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小説家、反ワク医師、空手家、浅野浩二のブログ

小説家、反ワク医師、空手家の浅野浩二が小説、医療、病気、文学論、日常の雑感について書きます。

女生徒、カチカチ山と十六の短編 (小説)(1)

2020-07-08 03:44:51 | 小説
忍とボッコ

 私は小学校5年のとき静岡県伊東市のある小学校の分校に転入した。初夏の頃だった。東には海、西には山があった。温和な気候の土地だった。学校の近くに寮があり生徒は全員寮で共同生活をしていた。私はすぐにそこの生活に慣れ、友達も多くできた。
 しばらくして一人のものすごくかわいい女の子がわたしより一つ下の学年に転入してきた。名前はおぼえていないがあだ名はボッコということはおぼえている。
 ボッコは病弱なおとなしい子だった。だが内気な性格というのではなく、すぐに多くの女の子と親しくなった。笑うとエクボがくっきり浮き出た。岡田有希子にちょっと似ていた。友達とおしゃべりするのが好きで、友達と笑っている時のボッコが一番輝いていた。頭もよくクラスで一番の成績だった。
 私と同級に中田忍という男の子がいた。彼は活発な子だった。そして意地っ張りでどんな権力にも頭を下げないような子だった。ケンカしても絶対負けない子だった。
 だが根はいい奴だった。
 そんな彼がいつからかボッコをいじめだしたのである。
 ある時、病み上がりでパジャマ姿のボッコを忍が蹴っているところを見た。
 忍は「ライダーキック」と言って、笑いながら何度も何度もボッコを蹴っていた。
 ボッコはつらそうな顔をして黙って忍のいじめに耐えていた。
 それは十字架を担いで刑場へ向かうイエスを刑吏がムチ打つ場面にも似ていた。
 そんなことが連日のように続いた。
 ボッコは忍のいじめがとてもつらそうだった。ボッコはだんだん元気のない子になっていった。誰かがそれを忍に注意した。だが忍は聞かなかった。「何でいじめるの」と人がきいても、「だっておもしろいじゃん。」と言うだけだった。
 私には中田の心がわかった。
 彼はボッコが好きだったのだ。
 男は女に恋するとどうしようもない照れがおこり、自分の気持ちとは正反対の行動をとってしまうものだ。
 忍にとってボッコは忍の要求のすべてを満たしていた女性だったのだ。
 ボッコを見るたびに忍の心には何とも言えない複雑な感情が起こってしまうのだ。
 ボッコを自分だけのものにしたいような・・・。
 だがいじめに出るとは余りにも屈折している。だがそれには必然性があった。
 それは彼が強い男だったということだ。
 強い男には自分の方から女性を愛することなど許されない。唯一恋愛が成立するための条件は女性の方から男を愛する場合しかない。
 だが忍の心はボッコにひかれてしまったのだが、ボッコは忍に対して特別な感情は持っていなかった。そんなことが忍の心に劣等感をもたらした。
 彼はボッコを愛している自分を認めることが出来なかった。ボッコへの自分の気持ちを認めれば彼らしさは壊れてしまう。
 彼はボッコへ素直な気持ちになった時、人の目が自分を軽蔑するのが恐かった。
 実際は誰も軽蔑なんかしないのに。
 それは彼の一人よがりの思い込みに過ぎなかったのだが。
 いや、明らかに一人彼を軽蔑するものがあった。それは彼自身だった。
 彼は少しでも自分がボッコを好きであるということを人に悟られたくなかった。
 そんな様々な気持ちが忍のボッコに対する感情を歪んだものにしてしまっていた。
 忍の心はボッコに対する愛と自分の人格の保守という相反する要求に悩まされた。どちらかを取れば他の一つは捨てなければならなかった。だが忍にとってはそのどちらも捨てることの出来ないものであった。
 中田のコンプレックスが爆発した。彼はボッコをいじめだした。連日、彼はボッコをみる度にいじめた。私には中田の気持ちがわかった。
 彼の心はボッコも自分もどちらも捨てられなかったのだ。ボッコをいじめることはボッコへの愛の表現だった。普通、こういう場合、女性への愛と自尊心の維持とは両立可能なものである。つまり、ボッコへの気持ちを認めることは決して彼の自尊心までも壊してしまうものではないのだ。しかし、小5の男の子にそんなコンプレックスをうまく解決することは出来なかった。ボッコには中田のそんな複雑な気持ちは分からなかった。ボッコはつらそうな顔をして黙って忍のいじめに耐えていた。
 ボッコの心と体は段々弱っていった。
 だがそんなボッコの苦しみもやがて時間が解決してくれた。
 月日は流れ、やがて忍は卒業した。ボッコは再び明るい子になった。そして一年後にボッコもそこを卒業した。
 だが忍は卒業後もボッコのことが忘れられなかった。そしてボッコと別れてはじめて自分がボッコを愛していることに気がついた。忍は卒業後多くの女性と知り合った。だが彼の頭の中にはボッコしかいなかった。ボッコは忍にとってこの世における唯一の生きた女神だったのだ。
 忍の心に変化が起こった。それは、ボッコにあやまりたい、そして自分の気持ちを打ち明けたいという気持ちだった。
 忍が卒業してから五年の歳月が流れていた。忍は高校二年、ボッコは高校一年だった。
 彼の心はボッコに愛を告白しても壊れないほどに成長していた。乱暴でつむじ曲がりな少年は逞しい包容力ある青年になっていた。
 彼はボッコに会いにいった。そしてボッコに昔のことを謝り彼女を愛していることを告白した。ボッコは嬉しかった。ボッコは弱くおとなしい子だった。もし他の女の子がボッコの立場だったとしたら中田を憎んだであろう。だがボッコは人を憎むことができない子だった。ボッコは中田を憎んでいなかった。
 中田はもともと悪い男ではなかった。いやむしろ根は本当にいい男であった。
 ボッコは人のたのみをことわることができない子だった。たとえそれが自分の人生を決定してしまうようなことでも。
 ボッコは中田の求愛を受け入れた。
 こうして二人は結ばれた。





スニーカー

信一は桃子を見るたびに思うのであった。桃子はクラスの人気者で、女とも男とも明るく話す。男友達もいるが、深いつきあいではない。
 その中の一人にハンサムで頭もよく、スポーツもできる三拍子そろったヤツKもいた。桃子は彼ともごくふつうに友達としてつきあっていたが、彼は少しマジだった。
 信一は内心、桃子を思い、苦しい想いでねるのだったが、自分はとてもKにはまける。Kとさえ友達以上の関係にはなろうとしないのだから、自分ではとてもかなわない。自分は彼女の笑顔をかげからみていられるだけで、彼女とめぐり会える機会をつくってくれた神様に感謝しなければと思うのだった。
 ある日のこと、信一は朝の通学電車の中で少し離れた所に桃子がいるのをみつけた。信一は気づかれないよう、うつむいた。彼女が気づいて、「おはよう。」などと、くったくのない笑顔で言われようものなら、きまりがわるくてしようがない。だが目を床におとしても、桃子の存在が気になってしまう。一瞬でも、特に今は、誰とも話していない自由な状態の桃子が、どんな表情でいるのか、気になってしかたがない。うつむいていると、そんな心が作用して、信一の目に彼女のくつがとまった。それは、白いクツ下を身につけた清楚な足をおおい守るような、かわいらしい、テニスにでもふさわしい、丈夫な白いスニーカーだった。
 信一は思った。あのスニーカーはいつも彼女の全体重をささえ、守り、彼女とともに行動しているのだ。夜はスニーカーも休み、朝、桃子がでかける時、彼女にふまれる重さで、目をさまし、よし、今日も彼女をころばないように、たのしく歩けるようにと、ほがらかな気持ちになり、彼女をささえる友達のような心をもっているかもしれない。彼女が走る時、彼女のパタパタする脚を守り、たえずだまって彼女にふみつけられながら、うれしく耐え、やがてすてられ・・・・と思うと何か彼女に履かれている白いスニーカーが生きもののように感じられ、うらやましく、何か自分があのスニーカーになれたら、などと想像していた。
 教室で信一は、彼女のななめうしろにすわっていたのだが、それ以来、たいくつなつまらない数学の時間などつい、自分がスニーカーになって彼女の重みをささえているような、想像をするようになって、想像が強まって、本当に自分がスニーカーになりきると、我を忘れて、夢心地になって、恍惚としている自分にハッと気づくのだった。
 そんなある日のこと、桃子はクラスで、さえない目立たない、存在感がうすい信一の視線が自分の靴の方にあるのに何度か気づいて、信一の方へパッと目をやった。すると信一は、反射的にサッと目をそらすので、桃子は何かうれしく思い、ある日の放課後のこと、信一が一人で帰りじたくをしているところへガラリとしずかに戸をあけ、教室にはいってくると信一のとなりにこしかけて、
「よかったら今度の日曜、映画にいかない。」
などと言って、信一の手をはじめてにぎる。と、たちまち彼女のぬくもりが伝わってきて、でも自分にはとても不似合いだ・・・と思って困って返答に窮していると彼女は手をはなさなく、信一は目をつむり、顔を赤くして顔を少しそむけ、すまなそうに首をたれていると、彼女は
「行こうよ。」
とおいうちをかける。信一が手をひこうとすると、反射的に彼女はキュッとそれをひきとめようとするのが伝わる。
「私のくつ、何かおかしい。私の思いちがいいかもしれないけど・・・。」
と言うので、信一は申しわけなさそうに、頭を下げ、背をひくくして、コソコソと帰った。彼女はそれをあたたかく見守っていた。それ以来、桃子は、時々、信一の視線に気づくと笑顔をみせるようになった。学年があらたになり、桃子は勉強ができたので、信一とは別のクラスとなった。同じクラスだった時の最後の終業式の日、信一は罪をおかした。彼女のくつ箱から、彼女のくつをとって、かわりに、同じサイズの新しいスニーカーを、「ゴメンナサイ」とワープロでかいた紙切れとともに入れた。信一は彼女のクツをそのままの状態で大切に、へやの戸棚の一角にお守りのようにおいて、彼女を想い、一生の大切なお守りができたと思うと無上の幸せを感じた。
 新しい学期がはじまった時、信一は桃子と校門でであった時、彼女は信一の入れた新しいスニーカーをはいていた。つい信一は、ハッとさとられたのでは、と思い、彼女のくつに目がいき、すると彼女はそれに気づいて、信一にかわらぬ笑顔をかけると信一は、はっと、自分の犯した罪がわかってしまったのでは・・・・と思い、顔をそむけようとしたが、その時こぼれみえた彼女の笑顔の中には、信一がしたことを知っていて、それをゆるした、少しきゅうくつそうな感情を彼女の顔の中にみた。信一は大学をでて、小さな出版社で校正の朱筆を走らせているが、彼のアパートにはかわらぬ桃子のくつのお守りが、高校の時とかわらぬ想いでおかれている。





パソコン物語

A子は、家が貧しかったため、また彼女は文学好きで、メカに弱く、よろず要領悪く、パソコンやワープロの使い方がわからなかった。彼女は高校を卒業して、ある会社に就職した。が、もちろんシンデレラのように、というか、さとう珠緒の走れ公務員のように、孤独な純真さをきらわれ、先輩にこき使われた。
 その会社には一台のパソコンがおいてあった。みんな時々、手慣れた様子で、パチパチと軽快なリズムでつかっている。A子はパソコンがぜんぜんわからなかった。ので、お茶くみと、そうじにあけくれていた。と、あと、灰皿のかたずけ、と雑用だけだった。A子もパソコンを使えるようにならなくては、と思った。それである日の昼休み、みんながいない時、そっとパソコンのスイッチをいれてみた。カチカチとそっとやってみたら一つの画面がバっとでてきた。A子は心配になった。ああ、どうやっておわらせたらいいのかしら。そう思っているうちにみんながドヤドヤと帰ってきた。ちょうどアラジンとまほうのランプ、でひらけゴマの、あいことば、を忘れてしまったところに盗賊の一団がもどってきたようだった。いじわるな先輩のBさんがいった。
「あなた、いったいなにをしているの?」
A子は、現行犯を逮捕された犯罪者のように、
「は、はい。パソコンをつかっていました。」と言った。
Bさんは、ひややかに言った。
「あなたパソコンの使い方、知っているの?」
A子は、うつむいて涙まじりに答えた。
「い、いえ。知りません。」
Bさんはさらにおいつめた。
「知りもしないくせに、無断でかってにいじって、こわれたらどうするの?パソコンは高いし、使い方はむつかしいのよ。」
A子は涙をポロポロ流し、
「ゴメンなさい。でも私もはやく仕事になれようと思って、パソコンの使い方をオボエなくては、と思っていました。」
Bさんはフンと鼻でせせら笑って、パソコンの使い方はむつかしいのよ。パソコンをつかおうなんて10年はやいわよ。あなたは当分、お茶くみと便所そうじ、と雑用よ。と言って、Bさんは、ことさら、みんなー、気をつけましょう。新人の子は、人がいない時に人のものに手をつけるかもしれないわよー、と言う。みなは、わー、いやだわ、といって、自分の引き出しをカタカタあけて、何か盗まれていないか調べだした。A子は、子供のようになきじゃくっている。Bさんは、フン。ゆだんもスキもあったもんじゃないわ。といって、パソコンのイスにすわろうとすると、ふん、このイスは、ちょっと具合が悪いから修理しなくちゃならないわ。つかえないからイスにおなり。といってA子をひざまずかせた。A子が四つんばいでイスになっている上に、Bさんが、どっしりとおしりをのせてすわり、パソコンをパチパチはじめた。A子はみじめこのうえなかった。パソコンはね、むつかしいけど、また同時に、サルでもできるという一面も、もっているものなのよ。トロイ人間が一番ダメなのよ。あなたなんてサル以下よ。Bさんは、仲間に目くばせして、ネコのたべのこした残飯に、のみのこした、牛乳をかけてA子の前においた。さあ、おたべ、といわれて、A子はなきじゃくりながらたべた。
 一ヵ月してやっとA子に給料がでた。そのなかから、二万五千円をだして、A子は、パソコン教室にかよった。ウィンドウ98と、ローマ字入力のしかた、ワード、表計算のし方、ファイルの移動などをおぼえた。そして次の給料で、ワープロを買った。会社がおわると、すぐアパートへもどって、ローマ字入力のしかたを練習した。もともと、何かをはじめると一心にとことんやってしまうA子のこと。一ヵ月くらいでタッチタイピングをおぼえてしまった。そして超図解のパソコンの本をよんで勉強して、パソコンの使い方をおぼえてしまった。
 ある日の昼休みのこと、A子は、前と同じように、みんながいない時、パソコンのスイッチを入れ、ワードに入力していた。この前と同じように、みんながドヤドヤともどってきた。が、みんなはシンデレラをみるように目をみはった。なぜならそこには、ほとんど音がしないほどのすばやさで、ピアニストのような神技の手さばきで完全なブラインドタッチで入力しているA子がいたからである。その手さばきは達人の域だった。みんながアゼンとしている中を、A子はサッと立ちあがって、自分の席にスッともどった。(便所そうじと雑用のA子だったが、一応自分の席はもっていた。)そのあと、その場は気まずいフンイキだった。いったいいつの間に、あんなに身につけてしまったのかしら。そのあとBさんがいつものようにパソコンに入力をはじめた。A子はモップで床をふきながら思った。フン。入力速度がぜんぜんおそいわ。これみよがしにパチパチはでな音をたててみっともないわ。ふふ。サル以下なのはあなたの方じゃない。Bさんはだんだん恥ずかしくなってきた。Bさんはブラインドタッチでは入力できず、キーボードをみながらでないと入力できなかった。パソコンが使えるようになったA子は、上司から仕事をたのまれるようになり、会社の有力な戦士の一人となり、トイレそうじはみんなで順番ですることになった。A子は、電子メールで知りあったステキな彼氏とつきあうようになり、結婚してしあわせになりました。とさ。めでたし。めでたし。





三人の夏

ある夏のイメージが思い出されるのであるが、その年は私にとって最も暗い年であり、一日中家にこもりきりだった。8月がおわってから、ある海岸へ行った。海には、一人の中学か、高校の女の子と、二人の男の子、きっと学校の友達だろう、が、いたが、その光景がすごくエロティックで、美しい。水をかけあったり、追い駆けっこをして、つかまえたり、もぐって水中からクラゲのようにチョッカイをかけたりしている。水着姿をみられることは、女にとって大変、恥ずかしい。同級生の男の子は、彼女に、海に行こう、と、ごく自然に、数学の時間のあと、言ったりして、彼女も、ごく自然に、うん、いいよ、なんぞと、言って、三人で海へ行ったのだが、彼女も男の子もうわべは、自然をよそおっていたが、彼女は、みられることに、刺されるような、恥ずかしい、ほのあまい、高校生くらいの年頃の子にとって、一番恥ずかしい、つらい快感を、そして、男は、近づきたいが、近づきすぎては、焼かれてしまう、イカルスのような切ない悩み、と、脳裏にやきついて、永遠に、死ぬまで、忘れない、いつもは、制服に、スカートの鎧で守っているのに、裸同然の姿を、みて、みられ三人は、たのしげに、夕風にふかれて、トロピカルジュースをのんだり、しているが、二人の男は、家に帰って、彼女の水着の輪郭を、思い出し、苦しく、何度も、はげしく自らを汚す。三人が二学期、学校で、あった時、彼女は、もう自分は、安全だとか、みせたのは、一度だけで、もうみせない、とか、二人が、あのあと、悩んだだろう、ことだとかを、優越感をもって、授業をうける。自分が女であることのよろこびを残暑に感じて。つまらない数学の授業だが、最高の夏だったと思いながら。






地獄変

かくて私は地獄におちた。閻魔大王の前にひきだされて、(もちろん両脇には地獄の鬼が仁王立ちしてギロリと私のことをみている。)通りいっぺんのことを聞かされた後、私は極楽ではなく、地獄行き、と決まった。観念はしていたがやはりショックだった。二匹の毛むくじゃらの虎のパンツをはいた鬼にこづかれ、こづかれ私は地獄へ向った。薄暗い、森閑としたところだった。時々、地獄へおちた亡者達のうめき声や、かすれ声がきこえる。
「生きていた時も地獄だったが、死んでもやはり地獄なのだな。」
こんどは本当の地獄で永遠の業苦に耐えなくてはならないかと思うとやはりため息がでた。気づくと私はゆげの中にいた。対岸がかろうじてみわたせるほどの大きな沼がある。そこからはブクブクあわがでている。私は鬼につきとばされて、その中に放り込まれた。
「あつつ。」
にぶい私にもこれが血の池地獄であることは瞬時にわかった。私はあわてて、とび出ようとしたが、例の二匹の鬼が、私を金棒で突き飛ばす。私はあきらめて、鬼に背を向けて湯(?)の方へ向いた。気づくと誰もいないのかと思っていた池の中に、あちらにちらほら、こちらにちらほら人影(というか首影)がみえる。
「オイっ。若えの。」
と私は呼ばれた。すぐ近く、私のとなりほどの所に、あつさにおこり耐えているかのごとき白髪の爺さんが私をひとニラミしている。じいさんは自分のとなりへくるようにうながした。おずおずと私はじいさんのとなりへ行った。ゆっくり動かないととびあがるほどあつい。私が「あちちち。」と叫ぶとじいさんは
「何だ。若えのにだらしないやつだ。」と笑う。
「おめえは何をしてここへきたんだ。」
と言うので、私は「はあ。」といってピンとしない返事をした。あなたはいったい何で・・・・と問い返すと、じいさんはこう答えた。
「おれはおめェのようなみみっちいことじゃねえ。おれは山賊の頭だった。殺すわ、ぬすむわ、でやりたい放題のことをして生きてきた。最後はつかまってかまゆでにされた。まあ自業自得だ。だが最後までネをあげなかった。」
といってカカカと笑った。自慢めいた口調である。
「と、するともう何年もこうしているんでか。よく耐えられますね。」
と私は言った。するとじいさんは
「何年なんてもんじゃねえ。200年になる。」
私は将来に不安を感じだしてきいた。
「よく耐えられますね。どうしてそんなに耐えられるのですか。」
と私がおそるおそる聞くと、じいさんはカカカと笑い、
「おれは悪党でも意気地のねえ悪党じゃねえ。どんなことにもネをあげねえのがおれの誇りだ。おれはいままで一度たりともネをあげたことがねえ。それに、いつか、この血の池の見張りをしている鬼が足をすべらせて池におちたことがあるが、ひめいをあげてにげ上がった。ヤツらは見た目にゃおそろしく、強そうにみえるが、それは金棒と閻魔大王の虎の威よ。正体は弱いものいじめしかできねえ弱ぞうどもよ。」
と言ってカカカと笑った。
「それにオレみてえに長ェこと地獄の責め苦に耐えてネをあげねえでいるとそれが誇りみたいなものになってくる。それにな・・・。長いことこうしてヌシみたいになるとお前みたいなよわっちろい新入りがはいってくる。そいつらにおれのド性骨をみせてやるのが何とも気分がいい。」
といって、じいさんは又カカカと笑った。
「極楽でヌクヌクしてる骨なしにオレの200年耐え、未来永劫耐える、絶対ネをあげねえ、オレのド性骨をみせつけてやりてえぜ。」
といって、じいさんは一層高らかにカカカと笑った。いやはや何ともすごい豪傑がいるものだと、おそれいった。この人にとっては地獄は本当に極楽以上の住みかなのだろう。と同時に私はこんなじいさんがいるのなら、地獄も何とか耐えられるんじゃないかというかすかな勇気が心の中におこった。






