーファー達がやってくる町だった。町といっても、道の両側に店が並んでいるだけである。男のバスガイトの説明によると、日系人で、かき氷の店を出したところ、これが売れて、今でも、その息子が店をやっている、とのことだった。また、ハレイワの町はサーファーが来るついでに出来た町である。サーフィンの場所は、ハレイワの町とは、少し離れている。サーファーのために、サーフ場へ直通する道をつくろうと役所が計画したところ、ハレイワの町は大反対した。直通道路が出来てしまうと、サーファーはサーフ場に車で直通して、ハレイワの町に寄らなくなる可能性を心配したのである。しかし、実際、直通道路が出来てもサーファーは、ハレイワの町に寄るので、心配は取り越し苦労におわった、とのことである。再びバスに乗って、ホノルルに向かった。ホノルルに着いたらホテルに荷物を預けてから、日が暮れる前に急いで今日中にワイキキビーチへ行こうと気持ちが焦った。ホノルルに着いたのは5時だった。地図を見ながら、オアフイーストホテルに向かった。まだ外は明るい。激安パック旅行のホテルだから、たいしたホテルではないだろうと思っていたが、結構いいホテルだった。部屋は7階だった。
彼は部屋に荷物を置くと、急いで、トランクス一枚で、半袖のジャケットを羽織り、サンダルでホテルを出た。ワイキキビーチを見たい気持ちが焦って、小走りに走った。地図通り、ワイキキビーチに面した高層のハイアットリージェンシーホテルの傍らを過ぎると、海沿いのカラカウア通りがあった。それを渡るともうワイキキビーチだった。5時半。まだ明るい。海水浴客はまだまだいる。はじめて見るワイキキビーチは感無量だった。ビキニの女もたくさんいる。しかし、彼は欧米人の女のビキニ姿には何も感じなかった。そもそも彼は欧米人に異性としての魅力を感じていなかった。顔にしても、日本人のような丸顔ではなく、細く狭まって、やたら鼻だけ高い。体が大きいため、尻の肉や太腿に過剰の肉がつきすぎている。乳房も、過ぎたるは及ばざるが如し、で、垂れるほど大きくなると美しくない。何でも大きければいいというものではない。戦闘機にしても、大きな物だと太って余分なものまでついてくるが、コンパクトに纏まったゼロ戦の方が美しい。それに彼女らは恥の概念がない。彼女らにとっては、見せることが、アピールすることが、価値観なのだろうが、恥じらいの気持ちが全くなくなった人には趣、もののあわれ、が無い。勿論、ハワイは観光地であり、開放的になるため、各国からやってくるのだが、それにしても、日本の女は、まだ恥じらいを持っている。このことは民族の精神構造と深く関わっている。アメリカは、男も女も互いに求め合うが、日本人は男も女も、心に秘めていても、なかなか言い出せない。夏目漱石の、「それから」にしても、向田邦子の、「あ・うん」にしても、そうである。葉隠れの恋愛観はにはこう書かれている。
「恋の至極は忍ぶ恋と見立て候。会いてからは恋の丈が低し。一生、忍んで思い死することこそ恋の本意なれ」
と説いている。なので、ワイキキビーチの女には幻滅した。ビーチも、海の色は青くてきれいだが、遠浅でかなり沖に出ても背が立つ。これでは泳ぐ面白さもない。彼はビーチ沿いの砂浜を東の端から西のシェラトンワイキキホテルの辺りまで歩いた。東には、ダイヤモンドヘッドが見える。ハワイ旅行のパンフレットの典型的な写真は、この位置あたりから撮ったものである。彼はホテルにもどった。急いでパソコンを取り出した。コンセントの差込口は片方が少し長く、これでパソコンが使えるだろうかと心配していたのだが、変圧器をつなげば、問題なくパソコンは使えた。ほっとした。彼がハワイへ行った目的は、寒い日本では小説が書けなくて、温かい所なら、書けるだろうと思って、それが一番の目的だった。これで一週間、時間を無駄にしないですむ。彼はさっそく小説のつづきを書いた。やはり、寒い日本と違って、筆がどんどん進んだ。腹の痛みも消えた。日本の夏は、やたら蒸し暑く、湿度が高いが、ハワイはカラッと暖かくて、住むには最高の場所である。もしハワイに住む事が出来たなら、彼はハワイに移住したいと思った。だが、仕事がない。それが彼がハワイに移住できない唯一の関所だった。町には結構、乞食もいた。温かくて、乞食にとっても住むには理想の場所だろう。彼はあることが気になって、筆を置いて、部屋を出た。それは、このホテルにプールがあるということである。もう夜の8時だったが、急いでフロントに下りてプールの場所へ行った。プールは、小さいが四角い、十分泳げるプールだった。水深も深い。幼い毛唐の男の子と女の子が、はしゃいでいた。ワイキキビーチ沿いの高級ホテルのプールは、レジャープールばかりで、芋洗いで、混んでいて、とても泳げるものではない。彼はさっそくプールに入って、泳いだ。プールは夜9時までだった。プールから上がると、彼はトランクスに半袖で、近くのコンビニに行った。金は極力、かけないつもりだった。ので食料は全てこのコンビニで買うことにした。食べ物を見てると、どれも美味そうに見えてくる。少し大きめのサンドイッチと、ジュースとパックに入った西瓜を買った。日本のサンドイッチは、パンの耳は切るが、ハワイのコンビニのサンドイッチは、パンの耳までついていた。ホテルに帰って食べた。サンドイッチが美味い。食べたら直ぐに、小説のつづきを書き出した。12時にベッドに横になって、睡眠薬を飲んだ。だが、今までの寒い日本の冬から、一気に真夏になってしまったため、体内時計がおかしくなったのか、2時に目が覚めた。横になっていても眠れる気配が感じられない。それで、また机に向かって小説を書いた。寒い日本と違って、スラスラと筆が進んだ。やはりハワイに来てよかったと、つくづく感じた。眠気が起こらないので、時間の経つのも忘れて書いた。窓の外がうっすらと明るくなり出した。夜明けだった。時計を見ると6時である。
彼は自称、小説家である。自称、と言ったのは、彼はまだ、一回だけ、自費出版で一冊、本を出した事はあるが、それ以来、本を出版していないからである。つまり商業出版の本を出した事が無いからである。一般の人の感覚でもそうだろうが、小説家と自他共に認められるのは、何かの文学賞を取り、書き下ろしで商業出版の本を出したり、週刊誌の連載小説で、小説を書き続け、一定のファンの読者層を獲得し、世間で知名度を博し、コンスタントに毎年、文庫本を、何冊か出し、その印税によって、生活している人を小説家と自他共に小説家と呼ぶからである。つまりはプロ作家である。そういう点からすると彼は他人が、小説家と、認めるかどうかは怪しい。
しかし彼が、小説家を自称するのは、彼にとっては、抵抗がなかった。なぜなら。確かに、彼は、世間の知名度も無いし、印税も全く無い。つまりアマチュアである。しかし、彼は、学生時代から、ずっと小説を書いてきて、社会人になっても、毎年、コンスタントに、何作か小説を書き上げて、完成させ、ホームページに発表しているからである。彼の念頭には小説を書くことしか無いのである。そして、それを毎年、続けてきているので、彼は自分を小説家と自称することに抵抗を感じていないのである。完成させてホームページに出している小説も100作以上になっている。彼は死ぬまで、小説を書き続ける強い信念を持っている。だから、彼は自分を小説家と自称することに抵抗を感じていないのである。
それに彼には、プロ作家になることに抵抗を感じている面もあるのである。彼は過敏性腸症候群という苦しい病気をもっており、そもそも子供の頃から、喘息の虚弱体質で、彼はもはや睡眠薬を飲まなければ、一日たりとも眠れず、また過敏性腸症候群によって、うつ病が頻発して起こり、とても連載小説を書きつづける体力などないことを痛感しているからである。勿論、彼も、今までに名のある小説新人賞に三回ほど、応募してみたことがある。しかし、三回とも予選にも通らずに落ちた。勿論、残念ではあったが、彼はあながち落胆しなかった。新人賞に通るためには選考委員に認められるものを書かなくてはならない。単なる面白さではダメなのである。しかも筋の巧妙さ、奥の深い視点のあるものでなければ、文学性が無いということで落ちるのは目に見えていた。そういう奥の深い、(あるいは斬新な、あるいは鋭い)視点を持っている人は幸いである。また、たとえ新人賞を一作とっても、その人の感性が世間の人に受け入れられなければ、一作作家として終わりである。
