小説家、精神科医、空手家、浅野浩二のブログ

小説家、精神科医、空手家の浅野浩二が小説、医療、病気、文学論、日常の雑感について書きます。

小説家の憂鬱 (エッセイ)(上)

2020-07-13 12:29:57 | 小説
小説家の憂鬱

彼は自称、小説家である。自称、と言ったのは、彼はまだ、一回だけ、自費出版で一冊、本を出した事はあるが、それ以来、本を出版していないからである。つまり商業出版の本を出した事が無いからである。一般の人の感覚でもそうだろうが、小説家と自他共に認められるのは、何かの文学賞を取り、書き下ろしで商業出版の本を出したり、週刊誌の連載小説で、小説を書き続け、一定のファンの読者層を獲得し、世間で知名度を博し、コンスタントに毎年、文庫本を、何冊か出し、その印税によって、生活している人を小説家と自他共に小説家と呼ぶからである。つまりはプロ作家である。そういう点からすると彼は他人が、小説家と、認めるかどうかは怪しい。
しかし彼が、小説家を自称するのは、彼にとっては、抵抗がなかった。なぜなら。確かに、彼は、世間の知名度も無いし、印税も全く無い。つまりアマチュアである。しかし、彼は、学生時代から、ずっと小説を書いてきて、社会人になっても、毎年、コンスタントに、何作か小説を書き上げて、完成させ、ホームページに発表しているからである。彼の念頭には小説を書くことしか無いのである。そして、それを毎年、続けてきているので、彼は自分を小説家と自称することに抵抗を感じていないのである。完成させてホームページに出している小説も100作以上になっている。彼は死ぬまで、小説を書き続ける強い信念を持っている。だから、彼は自分を小説家と自称することに抵抗を感じていないのである。
それに彼には、プロ作家になることに抵抗を感じている面もあるのである。彼は過敏性腸症候群という苦しい病気をもっており、そもそも子供の頃から、喘息の虚弱体質で、彼はもはや睡眠薬を飲まなければ、一日たりとも眠れず、また過敏性腸症候群によって、うつ病が頻発して起こり、とても連載小説を書きつづける体力などないことを痛感しているからである。勿論、彼も、今までに名のある小説新人賞に三回ほど、応募してみたことがある。しかし、三回とも予選にも通らずに落ちた。勿論、残念ではあったが、彼はあながち落胆しなかった。新人賞に通るためには選考委員に認められるものを書かなくてはならない。単なる面白さではダメなのである。しかも筋の巧妙さ、奥の深い視点のあるものでなければ、文学性が無いということで落ちるのは目に見えていた。そういう奥の深い、(あるいは斬新な、あるいは鋭い)視点を持っている人は幸いである。また、たとえ新人賞を一作とっても、その人の感性が世間の人に受け入れられなければ、一作作家として終わりである。
世間で名をなしている作家は自分の感性が世間の読者の感性と、一致している幸運な人と言える。振り返ってみるに、彼は、表現したいものというものを持っていた。彼は、大学に入るまで小説というものを一度も書いたことが無く、また書き方もわからず、作文から小説を書き始めた。大学で文芸部に入る事を親しい友達に誘われたが、彼はかなり躊躇した。文芸部に入るには小説を書かなくてはならない。と彼は思っていたからである。しかし、彼は誘われたから文芸部に入ったのではない。それまで彼は表現したい潜在意識が強くあったのである。ただ、小説を書く技術がないため、それは、はるか彼方の夢でしかなかったのである。大学に入って、人生の虚しさを感じ出すと同時に、表現したい欲求がどんどん募っていった。それがついに爆発したのである。文芸部に誘われていたという事も幸いした。彼は書き出した。小説など書けないから、作文もどきの小説から始めた。そして作文ではあっても、何作か作品が出来た。それ以来、彼の創作にかける情熱は、どんどん強くなっていった。たとえ作文もどきの小説とはいっても、作品は作品である。作品を書き上げて、完成させると、自分にも、作品を書く能力はあるんだ、という強い自信になった。それが創作の情熱を強めた。書きたいものがあっても、書く技術がないだけである。なら書く技術を磨けばいい。書く技術を習得するには、実際に骨を折って作品を書くことと、優れた作品を熟読することだと思った。それで彼は手当たり次第に、名作を片っ端から読み出した。そして、骨を折って作品を書いた。彼は先天的倒錯者だったので、エロティックな小説を書きたいと思っていて、また書けるとも思っていた。しかし、書く技術がない。それでも挑戦して書いてみたが、幼稚になってしまい、自分にはとても、エロティックな小説は書けないと思った。またエロティックな作品を書く事を受け入れることも出来なかった。それで恋愛小説的なものを書いた。それは、彼が書きたいものでもあり、また、書けるものでもあった。彼は恋愛小説を書いていこうと思った。大学の時には、勉強が忙しく、そのため、長編は、とても書けず、掌編小説、短編小説しか書けなかった。
彼は、小学二年生の時、一度、国語の授業の時間に創作をする課題が出されたことがある。教科書に載っていた、ある作品の続きを書いてみなさい、という課題だったが、この時、筆が走りに走った。書いていて面白くなってきて、書きながら笑ってしまうほどであった。なので、彼には子供の時から、創作の才能が十分、あったのかもしれない。それに気づき、それ一筋に夢中になって小説を書いていたなら、小学校、中学校、高校と、どんどん書く技術がついていき、プロ作家にまでなれたかもしれない。しかし、その国語の創作の授業は一回だけであって、それ一回きりで、一度の楽しみとして終わってしまった。彼には、他にも勉強やら、運動やら、遊び、やら、色々やりたいことがあった。小学生の創作なんて遊びに、価値があるとも思えなかった。もし、創作の授業が一回だけでなく、何度も行なわれたら、彼の人生は変わったものになったかもしれない。
大学生になって、やっと彼は自分の本当にやりたいものに気づき、遅ればせで不利な条件ながら、ついに決断し、書きはじめたのである。一度、火がついた創作欲は、もう燃えさかる一方だった。そもそも彼は、何かをし出すと、それにとりつかれてしまって、無我夢中で邁進する性格でもある。
彼は医学部を卒業して医者になった。医学は深い理論があり、非常に面白いものである。彼は一時は、医学に夢中になったこともあるが、やはり、自分のしたい事は、結局は創作で、それに戻った。
社会人になると、もはや躊躇いがなくなり、エロティックなものも書いてみるようになった。すると書けた。一作、書くと、それが自信となる。彼は次々とエロティックな小説を書いた。書き上げる事の喜びと、書けることの自信との相乗効果で、彼はエロティックなものにだけに焦点を当てて、書くようになった。もはや、彼は、一生、エロティックなものを書き続けられる自信がつくほどにまでなった。文芸的なものは書かなかったが、彼は作品を書いていれば、それで満足であり、またエロティックなものは、嫌々、書いているのではなく、書きたいから書いているのであり、書き上げた時には十分、満足できるからである。それに歳をとると性欲が低下して、エロティックなものは書きたくても書けなくなるのではないか、という心配のため、若く性欲がある内に、エロティックなものを書いておこうという考えもあった。
彼は精神科を選んだ。それは精神科は比較的、楽だからと思ったからである。彼は二年の研修の後、精神保健指定医の資格を取るという条件で、少ない給料で、常勤で田舎の精神病院に就職した。だが、院長はしたたかで、精神保健指定医の資格をとって辞められることを怖れ、彼に指定医の資格を取らせなかった。彼は指定医だけは取っておこと思っていたのである。精神科では、精神保健指定医という国家資格がないと、給料も低く、就職も難しいのである。医者の求人も指定医の資格があることが絶対の条件である場合が多い。つまり指定医の資格がないと、就職できないのである。何度、院長に交渉にいっても、「そのうち取らせる。そのうち取らせる」と言いながら、結局は取らせてくれない。政治家の「前向きに対処します。前向きに対処します」と言いながら、結局は、何もしないのと同じである。結局、彼は、一つの病院に医者の数が多いと、病院の評価があがるため、そのための手段として採用されたのに過ぎなかった。また学閥の強い田舎の病院で、医師を募集しても医者がなかなか医者が来ない。そのための用心のためでもある。つまりは、飼い殺しである。唯一の、医者集めの手段は、院長の出身大学の医局に、数100万、教授に渡して、「どうか医者を一年、派遣させて下さい」と、教授に頼みこむしかないのである。そこの病院は学閥が強く、彼は一人ぼっちだった。彼など、空気同様いないに等しい。そんな中、大学の医局から派遣されてきた女医だけは、彼を可哀相に思ってか、優しい言葉をかけてくれた。その頃、精神科専門医という、新しい資格を学会がつくった。そして、古参の医者は、「精神科専門医の資格のためのレポートには協力しますよ」と彼にしたたかに笑って言った。これは思いやりなんかではない。精神科専門医は、精神保健指定医と違って、学会が認めるだけの資格で、ほとんど何の権限もない。では、なぜ、そんな事を言うかというと、精神科専門医のレポートにサインすると、精神科の指導医という肩書きができるからである。つまりは、自分の事しか考えていないのである。ウソで飼い殺しにしようとする悪徳な院長、偽善者の指定医、などの集まりの病院に、もう身も心も疲れはてて、彼は病院を辞めた。それで、医者の斡旋業者に頼んで、非常勤で働いたり、健康診断や当直などのアルバイトで、やっていくことにした。また、どこの病院に常勤で就職しても、病院の院長などというものは騙すことしか考えていない医者がほとんどである。なので彼は指定医の資格はもう諦めた。
だか、常勤をやめて、時間的に自由になると、ほっとした。元々、小説を書くことが、彼の人生の一番の目的であり、指定医だけは、医師免許と同じように、精神科医として、やっていくためには、なくてはならないものだったから、それだけには何としてもこだわっていたのであるが、そのこだわりが無くなると、ほっとした。精神的ストレスも無くなり、小説もどんどん書けるようになった。指定医取得で悩んでいた時は、身も心もボロボロで、うつ気味であり、小説も書けなかった。しかし、それを吹っ切って自由になると、精神が実にリラックスした。彼は、毎日、家の近くの図書館で、朝から、図書館が締まるまで、机に向かって小説を書いた。
図書館とは、healing space of the soul とも言われる。つまり魂が癒される場所という意味である。なぜ図書館かというと、図書観の方が緊張感が出るからである。それに彼は、頚椎の湾曲が少なく、直線ぎみであり、肩が凝りやすい体質でもあるからである。
彼は小説を書いた。しかし彼には、実生活というものが、ほとんど無い。元々、内向的な性格の上、過敏性腸症候群のため、友達がいない。仮に友達を無理して作っても疲れてしまうだけである。そのため、彼の小説は、頭で考えた空想的なものが多かった。しかし、彼は、子供の時、喘息の施設に二度ほど、計三年入っていたことがあり、そこでは本当の友達が出来たし、保母さんは、憧れの異性でもあった。そういう現実の体験を元に、それからイメージを膨らませて、小説を書いた。これは何も、彼だけに、いえる事ではない。ライナ・マリア・リルケも言っているが、もし、どうしても書く事がなくなっても、少年期の体験だけは、書く事が出来るのである。
彼は机に向かって、一日中、ウンウン頭を唸らせながら小説を書いた。書いている時だけが、彼にとって幸せな時であった。不思議なことに、もはや学生時代に書けた掌編小説というものが書けなくなってしまった。掌編は、ただ短いだけの小説ではない。掌編はラストが、キリッと纏まるかが、全てであり、それが上手くいくと、掌編といえども、小宇宙、ミクロコスモスの一つの世界になるのである。学生の時、それが出来たのは、長い小説を書く時間が無く、掌編しか書けず、まさに必要が発明の母だったのである。しかし小説も、ある程度の長さを越すと、もはや、ラストをどうするか、ということは重要でなくなってくる。中身のボリュームが長い小説の、美味しさだからである。
そして、ある程度、長く書いた段階になると、もっともっと、いくらでも話が続けられることに気がついた。しかし彼は遅筆なので、一つの小説を延々と長く書くより、ある程度の所で切り上げて、次の小説を書いた。一年で、一作だけの長編というのは、さびしく、それをするくらいなら、短めの小説を五作、書きたかったからである。それは、多くの作品を書く事によって、自分に自信がつくからである。また、話によっては、長い作品を書いていると、色々イメージが沸いてくるが、中には惰性で、話がつまらなくなってくる性格のものもある。つまり、原稿用紙の枚数は多くても、キリッとラストを纏める方がいい掌編的な性格の小説もあるのである。
これのいい例がある。それは梶原一騎の漫画である。梶原一騎の漫画のほとんどは、ある所でクライマックスに達する。そこで終わりにした方が、しぶいのだが、長編の連載ということで、クライマックスの後でも、話を考えて、つづけて書かなくてはならない。例を挙げれば、「巨人の星」では、大リーグボール一号を完成した時、あるいは、花形満が、大リーグボールを打った時が、「巨人の星」の絶頂のクライマックスであり、そこで終わりにした方がいいのであるが、連載漫画は続きを書かなくてはならない。そして、クライマックスの後では質が低下しているのである。他の作品では。「夕やけ番長」は、七巻の、赤城忠治と鮫川巨鯨との対決がクライマックスであり、「侍ジャイアンツ」では、番場番が巨人とのケンカに勝った時がクライマックスであり、「愛と誠」では、高原由紀のリンチが終わった時が、クライマックスである。(もっとも、愛と誠、では、ラストが見事に決まっているが)
プロと違い、アマチュアだと、きりのいいクライマックスで、お仕舞いにすることが出来るから有利なのである。
しかし時には、新しい小説を書こうと思っても、どうしても書けない時もある。
小説を完成させて、ホームページに出した時は最高の快感であり、大得意である。だが、その後、すぐ、話が思いついてくれればいいのだが、書けないと、一日経ち、二日経つ内に、だんだん、憂鬱になってくるのである。
不思議なことに完成させてホームページに出してしまって、数日経ってからでは、つづきを書こうと思っても、後の祭りであり、書けなくなってしまうのである。これは非常に怖いことである。こんなことなら、話を切り上げないで、もっと長く話をつづけた方が良かったと、つくづく後悔することもよくあった。
作家とは、書いている時だけが生きている時であり、書けない時の作家は、まさに地獄の苦しみである、プロ作家なら皆そうであろう。哲学者のメルロ・ポンティーが言っているように、作家にとっては、今、書いている作品こそが全てであり、過去の作品は作家にとって、墓場であり、過去の栄光にいくら浸っていても何の感慨も受けない。
彼は小説を書けない時は、ブログの記事をストックとして書くか、本を読んだ。読むのは、ほとんど小説である。ただ読むのは、楽しみのためというより、自分が小説を書くヒントになる本を読んだ。また大作家の小説を読むことは、小説を書くファイトにもなる。
そういう考えで彼は、読む本を選んでいるので、必ずしも全ての本を読んでいる文学通ではない。一読して、ああ、楽しかったで、翌日になると忘れてしまうような作品は読まない。文学青年は、ドフトエフスキーとか、トルストイとかの大長編を読むが、大長編は自分の身につかない。それよりも掌編、短編で、重みがあり、ストーリーを忘れないような印象の強い作品を読む方が、自分の創作の勉強にはいいのである。
また、何も小説に限らず、ある単語や、ある場面が小説のヒントになることがある。ネタ探しのアンテナを絶えず張っていれば、小説のアイデアが沸くことがあるのである。これは何も、読書だけに限らず、日常生活で、絶えず小説のネタを探す気持ちで生活していれば、アイデアが沸くことがあるのである。インスピレーションとは、努力によって起こるのである。ボケーと待っていては、インスピレーションが降臨してくることはない。誰でも、そんなドラマになるような生活を送っているわけではない。人は、一生に一つは小説を書ける、と、よく言われるが、それは、言葉を返せば、たった一つ、というほど、人の一生に、小説になるようなドラマチックな事は起こらない、という事である。
そういうわけで、職業作家として、小説を書き続けるには、ドラマチックな事が自分に起こってくれるのを指を咥えて待っていては書けない。勿論、日常、人との付き合いが多い行動的な人は、日常の雑感であるエッセイを書く事はできる。しかし、小説は書けないし、エッセイにしても、芸術性の高いエッセイが書けるかどうかは、わからない。
そこで、プロ作家として、小説を書きつづけるには、積極的に、今や昔に起こった事件、人物などで、小説になりそうなものを、徹底的に調べて、頭を絞ってストーリーを考えて、小説に仕立てるのである。推理作家では、平和な土地に、わざと凶悪な犯罪を、頭を捻って考え出さなくてはならない。平和な土地に住んでいる人にとっては迷惑かもしれない。
彼は、以前、新宿のカルチャー教室で、「取材の仕方」という教室に出たことがある。三回の講義で、一回目は、口の悪い元、編集者で、取材の仕方の話をせず、自分の言いたい政治的な主張を乱暴にぶちまけただけだった。そのためか、二回目からは、100人いた受講者が、10人くらいに、ぐっと減ってしまった。しかし二回目からの講義は良かった。二回目は、作家の嵐山光三郎先生だった。先生は、ちやんと、取材の仕方の講義をした。彼はこんな事を言った。
「作家は、小説に限らず、何かものを書く時、取材しなくてはならず、取材の費用は自腹を切らなくてはならない。だから、原稿料が入っても、取材の費用で、差し引きゼロとなってしまう。では、どうやって収入を得るか、というと、連載した作品が単行本や文庫本になり、本が売れることによって、その印税が作家の収入源となる」
これは、全ての小説で言えることではない。小説には、取材などしなくても、資料がなくても書けるものもある。しかし、念入りな取材をして、資料を集めなくては書けない作品もある。氏は後者のような作品を書くことが多いのだろう。実際、氏の作品には、そういうものが多い。
アメリカを舞台に小説を書こうと思ったら、やはりアメリカに行かなくてはならないだろう。今は、インターネットで、画像や文献を集めることは容易である。しかし、その場所の空気、雰囲気、人々の様子、町並み、などをリアルに書くためには、実際に行って実感しなければ書けない。百聞は一見に如かず、である。だから、本格的な小説を書くためには、取材の費用を先行投資として払わなくてはならないのである。最も、海外旅行が好きで、色々な所に趣味も兼ねて行っている人は、その点、有利である。作家は何事にも旺盛な好奇心を持っていて、仕事のためではなく、どうしても調べたり、行ってみたりしてしまうような好奇心旺盛な行動的な人が有利なのである。
そういう点、彼は小説創作に不利だった。アマチュアで、収入をはじめから考えていないのだから、取材の先行投資は、小説を書くために支払うだけのものとなる。彼は小説を書くのが好きだが、取材のために、かなりの金を払ってまで、本格的な小説を書きたい、とまでは、思っていなかった。そこで、映画と同じように、安上がりで書ける小説となると、ポルノ小説となるのである。だから彼が妄想的なエロティックな作品ばかり書く事になるのも、必然の結果だった。そして、彼は妄想的なエロティックな作品を書くことに、満足しているのであるから、なおさらである。
さらに、彼は、孤独で友達がいない。孤独であるということは、小説家の良い特性ともいえるが、それは精神的な孤独であって、物理的に話し相手がいない、ということは、小説を書く上で、極めて不利である。人との会話や、付き合いは、それだけで、上手く加工すると小説になりうる可能性がある。また、一人の人間は、その人の視点で世界をみているから、つまり、一人の人間は無限の情報を持っているから、一人の友達がいるということは、自分とは違った視点の、無限の情報を持った人から、無限の情報を聞きだせるということである。そういう点でも彼は小説創作に不利だった。たとえば、ある場所から、ある場所へ車で行く時、友達は、いい抜け道を知っているかもしれない。何か困った時にも、どうすればいいかも、友達が、そういう経験をして知っているなら、教えてもらう事も出来る。近くに美味い焼き肉屋があって気がつかなくても、友達は知っているかもしれない。そういう、あらゆる事で、一人でも友達がいると、非常に有利なのである。しかし、それは、友達を情報入手のための手段として利用することである。彼は人を自分の目的のために利用することが嫌いだった。しかし、それならば、彼だって、彼という視点を持った一人の人間だから、友達が知らない事で、彼が知っている事を教えてやればいい。ギブ アンド テーク である。しかし彼は、内向的な性格で、自分の関心のある事には、熱中してしまって、知識もあるが、それ以外の世事には疎いのである。外向的な人間は、その逆で、世事には広いが、一つの事に熱中してしまう、という事がない場合がほとんどなのである。また内向的な人間は外向的な人間のように、世事の全てに、広く関心を持っていないため、話が噛み合わないのである。噛み合わない、だけでなく、疲れてしまうのである。そもそも友達との雑談というものが苦痛で、一人で自分の好きな事をしている時だけに、心が落ち着き、和らぐのであるから、友達というものを作れないのである。それに内向的な人間は無心になって遊ぶという事も苦手である。そのため彼の情報入手は、子供の頃から書店や図書館の本やネットだった。また、友達がいないと、夏休みの旅行という事も出来にくいから、ますます世間知らずになってしまう。勿論、旅行や遊びは、一人でしても違法ではない。しかし、やはり旅行は友達と行くのが楽しく、それが普通であり、一人で行くのは虚しいし、恥ずかしい。遊びも、友達とするのが、一般的である。一人でボーリングに行っても、一人で屋外バーベキューを焼いても違法ではない。しかし夏祭りも一人で行って、一人で金魚すくいをするというは虚しいものである。さらに、夏の海水浴場のナンパというものも、男二人なら、恥ずかしくはなく、友達同士の女二人に声を掛けることも出来やすいが、一人では、困難を極める。それでも、京本政樹のような超美形なら、可能だろうが、残念なことに、神は彼に、平均的な容貌しか与えなかったのである。そういうことで、一人というのは、生きていく上で、極めて不利なのである。ただでさえ、そうなのに、過敏性腸症候群が発症してからは、彼の人づきあいは、さらに困難になっていった。そもそも内向的な人間は、集団帰属本能が無いのである。
内向的な人間は、一つの事をやり出すと、それに凝ってしまい、幅広い世事に疎く、また無心に遊ぶ事が苦手なのである。
そういうことで、彼は、常勤で働くのをやめてから、ほとんど毎日、図書館で小説を書くようになった。図書館にいる時が、唯一、心の和む時間だった。
彼は、図書館で、あらゆる分野の書棚の本の背表紙を眺めるのが好きだった。出来る事なら、図書館にある全ての本を読みつくしたい衝動に駆られるのだった。どんな事にも理論がある。それを学びたいのである。しかし、彼にとっては、読むことより、作品を作ることの方が絶対的に価値が上だったので、一日中、机に向かって、小説を書いていた。彼は、遅筆で、また、体調に非常に左右されるため、一日かけて、原稿用紙一枚しか書けない時もあった。一日、原稿用紙10枚、書ければ多い方だった。また、アイデアが浮かばない時など、一日かけて、一行も書けない時もあった。それは彼が文章をスムースにつなげ、ストーリーにも頭を捻って、最高のものにしようとの、凝り性の性格のためだった。そのため彼の作品は非常にスムースに読める。彼は文体を持っていると自負していた。では、文体とは何か、というと、それは、人によって定義が異なるだろうが、まあ、文章の読みやすさ、と言っていいだろう。ひとつの文を書くと、次の文は、前の文を引き継いだものとならなくてはならない。一つの文は、次の文章を決定する。だから、次の文章は、前の文章に責任を持ったものでなくてはならない。軽い気持ちで、一文を書くと、その後の話の展開が大きく変わってしまうこともあるのである。文体にこだわると、そういう事まで起こってしまうのである。この事を雑にしてしまうと、本人には、わかっても、他人には読みにくい文章になってしまう。そういう人は、自分の書きたい事を、無考えに次々、書いて、読む人のことは、考えていない。自分の書きたい事を目一杯書いて、自己満足し、読む人は、かってにどうぞ、という、デリカシーの無い性格である。一方、文体を持っている人、特に彼のように、読まれることを、絶えず意識して書いている凝り性の人は、どうしても筆が遅くなる。そういう人は、読者を意識するあまり、自分の書いた作品が、読者に読んで欲しい、という意識が非常に強いのである。音楽には、絶対音感というものが先天的にあって、それが無い人は作曲することが出来ないそうだ。それと同様、文章にも、絶対文感というものがあって、それが無い人は、作品を書く事が出来ないそうだ。もっとも、作品を書く時に、一番大切なのは、書き手の精神的コンディションであって、精神的コンディションが良好な時は、速く書いても、文体が滑らかで、ストーリーも崩れず、見事な作品を書く事が出来る。彼の場合、過敏性腸症候群による体調不良のため、精神的コンディションが、悪い時の方が多いので、筆が遅いのである。彼も精神的コンディションがいい時は、頭より手の方が先に走って止まらない、という事も経験している。
人生の時間は限られている。その限られた時間の中で、何をするか、という決断に人間はいつも、さらされている。彼にとって、それは作品を書く事だったので、一日、原稿用紙一枚しか書けなくとも、彼は読むことより、書く事をとった。そのため、図書館にある膨大な本は、背表紙を見るだけにとどまった。残念だが仕方がない。
彼は、図書館にある、松本清張とか山本周五郎とか、その他、多作の大作家の全集を見ると、よくこんなに沢山、作品を書けたなと驚きを持って感心した。彼は一生、創作一筋に打ち込んでも、絶対、これほどまでの分量は書けないだろうと、残念ながら確信していた。それは、今までの創作のペースから考えて、どんなに無理してでも、彼らほどの分量は書けないと、残念ながら確信していた。
そして、もちろん嫉妬の感情も起こった。しかし、それは、そんなに激しいものではなかった。彼の創作の動機は、名誉欲でもなければ、金銭欲でもない。創作は自分との戦いであり、自分にしか書けないもの、そして自分がどうしても表現したいものの作品化であったからである。もっともそれは、どんな作家でも持っている感情だろう。同じジャンル、たとえば、推理小説を書く作家なら、すぐれた推理小説の大家に、質、量、において嫉妬する事もあるだろう。しかし、恋愛小説の作家が推理小説の大家に嫉妬するということが、あるだろうか。作家は自分の好みのジャンルの作品を創って表現したがっている。それが自分の価値観であるからである。特に個性の強い作品を書く作家にとっては、創作は自分との戦いだろう。だから、違う別のジャンルの作家に対する嫉妬というものは、あるだろうが、そんなに激しいものではないのではなかろうか。実際の所、それは、各作家によって異なるだろう。たとえば野球選手が、日本一のサッカー選手に嫉妬するということがあるだろうか、という疑問と同じである。野球選手は野球に価値をもっていて、サッカーには価値をもっていないだろう。作家が一番、幸福を感じる時は、自分が表現したいと思っていた作品を見事に完成することができた時であろう。ともかく膨大な多作の作家の全集を見ると、自分の創作に対するファイトは、間違いなく起こる。
そして彼は、過敏性腸症候群であり、不眠や鬱に悩まされており、創作にとって著しく肉体的、精神的、条件が悪い。彼は、キリスト教の教えにある、タラントの喩え、通り、自分に与えられたタラントを精一杯、努力して発揮する事が、自分にとって大切な事なのだと、かなり達観していた。自分は、大作家の十分の一のタラントしか、与えられていない。しかし、量は少なくても、自分に与えられたタラントを精一杯、努力して発揮することが、価値のあることなのだ、と思っていた。

そんなことで彼は、仕事のある日以外は、図書館の机に向かって、じっと座ってノートに向き合っていた。彼は、パソコンにそのまま入力して書くという事が出来なかった。これは作家の気質もあるだろうが、ワープロが使えても、ワープロで文章を書くということが、どうしても出来ない作家というが、プロ作家にもいる。長年、文章を鉛筆で原稿用紙に書いてきた習慣のため、文章を書くという脳の働きが、原稿用紙に、文字を一文字、一文字、筆に圧力をかけて、原稿用紙の升目を埋めていく、という方法と一体化してしまっているからである。そういう人には、たとえワープロが使えても、文章は筆でしか書けない。また小説のアイデアが、筆で原稿用紙に文字を書いているうちに、沸いてくる、などという習慣が身についている人には、どうしてもワープロでは書けない。ワープロで、キーを押す動作では、文章も作品も軽くなってしまい、重い、魂の入った文は、書けないという人もいるだろう。特に、ワープロが出来る前から、書いていた人には、そういう人が多い。彼も、はじめはそうだった。ワープロが使えるようになっても、今までの習慣から、どうしても文章はノートに鉛筆でしか、書けなかった。それで、彼は鉛筆で文章を書いて、それをワープロに写す、というようにして書いていた。文章を書くという脳の機能と、その手段は、一体化しているからである。しかし、だんだんワープロを頻繁に使っているうちに、ワープロでも書けるようになってきた。ワープロのキーを押す、という方法が、文章を書くという脳の機能に適応しだしてきたのである。すると一旦、ワープロで文章を書くという方法が、文章を書く脳の機能と一体化してしまうと、今度は逆に、鉛筆で、ノートに書くということは、おっくうになっていった。
彼は、小説を書く時、必ず、何冊かの、読みかけや、既読の文庫本を横に置いていた。
作家は小説を書く時、特にストーリーを考える時、何をヒントにしているだろうか。おそらく、毎日の生活の中での、何かの出来事をヒントに、それを想像の力で膨らませたり、加工させたり、変形させたりして、お話を考えているのでは、なかろうか。しかし彼には実生活というものがない。人との付き合いが全く無いのである。それで、彼は小説のヒントを、生活ではなく、虚構の小説の中に求めた。彼が小説を書き出した時の、ストーリーを考えるヒントも、小説を読むことであったが、その後も、彼には生活というものが無いため、ストーリーのヒント探しとして文学作品を読んだのである。そして、ある作品なり、作家なりが気に入ると、これは自分の創作のために、吸収することが出来ないかと、徹底的に精読した。彼の読んだ小説には赤い傍線が一杯書き込まれている。彼は小説を自分の創作の能力を広げる勉強の目的で読んだのである。彼は、日本の近代小説で、短めのものを読んだ。それは、彼の書きたいもの、書けるものの性格からして、筋が複雑に入り組んだ推理小説は、無理だと諦めていたからであり、また推理小説を書きたいとも思ってもいなかったからである。さらに、長編の推理小説は、読んで数日すれば、忘れてしまう。推理小説とは、読む人を、ハラハラさせ、面白がらせるために書かれたものであり、読むには面白いが、少なくとも彼の小説の勉強には、向かないかったからである。同様に外国の長編小説も読まなかった。外国を舞台にした小説を書く気はないからである。しかし、日本の古典は、筋は入り組んでいなくても、一文、一文に味があった。彼もストーリーの奇抜さではなく、文章や作品自体に味のあるものを、書きたかったからである。
そもそも、小説の勉強をするには、日本の古典を読むことである、というのは、よく言われる事である。
一つの作品や作家が気に入ると、彼はとことん精読した。自分にも、こういう小説なら、書けるのではないか、と共感できるような作品を見つけると、大変な喜びだった。しかし、それに習って、書こうとしてみも、やはり無理だった。彼は世事に疎く、観念ばかり肥大していて、世を描写することが出来なかったからである。やはり小説を書くには、思想を深く持っているより、世のあらゆる雑事を、幅広く知っていなくては、駄目なのである。彼は自分の創作の肥やしにならないと諦めた作家の作品は、読まなくなり、さらに別の、自分の創作の肥やしとなるような作品、作家を探した。それを見つけると、彼は、今度こそ、と一心に精読した。だが、書く段になると、やはり書けなかった。そういう風に、彼は多くの作家の作品を、次々に鞍替えして読んでいった。そのため、古典や文章の味が分かるようになった。つまり、彼は、小説を鑑賞する能力が、結果として身についたのである。
気に入った小説を横に置いておくと、自分も、こういう作品を書きたい、という創作のファイトになった。だから彼は、書く時、既読か読みかけの小説を横において置くのである。

だが、彼は、いざ小説を書こうとすると、結局は、自分の頭の中にある空想を駆使して搾り出すしかなかった。そして、一つの小説を書く事は、一つのパターンの発見だった。彼は、発見した一つのパターンを元に、別の新しい小説を書いた。そうやっているうちに、いくつかのパターンを持つようになった。