孤独な少年

その少年は無口でおとなしそうな少年だった。
ひるやすみ、みんながガヤガヤとはなしながら食べてるのに、いつも一人でおとなしそうに食べるのだった。一人の明るい少女は、そんな少年がかわいそうで何とかして友達になりたいと思った。少女は何より少年の澄んだ瞳が好きだった。友達がいなくても少年は少しもさびしそうではなかった。いったい彼は何を考えているのか、どんなことをするのが好きなのか、少女は知りたくなった。それで少女は少年のとなりにきて、えんりょがちに少年にはなしかけてみた。すると少年は、はじらいがちにこたえた。別に人と話をするのがきらいというようでもなさそうだった。少女は何ども少年に話しかけた。そのたび少年はちゃんとこたえてくれる。でも少年の方から話をするということはない。とうとう少女はつらくなって、自分がわからなくなりそうな不安がつのってしまって、ある日、少年のくつ入れに手紙を入れた。それには、こう書かれてあった。
「佐木君。今度の日曜、もしおひまでしたら、きてください。おねがいです。」
手紙には、もよりの駅からの地図がかかれてあった。
 さて、問題の日曜であった。その日、少女の両親は外出していたので家には少女だけだった。少女は、めいっぱいきれいにみせようと化粧をして、おかしもつくって、まっていた。約束の時間が近づくにつれ心臓の鼓動が早くなってくる。チャイムがなった。少女が、もうしわけなさそうに戸を開けると、少年が立っていた。少女は内心よろこんだ。少女は、少年に自分がつくったのだといって、おかしをだした。少年は
「おいしいよ。」
といってたべた。でもやはり少年は心を開いてくれない。時間が重苦しく感じられだした。うつむいて、だまっている少年をみた時、少女の心に一つの、もう自分をすててしまおうかと思う行為が思いついた。それはDeliriumでもあった。少女は自分の部屋をみて、といって少年を少女の部屋へ誘った。少年はあいかわらずだまっている。とうとう少女は耐えられなくなって、少年の手をにぎって、
「私のこときらい?」
とたずねた。その瞳には涙がうかんでいた。少年はふせ目がちに、少し口唇をふるわせている。少年も悩んでいた。とうとう少女は服をぬぎだした。上着をぬいだ。でも少年はだまっている。だが、膝頭をつよくギュッとにぎっている。少女はスカートも脱いだ。これでもだめなのかと思って少女がパンティーに手をかけた、その時、少年は、すばやく立ちあがって、それをとめた。少年ははじめて少女の目をみた。少女は泣いていた。少年は少女を力強くだきしめて、はじめて心のこもった声で言った。
「ごめんね。京子ちゃん。僕京子ちゃんのこと好きだよ。とっても好きだよ。」
京子はうれしくなって泣いた。いつまでもこうしていたいと京子は思った。



高校教師

設定 Situasion

 東京郊外のある私立の女子高校で、
一学期の半ば頃、英語担当の女教師が結婚して、他県の高校へ、転任することになったので、今春大学をでて、ある男子校で教鞭をとっていた山武に、彼女から後任のたのみがもちかけられました。彼は彼女と同じ大学で、クラブの後輩でした。山武はこれをひきうけました。山武は女子高の近くのアパートに引っ越して、さっそく女子高で教鞭をとることになりました。山武は英語の担当の他に、二年B組の担当もすることになりました。山武は内気な性格でしたが、熱心なため、生徒達の評判もよかったのですが、でも担任の二年B組の一生徒、根木玲子はなぜか山武が自分にだけはよそよそしい態度のように感じられてなりませんでした。一学期が無事終わり、夏休みも過ぎ、二学期も半ばにさしかかったある秋の日のこと…・。

 三日つづけて山武が学校を休んだ日の昼休み、玲子はそのわけを教員室にたずねにいった。すると何でも山武はどこかの男子校に転任するらしいとのことだった。
 その日の放課後、玲子は山武のアパートをたずねた。
 玲子は山武が自分をさけているような気がしてならなかったのだ。その疑問がわからないまま山武が転任してしまうのはなんともあとくされが悪い。さらに玲子はなんだか山武が転任するのは自分のせいであるような気さえしていた。山武のアパートは学校の最寄の駅から二駅目で、駅から歩いて十分くらいの静かなところにある四階建てのワンルームマンションだった。
周りは一面大根畑だった。このあたりの土壌は、深くてやわらかい黒つちなので、大根、にんじん、ごぼうなどの根菜類に適していた。山武の先任の女教師もそこに住んでいた。以前、玲子は数人の友達と、その女教師のアパートをたずねたことがあったので、場所は知っていたのだ。
 先任の女教師が転任して部屋をでるのと入れ替わるように、山武が同じ部屋に入居したのである。玲子は駅前の不二家でマロンケーキとモンブランを買っていった。途中、玲子は通行止めにあった。
 小学校低学年くらいのい子供達が四、五人、道にしゃがみ込んで、チョークで絵を書いている。玲子はしゃがみこんで、馬の絵を書いた。
 子供達は、
 「うまーい。」
 と言って拍手した。その中の一人の子は自分達の言ったことばが、しゃれになっていることに気がついて笑った。一人の子が、
「もっとかいて」
と催促した。が、玲子は立ち上がり、
「ちょっと用事があるから、また今度ね。」
と言って手を振って歩き出した。
 それから数分もしないうちに山武の住んでいるアパートが見えてきた。
 山武の部屋は3階だった。玲子が戸をノックすると鈍い返事がして、足音が聞こえ、戸が開いた。そして中から山武が眠そうな目をこすりながら、ものぐさな様子でぬっと顔を出した。
それをみて玲子はクスッと笑った。山武は予期しない訪問者にたいそう驚いた様子で、へどもどして、さかんに髪をかいて、「やあ。」と返事した、が当惑して
「すまないがちょっとまって。」
と言って戸を閉めた。中でどたばた音がする。5分位して戸はまた開いた。出てきた山武をみて玲子は再びクスッと笑った。山武は、いつも学校へ着てくるスーツを着ている。さすがにネクタイまではしていなかったが。
 「よくきてくれたね。まあ、とにかく入って。」
 山武は言った。玲子は山武の口調に、かすかに社交辞令ではない真意があるような気がしてうれしくなった。通された部屋は応急手当したあとらしく、多少きれいにかたづいていた。
 「あんまりきれじゃなくてすまないけど…・。」
 と言って山武は玲子に座布団を差し出した。それはぺしゃんこで生地が光っていた。
 玲子はカバンを置いて、座って部屋をみまわした。
 さすがに教師の部屋だけあって書物が多い。
 まさに汗牛充棟である。山武は英文学が専攻だった。
 心理学や哲学の本が多かった。
 「先生。ケーキを買ってきました。」
といって玲子はそれを机の上に置いた。
 「やあ。それはどうもありがとう。じゃ今、お茶を入れるよ。紅茶でいいかな。」
 と山武が聞くと、玲子は「はい。いいです。」と答えた。
 山武は台所にポットと紅茶ととティーポットと紅茶茶わんをとりに行った。
 紅茶ちゃわんは一つしかなかったのいで、自分は湯のみにすることにした。
幸いポットはいっぱいだった。それをやかんにうつしてあたためなおしたが一分もかからずお湯はわいた。
 キッチンからもどって山武は玲子と向かい合わせに座った。
 「先生。モンブランとマロンケーキのどっちが好きですか。」
 「君はどっちがいい。」
 「私はどっちでもいいです。先生のために買ってきたんです。先生が好きなほうをとってください。」
 「そう。じゃ、マロンケーキをもらうよ。」
 山武はあっさり答えた。もし、モンブランがなかったら、レストランに入るとすくなくても3分はメニューとむきあう、優柔不断度の偏差値が少なくみても65はある山武に、この選択に最低でも一分は費やさせたであろう。山武があっさり答えられたのはモンブランがあったからである。アルコール分解酵素の少ない山武は以前モンブランを食べて、それに含まれている少量のブランデーで顔が赤くなって恥ずかしい思いをした経験があるからである。山武は紅茶を入れた。二人は紅茶が出るのを少しの時間、待った。
 「あっ。そうそう。ケーキはいくらした?」
山武はあわてて財布をだした。
 「いいです。私のおごりです。」
 「いや、そういうわけにもいかないよ。僕が払うよ。」
 「先生。」
玲子は少し強い口調で言った。
 「人の好意は素直にうけるものですよ。ショートケーキ二つなんて五百円しかしません
。」
「…・わかったよ。ごめん。」
確かにそのとうりだと思って山武は財布を内ポケットに戻した。二人は食べ始めた。山武はなんだか、照れくさくて、うつむき加減に食べた。
玲子はそんな山武がちょっと面白くて、じっと山武をみつめながら食べた。普通こういう時、女同士だったらしゃべられずにはいられない。
だが山武は内気な性格なので、こんな時、何を話したらいいのかわからないのである。
(何か話さなくてはならない。でも何を話したらいいのかわからない。)と山武は困っている。
玲子はそんな山武の心を見ぬいている。
 山武は玲子から目をそらすようにして紅茶を飲んだ。重苦しい沈黙を玲子がやぶった。
 「先生。どうして転任なさるんですか?」
山武は、たいそう驚いた様子で、口の中に含んでいた紅茶をあわてて飲み込んだ。
 「いや、それは、つまり、その…・。」
山武はさかんに髪をかきあげながら、あやふやな返事をした。山武が当惑して口篭もるのを玲子はじっとみつめていた。玲子は何かやさしいことばをかけようかと思った。が、やっぱりそれはやめた。山武の本心をききだすには、こうしてだまってじっとみているのがいちばんいい。玲子は眉を微動だにせず、じっと山武をみつめつづけた。数分その状態が続いた。物理的には短い時間だったっが、精神的には山武にとって長い時間だった。山武はとうとう沈黙に耐えられなくなって、観念して言った。
 「僕個人のちょっとした事情のためさ。」
 「事情って何です?」
 玲子はすぐに聞き返した。
 「だからそれはいえない事情だよ。」
山武は湯呑に茶をつぎたした。山武は少しほっとして眉をひらいた。玲子もそれ以上問い詰める気にはならなかった。
 「わかりました。それならばもうそのことは聞きません。そのかわり…。」
と言って、玲子は声を少し強めた。
 「そのかわり、一つ教えて下さい。」
 「ああ、いいよ。」
 山武は肩の荷がおりた安堵感でおちついた口調で言った。
 「どうして私を無視するんですか?」
 (うっ。)
 山武は驚きで一瞬のどをつまらせた。
 「無視なんかしてないよ。」
山武はあわてて否定した。
 「ウソ。先生は授業の時もホームルームの時も一度だって私をみたことがないわ。先生はわざと私から目をそむけるようにしていたわ。」
 「そんなことはないよ。もしそうみえたんだとしたらあやまるよ。…ごめん。」
 「あやまってもらわくてもいいんです。どうして私を無視するのか、そのわけを教えてください。」
玲子の口調は真剣だった。
山武は大きなため息をついた後、目をつむり、額に手を当てて再び黙ってしまった。重苦しい沈黙が再び起こった。山武は額にしわを寄せ、唇をかんだ。その沈黙を玲子はおちついた口調で破った。
 「先生。何か悩んでいらっしゃるんじゃないでしょうか?」
 山武の瞼がピクっと動いた。
 「なやんでなんかいないよ。」
 山武はすぐに否定したが、その声は少しふるえていた。それがはっきりわかったので玲子は少しうれしくなった。
 「うそだわ。顔にあらわれてるもん。」
 山武は答えない。
 「先生。悩み事があるんでしたら教えてください。私でお役に立てることがありましたら何でもします。」
 「ありがとう。でもいいよ。これは僕の問題だから…・。」
 「ひきょうだわ。先生。」
 玲子は間髪を入れずピシャリと強い語調で言った。山武は玲子の発言に驚いた。
 「ひきょうってなぜ?」
 「だって先生、ホームルームの時おっしゃったじゃないですか。悩み事があったら、どんな事でもいいから一人で悩んでいないで話しにきなさいって…・。」
 「それとこれとはわけがちがうよ。」
 「どうちがうんですか?」
 「それは…・僕は教師で、君達は生徒という立場の違いだよ。」
 「そんなのわからないわ。人にいってることを自分はしないなんて、やっぱりずるいわ。それに先生が学校をやめるんなら先生と生徒という関係もなくなるんじゃなくて?」
 (うぐっ。)
 山武は再びのどをつまらせた。
 再び沈黙に入りそうな気配をおそれた玲子は勇気をふるって言った。
 「先生。やめないでください。これは私の気持ちであると同時にみんなの気持ちでもあると思います。だって先生はとってもやさしいんですもの。でも私だけは別みたい。私、今日先生が学校をやめると聞いて、それは何だか私のせいのような気がしてしようがないんです。いいえ、きっとそうにちがいないわ。私、先生にやめられたらつらくてしかたがないわ。私のせいで先生がやめるなんて…・。これは私の思い込みでしょうか?」
 玲子の目にキラリと一粒涙がひかった。
 「教えてください…・。先生。」
 玲子は涙にうるんだ瞳をに向けた。
 玲子はつかれていた。山武も同じだった。山武はうつむいたまま両手で顔をおおった。再び沈黙がおとづれた。静まり返った部屋の中で置き時計の音だけがだんだん大きくなって聞こえてくる。たまに聞こえるのは夕焼け空をわたる烏の鳴き声くらい…・。
 二人はともに悩み、そしてつかれていた。山武はうつむいていたが玲子の気持ちは手にとるように伝わってきた。
 (これ以上、彼女を苦しめるのは教師として失格だ。)
 山武は決断した。
 「じゃ、話すよ。」
 その口調にはやや諦念の感があった。
 「でもいったらきっとけいべつされるだろうな。」
 山武は上目づかいに半ば独り言のように言った。
 「そんなことぜったいしません。」
 玲子はきっぱり言った。
 「いや、するよ。」
 「しません。」
 山武は大きくため息をついた。
 「だれにもいわないでくれる。」
 「いいません。」
 「ほんとう?」
 「私は敬虔なクリスチャンです。神に誓います。」
 山武は再び大きくため息をついた。それは以前の悩みのため息とは違う諦念のため息だった。
 「実は…・。」
 「ええ。」
 玲子は少し身をのり出した。
 高校生は好奇心のかたまりである。そして教師を説得させたという思いが彼女を少し陽気にさせていた。
 玲子は好奇心満々の表情だった。目は、かっと大きくみひらかれ、その照準は寸分たがわず山武の口唇に定められ、そして全神経を耳に集中しているかのごとくだった。まさに満を辞して山武の返答を待っているといった様子である。
そんな玲子をみて山武の言葉はまたとぎれてしまった。玲子の心に少しいらだちが起こった。
 「先生。男でしょ。」
 この言葉はいかに気の小さい男にでも行動を起こさずにはおかないものである。山武のためらいは完全に消え去った。
 「じゃ、言うよ。けいべつされても、もういいよ。実は…・・夜、床につくとなぜか必ず君の顔がうかんでくるんだ。そして…・」
 と言って山武一瞬はためらった。が、
 「そしてどうなんです。」
 と玲子が非常に強い語調で言ったので、山武は(もうどうとでもなれ)という捨て鉢な気持ちになってきっぱり言った。
 「そして君がいろんな拷問にかかって、泣き叫んでいる姿が浮かんでくるんだ。」
 言って山武は強く目をつむってうつむいた。あと彼女が自分をどう思うか、それはもうすべて彼女に任せてしまったのだ。そう思って山武は恐る恐る顔を上げた。玲子はにこにこしている。山武はおそるおそる聞いた。
 「どう。けいべつした。」
 「ううん。けいべつなんかしてないわ。ほんとうよ。でもちょっとおどろいたわ。」
 玲子の目には確かに軽蔑の念は感じられなかった。山武はほっとした。玲子は無邪気に笑っている。
 「でもどんな拷問なの。」
 「いえないよ。そんなこと。」
 「ずるいわ。たとえ想像でも私を拷問にかけといて…・私知る権利あるわ。」
 彼女は子供っぽい口調で言う。山武の心に瞬時に彼女に秘密を話してしまったことに対して後悔の念が起こった。いわなければよかったと思った。玲子の心変わりのあまりもの速さに、さっきの玲子の真剣な表情や、涙の訴えなどは実は多少芝居がかっていたのではないかと、鈍感な山武は今になってはじめて思った。そういえば玲子は演劇部でもある。だがもうおそい。覆水盆に返らず…・である。一度聞かれてしまった言葉は一生忘れられないのである。
 「どんな変質的な拷問なんですか。」
 玲子はじっと山武を見据えながら聞いた。
 「言えないよ。そんなこと。かんべんしてくれ。」
 山武は紅潮した顔を下げて哀願した。
 「だめです。言ってください。」
 玲子は眉を微動だにせず真剣な表情で山武の哀願を却下した。玲子はまるで宇宙人でも見るかのような目つきで黙ったままじっと山武を見つめつづけた。数分そのままの状態が続いた。
 山武は何だか自分が刑事の尋問をうけている犯罪者のような気がしてきた。玲子の固定した視線が山武を苦しめた。(もちろんこれは玲子の芝居である。こうすることが山武を最も苦しめるということを玲子は知っている。だが小心な山武にはそれがわからないのである。)いつまでたっても玲子は黙ったまま山武をじっと見つめている。このままでは自分が言わないかぎり玲子はいつまでもこの状態を続けるだろうと山武は思った。また玲子もそのつもりだった。それで、とうとう山武は玲子のこの沈黙ぜめに耐えきれなくなって、尿意は起こっていないが、
 「ちょっとトイレにいかせてくれ。」
 と言って立ち上がろうとした。だが玲子はすぐさま「だめです。」といって山武の腕をつかんで引きとどめた。この玲子の強引な行為に山武はおそれを感じて、トイレに行くのをあきらめて腰を下ろした。玲子は相変わらず黙然とした表情で炯々と山武をみつめている。ついに山武は玲子の黙視責めに耐えられなくなって
 「わかったよ。はなすよ。話すからどうかその宇宙人をみるような目はやめてくれ。」と言った。
 「そうです。言ってください。」
 「ええと。何についてだったかな。そうそう。今度の文化祭で、何をやるかについてだったね。」
 といって山武は手を打った。だがそんな子供だましが通用するはずがない。玲子はあいかわらず真顔で山武をみつめながら即座に、
 「ちがいます。想像で私をどんな拷問にかけて楽しんでいたかについてです。」
 おそれを感じてすぐさま、
 「別にたのしんでなんかいないよ。僕の意思とは無関係におこるんだよ。」あわてて弁明する。山武の頭の中は混乱していた。やっぱりいわなければよかった、とつくづく後悔した。
 だがもうおそい。のってしまった船である。山武はうつむいてため息をついた。
 しばしの時間がたった。山武の頭は混乱から疲弊状態へと移っていった。
 「実家で父親と母親が病気で寝ているんです。」
 などとありもしないことを目に涙を浮かべて言いたくなった。
 窮鳥もふところにはいれば…・。
 それで山武はチラッと玲子をみた。するとそこにはさっきと少しも違わない氷のような無表情の玲子のまなざしがあった。そしてそのきびしい女刑事のような表情は無言のうちにこう語っているように思われた。
 「君はもうすでに完全に包囲されてる。いかなる抵抗も無駄である。」
 山武はついにこの女刑事に自首する覚悟をきめた。
 「わかったよ。いうよ。」
 だがそれは彼女に軽蔑の念が全くなかったとしても最悪の羞恥の念なしには言えるものではなかった。言いながら声が震えてきた。
 「雪の日に木に縛りつけたり、算盤板の上に正座させて石を膝の上にのせたり、木につるして火あぶりにしたり、体がやっと入るくらいの頑丈なガラスの箱に入れてヘビを入れたり…・。」
 「ひどいわ。私ヘビなんていれられたらとてもじやないけど耐えられない。」
 言いながら玲子はクスクス笑い出した。
 それをみてはじめて、鈍感な山武は玲子の芝居に一杯くわされたことを知って地獄におとされた罪人のようにくやしがった。
 「でもどうしてそんなことするの。私がそんなに憎いの。」
 「にくくなんかないよ。むしろ…・。」
 と言ってあわてて口篭もった。
 「じゃ何で私を拷問にかけるの。」
 「わからないよ。自分でも自分がいやでたまらないよ。」
 「学校やめるのもそのため。」
 「ああ。そうさ。こんな性格の教師、失格だよ。」
 玲子は今度はさっきとはうってかわったうれしそうな顔である。
 「先生。やめないで下さい。私なら別にかまいません。」
 「ありがとう。本当なら僕のほうから言うべきなのに。まったくなさけない話しだ。」
 「転任するのもそのため。」
 「ああ。そうだよ。」
 「先生。やめないで下さい。私なら本当にかまわないんです。」
 彼女の口調は真剣になった。
 「ありがとう。でも君かよくても僕がだめなんだ。こんな性格で女子校の教師をするべきではないよ。」
 「そんなこと絶対にありません。先生ほどいい先生めったにいません。授業は誰がきいてもわかるように丁寧に教えてくださるし。とってもやさしいし。」
 「ありがとう。僕だってできることならこの学校でつづけたいさ。でもやっぱりやめるべきだ。僕自身苦しいしね。僕のこの変な癖は昔っからだった。たぶん一生なおらないと思う。ここにいれば悩みつづけるだけにきまっている。だから転任すると決めたんだ。」
精神浄化作用が心の重荷を解いた。
 玲子はうつむいて考え込んだ。今度は自分が何か言う番だと思った。
 窓からさしこむ西日か玲子の頬を照らした。が、しばしの後、行雲によって遮られた。
 時計の音は以前のように大きくなってこなかった。むしろ二人の間で時間が止まっているかのようだった。突然、玲子はパッと顔を上げた。
 「先生。もしよければ私を拷問してください。そうすればきっと先生の気持ちもはれるわ。でもヘビだけはゆるしてくださいね。」
 山武は驚きのあまりしばし呆然と玲子をみつめた。山武が玲子の顔をはっきり見たのはこれがはじめてだった。その目はとても澄んでいた。一瞬山武は我を忘れて玲子の目を見た。だが次の瞬間、頬のあたりから起こってきた羞恥の念が山武の意識を現実に戻した。
 「できないよ。そんなこと。絶対に。それに現実に君を拷問にかけたいと言う気持ちはないような気がするんだ。」
 「それって空想サディズムね。」
 「ああ、そうだね。」
 ちょっぴり投げやりな口調で言う。山武が心のすべてを語ってくれたことが玲子に安心感をもたらした。同時に玲子の心にちょっぴり、(いや、かなり)いたずらな気持ちが起こった。
 「先生、やめないで。やめたらみんなに先生が変態だって必ずいいふらしますから。」
 玲子は子供っぽい口調で言った。山武はおそれで顔が真っ青になった。
 「ずるいよ。さっき誰にもいわないっていったじゃないか。」
 山武はおおあわてに言った。
 「女心は秋の空っていうじゃない。」
 そういって玲子は両手で頬杖をついて笑った。
 「お願いだからそれだけはやめてくれ。そんなことされたら僕はもう生きてられないよ。」その哀願は真剣そのものだった。玲子はますますうれしくなった。それは生殺与奪の権を手にした人間が感ぜずにはいられない至福の喜びだった。
 「そうね…・じゃ考えとくわ。先生が学校をやめないでくれるんなら絶対だれにもいわないわ。」
 「そ、そんな…・」
 その声は蚊の鳴くほど弱かった。玲子は手を打った。
 「そうだわ。私が3年に進級するまではやめないで。だってあと半年じゃない。そうすれば絶対誰にも言わないわ。」
 山武はぐったりうなだれていた。自分がばかなことを言ってしまったとつくづく後悔した。しかし心の片隅に、あえて言ってよかったという気持ちもかすかではあるが確かにあった。
 山武は大きくため息をついて顔を上げ、玲子をみた。ふたたび雲間からあらわれた西日が玲子の顔を照らした。玲子は無邪気な笑顔で笑っている。その無邪気さに一点のくもりもないのを感じると山武の心の中にあった、あえていってよかったというかすかな気持ちは徐々に大きくなっていった。山武は言った。
 「わかったよ。そうするよ。」
 そういって山武は大きく一呼吸して窓の外をみた。何度もみなれたつまらない田園の風景がはじめてみた景色ほどに新鮮に感じられた。山武は玲子に再び顔を向けていった。
 「なんだかとてもすっきりしたよ。もう一度この学校でやってみようと言う気持ちが起こってきたよ。君のおかげだよ。ははは。変な話だな。教師が生徒に立ち直らされるなんて。」
 山武は苦笑した。
「そんなことありませんわ。老いては子に従え、というじゃありませんか。」
「老いては、はひどいな。ぼくはまだ23だよ。」
 「それより先生、もう辞表をだしてしまったんでしょ。どうするんですか。」
 「それは撤回してもらうようたのんでみるよ。」