世間で名をなしている作家は自分の感性が世間の読者の感性と、一致している幸運な人と言える。振り返ってみるに、彼は、表現したいものというものを持っていた。彼は、大学に入るまで小説というものを一度も書いたことが無く、また書き方もわからず、作文から小説を書き始めた。大学で文芸部に入る事を親しい友達に誘われたが、彼はかなり躊躇した。文芸部に入るには小説を書かなくてはならない。と彼は思っていたからである。しかし、彼は誘われたから文芸部に入ったのではない。それまで彼は表現したい潜在意識が強くあったのである。ただ、小説を書く技術がないため、それは、はるか彼方の夢でしかなかったのである。大学に入って、人生の虚しさを感じ出すと同時に、表現したい欲求がどんどん募っていった。それがついに爆発したのである。文芸部に誘われていたという事も幸いした。彼は書き出した。小説など書けないから、作文もどきの小説から始めた。そして作文ではあっても、何作か作品が出来た。それ以来、彼の創作にかける情熱は、どんどん強くなっていった。たとえ作文もどきの小説とはいっても、作品は作品である。作品を書き上げて、完成させると、自分にも、作品を書く能力はあるんだ、という強い自信になった。それが創作の情熱を強めた。書きたいものがあっても、書く技術がないだけである。なら書く技術を磨けばいい。書く技術を習得するには、実際に骨を折って作品を書くことと、優れた作品を熟読することだと思った。それで彼は手当たり次第に、名作を片っ端から読み出した。そして、骨を折って作品を書いた。彼は先天的倒錯者だったので、エロティックな小説を書きたいと思っていて、また書けるとも思っていた。しかし、書く技術がない。それでも挑戦して書いてみたが、幼稚になってしまい、自分にはとても、エロティックな小説は書けないと思った。またエロティックな作品を書く事を受け入れることも出来なかった。それで恋愛小説的なものを書いた。それは、彼が書きたいものでもあり、また、書けるものでもあった。彼は恋愛小説を書いていこうと思った。大学の時には、勉強が忙しく、そのため、長編は、とても書けず、掌編小説、短編小説しか書けなかった。
彼は、小学二年生の時、一度、国語の授業の時間に創作をする課題が出されたことがある。教科書に載っていた、ある作品の続きを書いてみなさい、という課題だったが、この時、筆が走りに走った。書いていて面白くなってきて、書きながら笑ってしまうほどであった。なので、彼には子供の時から、創作の才能が十分、あったのかもしれない。それに気づき、それ一筋に夢中になって小説を書いていたなら、小学校、中学校、高校と、どんどん書く技術がついていき、プロ作家にまでなれたかもしれない。しかし、その国語の創作の授業は一回だけであって、それ一回きりで、一度の楽しみとして終わってしまった。彼には、他にも勉強やら、運動やら、遊び、やら、色々やりたいことがあった。小学生の創作なんて遊びに、価値があるとも思えなかった。もし、創作の授業が一回だけでなく、何度も行なわれたら、彼の人生は変わったものになったかもしれない。
大学生になって、やっと彼は自分の本当にやりたいものに気づき、遅ればせで不利な条件ながら、ついに決断し、書きはじめたのである。一度、火がついた創作欲は、もう燃えさかる一方だった。そもそも彼は、何かをし出すと、それにとりつかれてしまって、無我夢中で邁進する性格でもある。
彼は医学部を卒業して医者になった。医学は深い理論があり、非常に面白いものである。彼は一時は、医学に夢中になったこともあるが、やはり、自分のしたい事は、結局は創作で、それに戻った。
社会人になると、もはや躊躇いがなくなり、エロティックなものも書いてみるようになった。すると書けた。一作、書くと、それが自信となる。彼は次々とエロティックな小説を書いた。書き上げる事の喜びと、書けることの自信との相乗効果で、彼はエロティックなものにだけに焦点を当てて、書くようになった。もはや、彼は、一生、エロティックなものを書き続けられる自信がつくほどにまでなった。文芸的なものは書かなかったが、彼は作品を書いていれば、それで満足であり、またエロティックなものは、嫌々、書いているのではなく、書きたいから書いているのであり、書き上げた時には十分、満足できるからである。それに歳をとると性欲が低下して、エロティックなものは書きたくても書けなくなるのではないか、という心配のため、若く性欲がある内に、エロティックなものを書いておこうという考えもあった。
彼は精神科を選んだ。それは精神科は比較的、楽だからと思ったからである。彼は二年の研修の後、精神保健指定医の資格を取るという条件で、少ない給料で、常勤で田舎の精神病院に就職した。だが、院長はしたたかで、精神保健指定医の資格をとって辞められることを怖れ、彼に指定医の資格を取らせなかった。彼は指定医だけは取っておこと思っていたのである。精神科では、精神保健指定医という国家資格がないと、給料も低く、就職も難しいのである。医者の求人も指定医の資格があることが絶対の条件である場合が多い。つまり指定医の資格がないと、就職できないのである。何度、院長に交渉にいっても、「そのうち取らせる。そのうち取らせる」と言いながら、結局は取らせてくれない。政治家の「前向きに対処します。前向きに対処します」と言いながら、結局は、何もしないのと同じである。結局、彼は、一つの病院に医者の数が多いと、病院の評価があがるため、そのための手段として採用されたのに過ぎなかった。また学閥の強い田舎の病院で、医師を募集しても医者がなかなか医者が来ない。そのための用心のためでもある。つまりは、飼い殺しである。唯一の、医者集めの手段は、院長の出身大学の医局に、数100万、教授に渡して、「どうか医者を一年、派遣させて下さい」と、教授に頼みこむしかないのである。そこの病院は学閥が強く、彼は一人ぼっちだった。彼など、空気同様いないに等しい。そんな中、大学の医局から派遣されてきた女医だけは、彼を可哀相に思ってか、優しい言葉をかけてくれた。その頃、精神科専門医という、新しい資格を学会がつくった。そして、古参の医者は、「精神科専門医の資格のためのレポートには協力しますよ」と彼にしたたかに笑って言った。これは思いやりなんかではない。精神科専門医は、精神保健指定医と違って、学会が認めるだけの資格で、ほとんど何の権限もない。では、なぜ、そんな事を言うかというと、精神科専門医のレポートにサインすると、精神科の指導医という肩書きができるからである。つまりは、自分の事しか考えていないのである。ウソで飼い殺しにしようとする悪徳な院長、偽善者の指定医、などの集まりの病院に、もう身も心も疲れはてて、彼は病院を辞めた。それで、医者の斡旋業者に頼んで、非常勤で働いたり、健康診断や当直などのアルバイトで、やっていくことにした。また、どこの病院に常勤で就職しても、病院の院長などというものは騙すことしか考えていない医者がほとんどである。なので彼は指定医の資格はもう諦めた。