   ☆   ☆   ☆

平成21年の冬になった。
冬は彼にとって地獄の季節だった。冷え性で便秘症の彼にとって、一冬、乗り越せるかどうかは、動物の越冬にも近かった。蒸し暑い夏が過ぎ、爽やかな秋も過ぎ、日の暮れるのが早くなって、寒い日になってくると、だんだん元気がなくなって、胃腸の具合も悪くなってくるのだった。そうなると創作も出来なくなってくる。精神が活き活きとしている時には、筆がどんどん走るのだが、元気がなくなってくると、書けなくなってくるのだった。
だが、書けない時でも、書きたい気持ちは、逆に一層、強まった。むしろ書けない時の方が、書きたい創作意欲が激しくなった。
彼の家から少し離れた所に市民体育館があった。
「肉体的条件が悪いから創作できないのだ。ならば体を鍛えて肉体的条件を良くすればいい」
そう思って、彼は市民体育館のトレーニング室で、マシントレーニングをする事にした。以前から、彼は体を鍛える必要を感じてはいたが、億劫がって、やらなかったのである。だが、とうとう彼は決断した。トレーニング室は、一回、300円で、何時間でも出来る。だが、彼は、運動は、いくつか出来たが、技の訓練だけに価値があって、基礎体力を侮っていたためしなかった。彼は、今、はじめて、基礎体力を鍛える重要性に気がついたのである。それで彼は、基礎体力のトレーニングをするようになった。しかし今まで、基礎体力のトレーニングをしてこなかったため、彼の体力はサラリーマンとほとんど変わりなかった。バーベルもよう、持ち上げられないし、続かない。何より、単調きわまりない。彼には、こういう単調なトレーニングが苦手だった。というか性に合っていなかった。体育館の近くには、通年やっている温水プールもあった。そこで、温水プールで泳いでもみた。しかし、水泳もマイペースで、出来てしまう、休みたくなったら休めるので、あまり、運動したという実感は得られなかった。
そもそもマシントレーニングにしても水泳にしても汗を流さない。こういう一人でマイペースで出来る運動では、休みたい時に休めてしまう。それでは、大した運動にならない。それに単調で面白くない。もっと、汗をかくような激しい運動で、やって面白いものをやろう。そう思って彼は、テニススクールに入ることにした。テニスは、かなり以前にも、やったことがあり、ラリーがつづくほどにまでなっていたのだが。普通の人なら何でもないだろうが、持久力の無い彼には、90分の1レッスンでヘトヘトに疲れてしまい、これは、ちょっと無理だと諦めていたのである。しかも彼は、何かの集団に入るという事が、嫌いだった。それで、ネットで探してみると、スクールに入らなくても、一回、三千円で、好きな時に受けられるスポットレッスンというのをやっている所があったので、そこで、レッスンを受けることにした。そこは屋外コートだった。ので、雨が降ると出来ない。長くテニスをしていなかったが、数回、練習するうちにカンをとり戻した。今度は、技術よりも、体力強化が目的たった。90分という時間は、ちょうど良かった。終わる時には、全身、汗びっしょり、だった。プレーが終わった後に飲むスポーツドリンクは最高だった。プレーが終わって、図書館にもどってくると、心身ともに絶好調だった。ただ運動していなかったため不快な足の筋肉痛が、数日、続いた。心身は好調になるが、足の筋肉痛がつらい。だが、しかし、テニスは、彼の怠けていた心肺機能をも鍛えた。そもそも、一人きりでやる運動と違って面白い。こうして彼は、テニスを、始めるようになった。そこは車で20分の所だった。また、テニス自体が、面白くなっていった。一回のレッスンには必ず、何かの発見があった。そんなことで、彼はテニスを始めるようになった。ゴルフ場が隣接している清閑な所である。通う道には、果樹園があったり、田んぼがあったりして、図書館にばかりいる彼は、この行き帰りの風景に季節の安らぎを感じた。運転していて後ろ姿の女子高生を見ると、つい目が行ってしまうのだった。テニススクールに通うようになって、日が経つにつれ、だんだん足腰が強くなっていった。心臓も強くなり、体が丈夫になっていった。地獄の冬も難なく乗り越えられた。それまで彼にとって、冬は地獄の季節だった。アパートが断熱材が使ってなく、寒く、エアコンの暖房を入れても寒い。風邪をひくと、便秘症のため、こじらす事が多く、二週間以上も寝たままの日々が続くこともあった。腸が動かないため、食べられないし、吐き気さえ起こる。そういう時は心身まいって、熱がひくのを、一日中、布団の中で寝て待つしかなかった。
だが、その冬の12月になると、夏のような活気が起こらず、図書館で机に向かっていても、創作の筆は進まなくなった。腹痛も出てきた。
ある日ふと、彼は、ハワイに行ってみようと思い立った。それまで彼は一度も海外に行った事がなかった。遊びのため、海外に行きたいとも思わなかったからである。しかし一日、机に向かっていても一向に筆が進まない。これでは生きている時間が勿体ない。確かに図書館は暖房が効いているが、体が芯から暖かくはならない。なら、湿度が高くなく、気温が高い、この世の理想の常夏のハワイへ行ってみよう。そうすれば書けるかもしれない。一度くらいは外国にも行ってみよう。行ったら何か、小説のヒントが思いつくかもしれない。彼は思い立ったらすぐ衝動的に行動する性格があるので、彼は図書館を出て、駅の近くの旅行代理店に向かった。
旅行代理店の前には、パック旅行のチラシがたくさん並んであった。安い。ハワイ一週間、7万とある。

彼は、パック旅行に一度も行った事がないので、飛行機代と一週間のホテル宿泊費込みで、7万でハワイに行ける事が信じられないほどだった。彼は、店に入った。そして椅子に座った。受け付けの女性は広末涼子のような、きれいな人だった。
「あの。ハワイ行きたいんですけど・・・」
彼は彼女に言った。
「ご出発の日にちは、いつですか?」
広末涼子のような、きれいな女の受け付けの人が聞いた。
「今週中は、出来ますか?」
彼は思い立つと、すぐ行動する性格があるので、そう言った。
「パスポートは、持っていますか?」
広末涼子が聞いた。
「持っていません」
「パスポート取るのに10日、位かかります」
彼はパスポートについて全然、知らなかった。勿論、海外に行くには、パスポートが必要である、という事は知っていた。しかし、パスポートは、直ぐ取れるものだと思っていた。今は、十二月の中旬だから、となると、早くても年末ということになる。
「じゃあ、早くても年末になりますね」
彼は言った。
「ええ。でも年末、年始は、混みますから料金が高くなります」
そう言って彼女は、出発日と料金の書かれた表を出した。確かに、年末、年始の出発だと、同じ7日でも、20万以上と倍以上、値段が高くなる。それでは、とても行く気にはなれない。
「高いですね」
「ええ。出発日を、少しずらす事は出来ますか?」
「ええ。出来ます」
「では、6日の出発ですと、一週間7万というのが、一番早くて、あります」
「では、それでお願い致します」
こうして決まった。
「いくらでもいいですので、いくらか、前金を頂けないでしょうか?」
彼女は前金を求めた。
「どの位ですか?」
「3万円位、いただけないでしょうか?」
財布には5万あったので、彼は3万、渡した。
「病気になったり、万一の時の保険がありますが、それには入りますか?」
そう言って彼女は、その保険も見せたが、彼はそれには入らないことにした。保険料は一万近くかかり、そうやって、次々とオプションをつけていくと高くなってしまう。彼は7万できっちり、おさめたかった。
「あらかじめ円をドルに替えておいた方がいいと思いますが、空港でも出来ますが、どうしますか?」
「じゃあ、お願いします」
彼は心配性なので、万一、空港で、両替が出来ない事を心配して、あらかじめドルに替えておくことにした。
「いくら替えますか?」
「いくらくらいがいいでしょうか?」
彼は逆に聞き返した。
「そうですね。ディナーショーや、食事や、レジャーなどで、10万円くらい持って行った方がいいでしょう」
「じゃあ、10万、ドルに替えて下さい」
彼はレジャーを楽しむ気もないし、食事も、高級レストランではなく、安物で済ますつもりだったが、心配性のため、万一のため、10万、ドルに替えておくことにした。両替は別に金がかかるわけではない。ホテルは、オアフイーストホテルというワイキキビーチに近い所だった。彼女は、ホテルの地図や旅券、案内などを彼に渡した。
こうしてハワイに行く事が決まった。
彼は、急いで書店に入り、ハワイの旅行ガイドブックをニ、三冊買った。旅行用の英会話のガイドブックもあったが、パラパラッとめくってみたが、中学生程度の英会話で、ほとんど全部、知ってるので無駄なので買わなかった。彼は自転車で図書館に戻り、図書館でもハワイに関する本を持ってきた。どうせ行くなら、ハワイに関することは、あらかじめ調べ尽くしておきたかったからである。寒くて、腹も痛くて創作もはかどらない。彼はワイキキの町の道路とホテルを覚えた。色々なレジャーもあったが、それには興味がなかった。
翌日、彼はパスポートを取るために、戸籍謄本が必要なので、車で鎌倉の市役所に行った。本厚木のサティーに、パスポートを申請する所があるので、戸籍謄本を受け取ると、そのまま本厚木に向かった。パスポートは一週間くらいで出来るとのことだった。申し込みが終わると彼は家に戻った。ネットも使って、ハワイに関する情報を調べた。沖縄に以前、行った時も、行く前に沖縄を徹底的に調べてから行った。しかし、今度は外国である。言語がどうなっているのか、とか、チップはどうなってるのか、とかネット喫茶はあるのか、とかは、わからなかった。一番気になったのは、パソコンの電源である。電圧はそれぞれの国によって違い、ハワイは110ボルト、60Hzである。コンセントの差込口の二つの穴の長さが違う。ネットで検索すると、海外でパソコンを使うには、それぞれの国に合わせた変圧器が必要とあった。パソコンが使えなくては、ハワイに行く意味がない。遊ぶために行くのではなく、寒くて小説が書けないから、暖かいハワイならきっと書けるだろうと思って、そのために行くのである。彼は急いでパソコンショップに行った。海外対応変圧器というのが売ってあった。2千円少しである。コンセントの二つの差込口の長さが違うので、
「これでハワイでパソコン使えますか」
と店の人に聞いたが、使えると言ったので、信じることにした。
一週間して、パスポートが出来たので、本厚木に取りに行った。旅行代理店でも、10万円分のドルができていたので、受けとった。1ドル=約100円だから、1万ドルである。アメリカの札を見るのは、はじめてだった。これでもう準備が整った。
寒くて小説を書けないので、小説を読んだりハワイに関する本を読んだ。
そして働いたり、テニススクールに行って、テニスをしたりした。
数日して、咽喉に抵抗を感じるようになった。それが、だんだん悪化して、熱を出してしまった。急いで、かかりつけの医院に行った。インフルエンザだった。彼は秋にインフルエンザの予防接種を受けていたが、かかってしまったのである。風邪薬と解熱剤を出してもらい点滴を受けた。そして、家に帰って、布団に入って寝た。頭痛がして、だるく、咽喉が痛い。彼は頻繁にうがいをして、咽喉についているインフルエンザウイルスを早く追い出そうとした。だがなかなか、咽喉の痛みがとれない。そのため、何日も寝たままの生活がつづいた。一週間くらいして、ようやく熱が下がりだした。ちょうど、年末になっていた。大晦日の夜には、藤沢の白旗神社に行った。初詣に来ている人が何人もいた。除夜の鐘が聞こえ出した。神社では、甘酒と、味噌おでんを、ただで配っていた。これが美味く彼は三本、食べた。焚き火をしていて、木材がパチパチと音をたてながら激しく燃え盛り、真っ黒な空に金砂子を噴き上げていた。彼は、神社の階段を登り、
「今年も小説がたくさん書けますように」
と祈願した。そして車で家に戻って、また布団の中に入った。まだ、咽喉に軽い違和感があったため、熱がぶりかえさないように慎重を期したのである。熱を出したまま、ハワイへ行くのでは、何も出来ないから、ハワイへ行く意味がない。そのため正月は寝正月になった。

ハワイへの出発日の1月6日(水)になった。
夜、9時の出発だった。家から成田空港までは電車で2時間かかる。出発の1時間前には空港に着いているようにと、あったので、6時に出ればいい。だが彼はゆとりをもって、3時に家を出た。空港に着いたのは5時少し過ぎだった。彼は出発ロビーの前の椅子に座って、電光掲示板を眺めた。世界各国への飛行機が次々に出発していくのが、表示されている。長い時間、待った後、ようやく出発時間に近づいた。搭乗口が開くと彼は直ぐに入った。手荷物検査では、ハサミとペットボトルをとられた。また、しばし待って、ようやく飛行機へ乗る時間になった。ゲートから飛行機に乗るバスに乗り、飛行機に乗った。彼の席は右側の窓側だった。いよいよ飛行機が動き出した。飛行機は、滑走路の上をゆっくり動きながら、いよいよ離陸のため、加速度をつけて全速力で走り出した。彼は、飛行機が離陸する時の主翼がバサバサ揺れ、フワッと大空に舞い上がる感覚が好きだった。今回は、夜のせいもあって、離陸する瞬間はわからなかった。気づいたら離陸していた。真っ暗な空の中から、夜の町の電灯によって、下の町がまるでミニチュアの町のように見える。やがて飛行機は千葉県の九十九里浜を越えて、太平洋の上の雲の中へと入っていった。これから7時間の空の旅である。スチュワーデスは、日本語が話せない。しばしして、スチュワーデスが、ワゴンを押しながら、やってきた。
「ビーフ オー チキン?」
意味がわからなかった。隣の人が、
「機内食で、ビーフかチキンか、どっちがいいかって聞いているんですよ」
と教えてくれた。彼はチキンにした。便秘で腹が張って、食事はあまり食べないようにしようと思っていたのだが、機内食なるものは、はじめてなので食べることにした。蓋を開けると、いかにも美味そうだった。それで全部、食べた。彼は睡眠薬を飲まねば眠れないので、眠れないことは覚悟していた。やる事がないので、持ってきた、読みかけの文庫本を取り出して読んだ。体調が悪いので、なかなか読み進めない。彼は、文庫本を読んでは、真っ黒の窓の外の夜空を見た。彼は泳力に自信があったので、ハワイくらい泳いで行けるなどと思った。しかし、それは、飛行機の上から見下ろした穏やかに見える海だからであって、現実の太平洋の荒波を泳ぎ渡る事など不可能である。ただ太平洋のど真ん中で、泳いだら、どんなに気持ちが良くて痛快かと思った。機内の前方に、パネルがあって、今、日本とハワイの間のどの辺りを飛んでいるか、が表示されていた。考えてみれば、彼は国内線には何度か、乗った事があるが、1、2時間で着くが、今回は7時間である。トイレに行くため席を立ったら、かなりの客が寝ていた。文庫本を2、3冊持っていったが、もし持っていかなかったら、この単調さには、耐えられなかっただろう。本を読んでいても、退屈になってくる。長い夜中の真っ暗な空の中のフライトがつづいた。日本時間と現地時間とでは時差がある。彼は腕時計を取り出して、時間をハワイの現地時間に合わせた。ハワイには朝の8時に到着の予定である。彼は写真家がシャッターチャンスを待つように、真っ暗な夜が明けて、太陽が水平線の上に表れる瞬間を待った。6時頃である。周りが明るくなり出した。水平線の彼方に、小さなオレンジ色の発光体が見え、それは徐々に大きくなっていった。夜明けだった。感無量だった。飛行機は雲の上を飛んでいるので、太平洋の海は見えなかった。一面の雲は、まるで柔らかいベッドのようで、この上になら乗っても落ちないような気がした。ハワイに近くなってきたこの海はさぞやきれいだろうと思われた。スチュワーデスが、朝食を運んできた。わりと軽いものだった。飛行機は高度を下げていき、雲の中に入っていった。乗っかることが出来ると思っていた分厚い雲のベッドは、その中に入ってみると、やはり薄い水滴の集まりだった。飛行機はその薄い水滴を切って飛行した。高度が下がるにしたがって、青い海原が見え出した。感無量だった。島が見えた。おそらくニイハウ島かカウアイ島だろう。機内アナウンサーがあり、やがて飛行機はホノルル空港に着いた。曇り空である。着陸の音がして、飛行機が止まった時、はじめて外国に来たという実感が沸いた。税関を通り、旅行会社で指示された場所に行った。空を見上げると曇り空で少し残念だった。だが、温かい。まさに真夏である。旅行会社のバスに乗って、アロハタワーへ向かった。時間が惜しく、直ぐにホテルに行って荷物を預け、ワイキキビーチに行ってみたかった。ワイキキビーチの海水浴場を早く見たい衝動が強かった。だが、パック旅行の特典として、バス旅行、か、クルーザー乗船か、ダイヤモンドヘッドの早朝散策か、ワイキキ市内旅行の一つをただで出来ることになっていた。10時から、アロハタワーから、バスが出るという。なので、2時間待って、バス旅行をすることにした。行き先は、モルアナガーデンと、ドールプランテーションと、ハレイワである。つまりオワフ島を北西に向かうバス旅行である。モルアナガーデンは、傘のような変わった形の木がある公園で、合歓の木であるが、その木は日本のコマーシャルにも使ったことがあり、有名な木だった。ドールプランテーションは、パイナップルの観光所であり、ハレイワは、ハワイの北西の町で、サーフィンの町だった。これで、だいたいオワフ島の主要部は見れる。モルアナガーデンの、合歓の木は、確かに変わった形の木である。だが、たいして面白いとも思わなかった。次のドールプランテーションも。次のハレイワは、波が高くなることもあって、サーファー達がやってくる町だった。町といっても、道の両側に店が並んでいるだけである。男のバスガイトの説明によると、日系人で、かき氷の店を出したところ、これが売れて、今でも、その息子が店をやっている、とのことだった。また、ハレイワの町はサーファーが来るついでに出来た町である。サーフィンの場所は、ハレイワの町とは、少し離れている。サーファーのために、サーフ場へ直通する道をつくろうと役所が計画したところ、ハレイワの町は大反対した。直通道路が出来てしまうと、サーファーはサーフ場に車で直通して、ハレイワの町に寄らなくなる可能性を心配したのである。しかし、実際、直通道路が出来てもサーファーは、ハレイワの町に寄るので、心配は取り越し苦労におわった、とのことである。再びバスに乗って、ホノルルに向かった。ホノルルに着いたらホテルに荷物を預けてから、日が暮れる前に急いで今日中にワイキキビーチへ行こうと気持ちが焦った。ホノルルに着いたのは5時だった。地図を見ながら、オアフイーストホテルに向かった。まだ外は明るい。激安パック旅行のホテルだから、たいしたホテルではないだろうと思っていたが、結構いいホテルだった。部屋は7階だった。

彼は部屋に荷物を置くと、急いで、トランクス一枚で、半袖のジャケットを羽織り、サンダルでホテルを出た。ワイキキビーチを見たい気持ちが焦って、小走りに走った。地図通り、ワイキキビーチに面した高層のハイアットリージェンシーホテルの傍らを過ぎると、海沿いのカラカウア通りがあった。それを渡るともうワイキキビーチだった。5時半。まだ明るい。海水浴客はまだまだいる。はじめて見るワイキキビーチは感無量だった。ビキニの女もたくさんいる。しかし、彼は欧米人の女のビキニ姿には何も感じなかった。そもそも彼は欧米人に異性としての魅力を感じていなかった。顔にしても、日本人のような丸顔ではなく、細く狭まって、やたら鼻だけ高い。体が大きいため、尻の肉や太腿に過剰の肉がつきすぎている。乳房も、過ぎたるは及ばざるが如し、で、垂れるほど大きくなると美しくない。何でも大きければいいというものではない。戦闘機にしても、大きな物だと太って余分なものまでついてくるが、コンパクトに纏まったゼロ戦の方が美しい。それに彼女らは恥の概念がない。彼女らにとっては、見せることが、アピールすることが、価値観なのだろうが、恥じらいの気持ちが全くなくなった人には趣、もののあわれ、が無い。勿論、ハワイは観光地であり、開放的になるため、各国からやってくるのだが、それにしても、日本の女は、まだ恥じらいを持っている。このことは民族の精神構造と深く関わっている。アメリカは、男も女も互いに求め合うが、日本人は男も女も、心に秘めていても、なかなか言い出せない。夏目漱石の、「それから」にしても、向田邦子の、「あ・うん」にしても、そうである。葉隠れの恋愛観はにはこう書かれている。
「恋の至極は忍ぶ恋と見立て候。会いてからは恋の丈が低し。一生、忍んで思い死することこそ恋の本意なれ」
と説いている。なので、ワイキキビーチの女には幻滅した。ビーチも、海の色は青くてきれいだが、遠浅でかなり沖に出ても背が立つ。これでは泳ぐ面白さもない。彼はビーチ沿いの砂浜を東の端から西のシェラトンワイキキホテルの辺りまで歩いた。東には、ダイヤモンドヘッドが見える。ハワイ旅行のパンフレットの典型的な写真は、この位置あたりから撮ったものである。彼はホテルにもどった。急いでパソコンを取り出した。コンセントの差込口は片方が少し長く、これでパソコンが使えるだろうかと心配していたのだが、変圧器をつなげば、問題なくパソコンは使えた。ほっとした。彼がハワイへ行った目的は、寒い日本では小説が書けなくて、温かい所なら、書けるだろうと思って、それが一番の目的だった。これで一週間、時間を無駄にしないですむ。彼はさっそく小説のつづきを書いた。やはり、寒い日本と違って、筆がどんどん進んだ。腹の痛みも消えた。日本の夏は、やたら蒸し暑く、湿度が高いが、ハワイはカラッと暖かくて、住むには最高の場所である。もしハワイに住む事が出来たなら、彼はハワイに移住したいと思った。だが、仕事がない。それが彼がハワイに移住できない唯一の関所だった。町には結構、乞食もいた。温かくて、乞食にとっても住むには理想の場所だろう。彼はあることが気になって、筆を置いて、部屋を出た。それは、このホテルにプールがあるということである。もう夜の8時だったが、急いでフロントに下りてプールの場所へ行った。プールは、小さいが四角い、十分泳げるプールだった。水深も深い。幼い毛唐の男の子と女の子が、はしゃいでいた。ワイキキビーチ沿いの高級ホテルのプールは、レジャープールばかりで、芋洗いで、混んでいて、とても泳げるものではない。彼はさっそくプールに入って、泳いだ。プールは夜9時までだった。プールから上がると、彼はトランクスに半袖で、近くのコンビニに行った。金は極力、かけないつもりだった。ので食料は全てこのコンビニで買うことにした。食べ物を見てると、どれも美味そうに見えてくる。少し大きめのサンドイッチと、ジュースとパックに入った西瓜を買った。日本のサンドイッチは、パンの耳は切るが、ハワイのコンビニのサンドイッチは、パンの耳までついていた。ホテルに帰って食べた。サンドイッチが美味い。食べたら直ぐに、小説のつづきを書き出した。12時にベッドに横になって、睡眠薬を飲んだ。だが、今までの寒い日本の冬から、一気に真夏になってしまったため、体内時計がおかしくなったのか、2時に目が覚めた。横になっていても眠れる気配が感じられない。それで、また机に向かって小説を書いた。寒い日本と違って、スラスラと筆が進んだ。やはりハワイに来てよかったと、つくづく感じた。眠気が起こらないので、時間の経つのも忘れて書いた。窓の外がうっすらと明るくなり出した。夜明けだった。時計を見ると6時である。

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小説家の憂鬱 (エッセイ)(下)

2020-07-13 12:27:17 | 小説
7日(木)の2日目ハワイの朝である。
少し眠気が出てきたのでベッドに横になった。うとうとと眠気が起こり出した。ちょっと眠って目が覚めると10時30分だった。彼は、急いでホテルのプールに行った。小説を書きにハワイへ来たとはいえ、せっかくリゾート地に来たのだから、少しは楽しもうとの思いもあった。ホテルは高級ではないわりには、プールはいい。彼は泳ぐのが好きで、ここのホテルのプールが気に入ってしまった。一日、一時間は泳ごうと思った。プールでは、昨日の毛唐の子供が二人、はしゃいでいた。足も底につかないのに、溺れずに何とか足をバタバタさせて水に浮いている。彼はプールを休みなく何度も往復して泳いだ。温水プールで泳ぐのは、つまらないが、常夏のハワイのホテルのプールでは泳ぎがいがある。プールサイドには、日光浴をしている欧米人もいる。時計がないので、時間がわからない。気持ちがいいので、つい長く泳いでしまう。そろそろ一時間くらい経っただろうと思ってプールから上がった。ちょうど一時間だった。部屋にもどってシャワーを浴びて、ワイキキビーチに行った。ホテルからビーチまでは、5分と近かった。彼は一日、一度はワイキキビーチを見ることにした。しかし欧米人のビキニ姿には、魅力を感じなかった。しかし、一時間はワイキキビーチを見た。ハワイでは、雨も降るが、スコールといってパラパラの雨ですぐ止んでしまうので、傘も、ほとんど必要ないくらいだった。ビーチに人がいる間は、ビーチに居たかったが、体調がよく、小説が書けるので、一時間くらいでホテルに戻った。帰りがけに、コンビニに寄って、昨日、食べて、美味かった、耳つきの大きなサンドイッチとジュースを買った。そして机に向かって小説のつづきを書いた。夜の12時過ぎまで書いた。少し眠気が出てきたので1時に睡眠薬を飲んで、ベッドに横になった。だが、3時に起きてしまった。眠れそうもないので、机に向かって小説のつづきを書いた。しばらくすると、外が薄っすらと明るくなり出した。時計を見ると6時45分。4時間近く、書きつづけたことになる。

1月8日(金)。三日目のハワイである。
窓から、外を見ると、最寄りのABCストアー(コンビニ)が開いている。ハワイのコンビニは、日本のように24時間やっていない。夜1時に閉まって、朝6時に開く。ハワイにはホテルにも町にも自動販売機というのもがない。少し、疲れてきて、ベッドに横になった。いつしか、うとうととなって眠っていた。起きたのは、9時40分で、2時間40分、眠れた。プールに行って一時間、泳いだ。ハワイに来たのは、小説を書くためだったが、泳いで体力をつけ、体を焼いて体を丈夫にする目的もあった。そして、泳ぎ終わってからワイキキビーチに行った。大きなヨットがいつも、止まっている。ビーチの入り口には、サーフボードを貸す人が立っている。レンタル料はいくらなのか、希望者には教えて指導料も取るのだろう。彼には、そういう、ありきたりなレジャーは全く興味なかった。ハワイのガイドブックにも色々なレジャーが載っていた。スカイダイビング、セスナ機の操縦。などである。しかし、スカイダイビングは、安全のため、指導者に抱かれてダイブするのであり、セスナ機の操縦も、当然、パイロットが同乗して、パイロットの指導のもと、操縦させてくれるだけのものだった。彼は、そういう安全な誰にでも出来る事には興味がなかった。スリルがない。金もかなりかかるとなれば、なおさらである。彼は極力、金をかけない方針だったので、レジャーは何もしなかった。ただビーチは、タダだし、ビキニ姿の女を見れるので、海とビキニ姿の女が見れるワイキキビーチには、一日、一度は行った。帰りに、ワイキキビーチの前のマクドナルドに寄った。ストロベリーシェイクを注文した。日本のSサイズが、Mサイズ以上ほどもある。シェイクだけで腹一杯になってしまうほどである。周りの欧米人は、すさまじく太っている人が多い。体重100kgは、越しているだろう。彼がハワイへ来て驚いたのは、欧米人がこんな肥満体の人々ばかりだということだった。男も女も、まるで妊娠しているかのように、でっぷり太っている。余計な脂肪の塊を30kgくらい、腹の前に抱えているようなものである。みっともない。本人も生活に不便だろう。それでもダイエットしようとも見受けられない。ああまで悲惨な体型になってしまっても、何とも思っていないように見受けられる。一体、どういう精神構造なのか。きわめて鈍感、無感覚としか、思えない。日本の女は、痩せたい願望のない女は、いないといっていいほどである。痩せたいあまり、拒食症の患者も多い。ここらへんからも日本人と西洋人の精神の違いがわかる。つまり、日本人は、恥ずかしがり屋であり、劣等感が強く、ナルシストであり、美意識をもっている。が、西洋人は、おおらか過ぎて、恥じの概念が無く、鈍感で、美意識が無い。としか言いようがない。やはり日本人はデリケートな感性なのだ。マクドナルドを出て、ホテルに向かった。コンビニでサンドイッチとジュースを買ってホテルにもどった。机に向かって小説を書く。12時すぎまで書いて、睡眠薬を飲んで1時にベッドに横になった。だが眠れない。いつまでたっても眠れない。予想外に不眠症になってしまった。ハワイに来た日には、絶好調だったのだが、だんだん、こちらの生活に慣れてきて、しかしそれは、にわか順応のため、体調がかえって崩れだしのである。眠れないので、苦しく、何か気を紛らわそうとテレビをつけてみた。が、面白いものは無かった。眠れないので気を紛らわそうと外へ出て、少し夜中のホノルルの町を歩いた。ホテルにもどってベッドに横になると、いつしか、うとうとし出した。眠りが浅いため、嫌な夢を見る。一度、起きるが、また眠る。目が覚めた時には、夜がとっくに明けて日がさんさんと、さしていた。時計を見ると、12時45分だった。

1月9日(土)。4日目のハワイである。
目が覚めてから机に向かってねばったが、寝不足で小説が書けない。そのため、2時にホテルのプールに行った。ビーチサイドに黒いビキニ姿の日本人がいた。嬉しい。彼はプールに入って泳いだ。やはり日本人のビキニ姿が彼にとっては一番、魅力的だった。彼は彼女に得意の力泳を見せたくて、休みなく泳いだ。2時間、泳ぎつづけた。水泳もランニングと同じように、ある時間、泳いで、デッドポイントを越すと、もう疲れなくなる。プールから上がり、部屋にもどって、横になった。疲れのため眠れた。その日はワイキキビーチには行かなかった。ビーチをサンダルで長時間、歩きすぎたため、足の甲の皮が擦りむけて痛かったからである。ワイキキビーチにも魅力を感じてもいなかった。だんだんハワイでの体調が悪くなって、来た日には、ウソのように消えた過敏性腸症候群の腹痛も起こり出した。少し小説を書く。その夜も眠れなかった。12時を過ぎ、3時になっても、眠気が起きてこない。気を紛らわすため、文庫本を持って、ホテルのロビーの椅子に座って、読んでみた。だが、気分が悪く、頭が冴えないため、読み進められない。ワイキキビーチの前の24時間やっているマクドナルドへ行った。3時半で、朝マックのメニューである。ストロベリーシェイクを注文する。彼は、疲れてヘトヘトになった時は、即効性のブドウ糖補給のために、マクドナルドのシェイクを飲むことが多かった。文庫本を読んでみるが、頭が冴えないため、なかなか読み進めない。仕方なく、ホテルに戻って、ベッドに横になった。眠気が起こってくれて、眠る。だが7時に起きる。不眠の時は、眠れても、睡眠時間が2時間ていどで、短く、目覚めた時の不快感はとても鬱陶しい。

1月10日(日)。ハワイ5日目の朝である。
あすの朝、ホノルル空港を出発する。もう今日がハワイ最後の日である。ワイキキビーチを見ておこうと、ビーチに行く。一時間くらいビーチを歩く。そしてホテルにもどる。旅行会社がやっているトロリーバスという市内を走るオープンバスに、滞在中、ただで乗れたのだが、そんなものに乗っても、面白くなさそうで、また時間が勿体なく、彼は一度もトロリーバスに乗らなかった。彼にとって、人生は時間との戦いだった。同じ時間を過ごすのなら、一番、有意義なことをする。彼にとって、一番、有意義なことは小説を書くことだった。それに彼は、単に遊ぶことに虚しさを感じるのだった。遊ぶことの意味がわからなかった。これは子供の頃からで、彼にとって生まれつきのものだった。学生時代も、いかなる遊びも彼を魅さなかった。彼には、麻雀に嵩じている生徒の心理が、どうしても、わからなかった。勉強は新しい事を知れるので面白い。なぜ、こんな面白い事をやらないで、麻雀などという、同じことの繰り返しが面白いのか、彼にはわからなかった。ゲームセンターも競馬も競輪も、いかなるものも彼を魅さなかった。彼には、彼らは、人生を無駄に過ごしている人にしか見えなかった。ホテルにもどると、机に向かって小説のつづきを書いたが、途中で、一番いいストーリーの選択に迷って、それが、どうしても思いつかないので、気晴らしにホテルのプールに行った。ここのホテルのプールには、小さな円形の温かいジェットバスがついていた。毛唐の子供が二人、ジェットバスではしゃいでいた。そして嬉しいことに昨日とは別の日本人のビキニ姿の女の人がジェットバスにいた。彼女は一人でジェットバスにもたれていた。彼はプールに入って、泳いだ。しばしすると、彼女がプールに入ってきた。彼は黒いゴーグルをしていたため、平泳ぎで、水中の彼女の体を見た。水中から彼女のビキニ姿のしなやかな体が見える。セクシーである。目の保養になった。2時間くらい泳いで上がり、部屋にもどった。明日の朝、9時前にホテルを出なければならないので、荷物をまとめた。その後、少し机に向かって小説の続きを書いた。夜、11時30分に寝る。が、1時30分に目が覚める。横になっていても眠れないので、文庫本を持って、ワイキキピーチの前のマクドナルドに行く。3時である。朝マックを食べる。文庫本を読むが、頭が冴えず、なかなか読み進めない。のでホテルにもどる。ホテルのロビーで本を読むが、やはり読み進めない。