 やっと一段落した気持ちになった。窓の外には一番星が見える。
 秋は日がくれるのがはやい。山武は立ち上がってカーテンをしめ、電気をつけた。
 再び玲子と向かい合わせに座った。
 「先生、本当にやめないんでくれるんですね。」
 「ああ。」
 「あしたからまたきてくれるんですね。」
 「ああ、いくよ。」
 「よかった。これでまた先生のわかりやすい授業がきけるわ。」
 と胸に手を当てて半ば独り言のように言う。
 「せっかく先生のうちに来たんだから」
と言って玲子は思い出したようにカバンから教科書をとりだした。
 「わからないところがあるんです。教えてください。」
 と言って玲子は山武の隣にきて教科書のあるページを開いた。
 「ああ、いいよ。」
といって山武は玲子のさしだした英語の教科書に少し顔を近づけた。
 「ここがわからないんです。」
と言って玲子はあるセンテンスを指した。そこはまだ授業では教えていないところだった。だが勉強熱心な玲子はかなり先まで予習しているらしい。
 「えーと、ここのherのとこです。」
 「これは前文のa ship(船)のことだよ。英語の名詞はほとんど中性というか無性だ
けど船は例外で女性名詞なんだ。フランス語ではすべての物事に性別があるんだけどね。」
 「わかりました。じゃ、ここはどうなんてすか。」
 と言って玲子は別のページのセンテンスを指した。
 「ああ、これは強調構文だよ。Itとthatの間のin self-sacrificeがthat以下のクロー
ズの副詞句になっているんだよ。」
 「わかりました。じゃここはどう訳すんですか。」
 と言って玲子は別のページを開いた。そして山武の体にほとんどふれんばかりに近づいた。玲子のストレートの長い黒髪から石鹸のような匂いが伝わってきた。
 山武はここにいたってはじめて一つの重大なことに気がついた。それは自分が女性とこれほど近づいて話しをしたことなど一度もないということである。さらに山武はもっと重大なことに気がついた。それは今のこの状況がとてもあぶないということである。閉鎖された密室に男と女か肌がふれんばかりに近づいているのである。山武は心臓の鼓動がだんだん早くなってゆくのに気がついた。顔はだんだん赤くなっていった。同時に山武は自分の下腹部に血流が増加しはじめているのに気がついた。山武はあわててそれを玲子に気づかれないよう腰を少し引いた。山武は必死になってそこへの血流をいかせないようにした。だがそれは意志の力でコントロールできるものではなかった。心拍数の増加も同じであった。それは山武の必死の意志の制止をうらぎり指数関数的に上昇していった。山武が玲子の質問に答えないので玲子は山武の方にふりむいて、
 「これはどう訳すんですか。」
と再び聞いた。玲子がもろに山武に顔を向けたことが致命傷を与えた。
 「こ、これは…」山武の言葉はひどく震えていた。彼はもうその先を言うことができなかった。これ以上少しでも何かしゃべれば玲子に今の自分の苦境を悟られてしまう。だが答えないわけにはいかない。だが何かしゃべればその震えた口調から今の自分の心境を気づかれてしまう。まさにどうしようもない状況である。頭はますます混乱し、心拍数はますます高まる。
 「どうしたんですか。先生。」
 答えてくれない山武にしびれをきらした玲子が山武のほうに再び顔を向けて聞いた。だが山武は答えられない。うつむいて真っ赤になっている山武をみて玲子は山武の心を察し、うれしくなった。同時に山武をからかってみようといういたずらな気持ちが起こった。
 「先生。何を真っ赤になっているの。」
 わざとおちつきはらって丁寧な口調で言う。
 山武は答えられない。うつむいたまま頬を紅潮させている。そんな山武をみて玲子のいたずらな気持ちはますます大きくなった。玲子はいきなり山武の手をにぎった。ふるえている。
 「な、なにをするんだ。」
 山武は声を震わせていった。
 「先生、いやらしいこと考えていたでしょ。」
 「ば、ばかな。そんなことはないよ。」
 「じゃ何で声が震えているの。」
 山武は答えられない。玲子の山武をからかいたい欲求は頂点にたっした。
 「せえ~んせえ~。」
 玲子はめいっぱい、あまい声で言って山武の肩に頭をのせてきた。そして目を閉じた。
 山武の心臓は、はちきれんばかりにその拍出量を増した。
 「な、なにをするんだ、根木君。」
 山武は声を震わせていった。
 普通良識のある教師だったら、こういう時、「ばかなまねはやめたまえ。」と言って、彼女をひきはなすであろう。だが小心な山武には、それができないのである。
なぜかというと、一般に女性の方から男に声をかけてきた場合、それをことわることは女性に大変恥をかかせることになる。すぐに彼女をつきはなしてしまっては彼女に恥をかかせることになる。それがこわくて山武は玲子の手をふりほどくことができないのである。
それは山武の本心である。だがそれを大義名分に山武は、確かに、感じてはならないものを、いけないと思いつつ感じていた。
 頬にふれる清潔な石鹸のような匂いがする黒髪を…。
 肩から伝わってくるふくらみを…。
 その谷間から伝わってくる心臓の鼓動を…。
 山武の心は、極楽の蓮台の上で身を寄せ合っている佐助と春琴の心境に近かった。
 山武の本能は求めていた。
 できることならいつまでもこうしていられたら・・・。
 だが山武の理性はそれを激しく否定していた。
 (こんな状態をみとめることは教師のモラルに反する。)
 山武の超自我は山武にそう強く訴えていた。
 「や、やめたまえ。根木君。」
 山武は声を震わせていった。
 玲子に恥をかかせることのできない山武にできる唯一のことは、言葉による制止だけであった。だが玲子は山武の言葉など聞く耳をもたぬかのごとく、うっとりと、柔らかい笑顔で目をつむったまま、手を離そうとしない。
 「先生。」
 玲子はあまい声で言った。
 「好きにしてもいいわよ。」
 山武は一瞬、心臓が破裂して死ぬかと思った。全身がカタカタと小刻みに震えてきた。 「な、なにをばかなことをいうんだ。」
 すぐさま言うが玲子は聞く耳を持つそぶりもみせない。
 「私を拷問にかけたいんでしょ。かけてもいいわよ。」
 山武の心臓は破裂するかと思うくらいその拍出量を増した。
 「そんなことできるわけがないじゃないか。それにさっきも言ったように現実に君を拷問にかけたいという気持ちなんかないんだよ。ほんとうだよ。」
 玲子は何も言わない。うっとりと柔らかい笑顔で目をつむっている。
 「とにかくこんなことしててはいけないよ。」
 そう言って山武は玲子の手をほどき、彼女をひきはなした。
玲子が体を寄せてきてからかなりの時間がたっていたので、これならもう玲子に恥をかかせないですんだことになると思ったからだ。だが山武の本心を言えば、ちょっぴり(いや、かなり、いや、相当)残念ではあったが…・。
 引き離された玲子は笑顔で山武をみている。山武はやっと極度の緊張感から開放されて、ほっとした。山武の心拍数は徐々に平常値にもどっていった。玲子は立ち上がって山武と向かい合わせに座った。玲子はしばし、うれしそうな顔をして山武をみていたが突然、
 「先生、恋人いる?」
 と聞いた。
 「…・。」
 「どうなんです?」
 「い、いないよ。」
 山武はうつむいて答えた。
 「イナイ歴何年?」
 山武の心に(そんな質問に答えなきゃならない義務はないよ)と言いたい衝動が起こったが、小心な山武は玲子を前にして彼女に何か聞かれると正直に答えなくてはならない義務感のようなものが起こってしまうのだ。それでうつむいて「23年。」と正直に答えた。
 「じゃ、いままで一度も恋人をもったことがないんですね。」
 玲子はものすごくうれしそうな顔をしている。
 「恋をしたことはあるんですか。」
 玲子はさらに追い討ちをかける。これにはさすがの山武も少しいらだって、
 「そこまで答える義務はないよ。」
と言った。 玲子はうれしそうな顔をして、
 「先生。なにかの本で読みましたが、禁欲的な精神状態があまりに嵩じすぎると倒錯し
た感情が起こると書いてありましたよ。」
 山武自身そのことは知っていた。そして自分の精神状態がまさにそれであることも…・。
 「先生。私のこときらい?」
 「な、何を言うんだ。やぶからぼうに。」
 「どうなんです。きらいなんですか。」
 玲子は即座に追い討ちをかける。
 「き、きらいじゃないよ。」
 「じゃ、好き?」
 (そんな子供じみた質問に、)と、つい思ったが、自分自身に、短気をおこすな、と叱咤して、
 「生徒に個人的な感情をもつことは教師のモラルに反することだよ。だが一生徒として
はもちろん好きさ。」
 玲子はあいかわらず、うれしそうな顔で山武をみつめていたが突然、
 「私が先生の恋人になってあげるわ。どう?私じゃいや?」
 と聞いた。狼狽した山武だったが、すぐに、
 「だめだよ。そんなこと教師のモラルがゆるさないよ。」
 玲子は山武のあまりに融通のきかなさにいささかじれったくなって、
 「じゃ今度いつか一回でいいですから、どこかでデートしません?」
 「だめだよ。それもモラルに反するよ。」
 「もう、モラル、モラルって、かたっくるしいんですね。」
 玲子はいらだたしげに言った。
 山武はうつむいて「ごめん。」と言った。一瞬の間を置いて、玲子にふと面白い口実がおもいついた。
 (これなら山武の律儀さを逆に利用できる)
 と思ってうれしくなった。
 「一日でいいからデートしましょう。だって今まで私を無視しつづけてきて、私を悩ま
してきたんだもの。その謝罪としてなら先生の心のバランスもたもてるんじゃなくて…。」
 山武はしばし考えた後、
 「わかったよ。デートするよ。ただし一回だけだよ。こんなことが学校にしれたらたいへんだからね。君も僕も身の破滅だよ。」
 「うれしい。じゃ、どこにしようかなー。」
 玲子は頬杖をついて天井をみながらしばし考えた。
 「そうね。じゃ今度の日曜日。渋谷で。ブティックで洋服買って…。前からほしいと思っていた服があるの。それから他にもほしいものいろいろあるの。そのあとスカイラウンジでフランス料理食べて…・。もちろん費用は全部先生持ちで…。どう?」
 「わかったよ。それで謝罪になるならそうするよ。ただし一回だけだよ。こんなことが学校にしれたら身の破滅だからね。」
 もう、外は暗くなっていた。
 秋の日はつるべ落としである。
 もう7時になっていた。
 「もう、こんな時間だから帰ったほうがいい。」
 玲子は「はい。」と言って、教科書をかばんにしまった。そして、立ち上がって、玄関にむかった。彼女は靴をはいてから、ふりかえり、
 「先生。あした必ず学校にきてくださいね。」
 「ああ、必ず行くよ。」
 「絶対ですよ。こなかったら先生の秘密いいふらしちゃいますからね。」
 山武は一瞬、ギョッとして、顔から血の気が引いた。
 「いくよ。必ずいくから、それだけはお願いだからいわないで。」
 玲子は一瞬、「いまのはジョークですよ。」と言おうかと思ったが、やっぱり、それはやめにした。多少、非常なようでも言わないでいるほうが山武を確実に学校に来させることができると思ったからだ。それで、つつましい口調で、
 「先生。今日はどうもありがとうございました。私の勝手な頼みをきいてくださって。
それに勉強もおしえていただいて。」と言って、ペコリと頭をさげた。
山武は内心ほっとして、
 「僕の方こそ君にお礼をいわなくっちゃ。またあの学校で教師をつづけようと思うことができたのは君のおかげだよ。」
 玲子は再びペコリと頭をさげてから階段を降りていった。