だか、常勤をやめて、時間的に自由になると、ほっとした。元々、小説を書くことが、彼の人生の一番の目的であり、指定医だけは、医師免許と同じように、精神科医として、やっていくためには、なくてはならないものだったから、それだけには何としてもこだわっていたのであるが、そのこだわりが無くなると、ほっとした。精神的ストレスも無くなり、小説もどんどん書けるようになった。指定医取得で悩んでいた時は、身も心もボロボロで、うつ気味であり、小説も書けなかった。しかし、それを吹っ切って自由になると、精神が実にリラックスした。彼は、毎日、家の近くの図書館で、朝から、図書館が締まるまで、机に向かって小説を書いた。
図書館とは、healing space of the soul とも言われる。つまり魂が癒される場所という意味である。なぜ図書館かというと、図書観の方が緊張感が出るからである。それに彼は、頚椎の湾曲が少なく、直線ぎみであり、肩が凝りやすい体質でもあるからである。
彼は小説を書いた。しかし彼には、実生活というものが、ほとんど無い。元々、内向的な性格の上、過敏性腸症候群のため、友達がいない。仮に友達を無理して作っても疲れてしまうだけである。そのため、彼の小説は、頭で考えた空想的なものが多かった。しかし、彼は、子供の時、喘息の施設に二度ほど、計三年入っていたことがあり、そこでは本当の友達が出来たし、保母さんは、憧れの異性でもあった。そういう現実の体験を元に、それからイメージを膨らませて、小説を書いた。これは何も、彼だけに、いえる事ではない。ライナ・マリア・リルケも言っているが、もし、どうしても書く事がなくなっても、少年期の体験だけは、書く事が出来るのである。
彼は机に向かって、一日中、ウンウン頭を唸らせながら小説を書いた。書いている時だけが、彼にとって幸せな時であった。不思議なことに、もはや学生時代に書けた掌編小説というものが書けなくなってしまった。掌編は、ただ短いだけの小説ではない。掌編はラストが、キリッと纏まるかが、全てであり、それが上手くいくと、掌編といえども、小宇宙、ミクロコスモスの一つの世界になるのである。学生の時、それが出来たのは、長い小説を書く時間が無く、掌編しか書けず、まさに必要が発明の母だったのである。しかし小説も、ある程度の長さを越すと、もはや、ラストをどうするか、ということは重要でなくなってくる。中身のボリュームが長い小説の、美味しさだからである。
そして、ある程度、長く書いた段階になると、もっともっと、いくらでも話が続けられることに気がついた。しかし彼は遅筆なので、一つの小説を延々と長く書くより、ある程度の所で切り上げて、次の小説を書いた。一年で、一作だけの長編というのは、さびしく、それをするくらいなら、短めの小説を五作、書きたかったからである。それは、多くの作品を書く事によって、自分に自信がつくからである。また、話によっては、長い作品を書いていると、色々イメージが沸いてくるが、中には惰性で、話がつまらなくなってくる性格のものもある。つまり、原稿用紙の枚数は多くても、キリッとラストを纏める方がいい掌編的な性格の小説もあるのである。
これのいい例がある。それは梶原一騎の漫画である。梶原一騎の漫画のほとんどは、ある所でクライマックスに達する。そこで終わりにした方が、しぶいのだが、長編の連載ということで、クライマックスの後でも、話を考えて、つづけて書かなくてはならない。例を挙げれば、「巨人の星」では、大リーグボール一号を完成した時、あるいは、花形満が、大リーグボールを打った時が、「巨人の星」の絶頂のクライマックスであり、そこで終わりにした方がいいのであるが、連載漫画は続きを書かなくてはならない。そして、クライマックスの後では質が低下しているのである。他の作品では。「夕やけ番長」は、七巻の、赤城忠治と鮫川巨鯨との対決がクライマックスであり、「侍ジャイアンツ」では、番場番が巨人とのケンカに勝った時がクライマックスであり、「愛と誠」では、高原由紀のリンチが終わった時が、クライマックスである。(もっとも、愛と誠、では、ラストが見事に決まっているが)
プロと違い、アマチュアだと、きりのいいクライマックスで、お仕舞いにすることが出来るから有利なのである。
しかし時には、新しい小説を書こうと思っても、どうしても書けない時もある。
小説を完成させて、ホームページに出した時は最高の快感であり、大得意である。だが、その後、すぐ、話が思いついてくれればいいのだが、書けないと、一日経ち、二日経つ内に、だんだん、憂鬱になってくるのである。
不思議なことに完成させてホームページに出してしまって、数日経ってからでは、つづきを書こうと思っても、後の祭りであり、書けなくなってしまうのである。これは非常に怖いことである。こんなことなら、話を切り上げないで、もっと長く話をつづけた方が良かったと、つくづく後悔することもよくあった。
作家とは、書いている時だけが生きている時であり、書けない時の作家は、まさに地獄の苦しみである、プロ作家なら皆そうであろう。哲学者のメルロ・ポンティーが言っているように、作家にとっては、今、書いている作品こそが全てであり、過去の作品は作家にとって、墓場であり、過去の栄光にいくら浸っていても何の感慨も受けない。
彼は小説を書けない時は、ブログの記事をストックとして書くか、本を読んだ。読むのは、ほとんど小説である。ただ読むのは、楽しみのためというより、自分が小説を書くヒントになる本を読んだ。また大作家の小説を読むことは、小説を書くファイトにもなる。
そういう考えで彼は、読む本を選んでいるので、必ずしも全ての本を読んでいる文学通ではない。一読して、ああ、楽しかったで、翌日になると忘れてしまうような作品は読まない。文学青年は、ドフトエフスキーとか、トルストイとかの大長編を読むが、大長編は自分の身につかない。それよりも掌編、短編で、重みがあり、ストーリーを忘れないような印象の強い作品を読む方が、自分の創作の勉強にはいいのである。
また、何も小説に限らず、ある単語や、ある場面が小説のヒントになることがある。ネタ探しのアンテナを絶えず張っていれば、小説のアイデアが沸くことがあるのである。これは何も、読書だけに限らず、日常生活で、絶えず小説のネタを探す気持ちで生活していれば、アイデアが沸くことがあるのである。インスピレーションとは、努力によって起こるのである。ボケーと待っていては、インスピレーションが降臨してくることはない。誰でも、そんなドラマになるような生活を送っているわけではない。人は、一生に一つは小説を書ける、と、よく言われるが、それは、言葉を返せば、たった一つ、というほど、人の一生に、小説になるようなドラマチックな事は起こらない、という事である。
そういうわけで、職業作家として、小説を書き続けるには、ドラマチックな事が自分に起こってくれるのを指を咥えて待っていては書けない。勿論、日常、人との付き合いが多い行動的な人は、日常の雑感であるエッセイを書く事はできる。しかし、小説は書けないし、エッセイにしても、芸術性の高いエッセイが書けるかどうかは、わからない。
そこで、プロ作家として、小説を書きつづけるには、積極的に、今や昔に起こった事件、人物などで、小説になりそうなものを、徹底的に調べて、頭を絞ってストーリーを考えて、小説に仕立てるのである。推理作家では、平和な土地に、わざと凶悪な犯罪を、頭を捻って考え出さなくてはならない。平和な土地に住んでいる人にとっては迷惑かもしれない。
彼は、以前、新宿のカルチャー教室で、「取材の仕方」という教室に出たことがある。三回の講義で、一回目は、口の悪い元、編集者で、取材の仕方の話をせず、自分の言いたい政治的な主張を乱暴にぶちまけただけだった。そのためか、二回目からは、100人いた受講者が、10人くらいに、ぐっと減ってしまった。しかし二回目からの講義は良かった。二回目は、作家の嵐山光三郎先生だった。先生は、ちやんと、取材の仕方の講義をした。彼はこんな事を言った。
「作家は、小説に限らず、何かものを書く時、取材しなくてはならず、取材の費用は自腹を切らなくてはならない。だから、原稿料が入っても、取材の費用で、差し引きゼロとなってしまう。では、どうやって収入を得るか、というと、連載した作品が単行本や文庫本になり、本が売れることによって、その印税が作家の収入源となる」