1月11日(月)。帰国の日である。
いよいよ、今日、帰国である。不眠のまま、朝を迎える。空港への送迎バスは、ホテルから三分くらいの近い所である。今日でハワイとお別れとなると、さびしくなってワイキキビーチに行った。ちょうど日の開けた6時である。不眠で疲れているので、砂浜に仰向けになって、日光浴をする。一時間くらいしてからホテルにもどる。バスに乗り遅れたら大変である。そのため、彼は昨夜、ホテルの時計のアラームとモーニングコールをセットしておいた。しかし、8時に旅行会社の人から、電話で連絡があり、8時30分には、旅行会社の人が部屋にやってきた。旅行会社の人も遅刻者を一人も出さないよう細心の注意を払っていた。8時40分にホテルをチェックアウトした。そして、8時45分にバス乗り場へ着いた。彼が一番だった。結局、ハワイでは、ホテルで小説ばかり書いていた。それと、一日、一時間のホテルのプールでの水泳と一時間のワイキキビーチ散歩だった。だが、彼は、それが目的だったので、目的を予想以上に達成できて嬉しかった。ハワイへ来てつくづく良かったと感じた。また、次の冬にも来ようかと思った。別にハワイでなくても温かい所ならいいのである。しかし、ハワイはカラッと晴れていて、蒸し暑くなく、過ごすには最高の場所である。沖縄も冬でも暖かいが、風が強く、雲の日が多く、また台風の銀座通りで、気圧の変動も激しく、ハワイほどには快適ではない。パック旅行の帰りの客達が、ゾロゾロとやってきた。9時に旅行会社のバスが来た。全員、そろっている事を旅行会社の人がチェックして、バスはホノルル空港へと発車した。

高速道路を通って10分くらいでホノルル空港へ着いた。飛行機は12時発である。直ぐに税関を通って、出発ゲートの前の椅子に座って飛行機を待った。出発まで2時間半ある。慣れない土地での旅の疲れがどっと出て、一時間ちょっと眠っていた。飛行機の席は窓側だった。ともかく、旅の間、熱が出たりせず無事に済んでほっとした。ましてや、小説を予想通り、かなりの分量、書けて旅行は成功だった。彼は今まで、過敏性腸症候群のため、外国旅行は色々と困難だろうと思っていた。だが今回の旅行で自信がついた。また、寒い冬は、ハワイか、どこかの暖かい国に、旅行に行こうと思った。帰りの飛行機は、さびしくもあり、旅行が無事おわって、ほっとした気分でもあった。7時間の空の旅で成田空港に着いたのは午後7時だった。税関を通った所に両替所があった。彼は財布の中のドル紙幣と硬貨を両替所に差し出した。6日間の旅行で、ほとんど金を使ってないので、7万円くらい、円にもどせた。ただ両替できるのは紙幣だけであり、硬貨は両替できなかった。彼は硬貨を使い慣れていなかったので、全て紙幣で買い物をした。そのため、おつりの硬貨がジャラジャラあった。しかし紙幣は最低が約100円の1ドル紙幣であり、硬貨は、一番、高いのでも約25円のクォーター硬貨であるため、硬貨は、かなりジャラジャラあったが、たいした金額にはならない。アメリカの硬貨は、日本のどこの銀行でも両替することが出来ない。そのため捨てるしかない。しかし、たいした金額ではない。旅行代理店の人も、その事を教えてくれてもよかったのに、と彼は思った。直通バスで帰ろうかとも思ったが、やはり成田エクスプレスで帰った。半袖で行ったので寒い。アパートに入ると一週間、使っていなかったせいか、部屋がものすごく寒い。エアコンの暖房をつけて、風呂を沸かした。風呂に入って、温まると、ほっとした。もう10時だったので、コンビニで夕食を買って、食べて寝た。彼の布団は万年床ではあるが、やはり、自分の布団の方が気が落ち着いた。その晩、彼はぐっすりと眠った。

こうして彼の平成22年は、ハワイ旅行から始まった。
翌日からは、また、朝8時30分に起きて、9時から図書館で、小説の続きを書いた。もうハワイで大部分を書いていたので、つづきを書くのは楽だった。3日くらい書いて完成させた。ワープロで小説を書くようになった、彼の小説の書き方は、こんな風だった。まず、大まかな筋を考えて書き始める。ある程度、書いた時点で、ストーリーに迷ったら、練習として、軽い気持ちで試しに続きを書いてみる。失敗したら、書き直せばいいや、という思いで書く。しかし、軽い気持ちで書いた、練習、が結局は話の続きになってしまうのである。練習、といえども頭を捻って筋を考えて書くので、練習、が結局は続きになってしまうのである。肩の力を抜いてダメ元で、書いてみると、かえって上手くいってしまうのである。そんな事の繰り返しで、書き進めて小説を完成させた。完成させて、はじめて全文を読み直してみる。つまり読者の立場になって読んでみるのである。しっくりしない言葉は直す。ストーリーを途中から、考え直したものでは、話、全体に矛盾がないよう、はじめの方を書き直したり、伏線をつけたりする。書いている時には、きちんとした文を書いているつもりでも、書き終わった後で読み返すと、しっくり合っていない言葉というのも、見つかるのである。もっと形容詞や地の文を入れてボリュームを増やしたい、とも思う。し、もっと話を続けることも出来ると思いながらも、それをやってしまうと、きりがなくなってしまう。彼は一つの作品を長々と書き続けるより、作品の数をもっともっと増やしたいので、残念に思いつつも、区切りのいい所で終わりにする。そしてホームページにアップする。もっと形容詞や地の文を入れてボリュームを増やしたり、続きを書くことは、いつかは出来るという思いもある。ホームページにアップすると、一仕事、終えたような気になり、ほっとする。だが、一度、ホームページに完成した作品としてアップしてしまうと、ボリュームを増やしたり、続きを書こうという意欲がなくなってしまうのである。どうしても書けないのである。やはり書いている途中では気分が乗っていて、続きを書くことも出来るのだが、完成させてホームページにアップしてしまうと、それは、もはや過去の完成した作品となり、気分の乗りも途切れてしまい、興が冷めてしまい、どうしても書けなくなってしまうのである。
ともかく彼は、12月から、書きあぐねていた小説を完成させホームページにアップした。1月21日である。さらに続けて、彼は新しい小説にとりかかった。一月も小寒を過ぎ、大寒も過ぎ、これから温かくなっていくと思うと、精神的に落ち着いた。書き始めた新しい小説も、順調に筆が進んでいった。
彼がいつも通っている図書館の隣には中学校があった。いつも威勢のいい掛け声を出して野球の練習をしている。ユニフォームもきちんと揃っている上に、ピッチングマシンまである。それは野球だけではなく、軟式テニスでも、陸上競技のマットもである。金があるのだろう。というより、これが普通の中学校なのである。彼の中学は、私立で、入学者は一クラスで約40人しかなかった。しかも、豊富な部活も無く、部活は、サッカー部、バスケットボール部、テニス部の三つだけだった。創立者は我の強い性格で、野球は、チームワークのスポーツではないため、皆で協力することが大切である、という学校の教育方針に反しているという理由でつくらなかった。確かにサッカーやバスケットボールは、絶えず、皆が動いていて、プレー中は、いつでも全員、協力している、とはいえる。その点、野球は、ピッチャーとバッターの対決のように見える。勿論、ランナーが塁に出ていれば、ピッチャーは、ランナーの盗塁にそなえて、プレーは、連続してはいるが。やはり、ランナーがいない時や、いてもそうであるが、野球は、ピッチャーとバッターの勝負という個人プレーと見える。しかし野球も団体競技で、チームワークが大切なスポーツであることは、野球を知っている人なら誰だって知っている。創立者は、そもそも野球やスポーツにどのくらい関心があり、知っていたのかは、わからないが、スポーツに関しては素人で、野球も見た目で、協力し合うスポーツではない、と、おそらく思ったのだろう。入学者が少なく、月謝を上げても、経営が苦しく、部活にも、何でも、十分な予算を出せないのである。そういう彼の母校に比べると、普通の中学校の生徒は、活き活きとして見えた。若さがあり、青春の汗がある。清々しい姿に見えた。だが中学生の実態を知っているわけではないので、実際の彼らがどうなのかは知らない。教室に入り、また家に帰っても、全科目の詰め込み勉強である。大人は学生をスネカジリなどと言うが、彼は、全くそうは思っておらず、むしろ、毎日、勉強している彼らを尊敬さえしていた。社会人になって自立すれば、人間として一人前と大人は思っているのだろうが、ほとんどの仕事は、慣れてしまえば、あとは惰性であり、毎日、同じことの繰り返しであり、仕事が終われば、ズルズルしていられる社会人の方が、生活費を働き出しているだけで、だらけているようにしか見えなかった。なので彼は、一意専心、勉強に、運動に、励んでいる中学生を見ると、自分も、気を入れて真剣に生きなくてはならないと、創作のファイトが起こるのだった。

1月が過ぎ、2月になった。テニススクールは、今までやってた所はやめて、アパートに一番近い所にすることにした。理由は。今まで通っていた所は、スクールに入会しなくても1レッスン=3000円で、好きな時に受けれたからである。
拘束されることの嫌いな彼には、その点が良かったのである。
だが、レッスンはボレーの練習ばかりで、ストロークが少なく、彼はそれを不満に思っていたのである。テニスの気持ちよさはグランドストロークの打ち合いである。しかも屋外コートなので、雨が降れば出来なくなり、風が強いと、ボールが風に流されてしまう。そんな事も不満だった。しかし、新しいスクールは、屋内であり、どしゃ降りの雨が降っていても出来る。強風があっても、その影響を受けない。しかも、グランドストロークの打ち合いが多い。御意見箱というのが置いてあって、おそらくグランドストロークの打ち合いを、もっと増やして欲しいと、多くの生徒が書いて入れたのだろう。車で5分と近い。それで彼は、図書館で小説を書き続けて、ストーリーに難渋すると気分転換に80分のレッスンを受けて、また図書館にもどって、続きを書くようになった。彼が運動するのは、楽しみのためもあるが、それ以上に、足腰を鍛え、冷え性、便秘症を改善し、持久力をつける健康維持の目的の方が強かった。ランニングが出来ればよかったのだが、彼は腸が引き攣っていて、走っていると、脇腹が痛くなってくる。市民体育館のマシントレーニングは、ハードな上、単調でつまらない。短時間で手軽に出来て、体を鍛えられるとなるとテニスくらいしかなかった。そして実際、テニスで汗を流すと、足腰が強くなり、持久力もついて、足が軽くなり、歩いたり、階段を登ったりするのが、億劫でなくなるのである。駅でも、エスカレーターでなく、階段を登っても息切れしなくなるのである。こんなことなら、もっと早くから運動の習慣をつけとけば、良かったと彼は思った。今まで彼は、運動する時間も創作のために惜しんでいたのだが、心身ともに健康でなければ、創作もはかどらない。
2月の中旬になり、確定申告がはじまったので、源泉徴収票を持って税務署に行った。彼は、時間が惜しいため、あまり働かないので、年収は少ない。金より時間が大切だからである。そのため、税金が30万くらい、もどってきた。
2月に車の車検がきれるので、ディーラーに行って、車検にかかる費用を見積もってもらった。
彼は、6年前に、この車を激安中古車店で、30万円で買った。車体に大きな傷があるが、彼には、そんな事はどうでもいい事だった。大きな傷があるため、それで安くなっていて、性能には問題がなかった。それで、最低の金額で、車検を通し、今まで6年間、乗ってきたのである。車検は、12万円くらいだった。表示価格12万の激安中古車に買い換える事は面倒くさくてしなかった。表示価格12万といっても、諸経費が10万円くらいかかり、22万円になる。表示価格12万の激安車は、買った時は問題なく走れるが、何か車に欠陥がある可能性があり、乗ってしばらくすると、部品を交換しなくてはならなくなって、結局、高くなってしまう事があるからだ。彼はそれを怖れた。車検は今回も12万くらいだった。

2月が過ぎて3月になった。
温かくなっていくのはいいが、この時期になると、杉花粉が飛び始める。アレルギー体質の彼には、毎年、それが悩みの種だった。彼の花粉症は、すさまじく、くしゃみ、鼻水、鼻づまり、が一時も止まらず、小説を書くどころか、何も出来なくなくなる。だが幸い、今年は、気象庁の天気予報で、杉花粉が少ないと予想され、また、実際、花粉の飛散量が少なかった。そのため、花粉症に悩まされることが無くすんだ。もっとも、アレルギー疾患は、色々な要素が関係していて、体が丈夫だと、アレルゲンに晒されても症状が出ないこともあるのである。運動するようになって、体が丈夫になったため、鼻炎の症状が出なくなった可能性もある。

彼の通っている図書館には、パソコン専用の座席が10席あった。コンセントの差込口があり、しかもブースで区切られているので、集中するには良かった。エアコンもだいたい適温で調子がいい。しかし、この10席はすぐにうまってしまうので、彼は朝8時30分に起きて、図書館が開く9時前に、図書館の前で待っていた。他に、パソコンが使える図書館は、車で30分くらいの所にあったが、パソコンが使えるのは2席で、しかもブースの区切りも無い。さらに空調も悪く、蒸し暑い。以前、パソコンではなく、鉛筆で小説を書いていた時は、この図書館も利用することもあったのだが、パソコンで小説を書くようになると、この図書館には行かなくなった。遅く起きて、パソコンを使える10席がうまってしまうと、小説が書けない。それで、パソコンを使える、図書館を以前から、探していたのだが、なかなか、いい図書館はなかった。車を止める駐車代も、勿体ない。月に2日、図書館には休館日があった。
ある日、彼が図書館に行くと、その日は休館日で、閉まっていた。

彼は隣の市の中央市民図書館に行ってみた。車で30分くらいだった。そこの図書館は、パソコンを使える席がたくさんあった。しかし空調は悪い。しかし夜、8時までやっている。しかも、田舎のため、駐車代も一日600円と安い。さらには、図書館の隣にレンタルビデオ店があって、その駐車場がある。田舎のため、駐車しても文句は言われなさそうである。彼は、いい図書館を見つけたことに喜んだ。彼は、家の近くの図書館で、パソコン席がうまってしまった時には、その図書館に行くようになった。

小説は順調に進んだ。彼は、小説を書く時、二作、同時に書くこともあった。一作を書いていて、ストーリーに行きづまったら、もう一作の方を書くのである。ストーリーに行き詰まった時、ウンウン頭を捻っていると、疲れてしまう。そういう時は、ある時間、休んでみて、そして、あらためて創作を再開すると、いいストーリーが、いとも簡単に思いつく事が多いのである。だから、小説をたくさん書こうと思うなら、二作、同時に書いた方が、精神的に疲れないのである。しかし、一作、書いていて気分が乗ってくると、どうしても、その作品だけに集中してしまうこともある。しかし一作だけしか書いてない時は、疲れる時もある。今回は彼は一作しか、書いていなかった。なので、ストーリーに迷うと、疲れた。ストーリーに迷った時は、机に向かってワープロをじっと眺めていても、余計、疲れてしまう。そういう時は、頭を切り替えることが必要である。彼は、ストーリーに迷うと、席を離れ、図書館のロビーで、ジュースを飲んで一休みした。そうして書き進めているうちに、どんどん興が乗ってきた。これもエロティックな小説である。彼は最高なエロティックさを表現しようと意気込んだ。書いている内に彼も興奮してきた。書きながら自分の作品に興奮するというのも、おかしな話だが、そういう事はあるのである。人は誰でも、自分にとって最も興奮する性欲の状況というものがある。エッチな話なら何でも興奮するというものではない。書くということは、自分が最も興奮するシチュエーションを作ろうとするのだから、それに興奮するということは、十分、あり得ることなのである。

図書館で書いていて、あまりに興奮が嵩じてくると、精液がたまってきて、息が荒くなり、心臓がドキドキしてきて、居ても立ってもいられなくなる。そうなると、もう小説創作どころではなくなってしまう。そんな時、彼は、アパートにもどって、自慰して、激しく高まった興奮を落ち着かせることもあった。しかしエロティクな小説の創作の原動力は、他ならぬ性欲である。精液を出してしまうと、また精液が溜るまで、待たねばならない。それで、精液を出してしまった日は、書けなくなる。しかし、一日も経って、また書き始めると、だんだん興奮してきて精液が溜ってくる。エロティックな小説を書くということは、性欲を創り出すということでもある。溜った性欲のはけ口としてエロティックな作品を書く、というのが一般に言われることであるが、その逆もあり得るのである。つまり、エロティックな作品を書いているうちに性欲が高まるということもあるのである。

小説は、原稿用紙150枚を越え、そろそろラストにしようと思った。もっと長くしようと思えば、出来たが、書き出してから、もう二ヶ月近くになる。もっと、新しい他の作品を書きたくて、そろそろ終わりにしようと思った。ラストに少し手こずりながら、満足のいくように書き上げた。最高に嬉しかった。全文を読み直し、しっくりしない所を書き直し、完成させた。そして、3月半ばにホームページにアップした。ホームページにアップした時が最高の快感である。これは、長いし、いい出来だと思ったので、どこかの出版社に投稿しようかとも思った。
小説を完成させた時は、最高の快感だった。だが、予想もしない事が起こったのである。彼は気分一新して、新しい小説を書こうと思った。だが書けないのである。その理由は彼もわかっていた。それは。彼は、エロティックな小説は、もう十分、書いて、いささか満足してきたのである。それと。勿論、いくつかの構想もあったが、ストーリーは今まで、書いてきた、パターンと違う斬新なものに、したかったが、それがどうしても思いつかないのである。作家は皆、そう思っているのではないだろうか。それは作家の、脱皮して飛躍したいという気持ちである。彼はエロティックな小説を書くことには、何の劣等感も感じていなかった。むしろ、こういう作品が書けるのは自分だけ、という自慢さえ持っていた。しかしストーリーは、今まで書いてきたのとは違う斬新なものにしたかった。しかし、それがどうしても思いつかないのである。
彼は、原稿用紙100枚、前後の小説を年間10作は書くつもりでいた。そうでないと作品の数が少なくなってしまう。一年で10作なら、5年で50作である。それも、予定通り上手くいけば、のはなしである。これはプロ作家に比べると明らかに少ない。彼はプロ作家には、作品の数では嫉妬していた。プロ作家では、月、5百枚、書く人もいる。月、5百枚となると、月に300ページの長編小説の本、一冊、書けることになる。作家の筆の速さは人によって違うが、一日、80枚、書く人もいる。一週間で、長編一冊、書き上げてしまう人もいる。(最もこれは例外的に速い人の場合だが)それに比べると彼はあまりに遅筆だった。プロ作家は、週刊誌に連載小説を何本ももっている。そして、締め切りには間に合わせなくてはならない。そういうプレッシャーがあるから、脳からノルアドレナリンが大量に分泌され、質を落さずに、作品をたくさん書くことが出来るのであろう。しかも、取材し、込み入ったストーリーを考えなくては、ならない。彼は図書館で、一人の作家のズラーと並んだ文学全集を見ると、嫉妬も感じたが、超人に見えてくるのだった。自分は、一生、創作一筋に打ち込んでも、こんなにたくさん書くことは出来ない。絶対、無理である。彼は、根性、を信念としていたが、やはり、どう考えても物理的に無理である。これは、やはりプロ作家は、締め切りがあって、緊張した精神状態にあるから、書けるのだとしか思えなかった。しかし多作のプロ作家の全集を見ると、創作のファイトが沸く。

彼は二ヶ月かけて、160枚の小説を書き上げた後、さて、新しい作品を書こうと思って、机に向かったのだが、書けないのである。どうしても、今までと違う斬新なストーリーが思いつかないのである。季節は、3月下旬で、暖かくなっていくので、体調も良くなり、書けるだろうと思っていたのだが、書けない。やはり、それは、彼には、実生活というものがなく、頭を捻って空想だけで、ストーリーを考え出してきたからだろう。その限界に達したのである。彼は焦った。作家は、誰でも、自分の好きで得意なジャンルというものがある。そして基本的には、自分の好きで得意なジャンルの作品しか、書けない。自分の気質に合わないものを書く気は起こらないのである。しかしストーリーは、新しいものに変えていく。そうでなければ、書く面白さがないからである。読者にしてもストーリーがマンネリ化していくと、厭きられてもくる。谷崎潤一郎も、デビューした時は、自分の表現したいエロティックな衝動を、設定を変え、ストーリーを変え、筆の向くまま、書きまくっていった。それらはエロティックであっても、立派な純文学作品である。というより谷崎潤一郎が表現したかったのは、谷崎の生まれつきの気質である、女性崇拝のマゾヒズムである。はじめのうちは谷崎も意気揚々と、斬新なストーリーの作品を矢継ぎ早に書きまくって、発表していった。しかし、だんだん、ストーリーに行き詰まりだした。マンネリ化しだして、作品の質も、デビュー当時のものに比べると、はるかに落ちていった。ついに谷崎は、「金色の死」という作品で、ストーリーが行き詰ったことを、告白した小説まで書き出した。彼にも、そのスランプが起こり出したのである。彼は、それまで、実にたくさんの文学作品を読んでいた。それは小説を書くための勉強として、読んだのである。好きな作品、自分にも書けそうな作品、は何回も精読した。それは将来、創作に行き詰った時のために、その作品を手本として、小説を書いてみようというストック、スランプになった時のための準備でもあった。だが読むのと書くのとでは大違いだった。読んでいると、案外、簡単に手本の小説に似たような作品が書けるような気がするのである。しかし、実際に、書こうとすると、書けないのである。彼は何もエロティックな作品だけを書きたいと思っているわけではない。ストーリーのしっかりした面白い作品を書ければ、それで全く不満はないのである。たとえば、女が一人も出てこない野球小説でも、それを書ければ、それで満足なのである。だが彼は、今までエロティックな小説ばかり書いてきたため、どう書いていいかわからない。確かに、書こうと思えば、野球のシーンを書くことは出来るだろう。しかし小説とは、しっかりしたストーリーがある、面白いお話でなくてはならない。彼は、途中で、ストーリーに行き詰って、作品が失敗することを何より恐れた。実際、彼は今まで、途中でストーリーが思いつかなくなって、失敗した作品も少ならからずあった。遅筆の彼にとって、人生は時間との戦いであった。

また作家は、小説のストーリーが思いついても、今まで書いてきた作品より、明らかにレベルが落ちるとわかる作品はどうしても書く気が起きないのである。また何か、今までの作品とは違うものでなくては創作意欲は起こらない。今までとは違う作品を作り続けるという点で、作家は、やはり、「作る人」である。
彼は、図書館で毎日、ウンウン頭を酷使して、新しい小説のストーリーを考えた。だが、どうしても思いつかない。彼は、何か書いていれば、満足なのである。逆に、書けなくなったら死に等しい。彼は、ホームページに発表した小説のうち、どれかの作品で、もっとストーリーをつづけてみようかとも思った。だが、気を入れて、しっかりラストをつけてしまって完成させ、ホームページに発表してしまった作品は、どうしても続きを書くことが出来なかった。創作は、書いている時は、気分が乗っていて、作者は生き生きしているのだが、一旦、その流れが途切れてしまうと、どうしても書けなくなってしまう。彼は、後悔した。こんなことなら、完成を焦らず、もっと書き続けて、もっともっと長編にすれば、よかったと後悔した。だがもう遅い。はじめは、焦燥感が強かったが、書けない日が何日か続くうちに、だんだん精神が疲弊してきた。ちょうど白蟻が一刻一刻と家を蝕んでいくように、無駄に過ごしている一刻一刻の時間が人生を蝕んでいくのが、彼には耐えられなかった。

さらに悪いことが起きた。彼は常勤での病院勤務医をやめてから、ネットの医者の紹介業者を通して、アルバイトで働いていた。今は医者の斡旋業者が無数にある。病院や医院の代診の募集がネットに乗り、それに応募して、仕事するという形である。要するに、派遣労働の医者である。しかし、組織に所属することの嫌いな彼には、その方が気が楽でよかった。しかし、厚生省のある医者いじめの方針によって、あるアルバイトの仕事が出来なくなってしまったのである。彼は、働くのは、嫌いではなかった。毎日、一人きりで机に向かっている彼にとって、労働は人との、社会との、つながりであった。また働くことは精神に気合が入る効果があった。働くのは嫌だが、働くと気持ちが充実する、というのは誰でも感じていることだろう。しかし、仕事が厚生省の医者いじめによって、出来なくなってしまったのである。彼は精神病院の勤務医をした経験しかなかったので、出来る仕事は限られていた。法的には医師免許を持っていれば何科をすることも出来る。しかし、開腹手術をやったことがなければ、外科の当直は、募集があっても出来ない。そして、日本の医学界は封建的であり、ある科の技術や知識を身につけるためには、大学の医局の教授にお願い申して、医局に入って、薄給で徒弟的に先輩医師から、教わるしか方法がないのである。医局の拘束性は強く、自分の時間がほとんど無くなってしまう。これでは小説を書く時間がなくなってしまう。そのため彼は医局に入る気はなかった。こうして仕事もなくなり、収入も無くなってしまった。収入が無い不安も彼を悩ませた。図書館に行って、机に向かっていても、いいアイデアが生まれない。彼は小説が書けない時は、本を読むようにしていた。そのため、時間を無駄にしないようにと本を読んだ。しかし気分が落ち込んでいるので、なかなか読み進められない。単調で、はりの無い生活のため、体調も悪くなっていった。
3月が過ぎ4月になった。だが、心身の不調はさらに悪化していった。不眠になり、睡眠薬を飲んでも寝つけなくなりだした。4月は何も出来なかった。

5月になった。だが、彼は家に閉じこもりの毎日だった。うつ病で、夜中一睡も出来なくなり、昼間は、眠気で頭がボーとして、冴えずアイデアも沸かず、意欲も起こらなくなった。書けなくなった作家は死に等しい。彼はいつか、うつ病が良くなってくれることを期待した。しかし、待てども待てども、一向に良くなる兆しは見えない。本を読む気力も起こらない。もう、彼は、開きなおって、創作は一時中止して、休むことにした。そもそも、うつ病患者に対してすべきアドバイスとは、いったん現実の悩みを意識して忘れてみることなのである。うつ病患者は、真面目な性格のため悩み事を何とか解決しようと絶えず考えており、しかし、解決策はないから、いたずらに頭を酷使して疲労させているのである。いわば、自分で病気の悪循環をつくってしまっているのである。だから、うつ病になった時には、ひとます現実の悩みを忘れてしまう、ということを勧めるのである。なので、彼は自分にもそれをした。
開き直ってしばらくすると、心の重荷がとれて、精神の苦痛がなくなってきた。毎日、昼も夜も、寝巻きのまま、布団に入って寝ながらテレビを見る毎日になった。彼は子供の頃から、絶えず何かに、打ち込んで生きてきて、何もしないで怠けるという生活には苦痛と罪悪感を感じるのだった。ある日、所用があって、関内に行った。帰りに伊勢崎町に寄ってみた。伊勢崎町に行くのは久しぶりだった。横浜中央図書館に行ってみようと、京浜急行の黄金町の方へ向かって歩いた。何と伊勢崎町の商店や貸しビルで、閉店している店が、かなりあった。ここの街も何かの理由で不況になっているのだろう。中央図書館の方へ曲がると、何とストリップ劇場が出来ていた。彼は今までストリップショーというものを見たことがない。そのため、どんなものなのか、わからない。それで、一度は見ておこうと入ってみた。また、小説のヒントにもなるかもしれない。とも思った。5千円で時間の制限はない。踊り子が5人いて、音楽に合わせて、踊りながら脱いでいく。最後には全裸になりアソコまで全部、見せる。だが彼は幻滅した。音楽がガンガン鳴っていてうるさい。そこにあるのは単に、踊り子の開放感とショーのスターとしての満足感だけである。そこにはエロティシズムは全くない。そもそも、男は解放しきった女にエロティシズムを感じないのである。そこにあるのは単に物理的な女の裸体だけである。エロティシズムとは、逆説的なもので、女が隠そうとすると男は見たいと思い、女が見せたいと思うと興が冷めて見たくなくなってしまうのである。男は、女の、裸を見られることを恥らう精神や仕草にエロティシズムを感じるのである。せっかく5千円、払ったので、三時間くらい見てから、劇場を出た。かえって女に幻滅してしまって、不快な気分になった。

七月になった。だが、あいかわらず、うつ病の毎日である。やるべき事をやらないで単に遊ぶということに、彼は罪悪感を感じるのだが、何もしない毎日というのは耐えられず、土曜か日曜には、大磯ロングビーチに行った。彼は夏の女の解放的なビキニ姿が好きだった。もちろん、泳ぐのも好きである。夏にビキニ姿の女を見ないというのは勿体ない。わざわざ混む土日に行くのは、客がたくさん来るからである。だがビキニ姿の女を見ても性欲は起こらなかった。小説が書けないと自分の存在価値がないように思うからである。大磯ロングビーチでは、日曜日に、コミュニケーションパフォーマンスというアトラクションがあった。四人の女が、チアリーダーのような格好で、子供とゲームをやるのである。その中で、ユッチンというかわいい、きれいな女性がいた。彼女は非常に明るい天真爛漫な面白い女性だった。彼はユッチンを好きになってしまった。

八月になった。今年は記録的な猛暑の連続で37度を越す猛暑日がつづいた。寝苦しくて、夜は一睡も出来ない。毎日、寝てテレビを見ているだけの毎日となった。そのため、久しぶりに高校野球をほとんど毎日、見ることになった。
九月になった。だが、今年は、九月になっても猛暑日がつづいて、うつ病はつづいた。それでも、九月も半ばを過ぎると暑さが和らいできた。それでテニスをするようになった。彼は胃腸病のため、夏はとてもテニスは出来ないが、暑くなければテニスが出来るのである。
十月になった。
だんだん体調が良くなってきた。奥歯の付け根が腫れてきたので、歯医者に行った。神経をとった歯なので痛みはない。しかし、歯槽骨に黴菌が入ってしまっているので、歯科治療をすることになった。彼は歯科治療が、勿論、すべての人と同じように嫌いだった。だが、歯科治療にも楽しみがあった。それは歯科助手のきれいな女の人に、やさしく歯を掃除してもらえるのが気持ちよかったのである。歯科治療を受けた時に、パッと小説のインスピレーションが閃いた。一瞬で、全てのストーリーが思いついた。その喜びといったら、いいようがない。ストーリーが思いつけば、あとはもう、こっちのものである。ストーリーが頭にあれば描く自信はある。それで彼は、虫歯をヒントにして、小説を書き出した。体調も良くなってきて、他にも、小説を書き始めた。10月26日に、小説が完成した。タイトルは、「虫歯物語」とした。ホームページに出してしまう危険は、十分知っていたが、これは長く書き続けられる性質の小説ではない。それに、意欲が出てきて他の小説も、書いている。それで、10月26日に、「虫歯物語」というタイトルでホームページにアップした。ここに至って、やっと、うつ病が治り始めた。夜、眠れるようになり、頭も冴え、意欲も出てきた。彼は、また図書館に通うようになった。小説は順調に進んだ。今も書いている。さて、これからどうなることか。今年もあと、一月半である。と現在までを書いて、彼はひとまず筆を置くこととした。



平成22年11月15日(月)擱筆

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団地の思い出・他8編 (エッセイ)