  ☆   ☆   ☆

 玲子を見送ってからドアを閉めると山武は再び机の前に腰をおろした。
山武はしばしの間、我を忘れて、呆然としていた。山武の頭は、まるでるめまぐるしく進行する映画をみたような状態だった。実際、副交感神経優位型の山武にとって、これほど神経の酷使を要求された経験は生まれて一度もなかった。山武の頭はしばしの間、空白状態だった。
だが時間の経過が徐々に山武の意識を現実にもどしはじめていた。山武は無意識のうちに、玲子に対して心のすべてをあかしてしまったことが、はたして本当によかったのかどうか考えだしていた。再び、「やっぱりゆわないほうがよかったのでは。」という考えがあらわれだした。だが、玲子の悩みを解いてやったのだし、再びあの学校で教師をつづけようという決意がもてたのだし、やっばり言ってよかったのだという考えも心の一方にあった。30分ほど、その葛藤が山武を悩ませつづけた。
 ポツポツと窓ガラスを打つ音が聞こえ出した。小雨がふりだした。
 結局、山武はやっぱり、言ってよかったのだという結論に達した。心のそこからそう思ったのではなく、無理にそう思い込もうとしたのだった。それで気をまぎらわそうと明日の授業の予習をはじめた。山武は書棚から教科書とノートをとり、机に向かった。明日おしえるところは関係代名詞である。わかりにくい授業というのは教師が、わかっている自分を基準にして教えるからわからないのだ。もっと生徒の立場に立ってわかりやすくおしえなければ…・。
 「えーと。関係代名詞とはそもそも先行詞とそれを形容する形容詞節をつなぐ代名詞であって、先行詞はその形容詞節の中で、関係代名詞がwhoであれば主格、whomであれば目的格、whoseであれば所有格としてはたらき…。」
 (だめだ。だめだ。こんな説明の仕方じゃわかってもらえない。もっとわかりやすく説明しなければ…・。)
 それから30分近く、山武は関係代名詞の説明の仕方を考えた。だがどうもうまい説明の仕方が思いつかない。すると再び心の奥にしまいこんた玲子のことが気になりだした。
「やっぱりいわない方がよかったのでは。」という否定論が生まれ出した。そしてそれは加速度的に大きくなり、小心な山武を悩ませ出した。
「よく考えてみれば、ばかなことをいってしまったものだ。何で心のすべてを言ってしまったのだろう。なにも、いわなくてはならない義務などないのだ。」
そう考え出すと山武の心は否定論一辺倒になってしまった。山武は茶を飲みながら、冷静になろうと考え、もう一度何で自分が玲子に心を開いてしまったかを考えてみた。
「彼女に心を開いたのは彼女が真摯な態度で悩みを打ち明けてきたからだ。生徒の深刻な悩みに応じるのは教師の責任だからだと思ったからだ。ましてや自分が生徒を悩ましてるのであればなおさらだ。」
 そう思うと山武の心に再びいってよかったという気持ちが起こってきた。そう思うと山武は急にうれしくなって、歌でもうたいだしたい気分になった。外ではあいかわらず小刻みに小雨が窓ガラスをたたいている。山武は再び関係代名詞の説明の仕方にとりくんだ。だがどうもうまい説明の仕方が思いつかない。髪をかきむしり、呻吟して考えた。一時間ほど経った。するとまた一つのことが気になりだした。それは、彼女が誰にもいわないでくれるだろうか、ということだった。彼女ひとりが知っているならまだいい。だが玲子が誰かにしゃべってしまったら。そして、それが口から口へと学校中の生徒達に知れ渡ってしまったら。そう考えると山武はいてもたってもいられなくなった。彼女はしゃべらないでくれるだろうか。絶対しゃべらないとさっきは約束してくれた。あの子は誠実な子だから、もしかしたらしゃべらないでくれるかもしれない。だが彼女は友達も多く、友達と愉快におしゃべりするのが三度の食事より好きな子だ。そう考えると山武は気もそぞろになり、血の気の引いた顔を両手で覆った。おれはなんてばかなことをしてしまったのだ。彼女は今日のことは一生忘れないだろう。彼女が一生秘密を守ってくれるなんてまず無理だ。きっといつかなにかのひょうしにいってしまうだろう。
おれは一生彼女のきまぐれにおひえて生きなければならない。気の小さい人間の考えというものはひとたび否定的になるとそれは雪の坂道から雪だるまをころがすようにとめどもなく大きくなっていくものである。もしかすると彼女はもうすでに携帯電話で友達に今日のことを自慢げにはなしてしまっているかもしれない。そんな考えまでも起こってきた。あした学校にいくと玲子に約束したけれどやっぱりやめようか。学校も転任しようか。山武は一瞬本気でそう思った。だがすぐにそれはゆるされなことに気づいた。あした学校にこなければみんなにいいふらすといったからだ。(玲子にしてみればこれは冗談でいったつもりだったが小心な山武にはそれがわからないのである)
「ともかくあした学校へいかなくては…。」
山武はそのため、再び、関係代名詞の説明の仕方を考えようと思って教科書を手にとった。だが混乱した頭には、とてもそんなことを落ち着いて考えるゆとりはなかった。
山武は(もうどうとでもなれ)という捨て鉢な気持ちになって、ポテトチップスとポカリスエットをもってきて、テレビのスイッチを入れた。酒が飲める人ならこういう時、やけ酒を飲むのだろうが山武は酒が飲めない。
テレビではボクシングの日本バンタム級タイトルマッチが始まるところだった。放送席にはゲスト解説者として、元ライト級世界チャンピオンがいた。
「挑戦者はどういった戦術でチャンピオンに対抗したらいいのでしょうか。」とのアナウンサーの質問に対し、ゲストの元世界チャンピオンは、
「チャンピオンは持久戦に強いです。一方、挑戦者のA君はスタミナの点でやや劣りますが、インファイトを得意とする速戦型です。ですから第一ラウンドから一気に攻めるべきでしょうね。それが唯一の勝機をつかむ方法ですよ。」
と自信に満ちた解説をした。それをセコンドが聞いていたのか、実際、試合が始まると挑戦者は第一ラウンドから一気に攻めた。すると第二ラウンドでチャンピオンのカウンターパンチが挑戦者にきれいにきまった。それが起点となって勝敗の趨勢は一気にチャンピオンの側へ傾いた。第二ラウンドの終わりには挑戦者はもう足にきていた。そして第三ラウンドで挑戦者はチャンピオンの連打をうけ、ダウンし、あっけなくK・Oで勝負がついた。
「敗因はいったい何だったのでしょうか。」
とのアナウンサーの質問に対し、ゲストの元世界チャンピオンは、
「いやーA君はスタミナの配分を考えなかったのがまずかったですね。それが最大の敗因とみてまず間違いないでしょう。」
としみじみした口調で語った。山武はこの元世界チャンピオンは現役時代、パンチをくいすぎてパンチドランカーになってしまったのだと確信した。山武はチャンネルをかえた。プロレス中継をしていた。ジュニアヘビー級の試合で、メキシコの空中殺法を得意とする覆面レスラーと蹴りのうまい日本のレスラーとの対戦だった。ヘビー級ではみられない、スピーディーな試合だった。山武は覆面レスラーをみてふと思った。
覆面・・・・正体を知られない・・・・うらやましい・・・・あした・・・・ふくめんをしていこうか・・・・そのためには・・・・今からふくめんを縫わねば・・・・先生が・・・・よなべーをして・・・・ふくめーん編んでくれた・・・・などとばかげたことを考えていた。プロレス中継は三十分ほどでおわった。時計をみるともう一時をまわっていた。あした遅刻してはみっともない。山武はもう寝ようと思って、机をかたずけて、蒲団をしいた。そして歯をみがいてから、10回口をゆすいで、寝間着に着替え、床についた。山武は蒲団の中で、えびのようにちぢこまって、どうか玲子が一生しゃべらないでください、とゲッセマネのキリスト以上の敬虔さをもって心の底からいのった。窓の外では、あいかわらず雨が屋根を叩いている。山武は枕元に置いてある数冊の本の中から「図太い神経になるには」という本をとって、パラパラとめくって読んだ。山武は小心な自分の性格をかえたくて、以前にこれを買って読んだのだが、本をよんだからといって性格はかわるものではない、とつくづく思った。そうこうしているうちにやがて睡魔がおとずれて、山武の意識は徐々にうすれていった。山武の精神は山武にとってもっとも安楽で平和な世界へ入っていった。

   ☆   ☆   ☆

 翌日は雨はやんでいたが、あいかわらず降り出しそうなくもり空だった。降水確率は五十パーセントとテレビの天気予報は言った。彼女はもうきのう、みんなに電話をかけまくって、みんなおれの恥を知っているにちがいない。ペシミストの山武はもう、そう確信していた。だが鏡の前でネクタイをしめながら、山武は心の中で決死の覚悟をした。
しっかりしろ。世の中にはもっとつらい恥に耐えて生きている人間もかぞえきれないほどいるじゃないか。なにも死刑になるわけじゃなし…・。
トーストとコーヒーの軽い朝食をすませたのち、七時半に、意を決し、アパートをでた。学校へは四日ぶりである。精神が高ぶっているため、いつもの景色がはじめてみるように新鮮に感じられる。駅までの道で、山武はこの日、この前まではまったく気がつかなかった、路傍の一輪の青紫色の桔梗の存在に気づいた。通勤電車はあいかわらず、すしづめだった。
駅を降りて、学校に近づくにつれ、生徒達の姿がちらほらみえだした。山武の心に再びためらいの気持ちが起こった。
躊躇する気持ちが山武を立ちどまらせた。
その時、
(キキー!!)
自転車の止まる音が背後に聞こえた。山武はうしろからポンと肩をたたかれた。
山武がふり返ると玲子がいた。
「おっはよ。先生。」
その笑顔は昨日のことなどまるで忘れているかのようだった。
「や、やあ。お、おはよう。」
山武はひきつったような無理につくった笑顔でこたえた。だがその顔は今にもなきそう
なほど弱々しかった。玲子は刹那に山武の今の心をみぬいた。同時に、やさしさがおこってきた。
「きのうのこと、まだ誰にもいってないよ。一生誰にもいわないよ。だから学校やめな
いでね。今度の日曜デートしよ。」
そう言って玲子はペダルを力強くこいでいった。
この一言は山武の悩みを瞬時にして完全に取り去った。
きのう一晩悩んだことは、まったくの取り越し苦労だったのだ。
山武の心に今まで一度も経験したことのないほどのよろこびがわきあがってきた。
この学校でもう一度やろう。やっていける。という自信と、そのよろこびが胸の奥深く
からはちきれんばかりにわきあがってきた。
刹那の手持ちぶさたが山武の顔を空へ向けさせた。
かわりやすい秋の空ではいつしか雲間から日がさしはじめていた。

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女生徒、カチカチ山と十六の短編 (小説)(2)

2020-07-08 03:41:11 | 小説
女生徒

 朝。ふー。まだねむっちいぜー。ねぼけまなこで着替え、歯をみがき、カガミをみて、イーだ。と言って、あくびをしながらねぼけまなこで朝食をたべる。金魚にエサをやり、ひひひと笑う。あっかんべーして、ネコに、おう、いってくるぜいっ、と言って学校にでかける。学校で友達に
「ユカ。あんたヤンジャンのグラビアにのったじゃん。」といわれると、
「うん。どうだっち。」
「あんた男に利用されてるよ。」と言われると
「フーン。そんなもんかな。」と何処吹く風。授業がはじまると、
「フアー数学なんてつまんないよ。」
と言って、さっそくねむくなる。
「朝っぱらから寝るな。」
と二時間目に英語の先生におこされる。彼女もがんばって授業をきこうと努力はするが。努力する点はえらい。彼女は小学校の習字の時、努力とかいて、二重まるをもらって、それを今でも大切にもっている。昼食はちゃんと残さず食べる。ただピーマンだけはのこす。
「ユカ。おいしい?」
ときくと、彼女は
「何でそんなこときくんだっち。」という。
「ユカ。あんた好きな授業あるのー?」ときかれると
「ないよ。」
と当然のごとく答える。
「ユカ。あんた、何がすきなのー。」ときかれると「別にー。」と答える。
 「ユカ。あんた子供とおもわれてるよ。」
 「べつにかまわんよ。」
 「ユカ。あんた、ムッとした表情がセールスポイントと思われてるよ。」
 「なら、ムッとするよ。」
 「ユカあんた、邪悪な女、悪の美、デカダンスの魅力、いたずらっ気の魅力があると思われてるよ。」
 「そんなもんかいな。」
 「ユカあんた、ちょっとボーイシュな魅力もあると思われてるよ。」
 「フーン。そうかねー。」
 「ユカあんた、正当派ではなく邪道派の魅力、一番ではなく二番の魅力があると思われてるよ。」
 「そんなもんかなー。」
 「ユカあんたツンとした鼻と母性愛がぜんぜん感じられないあがり目と子供っぽい口もとが男にうけてるよ。」
 「フーン。そうかにー。」
 「ユカあんた、ユカ言葉をつくられて偏見でみられてて、社会があんたに期待する性格をおしつけられてるよ。」
 「別にかまわんよ。」
 「ユカあんた、強烈な個性ではなく、普遍性、つまり現代の女の精神の属性を有しつつ、その精神そのものが時代につくられていない反骨性、つまり、時代につくられたはずの精神が時代に反発している面がある個性、つまり誰にとっても時代は産みの親であると同時に、無意識的に戦っている敵でもあるけれど、あんたの場合、あんたの視点が、時代につくられると同時に時代をひややかにみている感性がうけてるんだと思うよ。」
「何をいってるんだかよくわからないよ。」 
「つまりね。別のコトバでいうなら泥っぽい悪い意味での愛のなさ、よくいえばクール。物事に対する無関心性、子供のような冷酷性、いつの時代でも人間があこがれ、求めるところの精神の自由、があんたにはあるんだよ。」
 「私は普通の人間じゃないの?」
「だからね。換言するとね。他の人間は仏教でいうところの一切皆苦の荒波の中であがいているのに、あんたの精神は仏教でいうところのニルバーナにあるんだよ。」
「…・。よけいわからんよっ。」
 「ユカ、あんたいい性格なのに、ちょっとワルっぽくみえるアンビバレンシー、つまり天使の心をもった小悪魔、あるいはその逆で、小悪魔の心をもった天使の外見、つまり、心身不一如のギャップ、矛盾、が男の心に緊張をつくり出し、それがうけているんだと思うよ。」
 「・・・・。」
 「ユカ、あんた性に対する自覚のなさ、肉体の発達に精神の発達がおいついていないアンバランスの魅力、感性が未成熟にみえる故の不可侵性、気まぐれな子供が核兵器をもってるようなあぶなっかしさのスリルがうけてるんだと思うよ。」
 「何をいってるんだか全然わからんよっ。わけのわからん分析をせんでくれいっ。」
 彼女はあまり運動も好きじゃない。たまに気が向いた時に、バレーボールのサービスを「エーイ。」として、オーバーして「キシシ。」と笑う。
 彼女は掃除当番の時、そうじはちゃんとやる。学校がおわって帰り道で、ブティックに友達と寄る。
 「ユカ。これかわいいと思わない。」
と友達にいわれると、その動物の模型をみて、
「キシシ。かもね。」
と笑う。写真の撮影のある時、カメラマンにパシャパシャとられても、ムスッとして、リアクションがない。
 「笑って。」というと、「キシシ。」と「あっかんべー。」をやる。ここまでいくと本当に小学生である。万一、彼女が、この拙文をよんだらおこりはしないか、と心配になってくる。(ユカさんごめんなさい。)
 彼女は写真をとられることは、さほどいやではない。
「写真はきらいじゃないよ。でも、つかれちったよ。」
という。家に帰ると、ネコに、
「おう。かえってきたぜいっ。」
といい、金魚にエサをやり、ひひひ、と笑い、あっかんべーして、ごはんたべてねる。 彼女は、お父さんだけで、お父さんは国内か海外支社に派遣されてる一人っ子という感じ。






カチカチ山

小説家の太宰治氏が、おとぎ話のカチカチ山をパロディー化しているが、あれは実に面白く、私もパロディー化してみたいと思ったが、やはり原作以上のものは書けない。否、書けるタヌキもある。ウサギはタヌキ以上にタヌキである。
 タヌキはフーサイのあがらぬ小説家で、ウサギは美女である。タヌキがウサギにデートを申し込むとウサギはフンフンと鼻先であしらって聞きながらデート一回につき、いくらとお金を要求する。そこはビジネスである。
 タヌキは自分の財産を出しつくしてウサギとデートした。といっても売れない小説家の原稿料であるからたかが知れている。お金がなくなったタヌキがウサギに会いにいくとウサギは、
「お金がないあなたに用はないわ。」
という。タヌキが一人帰ろうとすると、ウサギは一人ごとのように、山のふもとに、おじいさんとおばあさんがたがやしてる畑があるでしょ。話はかわるけど、やみの野菜を買い取って売ってくれるやみの仲買人を私は知っているんだけど、と言って、そのブローカーの電話番号を言った。
 タヌキはおじいさんおばあさんの畑のヤサイを夜ぬすんで、仲買人に売ってその金をウサギとのデート料にあてるようになった。
 実をいうと、ウサギは前この畑のニンジンをほっているところを畑の所有者の老夫婦に見つけられ捕まえられ、さんざんおしおきされたことをうらみに思っていたのである。じいさんばあさんが、また最近、畑あらしがではじめて、きっとあのウサギだと思っているところへ、ウサギが、ピアスと茶髪とミニスカにコートにカッポンカッポンシューズというおきまりのいでたちであらわれた。
「ややっ。でたな。ぬすっとたけだけしいとはお前のことじゃ。最近また畑をあらすようになったのはお前だろう。こんどはようしゃせんぞ。仏の顔も三度までだ。」
 と一度目で十分なおしおきをしておきながら言う。ウサギはつつましそうに正座して、
「それはあんまりです。」
と目に涙をうかべて、伏せ目がちに訴えた。
「実をいうと今、裏山にタヌキが一匹住みついているのですが、この人が畑のものをとっているんです。私も以前、畑のニンジンをとろうとしたことがありますが、それもタヌキさんの命令でしたことなのです。」
と語った。老夫婦は半信半疑だったが、ぬす人がどうして自分から被害者の前にあらわれるでしょう。コロンボじゃあるまいし。今日あたり、またきっとタヌキが畑をあらしにくると思います。しかけをつくっておいて、現行犯でタヌキをつかまえなさるといい、と言った。
 じいさんは、しばしだまって考えた後、
「確かにお前がぬすんでいるのなら、自分からわざわざでてくることはおかしいな。でもなぜわざわざ危険をおかしてまで言いにきたのだ。」
と問うと、ウサギは目をりんとひからせて、ジャンヌ・ダルクのように、
「正義のためです。」と一コト言った。
その夜、老夫婦がつくったしかけにタヌキがみごとにかかった。老夫婦が、よくも今まで畑を荒らしておくれだね。今度という今度はようしゃしないから、かくごしておき。というとタヌキは万引きをみつけられた少女のようにただただ、ゴメンなさい、ゴメンなさい、もうしません、とあやまった。が、ゆるしてくれるほど人間の心というものは寛大ではない。
 タヌキは柱につなぎとめられた。翌日の夜、たぬき汁をすることとあいなった。炎天がジリジリと身をやく。のどがやけつくようにあつい。
「身はたとえタヌキ汁にはなりぬともとどめおかまし大和魂。」
などと辞世の句もつくった。
 じいさんは仕事にでかけて、屋敷にはばあさん一人である。タヌキはちょうどギロチンを刻一刻とまつルイ十六世の気持ちだった。ばあさんはじいさんの服のほころびをなおしていた。がコクリコクリとねむりだした。タヌキは何度か縄をのがれようともがいてみたがむなしい徒労におわった、その時である。うしろでこそこそと音がしたかと思うと、忘れもしないあのウサギの声がする。
「タヌキさん。あなたがつかまっていることを聞き、助けに来ました。」
 タヌキは目をうるませて、ああ、ありがたい、というか、うれしい、というか地獄に仏というか、女神とはまさにこのことだ。その心がうれしい。ウサギは、あなたがタヌキ汁にされるのなんて私耐えられません。と言って、いましめを解こうとする。
「でもきいて。ひどいのよ。あのおばあさん。何の罪もない私を前、しばって拷問にかけたの。それと、この家にはどこかに小判がかくされているらしいけど、どこにかくされてるのかよくわからないの。おもてむきは、善良な農家をよそおっているけど、本当は、人身売買のブローカーをしてしこたまもうけてるのよ。」
とまことしやかに言う。タヌキは、それはゆるせん、と義憤に燃え、自由の身になると、天誅だ。神罰をくらえ、といってボクッと老婆を蹴った。
 もちろん、ウサギはタヌキの縄を解いたらすぐ、戸口の外へでて節穴から中を窺った。タヌキは老婆を蹴ってから腕をねじあげ、
「やい、小判のありかを言え。」
と言ったが、
「いたた、知らないよ。そんなのないよ。」という。
タヌキは老婆をつきはなし、箪笥の引き出しをあけて、めぼしい金品をとって走り去った。その晩、じいさんが畑から帰ってくると、ばあさんは、じいさんに泣きつき、くやしいよ、じいさん、わたしゃ生きてて、こんなくやしい目にあったことはないよ、といって、今日のいきさつを語る。じいさんもそれをきいて、ばあさんと共にくやしがった。
 その翌日である。ウサギがピョコリとかわいらしくやってきた。例のピアスに茶髪に、ミニスカにカッポンカッポンシューズといういでたちで。タヌキが畑をあらしにきたことが、ウサギの予言どおりあたったので、ばあさんは今はウサギをすっかり信用して、前はひどいことをしてすまなかったね、とわびて、丁重にもてなし、タヌキにひどい目にあわされたいきさつを話した。
「くやしくてくやしくてしようがない。」
というばあさんの訴えをだまってきいていたウサギだったが、
「それは、ゆるせない、ゆるしてもならない悪業ですね。かよわい非力な私ですが、天にかわって、タヌキを成敗しましょう。」
と言って、タヌキ必殺の青写真を話した。こってりと念を入れてタヌキをイビリ殺すのである。しばかりに行くと言って、タヌキにしばを刈らせ、かつがせ、それに火をつける。そして、そのヤケドの場所に薬だといってカラシをぬる。そして最後には海へデートといってつれだし、ドロ船でデキ死させてしまう。とまあ、こんな具合いである。モンテ・クリスト伯より念が入ってる。ばあさんは目から涙を流してよろこび、エンザイのイシャ料とタヌキ殺しの前金としてかなりの額の小判をウサギにわたした。ウサギは桃太郎のような気分で、ばあさんの家をでた。
 それから先のストーリーは原作者の太宰治さんのとうりである。
 場面はラストのタヌキとウサギが浜辺で舟をつくっているところ。
 「ちくしょう。知ってるぞ。オレは。お前はこのドロ舟でオレを殺そうってわけだな。トホホ・・・。オレは・・・何だって自分を沈めるドロ舟をつくっているんだろう。なあ。せめてなぜかおしえてくれよ。この前はカチカチ山で薬といってカラシをぬっただろう。タヌキはなータヌキねいり、とか人をだましたりできるんだから頭がいいんだぞ。君はたしかにかわいいよ。たのむからおしえてくれよ。」
と言うとウサギは
「そうよ。私はギゼンはいわないわ。あなたはこのドロ舟で死ぬのよ。考えてみればかわいそうね。でもそれが運命だと思ってがまんしてね。この前のカチカチ山の時のこともゴメンね。でも運命だったのよ。」
 タヌキ「そりゃひでーや。でも君は正直でいい子だね。でもそうきくとオレも何だかドロ舟をつくるかいがちょっとだけでてきたよ。トホホ・・・。なけてくるぜ。」
ウサギは絶対しずまない木の不沈船をトントンと大切そうにつくりながらバカタヌキの一人言をききながしている。
「なあ、ウサギ君。君は今は美しいが、君も年をとるってこと知ってるかい。」
「ええ。知ってるわ。でもそんなのずっと先のことよ。」
「そうかい。でも歳月人をまたずってういぜ。ところで一つたのみがあるんだが、オレは死ぬまぎわまで、カチカチとノートパソコンをたたいているんだけれども、それは、今のこのできごとを物語にしているのだよ。オレのたのみというのはほかでもない。オレが死んだ後どうか、オレのつたない文でもひろってくれそうな出版社に投稿してくれないかい。君の今の美しさは文の中でかがやきつづけるのだよ。」
というとウサギは「ええ。いいわよ。」という。
「さあ。できた。できた。」
とウサギがよろこぶ瞳の中に少しのレンビンの情のないのをみるとさすがタヌキもホロリとなきたくなったが、ないてもシャレにならないことは知っているので
「なーいちゃならねー。タヌキはよー。」
などと節をつけながらドロ船のしあげをする。
晴天に波はキラキラと光り絶好のタヌキ殺し日和りである。