これは、全ての小説で言えることではない。小説には、取材などしなくても、資料がなくても書けるものもある。しかし、念入りな取材をして、資料を集めなくては書けない作品もある。氏は後者のような作品を書くことが多いのだろう。実際、氏の作品には、そういうものが多い。
アメリカを舞台に小説を書こうと思ったら、やはりアメリカに行かなくてはならないだろう。今は、インターネットで、画像や文献を集めることは容易である。しかし、その場所の空気、雰囲気、人々の様子、町並み、などをリアルに書くためには、実際に行って実感しなければ書けない。百聞は一見に如かず、である。だから、本格的な小説を書くためには、取材の費用を先行投資として払わなくてはならないのである。最も、海外旅行が好きで、色々な所に趣味も兼ねて行っている人は、その点、有利である。作家は何事にも旺盛な好奇心を持っていて、仕事のためではなく、どうしても調べたり、行ってみたりしてしまうような好奇心旺盛な行動的な人が有利なのである。
そういう点、彼は小説創作に不利だった。アマチュアで、収入をはじめから考えていないのだから、取材の先行投資は、小説を書くために支払うだけのものとなる。彼は小説を書くのが好きだが、取材のために、かなりの金を払ってまで、本格的な小説を書きたい、とまでは、思っていなかった。そこで、映画と同じように、安上がりで書ける小説となると、ポルノ小説となるのである。だから彼が妄想的なエロティックな作品ばかり書く事になるのも、必然の結果だった。そして、彼は妄想的なエロティックな作品を書くことに、満足しているのであるから、なおさらである。
さらに、彼は、孤独で友達がいない。孤独であるということは、小説家の良い特性ともいえるが、それは精神的な孤独であって、物理的に話し相手がいない、ということは、小説を書く上で、極めて不利である。人との会話や、付き合いは、それだけで、上手く加工すると小説になりうる可能性がある。また、一人の人間は、その人の視点で世界をみているから、つまり、一人の人間は無限の情報を持っているから、一人の友達がいるということは、自分とは違った視点の、無限の情報を持った人から、無限の情報を聞きだせるということである。そういう点でも彼は小説創作に不利だった。たとえば、ある場所から、ある場所へ車で行く時、友達は、いい抜け道を知っているかもしれない。何か困った時にも、どうすればいいかも、友達が、そういう経験をして知っているなら、教えてもらう事も出来る。近くに美味い焼き肉屋があって気がつかなくても、友達は知っているかもしれない。そういう、あらゆる事で、一人でも友達がいると、非常に有利なのである。しかし、それは、友達を情報入手のための手段として利用することである。彼は人を自分の目的のために利用することが嫌いだった。しかし、それならば、彼だって、彼という視点を持った一人の人間だから、友達が知らない事で、彼が知っている事を教えてやればいい。ギブ アンド テーク である。しかし彼は、内向的な性格で、自分の関心のある事には、熱中してしまって、知識もあるが、それ以外の世事には疎いのである。外向的な人間は、その逆で、世事には広いが、一つの事に熱中してしまう、という事がない場合がほとんどなのである。また内向的な人間は外向的な人間のように、世事の全てに、広く関心を持っていないため、話が噛み合わないのである。噛み合わない、だけでなく、疲れてしまうのである。そもそも友達との雑談というものが苦痛で、一人で自分の好きな事をしている時だけに、心が落ち着き、和らぐのであるから、友達というものを作れないのである。それに内向的な人間は無心になって遊ぶという事も苦手である。そのため彼の情報入手は、子供の頃から書店や図書館の本やネットだった。また、友達がいないと、夏休みの旅行という事も出来にくいから、ますます世間知らずになってしまう。勿論、旅行や遊びは、一人でしても違法ではない。しかし、やはり旅行は友達と行くのが楽しく、それが普通であり、一人で行くのは虚しいし、恥ずかしい。遊びも、友達とするのが、一般的である。一人でボーリングに行っても、一人で屋外バーベキューを焼いても違法ではない。しかし夏祭りも一人で行って、一人で金魚すくいをするというは虚しいものである。さらに、夏の海水浴場のナンパというものも、男二人なら、恥ずかしくはなく、友達同士の女二人に声を掛けることも出来やすいが、一人では、困難を極める。それでも、京本政樹のような超美形なら、可能だろうが、残念なことに、神は彼に、平均的な容貌しか与えなかったのである。そういうことで、一人というのは、生きていく上で、極めて不利なのである。ただでさえ、そうなのに、過敏性腸症候群が発症してからは、彼の人づきあいは、さらに困難になっていった。そもそも内向的な人間は、集団帰属本能が無いのである。
内向的な人間は、一つの事をやり出すと、それに凝ってしまい、幅広い世事に疎く、また無心に遊ぶ事が苦手なのである。
そういうことで、彼は、常勤で働くのをやめてから、ほとんど毎日、図書館で小説を書くようになった。図書館にいる時が、唯一、心の和む時間だった。
彼は、図書館で、あらゆる分野の書棚の本の背表紙を眺めるのが好きだった。出来る事なら、図書館にある全ての本を読みつくしたい衝動に駆られるのだった。どんな事にも理論がある。それを学びたいのである。しかし、彼にとっては、読むことより、作品を作ることの方が絶対的に価値が上だったので、一日中、机に向かって、小説を書いていた。彼は、遅筆で、また、体調に非常に左右されるため、一日かけて、原稿用紙一枚しか書けない時もあった。一日、原稿用紙10枚、書ければ多い方だった。また、アイデアが浮かばない時など、一日かけて、一行も書けない時もあった。それは彼が文章をスムースにつなげ、ストーリーにも頭を捻って、最高のものにしようとの、凝り性の性格のためだった。そのため彼の作品は非常にスムースに読める。彼は文体を持っていると自負していた。では、文体とは何か、というと、それは、人によって定義が異なるだろうが、まあ、文章の読みやすさ、と言っていいだろう。ひとつの文を書くと、次の文は、前の文を引き継いだものとならなくてはならない。一つの文は、次の文章を決定する。だから、次の文章は、前の文章に責任を持ったものでなくてはならない。軽い気持ちで、一文を書くと、その後の話の展開が大きく変わってしまうこともあるのである。文体にこだわると、そういう事まで起こってしまうのである。この事を雑にしてしまうと、本人には、わかっても、他人には読みにくい文章になってしまう。そういう人は、自分の書きたい事を、無考えに次々、書いて、読む人のことは、考えていない。自分の書きたい事を目一杯書いて、自己満足し、読む人は、かってにどうぞ、という、デリカシーの無い性格である。一方、文体を持っている人、特に彼のように、読まれることを、絶えず意識して書いている凝り性の人は、どうしても筆が遅くなる。そういう人は、読者を意識するあまり、自分の書いた作品が、読者に読んで欲しい、という意識が非常に強いのである。音楽には、絶対音感というものが先天的にあって、それが無い人は作曲することが出来ないそうだ。それと同様、文章にも、絶対文感というものがあって、それが無い人は、作品を書く事が出来ないそうだ。もっとも、作品を書く時に、一番大切なのは、書き手の精神的コンディションであって、精神的コンディションが良好な時は、速く書いても、文体が滑らかで、ストーリーも崩れず、見事な作品を書く事が出来る。彼の場合、過敏性腸症候群による体調不良のため、精神的コンディションが、悪い時の方が多いので、筆が遅いのである。彼も精神的コンディションがいい時は、頭より手の方が先に走って止まらない、という事も経験している。