2020-07-13 11:47:50 | 小説
団地の思い出

 小学四年の時のことを書いておこう。私はその一年を東京に程近いところにある公団住宅で過ごし、団地の中の小学校に通った。私は小学校を四回も転校したが、この団地こそ、私が物心ついてから、小学二年の一学期まで過ごした、ふるさとである。二年の二学期から三年の終わりまで、ある理由で親から離れて、ある施設で過ごし、四年から再び団地に戻ってきたのである。新学年の当日から、みんなガヤガヤさわいでいた。私はこういう無秩序な無政府状態が一番ニガ手なので、「はやく先生が来て静かになってくれないかな」とばかり思っていた。担任となる先生は、新しくこの学校に赴任してきた先生らしく、どんな先生だろう、優しい先生だといいな、と思った。
教師が来た。女の先生だった。私は先生を見るや、ほっとすると同時に、何か、先生が男でなく、女であることがうれしかった。そもそも教師というものは、きびしいものであって男にふさわしい職業と考えていたので、(知性においても腕力においても)女の教師というのは、それだけで単純でない、複雑な感情を起こさせる。ちょっとでもスキあれば、いじめてやろうというような。平均的な容姿はかえって親しみを増した。特に優しくもなく、キビしくもなく、くもりのない良識的な性格は、うれしくもあり、少し寂しくもあった。なぜ小学校の教師を選んだのか、とても興味があって知りたかったが、もちろんそんな失礼なことを聞くことなど出来ない。先生が女であることのうれしさは、授業が女の透き通った、やさしい音色で聞けることの喜びだった。女というものは存在しているだけで人の心をなごませる花のようなものなのだ。先生としては、生徒はよけいな事など考えずに、学科の勉強に励めばよく、自分の存在は、むしろ無にしようとする。が、生徒としては、よけいな事の方に関心が向く。彼女は、こだわりのない良識的な性格だった。肉づきのいいことが、自分を小四の生徒に、性愛の対象にしている、などとは思わなかっただろう。こだわりのない性格とあいまって、彼女はよくジャージで教壇に立つことがあった。本人はその方がリラックスできるからだろうが、肉体の起伏がジャージに貼りついて、水着のようにあらわになって、一部の生徒を悩ましているとも知らずに。
生きることに少しのギモンも感じず、生徒はおとなしく素直に勉学に励み、彼女が規定しているところの立派な大人に指導することが、彼女が自分の役割と信じて疑わない、澄んだ単純さ、が彼女の魅力だった。女の魅力とは、物事を複雑に考えない平明さにある。単純な性格の人は人の心を複雑にする。
こっちは彼女を女とみているから、あの胸の中に抱かれて、優しい愛撫をうけたいと思ったり、こっそり着替えを覗きたいと思ったり、逆にそんなことを実行して鬼のように叱られたいと思ったりした。
 (詩)
ある時の国語の時間の時、詩を書く課題を出した。テーマは自由だった。が、私は大変困惑した。私は詩というものがチンプンカンプンだった。散文はわかっても、韻文の詩はさっぱりわからない。子供ながらに学問には敬意を払っていたので、文学として認められた詩人や、その詩には芸術的価値があるんだろうとは信じていた。しかし、私はそれまで詩と言うものを読んで感動はおろか理解出来たものさえ一つも無かった。また、詩というものを書いてみたいという欲求など全くなかった。詩という、分けの分からないものは受け付けられなかった。そんな生徒に、詩をつくれなどというのは無理難題である。詩というからには詩らしいものでなくてはならない。詩というものは、末尾の言葉を反復し、分けの分からないものだった。分けのわかるものは詩ではないと思った。分けの分からないものなど創りようが無い。ので、大変困った。詩は絵で言うならピカソの絵のようなシュールレアリズムな物のように見えた。他の人を見るに、自分に理解できないものでも、それらしいものを雰囲気で創ってしまえる。しかし私にはあらゆる事において、そのような恥知らずなことは私の心にこびりついている良心から絶対できなかった。詩というものは鑑賞力のない者にとっては何か分けの分からない気取った気障な言葉の羅列に見えてしまう。が、鑑賞力のある人間から見れば一字一句たりとも取り替えることのできない、言葉を組み合わせて造られた高等芸術なのだろう。分からないだけにその神秘性から、小説や随筆などの散文の言語芸術より、もっと高尚なものなのだろうと思った。道は二つに一つしかない。自分の良心に妥協して、詩らしいものを書くか、己の良心に忠実に、「私には詩はつくれません」と書いて白紙答案を出すか。である。しかし白紙答案を出す勇気も持てなかった。みんなそれぞれ何か書いている雰囲気なのに自分だけ何も書かなかったら気まずいし、みんな書いているのに私一人だけ書いてなかったら、後で呼び出されて、「どうして何も書かないの。」と注意されるのでは、とも思った。それほど私は気が小さかった。結局、何も書かないまま提出した。後で呼び出されて注意されるかもしれないことは覚悟していた。結局私はしかられることより、自分の良心に偽らないことの方をとった。教卓にみなの答案が集められると、先生は一通りざっと目を通した。
この後、信じがたい事態が起こった。
先生は、和やかな口調で、
「とてもいい答案があります。書いた人の名前は言いませんが、これから読みますからよく聞いていて下さい。題は、ふくろう、という題です。」
と言って滔々と読み始めた。優れた詩才の持ち主を自分のクラスの生徒の中に見出した喜びと、みなに詩とはこういうものだということを伝えて発奮させたいという思い。の他に、半ば詩に感動して我を忘れて、気分は言葉に感情を込めて無心に謳い上げる一人の詩の朗読者に高揚していた。先生の朗読だけが滔々と流れている静かな教室の中で突然、先生の前にいた一人の生徒が大声をあげて笑い出した。咄嗟にこんな厳粛な授業中に大声で笑うなんて、なんて不謹慎な、と思った。先生もそう思ったのではないかと思ったが、先生の対応は違っていた。あまりに笑い声が大きい上、笑いつづけるのをやめないので何事かとの疑問が起こったのだろう。首を伸ばし、
「ん。なに。どうしたの。」
と、笑っている生徒に聞いた。彼は机上にのっている国語の教科書の後ろの方の、あるページを言って、
「これとまったく同じ。」
と言って笑いを止めた。先生は青ざめた顔つきになり、いそいで生徒が言ったページを開いて、生徒が書いた模範答案と、教科書に採用されている高名詩人の作による詩とが同一のものであるかどうかを検証しだした。皆もそのページを一斉に開いて、そこに書かれている詩を読み出した。私もそのページを開いてみたが、私は詩はわからないし、聞いても何の感慨も起こらないので、開いても内容は頭を素通りして何もとどまらなかった。ただ「ふくろう」という題まで同じであることに仰天した。生徒の作品が完全な教科書の盗作であることを確かめると先生の顔は前と一変して鬼のような怒気で満ち満ちた。そして盗作した生徒の名前を名指しして、立ち上がり、拳を握り締めて悪漢生徒の方に駆け寄った。
「どういうつもりだ。」
怒りのため、握り締めた拳が飛んできそうなほどだった。不良生徒は、恐れて教室から逃げ出した。不良生徒を取り逃がしたため先生は仕方なく教壇に戻ったが、とても授業を続けられる雰囲気ではなかった。われわれ生徒のほうは傍観者のゆとりがあったが、先生はとてもそんな落ち着いた気持ちには戻れなかった。人の心というものは全く推測できないものである。盗作した生徒はクラスの中で友達とふざけることはあっても大それた、教師の手に負えない逸脱したことをするようなことはなかった。私は特に気が小さかったので、まず何よりもそんなことを平気で行える神経の図太さにあっけにとられた。カンニングもここまでいくと、気の小さい私には、無神経さ、の、強さが勇壮なものにさえ見えた。盗作するなら出来るだけバレないよう、人知れぬところにあるものを持って来るべきであり、タイトルはもちろん、内容も小学生の力量のものと思われるよう、少し表現も未熟にするべきだ。然るに彼は学校で使っている教科書から、タイトルから内容まで丸写しした。いったいどういう神経をしているのだ。授業が進んで、その詩にあたれば、ばれることは保障されているではないか。その時怒られる事が怖くはないのだろうか。いかに頭の弱い犯罪者でもここまで知恵を働かすことをしない者はいないだろう。いったい彼の精神構造はどうなっているのか。全く理解に苦しむ。
 だが同時に私は他の生徒は、おそらく気づいていないだろう先生の気まずさに何とも、くすぐったい心地よさを感じていた。それはこうである。数多い生徒の作品の中から本物の詩人の作品を選び出せた先生の鑑識眼。さすが教師というものは本物を見出せる鑑識眼の頭の良さがあるんだな、と感心させられた。特に私は詩はチンプンカンプンだったので詩の鑑識眼を持っている先生を仰ぎ見る思いだった。ピカソの絵と、ピカソの絵を見てピカソモドキの絵を描いた中学生の絵、とを仮に私が見せられたとしたら私は価値の判断を誤るだろう。
盗作した生徒は恐ろしい無神経からなのだろうが、これは結果として先生の実力を生徒がテストするという不埒なイタズラになっている。それが面白かった。先生は合格であり、また失格でもある。詩人の価値ある詩を見逃さなかった点は合格である。しかし盗作された詩は韻を持った難しい抒情詩であり、とても小学生の国語力で作り出せるものではない。小学生にしては出来すぎているという鑑識眼は当然持っていなくてはならない。それが出来ず、まんまと騙されてしまった鑑識眼のなさを皆に知られてしまったようなものである。
(野球解説者)
昼の給食の時、先生は教壇で黙ってみんなと食べた。食事中は休み時間と同じだから、みんなはワイワイ騒ぎながら食べた。彼らは食べる事と喋る事のどちらの方がよりうれしいのか、私にはわからない。やはり両方うれしいのだろう。喋る楽しみを優先させるために、食べるのを後にする生徒というのはいない。給食が終わった後の昼休みの時がみなのエネルギーが最高潮に爆発する時だった。みな、それぞれ自分の好きな事をする。一部の、よほど運動好きな生徒はグランドに出て行く。が、休み時間は30分と短く、またグランドは教室と少し離れていたので、わざわざグランドに出て行く面倒くささを嫌い、教室がグランドと化す。狭い教室の中を歓声を上げながら駆け回る。
 他人の席の所有権を侵すことは出来ないから、気の合う友達の隣の席に着くことは出来にくい場合もある。が、そこの席の子が駆けずり回っていれば可能である。だが彼らは誰とでもわけ隔てなく話せるし、前後左右の席の子はすでに管鮑の交わりであるからさほど不満足を感じない。
 先生は昼休み、教員室へ戻る事もあったが教室に残ってデスクワークしている事も多かった。教員室に戻らないで、教壇にいると一人の生徒がいつも先生の所にやってくる。そして先生にプロ野球の解説をエンエンと始めるのである。どこのチームの何という選手はどうだの、それぞれのチームの特徴だの、勝敗の予測、だのを得々と語り聞かせるのである。私も野球マンガは好きだったし、プロ野球でも有名な選手は知っていた。しかし彼はよほどプロ野球の試合はテレビで欠かさず見ているのか、その知識量は相当なものだった。私も当時はプロ野球はけっこう好きで、テレビで試合を見ることは多かった。しかし、防御率だの、自責点、だの難しい用語は全くわからなかった。プロ野球はリーグ戦だから優位の順というものも全くわからなかった。他の男の生徒もプロ野球は概ね好きで、試合はテレビで見ていたが、彼ほど深く知っている生徒はいなかった。し、小学生の関心は多岐にわたるからプロ野球だけにそんなに強い関心をもっている子はいない。しかし彼は自分の知識を誇示したい欲求が強く、生徒の中でプロ野球の事を語り合える友を作れなかった。そこで先生が彼の知識誇示欲求の餌食となった。先生が昼休みに教員室に戻らないで教壇にいると、その子が先生の所にやって来て、プロ野球の解説をトクトクと始めるのである。実に嬉しそうな自慢げな表情である。私が聞いていてもサッパリわからない。ましてや女はプロ野球になんて興味を持ってない子の方が多い。先生もプロ野球に関心がないことは、何一つ、自分の方から意見を言えない事からわかる。
 昼休み、先生が教室に残っている時は一人で何かのデスクワークをしたがっているのに、先生は心の広い性格だったので、話し相手のいない生徒の話かけを無下に断ることが出来ず、彼に付き合って相槌を打っていた。この生徒が先生をどう思っていたかはわからないが、人間は関心のない事でも、相手に合わせるために相槌を打つこともあるという事を知っていたのだろうか。生徒たちははしゃぎまわったり、ペチャクチャお喋りしたり、自分達の話題に夢中だから先生は眼中に無い。
 私は昼休み一人ぼっちだったので、この悲劇はいやでも目にとまり、先生を同情するとともに、先生の心の深さに感心し、また、小学校の先生という職業も決して楽なものではないな、としみじみ思った。
(友達)
勉強は全科とも良くなかったが、勉強が出来ないという事に劣等感をまったく感じなかったので、何とも思わなかった。自分は将来、何になるんだろうと他人事のように考えたが、全く分からなかった。父親がサラリーマンだったので、自分も将来はサラリーマンになるんだろうな、と思っていた。小学四年生だったから、資本主義経済の仕組みなんてバクゼンとしか分からなかった。サラリーマンになるなら、どこの会社でも似たようなもので、ガリ勉になっていい大学に入れば、一流会社に入れるのだろうけれど、出世欲など全く無かったので、ムキになってガリ勉になって、一流会社に入りたいなどという気持ちは起こらなかった。また、一流会社に入るという目的のためにセッセと勉強している生徒がひどくエゴイスティックで魅力の無い、つまらない人間に見えた。母親も教育ママではなかったのでテストで悪い点をとっても全く叱られなかった。また、生徒の中にはガリ勉とも違って勉強しなくても全科トップの成績の秀才もいた。もちろん、私もそういう生徒は、すごいな、と思い、うらやましく思った。しかし私は秀才に対してもさほど引け目もシットも感じなかった。彼ら(外向的人間)は、学科の成績は良くても、人間心理の洞察力がこっけいなほどニブくて鈍感だと思うことがしょっちゅうあったからだ。それにくらべると私は性格が神経質だろうからだろうが、生徒の本心を一瞬のうちに察知してしまう。無理して努力して考察するのではなく、直観力によってピーンと反射的に気づいてしまうのである。またクラス会議の時の生徒の思想的な発言でも、少しでも道理に外れた不正確な点があると瞬時にそれを察知した。彼らは友達が多いから物事に関しては何でも知っている。しかし抽象的、観念的な思考力や人間心理の洞察力は私の方がずっと優れていると内心思っていた。クラスの誰も気づかない事を自分一人気づいていることには多少、優越感を感じた。秀才に対しても劣等感を感じなかったのは、物事の本質を見抜く能力は私の方が優れているという自負があったからだ。しかし私は途中から入った転校生であり、もともと内気で気が小さく、クラスの中で堂々と自分の考えを述べることなどとても出来る性格ではなかった。また、他の生徒のように自己主張したいという欲求なども起こらなかった。いじめられてはいなかったし、また、現代のような陰湿ないじめはなかった。何が嬉しいんだか知らないが、みんな毎日ピクニックのようにはしゃぎ、ふざけあっていた。そもそも私は学校というものが嫌いだった。怖くさえあった。あの黴くさい校舎。一時たりとも笑いを止める事なく喋りつづけずにはおれない、あの物凄いエネルギー。それは他の生徒にとっては、学校へ来る楽しみなのだろうが、もともと喘息で内気でエネルギーの無い私にとっては得体の知れない恐怖でしかなかった。他の人にとっては友達と話すことが楽しみなのだろうが、私にとっては友達と話すことは苦痛以外の何物でもなかった。他の人は無限に話題があるが、私には彼らの百分の一くらいしか話題が無く、いつ話題が途切れるかを恐れながらそれが、ばれないように冷や汗タラタラ流しながら、あたかも分かっているかのように相槌打つ会話など苦痛以外の何物でもない。だからといって私は彼らをバカにして一人、超然とした態度をとっていたわけではない。私とてみんなと同じように、たくさん友達をつくってワイワイはしゃぎ合いたかったことか。昼休みになると必ず、校庭に出てキャッチボールする二人組の生徒がどんなに羨ましかったことか。
 観念的な、物事の本質を見抜く直観力や人間心理の洞察力は人一倍秀でていると思いながらも、人の考えに誤りを見出しても、それは心の内に秘めて、自分の考えというものは絶対言わなかった。あいつは自己主張する生意気なやつだ、と思われるのが怖かったし、みんなと違う考え方をする異分子だと思われて仲間はずれにされるのが怖かったからだ。だから私は机に座ってじっとしている有っても見えない空気のような存在だった。
 それに私は自分の直観力を心の内で誇っていたわけではない。そんなものを誇る気持ちなど全く起こらなかった。そんなヘンテコな能力が何の役に立つというのだ。何の誇りになるというのだ。そんなものより、気兼ねなく話し合える一人の友達の方が、どんなに長時間しゃべりつづけても疲れない精神的体力の方が、ドッヂボールやソフトボールのようにみんなとやる運動についていける肉体的体力の方が、どれほど羨ましかったことか。
 友達といえば、類は友を呼ぶで、四人くらい私と同じようにやや内気な子と友達になることは出来た。といっても、私の方から、「友達になって」と声をかける勇気などない。普通の子は、「友達になって」などという事などしない。数人でお喋りしている人達を見るとスッといつの間にか会話に加わっていて、その時からもう友達関係である。これを誰彼ともなく出来るので、クラス全員と友達になるのもわけはないのである。しかし私にはそんな神業はとても出来ない。掃除当番とか、小グループに分かれて勉強するような機会が、友達をつくれる、ありがたい唯一の機会だった。こういう機会ではいやでも話さなくてはならない。そして私は人と話すのはニガ手だが、こういう小グループに入れられた時に話せないほどの内気ではなかった。だからといって、その機会に小グループのみんなと友達になれたわけではない。あまりにも元気な子とは、その場では何とか話せても、それがおわってバラバラになってしまえば、元気な子は元気な子の集団に戻り、爆発するように、ふざけあい、笑いあう。彼ら、彼女らにとっては、その時こそが心が休まる時なのだろう。しかし私はとてもじゃないが、そんな中に入っていく勇気などない。かりに無理して入っていったとしても彼らの爆発的なエネルギーについていけず、弾き飛ばされるだけで、スゴスゴと、出来るだけ気づかれないようさりげなく去っていく事になるのは目に見えていた。しかし一回でも話す機会を持てた事は大きな前進だった。それまでは廊下で出会っても挨拶も出来なかったが、一回話した後では挨拶なら出来るようになれる。
 また私もそういう、あまりにもエネルギーの差がありすぎる子とは親しい友達になりたいとは思わなかった。つかれるだけである。小グループでまとまる機会には、話していても疲れない、エネルギーがほどほどの子と話す機会を持てて友達になれることが嬉しかった。いや、必ずしもエネルギーの多い少ないが友達になれるかどうかの条件ではなかった。もちろんエネルギーの少ない子は波長が合いやすく友達になりやすかった。しかしエネルギーが多いかどうかよりも性格が合うかどうかが大きかった。エネルギー過多の子はたいてい私と話をしていても退屈してしまい、自然と疎遠になってしまう。彼らは休みなくギャースカ騒ぎつづける子でないとダメなのである。ギャースカ人間はギャースカしてない人間を胡散臭げな目で見る。ギャースカ人間は、人間とは絶えずギャースカするものだと思っているから、ギャースカしてない人間を見ると不可解に思ってしまうのである。
 しかし中にはクラスの誰とでも話せる外交的な子なのに、性格的に話が会う子もいた。同情してくれているわけではない。そういう子は性格が大らかでのんびりしていた。
(津田)
クラスの中でどの子が一番かわいいかという品評会は、当然あったが、私は一回か二回程度、友達が話しているのを関心なさそうな素振りを見せて聞いていた。うちのクラスでは津田という子が一番かわいいというのが男の側の圧倒的な意見だった。しかもクラスのレベルだけではなく、学校中でも、津田はかわいいということになっているらしい。同じクラスだから当然私は津田を知っている。確かにかわいい、というか、きれい、といって誤りはない。しかし私は何でそんなに男に人気があるのかわからなかった。私は内心、津田とは別の、ちょっと背の高い、ロングヘアーの子に恋焦がれていて、その子が一番かわいいと思っていた。口数は多くは無いがしっかりした性格で、少し大人っぽさを感じさせた。それがいっそう、魅力的だった。何度、彼女を想像の内に思い描いたことか。
 それに比べて、津田は、かわいいといっても間違いではないが、見ようによっては平均的な容姿で、何でみんなが津田、津田、というのか不思議で仕方がなかった。津田は平均的な背丈で、髪は茶色で、両頬にはトレードマークのように適度なソバカスがついていた。津田はともかく開けっぴろげで明るい子だった。男女問わず誰とでも話し、男のように大声で笑う。女らしさ、や、つつましさ、というものが感じられなかった。男のようにはしゃぐ性格だったからともかく目立つ性格だった。女は女同士でまとまりがちだったが、津田はそうではなく、男の誰とでも話す。男も津田と話すのは面白い。津田は男を異性として意識することが無く、自然体で活発で明るいのである。津田の魅力とは、容姿の美しさもあるだろうが、それ以上に性格の魅力なのだろう。
 男と接する機会が多いから男の方でも女といえば津田が一番最初に意識されてしまうのだろう。小学四年の当時には、そうは思わなかったが、今思い返すと、津田の明るい屈託ない笑顔ばかりが魅力的に思い出され、当時、恋焦がれていた子の魅力は、今では全く色褪せてしまっている。やっぱりみんなの価値基準の方が私より上だったのだ。人間の魅力とは、容姿よりも性格なのだ。
 津田は性愛の対象にもなっていた。こだわりの無い性格だから、水着姿を男に見られても抵抗を感じていなかった。団地の中の小学校だったので生徒はほとんどが団地に住んでいた。私は四階だったが、津田は、目と鼻の先の団地の一階に住んでいた。学校の行き帰りの時、津田の家の前を通る。私は津田とは親しい仲ではなかったので、万一、学校外で津田と出会ったら気恥ずかしいなと思ってヒヤヒヤしていた。ある時、友達が津田の噂をしていた。それによると津田は夏は、裸でベッドに寝ていることもあって、津田の裸姿を見た生徒がいるというのである。団地は狭いし、家族もいるのだからウソなんじゃないかと思った。しかし津田の家は一階なので、通りがかれば中は見えるし、津田のあけすけな性格からすると、むし暑い夏には風呂上りなど、そんな格好でベッドに横になる事もひょっとするとあるかもしれない、とも思った。夏、見に行こうぜ、などとも友達は言う。思わず津田が裸で家の中を歩いている姿が想像されてしまい、心臓が高鳴る。もし本当なら、こんな素晴らしいことはないので、ぜひ見に行きたいと思った。それ以来、津田の裸の噂が本当なのかどうか、気になって仕方がなくなった。津田の裸が想像でイメージされてしまう事も彼女の魅力の一つとなった。こんなデマも津田の性格のおおらかさだからこそ起こりうるのである。
(掃除)
クラスで私はほとんど目立たない存在だった。が、もともと内気で小心な性格だったため、別に何ともなかった。成績はどの科もパッとしなかったが図工だけはいつもよかった。几帳面な性格のため、絵を写実的に丁寧に描くのでそれが評価された。夏休みに、後楽園球場に、巨人、中日戦を親と見に行ったので、「夏休みの思い出」というテーマを出された時、後楽園球場を思い出しながら描いた。そしたら先生がうまい、と誉めてくれて、みんながゾロゾロ、私の絵を見に来た。クラスの中で一番目立つヤツで、毎日、教室に鳴り響くほどでかい声でジョークばっかり言ってるヤツが来て、「うっまーい」と歓声を上げた。私は彼のようなエネルギーの化け物のような生徒には、相手にしてもらえることは一度も無いだろうな、と思っていてたので無上に嬉しかった。もう一つ驚いたことがあった。私はあんまり目立ちたくないため、あんまり丁寧に描いて突出することを恐れてたので、わざと力を抜いてテキトーに描いたのだ。それが予想以上に評価されたことが、驚きだった。他の生徒は押し並べて絵が下手である。彼らは子供の頃から外で遊んでいて、性格が、荒削りで大雑把だった。が、私は三歳の時からずっと喘息で性格も内気で、人と遊ぶことが無く、いつも家でプラモデルを作ったり、おもちゃを作ったり、地図を筆写したりしていたので、几帳面な性格とあいまって、図画工作だけはいい成績だった。しかし私としてはそんな事よりもクラスの人気者に声をかけてもらえた事の方が、ずっと嬉しく、図工の成績何かどうでもよかった。
 嬉しかった事といえばもう一つある。私は物心ついた時からずっとこの団地で育ってきた。だから私のふるさとはこの団地である。小学校に入った時も、当然この小学校で六年過ごすことになるんだろうと思っていた。しかし三才で発症した私の喘息は治らず、ガンコにつづき、多くの医者にかかっても、いろいろな治療法を試みても治らなかった。私の喘息は父方の遺伝によるもので父も父の兄も喘息だった。特に伯父の喘息はひどく、発作で一晩中眠れない日などしょっちゅうだった。結婚することもなく、小さな会社でひっそり働き、最期は喘息重責発作が止まらずに死んでしまった。私は子供の頃から他の元気な生徒のように自分の人生というものを夢を持って建設的に考えることは出来なかった。伯父のそんな最期を聞き、また、自分を省みても一時たりとも発作止めの吸入器を手放すことが出来ない自分を思うと、私も伯父と同じように人並みのまともな人生など送れないだろうと子供心に思っていた。だが親は何とか私の喘息を治そうと治療法を探していた。それで二つ離れた県に、喘息児専用の病院つきの施設があると聞き、小学校三年の一年間、私は親と離れて、その施設で過ごす事になった。
 だから私は小学校二年の一学期まで団地の小学校に通い、一年半、その施設で過ごした後、四年で再び団地の小学校に戻ってきたのである。小学校一年、二年の時は、友達などほとんどいなく、別にいじめられは、しなかったが、学校嫌いはひどかった。友達を自由自在につくれて、いっつも大声で笑っている元気な他の生徒というものが、それの出来ない馬力のない私には不気味でこわかった。三年の一年間を親と離れて、施設で生活する事になることを聞かされた時はさみしさで泣いた。しかし入ってみたら、わりとすぐ慣れた。みんな私と同じ喘息児で、エネルギーが無いヤツが多く、劣等感に悩まされることから解放された。友達も出来たし、虚弱集団だから集団スポーツにも参加できて、運動も好きになれた。しかし四年でもどってきたら元の木阿弥に戻ってしまった。やっぱり健康な人間の集団では、精神的にも体力的にも、ついていけるほどのエネルギーは無かった。しかし一年半、親から離れて施設で過ごした事は、多少は効果があった。
 二年の時、私は津田と同じクラスだった。話したことなど一度も無かったが、津田は女なのに活発で目立つ子だったので、いやでも印象に残った。
 四年で戻ってきた時、偶然にも再び津田と同じクラスになった。津田は目立つ子なので、私は津田のことは憶えていたが、私は、居ても居なくてもわからない様な存在だったので二年のわずかな一時期、津田と同じクラスにいた事など、津田は憶えていないだろうと思っていた。四年の始めの時、自己紹介など無かった。クラスが上がったため、クラス変えが行われて、顔ぶれが変わったとはいえ、一つの同じ学校の中であり、しかもすでに三年過ぎている。クラス変えしても、再び一緒のクラスになったヤツもいる。さらに彼らの友達をつくるエネルギーはとどまるところを知らないから、同じ学年の生徒間では、みんなだいたい知っていて、友達関係が出来ているから、先生の方でもあらためて自己紹介させる必要など無い、と思ったのだろう。
 実際、彼らは四年の始めの日から、うるさいほどガヤガヤ騒いでいた。転校生が来れば当然自己紹介させるが、私は二年の一学期までは居て、戻ってきた生徒であり、あらためて自己紹介させる必要は無い、と思ったのか、ちょうど四年の新学期から戻ってきたので、気づかず、見落としたのか、それともクラス替えが行われた新学年のはじめだから、新しいクラスメートという条件は皆同じだから特に転校生として自己紹介させる必要はないと思ったのか、それはわからない。しかしあんなガヤガヤした集団の中で一人ポツンとしてしまう性格の私には一人だけ自己紹介をさせられるなんて恥ずかしいことをさせられずにすんで、むしろ助かった。しかし生徒の中では私を知ってるヤツなどいないから、他の生徒は、私を「見たことないやつだな。どっかから転校して来たやつなのかな」と見ていた。というより一人でポツンとしている私など居ても居なくてもどうでもいいような存在だったから、そんな関心さえ持つヤツもいなかった、と言った方が正確である。こうなると、一年半過ごした喘息児の施設が懐かしくなる。あそこでは、みんな私と同じ喘息もちで劣等感を感じないですんだし、エネルギーも私と同じように少ない子が多かったから、心を開いて笑い合える友達もたくさん出来た。というより、施設の子は全員知ってて、誰とでも話せた。むしろ何もしないで一人でポツンとしていろ、と言われたらその方が苦痛で、いつも友達とふざけあったり、遊んだりしていて、自然体で、疲れずに楽しく生活できた。自分の言いたい事も堂々と言えた。エネルギーのない喘息児、といっても絶えずベッドに寝ている半病人じゃない。発作が起こらない時は普通の子と同じである。寮のとなりに病院があり、医者や看護婦がいて、発作が起こって止まらなくなれば、寮の保母さんが来てくれて処置してくれる。喘息は、いつ発作が起こるかわからない予期不安、発作が起こった時、いつ止まってくれるだろうかという不安感が関与しているのだが、施設ではそういう不安が無いから、ちょっとやそっとのことでは発作は起こらないから、みんないつも元気で、普通の子と変わりないのである。だが、やはり平時でも世間一般の健康な子と比べると精神的、肉体的エネルギーは劣る。
 四年で団地の小学校に戻って世間一般の健康な子の中に放り込まれた時、つくづくそれを感じた。私はまた再び一人でポツンとする内気で無口な子に戻ってしまった。一年半の治療で、多少の自信がついたとはいえ、彼らの圧倒的なエネルギーにはとてもついてはいけなかった。
 しかし喘息の施設で一年半過ごした経験は、私に元気な子に対する見方を変えた。オレ達は好きで一人でポツンとしてるんじゃない。一人でポツンしてるオレ達を変人のように見るけれど、オレ達だって君らのようにワイワイふざけあいたいんだ。友達になりたいんだ。だけど君らのようなケタはずれなエネルギーが無くてついていけないから仕方なくポツンとしてるんだ。お前らにオレ達のつらさがわかってたまるか。勝手にバカみたいにギャースカ騒いでろ。
 性格が合うわずかな子とは友達になれたけど、本心で語り合えるほどにはなれなかった。せっかく出来たわずかな友達は大切にしたかったから、出来るだけ彼らに合わせるようにした。もともと孤独には慣れていたので学校を離れれば一人でいても寂しくはなかった。私はまた、家で一人で遊ぶ内気な子にもどった。だが学校の中で一人ぼっちというのは寂しかった。私は「空気」のような存在だったが、別にそれでかまわなかった。
 私は二年の時、津田と同じクラスだったことを憶えていたが、津田の方ではその事を憶えているのかどうかが、ずっと気にかかっていた。
 二年の時は私は一人も友達のいない全く人の目につかない生徒だった。一方、津田は男女問わず、無数の友達がいて、いつも笑い合っていた。だから私の事なんか憶えていないだろうと思った。
 ある掃除当番の時だった。十人くらいだった。その中に津田がいた。男は概してふざけたり、とぐろをまいて、お喋りしていた。津田は一人でまじめに掃除していた。私も黙って掃除していた。津田は明るすぎて、私のような内気で無口な人間が話しかけるのは恐れ多いことだと思った。津田に話しかける資格があるのは、無限のエネルギーがある子に限られるのだ。そんな事を思って机を運んでいた時だった。津田が突然、みなに聞こえるほどの大きな声で言った。
「私、浅野君、知ってるよ。二年の時、同じクラスだったもん。三年の時どこ行ってたの?」
あのときほど嬉しかったことはない。