少年

子供のころの思い出は、誰にとっても懐かしく、あまずっぱい、光と汗の実感でつくられた、ここちよい、肌が汗ばみだす初夏の日の思い出のようなものでしょうが、子供は、まだ未知なことでいっぱいで、あそびにせよ、けんかにせよ、大人のように制限がなく、やりたいことを、おもいっきり、発散できるからで、夢のような自由な世界がなつかしくなるからでしょう。
 私が小学校六年の時、光子という一人の少女が、ひときわ、なつかしく、思い出されます。
 彼女は、高校一年のひときわ、あかるく、かわいらしい子で、でもちょっとかわった性格があり、それは今思うと、性にめざめはじめた思春期のせいか、それとも彼女がもつ特別な性格のせいだったのか、それは、今でもわかりませんが、彼女は今でも私の思い出のひきだしの中に、みずみずしく、なつかしく、生きていて、できることなら、もう一度、あのころにもどりたいくらいです。
 しかし、それは現実にはできないことですが、何とか彼女が生きた、みずみずしい美しさを書いておきたくて、書くことは好きなので、書くことで彼女を再現してみようと思いました。 
 私は小学校を東京から少し離れた公団住宅で過ごし、団地の中の小学校へ通っていたのですが、そこに、はなわ信一という、色白のおとなしい子がいました。彼は別の学校から転校してきた子で、友達をつくろうともせず、いつもポケットに手をつっこんで、壁にもたれて観察するような目でクラスの様子をみている子でした。
 私も、元々、友達づきあいがにが手で、彼に同類の親近感のようなものを感じて、どちらからということもなく、彼と親しく、つきあうようになりました。
 クラスには叶という、ふとってて、何事につけてもノロくて、友達にからかわれていた子がいました。信一は、ちょっとへそまがりの、なまいきで、私には、それが、彼の魅力でもあったのですが、ある時、叶をからかっている連中をうしろからいきなり、けっとばしたことがありました。彼らはギョっと、おどろいて、体も小さく、たいして力もなさそうな、いつもは、おとなしい信一の暴挙をきみわるがってか、すごすごと、その場を去って行きました。
 以前、信一は、オレのオヤジはXX組のヤクザの幹部だぞ、などと言ったこともあります。助けられた叶は、すがるように信一にお礼を言って、ペコペコ頭をさげ、それ以来、信一を、おやぶん、おやぶん、と言って、したうようになりましたが、信一は、フン。お前なんかを助けるためじゃないよ、何となく、気にくわないヤツをけりたくなったから、けっただけさ、などといいました。
 ある時、学校のかえりに、私は信一にさそわれて、叶といっしょに信一の家に行きました。信一の実母は三年前に交通事故で死んでしまい、一周忌がすむと、彼の父は、ある未亡人と再婚していました。義母には、光子という高校一年になる元気な子がいました。
 信一と私と叶が光子のPHSのゲームで遊んでいると、光子が、入ってきて、
「信ちゃん。私のものにさわらないでよ。」
とおこった口調で言います。信一は、キッとなり、
「ふんだ。ねえさんのけちんぼ。」
といって、近くにあった、ぬいぐるみを光子になげつけましたが、光子はそれをスッとかわすと、フンと言って、部屋を出て行きました。信一は、あいつ、なまいきだから毎日、うんといじめてやるんだ、と、本当か、まけおしみか、わからないことをいいます。それからだんだん、私と叶は信一の家にあそびに行くようになりました。
光子はいつも窓ぎわでCDをききながら少女マンガを読んでいました。ある時、信一はきつねごっこをやろうよ、といいだしました。きつねごっことは、人間に化けて、人をからかうキツネをさむらいが、その正体をみやぶって、こらしめる、というものでした。光子がキツネで、私と叶が、だまされ役、信一が、さむらい、といいます。
 よこできいていた光子は、面白いと思ったのか、よし、やろう、やろう、と言って腰をあげました。光子は台所からクッキーと紅茶をもってくると、おかしを足でグチャグチャにして、紅茶に、つばをいれます。それを私と叶は、だまされたふりをして、おいしい、おいしい、といって、のむと、光子も、おもしろくなってきたのか、だんだん図にのってきます。
光子の魔法の笛にあわせて私と叶がおどって、よっぱらって頭をぶつけて、ころんだり、ねたふりをすると、光子がかまわず、ふんでいきます。もう光子は、おもしろくなって、遠慮なく、体重を全部のせて、笑いながら、ギューギューと踏み歩いて、ああ、つかれた一休みしよう、と言って、ドンと重たいおしりをおろしたりします。そこへ、さむらい役の信一がおもむろに登場します。やい。このワルギツネめ。人に化けて、人間をからかう、とは、何てやつ。ふんじばってくれるからかくごしろ。信一は私と叶をうながして、光子をとりおさえようとしますが、光子はオテンバの本性をあらわし、
「ふん。ばれたら、仕方がないね。あばよ。お前らみたいなトウヘンボクにつかまってたまるもんかい。」
といって、にげようとします。が、光子は高校一年、私たちは小学校六年で、四つの年の差は、さすがに、光子を容易につかまえさせません。
それでも、こちらは三人なので、又、光子にもキツネごっこのストーリーに従わなくては、という意識があってか、ようやくのこと、とりおさえて、ねじふせます。信一が用意していたらしい縄で、光子の手をうしろでしばりあげようとすると、
「あら信ちゃん。むちゃしちゃいやだよ。」
といいますが、さすがに三対一には、かなわず、光子を柱にくくりつけ、ハンカチで、さるぐつわをすると、はじめは、もがいていた光子も、グッタリして目をとじ、カンネンしたらしく。私たちは、やあ、やあ、よくもだましてくれたな、ふとどきなキツネめ。といって、体や顔のあちこちをつねったり、くすぐったり、化粧といって顔にツバをぬったり、さっき光子がしたように、体をふんだりします。オテンバで、年も上の光子なので、もっと抵抗しようとするかと、思っていたのですが、不思議なほどに、光子は、おとなしく、だまって横ずわりしています。
しばしたって、もう興がさめて、光子の縄とさるぐつわをとくと、光子はソッと顔を洗いに出ていきましたが、顔を洗って、もどってくると、
「ああ、ひどい目にあわされた。キツネごっこなんて、もう二度とやらないから。」
といいながらも、なぜかニコニコうれしそうな様子です。
私たちは自由になった光子が、おこって、仕返しをするのでは、と思いましたが、何事もまるでなかったかのような様子です。光子は窓際に行くと、CDをヘッドホンでききながらコミックを読み、私たちは、テレビゲームにと、元のように別々にあそびはじめました。そんなことがきっかけで私と叶は信一の家へ、足しげくあそびに行くようになりました。 
 ある時、私たちが、テレビゲームで遊んでいると、光子の方から、
「ねえキツネごっこをやらない。」
と、モジモジといい出したので、私はおどろきました。私は、光子が、この前やられた、しかえし、のため、だと思い、光子がキツネになって、ふざける度合い、が、だんだん強くなっていくのでは、と思いました。
しかし前半の光子のふざけの部分は、前より何か、かるくなったようで、何か形だけしているような感じで光子が、おもしろがっている様子は、ぜんぜん感じられません。今度は私たちが光子に、しかえしする番になりました。が、それでは、こちらも、しかえし、してやろう、という気持ち、も、おこってこず、何か、しらけぎみになっていると、光子は、
「さ、さあ、私は、人をダマしたワルギツネだよ。」
と、あそびのつづきを催促するようなことをいいます。しかし、その声はふるえていました。私たちは、光子をしばりあげ、この前と同じように柱につなぎとめ、めかくししました。しかし、たいして、からかわれていないので、光子に悪フザケをする気があまりおこらず、もてあましていました。すると光子は、
「さ、さあ、悪ギツネはおきゅうをすえられるんだろう、この前と同じように、やっておくれ。」
と声をふるわせながら言いました。
私たちは、しかたなく、鼻をつまんだり、ツバを顔にぬったり、顔をふんだり、スカートをあちこちから、めくって光子を困らせたりしました。すると、光子はだんだん呼吸をあらくして、切ない喘ぎ声をあげだしました。
私と叶は何か、きみわるくなって横でみていましたが、信一はあらゆるいじわるを躊躇なく楽しむことができる性格だったので、さかんにめかくしされた光子をいじめます。信一に手伝うよういわれて、私たちも光子の責めに加わりました。
はじめは、おそるおそるでしたが、しだいになれてくるにしたがって、おもしろくなり、光子の頬をピチャピチャたたいたり、足指で、鼻や耳をつまんでみたりしました。そのうち、キツネごっこは、後半の光子がせめられるだけのものになりました。光子は、さ、さあ、もう、どうとでもしておくれ、といって、ドンと私達の前に座りこんでしまいます。すると、信一はいろいろな方法で光子を困らせ、光子が悲鳴をあげて、本当に泣くまでせめるようになりました。
信一はいじわるするのが好きで、光子はその逆のようで、変な具合に相性が合うのです。でも、はじめのうちは、あそびがおわると、光子も、やりきれなそうな、不安げな顔つきでしたが、だんだん、なれるにつれて、この変なあそびがおわると、光子にすぐにいつもの明るい笑顔がもどって、信一を、
「こいつ。」
といって、コツンとたたいたりするようになりました。不思議なことに光子は、いじめられてばかり、いるのに、私たちがくる日には、手をかけて、たのしそうにチーズケーキなんかをつくって、まっててくれるのです。その後、信一と光子がどうなったか、それは知りません。






シケンカントク

ここはあるシケンのシケン会場。拓殖大学の六階。年に一度のシケンなので、受験生は、おちたら、もう一年同じことをやらなくてはならないし、やったからといって、学力が上がる、というわけでもないようなので、一年をこの日のためについやしてきた、のだから、もっとキンチョーしたフンイキでもいいと思うのだが、さほど、はりつめたフンイキではなく、またそうぞうしくもない。シケンカントクは四人で、ジャベール的な人はいなかったので、こちらもリラックスしてシケンという自分とのコドクな戦いに集中できた。若い、京本的なスポークスマンと、うるわしき、いとなやましげなる人がいた。私は、その時のシケンはおちて、同じ勉強をするはめになった。
 ある初夏の日、気がつくと私はその二人をイメージして、掌編小説をかいていた。
 彼らは試験がおわったら、いっしょに車で帰って行った。試験監督おわりの飲み会・・・ということで、これからカラオケスナックに行くらしい。
 スポークスマンの若い男が、
 「二日間、ごくろうさま。」
 と、ねぎらって、カンパーイ。ゴクゴクゴクッ。ウィー。ヒック。
「飲もおー。今日はーとこーとんもーりーあがろーよー(森高千里)」・・・てな具合でもりあがった。
 名前は、スポークスマンが「牧」で、
 女の人は「佐藤」・・である。
 彼は一曲うたったあと、カウンターでマスターと話している。彼は少しの酒ですぐ赤くなる。つかれて少しうつむきかげん。彼女はさりげなくとなりに座ってマスターに、オン・ザ・ロックを注文する。その声に彼はハッと気づいて目がさえる。彼はグラスを手でまわしながら、
 「グラスの底に顔があったっていいじゃないか・・・」
 と、わけのわからんことをつぶやきながら照れくさそうにしている。彼女のあたたかさが伝わってくる。
 「牧さん、おつかれさまでした。」
 「い、いえ。佐藤さんこそおつかれさまです。」
 彼女はおもしろがって、
 「私、忘れっぽいから、お酒がはいった時、言ったことや聞いたことって翌日になると、すっかり忘れてしまって、おもいだそうとしてもおもい出せないの。牧さんは知性的だから、そんなことはないでしょう。」
 彼「い、いえ。僕もまったく忘れっぽいです。」
 彼女、前をみてる彼を微笑みながら、じっとみすえて、
 「私、牧さん好きです。」
 と、きっぱり言った。他の人は離れた所にいて、カラオケをたのしんでいる。室内にひびくマイクの大きさは、彼女のコトバを消すのに十分だった。マスターは気をきかせて、さりげなく厨房に入っていった。スポークスマン、声をふるわせて、
 「ぼ、僕も佐藤さん。好きです。とってもすきです。」
 そのあと、マスターがもどってきて、二人はだまってのみつづけた。
 翌朝、社へ向かう途中の交差点で二人は出会った。彼は少し恥ずかしそうに、
 「おはようございます。」
 と言った。彼女も同じコトバを返した。彼女は空をみて、
 「私、きのう何かいったかしら。ぜんぜんおぼえてないわ。牧さんはおぼえていますか。」
彼は胸をなでおろし、ほがらかな口調ではっきりと言った。
 「僕もまったくおぼえていません。」
 彼はさらにつけ加えた。
 「さ。今週も一週間ガンばりましょう。」
 彼女も快活に「ええ。」と答えた。
 信号が青にかわった。
 人々はそれぞれの目的地へ向かって歩きだす。
 大都会の一日がはじまる。







砂浜の足跡

武司の期待はあたった。少女はこの前と同じ場所でこの前と同じ表情でじっと海をみつめている。先週武司は勇気をだして声をかけてみた。
 「ねえ君、何を悩んでるの。失恋でもしたの。よかったらちょっと話しない?」
 少女はさめた一瞥を与えたのち、だまってその場を去った。
 「あなたみたいな人じゃロマンチックな気分がだいなしだわ。」
 少女の無言の表情はこう語っていた。武司もその通りだと思った。その時はもう二度とくるまいと思った。だが武司はどうしてもこずにはいられなかった。そのかわりこれを最後にしようと思った。国道の下を横切るトンネルの先からは以前と同じ位置に以前と同じ漁船が三隻凪いだ海で静かにその営みをしていた。
武司はトンネルからおずおずと顔を出して砂浜をみた。

はたして少女は武司の予想通りこの前と同じ場所で、この前と同じ表情でだまって海を見つめていた。少女はすぐに武司に気づいてふり返った。
 「やあ。」
武司はへどもどして頭をさげた。だが少女はそれを無視した。そして、すぐその視線を海へ戻した。武司はがっかりして、江ノ島へむかって歩きはじめた。砂を一歩一歩踏みしめて歩きながら、武司は自分の存在が彼女の目ざわりになったことを後悔していた。
 「自分みたいなダサイやつはよけいなことなどするな。」
武司は自分にそういいきかせた。江ノ島は陽炎の中でゆらいでいた。武司はそれをみつめて歩いた。

    ☆  ☆  ☆

 もうみえなくなったかな。
武司の心にあった最後の未練な気持ちが彼をふり返らせた。すると少女はいつの間にか、裸足になって波とたわむれていた。その顔はたしかに笑っていた。
寄せる波からは逃げ、引く波は追い・・・・・。
すると武司もうれしくなった。武司は国道に沿って並んでいる大きなコンクリートブロックのかげに少女にみえないように腰掛けて、少女が波とたわむれるのを見守った。
あたりにはだれもいない。少女は自分が一人きりだと思っているのだろう。だんだん調子にのって波をばかにしだした。すると海の方でも怒ったのか、静かだった海は突然大きな波をひとつこしらえた。
 予想外のことに少女はあわてて逃げようとした。が、砂の中にうまっていた木のかけらが少女の足を捕らえた。少女はころんだ。さらにわるいことに足がつってしまったらしい。
少女は這ってにげるしかなかった。波の音にふりかえった少女の顔は恐怖のために真っ青だった。だが時すでにおそかった。大きな波は容赦なく少女を襲った。少女の全身はずぶ濡れになった。
 波は引いたが、少女の足はまだつっていた。このままでは、また次の波におそわれる。少女は必死になって這って逃げようとした。
 夏の陽射しが強い午後だった。逆巻く波の音が聞こえだした。彼女を襲う二度目の波の音だった。
 「逃げられない。」
少女は観念した。目の前では濡れた砂の上で小さな蟹が一匹、陸に向かって歩いていた。

 「手かしてもいい?」
人の声が聞こえた。少女は顔をあげた。さっきの少年だった。少女は黙ってうなずいた。少年は少女に肩をかして少女を立たせ、波のこないところまで彼女を運んだ。そしてそこに少女をすわらせて、足のつりを治した。四、五回、少年は少女のつった足を屈伸した。
 「もういいわ。なおったわ。」
少女がそう言ったので少年は少女の足から手をはなした。そしてチラっと少女を見た。
 「ははは。」
少年はてれ笑いをした。少女は顔をしかめて少年から目を避けた。少年はどうすればいいかわからなかった。
 沈黙が少年を苦しめた。
 「わあー。」
しばしまよった末、少年は海へ向かって駆け出した。そしてそのまま海につっこんだ。少年の体もずぶ濡れになった。そして再び少女のところへ戻ってきて腰掛けた。
 「ほら、これで僕も同じだ。」
 少女はあきれた顔で少年をみた。
 「ははは。」少年は笑った。
 「ふふふ。」少女も笑った。
 「へんな人ね。」
 「へんな人さ。」
二人は立ち上がった。そして、手をつないで、江ノ島へ向かって駆け出した。
 「ははは。」
 「ふふふ。」
 いつしか二人は心が通じていた。
誰もいない砂浜に二人の足跡だけが点々としるされていた。
勢いのある波ははやくもそれを消しかけていた。