人生の時間は限られている。その限られた時間の中で、何をするか、という決断に人間はいつも、さらされている。彼にとって、それは作品を書く事だったので、一日、原稿用紙一枚しか書けなくとも、彼は読むことより、書く事をとった。そのため、図書館にある膨大な本は、背表紙を見るだけにとどまった。残念だが仕方がない。
彼は、図書館にある、松本清張とか山本周五郎とか、その他、多作の大作家の全集を見ると、よくこんなに沢山、作品を書けたなと驚きを持って感心した。彼は一生、創作一筋に打ち込んでも、絶対、これほどまでの分量は書けないだろうと、残念ながら確信していた。それは、今までの創作のペースから考えて、どんなに無理してでも、彼らほどの分量は書けないと、残念ながら確信していた。
そして、もちろん嫉妬の感情も起こった。しかし、それは、そんなに激しいものではなかった。彼の創作の動機は、名誉欲でもなければ、金銭欲でもない。創作は自分との戦いであり、自分にしか書けないもの、そして自分がどうしても表現したいものの作品化であったからである。もっともそれは、どんな作家でも持っている感情だろう。同じジャンル、たとえば、推理小説を書く作家なら、すぐれた推理小説の大家に、質、量、において嫉妬する事もあるだろう。しかし、恋愛小説の作家が推理小説の大家に嫉妬するということが、あるだろうか。作家は自分の好みのジャンルの作品を創って表現したがっている。それが自分の価値観であるからである。特に個性の強い作品を書く作家にとっては、創作は自分との戦いだろう。だから、違う別のジャンルの作家に対する嫉妬というものは、あるだろうが、そんなに激しいものではないのではなかろうか。実際の所、それは、各作家によって異なるだろう。たとえば野球選手が、日本一のサッカー選手に嫉妬するということがあるだろうか、という疑問と同じである。野球選手は野球に価値をもっていて、サッカーには価値をもっていないだろう。作家が一番、幸福を感じる時は、自分が表現したいと思っていた作品を見事に完成することができた時であろう。ともかく膨大な多作の作家の全集を見ると、自分の創作に対するファイトは、間違いなく起こる。
そして彼は、過敏性腸症候群であり、不眠や鬱に悩まされており、創作にとって著しく肉体的、精神的、条件が悪い。彼は、キリスト教の教えにある、タラントの喩え、通り、自分に与えられたタラントを精一杯、努力して発揮する事が、自分にとって大切な事なのだと、かなり達観していた。自分は、大作家の十分の一のタラントしか、与えられていない。しかし、量は少なくても、自分に与えられたタラントを精一杯、努力して発揮することが、価値のあることなのだ、と思っていた。
そんなことで彼は、仕事のある日以外は、図書館の机に向かって、じっと座ってノートに向き合っていた。彼は、パソコンにそのまま入力して書くという事が出来なかった。これは作家の気質もあるだろうが、ワープロが使えても、ワープロで文章を書くということが、どうしても出来ない作家というが、プロ作家にもいる。長年、文章を鉛筆で原稿用紙に書いてきた習慣のため、文章を書くという脳の働きが、原稿用紙に、文字を一文字、一文字、筆に圧力をかけて、原稿用紙の升目を埋めていく、という方法と一体化してしまっているからである。そういう人には、たとえワープロが使えても、文章は筆でしか書けない。また小説のアイデアが、筆で原稿用紙に文字を書いているうちに、沸いてくる、などという習慣が身についている人には、どうしてもワープロでは書けない。ワープロで、キーを押す動作では、文章も作品も軽くなってしまい、重い、魂の入った文は、書けないという人もいるだろう。特に、ワープロが出来る前から、書いていた人には、そういう人が多い。彼も、はじめはそうだった。ワープロが使えるようになっても、今までの習慣から、どうしても文章はノートに鉛筆でしか、書けなかった。それで、彼は鉛筆で文章を書いて、それをワープロに写す、というようにして書いていた。文章を書くという脳の機能と、その手段は、一体化しているからである。しかし、だんだんワープロを頻繁に使っているうちに、ワープロでも書けるようになってきた。ワープロのキーを押す、という方法が、文章を書くという脳の機能に適応しだしてきたのである。すると一旦、ワープロで文章を書くという方法が、文章を書く脳の機能と一体化してしまうと、今度は逆に、鉛筆で、ノートに書くということは、おっくうになっていった。
彼は、小説を書く時、必ず、何冊かの、読みかけや、既読の文庫本を横に置いていた。
作家は小説を書く時、特にストーリーを考える時、何をヒントにしているだろうか。おそらく、毎日の生活の中での、何かの出来事をヒントに、それを想像の力で膨らませたり、加工させたり、変形させたりして、お話を考えているのでは、なかろうか。しかし彼には実生活というものがない。人との付き合いが全く無いのである。それで、彼は小説のヒントを、生活ではなく、虚構の小説の中に求めた。彼が小説を書き出した時の、ストーリーを考えるヒントも、小説を読むことであったが、その後も、彼には生活というものが無いため、ストーリーのヒント探しとして文学作品を読んだのである。そして、ある作品なり、作家なりが気に入ると、これは自分の創作のために、吸収することが出来ないかと、徹底的に精読した。彼の読んだ小説には赤い傍線が一杯書き込まれている。彼は小説を自分の創作の能力を広げる勉強の目的で読んだのである。彼は、日本の近代小説で、短めのものを読んだ。それは、彼の書きたいもの、書けるものの性格からして、筋が複雑に入り組んだ推理小説は、無理だと諦めていたからであり、また推理小説を書きたいとも思ってもいなかったからである。さらに、長編の推理小説は、読んで数日すれば、忘れてしまう。推理小説とは、読む人を、ハラハラさせ、面白がらせるために書かれたものであり、読むには面白いが、少なくとも彼の小説の勉強には、向かないかったからである。同様に外国の長編小説も読まなかった。外国を舞台にした小説を書く気はないからである。しかし、日本の古典は、筋は入り組んでいなくても、一文、一文に味があった。彼もストーリーの奇抜さではなく、文章や作品自体に味のあるものを、書きたかったからである。
そもそも、小説の勉強をするには、日本の古典を読むことである、というのは、よく言われる事である。
一つの作品や作家が気に入ると、彼はとことん精読した。自分にも、こういう小説なら、書けるのではないか、と共感できるような作品を見つけると、大変な喜びだった。しかし、それに習って、書こうとしてみも、やはり無理だった。彼は世事に疎く、観念ばかり肥大していて、世を描写することが出来なかったからである。やはり小説を書くには、思想を深く持っているより、世のあらゆる雑事を、幅広く知っていなくては、駄目なのである。彼は自分の創作の肥やしにならないと諦めた作家の作品は、読まなくなり、さらに別の、自分の創作の肥やしとなるような作品、作家を探した。それを見つけると、彼は、今度こそ、と一心に精読した。だが、書く段になると、やはり書けなかった。そういう風に、彼は多くの作家の作品を、次々に鞍替えして読んでいった。そのため、古典や文章の味が分かるようになった。つまり、彼は、小説を鑑賞する能力が、結果として身についたのである。
気に入った小説を横に置いておくと、自分も、こういう作品を書きたい、という創作のファイトになった。だから彼は、書く時、既読か読みかけの小説を横において置くのである。
だが、彼は、いざ小説を書こうとすると、結局は、自分の頭の中にある空想を駆使して搾り出すしかなかった。そして、一つの小説を書く事は、一つのパターンの発見だった。彼は、発見した一つのパターンを元に、別の新しい小説を書いた。そうやっているうちに、いくつかのパターンを持つようになった。