細雪

 大学の時の、ある印象深い女性を書いてをこうと思う。私は出来ることなら家に一番近いところにある医学部に入りたかった。しかしこの大学は、けっこう偏差値が高く、私の学力ではギリギリだった。受験したがダメだった。国公立は二校、受験できたので、もう一校はどこにしようか、たいへん迷った。私は、できることなら、関東の大学に入りたかったので、第二志望は関東で、できるだけ偏差値の低い、私の実力では入れる可能性のあるところを受けたかった。偏差値だけでいうなら、群馬大学の医学部は、可能性があった。しかし、二次試験が、なぜか、英、数、国、と、小論文だった。ふつう、医学部の二次試験は、英、数、理、である。二次試験に小論文を入れるのは、わかるが、理科がなく、国語というのには、首をかしげた。別に、大学入試の方針は、大学にまかされているのだから、国語の能力が大切だ、と考える大学の方針に、こちらがケチをつける筋合いはない。だが、これは、私個人にとっては、大変な問題だった。私は、子供の頃から、内向的、超観念的、な、性格だったため、理数系の科目は、好きで、実力も平均以上にあった。しかし、世間に対する幅広い関心という、普通の人間なら、誰でももっているものがなかったため、社会や国語は、全然ダメだった。ほとんどの人間はこれと逆である。人間にせよ、動物にせよ、生き物、というものは、絶えず、外界に関心が向き、世間のことは何でも知っているのが当然、というのが、健康な自然の人間である。外界に関心が向きにくい、というのは、どこか病んでいる人間である。外界に関心が向かないという欠陥があると、社会や小論文は悲惨なことになる。たとえ偏差値で可能性が十分あっても試験はカケであり、落ちたのでは話にならない。それで、私は悩んだ末、結局、安全策をとり、第二志望は二次試験が、英、数、理、で、小論文のない、関西の公立大学を受けた。そして何とか無事合格できた。それで関西へいくことになった。さびしいイナカの大学である。もっとも、日本の観光地であり、外国人が日本に来たなら、まず、必ず来るところである。日本文化の発祥の地である。から、歴史的遺跡がある。しかし、京都は、おもむき、も、にぎやかさ、もあるが、あそこは、観光地として行くのはいい地であっても、住むのはいい地とは思えない。ひたすらさびしい。一応、デパートの売り子のねーちゃんはきれいだが。胃病をもっていたため、激しい医学のつめこみ勉強をやり通せるか、心配で、さかんに誘ってくれた部活にも入らなかった。スポーツは、嫌いではなく、いろいろできるスポーツもあったが、試合に勝ったからといって何になるんだといった、ナナメな見方をする感性でもあった。そもそも、人とガヤガヤ話すのが、慰めにならず、苦痛になる性格なのだから、部活など入っても何にもならない。土、日、は、必ず県庁のある市へ行って図書館で勉強した。市は、イナカといっても、にぎやかさの点で、ずっとマシだった。自分は雑踏の中にコドクを感じる感性ではなく、むしろ、雑踏の中に安心感を感じる感性だった。友人などというものは自分にはつくれない。話題がすぐ尽きて、すぐに、冷や汗を流しながら、ない話題をムリして探す、というのも、つかれるだけで、また相手にそういう無理をしているなと、気づかれるのも、みじめで、つらかった。結局、自分の住家は、コドクにしかないのだとあきらめた。しかし、人とうまく、なじめない性格の持ち主は、私一人だけではなく、百人のクラス中、五人くらいはいた。奇しくもその五人は、百人中、一人も出ない、授業に出る、という共通の性格をもっていた。やはり、みな、人とワイワイできない自分の性格にひけめを感じていた。また、勉強熱心、という性格も共通していた。私は文系科目がニガ手だったので文系の学問に飢えていた。むさぼるように、勉強して、学問を身につけてやろうと思った。点取り競争とも、社会的出世、とも違う。純粋な知識欲である。卒後、レベルの高い別の大学の医局に入るため、成績をよくしようと考える人は、基礎、臨床、の三年からの成績はがんばるが、成績表に関係のない、教養課程、には、手を抜く、という合理主義者である。しかし、三年からは、ひたすら無味乾燥な医学一辺倒であり、私が学びたかったのは、教養課程でやる、幅広い学問である。人と打ち解けにくい性格の他の四人も、それぞれどこかのクラブに入り(ほとんど静か系のクラブ)、クラブの中で友達をつくっていった。
入学式の翌日、親睦会として、観光地を数カ所、まわり、昼食の時、一人ずつ、自己紹介をしていった。斜め左の、少し離れたところにいる女の人に目が行った。物静かで、口数少なく、ものすごく、魅力的で、きれいな人だった。スポーツなど当然ニガ手だろう。(一目みれば、印象で、その人の性格は、かなり、推測できるものである)ワイワイ、ガヤガヤした所で、ゲラゲラ笑う、ことなどとても出来る性格ではない。コドクさ、を持っており人と話す時は、一言はなしては、顔を赤らめそうな感じだった。馬力がなく、多くの人とガヤガヤした所にいると、つかれてしまうだろう。静かな人と一対一で話すぶんには、話題に困ることはなさそうな性格である。内気であるというのを人にさとられるのを恐れていそうで、コドクに徹する強さなどはなく、静か系のクラブに入った。その人のすべてが私には魅力にみえた。その人の属性が、すべて、私には魅力にみえた。現役ではなく、一浪で入った、という学力のレベルから、名前、から、果ては、その人の出身地、までか、魅力的に思えてきた。私は思わず、食事の箸を止め、その人を見ずにはいられなかった。伏せ目がちで、顔を赤らめ、緊張している。その人が、家に帰った時の様子までが想像される。机に向かって、一人で、サラサラと静かに勉強している様子が想像される。もちろん勉強というのは、そういう風にするものが、普通だが、友達とゲタゲタ雑談しながら勉強して、やがて雑談の方がメインになって、壊れていくという情景は想像できない。また、女でも、一人なら、リラックスするだろうから、胡座をかいたり、ベッドにねころんで勉強するということもあるだろうが、あの人には、そういう姿はイメージされない。棋士が対局している姿は、まさに、ロダンの「考える人」だが、あの人が、静かに一人、勉強している姿を写真家がとって、「勉強する人」というタイトルをつけて、応募したら、入選しそうな感じである。そして、現役ではなく、一浪した、という学力も、なぜか魅力に見えてくる。だいたい、真面目で、控えめな性格の人といいうのは、クラスのトップには、ならないものである。試験情報集めに血眼になるということもないから、皆が知ってる情報を知らずにワリを食う、ということも十分ある。でも、大学入試、には、全総力をあげて、かかっただろうが、現役でなく、一浪で入った。もちろん、阪大、京大医学部、は、まず学力的にムリだろう。阪大、や、京大、は、よほど、先天的な秀才、か、あるいは、徳田虎雄氏のように、異常な執念家、でないとムリである。人をけおとしてまで、自分がわりこむ、とか、あるいは(人をけおとす、ことを美徳、と、思っている人もいる)そういう性格、がないから、である。コツコツ一人で自分の目標に向かって、努力するタイプである。物事に対する過剰な執着心(何が何でも、という性格)が、ないから、現役、で、自分の番号がなくても、
「ザンネン。来年がんばろう。」
と、タンタンとした気持ち、なのである。家に帰ると、母親に、
「どうだった?」
と、聞かれて、それに対して、
「ダメだった。何とかがんばって来年入る。」
と、あっさりした会話、で、用意されていた、おかしらつきの鯛と赤飯は、ザンネン会、と、名が変わって、ささやかに食べられる。そして、その後、テレビドラマ、をみて、数日、読書、(か何か知らないが、好きなことをして)再び机に黙々と向かうのである。合格者名に、自分の名前、が無かった時、メラメラと燃え上がるような、怒り、で、拳を握りしめ、
「お、おのれ。よくも、あれだけ勉強したのに、落とすとは…。このウラミはらさでおくべきか。」
と、のろって、夜、赤門にションベンをかけに行くタイプではない。ましてや、火をつけたり、手榴弾を放り込みたくなるような感性ではない。徳田虎雄氏のように、橋の上から川をみて、一瞬ひきこまれそうになった、というようなドラマ的な感情の人でもない。図々しさ、や、自我主張の欲、というものがないのである。当然合格をみた時、跳び上がって、はしゃぎまわることもしない。ただ電話で、
「お母さん。あったよ。」
という。
「よかったね。早く帰っておいで。お祝いするから。」
「うん。」
…である。
何と、ささやかで、人間的魅力があることか。当然医者になっても、博士号をとることに血眼になることもしない。教授の御機嫌をとったり、教授の草履を冬の日にフトコロの中に入れて、あたためて、教授にホロリと涙を流させてやろう、という、見え透いた、わざとらしい芝居をする性格ではない。
そもそも、あの人は存在自体が、詩、のような人だった。あの人が、白樺林の中を一人、切り株に座っている。すると、もうそれだけで、詩、なのである。リスがちょこっと、出てくる。すると、あの人が、リスに微笑して、話しかける。そんな自然と一つになれる感性を持っていた。これを写真家がとって、「森の中の少女」と、タイトルをつければ、入選しそうである。自分は美しい、という自意識をもっていると、ダメ、である。どんなに無邪気にリスと話しても、ナルシシズムの存在は、自然の中で異物となる。口数多く、人と話しをしていないと、生きていない、と思う感性の人もダメである。木は話をしない。鳥は多くを語らない。それと同じように、なにもしないで、黙って座っていることに、それだけに、安心感とよろこびを感じられるような感性でないとダメである。森の一部とはならない。そもそも、あの人は体力がない。疲れやすそうである。自然が彼女をいざなうのである。
「人と話していても、つかれちゃうだろ。つかれたら、いつでも来なよ。僕達が静かになぐさめてあげる。」
と、森がいざなうのである。
しかし、やがて、あの人は森を出て行く。社会に入ったら人は友達をつくらねばならない。社会の中で、まわりが、みんな友達をつくって、ガヤガヤしているのに、一人きりでいるコドクさに耐えるのは、神経の弱い人間には、耐えられるものではない。また、私は集団帰属本能が、ゼロ、だから、ある社会に入れられると、コドクさに耐えられない、ために、仕方なく、冷や汗タラタラ流して、ネタが尽きるのを恐れながらでも友達をつくらねば、と思うことはあっても、その必要がなければ、私は何の集団にも帰属したい、と思わない。人と話をしても全然面白くなく、バカバカしいと思うだけである。つかれるだけである。あそこのアイスクリーム屋の味はどうだの、北海道のタラバガニ、は、どうだの、と、無限に問われても、答えようがない。話しを合わすため、近所のアイスクリーム屋に行くくらいなら、まだいいが、タラバガニの取材に北海道へ行くほどの時間はない。それでも、せめて、話題が、近所のアイスクリーム屋と北海道のタラバガニ、だけにとどまってくれるのなら、タラバガニ取材旅行に北海道に一度くらいは、行ってもいい。しかし、彼らの話題は、北海道のタラバガニの次は、一足飛びに沖縄に移り、その次はヨーロッパである。これでは身がいくつあっても足りない。しかも、実際に北海道に行ってタラバガニを食っていなくてはならないのである。冷や汗タラタラ流しながら、相槌うつだけのロボットに話しかけても相手もあまり面白くあるまい。私の友達づきあい、は、ほんの少しの人との、コドクの寂しさに耐えられない、ための、義理のものだった。いやいや、人と話し、一人で自分のやりたいことをやっている時が、一番楽しい。しかし、人間というものは、人とタラバガニ論争をするのが一番楽しいらしい。
しかし、あの人はタラバガニにも関心を持っているのだ。沖縄もヨーロッパも同様である。世界の事象のどこをつついても、一見識、自分の意見を持っている。だから、あの人は、お義理で友達をつくろうとしているのではなく、人と話をすることに、楽しさを感じられる人なのである。ただ、あまり、極左テロ的発言はしない。中傷に花をさかすこともしない。静かな言葉のキャチボールが楽しいのだ。あの人が、人と話しているところを写真家がとって、「会話を楽しむ女」とタイトルをつけて出品したら入選しそうである。ただ、カラオケは、きっとニガ手だろう。
「○○、何かうたいなよ。」
といわれたら、あの人は顔を赤くして、
「わ、私。歌だけはちょっとにがてなの。」
と手を振って、断りそうである。まかり間違っても、マイクをひったくって、
「私にもうたわせてよ。」
というタイプではない。
あの人は、内気で勉強家だから、読書家、というようにも、一見したら、見えそうかもしれないが、あの人は読書に凝るタイプではない。読書家であるためには、現実逃避的で、コドク好きと、開き直る性格、でないと無理である。もっとも好きな作家や、作品はあるだろうが…。また、詩、を書いたり、小説を書こうと思ったりするタイプでもない。これも、やはり、完全な現実嫌いでないと、のめりこむ決断をもてない。やはり、読書家や、創作家は、暗い人間でないとムリである。あの人は繊細な感性を持っているが、現実嫌いではないのだ。自分にできる範囲で、現実と関わり、現実をよくし、そして現実を楽しもうと思っている感性なのだ。読書家や、創作家、は、出家した僧、世捨て人、的でないとムリである。加えて、創作家になるには、自分の作品が世間に認められたい、という、強い我執がないとムリである。あの人には、そういう強い我執もない。何事に対しても強い、執着心がなく、あっさりしている。だいたい、医学部に入ったのも、ねじり鉢巻して、「何が何でも医学部」と、自分に言い聞かせたタイプではない。どの科でも、学力が高く、理数系もでき、モギ試験の偏差値で、国公立の医学部に入れる可能性が十分あったから、進路指導の時、先生に、
「君なら十分医学部に入れるよ。どうかね。ひとつ医学部を受けてみては。」
といわれて、
「はい。ではそうします。」
といったような感じである。こういう性格の人は、責任感も強いから、教師の一言も、真に受けて、その期待にこたえなくては、と思ってしまいがちなものである。
彼女は卒業して、小児科に入局した。やはり、母性本能のなせるわざである。女にとって小児科、は、憧れの科なのである。しかし、あこがれつつも、小児科、を、選ばない、女医もいる。小児科、は、内科、で、診断が難しく、責任感が重く、勉強嫌いな人には向かない。彼女は、この決断をするのにさほど、悩みはしなかっただろう。というのは、彼女が、自分の性格的適性を省みて、自分の能力、向学心、が、小児科、に、十分耐える、と判断したのは、主観的にも、客観的にも、その判断に誤り、は、見出せないからである。彼女の担当になった子供こそ、幸せなこと限りない。あんな魅力的な、きれいな女医に、ちやほやしてもらえるのだから。うらやましい、というか、こにくらしい、というか。
「うわー。きれいな先生だー。ラッキー。」
と子供の患者が言うか、は、紙の上で書くのは容易だが、現実には、言わないだろう。それは、子供の気恥ずかしさ、から、というより、彼女はきれいだが、静かで、真面目で、あんまり、患者と友達のようになって、ゲラゲラと大声上げて、ふざけっこするタイプではないからだ。私が子供の患者だったら、胸さわったり、スカートめくったり、いろんなイタズラしたくてウズウズするのだが。彼女には、出世欲がないから、博士号をとることに血眼になることもない。しかし、真面目な向学心もある臨床医だから、日々の診療から、興味をひくテーマがいくつも見つかって、
「よし。このテーマを深く調べてみたら、興味深い、因果関係、が、見つかるかもしれない。」
と思い、教授にそれを聞いてみると、
「うん。それは、なかなかいいところに目をつけたね。ひとつ、それをテーマに論文にまとめてみたらどうかね。」
といわれて、熱心に、丁寧に、論文をまとめ、博士号をとる、ということは、十分ありえるだろう。こういうのが本当の博士号なのだが、本人は、博士号というものに、たいして気にかけていない。誤りのない、的確な、臨床医になる、ということの方に価値を置いている。逆に医学博士という肩書きを求めることに汲々としている勉強嫌いな人間がムリして書いた論文はたいした価値がないことのほうが多い。
だいたい、彼女の家族構成を私は知らない。母親と、静かに会話しているくらい、だけがイメージされる。母親も静かそうな性格に思われる。
「おかみさん。いきのいい鯵が入ったよ。どうかね。」
「もう百円まけてくれたら、買うけどねー。」
なんて魚屋との駆け引き、は、しそうもない。お手伝いさんまではいないだろうが、静かなスーパーで静かに買い物するのだろう。やはりメンデルの遺伝の法則で、彼女の静かな性格は、母親の静かな性格の遺伝なのだろう。彼女の父親は、どうもイメージされてこない。つい、彼女は、母親だけの母子家庭、に、イメージされてしまう。しかし、考えてみれば、父親も当然いるはずだ。やはりバナナのたたき売りをしているとは思えない。中堅事務職だろう。彼女に兄弟は、いるのか、わからないが、箱入りの一人っ子、のような気もするが、いるとしたら姉妹の女兄弟ではなく、兄か弟の男兄弟だろう。女兄弟がいると、外向的になりやすい。
彼女は大変魅力あったが、(だからこうして書いているのだが)性欲的欲求は彼女に対して起こらなかった。彼女は食も細そうで、少しやせ気味で、おとなしすぎる。何か厳粛な高貴性が漂っていて、不徳な精神は、はじき返されてしまい。不徳なものとは無関係な人間、という感じである。






池の周り一周

 今となっては昔の話だが、小学校五年生の春のことである。私は祖父の家で一時期を過ごした。一時期、といってもほんの二、三ヶ月である。
 ある時、厳しい祖父がめずらしくも車で広い公園に花見に連れて行ってくれた。二人の親戚が一緒で、私はオマケみたいなものだった。あらかじめ連絡をとっていたらしく、公園には車で祖父の親戚の人が数人きていた。遠い親戚なので私にとってどのような関係なのかもまったくわからなかった。ふだんはなかなか会える機会をもてないので花見が久闊を叙すよい理由となった。私はオマケのようなものである。公園には遠方が見えないくらいの大きな池があった。親戚と祖父は何か大人の話があるらしく、私は何をするともなくポツンとしていた。すると、向こうから来た人達の中の一人の女性が、
「ねえ。池を一周してこない」
と言ってくれた。私はこの誘いに、わが耳を疑うほどのうれしさを感じた。女と話しながら歩く、という経験など一度もしたことがなかった。引っ込み思案で友達付き合いといえば、少数の、自分と同じような内気な男の友達、数人くらいだった。
 彼女は私の肩に手をかけて、ピッタリ寄り添うように歩き出した。彼女のあたたかい手の感触に私は夢心地のような気分だった。彼女の顔をまともに見ることも恥ずかしくて、私は何か申し訳なさ、さえ、感じていた。私は彼女が、たのまれたので、お義理で子供の相手をしているのだろうと思った。どう考えても、私は自分が女に相手にされる要素など何一つない、ということには子供ながら、絶対の確信を持っていた。器量に引け目を感じていたし、性格も内気で暗かった。性格が、神経質で、人の言葉を単純に信じるということは絶対出来ず、人の言葉の真偽を絶えず揣摩憶測する習慣が自然についていた。
彼女は私の手を握ったり、後ろから抱きかかえるようにしてみたり、さかんにスキンシップする。女の柔らかい体の感触を背に感じ、私はボーとした気分だった。彼女は自分の方からは、話さず、私に話題を求めてきた。私は彼女がどうしてこんなに親切にしてくれるのか、不思議で仕方がなかった。彼女の温かい言葉やスキンシップが、どう考えてもお義理のものとは感じられなかった。いったい、なぜ、彼女が私にこんなに親しくしてくれるのか不思議で仕方がなかった。もしかすると彼女は、保母さんのような、子供を相手にする仕事を希望していて、子供をうまく相手にする技術の練習のために私に親切にしてくれているのでは、とも考えた。ほかに考えようがない。私が何か言うと、
「フーン。すごいねー」
と相槌をうってくれる。理解できない人間の心理というものは気味が悪いものだ。私は何か、分不相応に感じ、どうでもいい子供ためにこんなに時間を割いてくれる彼女に申し訳ない気持ちさえ起こって、
「時間だいじょうぶですか?」
と、おそるおそる聞いたが、彼女は、
「もうちょっと、こうして行こうよ」
と言って、二人だけの時間を出来るだけ長くしようと、歩を遅くしている。
子供の頃はイヤな思い出ばかりで、あの時の見知らぬ女性との、池の周りの一周が、ひときわうれしい思い出として残っている。
大人になった今、考えればなんのことなくわかる。女が性的快感を得るためには男の存在が必要なだけだ。私に、かわいさ、を感じてはいなかっただろう。しかし私は子供の頃から過度に神経質で、疑い深く、現実と食い違うほど低く自分を自己採点していたことに気づかされた経験も何度もあった。彼女が私をどう思っていたかは、わからない。しかし、ただ一つ彼女も私に魅力を感じた点もあったのだろう。それは、私が内気で無口で、この子になら何をしても、何を言っても、心の中にしまいこんでしまうだろうから、何をしても安全だろう、と思ったに違いない。実際、私は、人間のおしゃべり、というものを嫌っていて自分の心にしまいこんでしまう性格である。






夜の保母

 ある思いで深い女性を書いておこう。できればもっと時間をかけて物語的に構想も練って書きたいのだが。ともかく、書こう、と思った時に書いてしまわないと一生かけないことになる。小学校五年の時である。私は小児ゼンソク治療のため親から離れて、寮が隣についた小さな学校へ入った。ここで小学校卒業までの一年半を過ごした。誰にとってもそうだろうが、子供の頃の一年という期間は大人になってしまって、もはや何の新たな感動もない、同じことの繰り返しの一年の十倍くらいの量を持っている。思い出は尽きない。もちろん、嫌な思い出も、目一杯たくさんあるが、それはあまり書きたくない。やはり、楽しい思い出を書きたい。
寮には保母さんがいた。若いきれいな保母さんも多かった。転入して、ある部屋に入れられた。ここの施設は小一から小六までだった。私が入れられた部屋は四年から六年までの、六人の部屋である。入所している子はゼンソク7~8割、腎疾患2割、あとよくわからない難病の子もいた。腎疾患の子はステロイドをのんでいるため、特有のステロイド顔貌になる、のでわかる。医者になった今、思い返してみると、ああ、あの子は、あの病気だったんだなと分る。大学の臨床実習の時、小児科をまわった時、何とも昔の自分を見ているような、懐かしさを感じた。
別に少年鑑別所でもないし、転校生への洗礼、というのは、中学ならあるかもしれないが、小学校ではさすがにない。それでも腕力が一番強いやつがやはりボス的存在となり、力による、親分子分的関係はあった。が、それも無邪気で面白いとも思った。共和制はあまり面白くない。先天的に、ふざけ、が好きな性格だったので別にモンダイなくすんなりと部屋のヤツともなじめた。夜はよく眠れた。私はちょっとや、そっとの物音でおきてしまうような体質ではなかった。が、ある夜中、あまりにペチャクチャする話し声に起こされた。うるさいなー。ねむれねーじゃねーか。と、おこった経験はあの時がはじめてで、その後はない。一年下(四年)の腕白で元気なヤツが夜間の見回りにきた保母さんとペチャクチャしゃべっていたのだ。もう数人、起きて、その話しに参加していた。私は寝たふりをして、その会話に聞き耳を立てた。その子は、見回りのきれいな保母さんに、
「おい。脱げよ。」
と、さかんに要求している。昼間は友達のような関係の保母さんに、夜中であることをいいことにストリップを要求している。なんちゅーヤツだと思った。男は心の中じゃみんなそういう男として当然の願望は持っている。しかし、それを行動に移す勇気を持っているヤツなどありえない、と思っていた。女がそれを受け入れるはずもないだろうし、以後、スケベと見られ、ケーベツの目で見られることがこわくないのだろうか。私を含め平均的な男はそこまでの蛮勇は持ってないのが普通だ。第一、女がそんな要求に応じるはずがないではないか。直情径行とはこういう性格をいうのだろう。しかし、全世界の男の願望を、照れることも、恐れることもなく代弁したこの少年に最大の敬意を払わずにはおれない気持ちだった。勇気の徳の勲章を与えても別におかしくはないと思った。それに保母さんにそんな事をいったら、その保母さんが他の人に言わないという保障はないではないか。判断は保母さんの胸中一つであり、その気まぐれにひねもすおびえて暮らさなくてはならないではないか。もし、他の保母さんに話して、バーとうわさが広がって、あの子は夜の見回りで、「脱げ。脱げ。」なんて言うのよ。なんてことがモンダイになって軍法会議で銃殺刑、ということになったらどうするというのだ。しかし彼は、ためらいなく、呼び捨てにして、
「おい。○○。脱げよ。全部脱げ。」
と言いつづける。
「脱げよ。ほんとは脱ぎたいんだろ。」
とまで付け加える。実に計算家でもある。単細胞ではない。事実彼は学科の勉強にはたいして身を入れてなかったがバカではない。小4の性知識は、まだ全然不十分だが、ヌード写真の存在は知っているし、そもそも女の裸というのは奇麗なものであり、女が脱いでいくというプロセスは大変興奮させられるものである。それは男の側の理論であり、見方であるが、女にとっても、恥ずかしくはあるが、男に裸をみられたいという願望もあるのではないか、という想像もやはり男なら誰でもするものである。だがやはり女の心理というものは女でなくては分らないものである。実際、保母さんにも、いろんなタイプがいる。真面目で、「脱げ。」なんていわれたら、本気でおこりそうな人だっている。
しかしこの保母さんはきれいで真面目ではあるが、堅物ではなく、面白みもあった。そもそもこの子の要求に、叱るのではなく、笑いながらいなし、説得している。
「ねー。赤ちゃんはどうやって生まれるか知ってる?」
「赤ちゃんはどうやって生まれるか知りたい?」
というように、彼の要求をその方に、むけようとしていた。彼女も赤ちゃんがどうやって生まれるか、教えたがっているような感じである。小4、小5、の知識では赤ちゃんは性的な行為に関係がある、というバクゼンとした程度の知識である。寝耳で聞いていた私は、赤ちゃんがどうやって生まれるか、なんてキョーミなく、十分なキスをすりゃ、女の体に変調が起こって生まれるんだろ、くらいに思っていた。
私も、ひたすら、彼女が脱ぐことを受け入れることを心待ちにしていたのだから、あまり向学心がある人間とはいえない。場の雰囲気として、本当に彼女が脱ぐ可能性がないとはいいきれない感じだったので非常に緊張感があった。だが結局は彼女は笑ってすりかわした。怒ってないところが彼女の面白さである。小4の子供に性教育をしようといういささかふざけたところも、今思い返せば彼女の面白さである。しかしやはりどう要求してもこの商談は成立しなかったことは間違いない。彼も、「脱げ。脱げ。」の一点張りでなく、彼女のいうように、
「どうして赤ちゃんは生まれるの?」
と素直に聞いていれば、彼女を脱がすことはできなくても、もうちょっと、彼女をとどめておくことはできたろうに。そもそもこういう会話の時間を持てるということだけで十分楽しいではないか。彼女もこのワルガキにつきあって物理的に脱ぎはしなかったが精神的には脱いでいたようなものではないか。たいていの保母さんなら、叱って去るだけである。
結局、「脱げ。脱げ。」の一点張りで、「赤ちゃんの生まれ方」を質問しなかった向学心のなさから彼女は笑いながらも多少の失望と、不満足感をもって逃げるように去ってしまった。夜の美人保母さんのストリップショーは結局ムリだった。もともと彼女の良識的性格から考えてもまずこのカケは無理だろうと思っていたが、ひょっとすると、万が一には、という気持ちはあって、それが大変なエロティシズムを作っていた。だがやはりサンタクロースはケチだった。
翌日になれば、もう昨夜のことなどなかったかのように友達カンカクである。もちろん昼間に、「脱げ。」などとは言わない。昼間、脱ぐなどということはありえない、ことは双方ともにわかっている。夜だから誰にもわからないから女も気を許すのでは、との彼の計算だからである。しかし、昼になれば、昨日の敵は今日の友、というような感じで笑いあっている光景は面白い。こういう面白い子が、つまらない世の中を面白くしているのである。



女神

ふとしたきっかけで、10年も前の夏のある日の記憶が私のまぶたの内にあらわれた。それは永遠的ななにかである。私はその時、名状しがたい、ある永遠的なものを感じた。伊豆の臨海プールへ行った時のことだった。入り口で切符を買うのを待っていた。ほとんど肌の色に近いワンピースの水着の女性が手すりにかるくもたれている。なにげない表情の中にしずかなプライドと満足感がみえた。彼女はだまったまま、口元にかすかな微笑をたたえ、何を見るともなく二度とこない夏の一日を満喫していた。時おり、入場券を買う客の方へ顔を向けた。友達と水をかけあう姿は想像できない。動作がほとんどない。おとなしすぎる。日に焼けたあとがまったくみられない白い肌。かってな想像だが、そしてたぶん間違っていないだろうが彼女は泳ぎをしらないだろう。読書に熱中するようにもみえない。都会から来たものしずかなOLなのだろう。彼女は時間の存在と残酷さを知っているのだ。私は彼女の微笑の中にあるさびしさを感じとった。潮風が彼女の頬を時折うった。しかし彼女はそれを少しも意にかいさなかった。太陽が彼女の体をやいた。彼女はそれに身をまかせていた。だがいかなるものも彼女にふれることはできなかった。彼女もいかなる現実的なものを心の中で拒否していた。しかし、さびしさの中に彼女は何かを強く求めていた。私のような拙い書き手で彼女にすまない。しかし私は彼女をこの小さな文の中で永遠に若く、美しく生きつづける。




鼎談

深緑の五月のある風景。
ある駅つづきの、わりと大きな野外休憩場。私はベンチにこしかけた。少しはなれた所に直径6mくらいの大きなメビウスの輪のような彫刻があった。光のあたっている面が黒光りしている。そこに三人の女学生がたわむれている。二人が彫刻にのっているところを残りの一人が写真にとっている。やはり季節が彼女達にたわむれの行為を促すのだろう。キルケゴールの言う、あらゆるもののうちで最も美しい女性の青春、を彼女達は直感している。鼎談は最も友情の情景にふさわしい。二人は孤独、四人は雑多になる。二人の友情を残りの一人が写真にとり、三枚の写真が出来る。美しい友情の風景である。






階段の上の女神

 女子高生が二人、建物の前の少し高い階段ん上で、近くのコンビニで買ったパンと飲み物を食べている。わざとやっているのか、わざとではないのかはわからない。自分らが歩行者の目線より高いところにいることはわかっているはず。暗黙の了解のロマンファンタジーの新手の遊び、かもしれない。「ねえ。ちょっと休んでいかない。」なんて言っているかもしれない。その勇気ある決断はえらい。方向性はまちがっていない。積極的にすすめるべきことではない。永遠性とは、人の記憶の中に自分が組み込まれること、ともいえる。二人はみごとに永遠性を勝ちとっている。





詩人にならなかった人

詩を書きそうな人だった。詩をかける人だった。細くて弱そうな人だった。だがその人は詩を書かなかった。なぜなら詩をかく人間は(芸術家は)暗い人間と思われることをその人は知っていたから。すばらしい芸術をつくるのに十分な美しい感性をその人はもっていた。しかし、その人はかろうじてこの世の中でみなと生きていけるたくましさ(およそその人の属性で最も不似合いな言葉)をもっていた。またもとうとした。その人は一人でいる時も孤独におちいらなかった。でもその人を現実に保つ生命の綱は糸のように細い。その糸がきれた時、その人は詩をかきだすだろう。なぜ世の中は詩よりも会話を大事にするのだろう。世の中と私とでは価値が反対だ。この世に詩人として生まれてきた人には詩をかかせるべきだ。だが糸が切れない以上、その人は詩をかかない。自分が生きた詩人であることをその人は生きている間に気づくだろうか。気づいてくれない、のでは、との心配が私の手を動かす。

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自由学園の同窓会 (エッセイ)

2020-07-13 11:33:51 | 小説
自由学園の同窓会

平成21年の9月の最後の日曜日である。
私は机に向かって小説を書いていた。すると電話が鳴った。
「はい。浅野です」
「Y・Oです。知ってる?学園時代の同級生の」
「ああ。知ってるよ」
「あのさー。10月31日の土曜日、学園のホームカミングデーという公式行事があって、今年は俺達のクラスが行く事になってるんだけど、来れる?」
「ああ。行ってもいいよ」
「それから、その晩、名栗の旅館に泊まるんだけど、それはどう?」
「そうねー。泊まってもいいよ」
「わあ。それは嬉しい。よかったらメールアドレス教えてくれる?」
「いいよー」
と言って私はメールアドレスを言った。少しすると直ぐにメールが来た。自由学園とは卒業以来ずっと音信不通だったのに、どうして私のアパートの電話番号がわかったのか、については、たいして疑問に思わなかった。沖縄の母親に電話したのだろう。母親は自由学園の卒業生で、卒業後も自由学園と結構、つながりを持っている。そのルートで探し当てたのだろう。母親に電話して確かめたが、やはりそうだった。私は、ぜひ行こうと思った。奈良県立医科大学の卒業生名簿も送られてくるが、当然、全員が医者である。科が違っても同じ仕事なので大して興味がない。それに較べると自由学園の卒業生は、人によって色々な仕事に就いているだろうから、中学、高校と一緒にすごした同級生が、どんな仕事をしているかには興味があった。そもそも医者の世界は狭い。厚生省の診療報酬引き下げの締め付けと医療者側のイタチごっこ、がほとんど全てで、あまり日本の経済の影響を受けない。しかし公務員でなく、民間で働いている人は今の不況の日本の経済と、もろに戦っているだろうから、私よりずっと実感として世間を知っているだろう。その生の声も聞きたかった。しかし、私は緊張した所だと腸が動かなくなるので、泊まろうかどうかは迷った。そのあと、メールが何回か送られてきた。旅館で宴会をやった後、泊まらず車で帰るヤツがいて、数人は一緒にその車で帰るそうなので、私も乗せてってもらおうかとも思った。が、せっかく旅館に行くなら、泊まりたいという気持ちもあった。なので、泊まるという事にして、体調が悪かったら、泊まらず帰ろうと思った。メールでは、服装がネクタイで来て下さいだの、カジュアルでいいだのとの連絡だった。何か生徒達に自己紹介する事もあるのかもしれないと思って、何を話そうかと考えた。

そうこうしているうちに10月30日の金曜日になった。
いよいよ明日、自由学園へ行くと思うと緊張した。最近、上手く眠れる日と眠れない日があって、眠れるよう祈りたいほどの気持ちだった。だが眠気は起こっても、眠れない。時計を見るのが怖いので、パソコンをつけてインターネットのヤフーを見たら、朝の三時を過ぎている。こりゃー困ったな、と思った。明日は10時に自由学園に着かねばならない。駅すぱあと、で調べると、駅から、ひばりが丘の駅まで一時間44分かかる。では朝7時に起きなくてはならない。私はテレビと電話と携帯の三つにあるアラームを7時にセットしておいた。どうしても眠れない時は、デニーズに行って、ステーキ御前とチョコレートサンデーを食べると、眠れるのである。しかし、そうすると翌日、腹が張ってしまう。しかしどうしても眠れないので、駅前のコンビニに車で行って、少なめの焼きソバと焼き鳥とプリンを買って家に戻った。
「どうか、これで眠れますように」
そう思って布団の中で食べて、布団をかぶって目を瞑った。