ある歌手の一生

昭和四十二年八月二十二日、その少女は生まれた。名前は佐藤加代。よくたべ、よくねむり、よくあそんだ。ごく普通の子だと親は思った。少女が成長するにつれ、親は少女がちょっと他の子とちがっているのに気がついた。それは根気強さともワガママともみれた。思い込んだらすべてを忘れて熱中してしまうのだ。あそびでも何にでも。特に少女は歌をうたうのが好きだった。みんなの前でうたうのが好きだった。
 少女には二つ年上の姉がいた。妹おもいのやさしい姉だった。でも少女の服はいっつも姉のお古。たまには自分にも新しいのを買ってほしい。
 小学校六年の学芸会。浦島太郎、をやることになった。彼女はみんなのすすめで乙姫に選ばれた。うまくできるか心配だった。だけど結果は大成功。家族みんながよろこんでくれた。こんな心のときめきは生まれてはじめてだった。その時、少女の心に夢が生まれた。でもそれはだれにも言えないほどのもの。
 少女は一人、心の中でくりかえした。
 (歌手になりたい。)
 誰にも言えない想いを胸に秘めたまま、少女は中学生になった。いったい、いつからだろう。心やさしい天使が少女の望みをかなえてやろうと思ったのだろうか。奇跡のような変化が少女に起こった。竹取物語のように美しい成長が少女に起こった。多くの男子生徒が彼女にあこがれた。しかし少女には異性への恋心がおこらなかった。恋をしない女の子かと男は思った。しかし少女は心の中で恋をしていた。子供の頃からずっと恋をしていた。少女の恋・・・それは歌手になりたい、という少女の夢だった。でも少女はそれを誰にも言えなかった。自分には歌手なんてとても無理。厳格な両親。とてもゆるしてくれっこない。だが少女の情熱はもう自分でもおさえることができないほど、心の中でふくらんでしまっていた。少女は内緒で、あるオーディションに応募した。
(悩むよりは失望した方がまし。)
 オーディションの当日。
 (加代。がんばれ。おちてもともと。)
 少女は自分にそう言いきかせた。するどい審査員の眼差しの中で少女は精一杯うたった。帰り道、力をだしきったあとの満足感で、すべてのものが少女には美しかった。二週間後、オーディション落選の手紙がきた。ショックだった。だが彼女の情熱は一回の失敗で消えてしまうような弱いものではなかった。別のオーディションをうけた。だがやっぱりだめだった。
 (私にはやっぱり歌手なんて無理なのかもしれない。)
 あきらめ・・・への誘惑が少女の心に起こった。少女の心はいく分、夢から現実へもどりかけた。だがオーディションをうけたことは内気だった少女に少し明るさをもたらした。多くの友達ができた。彼女は友達と愉快にはなした。日々の生活に活気がではじめた。歌手への夢を忘れかけたそんなある日のことだった。少女のもとに一通の手紙がとどいた。あるオーディションの予選会の通知だった。一年前に応募ハガキを出したのだが、通知がこないものだから、おちたものだとあきらていたものだった。忘れかけていた夢への想いが再び心の中でうごきはじめた。
 「もう一度だけやってみよう。」
 少女は再び歌の練習をはじめた。
 オーディションの日がきた。
 会場へむかう電車の中、少女は自分に何度もいいきかせた。
 「だめでもともと。」
 会場は熱気につつまれていた。出場者はみんな緊張していた。だが不思議と少女の心に緊張感はなかった。心はしずかだった。まるでだれもいない森の中の湖のほとりにたたずんでいるような気分だった。少女の番がきた。会場がしんとしずまり返った。少女は無心で歌った。気づいた時にあったものは満場の拍手だった。合格だった。家へ帰る途、少女の足は雲をふむようだった。目的を達成した満足感と目的を達成した後の虚無感が少女の心をしめていた。茫然自失してしばらくは何も手につかない日々がつづいた。だが三日もするころから少女の心は現実へともどりはじめていた。少女の現実。そして現実の目的とは。いうまでもなく、地区予選を合格した者がめざす決勝大会である。テレビ局から決勝大会出場への通知がきた。彼女の決意はゆるぎないものとなった。少女は自分の心と将来のことをすべて家族にはなした。だが両親は猛反対。少女の父の家系は代々教育者で娘を芸能界へやるなどとんでもないこと。しかも今はまじかに高校受験をひかえている時。だが少女の情熱はそんなことでひきさがるようなものではなかった。
 何日も口論がつづいた。だがどちらもガンとしてゆずらない。口論でダメだとわかると彼女はハンガーストライキにでた。学校から帰っても自室に閉じこもり、家族と口をきかない。食事もしない。そんな日が何日もつづいた。少女は夜おそくだれもいなくなってから一人で食事した。それは母が彼女のために用意してくれたものだった。ハンガーストライキに入ってもう四日たった。少女はつかれていた。家族も同じだった。五日目の朝がきた。日曜日だった。母は食卓に娘の書き置きがあるのに気づいた。それにはこう書かれてあった。
 お母さんの考えている将来と私の将来とはちがうんです。
 確かにお母さんの言ってることはわかります。
 だけど一度しかない私の人生です。後悔したくないんです。
 お母さんにしてみれば、あんな仕事とかをすることが「後悔する」って言うのでしょう。でも私にしてみればそれはずうっと前から思ってたことなんです。それだけを今まで考えてきたことなんです。それで、何かそれが私の生きがいっていうのか、とにかくやりたいんです。こんなことかいといて落っこっちたら恥ずかしいですけどとにかく私の願いなんです。真剣です。
 お母さんへ                         加代
 母はよみおえてため息をついた。何度もよみ返した。読むたびに娘の真剣さがひしひしと感じられる。娘のいない朝食がすんだ後、母ははじめて本気で娘の願望にどう答えるか考えだした。
(加代は世間知らずだから歌手なんて夢にうつつを抜かしている。どうしたらあの子に現実をおしえることができるだろう。)
 ボーン。ボーン。時計が正午を告げた。
 バサバサッ。庭にいた鳥の群れがいっせいにとびたった。テレビをつけると、いつものアナウンサーが画面にあらわれた。
 「正午になりました。お昼のニュースです。昨夜、イラン発クウェート行きの最終便で乗客二百五十人を人質にしてたてこもったハイジャック犯一味は今朝、交換条件として、次の三つのことを要求しました。一つ・・・。」
と、その時、母の頭に一つの巧妙な考えがうかんだ。
「これなら加代の気持ちも納得させられるし受験勉強もさせられる。」
母は机に向かいペンをとった。
 「できた。」
母は自分の書いた手紙をみて苦笑した。「これなら万全。」母は手紙をもって娘の部屋の前にたった。
 トントン。
「加代。」
ドンドン。
「加代。あけなさい。」
「・・・・・・。」
 「加代。あなたの気持ちはわかりました。そうまでオーディションうけたいのならうけてごらんなさい。そのかわり・・・・。」
 母が言いおわらないうちにノブのロックがとかれる音がきこえた。ガチャリ。
 ドアが少し開かれると中から娘がためらいがちに顔をだした。おどろきとおそれとよろこびがまざったような表情だった。
 「ホント?」娘はおそるおそる口を開いた。
 「ええ。ほんとうです。」
 (ヤッター)娘の口から、そのコトバがでそうになるまさにその直前で母はそのコトバをさえぎった。
 「そのかわり条件があります。」
 そう言って母は娘に一枚の紙をさし出した。
 「ここにかいてある三つのことが実行できるのなら、オーディションをうけることをゆるします。」
そう言って娘に手紙をわたすと母はそそくさと階下へおりていった。少女はすぐに手紙に目をおとした。手紙には箇条書きで三つのことがかかれてあった。
 一、学内のテストで、学年で5番以内にはいること。
 一、中統(中部統一模擬試験)の結果が学内で5番以内であること。
 一、第一志望の公立高校に合格すること。
 三十分後、少女は階下におりてきた。家族と顔をあわせるのは五日ぶりだった。少女は母の前にきた。その目は、これから真剣勝負にいどもうとする侍の目だった。
 「お母さん。」
 「何ですか。」
 「あの三つのことができたら本当にオーディション受けさせてくれますか?」
 「もちろんです。」
 娘の目がかがやいた。
 「がんばります。」
 少女の心の中で戦いの火蓋が切りおとされた。
 少女はその日から猛勉強を開始した。書店に行って高校受験用の問題集をたくさん買ってきて、それをかたっぱしからこなしていった。好きだった歌謡番組も観るのをやめにして深夜の2時、3時まで机に向かった。授業中も隠れて受験勉強用のテキストをやった。家に帰っても家族と話をする時間もほとんどないくらいに猛勉強した。食事時間もきりつめた。頭につめこめるかぎりをつめこんだ。その単位時間当たりのつめこみ量は司法試験の受験生以上だった。すると、夢にかける願いの気持ち、はおそるべき威力を発揮するものである。あたかも眠っていた脳細胞が目覚めさせられたかのごとく、少女の思考力と記憶力はおそるべき速力でもって回転しだした。読んだものはスラスラと頭の中に入っていった。エンピツは彼女の思考の速度を超えてスラスラとかってに動きだした。何ごとでもそうだが、勉強も、それがわかれば面白いものである。いつしか少女は自分が勉強する真の目的を忘れてしまうほど一心に勉強した。母はそんな娘をみて、てっきり娘が歌手になるという夢をあきらめて勉強にうちこんでいるのだと思ってよろこんだ。だが少女は夢を忘れていなかった。
 季節は秋もおわりに近づいていた。少女の努力は実った。彼女は学校のテストでギリギリ、条件の5番に入った。
 さらに中部統一模擬試験でも学内で5番に入った。
 母親から言われた決戦大会をうけるための条件の二つはこれでみたされた。のこりの条件はあと一つ。第一志望の高校に合格すること。彼女の第一志望は名古屋市立K高校だった。偏差値は県下でもトップクラス。今の彼女の実力ではギリギリのボーダーライン。でも何としても合格しなくては決戦大会はうけられない。
 「がんばらなくては。」
 高校受験まであと三ヵ月になった。学校で、卒業後の進路相談が行なわれた。
 「佐藤。お前はどこの高校を受験する?」
 担任教師が聞いた。
 「はい。K高校です。」
 「K高校か。ウーン。今のお前の実力だとギリギリだぞ。」
 「はい。わかっています。」
 担任教師は少女の目をじっとみた。大人の目からみれば、まだ世間知らずの少女の目。だがこの生徒の目には不可思議な輝きがあった。その目には大人でもかなわないほどの何かがあった。人間が子供から大人になるにつれていつのまにかなくなってしまう何ものか、がその瞳の中で、力強くその存在を主張していた。
 「お前ならきっと入れる。がんばれよ。」
 「はい。」
 少女は教員室をでて、校庭におりた。真赤な夕日が西の山の端にさしかかっていた。
 「K高校。K高校・・・。ウン。きっと入れる。」
 少女は力強く自分に言った。季節は秋から冬にかわろうとしていた。
 孤軍奮闘の少女にも一人だけ味方がいた。
 妹思いの姉である。何かにつけて姉は妹の夢の実現に協力してくれた。
 家族もみんなねしずまって、少女が一人で机に向かっている、ある夜はこんな様子である。
 トントン。
 「はい。」
 「加代。おにぎりつくってあげたわよ。」
 「わーい。ありがとー。」
 加代は勉強の手を休めて、姉のつくってくれたおにぎりを食べた。
 「勉強たいへんね。」
 「でもそれがオーディション受ける条件だから。」
 「えらいわね。」
 「なんで・・・?」
 「へんな子ね。」
 「何で・・・?」
 妹はキョトンとした顔でおにぎりをほおばりながら姉をみていたが、姉が微笑むと妹もそれに反応して微笑んだ。(阿吽の呼吸)姉が頭をなでると妹は一層朗らかな表情になった。と、その瞬間、思わず手がでて、姉は妹のほっぺたをピシャンとたたいた。
 「何するの?」
 「別に。ただ何となくたたきたくなったから。」
 妹は目に涙をうかべて、
 「私がオーディションうけること反対なの?」
 「まさか。逆よ。お父さんもお母さんも反対してるけど私だけはあなたの味方よ。」
 加代、おそるおそる「ホント?」
 「ほんとよ。でなきゃわざわざ夜食つくってもってきたりしないわよ。」
 「じゃ何でぶったの?]
 姉は答えず、笑って妹の鼻の頭をチョコンとさわった。
 「加代。がんばってね。妹が歌手だなんてことになったら私も鼻がたかいわ。また夜食つくってあげるわよ。」
 妹はわからないまま、ほがらかに「ありがとう。」と答えた。
 姉が立ちあがると妹は再び、すいよせられるように勉強を始めた。しずかな秋の夜にサラサラと筆の走る音だけがあとにのこった。
 年が明けて、昭和五十八年三月十九日、彼女はみごと第一志望の名古屋市立K高校に合格した。
 三月三十日、少女は上京し、決勝大会に出場した。かざることなく、ありのままの自分の気持ちを歌うことによって精一杯うったえた。
 帰省すると姉が名古屋駅に出むかえていてくれた。前祝いに、二人は名古屋名物にこみうどんを食べた。
 彼女のもとに「合格」のしらせがきたのは、四月中旬、K高校での新しい学校生活が始まって、数日後のことだった。うわさはすぐに全校にしれわたった。彼女を認めてくれた、いくつかのプロダクションとの慎重なはなしあいの結果、彼女はあるプロダクションに所属することがきまり、二学期に上京することになった。
 彼女がこの時期、いかに幸せだったかは次のような挿話から察せられる。彼女は中学の時、美術部だった。専門の鑑定士を依頼しないと危険なほどの正確なルノワールの模写がいくつも今でも大切に、彼女の通った名古屋市立S中学校の美術部に保管されているのだが、それをみるといかに彼女が几帳面で一途に物事にうちこむ性格だったかがわかる。
 その挿話はこんな具合である。
 高校でも美術部に入ろうと思っていた矢先、たまたま放課後に一人でいるところに、別のクラスの新入生の男子生徒Iがおどおどと近づいてきて、申しわけなさそうな調子で彼女に話しかけた。「あ、あのー。」と少年は口ごもりながら顔を真赤にして言った。
 加代は、わかっていながらわざとあたたかく、
 「なに?」とききかえした。
 「クラブは何に入りなさったのですか?」
 あまりの卑屈さに加代は少しかわいそうに思った。
 「クラブはまだ決まっていません。」
 「あのー。ぼ、ぼく。サッカー部なんです。そ、それで先輩からマネージャーやってくれる人がいないかさがすようにいわれているんです。」
 「それで?」
 加代はまた、あっさりと聞き返した。少年は真赤になった。加代はつづけて言った。
 「それでどうしたの?」
 少年は答えられない。
 「それで、私にマネージャーやらないかってことでしょ?」
 彼は真赤になって、
 「いえ。けっして、そんな・・・つまらなくなったら、いつおやめになってもかまいません。洗濯とか部室の掃除とか試合のスケジュールとか、めんどくさいことは、ぼくたち新入部員がやります。ただ名目だけでいいんです。」
 「それじゃマネージャーじゃないじゃない。」
 「・・・・・・。」
 加代、笑って、
 「いいわよ。私、サッカー部のマネージャーになるわ。」
 と言うと、少年は反射的に「あっ。ごめんなさい。」と言った。
 こんな具合で加代はサッカー部のマネージャーになった。
 夢に胸をときめかせての新緑の季節の高校生活。このK高校の一学期は少女にとって最も幸福な時期だった。新しい友達も多くできた。みなが加代の将来を心から祝福してくれた。
 一学期の終業式の日の夕方、加代の将来を祝って、近くのデニーズで送別会が行なわれた。
 翌日、加代は街へ買い物に出かけた。名古屋の街とも当分おわかれだから故郷をかみしめておこうと思ったからだ。たそがれの商店街。向こうから加代をサッカー部のマネージャーに勧誘したIがみえた。二人の視線があった。彼は加代に気付くと真赤になって左下方に視線をおとしてギクシャク歩いた。にげようがない。Iはそのまま通りすぎようとするつもりらしい。加代はIに近づいてニッコリ笑った。Iの顔からジンマシンがふきだした。
 「I君。きのう、どうして送別会きてくれなかったの?]
 「そ、それは・・・。」
 「何で?」
 「そ、それは、ちょっと用事があったんです。」
 「あー。ざんねんだったな。I君に一番きてほしかったのに。」
 と加代は独り言のように言った。Iは答えられない。
 「私、東京の高校へ転校したら、もうI君と会えなくなっちゃうな。さびしいな。」
と加代は独り言のように言った。
 「さ、佐藤さん。がんばってください。ぼ、ぼく佐藤さんのこと応援してます。ぼ、ぼく一生佐藤さんのこと忘れません。」
 そういうやIは一目散に夕日に向かって走りだした。
 なおIは新入部員ではあったが、子供の頃からのサッカー少年で、対抗試合ではセンターフォワードをしていた。Iにボールがわたった時、加代がことさら熱っぽく、
 「I君。しっかりー。」と力強く応援するとIは必ず凡ミスをしたことは言うまでもない。また加代もそれが面白くて、そうしたのだからいったいチームの足を引っぱるマネージャーなんておかしなものである。