☆ ☆ ☆
平成21年の冬になった。
冬は彼にとって地獄の季節だった。冷え性で便秘症の彼にとって、一冬、乗り越せるかどうかは、動物の越冬にも近かった。蒸し暑い夏が過ぎ、爽やかな秋も過ぎ、日の暮れるのが早くなって、寒い日になってくると、だんだん元気がなくなって、胃腸の具合も悪くなってくるのだった。そうなると創作も出来なくなってくる。精神が活き活きとしている時には、筆がどんどん走るのだが、元気がなくなってくると、書けなくなってくるのだった。
だが、書けない時でも、書きたい気持ちは、逆に一層、強まった。むしろ書けない時の方が、書きたい創作意欲が激しくなった。
彼の家から少し離れた所に市民体育館があった。
「肉体的条件が悪いから創作できないのだ。ならば体を鍛えて肉体的条件を良くすればいい」
そう思って、彼は市民体育館のトレーニング室で、マシントレーニングをする事にした。以前から、彼は体を鍛える必要を感じてはいたが、億劫がって、やらなかったのである。だが、とうとう彼は決断した。トレーニング室は、一回、300円で、何時間でも出来る。だが、彼は、運動は、いくつか出来たが、技の訓練だけに価値があって、基礎体力を侮っていたためしなかった。彼は、今、はじめて、基礎体力を鍛える重要性に気がついたのである。それで彼は、基礎体力のトレーニングをするようになった。しかし今まで、基礎体力のトレーニングをしてこなかったため、彼の体力はサラリーマンとほとんど変わりなかった。バーベルもよう、持ち上げられないし、続かない。何より、単調きわまりない。彼には、こういう単調なトレーニングが苦手だった。というか性に合っていなかった。体育館の近くには、通年やっている温水プールもあった。そこで、温水プールで泳いでもみた。しかし、水泳もマイペースで、出来てしまう、休みたくなったら休めるので、あまり、運動したという実感は得られなかった。
そもそもマシントレーニングにしても水泳にしても汗を流さない。こういう一人でマイペースで出来る運動では、休みたい時に休めてしまう。それでは、大した運動にならない。それに単調で面白くない。もっと、汗をかくような激しい運動で、やって面白いものをやろう。そう思って彼は、テニススクールに入ることにした。テニスは、かなり以前にも、やったことがあり、ラリーがつづくほどにまでなっていたのだが。普通の人なら何でもないだろうが、持久力の無い彼には、90分の1レッスンでヘトヘトに疲れてしまい、これは、ちょっと無理だと諦めていたのである。しかも彼は、何かの集団に入るという事が、嫌いだった。それで、ネットで探してみると、スクールに入らなくても、一回、三千円で、好きな時に受けられるスポットレッスンというのをやっている所があったので、そこで、レッスンを受けることにした。そこは屋外コートだった。ので、雨が降ると出来ない。長くテニスをしていなかったが、数回、練習するうちにカンをとり戻した。今度は、技術よりも、体力強化が目的たった。90分という時間は、ちょうど良かった。終わる時には、全身、汗びっしょり、だった。プレーが終わった後に飲むスポーツドリンクは最高だった。プレーが終わって、図書館にもどってくると、心身ともに絶好調だった。ただ運動していなかったため不快な足の筋肉痛が、数日、続いた。心身は好調になるが、足の筋肉痛がつらい。だが、しかし、テニスは、彼の怠けていた心肺機能をも鍛えた。そもそも、一人きりでやる運動と違って面白い。こうして彼は、テニスを、始めるようになった。そこは車で20分の所だった。また、テニス自体が、面白くなっていった。一回のレッスンには必ず、何かの発見があった。そんなことで、彼はテニスを始めるようになった。ゴルフ場が隣接している清閑な所である。通う道には、果樹園があったり、田んぼがあったりして、図書館にばかりいる彼は、この行き帰りの風景に季節の安らぎを感じた。運転していて後ろ姿の女子高生を見ると、つい目が行ってしまうのだった。テニススクールに通うようになって、日が経つにつれ、だんだん足腰が強くなっていった。心臓も強くなり、体が丈夫になっていった。地獄の冬も難なく乗り越えられた。それまで彼にとって、冬は地獄の季節だった。アパートが断熱材が使ってなく、寒く、エアコンの暖房を入れても寒い。風邪をひくと、便秘症のため、こじらす事が多く、二週間以上も寝たままの日々が続くこともあった。腸が動かないため、食べられないし、吐き気さえ起こる。そういう時は心身まいって、熱がひくのを、一日中、布団の中で寝て待つしかなかった。
だが、その冬の12月になると、夏のような活気が起こらず、図書館で机に向かっていても、創作の筆は進まなくなった。腹痛も出てきた。
ある日ふと、彼は、ハワイに行ってみようと思い立った。それまで彼は一度も海外に行った事がなかった。遊びのため、海外に行きたいとも思わなかったからである。しかし一日、机に向かっていても一向に筆が進まない。これでは生きている時間が勿体ない。確かに図書館は暖房が効いているが、体が芯から暖かくはならない。なら、湿度が高くなく、気温が高い、この世の理想の常夏のハワイへ行ってみよう。そうすれば書けるかもしれない。一度くらいは外国にも行ってみよう。行ったら何か、小説のヒントが思いつくかもしれない。彼は思い立ったらすぐ衝動的に行動する性格があるので、彼は図書館を出て、駅の近くの旅行代理店に向かった。
旅行代理店の前には、パック旅行のチラシがたくさん並んであった。安い。ハワイ一週間、7万とある。
彼は、パック旅行に一度も行った事がないので、飛行機代と一週間のホテル宿泊費込みで、7万でハワイに行ける事が信じられないほどだった。彼は、店に入った。そして椅子に座った。受け付けの女性は広末涼子のような、きれいな人だった。
「あの。ハワイ行きたいんですけど・・・」
彼は彼女に言った。
「ご出発の日にちは、いつですか?」
広末涼子のような、きれいな女の受け付けの人が聞いた。
「今週中は、出来ますか?」
彼は思い立つと、すぐ行動する性格があるので、そう言った。
「パスポートは、持っていますか?」
広末涼子が聞いた。
「持っていません」
「パスポート取るのに10日、位かかります」
彼はパスポートについて全然、知らなかった。勿論、海外に行くには、パスポートが必要である、という事は知っていた。しかし、パスポートは、直ぐ取れるものだと思っていた。今は、十二月の中旬だから、となると、早くても年末ということになる。
「じゃあ、早くても年末になりますね」
彼は言った。
「ええ。でも年末、年始は、混みますから料金が高くなります」
そう言って彼女は、出発日と料金の書かれた表を出した。確かに、年末、年始の出発だと、同じ7日でも、20万以上と倍以上、値段が高くなる。それでは、とても行く気にはなれない。
「高いですね」
「ええ。出発日を、少しずらす事は出来ますか?」
「ええ。出来ます」
「では、6日の出発ですと、一週間7万というのが、一番早くて、あります」
「では、それでお願い致します」
こうして決まった。
「いくらでもいいですので、いくらか、前金を頂けないでしょうか?」
彼女は前金を求めた。
「どの位ですか?」
「3万円位、いただけないでしょうか?」
財布には5万あったので、彼は3万、渡した。
「病気になったり、万一の時の保険がありますが、それには入りますか?」
そう言って彼女は、その保険も見せたが、彼はそれには入らないことにした。保険料は一万近くかかり、そうやって、次々とオプションをつけていくと高くなってしまう。彼は7万できっちり、おさめたかった。
「あらかじめ円をドルに替えておいた方がいいと思いますが、空港でも出来ますが、どうしますか?」
「じゃあ、お願いします」
彼は心配性なので、万一、空港で、両替が出来ない事を心配して、あらかじめドルに替えておくことにした。
「いくら替えますか?」