   ☆  ☆  ☆

携帯の音で7時に目が覚めさせられた。
「ありがたい。眠れた」
眠れて良かった。食べた量も少なく腹もそう張っていない。歯を磨き、二週間前に転んで怪我した膝小僧の処置をして、7時半に家を出た。8時発の電車にのった。ちょうどギリギリに着くだろうと思った。戸塚で湘南新宿ラインに乗り、池袋で西部池袋線に乗った。どうせ便は出ないだろうから、学園の昼食や旅館の宴会では、あまり食べないようにしようと思った。全部、食べてたら腹が張って苦しくなって、そのため喋れなくなるだろうから。9時半に、ひばりが丘についた。久しぶりである。街もかなり変わっていて自由学園への行き方がわからない。なので、駅前のタクシーで行く事にした。タクシーに乗り、運転手に、
「自由学園まで」
と言った。すぐに着いた。9時40分である。守衛に正門の前に張ってある張り紙を指差して、
「HCDにきました」
とやや横柄な口調で言った。
「どうぞ」
と言われて敷地内に入った。誰もいない。私が一番である。だが、すぐに一人目が来た。私は一目でわかった。
「T・Mだろ」
「ああ」
だが相手は私をわからず、
「誰?」
と聞いた。
「浅野だよ」
「ああ。ジャガか」
「そうだよ。オレお前すぐ、わかったぜ」
人が来ないので彼に話しかけた。
「仕事なにしてるの」
「プータローだよ」
「うそー」
私はとても信じられなかった。
「いや。本当だよ」
そう言ってもまだ信じられない。冗談、言ってるんだろうと思った。
「お前、何してるの」
「医者だよ」
私は恥ずかしく小声で言った。相手は何も言わない。ので色々、質問した。
「子供いる?」
「いる。5人」
「ええー」
吃驚した。
「それで扶養義務はあるの?」
「ない」
次に少し大柄になったO・Nが来た。
「よう」
「やあ」
「ミュージシャンだろ」
「違うよ」
「え?だって、そう聞いたよ」
「違うよ」
「じゃ何してるの?」
「会社やってる」
「ふーん」

次にI・Mが来た。髪が白く老けてしまっている。
「よう」
挨拶したが黙っている。
「何してるの?」
「・・・」
「結婚してるでしょ」
彼は首を振った。
「テレビに出たって聞いたよ。何、話したの?」
「何も話してないよ」
「じゃ何でテレビに出たの?」
「観客として行っただけ」
なあんだ、と思った。

男子部の委員長らしいのが来た。
「こちらへいらして下さい」
私達、4人は彼に着いて行った。体育館の右横に新しい建物が出来ていて、そこに入った。食堂である。その二階の一つの会議室のような部屋に入った。H・Tが来た。彼は高等科を卒業した後、学部へ行かずミュージッシャンになった男である。
「よう(私)」
「やあ」
「すげーじゃん。Whikipediaまでのっちゃって」
「・・・」
「ホームページとブログ何回か見たよ」
「そう」
「飛行機で色んな所いくの楽しい?それとも面倒くさい?」
「まあ、楽しいね。飛行機のるの好きだから」
「結婚してるでしょ」
「うん。子供が男子部にいる」
「ええっ。そうなの」

その時、ドドッとみんながやって来た。
「ようー。ジャガー。久しぶり」
O・Mがふざけた、でっかい声で言った。
「ははは」
私は可笑しくなって笑った。かなり太ってしまっている。彼は親が大きな漬物屋で、私は彼の家にも行ったことがある。クラス1のふざけ者である。私の学園時代のあだ名は、ジャガである。何かジャガーというと格好いいように聞こえるが、ジャガイモの略である。O・Mは初等部からで、初等部からのヤツは、みな運動神経が良く、羨ましかった。しかし、あんなに太ってしまっては運動はもう出来ないだろう。というより、運動していれば、あんなに太ったりはしない。

男子部の委員長が来た。真面目そうで冗談など彼に言えるのかと首を傾げたくなった。
「先輩方の時の自治区域はどうでしたか」
私達に質問した。
「今の時代の君達はねー、ラフだろうげどねー。僕達の時は、そりゃーすこぐ真面目だったんだよ。もう、時間になるとサッと行って黙々と働いていたんだ」
私は、気分がハイになっていたので、冗談を言った。
「あ。こいつ。朝から頭がちょっとおかしくて・・・」
とO・Mがからかい半分に私を制した。
「では礼拝が始まりますので、いらして下さい」
委員長に言われて、我々はゾロゾロとついて行った。
礼拝は昔と変わらぬ体育館でやった。我々は生徒の後ろに座った。生徒達を見るとボーとして、覇気のある表情をしたヤツが誰もいない。賛美歌を歌った。我々が壇上に並んで一人ずつ自己紹介をすることになった。私は、簡単な自己紹介くらいあるだろうと思っていたから、何を話そうか、用意していた。しょっぱなから鳥居みゆきのヒット・エンド・ラーンをやろうと本気で思っていたが、何と名前だけである。バカにされてるような気がした。卒業生にたいしたヤツ何か、いないと思ってるのだろう。せめて私だけがジーパンによれよれの上着でスニーカーという普段着のラフな格好である事が救いだった。同級生は、みな大人になって角がとれた、というのか、人間が出来たというのか、おとなしく、つまらなくなってしまっている。私一人だけが、いまだに反抗期である。おそらく一生、反抗期で角がとれないだろう。角をとるつもりもない。
私達より22年前の卒業生も数人来ていた。その一人が少し話した。わかりきった事ばかり言って全然、面白くない。欠伸が出そうになった。私達のクラスから二人が話をした。これも全然、面白くない。わかりきった事ばかりである。分かりきった事でも、面白く話せば、面白くなるのだが、感情が入ってない。
その後、高三の委員長の話があったが、全然つまらない、というか、何いってるんだかわらなかった。
やっと礼拝が終わって、元の部屋にもどった。前にはH・Sがいた。彼の家はかなり大きな農場で牛を飼っていた。彼が一番早く、結婚したという事は母親から聞いていた。母親は学園とのつながりを持ってて、それで学園の情報を手に入れられた。
「牧場どう?」
「なくなった」
「ええっ。どうして?」
「経営できなくなった」
「じゃ仕事、何してるの?」
「介護の仕事してる」
「ふーん」
「ジャガは?」
「精神科医」
「どう?」
「これから高齢化社会で認知症の患者も増えるし、今がこんな時代だから、若者の人格障害も多くなって、需要はあるよ。リストカットなんて、かなりの子がするようになっちゃったじゃない」
「僕の長女もリストカットするよ」
吃驚仰天した。
「ええっ。どうして?」
「・・・」
「な、何で?」
「腕に傷がいっぱいある」
あまり根掘り葉掘り聞くと失礼で、相手もあまり言いたくないだろうからそれ以上は聞かなかった。
「昼食になりましたので、来て下さい」
委員長が入ってきて言った。我々は委員長について食堂に入っていった。
「適当に席について下さい」
私は、空いている席を見つけるのが下手なので、みな席に着いたのに一人とり残された。幸い、一つ空いている席があった。となりに教師がいる。
「ここ。いいですか?」
「うん。いいよ」
それで、その教師の隣の席に座った。食事が始まった。私は緊張している所だと消化管が動かなくなり、今晩、旅館に泊まって、また食べる事になるだろうから、腹が張らないように昼食は食べないようにしようかと思っていたが、やはり食べない訳にもいかず、半分くらい食べた。
「先生のお名前は?」
「辻村」
「そうですか」
なにか聞いた事のある名前である。はっと思い出した。私達が学生の時、学校に来た生物の先生の名前である。
「えっ?もしかして辻村先生ですか?」
「そうだよ」
吃驚した。私は先生の顔をまじまじと見た。変わっていない。髪も黒々としていて、顔も変わっていない。むしろ、私のクラスの同級生の方が、何と禿げて、腹が出て、老けてしまっているヤツの多いことか。私は感動した。
「うわー。お久しぶりです。先生、覚えてますよ。先生、正義感が強くて、寮でサボって、遊んでるワルと話し合っているの見て、すごい正義感の強い先生だなーと感心してたんです」
先生は、いかにも学園に似合いそうな先生だから、無理もないと思った。私は続けざまに、一方的に昔の思い出を語った。先生は黙ってにこやかに笑って聞いていた。
「今でも、ワルはいますか?」
「いない」
「無断借用とか、下級生いじめ、とか今でもありますか?」
「ない」
前や近くにも生徒が座っているのに、一言も話さず、感情も全く無い表情で黙々と食事し、まるでロボットのようである。私がベラベラ質問していると、先生は私の話をとぎるように言った。
「あまり、そういう事を言わないで。今は昔とは違って、そういう事は無いから」
何だか私は、少し虚しくなった。私達の頃は、ワルもいて、良い生徒もいて、ケンカしてドラマがあった。今の生徒は、まるで飼いならされた大人しい犬の集団のようである。若者のエネルギーはものすごい物である。そして、それをスポーツなり、遊びなり、あらゆる事に発散する事に価値があるのである。少なくとも私はそう思う。学校は変わったとつくづく感じた。
「冗談言ったり、笑ったりしたら、いけないって教育してるんだろうか?」
と思った。共産主義国家でも国民はエネルギーがある。ここの学校は共産主義以下である。反抗する生徒が出ないよう去勢しているのだろうか。生徒はみんなボケーとして、目に若さの輝きやエネルギーが全く感じられない。

食事が終わった。
食堂の前の芝生の中で記念写真をとった。私としては、サイドキックの姿を撮影してもらいたかったのだが、無理そうな雰囲気だったので、大人しく前列に並んだ。私は、こういう記念撮影というものが嫌いである。
記念撮影の後、学園の中を歩いて見て回った。男子部の大学部の委員長と女子部の大学部の委員長が案内した。女子部の委員長は黒い上下そろいのスーツだった。女の脚線美が後ろから見えて、尻がムッチリしていて、うわっ、セクシーと、思わず、ちんちんが勃起した。実は私は二年前に用事があって車で学園の近くに来たことがあるので、建物の様子は知っていた。
「私ね。二年前に学園に来た事があるよ。それで大芝生とか、大体見てるから知ってるよ」
「守衛は?」
「いた。卒業したから部外者で入れないけど、夕方だったもので、守衛がすぐいなくなってしまったから、入っちゃった」
誰もあんまり喋らない。ので私は後ろから委員長二人に話しかけた。
「いやー。うらやましいな。若くて。私も人生、もう一度、やり直したいよ」
委員長、二人はニコッと微笑んだ。大体、一通り回った。次に女子部に行った。女子部は昔から真面目で、今も真面目そうだった。私は女子中学生を見ると、ロリコンの血が騒いで胸がキュンとせつなくなるのだが、自由学園の女子部の生徒を見ても何も感じなかった。女子部は昔は制服が無かったが、今は制服が出来たようである。さすがに女子部はミニスカにルーズソックスの生徒はいない。私は委員長に聞いた。
「さすがにミニスカの子はいませんね。ミニスカを履く生徒はいますか?」
「少しだけど、いました。それとスカートの丈も短くなってきてます」
「ルーズソックスの生徒は?」
「履いてた人も僅かに、いましたが、ほとんどの生徒は履きません」
はは、女子部も変わったな、と思った。確かにミニスカにルーズソックスの生徒は見かけられない。
「じゃあ、娘にミニスカにルーズソックスを履かせたくない親もいるだろうから、それを売りにすればいいじゃない。娘にミニスカとルーズソックスを履かせたくない親は、ぜひ我が子を自由学園に入れて下さい、って宣伝すればいいじゃない」
などと私は委員長に言った。あながち冗談だけではないが、委員長はニコリと微笑んだだけだった。どう考えても自分が真面目な卒業生とは思えない。学園にいた時は真面目な優等生だったのに。生徒の時は、真面目だったが、大人になって不良になってしまったとしか思えない。みなと逆である。学園を一周して、羽仁吉一記念ホールという新しく出来た建物で、お茶の会をする事になった。右隣には、T・Kがいる。彼は自由学園の国語の先生である。私は、勿論、書く事の方が好きだが、読むのも好きで、近代文学は、ほとんど全部、読んで知ってるし、古典も多少、知っている。私は国語の先生になれる自信がある。それで、文学論を話せるかな、と多少期待してた。
「どんな事、教えてるの」
「夏目漱石」
「夏目漱石は、僕は、それから、が一番好きだよ。あれは姦通小説じゃない」
「・・・」
「学園にいた時、太宰治とか読んでいたじゃない。文学に入るヤツは大抵、太宰から入るんだよね」
「・・・」
「好きな作家は?」
「・・・。思想家の本、読んでいる」
と言って、三人ほど、名前をあげた。全然、知らない。何か、言いたくなさそうな感じである。しらけてる。
左隣にはH・Tがいた。彼は何か年をとったのか、学園時代のエネルギーが無い。彼はスキーを子供の頃からやっていて物凄く上手かった。ウェーデルンもコブ斜面も何でも出来た。SAJのバッジテストをしたら、1級は当然とれるだろう。その上の準指導員も取れるだろう。
「スキーやってる?」
「やってない」
「どうして?」
「忙しいから」
あれだけ出来るのに、やらないというのは勿体ない。私があれだけ出来たら、毎年、一と冬に二回は行く。運動にもなる。そもそも、卒業後、運動をしているヤツがいない。だから、老けてしまうのだ。タバコに酒に麻雀に、休日はごろ寝しているのだろう。私は絶対、老いたくない。だから、そんな物には、全て無縁である。運動もしている。水泳にテニスに空手である。水泳は2km、3kmなんて楽々である。そして私は老いに対する戦いが面白くさえある。いかに自分を鍛えて、老いないようにするか、この戦いに私はやりがいを感じている。
若さのエネルギーがあったヤツがどんどん老いていくのを見てると情けなくなってきた。私はH・Tに言った。
「オレ。空手できるよ。見せてやろうか」
「うん。見せて」
私は立ち上がり、正拳逆突きと、サイドキックをやって見せた。
「すごい」
「流派は何?」
「そうだね。まあ松涛館流だね。一週間だけ道場に通って、あとは一人で練習した」
ここでも私達のクラスより22年上のクラスの卒業生の一人の話があった。これも、ドつまらなくて、聞くのがバカバカしくなってきた。最後に教師が一列に並んで名前と教えてる教科を言った。もう、これで学校の行事は終わりである。バカにされてるような気がした。せっかく、鳥居みゆきのヒット・エンド・ラーンをブチかましてやろうと思っていたのに。帰る時、一人の教師が、
「やあ。久しぶりだね」
と声を掛けてきた。白髪でわからなかったが、はっと気がついた。矢野先生である。今は学園長をしている。矢野先生は資産家の息子である。自由学園を卒業した後オックスフォード大学を出て、学園に戻ってきて自由学園で英語の教師になった。ちょうど私達の時、戻ってきて学園の教師になった。女子部のかわいい卒業生と結婚して、家を建て、車はフォルクスワーゲンに乗っていた。資産家の息子だから、そういう芸当が出来るのである。しかし正義感が強く、男子部は坊主刈りなのに、当時は、坊主刈り、とは言いがたい位の長さの生徒もいた。それで、バリカンを持って寮に乗り込んできた事もあった。先生は、髪は白くなったが、変わっていない。懐かしさが込み上げてきた。
「いやー。先生。お久しぶり」
「先生、かわいい奥さんをちゃっかり物にして、フォルクスワーゲンに乗って、いい御身分でしたねー」
と笑って言った。先生も嬉しそうに笑った。しかし考えてみれば、今は学園長である。
こうして学校の行事は全て終わった。あとは卒業生がやってるという名栗の旅館での同窓会である。

5人、車で来たヤツがいたので、その車で行く事になっていた。しばし私達は校門の前で待った。

お通夜みたいである。みんな、何も話さない。昔だったら、人が二人いたら、無限のお喋りが始まったのに。何か若さがなくなってしまったようで、私は苛立たしくなった。
「何だよ。元気ないな。オレなんか絶対、老いたくないから体、鍛えてるよ」
そう言って、連続回し蹴りと横蹴りをした。
「すげーな。よく、そんなに足、上がるな」
と一人が言った。車が来た。私は、同窓会の幹事のワゴン車に乗った。助手席一人、後部席三人、その後ろ一人、運転者一人の六人乗った。車の中でも、私が話さないと、みんな黙っている。一人が、うつ病について聞いてきた。ので、私は色々話した。

「うつ病と、落ち込みとは違うんだよね。誰だって人生で一度も落ち込まないヤツなんていないよ。それで、落ち込んでる時、あー、オレ今、うつだよ、って言うじゃない。でもそれは、それでいいんだよ。弱音を吐く事で、一種の自己治療をしてるようなものだから」
「じゃあ、うつ病と落ち込みの違いは、どうやって見分けるの」
「そうだね。うつ病の人には、頑張れ、という言葉が、一番つらいんだよ。だって、うつ病ってのは、本人が頑張ろう、頑張ろう、と思っていても頑張れない病気なんだから。だからね、患者に、頑張れって言ってみて、つらく感じたら、それは、うつ病で、そうじゃなく、何とも感じなかったり、頑張ろうという気持ちが起こったら、それは落ち込みだね」
「なるほど。そういう方法で診断してるの?」
「いや。そんな事はしてないよ。ただ、そうやったら一番、はっきりとわかるだろうけどね」
「じゃあ、どういう方法で診断してるの?」
「そうね。色々な質問事項を書いたものに○×をつけさせて、ある点、以上だったら、うつ病ってわかるよ」
「なるほど」
「でもね。患者の話を聞いてれば、うつ病かどうかはわかるよ。うつ病の人は、食欲でないし、眠れないし、性欲もおこらないし。それに、うつ病になる人は病前性格がだいたい決まっててね。デリケートで、弱く、完全主義で、責任感が強く、罪悪感を感じやすいから」
「じゃあ、お前みたいな性格じゃない」
「そうだよ。だから僕は何回もうつ病になったよ」
彼は微笑した。
「それとねー。精神科医でも、やっぱり、うつ病の患者に、頑張れ、って言う人いるね。やっぱりねー、元気な人間には、うつ病はわからない場合があるね。それでねー、うつ病を一番よく解る人といったら、やっぱり自分がうつ病を経験した患者とか医者だね」
「オレもうつ病になって、医者にかかった事あるけど、何かあやふやでね。それで、うつ病を経験した医者ってのを本で見つけたから、その医者にかかったら理解してくれて、それで良くなったよ」
「そう。よくドクターショッピングはよくない、とか言うじゃない。でもあれは違うね。やっぱりねー、相性の合う医者を探さないとダメだね。相性の合わない医者にいくらついててもダメだね」
私は続けて言った。
「それとねー、うつ病になってる人ってのはねー、自分の好きな事、たとえばテニスだとかテレビ観る事だとかは出来るんだよねー。だから、怠け病と社会に誤解されるんだよ。うつ病ってのは社会の偏見が作り出している病気だからね」
等等と、話しているうちに熱が入ってきた。それ以外でも、ざっくばらんに色々な事を話した。

そんな事を話している内に旅館に着いた。4時半に学園を出て、一時間かかって、着いたのは5時半くらいである。ここは男子部の卒業生が経営している旅館である。紅葉しはじめた木々に囲まれ、すぐ傍にサラサラと流れる清流がある。都会から離れた清閑な場所である。旅館も大きく立派である。一度、こういう旅館に来てみたかったのである。勿論、かわいい彼女と一緒に。
しかし、このように都会から離れた場所に来る客が、どの位いるだろうか。宿泊料も高いし、経営は成り立っているのだろうか、と思った。特別、景色がいいわけでもないし、いい見所や名所、旧跡があるわけでもない。場所にブランドが無い。

後続車も着いて全員、そろったので旅館に入った。
食事の前に一風呂浴びるヤツも数人いた。私は入らなかった。おちんちんを見られるのが恥ずかしかったからである。風呂に入ったヤツもすぐ出てきた。大広間に全員が集まった。私は隅の方に座った。食事が運ばれてきた。幹事が挨拶して食事が始まった。食べても便は出ないだろうし、それによって腹が張るのを怖れていて、食べないつもりだったが、やはり美味そうな料理を目の前にすると、食べてしまった。私は味覚音痴なので、料理の美味さは分からない。しかし、コンビニ弁当やファミリーレストランの食事、都会のレストランの食事よりは明らかに旨いのは、わかる。

食事も半ばになると、幹事が挨拶して、一人一人の卒業後の人生のあらましを述べる事になった。
初めに指名されたのは、朝、最初に会った、子供が5人いて、バツ2で今はプーローと言ったT・Mである。プータローなどウソだと思っていたが、本当だった。彼は二回、結婚して、二度とも離婚し、子供は5人いて、前は芸能関係の仕事をしていたが、リストラされ、第二種免許を取りタクシーの運転手になった。しかし客を乗せて走っている時、事故を起こしてしまいタクシー会社をリストラされてしまった。今は職が無く、パソコンも持っておらず、職安に通っているという。
その次に誰かが指名され、話した。
私は三番目に指名されて話した。
中には会社を経営している者もいたが、親が社長で跡を継いでいるだけである。
父親が大きな漬物屋だったヤツも跡を継いで漬物屋になった。従業員が4人いる。
「売り上げが多くても、手取りの収入が少なく、経営が厳しいが。しかしリストラはしない」
と言ったのが印象に残っている。勤務医なんて、不況になっても、まず日本経済の影響を受けない。やっかいなのは、厚生省の診療報酬引き下げで、それと医療者側のイタチごっこである。厚生省の締め付けで出来ていた仕事が出来なくなる事もある。しかし医師免許があると、何科をやってもいいから転科すればいいし、また地方では医師不足で困っているから、贅沢を言わなければ職に困るという事はない。だから医者は世間知らずな面があるのである。だから世間の現状を知りたくて同窓会に出席したのである。
一人、年商40億の会社を経営しているヤツがいた。大したものである。
他は、大体、地味な会社員である。あるヤツは、大学部卒業後、ある会社に就職してその後、ロンドンに行き、帰国してから、リストラされ、ビルの管理の仕事についた。仕事に必要なため、勉強して電気工事士の資格を取ったが、第二種の電気工事士の資格がなくてはダメで、その資格を取ろうとしていると言った。
概ね皆、最初に就職した会社は転職している。そして結婚して子供もいるのが多いが、離婚したり、現在、離婚を考えて弁護士をつけて、協議中というのが非常に多い。むしろ、家庭生活が上手くいっている人の方が三人程度と、少ない。
そんな事で、話しているうちに8時半になった。

大宴会場を使えるのは、8時半までだったので、別の部屋に移動した。
私は部屋の隅で、H・Tと少し話した。彼は高等科を卒業してからミュージッシャンになった。彼は学園中から、もう将来はミュージッシャンになる事に決めていた。実際、彼は学園中から賛美歌のピアノを弾いていたし、特にジャズに惹きつけられていた。作曲もし、CDも出している。さらにWhikipediaに彼の名前が載っている。子供を男子部に入れている。しかし聞くと、近く離婚するという。理由は知らない。さらに本人から、色々な薬物に手を出した、と聞いて吃驚した。芸能人やミュージッシャンなら薬物に手を出すのは、わかるが、彼はそんなメジャーな世界のミュージッシャンではない。そんなにストレスがかかるとも思えない。それで色々、聞いてみた。
「ええっ。薬物やったの?」
「うん」
「どうして?」
「・・・」
私には、その理由が分からなかった。H・Tは言った。
「お前だって、東大医学部とか出てる医者には劣等感、感じるだろう?」
「いや。感じないよ」
私は自信を持って言った。
「彼らは人間コンピューター。独創性とか創造性が特に優れているわけじゃない。教授も言ってたけどね、彼らは大量の文献を読ませると、それを読んで理解するスピードは速い。でも独創性とか創造性が特に優れているわけじゃない。教授が言ってたけど、彼らも勿論、発見とかする事はあるけど、それは、ほとんど二番煎じ。彼らが何か発見した時には、その発見はもうすでに他の誰かが発見しているというケースがほとんどだって」
「つまり情報処理能力が速いってことだろ」
「そう。私もね、東大出の医者を何人か見てきたけどね、物事の本質が全然、分かってないヤツがいるからねー」
「そうだよな。政治家なんて東大出ててもバカな事するヤツいるもんな」
私は口に出して言わなかったが心の中で異論を唱えた。
「それは違う。東大出の政治家はワルなのであって、バカじゃない。しかし東大出の医者の中には、本当に物事の本質が分からないバカがいるのである」
彼は医者の世界を知らないから無理はない。医者の世界では東大出も私立も関係ない。医学部に入学する時の成績と、卒業する時の成績と、卒業後、伸びるかどうか、この三つは全く関係ないのである。そもそも医師国家試験にしても、東大生でも落ちるヤツはいるし、私立医学部の学生でも通るヤツはいる。さらに言えば医者なんて、知性的な仕事でも何でもない。もっとも、私が東大出の医者に劣等感を感じないのは、口にこそ出さね、今までずっと小説を書いてきて、これからも一生書くつもりだからである。しかし彼はそうは私を見ていないようだった。そして言った。
「音楽の世界でもね、劣等感、感じるんだよ。周りは、どこどこ音楽大学出とか、そういうのばっかりだからね。オレは音楽大学、出てないから」
「そうかなー。だって音楽っていうのは、いい曲か悪い曲かのどっちかじゃない。学歴なんて関係ないんじゃないの?」
と言っても彼は首を縦に振らない。私は聞いた。
「音楽の才能ってのは、先天的なもので絶対音感があるかどうかでしょ」
「違う」
「どう違うの」
「絶対音感というのはね、先天的な才能じゃない。誰でも身につけられる。三歳までに、ドレミと聞いて、ピアノを見ないでドレミを打てるかどうか、なんだよ」
と彼は言ったが、あまり納得できない気分だった。私は、素晴らしい曲を作曲できる才能は天才だけのものだと思っているからである。

ふと見ると、移動した部屋で、残りのヤツが卒業後の人生を語っていた。私は急いで、そっちの部屋に行った。H・Tもその部屋に移った。残りの数名が卒業後の人生を語った。
出席者全員が語り終わると、ざっくばらんな話しになった。
私の隣には、クラスで秀才のH・N君がいた。彼は学校時代、私より秀才だった。父親が東芝の商品開発の研究部門の秀才で、彼の秀才は父親ゆずりだった。彼に本気で受験勉強させれば、東大理三も合格できるかもしれない。少なくとも東大の理系学部は確実に入れる。中学3年の修養会の時、堂々と「将来は経済学者になろうと思う」と彼は言った。クラスのみなが聞いていても全く違和感がない。学園時代は、フランス語、ドイツ語、を独学で勉強していた。それほどの秀才だった。しかし彼は大学部に進学した。私は母親から、H・N君が、大学部卒業後、東工大に行ったと聞いたので、聞いてみた。
「H・N君。学部卒業後、東工大に行ったんでしょ」
「いや。行ってないよ」
「えっ。そうなの。今、何してるの?」
「携帯のソフト作ってる」
私は携帯のソフトとはどんな物なのかと少し考えてみて私のイメージを言った。
「ソフトっていうと、パソコンのソフトが頭に浮かぶけど。でも携帯とパソコンは、ほとんど、つながってるでしょ。何かパソコンでソフトを作って、それを携帯に送ってる、ってイメージがするんだけど、どうなの?」
「そう。その通りだよ」
そう言って彼は携帯の画面を見せてくれた。スキーのモーグルの連続写真が写っている。彼ほどの秀才にはもっと大物になって欲しかった。
「いやー。H・N君には経済学者になって欲しかったな」
私は残念そうに言った。彼は苦笑いしている。
「経済学者になりたかった、というのは父親の反動でしょ?」
「うん。そう」
彼の父親は理系の秀才で彼も理系の秀才だったため、自分に無い大きなものを目指しているのだと思っていた。理系の研究者は、商品開発という小さなものを対象とするが、経済学者の研究対象は日本さらには世界という、この上なく大きな生命体である。夢が大きいなと思った。だが今は携帯のソフトの設計者である。結婚もしている。
「子供いる?」
「いるよ。進学校に通わせている」
「それもしかたないよね」
「君のように目的を達成した人間って羨ましいよ」
言われて私は照れ笑いした。確かに、当時の目的は達成したが、そのあと本当の目的が見つかって私は一心に奮闘しているのである。しかし小説創作の事は言わなかった。

幹事が、今日、来なかったヤツの近況を言った。同じく理系の秀才のKは弁理士になったそうだ。スポーツ万能だったOは、浅草でバーテンダーをしている。その他も、学生時代は、能力も志もエネルギーもあったヤツが、何とも、およそ学生時代の頃とは似つかわない地味な仕事をしているので、寂しくなってきた。

もう11時になっていた。O・Mはこれから車で帰る。明日、仕事があるからである。私も昼御飯も、夕食と食べて、緊張しているので便が全然、出ず、擬似性腸閉塞で腹が張って苦しく、もう十分、同級生の話も聞いたので、一泊する予定だったが、帰ろうと思った。私は便秘で腹が張ると苦しくなって、うまく喋れなくなる。それでO・Mに頼んだ。
「ねえ。車、乗せてってよ」
「ダメだよ。4人も連れてくから、乗る場所ないよ」
「オレ、体重、軽いから大丈夫だよ」
「・・・」
「じゃトランクの中でいいから」
だがO・Mはウンと言わない。
「だってもう電車ないぜ」
「飯能駅に車とめてある」
私は見え透いたウソを言った。
「おーい。ジャガが逃げようとしてるぞ」
彼は皆に聞こえるように言った。もう私も諦めた。別に人見知りで泊まりたくないのではない。緊張した所だと便が出なくなって腹が張って苦しくなるから、泊まりたくないのである。しかし腹の張りの度合いは、そうひどくない。たった一泊である。明日の昼には自由になれるのである。それに、せっかく行った旅館には一泊したいというアンビバレントな思いもあった。それで、諦めて泊まる事にした。緩下剤を飲んで、トイレに行って、いきんでみた。しかし出ない。何度もいきんだ。すると、少しだが、ガスが出た。便は出ないが腸が動いた感じが伝わってきた。腹の張りが、少し軽くなった。やった、これなら明日なんとかなるだろうと思った。もう皆寝ている。人がいる所だと、どうせ緊張して、眠れないから徹夜しようかと思った。だが布団に入ってみた。やはり喋りつづけて、疲れたのか、ほっとした。睡眠薬を飲んでみようかと思った。睡眠薬を飲んで、眠れればいいが、眠れないと、翌日、眠くなってボーとなるので、どうしようかと迷った。多分、眠れないだろうが、もう自棄になって睡眠薬を飲んだ。

        ☆  ☆  ☆

翌朝、目を覚ました。
「やった、眠れた」
朝、目覚めて一番に感じた喜びは、眠れた喜びである。今日、帰れるから、もう怖い物なしである。時計を見ると7時である。私は起きて旅館の土産売り場を見たり、旅館の屋上の風呂を覗いてみた。クラスのヤツがいなかったら入ろうと思っていたが、一人、入っているヤツY、がいたのでやめた。私は旅館を出て、外に出た。木々が紅葉しはじめ、黄色く色づき始めていた。清流がサラサラと流れていて、心が和む。Yが出てきた。風呂から出て、外の景色を見に来たのだろう。彼は学園時代、スポーツ万能で、私は彼を羨んでいた。しかし、今は、ほとんどスポーツはしていないという。ゴルフとサッカーをたまにやる程度だと言う。
Sがランニングから、帰ってきた。こんな旅館に来てまでランニングをするとは、大したヤツだと思った。昨日、聞いて知っていたが、彼はホノルルマラソンに出場する予定で、毎日、走っているという。

もう、そろそろ朝食になるだろうと旅館に戻った。座敷に入るともう、すでに何人かいた。朝食は、和風で量が少なかったので全部、食べた。
そして我々は旅館を出た。
「またいらして下さい」
と旅館の女将が言ったが、同じ旅館に二度行くつもりはない。我々は車に分乗して名栗の植林地に行った。そこは自由学園の所有地で、学園の時、一週間、労働に行った事がある。かなりの労働量だったが、労働の喜びをつくづく感じて楽しかった。山の中の小屋に寝泊りするので、食事は自炊で、風呂もドラム缶である。しかし、一週間だけだから楽しかったのであって、あれが本職になって、毎日、あんな肉体労働だったら、たまったものじゃない。
それにしても、何でわざわざ植林地を見学に行くのだろうか。単に近いからか。それほど見たいとも思わない。
だんだん山の中に入っていって、鬱蒼とした高い杉の木が見え出した。道もドライブウェイでカーブの連続である。自転車族が多い。坂道で、よくこんな所まで来るなと思った。
「あれって、いいよな。確実に足の筋力鍛えられるから。でもよくこんな坂道じゃ、かなり疲れるだろう」
「そんな事ないよ。性能がいいから、疲れないらしいよ」
「ええっ。そうなの?じゃ、趣味でやってるの」
「でしょ。でも当然、足も鍛えられるだろうね」
「あの自転車ね、いいのだと100万以上するのもあるよ」
「ええー」
私は吃驚した。そして次は暴走族が通った。爆音をならして、改造してあって、どう見ても健全な二輪愛好会とは思えない。暴走族は、こんな田舎道までよく来るものだ。しかしコーナーリングが面白いだろうし、警察もやってこないだろう。しかし暴走族とは自己顕示欲が強くて自分らを人に見せたいために走るのだから、都会で走るのが普通ではあるはずだ。