  (二)上京編

 夏のおわり、不安と期待を胸に秘め少女は上京した。
 プロダクションの社長の家に住み、女のマネージャーがついた。
 転校先はH高校。まわりはみんな自分と同じ芸能人。少女ははじめて気がついた。自分がみんなと違うことを。みんな笑っている。ライバルなのに笑っている。心のそこから笑っている。自分もわらわなければ・・・。少女はクラスメート達と笑顔をつくって話した。しかし心の中ではいつもおびえていた。歌手になれるかという不安と、そんな不安を全くもたないクラスメート達におびえていた。そんな不安をまぎらわすため少女は歌とおどりのレッスンにすべての精力をそそいだ。
 翌年の四月、少女はデビューした。大ヒットだった。うれしかった。それは少女にとって人生で一番幸福な瞬間だった。だが歌の生命は短い。
 歌手、それは休むことをゆるされない人間。
 芸能界、それは感性をうりものにする世界。
 芸能人、それはそんな世界に抵抗なく生きていける人間。
 プロダクションは少女のうりだしに奔放し、少女のスケジュールは過密をきわめた。うわべの笑顔とは裏腹に少女の心は不安にみちた疑問がたえることがなかった。
 「私は何のために歌うのだろう。何のために笑うのだろう。」
 少女は自分が芸能界にむかない性格であることに気づきはじめた。しかし生まれついてのまけずぎらいな性格は歩きはじめた道をひきかえすことをゆるさなかった。その年の暮、少女は新人賞を獲得した。うわべは笑いながらも少女の心はうつろだった。その年、少女の友はヒットせず、芸能界を去ることになった。少女は彼女になぐさめの言葉をかけた。その一方で友が少しも落胆していないのが少女にはうらやましかった。
 楽屋で待つ少女はいつも一人ぼっちだった。
 ある時そんな彼女に声をかけてくれた男があった。一言二言だったが、それは少女の孤独を理解したやさしい言葉だった。少女はうれしかった。それは砂漠の中を歩きつづけてやっとオアシスをみつけた旅人のよろこびだった。
 年があけた。ガンバリ屋な少女は過密なスケジュールの中のわずかな時間で猛勉強し、無事三年への進級試験をこなした。
 春休み。少女ははじめて休息することをゆるされた。ハワイで過ごした。はりつめつづけた心がふっととけた時、少女の心に一人の男の顔がうかんだ。それは同時に生まれて一度も経験したことのない不思議なはげしい感情を少女にもたらした。少女はいつまでも沈んでいく太平洋の夕日をみるともなくみていた。
 だがそれはつかの間の休息だった。帰国後少女をまっていたものは超ハードスケジュールのコンサートツアーだった。不安と疑問をもちながらも少女は一生懸命歌った。四月、新曲が発売された。だがプロダクションの懸命のうりこみにもかかわらず、結果は今一つ満足のいくものではなかった。そんな彼女をなぐさめようと親しかった友がきた。少女の心はやわらいだ。歌手としてヒットせず引退した彼女だが、今は海外留学をめざして一生懸命英会話を勉強しているとのこと。少女は彼女がうらやましかった。自由に生きてる彼女がうらやましかった。プロダクションは彼女をイメージチェンジすることにした。少女は長かった髪を切った。プロダクションは少女に女優の仕事ももってきた。プロダクションは少女の中にある哀しみに目をつけた。
 芸能界、そこは心の哀しみまで売り物にしてしまう世界。
 プロダクションの思惑はあたった。テレビドラマへの出演の依頼が多くきた。少女は一生懸命演技した。再び少女は女優としてヒットした。だが少女の心はうつろだった。「何のために。」少女は自由がほしかった。だがもう少女に自由はなかった。世間というものに翻弄されつづけるあやつり人形。うつろな目で少女は夕暮の東京の街をみつめた。
 そんなある日、少女にテラビドラマの主演の依頼がとどいた。出演者のリストの中に「×××」の名前をみつけた時、少女の心はときめいた。それは以前、彼女に声をかけてくれた男である。ドラマの撮影は順調に進んだ。少女はできることなら男と話したく思った。しかし少女の方から話しかける勇気はなかった。
 撮影の合間の待時間、少女はいつも一人ぼっち。そんなある時、少女はポンと肩をたたかれた。おどろいてふりむいた少女の前には、その男がやさしい笑顔で立っていた。少女の胸によろこびが、限りないよろこびがこみあげてきた。そしてそれはまたたく間にはちきれて少女の顔で笑顔となった。少女は男に話しかけた。心のすべてを話しかけた。男はウン、ウンとうなずきながら一心に少女の話しを聞いた。少女にささやかな幸福な日々がおとづれた。ある日の撮影のあと、二人は近くのレストランへ入った。食事中も少女の口からは陽気なおしゃべりが耐えなかった。が、二人の目と目があった時、ふと少女のおしゃべりがとぎれた。少女は、自分が謡っている歌のフレーズを思い出して赤面した。この時、男は彼女が気まずくならないよう、さりげなく聞き手から話し手にまわった。だが幸福な日々は長くはつづかなかった。
 年があけドラマの撮影もおわりに近づいた。
 少女は知っていた。
 ドラマのおわりが男とのつきあいのおわりであることを。
 一月末、ドラマのスタッフと共演者達とそして彼女をのせた夜行列車はラストシーンの撮影のため北陸のある街へ向かって走っていた。男は共演者の一人の女性のとなりに座っていた。二人がたのしそうに話すのを少女はかなしい思いでみていた。
(だれにでもやさしい人なのだ。)
少女は窓の外に目をやった。途中で降りはじめた雨はいつしか雪にかわっていた。ぼんやりとその雪をながめているうちに少女の心に楽しかった子供の頃が思い出されてきた。するとその時少女の心に「ある行為」、それは今まで一度も考えてもみなかった行為へやさしくさそう感情がうまれた。雪はだんだんはげしい降りにかわっていった。それを一心にながめているうちに少女の心におこった感情はいつしか確固とした決意になっていた。
 ロケは無事終わった。少女は男とだまって別れた。
 三月、少女はH高校を卒業した。心の中の不安をつくりえがおで偽って付き合っていた友達だったが、いざ別れる時になって不思議とはじめて親愛の情がわいてきた。卒業式、少女は心から友達といつまでも別れをおしんだ。その時、少女ははじめて「わかれ」というものが自分が人と和解できる唯一つの方法であることに気がついた。社長の家にもどった少女は社長にずっと思い続けていた一人ぐらしをしてみたい、という願望をはなした。年間十数億円を売り上げ、年収三千万近くをプロダクションにもたらした少女のたのみである。社長は快く少女の申し出をうけいれた。
 少女は上京以来三年間くらした社長の家をでた。少女の新しい住まいは南青山のマンションの四階の一室だった。ゆとりのある2DK。新品のベット、白い椅子、新品のインテリア。夜、窓からは南青山周辺のにぎやかなイルミネーションが美しくみえた。少女はベットにすわって独立と自由のよろこびを満喫していた。だが少女が社長の家を出たのには別の理由があった。「行為」の場所を少女はここにえらんだのだ。自由のよろこびは満喫していたが少女の決意は決してゆるいではいなかった。それでも、引っ越し後の数日間、少女はハワイ以来ひさびさにおとづれた自由な生活を楽しんだ。このままいつまでもこのままでいられるなら・・・。ふと少女の心にそんなはかない願望がおこることもあった。引っ越し後十日目、少女にマネージャーから電話がかかってきた。 四月はじめの都内の、ある公会堂でのコンサートのことだった。少女はそれをひきうけた。ドラマの撮影が多かったこのごろにあってひさしぶりのコンサートだった。少女の「決意の行為」の日時ははっきりと決められたと少女は思った。
 このコンサートをさいごのコンサートにしよう。このコンサートだけは精一杯がんばろう。
 少女は決意をかみしめながら美しい東京の夜景をみていた。テレビドラマが好評だったのだろう。コンサートは満員でパンフレットも全部売り切れた。パンフレットのさいごのページに少女はこんなメッセージをかいた。
 どうもありがとう。
 ほんのちょっとの間、おわかれネ
 but、but またどこかで、
 逢えますよね
 その時を信じて・・・さよなら、
 (I 'll be seeing you)
 少女は精一杯歌った。最高にもりあがった。コンサートが無事にすんだ後、少女にはすべてをやりおわった安心感があった。マンションにもどった少女は洗面所からカミソリをもってきてベットに横たえた。少女は自分の左手首をしばらくながめていた。おそろしいという気持ちはおこらなかった。だがいざ手首にカミソリをあてた時、少女の心にもう一度だけ話しをしてみたい相手があらわれた。しばらくまよった末、少女はカミソリをおいてその男に電話をかけた。だが、でたのは女性だった。おそらくちかく結婚するとうわさされている女優の×××だろう。
 「××はいま、お風呂に入っています。何か伝えておきましょうか。」
 「いえ、いいです。」
 少女は受話器をきった。そしてガス栓をひねり、ベットに横たえて睡眠薬をのみ、左の手首を切った。死に対するおそれの気持ちはなかった。カミソリが入った時は一瞬チクッという注射のような痛みが走ったが、それはその時一瞬だけだった。少女は睡眠薬の作用で深い眠りに入っていった。
 だが少女は死ねなかった。少女が目をさましたのは病院の一室だった。左手首には包帯がまかれていた。少女は窓の外をみた。まだ夜があけたばかりの時刻だった。すぐに知らせを聞いてマネージャーと社長がきた。幸いケガはたいしたことはない。医師の許可で二人は少女を車にのせて事務所につれ帰った。二人は狼狽し、そして少女にはげましのことばをかけた。少女は泣いていた。自殺が失敗して生きのびるということはプライドの高い彼女にとって死ぬよりつらい、恥ずかしいことだった。少女は社長室に通された。二人は少女に話しかけることばを知らなかった。しばらく後、隣室から電話がなったので社長は部屋をでた。社長室は少女とマネージャーの二人きりになった。彼女は何をいっていいかわからない。
 「何かのむ。」
 少女はだまって首をふった。
 「ストロベリージュースはどう。」
 少女はだまってうなづいた。
 マネージャーがストロベリージュースをとりにいった。
 部屋には少女だけになった。少女は立ちあがって部屋をでた。一段一段屋上へと少女は階段をのぼっていった。少女の心はうつろだった。自分は生きていてはいけない人間なのだ。屋上の扉をあけると四月のまばゆい陽光が入ってきた。少女の心には少しのおそれもためらいもなかった。それは少女にとってごくかんたんなことだった。少女は空を見上げた。
 一瞬何だか自分が空をとべるような気がした。
 フワッ。一瞬、少女の体は宙に舞った。だがそれは一瞬だけだった。
 昭和六十一年四月八日の正午のことだった。

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女生徒、カチカチ山と十六の短編 (小説)(3)

2020-07-08 03:36:46 | 小説
小児科医

 岡田さんは小児科医である。といってもまだ世間で言う医者の卵である。医学部の学生は卒業すると、すぐに全国共通の医師国家試験をうける。この試験は五者択一のマークシート形式で、大学入試のセンター試験と同じような感覚の試験である。この試験に通ると医師の資格が与えられる。こののち二年間、どこかの病院で指導医のもとで研修する。ほとんどは、母校の付属病院で研修する。岡田さんは小児科を選んだ。理由はきわめて明白で「子供はかわいい。子供が好き。」だからである。他に三人、同期の友人が小児科の医局に入局した。小児科の教授は母校出身の先生である。二年前に教授に就任した。この教授は、
「国家試験はおちる時はおちるんだから覚悟きめてけよ、それとインフルエンザには気ィつけろよ。」
と卒業試験の時、言ってくれた温かみのある先生である。岡田さんは5人の入院患者を担当することになった。指導医の指導のもとで毎日、採血、点滴、注射、カルテへの患者の病状記載、ナースへの指示の仕方、など実地の医療をおぼえるのである。彼女がうけもつことになったのは、若年性関節リウマチ、糖尿病、血友病、それと膠原病のSLEとなった。さっそく岡田さんは患者に自己紹介にいった。はじめは不安もあったが、
 「はじめまして。今度担当になりました岡田といいます。よろしくね。」というと、それまで退屈していた子供は、よろこんで反応してくれる。心が通じることは何より安心感を与えてくれる。自分が認められることにまさるよろこびはない。だが最後の一人は反応が違った。彼女の丁寧なあいさつにその子はプイと顔をそむけてパタンと横になってしまった。話しかけても答えてくれない。やむを得ずあいさつできないまま詰め所へもどった。
(かわいくないなあ。あの子。)
 その子(吉田さとる)はSLE(全身性エリテマトーデス)という膠原病だった。日光にあたると病気が悪化するためあまり外へでれない。入院してステロイド療法で症状をおさえているのである。ステロイドを使わないと腎臓の機能が低下してあぶない。そのためステロイド(プレドニソロン30mg)の投与をつづけなくてはならないのだが、薬の副作用も強くでる。多量に使うと腹痛がでたり、顔の形もかわってしまい、そのため子供はその薬をのみたがらない。
 こんな状態ではじまった研修第一日目だった。午前中は外来で、午後は病棟で入院患者をみる。外来での診察手順は、眼瞼で、貧血、黄疸があるかを調べ、扁桃腺、頚部リンパ節の腫張の有無、それからねかせて、髄膜炎があるかどうか調べるため、項部硬直を調べ、ついで肝臓、脾臓の腫大の有無を調べる。
 小児科では同期で他に三人入った。学生時代からの親友でもあった。大学の近くに安くてうまい店があって、仲間は学生の時からよく行っていた。
 研修がはじまって一週間くらいたった。勤務がおわって、仲間は、そこにひさしぶりに寄った。他の仲間は、小児科はきつい、といったが、みな、生きがい、にもえていた。岡田さんも自分もそうだ、と言った。だが彼女の頭には、あの子の顔が浮かんできた。それをふり払おうと彼女はむりに笑った。彼女は学校時代からリーダー的存在だった。そんなことではじまった研修医生活だった。
 だが岡田さんが何を言っても吉田は無視する。どんなにやさしく接しても無視する。ある日の勤務がおわった時、岡田さんは、やけっぱちな気分になって、一人で飲み屋へ行って、やけ酒をガブガブ飲みながら、おやじにあたった。彼女は自分がどんなに誠実に一生懸命接しようとしても自分を無視する子供のことをはなした。
 「私もうあの子いや。」というと
 「そりゃーそのガキの方がわるいわ。岡田先生みたいにきれいで、わけへだてなく患者に真摯になってる先生を理由もなく無視して、いうことをきかないなんて。今度一回、いうこときかなかったら、ぶってやったらどうです。わたしにはよくわかりませんが岡田先生が低姿勢にしてるもんだから、そのガキ、つけあがってるんじゃないですか。先生の心のこもったおしかりなら、そのガキも少しは、あまえから目がさめるんじゃないですか。」
 岡田さんは自分にいいきかせるように、
 「そうよね。あまえてるんだよね。あの子。ありがとう。よーし。こんどひとつ、びしっといってやるわ。ありがとう。」
 「カンパーイ。」
 といって岡田さん、おやじとビール、カチンとやりゴクゴクッとのんだ。数日後のことである。検査でBUN(尿素窒素)、Cr(クレアチニン)が上がっていた。腎機能が低下していることがわかった。病室のごみ箱からプレドニソロンがみつかった。どうもあの子が薬をちゃんとのんでいないようだ。拒薬の可能性のある患者の場合、ナースが患者が薬をのむのをみとどけるのだが、患者は、口の中に錠剤をのこしといて、コップの水をゴクッとのんで、薬をのんだふりをしてみせて、錠剤をあとで吐き出すのである。
 岡田さんは吉田の病室に行った。吉田はゴロンとねころんでいる。岡田さんは吉田によびかけた。だが起きない。むりにおこして自分の方にふりむかせた。
 「さとる君。この薬すてたのさとる君?」
 ときいたが、吉田はプイと顔をそむけた。
 「この薬ちゃんとのまなきゃ死んじゃうんだよ。だめじゃない。」
 といっても吉田はふくれっつらしている。岡田さんは「ばかー。」といって吉田をぶった。
 だが、吉田はおこって反発することもしない。岡田さんは予想に反してガックリしたが、
 「さとる君。この薬ちゃんとのまなきゃだめだよ。」
 と、しかたなく言って去った。
 それから数日がたった。今度の検査ではBUN、Crとも下がった。もう病室からはプレドニソロンが捨ててあるということはなくなった。岡田さんは吉田が自分が吉田に薬を飲むようお願いして、吉田がそれをきいてくれたのだと思って少しうれしく思い、吉田の病室へ行った。
「さとる君。」
と言って岡田さんはうしろからはなしかけた。が、ふりむいてくれないので、まわって、
「この前はいきなりぶってごめんなさい。私をぶって。それでおあいこにしよう。」
と言って岡田さんは目をつぶって顔をだした。岡田さんは内心これで心が通じると思いながらまっていた。だがいっこうに反応がない。岡田さんが目をあけると吉田はいなかった。徹底的な無視。帰り、いつもの焼き鳥屋。
 「私もうあの子いや。あの子私をきらってる。何で?」
 と、おやじにきく。おやじは
「ウーン。私にもわかりませんね。その子の心が。」
 数日後のことである。岡田さんがほとほと思案がつきはててしまっているところ、病棟で、ある信じがたい光景をみた。吉田が一年上のあるドクターNとまるで兄弟のように手をつないで笑いあっているのである。まさに心をひらいている。そのドクターは頭が半分ハゲて、近眼で、足がわるく、足をひきずって、白衣もヨレヨレで、医局でも無口でコドクな存在だった。これは岡田さんにとってショックだった。あの子はだれにも心をひらかないのではなく、自分には心をひらいてくれないのだ。
 数日後岡田さんは吉田の病室に行って吉田に話しかけた。もう自分のどこがわるいのか、わからなくて吉田にきいて自分のわるいところを知ろうと思った。吉田はいつものようにゴロンとねていた。岡田さんはしょんぼりして
「私のどこがわるいのですか。何で私を無視するんですか。私のわるいところは直すように努力します。おしえてください。」と言った。
 吉田はしばしだまっていたが、はじめて彼女をみて、
 「別にどこもわるくねーよ。」と言った。
 岡田さんははじめて吉田から返事をうけて、わからないままにも、うれしく思った。
 二人の会話はそんなふうで、進展しない。彼女はいったい自分のどこがわるいのか悩むようになった。自分に何かどうしようもない人間としての欠点があるように思えてしかたがなかった。そのことが頭から離れなくて、もう精神的にヘトヘトになってしまった。岡田さんが夕方、待合室で一人で座っていると同期で入局した仲間達がそこを通りかかった。彼女らは岡田をみて、その中の一人が言った。
 「どうしたの。岡田。このごろ元気ないじゃん。」
 岡田「ウン。ちょっとね。」
 「何かあったの。」
 「・・・・・。」
 「元気だしなよ。そんなことじゃつとまんないよ。」
 彼女らは「ははは。」と笑って行った。
 その時、岡田さんは気づいた。今の自分の状態があの子の状態なのでは・・・・。
 「あの子は私の明るさをきらっていたんだ。」
 その時、吉田がたまたま病室からでてきたらしく、一人でいる彼女に気づいて、あわてて体をひっこめた。自分はNドクターの気持ちなんかまったくわからなかったし、わかろうともしなかった。あの子は私の明るさ、を嫌っていたんだ。そう思うと岡田さんは今までの自分が恥ずかしくなり、うつむいてしまった。
 「オイ。」
 とつぜん声をかけられて岡田さんは顔を上げた。吉田がいる。
 「オイ。岡田。何で一人でいるんだよ。」
 岡田さんは心の中で思った。
 (もう私にコドクになれ、といっても無理だ。この子にはあのN先生がふさわしいんだ。担当をかわるよう、たのんでみよう。)
 岡田さんはもうつかれはてていたので、吉田に返事をすることもできなかった。自分が何をいってもこの子は気にくわないんだから・・・。そう思って岡田さんはだまってうつむいていた。その時である。吉田が岡田さんにはじめてはなしかけたのである。しかもその声には、たしかにうれしさがこもっていた。
 「オイ。岡田。元気だせよ。お前らしくないじゃんか。」
 岡田さんはうれしくなって吉田の手を握った。
「あっ。吉田君笑った。私を無視するんじゃないの?」
 吉田は自己矛盾を感じて困りだした。吉田は自分から声をかけてしまったことをくやんだように手をふりほどこうとしている。岡田さんは離さない。この期をのがしてなるものか。はじめは手をふりほどこうとしていた吉田だったが岡田さんが強く握りしめて離さないので、とうとうあきらめた。岡田さん笑ってオデコ、コッツンとあわせた。「ふふふ。」といって岡田さん、もう一度オデコ、コッツンとあわせた。吉田、ついに自分に負けて「クッ」といって笑って、自分から岡田にオデコをあわせた。心が通じる最高の一瞬。吉田、小康状態で数日後、退院した。あとにはあいたベットに新患が入ってくる。岡田さんのいそがしい日々がはじまる。