「いくらくらいがいいでしょうか?」
彼は逆に聞き返した。
「そうですね。ディナーショーや、食事や、レジャーなどで、10万円くらい持って行った方がいいでしょう」
「じゃあ、10万、ドルに替えて下さい」
彼はレジャーを楽しむ気もないし、食事も、高級レストランではなく、安物で済ますつもりだったが、心配性のため、万一のため、10万、ドルに替えておくことにした。両替は別に金がかかるわけではない。ホテルは、オアフイーストホテルというワイキキビーチに近い所だった。彼女は、ホテルの地図や旅券、案内などを彼に渡した。
こうしてハワイに行く事が決まった。
彼は、急いで書店に入り、ハワイの旅行ガイドブックをニ、三冊買った。旅行用の英会話のガイドブックもあったが、パラパラッとめくってみたが、中学生程度の英会話で、ほとんど全部、知ってるので無駄なので買わなかった。彼は自転車で図書館に戻り、図書館でもハワイに関する本を持ってきた。どうせ行くなら、ハワイに関することは、あらかじめ調べ尽くしておきたかったからである。寒くて、腹も痛くて創作もはかどらない。彼はワイキキの町の道路とホテルを覚えた。色々なレジャーもあったが、それには興味がなかった。
翌日、彼はパスポートを取るために、戸籍謄本が必要なので、車で鎌倉の市役所に行った。本厚木のサティーに、パスポートを申請する所があるので、戸籍謄本を受け取ると、そのまま本厚木に向かった。パスポートは一週間くらいで出来るとのことだった。申し込みが終わると彼は家に戻った。ネットも使って、ハワイに関する情報を調べた。沖縄に以前、行った時も、行く前に沖縄を徹底的に調べてから行った。しかし、今度は外国である。言語がどうなっているのか、とか、チップはどうなってるのか、とかネット喫茶はあるのか、とかは、わからなかった。一番気になったのは、パソコンの電源である。電圧はそれぞれの国によって違い、ハワイは110ボルト、60Hzである。コンセントの差込口の二つの穴の長さが違う。ネットで検索すると、海外でパソコンを使うには、それぞれの国に合わせた変圧器が必要とあった。パソコンが使えなくては、ハワイに行く意味がない。遊ぶために行くのではなく、寒くて小説が書けないから、暖かいハワイならきっと書けるだろうと思って、そのために行くのである。彼は急いでパソコンショップに行った。海外対応変圧器というのが売ってあった。2千円少しである。コンセントの二つの差込口の長さが違うので、
「これでハワイでパソコン使えますか」
と店の人に聞いたが、使えると言ったので、信じることにした。
一週間して、パスポートが出来たので、本厚木に取りに行った。旅行代理店でも、10万円分のドルができていたので、受けとった。1ドル=約100円だから、1万ドルである。アメリカの札を見るのは、はじめてだった。これでもう準備が整った。
寒くて小説を書けないので、小説を読んだりハワイに関する本を読んだ。
そして働いたり、テニススクールに行って、テニスをしたりした。
数日して、咽喉に抵抗を感じるようになった。それが、だんだん悪化して、熱を出してしまった。急いで、かかりつけの医院に行った。インフルエンザだった。彼は秋にインフルエンザの予防接種を受けていたが、かかってしまったのである。風邪薬と解熱剤を出してもらい点滴を受けた。そして、家に帰って、布団に入って寝た。頭痛がして、だるく、咽喉が痛い。彼は頻繁にうがいをして、咽喉についているインフルエンザウイルスを早く追い出そうとした。だがなかなか、咽喉の痛みがとれない。そのため、何日も寝たままの生活がつづいた。一週間くらいして、ようやく熱が下がりだした。ちょうど、年末になっていた。大晦日の夜には、藤沢の白旗神社に行った。初詣に来ている人が何人もいた。除夜の鐘が聞こえ出した。神社では、甘酒と、味噌おでんを、ただで配っていた。これが美味く彼は三本、食べた。焚き火をしていて、木材がパチパチと音をたてながら激しく燃え盛り、真っ黒な空に金砂子を噴き上げていた。彼は、神社の階段を登り、
「今年も小説がたくさん書けますように」
と祈願した。そして車で家に戻って、また布団の中に入った。まだ、咽喉に軽い違和感があったため、熱がぶりかえさないように慎重を期したのである。熱を出したまま、ハワイへ行くのでは、何も出来ないから、ハワイへ行く意味がない。そのため正月は寝正月になった。
ハワイへの出発日の1月6日(水)になった。
夜、9時の出発だった。家から成田空港までは電車で2時間かかる。出発の1時間前には空港に着いているようにと、あったので、6時に出ればいい。だが彼はゆとりをもって、3時に家を出た。空港に着いたのは5時少し過ぎだった。彼は出発ロビーの前の椅子に座って、電光掲示板を眺めた。世界各国への飛行機が次々に出発していくのが、表示されている。長い時間、待った後、ようやく出発時間に近づいた。搭乗口が開くと彼は直ぐに入った。手荷物検査では、ハサミとペットボトルをとられた。また、しばし待って、ようやく飛行機へ乗る時間になった。ゲートから飛行機に乗るバスに乗り、飛行機に乗った。彼の席は右側の窓側だった。いよいよ飛行機が動き出した。飛行機は、滑走路の上をゆっくり動きながら、いよいよ離陸のため、加速度をつけて全速力で走り出した。彼は、飛行機が離陸する時の主翼がバサバサ揺れ、フワッと大空に舞い上がる感覚が好きだった。今回は、夜のせいもあって、離陸する瞬間はわからなかった。気づいたら離陸していた。真っ暗な空の中から、夜の町の電灯によって、下の町がまるでミニチュアの町のように見える。やがて飛行機は千葉県の九十九里浜を越えて、太平洋の上の雲の中へと入っていった。これから7時間の空の旅である。スチュワーデスは、日本語が話せない。しばしして、スチュワーデスが、ワゴンを押しながら、やってきた。
「ビーフ オー チキン?」
意味がわからなかった。隣の人が、
「機内食で、ビーフかチキンか、どっちがいいかって聞いているんですよ」
と教えてくれた。彼はチキンにした。便秘で腹が張って、食事はあまり食べないようにしようと思っていたのだが、機内食なるものは、はじめてなので食べることにした。蓋を開けると、いかにも美味そうだった。それで全部、食べた。彼は睡眠薬を飲まねば眠れないので、眠れないことは覚悟していた。やる事がないので、持ってきた、読みかけの文庫本を取り出して読んだ。体調が悪いので、なかなか読み進めない。彼は、文庫本を読んでは、真っ黒の窓の外の夜空を見た。彼は泳力に自信があったので、ハワイくらい泳いで行けるなどと思った。しかし、それは、飛行機の上から見下ろした穏やかに見える海だからであって、現実の太平洋の荒波を泳ぎ渡る事など不可能である。ただ太平洋のど真ん中で、泳いだら、どんなに気持ちが良くて痛快かと思った。機内の前方に、パネルがあって、今、日本とハワイの間のどの辺りを飛んでいるか、が表示されていた。考えてみれば、彼は国内線には何度か、乗った事があるが、1、2時間で着くが、今回は7時間である。トイレに行くため席を立ったら、かなりの客が寝ていた。文庫本を2、3冊持っていったが、もし持っていかなかったら、この単調さには、耐えられなかっただろう。本を読んでいても、退屈になってくる。長い夜中の真っ暗な空の中のフライトがつづいた。日本時間と現地時間とでは時差がある。彼は腕時計を取り出して、時間をハワイの現地時間に合わせた。ハワイには朝の8時に到着の予定である。彼は写真家がシャッターチャンスを待つように、真っ暗な夜が明けて、太陽が水平線の上に表れる瞬間を待った。6時頃である。周りが明るくなり出した。水平線の彼方に、小さなオレンジ色の発光体が見え、それは徐々に大きくなっていった。夜明けだった。感無量だった。飛行機は雲の上を飛んでいるので、太平洋の海は見えなかった。一面の雲は、まるで柔らかいベッドのようで、この上になら乗っても落ちないような気がした。