そんな事で、とうとう休憩所に着いた。あとは、歩きである。我々は杉林の中の山道に入っていった。皆、坂道で息切れしだした。私は、体力落すの嫌だから、また、気の向いた時だけではあるが、運動もしているので、たいして疲れなかった。かなり歩いた後、林の中に小屋が見えてきた。完全に記憶が蘇えった。それまで、そこで働いた事や、印象のある事は、覚えていたが、小屋の様子や周辺の様子は忘れてしまっていた。しかし、小屋を見て、小屋から見た周りの様子を見ると、昔の記憶が蘇えった。昔と全然、変わっていない。小屋の中で私が寝た場所、生徒が言った冗談までも思い出されてきた。
「ここ。野外キャンプするには、いい場所だな。あるいは、ホームレスが寝るのにも。夜は寒いだろうけど、地下鉄の駅でダンボールの中に寝るよりはいいな」
私はそんな事を言った。
「T・Mは今日からここに住めよ」
などと皆はかなりきつい冗談を言った。彼は職なしだから確かに、住と衣は確保されるだろう。しかし金がなければ食は確保されない。金があっても食い物を売ってる所まで行くには車でもかなりの時間がかかる。彼は車も持っていない。現実的に不可能である。そこでも記念写真を撮った。そして引き返して休憩所に戻った。わざわざ山小屋を見るためだけに行くのは無意味なように思っていたが、実に感無量である。しかし、幹事は見れば記憶が蘇えって感無量になるだろうと思って計画したわけでもあるまい。偶然の一致である。

そしてまた車に乗り込んで、山を降りた。かなり走ってやっと市街地に出た。西武池袋線の駅がある。
「ここでいい」
と言ってI・Mが降りた。そして車はまた走り出した。乗っていた我々4人は、どこかで昼飯を食べる予定である。
「どうして、I・M、降りたの?」
「何か12時に仕事で誰かと会うんだって」
時計を見るともう12時である。結局、彼は何も話さなかった。仕事の事も聞いたはずなのに、よくわからないし、結婚もしていない。なぜ結婚しないのだろう。私は、悪遺伝子撲滅という信念に基づいて結婚しない主義なのに、彼はそうではあるまい。まあ、人生長くやっていれば、誰にでも、人に言いたくない嫌な事情を抱えている事も当然、あるだろうから、そんな事じゃないかと思った。車には4人になった。私は助手席に乗り換えた。
「ねえ。この車、いくらした?」
私は運転している幹事に聞いた。
「120万」
「どひゃー。新車でしょ?」
「うん」
私はとても車に40万以上かける気は起こらない。私は外見はボコボコの、中古の30万で買った激安車を車検12万で通して、乗り継いでいる。残りの二人はHとYである。
幹事が、二人目の子供を生むのに苦労している事を語った。今、日本は不況で生活は苦しく、彼は正社員だが生活は楽ではないはずだ。子供一人生んだら育てるのに金がかかる。
「どうして二人生むの?」
「女房が二人欲しがっているから」
何と単純な理由なのだろう。ということは彼は収入は結構、いいのかも知れない。そこから話がバイアグラになった。
「バイアグラって凄いね。本当に立つんだから」
一人が言った。私は医者なのにバイアグラの事は知らない。それで聞いた。
「バイアグラってどういう物なの。立つって聞いているけど。飲むと性欲が起こるの?」
「いや。飲んでも性欲は起こらない。飲んでエッチな事を考えると立つんだよ」
「一粒いくら?」
「千円くらい」
「じゃあ、どんな風になるか、試しに飲んでみようかな」
私はそんな事を言った。

ふと私は、ある事を思いついて、運転している幹事に話しかけた。
「ねえ。沖縄の母親に一言、電話してくれない。浅野は元気で凄く真面目だったって」
「うん。いいよ」
幹事は答えた。私は親の暴君ぶりをここぞとばかり暴露した。
「オレ。親と話す事も出来ないんだよ。電話しても、居ても留守番電話にしてあるから。オレの親はねー、自分の思い通りにならないと気がすまないんだよ。結婚して家庭を持って子供を生まないと、人間として半人前扱いするからね。もう、結婚しろー、結婚しろー、ってうるさくてね。親は人前では善人面してるけど私に対しては横暴の限りをつくすからね。もう親とは完全に断絶状態だから」
「わかった。じゃあ電話しとくよ」
幹事が言った。
「昼食、どこで食べたい?」
「どこでもいいよ」
そういうわけで、あるファミリーレストランに入った。テーブルを挟んで二人ずつ並んで座って向き合った。

正面のYは学園時代、スポーツ万能で羨望の眼差しで見ていたが、今では、ゴルフとサッカーを時たま、やるだけである。腹に脂肪がついてしまっている。しかしその程度は軽い。長く結婚せず、独身貴族だったが、少し前にやっと結婚した。勿論、彼女として付き合っていた女性とである。彼女が妊娠してから結婚した、ということだから、出来ちゃった結婚である。彼の妻はハワイのフラダンスを教えているということである。
「外国、何処と何処に行った?」
私は皆に聞いた。
「ハワイでしょ。ロサンゼルスでしょ。あとドイツとイタリア」
Yが指を折りながら答えた。幹事は、
「トルコとイスラエル」
と言った。Hは何も言わなかった。が、外国、どこにも行ってないはずはない。
「オレ、外国どこにも行ったことないよ。さして行きたい所も無いけどね」
と私はいささか自慢めいた口調で言った。
「でも、一度、ブラジルのリオのキリスト像、見てみたいな。あと、ニューヨークの地下鉄とかも乗ってみたい。それとローマのコロシアムも見てみたい」
よく考えると結構、行ってみたい所はある。しかし何が何でも行きたいわけではない。だから行かないのである。Yはハワイに何回か行っている。
「ハワイ。日本人、多いでしょう」
「うん」
「ドイツ一度、行ってみるといいよ。カルチャーショック受けるから」
「そうかなー。多分、何とも感じないと思うよ。オレ、沖縄には行ったけど、全然、感動しなかったもん」
そんな事でレストランではハワイの話になった。
「ハワイはねー。マウイ島より、近くの島の方がいい」
「どうやって行くの?」
「飛行機で」
「モーターボートとかでは行けないの?」
「船は大型客船だね」
「サーフィンやったでしょ」
「うん」
「Yは運動神経がいいからサーフィンなんて簡単でしょ」
「いや。難しいよ。ロングボードは簡単だけどショートボードは難しい」
「うん。ショートボードは難しいよな」
Yの隣に座っていたHが相槌をうった。やはり、ハワイには、当然のごとく行っているのだろう。
「ハワイのホテルはねー。パック旅行でも一部屋いくら、なんだよね。で結構、高いんだよね。だから、泊まるんなら、たくさんで泊まった方が得」
「じゃあ、ホテルに泊まらないで、キャンプ場にテント張って、寝るってのは、出来ないの?」
「出来る。テント貸すのあるからね。でもハワイは海風が強いから、半袖じゃだめだね。長袖着てかないと」
それは沖縄も同じである。風が強いのである。
「ハワイは年中、気温が高くて湿度が低いからね」
「じゃあ、最高じゃない」
「ハワイは冬、行った方がいい。夏は皆、行くから混んじゃうからね」
「ハワイ行くと結構、自由学園の卒業生に会うんだよね」
私の隣の幹事が言った。トルコとイスラエルと言ったが、ハワイもちゃんと行っている。ハワイは、当たり前過ぎて言わなかったのだろう。幹事は、婦人の友社、で働いているから、自由学園の卒業生だとわかってしまうらしい。だが、卒業生と分かったからといって別にどうという事もないような気がするのだが。結構、気を使うらしい。
そんな事を少し話した。私は友達がいないから、こういう人にとっては当たり前の事をするのが凄く嬉しかった。やはり、泊まってよかった、とつくづく感じた。物を知るのには本や雑誌を読むより人に聞く方が手っ取り早いのである。

食事が終わって、レストランを出た。車に乗って、すぐに飯能駅に着いた。Yは方向が違ってバスで、停留所に向かった。手を振って別れた。私は幹事に、
「母親に、浅野。すごぐ元気でしたよ、って電話しといて」
と手を合わせて頼んだ。
「うん。わかったよ」
と幹事は言った。あとは私とHの二人になった。共に池袋まで行く。彼は、これから静岡に行って、それから山梨の甲府に行くらしい。彼は山梨で介護の仕事をしている。彼は父親が牧場を持ってて牛を飼っていたのだか、牧場は潰れてしまったらしい。外国の安い牛肉に勝てなかったのだろう。彼は、私達のクラスで一番早く結婚した。22才で女子部の卒業生と結婚したのである。子供は女の子、二人である。だが、妻とは、上手くいっておらず、離婚協議中だという。電車に乗ったが、座れず、立ったまま話した。昨日、長女がリストカットしてると最初に聞いて吃驚していたので、その事について恐る恐る聞いてみた。
「どうして離婚するの?」
「・・・」
性格の不一致が離婚の理由とは考えられない。
「嫁姑の関係が悪いの?」
「いや。悪くないよ」
「娘さん。どうしてリストカットするの?」
「・・・」
あまり、人の事を詮索するのは、好きじゃないが、つい、どうしてか、理由が知りたくて聞いた。
「リストカットの原因てさあ、親の虐待が多いじゃない。虐待してないでしょ?」
私は上目遣いに恐る恐る聞いた。子供を虐待しているとは思えない。
「妻がしてるんだよ」
「ええー」
私は吃驚した。私の頃の女子部は、それはそれは真面目だったからである。それは今でもそうで、昨日、女子部を見た時もミニスカにルーズソックスの生徒はいなかった。自由学園の女子部だけは今時の女子高生とは違う。彼の妻は女子部出である。
「ええっ。なんで?女子部って真面目なんじゃないの」
私は極めて雑な見方の質問をした。
「いや。妻はね、娘の首絞めたり、『お前なんか産まない方が良かった』とか言うんだよ。それが、つらくて娘はリストカットしちゃうんだよ」
「ええー」
私は吃驚した。
「奥さん。どうしてそんな事するの?」
「妻もね、母親は義理の母親で、虐待されたんだよ。それで子供を見ると、そのフラッシュバックが起こってしまって、娘に対しても同じような事をするんだよ」
「ふーん。なるほど」
私は、だんだん納得してきた。
「だからね。娘は下の娘には優しいんだよ。それでブログとか書いててね、自分の思いを書いてるんだ。オレ、娘のブログをよく読んでるよ」
「そう。書いて発散するのって非常にいいんだよ。心の中に自分の思いを閉じ込めちゃうと、ストレスが溜っちゃうからね」
「それでね。娘はね、自分が虐待されて辛い思いをしたから、将来は大学の心理学部に入って心理の勉強をして臨床心理士になりたいと思ってるんだ。妻とは、どうしても一緒に暮らせないからオレの所に来ちゃうんだ。だからもう離婚するしか仕方がないんだよ」
「なるほど。完全に辻褄があうね。完全に納得した」
そんな事を話しているうちに池袋に着いた。池袋で彼と別れた。私は池袋の喫茶店に入った。Hとの二人きりの会話は、緊張した。私はアイスティーを注文した。もうこれで、完全に一人きりになれて、私はほっとした。すぐに便意が起こってきてトイレに入った。腹の中に溜っていた便がドドッと出て、スッキリした。やはり私は人の中では緊張してしまって、便が出なくなる。やっぱり私は、一人きりでいる時が一番ほっとする。私は、今回の事をエッセイとして書いてみようと思った。


平成21年11月8日(日)擱筆

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医療エッセイ・9編

2020-07-13 11:27:25 | 小説
愛が強すぎる子

私が研修した病院は600床の大きな病院だった。一つの病棟が50床くらいで、病棟医は一人か二人で、研修医がくると、どこかの病棟へ配置され、病棟医が指導医となって、指導をうけることになる。はじめの半年、私は女子病棟に配置された。病棟医は二人いて、大がらで大らかな医長と、三年目になるレジデントだった。そのレジデントは、きれいな字で、仕事も、全くミスがないコンピューターのようなブラックジャックのような、病院の強い戦力的存在だった。名前を仮にA先生としておこう。別の病棟の背のたかいコンピューターにくわしいB先生に通院でかかっていた女の患者が症状悪化して、入院することになった。B先生は男子病棟うけもちだったので、入院中はA先生が主治医になることになった。患者の意に反しての医療ホゴ入院である。患者はよほど、医者-患者の信頼関係がよかったのか、というか、B先生には内からにじみでるしずかなやさしさ、があり、B先生に全幅の信頼を寄せていた、というところだろう。その子はB先生という強い心のささえ、があったから生きてこれた、といっても過言ではないように思える。その子はB先生を医師としてだけではなく、一方的に恋愛的な感情も、入れていたようだ。いかなるものも私とB先生をひきはなすことはできないわ、といったカンジ。
外来で、入院に納得しないので、B先生が呼ばれて、やってきた。すると、その子は、トコトコとB先生のフトコロに入ってきて白衣にしがみついて「B先生でなきゃいや。」と言う。その子は愛が強すぎるのだ。女子病棟では、病棟主治医制がわりとつよい。主治医制はグループ診療より責任の点でいいが、融通はつける。受け持ち患者以外は、みてはならない・・・ということはない。夏休み、その子の主治医のA先生が一週間休みをとって、結婚したばかりの女性とハワイへいってきたが、その間の主治医は、もう一人の上のベテランDrで、権力をもった人だが、心も体同様おおらかで、いっつも宇宙人的な笑い方をする。地球人的笑い方ではない。エート。A先生がハワイへ行く前、その子が「先生。ウフッ。来週、ウフッ。私の主治医のA先生が、ウフッ。休みますけど、ウフッ。先生は主治医でないけど、ウフッ。はなしてもいいですか、ウフッ。」と言う。その子は性格がいい、かわいい子なので、ちょっとやりにくい。私とて本心は・・・。が、医者にあっては、モラルは本心に絶えず勝つ。その子の主治医のA先生は美形だけど、ちょっとキビシイ先生で、ある別の患者が「先生はキビしすぎる。ぜんぜんほめてくれない。主治医をかえてほしい。」と言ってたが、その訴えは私も感じていたことではあるが、なぜかというと、「先生はキビしすぎる。ぜんぜんほめてくれない。指導医をかえてほしい。」と私も思っていたからである。キズつけるわけにもいかず、かといって医者はラブラブごっこしているわけじゃなく、あえていうなら、その子は愛が強すぎて、人間関係を恋愛妄想的に考えてしまう。キビしくしてはキズつけるし、やさしくしては、恋愛妄想を強めてしまう。やりにくい。わたしは美形ではないが、患者の話を一心にきくので、その子も、なにかの時「先生には先生のよさがあるんで・・・。」と言ってたが、「はなしていい?」(○とかXとか手できく)ので、ニガ虫をかみつぶしたような顔でしぶしぶよそを向いてうなずくと、翌週の朝、さっそくはなしかけてくる。早足に行こうとすると「どうしてそんなにサッサと歩くの?」と言ってくる。医療は不倫ごっこではないのである。かわいいが、しかるわけにも親しくするわけにもいかない。その子はナースセンターにきて、(患者は症状が悪くなると自己中心的になる)「B先生と話したいからデンワつないで。今すぐ。病院の中にいるんでしょ。全館放送して。」という。ふつう、まじめなDrは、ここでしかるが、私は原則をやぶろうとしたがる性格があるので、よーし交換に言って全館放送したろかーと思ったが、そこまではしないで、B先生の病棟につないで、その子に受話器をわたした。その子は一心にはなしていたが、少し話してから、私が呼ばれ、患者が言ったからって電話かけてくるな、ともっともなことをいわれた。その子はB先生に詩をかくからわたして、といって、詩をかいた。「看護婦さんの仕事はたいへんなのよー。知ってるー?」と言う。(たいへんにしてるのはあなたじゃないか。)「知ってるよ。」と言うと「どうしてわかるのー?」ときく。「いや、想像すれば、何となく・・・」と言うと「あはっ。想像すれば?じゃあロマンチストなんだ。」なんて言う。(ロマンチストなのは詩でメッセージをかくあなたではないか。)その後、その子が、何か要求したが、何だったか忘れたが、私はあんまり相手を直視して話ができないので、その子の長々とした説教をきいてるとだんだん顔が教師にしかられる生徒のように、うつむいてくる。と、彼女は「人と話をする時はちゃんと相手の顔をみなさい。」ともっともなことを言う。三回くらいいわれた。ナースがその子に「あなた。B先生だっていそがしいのよ。○○先生はやさしいからって、先生に命令するなんて失礼なのよ。」とちょっとキビしくいわれると、本当になきそうな声で「ゴメンなさい。ウェーン。ゴメンなさい。」という。本当にやりにくいかわいい子である。男子病棟へ移って、そこにすっかりなれて、四ヵ月くらいしたら病院の歌謡大会があって、女子病棟では、その子が「love is all music」とプログラムにのってて、あいかわらずだなーと思って、その子を思い出して、かいてみたくなった。



カエルの子

その子、は、かわいい、まるい顔のケロヨンっぽい子だった。精神科の患者は、年齢より少し若く見える。体の症状の訴えの多い子で、ある夜、足が痛い、と訴えてきた。関節痛、関節痛と考えて、リウマチ、いや、既往歴にない、カゼひいた後の関節痛だからヘノッホ、シェーンライン、いや発疹がない。考えてみれば。自律神経症状で関節痛がでるんだから、関節痛を訴えたら、まず自律神経性のものと考えるべき。しどろもどろして、困ってると、研修の先生ですか、というので、はい、と答えると、緊張してますね、というので、はい、と答えると、キンチョーしないでください。キンチョーされるとこっちもますますキンチョーしてしまいます。という。当然。湿布をする。その子は別の病棟にいたのだが、病院内の都合から、こっちの病棟にうつってきたのだった。数日後、入院患者の年中行事の一つとして、6月頃だった。バスハイキングで、○○臨海公園へ30人くらいで行った。その時、その子は渚に足を入れながら、他患とうれしそうに話していた。昼食の時、私が一人で弁当たべていたら、ある患者に、先生、一人でお弁当食べておいしいですか、ときかれた。ちなみに精神疾患の患者の食べ方の特徴の一つに一人で食べるということがある。6月の頃はそんなふうで、明るくよく話す子だった。だが秋ころから話さなくなり、ついに全く無口、だれとも話さない。利き手の右手を使わず、左手で、つげられる人にだけ書いて意志を告げる筆談状態になった。こういうことはきわめてめずらしいことである。その子は自分がある上人の生まれ変わりという妄想をもってて、誇大妄想、○○学会に入っていた。七月のタナバタのたんざくに、みなさんがはやくよくなりますように、とかいたりしてて、やさしい子だった。私が彼女の筆談の相手になると、彼女は左手で、苦しそうなカナクギ字で宗教的な訴えや、個室に入れてほしいことを訴えた。個室に入れられることを自ら申し出る患者はめずらしい。その子は個室に入れられないと、念仏をとなえて、みなにメイワクをかけるから、とかいた。個室にいれてくれるなら何でもします。はだかおどりでもします、とかいた。失礼な。私がモテそうにみえないから、私が彼女のはだかおどりをみたい、と思っているのか。自分のかわいさ、に、ちょっぴり、うぬぼれているぞ。たしかにかわいいが。悲劇のヒロインぶってるぞ。だが、それは全然、彼女の認識不足。子供の見方。医者も聖人ではなく、性欲もあるが、公私混同はしない。というより、そういう感覚になるのである。なんとなれば、病人というのは、社会的弱者であり、元気がなく、体格も貧弱で、また患者として人をみている時、頭は診断のための医学辞典と化している。が、次の日、その子は、下はズボンをはかず、パンツ姿で歩いていた。彼女の意思表示である。もちろん私は目をそむけ、その子と目をあわせないようにした。そんなカッコで歩いてちゃこまるでしょ、と、ナースに注意され、やむなく、ズボンをはいたようである。その翌日、筆談でまた彼女は、みなにメイワクをかけるから、個室にはいりたい、個室に入れてもらえないとタイヘンなことがおこる、と書いた。が、きいてもらえなくて、ナースステーションにやってきて何人かのナースのいる前で、口をきかずに、目をさらのようにして、口をイーして、せまってきた。いいたいのにいえないもどかしさ。やさしい子なので、おこってもあんまりこわくない。自分の信じる宗教の非暴力で、自分をしばっている点もあるのだろう。ナースの一人が、こりゃ、カエルだね、といったが、私も内心そう思っていた。もともと、カエルっぽいかわいさの子だったが、おこった顔はますますカエルになる。その日、彼女は同室の人をみな、けっとばした。小さなハルマゲドン。力のない彼女がけっても、他患は大ケガはしなかった。が、他患にメイワク行為あり、で、隔離の理由ができ、又、しなければならず、
(基本的医療の精神はできるだけ人権尊重から、隔離はしないものなのだが、他患に暴力ふるうとなれば、カクリ、むしろ、しなくてはならない。他の入院患者の人権と安全を守り、もちろん本人の安全のためにも、)カクリで個室に入れられたら、その子はとっても明るくなり、話すようになった。信じられないような話だが、こんなことは本当にあるのである。私はそのあと一ヶ月後、男子病棟へ行って、女子病棟へは顔をださなくなったが、その子は元気に退院したらしい。
四ヶ月くらいしたある日、職員食堂で食事してたら、その子が、外来診療がおわったあとで、両親と食事してて、私をみつけると、
「あっ。先生。こんにちは。おひさしぶりです。」
と、以前の明るい笑顔で言ってきて、とてもなつかしく、うれしい気持ちになって、
「こんにちは。」
と笑顔であいさつを返した。



おたっしゃナース

あるナースについて、かいておかなければならないのだが、ナースは何といっても、医療における権限の点で、医者より弱者なので、弱者をいじめることはイヤなのだが、文人の筆にかかり、文の中で生命の息吹をあたえられることを多少は、うれしいと思ってくれるか、逆におこるか否かは知らぬが、世のHビデオでは、ひきさきたいものの上位に、ナースがあがってるが、それは医療界を知らない外野だからそう思うのであって、心やさしい聖女、なんて思ってるんだろうが、ナースは仕事がつらくて、夜勤があって、イライラしているため、とてもそんな気はおこらない。人間を相手に仕事をしている人間は神経がイライラしてしまう。パソコンを相手にしているオフィス・レディーは主客一致で、ひきさく魅力のある、やさしい聖女だろうが。で、医者でいるとナースインポになる。だが思うに、あのナースは、容姿と性格を世の男が知ったら、引き裂きたい、と、思い、それが妥当であるめずらしいケース。そのナースは、瓜実顔で、うぬぼれが、整合性があう程度にある。世の男は、女につきあいを強要するらしい。そういう男のため、こちらはどれだけメイワクをこうむっていることか。どうも、男は、女をみると、抱くことしか、考えないのらしいが、また、それが、この世で一番のたのしみらしいが、芸術家は描くことが一番のたのしみであり、他のことは、すべてえがくのに最高のコンディションが保てるようにと、思っているのだが。いずくんぞ芸術家の心は知られんや。そのナースは、私が、その病棟から、よその病棟へうつる時、去る者の優越心とともに出ていかれ、たまに顔を出されるのがいやだ、と思ったのか、おたっしゃで、と言ったが、おまえのおまんここそ末長くおたっしゃでいろ、と、ハードボイルド作家ならかきかねないぞ。いろいろ習いごとをしていたようで、積極的で、意欲旺盛で、精力が強いのだろう。そのナースが、「あなたを先生と呼んでいるのは職場の上で、いやいやそう言っているのよ。病院から離れれば、あなたなんか先生でも何でもないし、心の中から先生と呼んでいるわけじゃないのよ。」と思っていることは、ほとんど目にみえていた。こういうツンとしたナースだから、読者が、想像でひきさいてほしく候。だが6月頃、一度、病院行事で、病棟の患者30人くらい、ナース、ドクターつきそいで○○臨海公園に行ったのだが、雲一つない初夏の青空のもと、患者の手をひいて浜辺を歩いていた姿が思い出されるのだが、あの、つかれた歩き方、芸術家にとっては、さっぱりわからない、あの人間というものの姿は美しい。ナースがフダン着になると、すごくエロティックである。女とみてしまうからだろう。またナースキャップをしていると、前髪がかくされて、額が強調されるため、ナースキャップをせず、前髪が自然に流されている方が似合う。このナースは、どんなに、当直あけで、つかれていても、「先生。注射おねがいします。」と、ツンと、言うのである。心の中では、「何もできない、何も知らない無能な先生。」といって笑っていることは、ほとんど目にみえていた。病院は、医者が上でナースが下、ではない。ナースはナースでツンとまとまっていて、自分らは自分らの仕事をしますから、ドクターの仕事は、ドクターでおねがいしますよ、と、ツンとつきはなす。



本を読む少年

さて、当直病院で、何か書こう書こうと思いつつ、もっとも私には、ワンパタ、耽美的なものしか書けないが、ある若い男の子、が入院した。父も母もおらず、天涯孤独で、友達もいず、中卒後、アルバイトをいくつか、しただけの少年で、くわしいことは知らないが、病気発症し、衝動的にコンビニでカッターナイフを買って、公園で手首を切って、入院してきた少年だった。少年は個室に入れられるや、気持ちが落ち着くや、まず、「本が読みたい。」といったそうだ。病歴から少年は読書が好き、とはわかっててたが。コトバにたよりなさがあり、主治医の先生が彼を内向的と言っていたが、まさにその通りである。人といると、緊張してしまう性格と、カルテにかいてあったが、まさにその通りである。私は、つい、仲間意識を感じてしまったが、主治医になる気もないのに、おもしろ半分、興味本位で、問診するのは、よくないと思ったので、話さなかったが、おきれるようになって、たよりなげにヨロヨロ廊下を歩いているところをむこうが、「こんにちは。」と、あいさつしてきたので、私も「こんにちは。」と、あいさつした。むこうも私がコドク病をもっている人間と瞬時に直覚しただろう。その少年の顔は、はっきりみてないが、弱々しそうな内気な少年である。本を読む人間は、必ずしも勉強ができるとはいえない。読書が好きでも、学科の成績は、あまりよくない、という人間も私のようにいる。ただ本を読みたがる人間は、静かさ、が好きなのだ。マイペースで、文字の流れから、頭でイメージしていくことが好きなのである。もちろん、元気な人間だって本は読めるし、読むが、元気な人にとっては、本も刺激であり、多くは一読で、次から次ぎへと新しい本を求める。しかし、少年にとっては、パンに飢えるように本に飢えているのであり、弱々しい心がすがれる心のよりどころなのである。私がその少年の主治医になっても、けっこう波長があったかもしれない、が、性格が似ているほど相性があって、よい主治医になれる、ということもなく、その少年の主治医は、やさしく、私よりずっとベテランで、治療能力がある。それに、私は彼を描きたいと思い、えがくために離れたいと思った。しかし、開口一番、本を読みたい、と言った患者は、はじめてである。そういう少年は夏、海に行ったりしない。しずかな所で一人本を読む。だがもし仮にそういう少年が夏、海に行ったとする。すると、綿アメのような夏の入道雲、活気と倦怠、やるせなさ、をおこすあの無限の青空のもと、きわどい輪郭の水着の女性が、空同様、心にくもりは、まるでなく、あるいは女を求める小麦色にやけたビーチボーイ、が、生をおもいっきり楽しんでいるのを、本を小脇に持って、自分とは無縁の世間の人間、と少しさびしく、うらやましく思う。そんな姿がイメージされる。



婦長さん

さて、ここで私はあることをかいておかなくてはならない。ちゃんと小説をかきたく、こんな雑文形式の文はイヤなのだが、やはり、かいておきたいことはかいておきたい。今の私が研修させてもらってる病棟の婦長さんは、すごい純日本的なフンイキの女の人なのだ。当然、結婚してて、ご主人もお子さんもいるだろうが、スレンダーで、髪を後にたばねて、仕事している時の真剣な表情は柳のような眉毛がよって、隔世の美しさである。婦長さんは絶対、和服が似合う。年をとっても、美しさが老いてこないのである。若いときの写真は知らないが、今でさえこれほど美しいのだから、若いときはもっと美しかっただろうとも思う一方、年をへて、若い時にはなかった円熟した美しさが表出してきたのか、それはわからない。ともかく、今、現役美人である。街歩いてたらナンパされるんじゃないか。私は位置的に、いつも、婦長さんの後ろ姿をみるカッコになっているのだが、標準より、少しスレンダーであるが、量感あるおしりが、イスの上にもりあげられ、行住坐臥の私を悩ます。性格は、まじめで、人をバカにすることなどなく、ふまじめさ、がチリほどもなく、良識ある大人の性格。ジョークはそんなにいわず、神経過敏でなく、あっさりしていて、人に深入りしないが、あっさりしたやさしさがある。日本女性のカガミという感じ。つい、いけないことを想像していまうのだが、後ろ手に、縛ったら、眉を寄せて、無言で困惑して、限りない、わび、の、緊縛美が出そう。和服の上から、しばればいい。憂愁の美がある。婦長さんは、多くの人間がもつ、倒錯的な感情を持っていない。のだ。そういう性格が逆に男の緊縛欲求をあおるのだ。(なんのこっちゃ)婦長さんにはメイワクをかけた。あまり病棟へも行かず、医局で、せっせと文章ばかり書いていた。病棟の数人の移動があった時、歓送迎会でるといっといて、でなかった。私は、ガヤガヤした所がニガ手で。つい、でません、と興ざめなことばがいえなくて、行くと言ってしまった。翌日、先生、まってたんですよ。ナースでも、そうなんですけど、そういう時は、会費は、料理の用意はできているのだから、お金は、出席しなくても払うことになっています。料亭では当日キャンセルはできないので。他の人も、そういうキソクなので、といって、言いづらそうに会費をおねがいします、と言った。私はガヤガヤした所がニガ手だけだったので、お金を払うのは何ともない。ので後で幹事の人に払った。そしたら、すごいお礼をいってくれた。その他、すごく、何事につけ、よくしてくれた。医療は、ならうより、なれ、であり、そうむつかしくなく、ベテランナースなら、かなりできるものである。しかし、責任所在性から、医・看分離は、現然として、存在する。レントゲン読影、その他、看は医への深入り、自己主張は、できにくい。どうしても、上下関係となってしまう。婦長さんも、四年の看護大学をでて、医学生ほど膨大量ではないが、解剖学から、一通り、人体の構造、病気の理論は学んでいる。専門は看護学というものなのだろうが、一般の人よりはずっと人体、や、病気にも医学的にもくわしく、毎日、病人をみている。しかし、医学生は、人体の構造から、病理学、この世にあるすべての病気を、しらみつぶしにオボエさせられていて、やはり、知識の点ではナースは医者には、その点かなわない。
私は自分にハッパをかけるため、自分の知ってることは、人に話すようしているのだが、きどりと、思われそうで、つらいところ。知らない。知らない。とケンキョな、ナルシなくせをつける人は成長しにくいのである。己を成長させるハッタリというものを知らない人は武士道の心得をかいた葉隠をよんでない人である。
医者もナースも、人の気づかなかったことを、正しくいいあてたり、診断できると、得意で、うれしいものである。ナースが脳CTで小脳がどれかわからないので、ちょっとおどろいた。その他、体のスライスや胸部CTの見方など。脳の立体的構造は、ちょっとむつかしいものである。又、医学生は、人体のすみからすみまで、オボエさせられ、又、レントゲン読影にしても、検査値や、患者の症状と関連して、理解する勉強をつめこんできたのである。しかもナースはレントゲンを医者のように、ほこらしげには、手にとってみるのはできにくいフンイキではないか。勝負の条件が対等ではない。それは、ちょうど、医学の勉強に99%自分の時間をギセイにし、小説、レトリックの勉強をする時間を全然もつことをゆるされなかった人間が、十分凝った文章で、スキなく、たくさん小説をかくことができない、のと同じである。ベテランナースは、患者が、こういう症状の時は、どう対応すればいいか、ということは、研修医とはくらべものにならないほど知っている。又、キャリアから、人間なら、だれだって、プライドがでてくる。研修医は、宮沢賢治のようにオロオロするか、弁慶の勧進帳をするか、である。医者は学んでいるが、ナースは医者ほど学んでいない。人生のキャリアで上の人に、先生、先生と、たてまつられた呼び方をされ、学んだから当然知っているだけでCTでみえる臓器の説明をするなどプライドを傷つけてしまうので、つらいのである。もっとも私はレントゲンの読影も感染症の理論も、専門家からみれば全然わかっていない。バレンタインデー、二月十五日、の日が近づいてきた。看護婦さんはもちろん、婦長さんも、チョコはくれないだろうなーと思ってた。
力山を抜き、気は世をおおい。もし、私が医学に私の命をかける気なら、毎日徹夜で勉強する医師になっただろう。やる気がないのではない。私は、小説家、ライター、作家になることに私の全生命をかけているのである。病棟のナースとも、全然うちとけなかった。だけど、バレンタインデーの当日、はい。先生。と、屈折心の全くない笑顔で、言って、チョコをくれた。うれしかった。表面はポーカーフェイスで、さも、無感動のように、ああ、ありがとうございます、と言ったが。内心は、おどりあがっていた。義理だろうが、何だろうが、かまわない。全部その日の晩、一人で食べて、あき箱は宝物としてとっておこう。ホワイトデーにはごーせーな、お礼をするぞ。一万円くらいかけて、病棟のみなさん全員にもたべてもらえるようなチョコ返すぞー。