ハワイに近くなってきたこの海はさぞやきれいだろうと思われた。スチュワーデスが、朝食を運んできた。わりと軽いものだった。飛行機は高度を下げていき、雲の中に入っていった。乗っかることが出来ると思っていた分厚い雲のベッドは、その中に入ってみると、やはり薄い水滴の集まりだった。飛行機はその薄い水滴を切って飛行した。高度が下がるにしたがって、青い海原が見え出した。感無量だった。島が見えた。おそらくニイハウ島かカウアイ島だろう。機内アナウンサーがあり、やがて飛行機はホノルル空港に着いた。曇り空である。着陸の音がして、飛行機が止まった時、はじめて外国に来たという実感が沸いた。税関を通り、旅行会社で指示された場所に行った。空を見上げると曇り空で少し残念だった。だが、温かい。まさに真夏である。旅行会社のバスに乗って、アロハタワーへ向かった。時間が惜しく、直ぐにホテルに行って荷物を預け、ワイキキビーチに行ってみたかった。ワイキキビーチの海水浴場を早く見たい衝動が強かった。だが、パック旅行の特典として、バス旅行、か、クルーザー乗船か、ダイヤモンドヘッドの早朝散策か、ワイキキ市内旅行の一つをただで出来ることになっていた。10時から、アロハタワーから、バスが出るという。なので、2時間待って、バス旅行をすることにした。行き先は、モルアナガーデンと、ドールプランテーションと、ハレイワである。つまりオワフ島を北西に向かうバス旅行である。モルアナガーデンは、傘のような変わった形の木がある公園で、合歓の木であるが、その木は日本のコマーシャルにも使ったことがあり、有名な木だった。ドールプランテーションは、パイナップルの観光所であり、ハレイワは、ハワイの北西の町で、サーフィンの町だった。これで、だいたいオワフ島の主要部は見れる。モルアナガーデンの、合歓の木は、確かに変わった形の木である。だが、たいして面白いとも思わなかった。次のドールプランテーションも。次のハレイワは、波が高くなることもあって、サーファー達がやってくる町だった。町といっても、道の両側に店が並んでいるだけである。男のバスガイトの説明によると、日系人で、かき氷の店を出したところ、これが売れて、今でも、その息子が店をやっている、とのことだった。また、ハレイワの町はサーファーが来るついでに出来た町である。サーフィンの場所は、ハレイワの町とは、少し離れている。サーファーのために、サーフ場へ直通する道をつくろうと役所が計画したところ、ハレイワの町は大反対した。直通道路が出来てしまうと、サーファーはサーフ場に車で直通して、ハレイワの町に寄らなくなる可能性を心配したのである。しかし、実際、直通道路が出来てもサーファーは、ハレイワの町に寄るので、心配は取り越し苦労におわった、とのことである。再びバスに乗って、ホノルルに向かった。ホノルルに着いたらホテルに荷物を預けてから、日が暮れる前に急いで今日中にワイキキビーチへ行こうと気持ちが焦った。ホノルルに着いたのは5時だった。地図を見ながら、オアフイーストホテルに向かった。まだ外は明るい。激安パック旅行のホテルだから、たいしたホテルではないだろうと思っていたが、結構いいホテルだった。部屋は7階だった。
彼は部屋に荷物を置くと、急いで、トランクス一枚で、半袖のジャケットを羽織り、サンダルでホテルを出た。ワイキキビーチを見たい気持ちが焦って、小走りに走った。地図通り、ワイキキビーチに面した高層のハイアットリージェンシーホテルの傍らを過ぎると、海沿いのカラカウア通りがあった。それを渡るともうワイキキビーチだった。5時半。まだ明るい。海水浴客はまだまだいる。はじめて見るワイキキビーチは感無量だった。ビキニの女もたくさんいる。しかし、彼は欧米人の女のビキニ姿には何も感じなかった。そもそも彼は欧米人に異性としての魅力を感じていなかった。顔にしても、日本人のような丸顔ではなく、細く狭まって、やたら鼻だけ高い。体が大きいため、尻の肉や太腿に過剰の肉がつきすぎている。乳房も、過ぎたるは及ばざるが如し、で、垂れるほど大きくなると美しくない。何でも大きければいいというものではない。戦闘機にしても、大きな物だと太って余分なものまでついてくるが、コンパクトに纏まったゼロ戦の方が美しい。それに彼女らは恥の概念がない。彼女らにとっては、見せることが、アピールすることが、価値観なのだろうが、恥じらいの気持ちが全くなくなった人には趣、もののあわれ、が無い。勿論、ハワイは観光地であり、開放的になるため、各国からやってくるのだが、それにしても、日本の女は、まだ恥じらいを持っている。このことは民族の精神構造と深く関わっている。アメリカは、男も女も互いに求め合うが、日本人は男も女も、心に秘めていても、なかなか言い出せない。夏目漱石の、「それから」にしても、向田邦子の、「あ・うん」にしても、そうである。葉隠れの恋愛観はにはこう書かれている。
「恋の至極は忍ぶ恋と見立て候。会いてからは恋の丈が低し。一生、忍んで思い死することこそ恋の本意なれ」
と説いている。なので、ワイキキビーチの女には幻滅した。ビーチも、海の色は青くてきれいだが、遠浅でかなり沖に出ても背が立つ。これでは泳ぐ面白さもない。彼はビーチ沿いの砂浜を東の端から西のシェラトンワイキキホテルの辺りまで歩いた。東には、ダイヤモンドヘッドが見える。ハワイ旅行のパンフレットの典型的な写真は、この位置あたりから撮ったものである。彼はホテルにもどった。急いでパソコンを取り出した。コンセントの差込口は片方が少し長く、これでパソコンが使えるだろうかと心配していたのだが、変圧器をつなげば、問題なくパソコンは使えた。ほっとした。彼がハワイへ行った目的は、寒い日本では小説が書けなくて、温かい所なら、書けるだろうと思って、それが一番の目的だった。これで一週間、時間を無駄にしないですむ。彼はさっそく小説のつづきを書いた。やはり、寒い日本と違って、筆がどんどん進んだ。腹の痛みも消えた。日本の夏は、やたら蒸し暑く、湿度が高いが、ハワイはカラッと暖かくて、住むには最高の場所である。もしハワイに住む事が出来たなら、彼はハワイに移住したいと思った。だが、仕事がない。それが彼がハワイに移住できない唯一の関所だった。町には結構、乞食もいた。温かくて、乞食にとっても住むには理想の場所だろう。彼はあることが気になって、筆を置いて、部屋を出た。それは、このホテルにプールがあるということである。もう夜の8時だったが、急いでフロントに下りてプールの場所へ行った。プールは、小さいが四角い、十分泳げるプールだった。水深も深い。幼い毛唐の男の子と女の子が、はしゃいでいた。ワイキキビーチ沿いの高級ホテルのプールは、レジャープールばかりで、芋洗いで、混んでいて、とても泳げるものではない。彼はさっそくプールに入って、泳いだ。プールは夜9時までだった。プールから上がると、彼はトランクスに半袖で、近くのコンビニに行った。金は極力、かけないつもりだった。ので食料は全てこのコンビニで買うことにした。食べ物を見てると、どれも美味そうに見えてくる。少し大きめのサンドイッチと、ジュースとパックに入った西瓜を買った。日本のサンドイッチは、パンの耳は切るが、ハワイのコンビニのサンドイッチは、パンの耳までついていた。ホテルに帰って食べた。サンドイッチが美味い。食べたら直ぐに、小説のつづきを書き出した。12時にベッドに横になって、睡眠薬を飲んだ。だが、今までの寒い日本の冬から、一気に真夏になってしまったため、体内時計がおかしくなったのか、2時に目が覚めた。横になっていても眠れる気配が感じられない。それで、また机に向かって小説を書いた。寒い日本と違って、スラスラと筆が進んだ。やはりハワイに来てよかったと、つくづく感じた。眠気が起こらないので、時間の経つのも忘れて書いた。窓の外がうっすらと明るくなり出した。夜明けだった。時計を見ると6時である。