健康診断
 今日、健康診断のバイトをはじめてやった。ある会社の従業員の健康診断である。小説書いてて、リストラされ、内科が十分できない、はぐれ一匹精神科医となった医者にできるバイトといえば、コンタクト眼科と健康診断くらいしかない。健康診断のバイトなんてカンタンだ、と思っていた。じっさい、学生の時、実習で二日、県のはずれの村へ行って、健康診断をした経験がある。農家のおばさん相手にきまった質問事項を聞くカンタンなものだった。ただ、その時は血圧は測れなかったので、血圧測定は手こずった。今度もそんなもんだろうと思っていた。ただ朝が7時半に行ってなければならないのが、朝がニガ手な私には、つらかった。それで、前日、近くのカプセルホテルにとまった。しかし、じっさいは、かなり予想とちがった。午前中は、男の患者(オット患者じゃなかったんだ。健康者のスクリーニングだった。)ではなく職員が多かった。結膜で貧血をみて、顎下リンパ節を触れて、甲状腺をふれて、さいごに胸部聴診だった。フン、フン、フン、とながしてやっていた。しかし、である。カーテン一枚へだてたとなり、で女のドクターもやってて、診察の声がきこえる。キャリアのある内科医である。患者の質問には全部正しくテキパキ答えてる。知識が多い。きらいなコトバだが、一人前である。私は小説を書きたいため時間にゆとりのもてる精神科をえらんだ。二年もやったので精神医学のことは、ある程度わかる。もちろん、精神科医も内科的シッカンをもっている患者をみなくてはならないので、内科的能力がゼロではない。しかし、糖尿病と脳卒中と水虫とターミナルケアの全身管理とイレウス、くらいである。しかし、おどろいたことに甲状腺シッカンが、少しある。頸肩腕障害や子宮筋腫の人、もおり、内科的質問をされる。となりの内科医は、的確な返答をしている。もちろん私とはくらべものにならないほど内科の知識がある。しかし私だって二年の臨床経験のある医師だ。ライバル意識がおこる。しかし私は精神科にいても、内科シッカン患者がいると、症例経験がふえるので、興味をもってとりくんだ。といっても経過観察くらいだけだったが。あとは国家試験の内科知識である。国家試験の知識があれば、それで内科は、ちっとは何とかなると、思っていた。もちろん国家試験はコトバの知識にすぎないが。しかし、考えがあまかった。実際に内科を研修し内科患者をみていないと、患者の質問に正確に答えられない。内科もやはり経験が全てだ。実戦経験がなく、本の知識で、答えているから、かなりトンチンカンになった。実戦経験の前には、本の知識ではたちうちできない。しかし私は喘息で胃病もち、なので必然、内科に関心は向いていた。さらに、健康な内科医をみると、そらぞらしくみえ、内科患者の本当の苦しみなどわからないだろうとつい思ってしまうこともあった。
山奥の健康診断の時とちがうことが二つあった。それは都心の会社の検診では、悩ましいOLもみなくてはならないかったのである。考えてみれば、当然のことだが、念頭になかった。しかもである。胸部聴診をしなくてはならなかった。今まで、長期入院の老人患者ばかりみていた。ひきさきたい欲求に悩まされているOLの聴診なんて、したことがない。内科医なら、女の体をみることになれてて、何ともないのだろうが。
検診のバイトを紹介してくれたのは、ある医師だったが、「女の胸の聴診は気をつけろよ。さわっただ、何だって、うっせーからよ。」と言った。「では、どうすればいいんですか。」と私がきくと、「聴診しますから、少し上着をあげて下さい。」って言う。「それで胸の下のできるだけ下の方をササッとあてる。ほとんど腹部聴診みたいになるけど、それでいいから。形だけ、やったふりをすればいいんだよ。男の場合は、バッと上着をあげさせて、ちゃんとやらなきゃだめだよ。」私はどうも神経質で、医学的責任感はあるので、というか、融通がきかない、というか、すばやい機転がきかない、というか、「女性は、うしろを向いてもらって背中で聴診してはどうですか。」といったら、「そんな時間ない。」と言った。じっさい、短時間にたいへんな数をこなさなければならず、確かにそんな時間はなかった。しかし胸部聴診といって、腹に聴診器をあてて、きくのも変なものだと思った。それに、かりにも医師が健康診断で、胸部聴診したからって、さわった、スケベだ、なんて女は言うもんだろうか、と思った。今はもう4月の中旬でポカポカあたたかく、うすいブラウスやTシャツの女なら服の上から上肺野をきけばいいや、と思った。薄い服でない人は先生に言われたようにブラジャーの下をササッとやろうと思った。
で、実際、行ったら半分は男でやりやすいが、確かに女はやりにくい。学生の時、県のはずれの村に健康診断の実習に二日、行ったことがあったが、高齢の農作業のおばさんばかりで、また聴診はなかった。だが、考えてみると、過疎化で、村では若者は都会に出て行き、村は高齢者だけ、という日本の実情が、実習の時は実感できていなかった、だけにすぎなかった、ということに気がついた。
だが今回は都会の会社の健康診断である。若いOLがいるのは当然ではないか。マニュアル通り、眼瞼結膜で貧血を見、(これは、採血でRBC、Hbをみりゃ、わかるんじないか、と思った。しかし採血しない人もいたのか、よく知らんが、検診はじめてで、若い女の貧血は、ばかにできん、というバクゼンとした理解はもっていた。)頚リンパ、顎下リンパ、の触知、甲状腺の触知、そして胸部聴診だった。尊敬してた小児科の教授の診察と同じである。おどろいたことに女では甲状腺キノー低下症やバセドー病の治療をうけている人がいて、甲状腺疾患は頻度の低いものではない、ということを知ることができた。そういえば、学生の検診の実習の時も甲状腺疾患の人は数人いた。ただ都会の会社では一日中パソコンの画面をみているので、ほとんど全員、目のつかれ、と、肩こりがひどい、腰痛の項目には自分でチェックしていて、目がつかれない人や、肩こり、に、チェックしてない人の方が少なかった。検診は、かなり、現代人のかかえる体の不調の実態を知れるので勉強になる。新聞を読んでても、頭の理解にすぎず、現場の声をきくことによって、はじめて実感できる。あと、高血圧がかなりいた。上が150をこしてる人がけっこういる。のに自覚症状がないから、(高血圧はサイレントキラー)問診しても、運動はあんまりしないし、食事(塩分)にもあまり気をつかっていない。わらいながら、うす味では、どうも食べられなくて、へへへ、などと言っている。検診のかなめはここらへんだと思った。ここで、びしっと、高血圧の人に、運動、食事、夜更かししない、自覚症状がなくても定期的に健康診断を受け、高血圧に気をつけるよう、言うことだと思った。さもないと、高血圧→糖尿病→動脈硬化→破裂→脳卒中ということになる。
さて、きれいなOLがきた。ので、眼瞼からの診察まではよかったが、ブラウスの上にブレザーをきていたので、ブラウスの上から上肺野を聴診しようと思って、「では、ちょっと胸の音きかせて下さい。」と言ったら、ブレザーのボタンをはずしたのはいいが、ブラウスのボタンも下からはずしだしたので、内心「おわわっ。」と、あせって、「ああっ。そこまではしなくてもいいです。」といったら、ニヤッと笑われ、ベテラン内科医でないことがばれた。内科医なら、男も女も聴診してるから、もう、こだわり、などないのだろうが、精神科二年では、女の胸部聴診は経験がなく、わからない。私は小説家としての自覚と責任感はあっても、内科医としての、その能力はない。しかし、人間として、やっていいことと、いけないことのモラルは人後におちない自信はある。悩ましいOLのブラウスの下なんてものは、写真であれ、ビデオであれ、実体であれ、金を払ってみるべきものであり、金をもらってみるべきものではない。
ちなみに自覚症状の欄、で、「肩こりがひどい」「目がつかれる」の項目には、ほとんどの人がチェックしていて、一日中パソコンの画面をみていると、それも無理はない。だろう。病院リストラされて、コンタクト眼科のバイトもはじめたのだが、コンタクト眼科も深い理論があって実に興味深く、一コトでいうと、角膜は生きて、呼吸している細胞で、コンタクトは、いわばヒフ呼吸をシャダンしてしまう危険性がある。角膜が息苦しい状態なのである。その点メガネは安全である。ので酸素を透過しやすいコンタクトレンズを努力して開発しているのだが、コンタクトである以上、100%安全なコンタクトというのは、ない。コンタクトは手入れが多少メンドーで、手入れしなかったり、また、長く使っていたりすると、よごれてきて、異物がついて、それが抗原になってアレルギー性結膜炎になったりする。そのため、最近は一日使い捨て(ディスポ)や二週間つかいきり、が、主流になってきている。コンタクトの本の中で、瞬目のことがかかれてあったが、涙は角膜をカンソーから守るものであるが、人は一分に何回瞬目するか、意識していない。が、パソコン画面をみている時、人は瞬目回数がぐっと減る。のであるが、そのことは自覚できていない。一日中パソコンと向き合う仕事である以上、目のつかれ、や、肩こり、は、仕事による生理的な疲れである。だからといって、みんな病名をつけて有病者にしてしまっては、これも変である。健康診断というのは、基本的に大多数は健康である、という確認と証明をするものであり、そして、少数の有病者をみつけ出すのが、本来的であり、検診した結果、全員、有病者なんて診断したら、医者の頭を疑われかねない。ので、これには困った。それで「つかれが、翌日までもちこされ、蓄積されていくか。」「整形外科に通院するほどひどい肩こりか。」というように質問し、それにひっかかるほど重症だったら、有病者としようと思った。さもないと全員、有病者になる。有病者の基準を高くすると、さすがにそこまでひっかかる人はぐっと減った。だが、ある人(お客さまセンター)が、ニコニコして、「肩凝りのため整形外科に通院している。つかれが翌日まで持ち越す。」と訴えた。これなら、あてはまると思ったはいいが、精神科という医療の中でも異質的な、専門に、どっぷりつかっていたため、内科は、かなり忘れている。「頸肩腕症候群」と書こうと思ったが、でてこない。しかし、時間をかければ、思い出せる自信もあった。まさか医者にしてこんな基本的な漢字も知らないとあっては、ヤブ医者どころかニセ医者と思われかねない。内心あせりながらも、
「エート。頚肩腕。はっはは。ちょっと、ど忘れしちゃったな。」
といって、カンロクをつくって、時間をかせいでいるうちに思い出そうとしたが、でてこない。むこうも医者に医学用語をおしえることは、はばかられている。しかし、どうしても出てこない。ので、とうとう、相手に、
「頚椎の頚ですよ。」
といわれて、第一語を知れた。第一語がわかれば、連想で全部思い出せると思ったが、第二語も出てこない。
「エーと、けん、は月へんに健康の健だったかなー」
とひとり言のようにいったら、
「肩ですよ。」
といわれ、赤っ恥をかいた。第三語の「わん」もでてこない。
(わん?わん、なんて犬みたいに、どんな字だっけ)
と思っていてたら、
「腕ですよ。」
といわれた。
「はっはは。ど忘れすることもたまにあるんだよなー。」
なんて言ってつくろった。ちなみにこのお客さまセンターの女性は、三浦あや子がいうところの原罪をもっていない人である。






東松山の健康診断
 ある時の健康診断のことをかいておこう。私は朝は弱いが、何ごとにつけ、緊張してしまうため、責任ある大事の前日は、はやく寝て、当日は目ざまし、なし、でも一時間くらい前におきてしまう。が、アパートからだと3時間かかる所だったので、検診場所近くのビジネスホテルにとまった。翌日、検診するところへ行った。スカイラーク、の工場の社員の検診だった。検診の代行をしている人に会った。何才かは、わからないが、会社なら、重役クラスの年齢である。
「近くの病院の、工場の産業医の人もくるから。」
気をぬかないように、というようなことを言った。二日、その工場で、検診した。医師は私だけだったので、当然、責任感がおこった。私のところには、聴診と、かかれた。検診は、かなりの猛スピードで、こなしていかなければならず、成人病は血圧、肥満度、コレステロール価、血糖、尿糖、の有無でスクリーニングできるが、前回(一年前)の検査の時、要注意の人には問診もした。検診は7回くらい、やったので、ある程度自信がついてきた。
この検診の代行をしている人はかなりアカぬけていて、昼食は、工場の社員食堂で、産業医の人二人と食べたのだが、ここはスカイラークの工場なので話が肉の話題になったら、秋葉原の焼肉屋の「万世」の肉の肉質が、どーの、こーの、と、よー知ってて、よーしゃべる。どんな話題になっても、現在の事情通である。私も秋葉原にある、「万世」という焼肉屋は知っていたが、さすがに肉質と流通ルートまでは全然知らない。かえり、は、自動車で川越のビシネスホテルまで、おくるといった。検診にきてたナース二人つれて。キザな外車である。一年で3万(だったか)のって、ミッションオイル、日本のを使ったらあわなくて、こわれて、ミッションとりかえた、とか、タイヤ換えたばかりだから、よく走るんだよねー、とか、高速の料金所で、バイクの後はイヤなんだよね、バイクは金出すのに時間かかるから、とか、高速でブレーキふむなよ、とか、車好き、である。テキパキしてて、カリカリしてて現代っ子、私のような荷風的な気質とは相容れない。私も車ウンテンするのは好きだが、車はファッションとしてではなく、生活の手段として車種を選んだ。事故がおこらぬよう、できたらアルトにしたかった。のだが、当直の仕事で高速とばさねばならなかったので、また、駐車や接触がおこらぬよう小型で車幅がせまいもの、だが、高速も走れる馬力のあるもの、となると、だいたい見当はつかれよう。街でもっとも多くでまわっている車種である。故障してもパーツがすぐ手に入るだろうし、めだたないし。車をファッションにして、でっかい外車、日本のせまいキツキツの道路走るの、私の感覚では閉口である。川越の繁華街の場所、おしえてくれた。たしかにホテルから距離的にはそう遠くない。未知の町は仕事ついでの旅行である。しかし余人は知らず、私は、遊ぶことが人生の第一義と思っている人とは違う。せっかくホテルにとまれるのなら、小説を書こうと思った。ホテルだと静かで、おちついて筆が走るのである。小説家を旅館にカンづめにするのは、あながち、にがさないため、だけではなかろう。旅館の方が、静かで書きやすいのである。しかし、資料を必要とする作品では、資料はどうするんであろうか。旅館にもちこむ、のだろうか。私も、いつか、筆一本で、カンヅメになるような生き方になりたい、ものだ。だが、つい、その日は、川越の繁華街を見てみたいという誘惑に負けて街を見に行った。わりと大きな繁華街だったので、街をみて歩いた。ホテルに帰って机に向かい、小説を書こうと思って筆を握ったが、その日は何も書けなかった。夕食代千円くれたが、懐石されると、領収書もらっても少し困るんだけどねー、などと言ったが、私は、食べることと、しゃべることと、遊ぶこと、が、人生の意味だと思っているお方とは違う。私にとっては、書くこと、創作的なこと、だけが、私の生きがい、である。翌日の検診も問題なく終わった。その翌日も午前中だけの検診があった。予約してくれた東松山のビシネスホテルの地図をわたしてくれたが、「東松山は、やきとり」といったが、たしかに小さい町のわりにはヤキとり屋ばっかりで、いったいどのような歴史で、このようなやき鳥のまちになったのか。戦後からか、江戸時代からか。江戸時代の大名がヤキとりが好きで、ヤキとりを町の産業として推奨したのが発祥の源、ということはまずないだろう。その夕方、ヤキとり屋をみてたら、やきとりが食べたくなって、でも酒はのめない、ので、屋台の焼き鳥を5本かって、コーラをかって、電灯の下で食べた。翌日は、有機溶剤とじん肺の工場の検診だった。有機溶剤中毒は、国家試験の時はオボエたが、さっぱり思い出せない。ので、書店に行って、家庭の医学で調べた。有機溶剤のチェックポイントは肺センイ症と精神症状である。その夜、あしたでもう検診おわり、(しかも午前だけ)だと思うと、気持ちがリラックスして、あるインスピレーションがひらめいて、小説の原案をかいていた。






××宗の女の子
 以前こんなことがあった。今は、そのことを書ける気持ちがあるから書いてみよう。小説にせよ、エッセイにせよ、時間が作品を発酵させてくれるということはあるものだ。私は、医者になる試験のため、ファーストフードショップで勉強していた。血液のところだった。二つはなれた席の女の人が声をかけてきた。
「難しい本を読んでいるんですね。」
離れて、おしゃべりしている人もいた。私はあわてて、本を気まずくカバンにしまった。人に干渉されるのはイヤだった。回りの人も、多少さりげなく、興味をもったが、人間社会のマナーで、直視はしない。普通、見ず知らずの人間にいきなり声をかけるというとは、普通の人はしない。こういう場面はやりにくい。彼女はそこに、自然そうにしている。カバンに本をしまって、なにもしないでいるのも気まずいし、さりとて、あわてて去るのも気まずい。困っていると、彼女は、かるい微笑とともに、
「ごめんなさい。いきなり声をかけちゃって。おどろかしてしまって。難しそうな本を読んでいるので、つい何かな、と思って声をかけてしまいました。」
という。私は、ちょっと彼女の人格というか、性格にギモンをもった。で、興味をもった。ふつう、女は男にきやすく、声などかけない。男が、見ず知らずの女に声をかけることは、あろうが。彼女は、小さなイヤリングは、していたが、比較的じみなファッションである。こってりしたファッションではない。彼女は、とびぬけた美人、という形容詞は、当てはまらないが、少なくとも、間違いなく、きれいな顔立ちだった。ちょっと十%くらい、ボーイッシュな感じも含んでいて、髪型、顔の感じ、は、手塚治虫の、リボンの騎士的なカンジである。毛がちょっと天然パーマでカールしている。私が困っていると、
「ごめんなさい。どうぞ。いいですよ。気にしないで下さい。じゃましちゃってすみません。」
という。気にしないで、といわれて、気にしなくできれば、神経質な人間は苦労しない。同時に私は、別の、ある興味を彼女に対して起こって、私は彼女のとなりに移動して、
「医療関係の人ですか?」
と聞いた。それなら、つじつまが合うからだ。ナースか、検査技士か、医療関係の人なら、血液疾患の勉強も、医師国家試験受験生、ほどではないが、かなり、少なくとも、素人よりは、ずっと勉強しなくては、ならず、同じ方面の勉強をしている同志との親しみの感情がおこって、話しかけてもおかしくはない。それも、最も、見ず知らずの人にいきなり話しかけるのは、不自然だが。私は医学部を卒業したが、友達がいないため、みなが知ってる勉強法を知らなかったため、地獄の国家試験浪人生だった。私は医学知識は膨大にあるのに、医者になれないくやしさ、みじめさ、から、人に話してみせることで自分に自信をもちたかった。それで、当時話題になっていた医療問題を医学的見地から説明した。彼女は、おどろいたことに、医療とは、全く無関係の人だった。話しているうちに、彼女は何かの宗教の熱心な信者であることがわかってきた。だか宗教なら、私だって自信がある。私の宗教視点は、キリスト教が、ベースで、他に仏教諸派、も、少しは読んでいた。内向性、は、哲学や宗教、など、観念的、目に見えないことに関心が向いてしまうのである。キリスト教は十分読んで、ほとんど知っていた。仏教の勉強も本格的にしたかったが、地獄の国家試験受験生にとっては、あけても、くれても、医学、医学、である。いつのまにか、宗教論に話が変わっていたが、私には宗教論を戦わす自信が、あったので、彼女と話していた。いつしか彼女は、自分の宗教の道場に来るよう、強く催促していた。彼女は、宗教者が、そうであるように、自分の宗派こそは絶対というゆるぎない自信をもっていた。もちろん私は哲学者だから、すべてを疑い、いかなるものをも信じきるということができない。私は、宗教者ではなく、無神論者、である。無神論者でありながら、宗教に関心をもっているのは、哲学というナイフで、宗教の原理を解明したい、という欲求が起こるからである。
彼女は、私に、彼女の信じる宗教のご本尊のあるところへ連れて行こうとした。私は、ことわりたかったが、何事においても、ゴーインな勧誘にビシッとことわることができず、つい、彼女についていくことになった。ごみごみこみいった路地を、どこをどう回ったか、覚えてないが、彼女に、ついて行った。途中、ドキンとしたことがあったのだが、それは、ラブホテルのネオンがこうこうと、ともった下を通った。これは、彼女の意図的な、ためし、ではないかとも思った。私もつい、彼女を誘いたい誘惑が起こった。が、ことわられて、軽蔑の目でみられるのがイヤだったので、劣情をガマンした。彼女は、こってりしたファッションではないが、ジーパンがフィットしてて、女としての魅力があった。
「ここです。」
と言って、彼女は、あるビルの2階をさした。入ってしまったら、しつこく、つきまとわれる、と思ったので、ことわろうとしたが、彼女は新聞の押し売りなみにしつこい。何としても××上人の教えに従って折伏しようとする。何が何でも自分の信じる宗教の正当性を主張してやまない。予言があたっただの、何だの。それは、それで正しいことは、みとめます、××上人は、立派な人格者だったんでしょう。尊敬しますが、私には私の考えがありますので、と言っても彼女はガンとして聞かない。ご本尊を毎日、おがみ、経を毎日、繰り返して唱えると、救われる、ありがたい教えなのです。という。自分がいくら価値を認めているからって、自分の価値観こそ、すべて、というのは、どうかと思ったが、そもそも、それが宗教というものでもあろうが。ついに私は、話し途中で、振り切って歩き出した。しかし、彼女はダニのようについてくる。三回ふりきったが、ついてくる。ガンとして私を説き伏せようとする。こんなことなら、関わらなけりゃよかった、と思った。私は、さっきのラブホテルの下を通ったことを思い出して、
「あなた。男はみんなおおかみですよ。私はジェントルマンだからいいですけど。」
といった。彼女は、
「それをきいて、ますます気にいりました。」
なんていう。普通の男なら、彼女をナンパするだろう。わざわざ、自分の方から網にかかってきた獲物を逃がす漁師はいない。なぜ私が、ナンパしないか、というと、私の偏屈なプライドからである。人間なら、当てはまるであろうはずの法則も私にだけは、当てはまらない、という絶対の自信があるからである。人間性に対する強い反発が私にはある。感情の赴くまま、生きている人間は、感情の奴隷であり、感情の赴くままに生きない人間というのが、カント哲学で言う、自由な人間なのである。そして、ストイシズムの代償として、目に見えない硬派の紋章が、燦然と胸に輝くのである。また、宗教者は、真面目で、あり、そこにつけこんではならない、という気持ちもあった。彼女は、私との縁をきりたくないらしく、携帯電話、をカバンから取り出して、彼女の電話番号を、紙に書いて、私のポケットにいれた。携帯電話の電話番号を教えることは、かなり、勇気がいる。彼女もちょっとためらった。電話番号を教えたら、しつこくかけて、つきまとわれる可能性がでてくる。よほど私を人格的に信じてくれた、ようだが、私は、道徳心が、強いわけではなく、人間性にさからっている、ヘンクツな人間であるに過ぎない。私は電話番号の紙を捨ててしまったが、流行歌、に、
「ポケベルが、ならなくて、…。」
というのが、あったが、少しかわいそうなことをしてしまったと思い、一度くらいは電話してあげたほうがよかったと後悔した。






外科医オーベン
 さて、私はあと一週間でリストラされるので、ちょっと、かきたいオーベンがあるので、書いておきたい。三人目のオーベンである。元、外科ということだったが、今は、外科でも専門化が強いので、専門は何なのか、と思っていたが、あまり個人を詮索するのもはばかられ、きかなかったが、会話の中から、どうやら脳外科らしい。二週に一度は、母校の付属病院の脳神経外科で、外来診療しているので、脳外科が専門だと思っていた。だが、婦長さんと話している、ちょっとした会話の中で、どうやら外科は全科をローテイトして、どの科でも出来るらしい。胆石とり、は、何回もやった、とか、整形外科もできて、指がきれた患者が来てもつなげられるし、何回もそれをしてきた、という。指がきれる患者はやはりヤクザが多いとのことだった。そもそも救急科を何年もやっていた、ということだから、救急科は、何がくるか、わからない。逆にいえば何がきてもできなくてはならない。何か万能、ブラックジャック的に思える。又、大は小をかねる。外科は内科もできるが、内科は外科はできない。何年か前に心筋コーソクをおこして、体力に無理をかけられなくなって精神科に転科したという経歴だった。もちろん、精神科指定医の資格(精神科で三年の経験が必要)も、もっているから、まぎれもない精神科医でもある。はじめは、元、外科の先生ときいていたが、どうして精神科に転科したのか、と思っていたが、研修医のブンザイで、さしでがましく聞くのもはばかられたので、きかなかったが、さほど深い理由もなく、体力や何となく、の、なりゆきで、と思っていた。また私は、何となくのなりゆきで人生を生きてきた人を多く見ていた。だが事実はちがった。外科全科ローテイトした、本職は外科医の先生なのであった。なんとなく、などではなく、ベテランの外科医が心筋梗塞にあって、ハードな外科はできなくなって、やむなく、精神科に転科した、というのが実情だった。外科は理論より、長い年月をかけて技術の習得を身につけなくてはならない、という面が強い。また、そうして外科の技術を身につけた先生は、身につけた外科で、腕をふるいたい、という思いが強く、話していて、それが、ひしひしと伝わってきた。心筋梗塞したと聞かされた後で、みれば、たしかに体力のおとろえ、が感じられる。しかし、外科気質、とでもいおうか、注射にしても、IVH、ルンバール、外科的処置の時、きわめて堂々と、というか、全く自然にやって、不安、とか、緊張心が、全然ないのである。どんな事態になっても冷静に対処できる、という感じ。やはり、外科気質だ。外科が神経質だとノイローゼになって、精神がもたない。師は退職したら、精神科ではなく、外科系で開業しようと思うと、少し不安げにつげていた。もちろん技術の不安ではない。今、開業医の経営は、必ずしも順風ではない。場所は、あるそうだが、MRIやエコー、開店資金、看護婦や事務員の人件費、そもそも患者が十分くるか、設備投資の資金が回収できて、十分な黒字経営ができる、という保障はない。カケである。病院勤務をやめて、開業に踏み切った、ある先生がいて、内科、外科を標榜して開業したはいいが、一日20人くらいの風邪患者しかこず、採算がとれず、開業は失敗だった、と、なげいている医者の話もしてくれて、開業して経営が成り立つか、の、不安は、かなりシンコクにもっていた。ちなみにその医院では、一日40人は患者がきてくれないと、経営は成り立たない、ということだった。毎日、朝夕、ニトログリセリンの舌下錠をのんでいて、月一回は母校のジュンカン器科にかかっているという。(この母校の後輩医師はこの万能のベテラン先輩医師をどう診察しているか、想像するとおもしろい。)
この先生は、何といおうか、何でも質問しやすいフンイキで、又、何でも知っていることは、積極的に教えてくれて、とても勉強になった。前のオーベンはやたらギャースカさわいで、医者の能力よりもギャグを言うことに価値をおいていて困った。指導心など全然なく、聞いてもろくすっぽ答えてくれない。思うに、質問に答える、ということは、自分の知っていることも、知らないことも、さらけ出す、という面があり、又、今は医師国家シケンがむつかしく、国試後まもない研修医はベテラン医の知らない知識、もあるということもあり、恥をかくことをいやがる医者は、あまり教えたがらない。なめられてたまるか、という気持ち、だろうが、こっちは、そんなつまらない気持ちはない。又、自分は不十分な知識だから、他の先生に聞いて、と、すりかわす人もいるのだが、こっちが知りたいのは100%あやまりのない知識ではない。こっちは0%なのだから、60%の知識をもっているのなら、その60%を教えてほしい。不正確な60%の知識があることは、0%の知識とくらべてウンデイの差である。こっちがエパミノンダスで吟味能力がなく、言われたことは鵜呑みに信じ、誤った知識をもつ医者になることをおそれているのだろうか。教える、ということは、自分の有知、無知、自分のありのまま、を、さらけ出す、ということであり、勇気のいることである。恥をかきたくない、とか、なめられてたまるか、とかの妄想の鎧をガッチリきてしまっている人につくと、あまり、どころか、全然のびない。私は3月に、4月からのリストラをきかされて、にわかにあせった。療養型の精神科の二年のストレート研修では、全然医師としての基本能力が身についていない。プログラムにあった3ヶ月の内科病院での研修もしてなかった。しかし私は独学タイプであり、定期検査のケンサ価やレントゲン、エコー所見、心電図、CTから、常に内科的勉強につとめていた。また、腱反射、や、胸部聴打診なども当然身につけた。精神科以外のシッカンの薬もかなりおぼえた。私はいきなり、ハードで責任の重い内科ではなく、のんびりできる精神科で、独学で内科を身につけようとの意図もあった。ので、わかるようになると、パッとわかり、内科医からみれば、私の内科能力など、かけら程度だろうが、かけら程度でもゼロではない。リストラされるため、テリトリーの当直病院の当直のバイトもできなくなる。精神科病院での当直バイトは、あきがない。内科当直の求人は、あるが、内科当直は、はたして私にできるものか。医療といっても私は、のんびりした、精神科しか知らない。内科や外科の様子が全然わからない。私は、人と話さないため、ものごとを知らないため、ことさらおそれて、最悪の事態を考えて、しりごみしてしまったり、逆に二年の研修から、どんなことでも何とかなる、おびえすぎる自分はまちがっている、とも気づかされた。ただ何人かのDrに私の今の実力で内科病院の当直ができるか、を聞いたところ、できるんじゃないの、といったDrもいたが、いや、できない、といったDrもいた。それで私は、オーベンの先生が、二週に一度、行っている母校の付属病院の外来診療を見学させて下さい、と言った。そこでDrは脳外科の外来を非常勤でしているのだった。別に脳外科に特に興味があるわけではないが、他に医療関係に関して全くコネがない、からだ。脳外科なら体の病気で、内科の様子がわかる手助け、になると思ったからだ。Drに脳外科は、どんな患者がくるんですか、ときいたら、頭痛がほとんど、と言っていた。たしかに一般の人が頭痛がおこったら、何か頭に重大な病気がおこって、脳外科に行かなきゃ、という心理は、わかる。しかし、脳外科にくる頭痛の多くは、ホームドクターでかかるーべき筋緊張性頭痛ということだった。血管性頭痛やズイマク炎、脳腫瘍の頭痛もないことはないが、頻度は低いとのことだった。そこの病院は、さほどキボは大きくはなく、オペは、母校の近くの大きな付属病院に依頼し、オペ後のフォローや、地域医療としての役割的であり、いわば、つなぎ、のような役割だった。百聞は一見に如かず。ともかく一度、みておきたかった。病院を出て約一時間で、ついた。二時から診療で、病院についたのは、一時半だった。病院近くのラーメン屋で昼食をとった。
最寄の駅について、「郵便局に行くから待ってて。」というので待った。キネン切手を、子供がほしがるもんだからね、といってピッチャーの写真の切手をみせた。「沢村栄治ですね。」というと、「よく知ってるじゃない。」私は野球は全然みていなく、野球事情は知らないが、小学生の時は野球漫画が好きで、召集され、手榴弾キャッチボールしたといわれる沢村栄治は知っていた。今年、二人の子供が、中学と高校を受験した、とのことだった。受験をひかえた家庭というのは、分娩前の妊婦のようで、とても緊張してて、家族もたいへんである。という日本の受験教育の現状がひしひしと伝わってくる。いつか、婦長さんに、自分の子供のことを、「口ばっかりたっしゃで。」と、もらしていた。
今思えば、受験のストレスからだろう。二人とも無事、合格できたようで、その時は本当にうれしそうだった。
ラーメン屋で、塩ラーメンを食べながら、
「使わない家なんかもつもんじゃないよ。固定資産税ばかりかかるだけだよ。」
(別荘、ということか)
「維持費はかかるし、使う人はいないし、買い手もつかないし。」
「バブル以前に買ったんですか?」
「そう。そのとおり。」
二時になって、診療がはじまった。聞いていたのとは大違い。全然、脳外科である。CTを前に患者に脳血管造影の説明をしている。脳動脈瘤ハレツ後の術後の患者が多かった。あと多発性微小脳梗塞。脳血管ジュンカン改善薬をだしている。大正生まれ、が、かなりいた。あと、脳梗塞を悪化、発症させないように食生活指導。精神科とは全然様子がちがう。医者っぽい。一人興味深い患者が、眼科から紹介されて、きた。複視がおこったので、患者は、眼科医へ行ったのだが、眼科医は、これは内頚―後交通動脈の部位にできた動脈瘤が、動眼神経を圧迫しているため、ではないか、と考え、脳外科に紹介したのだ。この部位は動脈瘤ができやすく、複視で眼科をおとずれて、動脈瘤疑い、で、脳外科へ紹介、というパターンはけっこうあるのかもしれない。私が一番知りたいことは、どんなシッカンが頻度が多いのか、ということである。上腕で腱反射を調べ、対光反射、指を追視させ、動眼神経マヒの有無を調べている。脳腫瘍の患者もおり、話をきいてても、これは知らないことばかりであり、奥が深く、興味をそそられ、ハードな研修がいやで、のんびりした療養型精神科単科研修をえらんだことを少し後悔した。

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