夏の思い出

 高一の夏休みのこと。午前中に一学期の成績発表と終業式があって、それがおわり、寮で帰省のためオレは荷物をまとめていた。「夏休みは自由の天地」とはよく言ったものだ。別にオレはどこか旅行へ行くとか、の具体的な目的などなかった。ただ集団の拘束から解放されることが、集団嫌いのオレにとっては一番うれしかった。その時だった。机の向こうから同級のHが言った。
「おい。XX。8月10日こいよな。」
オレは反射的に
「しらねえよ。そんなのシカトだよ。」
と言った。するとヤバイことにそこにたまたま室長のGがいた。
「ダメだよ。シカトなんて認めないよ。」
とGは言った。オレは内心舌打ちした。
(Hのバカ。よけいなこと言いやがって。だまってりゃシカトできたのに)オレは荷物をまとめて、そっと空気のように部屋をでた。西武線に乗り、池袋で山手線にのりかえた。だがGの一言が心にひっかかっていた。忘れようと努力するとよけい意識される。夏休みの間は誰にも、何物にも拘束されたくなかった。オレは内心、シカトすることとシカトしないことのメリット、デメリットを考えていた。やはりシカトすると二学期にGと顔をあわせるのが気まずくなる。小心なオレにはやはりそれはつらいことだった。
 ここで8月10日のオレにとってイヤなこと、とはこんなことである。学園の生徒は夏休みに、地域ごとに順番に、その地域の父母会の子供の夏休みの工作教室の指導をしていた。それが今回は神奈川県ということになった。Gがリーダーで、横浜地域の小学生が対象ということでHとオレとあと一年下の二人A、Bがその「指導」とやらの役になってしまった。どうして学園の生徒が・・・・と思うに学園は進学校ではないかわりに生活や技術の教育の学校と外部では見ているらしかったからだろう。何をつくるか知らなかったが、8月10日にそのオリエンテーションをして、8月20日が本番ということらしい。オレがいやだったのは夏休みの間は学園の人間とは顔をあわせたくなかった、のと、又そんな子供の工作教室に指導者ヅラするのがいやだったからだ。結局、行くとも行かないとも決めかねた状態での気分の悪い夏休みがはじまった。
 夏休み、といっても特にどこへ行く、ということも何をするということもなかった。ただ50mの市営プールで、午前中、人がこないうちに行って泳ぐことだけが唯一のたのしみだった。午後は家でグデーとすごした。何のへんてつもない平凡な日々だった。だが私は夏が好きだった。何をしなくても夏生きていることがうれしかった。夏休みには「自由」があった。だが今年は違った。8月に2回、学園の人間と顔をあわせなくてはならない。それがいやで心にひっかかっていた。
 とかくするうちに8月10日になった。オレはやむをえず行くことにした。やっぱり、行かなかったら二学期にGに会いづらい。オレは小心だった。
 二時に磯子駅で会うことになっていた。が、一時半に磯子駅についてしまった。まだ誰も来ていなかった。これは私にとってとても照れくさかった。私はいやいや行くのだから少し遅れて行ったほうがいい。しかたなく駅からポカンと外をみていた。磯子駅からは丘の上に大きな白いホテルがみえる。待つ時間というものはとても長く感じられる。次の電車でくるか、と思って駅につく電車を待っていた。彼らは三回目の電車できた。二時を数分過ぎている。Gは私を見ると、
「ほんと、かわったやつだな。」
と言った。駅をおりて、駅前の広場でしばし待っていた。駅前の大きな樹でセミがいきおいよく鳴いている。少しすると小学校六年くらいの女の子をつれたお母さん、がやってきた。Gは、そのお母さんにあいさつして少し話してから、座っていた我々の方をみてうながした。我々は立ち上がって電車にそった道を横浜の方へ歩きだした。彼女は今回の打ち合せの人なのだろう。女の子も工作教室にでるのだろうが、それにしても打ち合せにまでくるとは積極的な子だと思った。
 Gは、その子の母親と話しながら先頭を歩いている。少女はお母さんのうしろを歩いていたのだが、夏休みの小学生らしく、何かとても活き活きしている。私はうしろからだまってついていったのだが、どうも気になってしまう。工作の場所は磯子市の公民館の四階の一室だった。その時まで何を作るのか知らなかったが、どうやら二段重ねの本箱をつくるらしい。二枚の横板を、子供の好きなかたちに切って二段重ねにし、あと、横板の外側に子供が何か好きな絵を描く、ものをつくる、ということだった。電動ノコギリで横板を切るのだが、それが小学生では危ないから、我々がそれをやる、ということらしい。結局、電ノコで切ることのために我々が必要なのだ。Gは、電ノコの使い方を説明したあとで、電ノコで実際に板を切ってみせた。少女は一人、Gの説明を一心に聞いている。スカートが少し短くてつい気になってしまう。打ち合せにまでやってくるくらいだから、学校ではきっとリーダーシップをとるような子なのだろう。
 実をいうと私は彼女をはじめてみた時、ついドキンとしてしまった。何か言い表わしがたい感情が、私の心を悩ませていた。彼女の美しい瞳と、年上の中で少し緊張している様子と、普通の子なら、恥ずかしくてこないだろうに、あえてやってきた積極さ、が何か私を悩ませていた。それは短いながらも彼女といる時間がたつのに従ってますますつのっていった。私は惹かれてしまいそうになる自分の気持ちと惹かれてはならないと自制する気持ちに悩まされていた。自制しなくては、と思う気持ちはいっそう私を苦しめた。そんなことで、私はGの電ノコの使い方もいいかげんに聞いていた。またわざとまじめにきくことに反発していた。それに私は子供のころから機械いじりは得意だった。みなが電ノコで板を切った。さいごに私もやった。以外と電ノコは重く、力強く固定しなければあぶない。たしかに小学生では無理だと思った。全員おわると、Gは、
「それじゃあ20日の一時に。」
といって解散となった。みなはいっしょに話しながら帰った。私はみなより一足さきに部屋を出た。夏休みで、一番いやだったはず、だが、もう一回、あの子に会える、と思うと工作はいやながらも、20日には来ようと思った。
 それから又、午前中プールへ行き、午後は特に何もしないという日がつづいた。ある日の午後、国語の先生がすすめた夏目漱石の「三四郎」のはじめの部分をパラパラッと読んだ。たいへんダイタンな小説だと思っておどろいた。日本を代表する作家がかくもダイタンなストーリーをつくるものなのかと文学の自由さにおどろいた。私は手塚治虫の「海のトリトン」が好きで、トリトンのように海を自由に泳ぎまわれるようになりたいと本気で思っていた。私は平泳ぎはできたがクロールはできず、何とか美しいクロールを身につけたかった。
 翌日、私は電車で五つ離れたところにある病院に行った。私はある宿痾があり、二週に一度その病院に行っていた。病院からの帰り、私は病院の裏手から東海道の松林を抜け、海岸に出て、海沿いに駅まで輝く海をみながら歩くのが好きだった。ここは波が荒く、遊泳禁止だった。波がだんだんおそろしいうねりをつくる。ちょっとこわいが今度はどんな大きな波をつくるかが、波と戦っているようで、こわくもおもしろい。少し行くと遠あさで、波がおだやかなためにできている小さな海水浴場にでた。数人の男女が水しぶきをあげている。無心にたのしむ彼らの笑顔の一瞬の中に永遠がある。彼らは自分の永遠性に価値をおいていない。そのことが逆に永遠性をつくりだしてしまう。それは誰にも知られることのない、かげろうの美しさだ。私は松林を上がり駅に出た。
 8月20日がきた。一時からで、ちょうどで、遅刻はしていなかったが、もう、みんなきて、ちょうどはじまったところだった。少し気おくれした感じがする。Gは私をみると
「おう。あそこいって。」
といって左側の奥のテーブルをさした。全部で四テーブルで、各テーブルに小学生が4人から5人くらいだった。私は壁を背にした。あの子は左となりのテーブルにいた。まず、はじめに子供がどのようなかたちで横板を切るか、エンピツで線をひいている。そしてその線にそって我々が電ノコで切るのである。となりでは、あの子が一番はやく線をかいた。そのテーブルではHが担当していたので、彼女はHに切ることをたのんだ。Hは電ノコのスイッチを入れて切ろうとした。どうもあぶなっかしい。もっとしっかり板をおさえなくてはいけない。案の定、板に電ノコをあてたとたん、電ノコはガガガッと音をたててはじかれた。板に傷がついた。彼女は狼狽している。HはGによばれて電ノコの使い方をきかされている。(私はその時すでに、一人、自分のうけもちのテーブルの子が切ってほしいとたのまれたので、すでに二枚、板を切っていて、多少切り方のコツをつかんでいた。)V字だったので両方から切った。私は人とかかわりあいたくない性格なのに自分がうけもたされると精いっぱい相手の期待にこたえなくてはならない、と思う性格があるのを発見した。また、やってみてこうも思った。子供がひいた線を少しもはずしてはならない・・・と。
 となりのテーブルでは彼女が狼狽している。彼女の担当はHなのだから、彼女もHにたのむべきだとおもっている。しかし、彼女がHの技術に不安を感じているのは明らかにみえた。私は内心思った。
「私ならできる。」
私は彼女に、
「切ろうか。」
といいたかった。本当にいいたかった。しかし、それを私の方から言うことはできなかった。絶対できなかった。私は心の中で強い葛藤を感じながら、表向きは平静をよそおっていた。私が切りたく思ったのは、何も私でなくても他の誰でもいい。たった一度のことかもしれないが、この子は大人を信じられなくなる、のではないか。けっしてそんな経験をさせてはならない、と思ったからだ。
 その時だった。Gは
「切れる人はどんどん他のテーブルの人のでも切ってください。」
と言った。彼女は私の方にきて、
「切ってもらえませんか。」
と小さな声で言った。私は内心人生において絶頂の感慨をうけた。だが表向きは平静に
「ええ。」
と、さも自然そうによそおった。だが電ノコを板にあてた時、よろこびは瞬時に最高の緊張にかわった。彼女は不安そうに板をみている。彼女はゆるいS状のラインだった。私は板を力づよくおさえた。電ノコでの切り方には多少のコツがあることを私は前の経験から知った。それは、ミシン目が入ってる所をみるより多少先をみながら切っていった方がいいということだ。私は慎重に、1ミリもはずしてはならない、と自分にいいきかせて切っていった。外科手術の緊張さに近かった。切りおわった。彼女のひいたラインどおりにほぼ切れた。私は内心ほっとした。彼女は本当にうれしそうに笑顔で
「ありがとうございました。」
と言った。私もうれしかった。そののち私はまたもとのテーブルにもどった。
 工作教室は何とか無事おわった。二週間後、高一の夏休みがおわった。私にとってもっともいやだと思っていた、工作教室が私の夏休みにおいて(否、私の人生において)最もすばらしい思い出となった。二学期がはじまった。あれから三年たつ。その後の彼女を私は知らない。しかしきっと明るい美しい高校生になっていることだろう。彼女が友達とゆかいに話している姿が目にうかぶ。





春琴抄

 春琴は美しいアゲハ蝶である。その美しさには春琴が通る時、心の内からたとえようもない、美しさ、心の純真さ・・に魔法にかかったかのように魅せられないものはいないほどである。春琴自身それを逆に感じとり、恥ずかしく顔を赤らめるのだった。
 春琴には彼女にふさわしい逞しく美しい雄のアゲハ蝶の彼Nがいた。二人はともに愛し合っていた。しかしどちらかというと、少し心にたよりなさのある春琴を守りたい・・・という彼の思い、が二人の関係だった。
 二人はこのおとぎの国の美と愛の象徴だった。
 あるポカポカはれた春の日、春琴は、彼女の仲間の蝶とともに少し遠出した。春琴一人では、まよいそうになるほどのキョリのある場所だった。春琴は少しポカンとしたところがあって道に迷いやすい。だが仲間はしっかりした方向感覚をもっていて道に迷うことはない。心地よい陽光のもと、流れるさわやかな微風に身をのせて、いくつか野をこえ原をこえた。
 そこはジメジメしたうす暗い所だった。仲間がキャッ キャッとさわいでいる。よくみると、そこにはクモの巣の糸がはってある。木陰にじっとかくれているクモを仲間がみつけたらしく、からかいのコトバをかけている。
 クモは陰湿な方法でエモノをとる。しかしアミにかかりさえしなければ安心であり、手も足もだせなくてくやしがってるクモをからかうのは何とも、スリルと優越感があっておもしろい。
「みなよ。あんなみにくいヤツがエモノがかかりはしないかとものほしそうにまってるよ。」
と一人が言うと、みなが笑った。
みながクモにツバをはきかけるとクモはくやしそうにキッとニラミ返した。「お前ら。おぼえてろよ。」
というと、みなはますますおもしろがって笑った。
「春琴。あなたもからかってやりなよ。」
と仲間にいわれて春琴はクモに近づいてクモをじっとみた。
春琴の心にはまだいたずらっぽさ、オテンバさ、も十分あった。春琴は、それがいやがらせだと知って、クモをじっとみながら自分の美しさをみせつけながら、そうしている自分に酔い、「ふふふ。」と笑った。クモは恥ずかしそうにコソコソとかくれてしまった。
 そのあと、蝶たちは、もと来た野をもどり帰ってきた。こわいもの、みにくいもの、みたさは春琴にもある。こわいもの、おそろしいものをみると自分が自由であることを実感できる。その夜、春琴は自由を実感して心地よく寝た。
 翌日、仲間達は春琴に、昨日、あそこへ行ったのはクモをからかいに行くためもあったけれど、それに加えて、キケンな場所を春琴に教えるため・・もあったのだと言った。春琴は時々、みなから離れて一人行動するところがあるから気をつけるように、と注意した。
 その年の夏の暮れ、ちょうど以前、あの暗いクモの巣のある所にいったような日のことだった。春琴のこわいものみたさ、は一人でいる時つのって、どうにもおさえきれなくなり、何回かクモを見に行っては、じっとだまってクモをみていた。そして優越感まじりのキョリをとった思わせ振りをして無言のうちにみくだし自分に酔う酩酊をおぼえていた。
 その日、いつものようにクモはいないかと春琴が近づいた。少し近づきすぎた。
「あっ。」
と春琴が悲鳴をあげた時には、春琴の片方のハネ先が糸にくっついてしまっていた。生と死をわける、死の方への粘着である。春琴があせればあせるほど片はねが両はねへ、そして全身へと糸がどんどんからまっていく。もがけばもがくほど糸はどんどんからまっていく。春琴はこの時、神にいのった。「ああ神様。助けて。」
あるいはクモが奇跡にも死んでくれないかと。あるいは仲間の誰でもいい、誰かここへきて、こうなってしまっているのでは、と感づいて来てくれはしないかと。だがざんねんなことにそのどれもきかれないのぞみ、だった。
「ふふふ。」
とクモが、してやったりと、とくい顔であらわれた。
「いや。こないで。」
と春琴がいうと、クモは、止まって、笑いながら春琴の無駄な苦闘をみている。さもたのしそうである。クモはこうして巣にかかったエモノが一人であがき、つかれはてるのをまってから、毒エキを入れ、たべてしまうのである。春琴もそれと同じ運命になるしかない。むなしくあがき、つかれはててグッタリと力なく、うなだれてしまった。ころあいをみはからってクモは春琴の真近にまで来て、春琴の顔をじっとながめた。いつもと逆の立場にたたされた春琴は顔を赤らめ、そむけた。これほどブザマなことはなかった。そして死の恐怖のため、目を閉じて観念した。クモは春琴に
「ふふふ。」
と笑いかけ、
「どうした、いつものいきおいは。よくも今までからかってくれたな。」
と言った。春琴はもう死の覚悟ができていた。むしろこんなブザマな死にざまを誰にもみられないようにといのりたいくらいだった。クモが春琴の体に触れた時は、さすがに春琴も
「あっ。」
と言って身震いした。こんな気持ちの悪いものに触れられてる、と思うと、死を覚悟していても背筋がゾッとする。だがクモは殺す前に思う様、彼女をなぶりあそんでから、と思っているらしく、気色の悪い、執拗な愛撫がはじまった。クモは時々、からかいの言葉をかけながら、春琴の体をくまなく這うように愛撫した。するとどうしたことだろう。はじめはただただ死ぬ以上に気味悪く体を硬くふるわせていた春琴に、不思議な別の感情がおこってきた。それは自分ほど美しいものがかくも醜いものになぶられ、もてあそばれ、そして殺される、という実感。それはいつしか徐々に、そしてついにそれは最高のエクスタシーになっていた。春琴は自分の体から力がぬけていくのを感じた。春琴はもてあそばれることに、おそるおそる身をまかせた。今みじめにも復讐され、もてあそばれ、そして数時間後に自分は殺されて死んでしまっている、という実感を春琴は反芻した。するとそれは、そのたびいいようのないエクスタシーを春琴に返した。クモはあたかも春琴の心をさっしているかのように時々笑う。しかし愛撫の手はやめない。心をさっされると思った時、春琴は、それをさとられることを死ぬ以上におそれた。そして、何とかあざむこうと声をふるわせて言った。
「こ、殺すならはやく殺して。」
だがクモは笑って愛撫をつづける。かなりの時間がたった。春琴の頭からは、すべての想念がなくなり、クモは、春琴の体からはなれた。毒エキの針をさされることを春琴は待った。自分が、今から殺されると思うと、最高の快感で身震いした。だが、春琴はずっと目を閉じていたので、わからないのだが、再び、クモが触れてきた動きは今までとは何か様子がちがう。春琴は自分の体が軽くなっているのに気づいた。目をあけるとクモはいつのまにか、糸をとる油で春琴の体を糸からはなしてしまっていた。はばたくと春琴はプツンと糸から離れて自由の身で宙に舞うことができた。よろこびよりも虚無感が春琴の心をしめていた。辺りの野は一面、けだるい晩夏の午後の陽光に照らされて、静かに燃えるような熱気を放っている。だが相対して目の当りにクモをみた時、春琴は言いようのない恥ずかしさをおぼえた。クモは口元に笑みをうかべ、
「君はまたきっとくるよ。」
と言った。春琴は恥ずかしくなってその場を去った。数日が過ぎた。春琴はうつろな思いで数日を過ごした。仲間が、春琴が近ごろ姿がみえないのでどうしたのか、と思って春琴のところにきた。だが春琴はうなだれて、うつろな表情で一人でいる。春琴にも何か考えごとがあるのだろうと仲間は帰って行った。日がたつにつれ、春琴はいてもたってもいられなくなった。いいようのない感情が起こり、それが春琴を悩ませていた。春琴は相愛の相手であるNと結ばれた。みなが祝福した。幸せな日々がしばらくつづいた。しかし日がたつにつれ、春琴は再び持病のように、あのいいようのない不思議な感情におそわれだした。夜、春琴は夫に自分を何からも守り、愛してくれるよう求めた。夫はそれにこたえ、春琴を力強くだきしめた。二人は幸せになった。夫は逞しく、美しく、春琴を愛し守ってくれる。春琴にも、もとのあかるく、無垢で、純真な笑顔がもどった。だが時々、フッと一人で考えてしまうような時、何かのひょうしに気のまよいがでてしまうのだった。それはあの暗い、こわい、そしてつらく恥ずかしい、死を求める感情だった。小さな幸せの国。美しいアゲハ春琴と逞しいアゲハNがエンペラーのような象徴として調和をたもっている平和な国。しかし、春琴には時々、暗い感情がおこる。それに悩まされ、時々春琴はあの暗い場所を求めにいってしまう。その後、春琴は、クモは、Nはどうなったか。それは作者も知らない。






青鬼の褌を洗う女

 子供のころから、クライ、ノロマ、ブサイク、クサイ、心が内へ内へと向いてしまう。クサイのがイヤなら、近寄らなければいいのに、近づいてクサイのをなおせという。人間、努力して直せるものと直せないものがある。人にメイワクをかけては、いけないと思って一人でいると、ネクラ、孤立しているとしかられる。子供の頃からゼンソクで、数歩走ると苦しくなる。友達なんて、子供の頃からできなかった。学校はこわくていけなかった。運動もダメ。トロくて、いつも誰かにおこられて、ただ、ずーとだまって机を前に座っているだけ。元気がないのが悪いことなら、憲法改正して、元気であることを国民の義務として、ネクラはみんな死刑にすればいい。
お父さんは、つめたい、頭のいい医者で、私は勉強ができないから、医学部なんて入れないし、顔が悪いから、もらってくれる人もできないっていう。
ある時、お父さんが、あいつは、うまくかたずかないなって、言ってるのを聞いた。私のことをかげでは、あいつ、という。うまく、かたずけられるために私は生まれてきたのか。
中学校で、一人だけ、私にも友達ができた。私のことを心配してくれる。友情ってすばらしいなって思った。でも、ある時、彼女が、私のことを言ってるのを聞いた。
「あの人といるとつかれちゃうよ。先生から、内気な子だから友達になってあげてねって、言われて、そうすれば内申書がよくなるだろうから」
高校の修学旅行で、夜おそくなったので、ねたふりをしてた。同室の三人はガヤガヤつきることなく話している。その中の一人に、私によく話しかけてくれる人がいた。私は彼女を友達と思っていた。いつもはやさしいのに、私が眠っていると思って、遠慮なく私の品評をしだした。話題は、徹頭徹尾、私の顔のこと。こんな顔で、よく生きてられるものだ。それにしても、ひどい顔だな。何度も何度もいう。はやく別の話題にうつってほしい。
私はわざと、ちいさな寝息をたてて、寝てるふりをつづけなくてはならなかった。私の涙はとっくに枯れはてていて、ただただ気づかれて、気まずくさせたくなかった。
そのかわり、信じるということをやめてしまった。何もいらない。
私はありったけのお金をもって家出した。私は汽車の中で家からもちだした多量の睡眠薬をまとめてのんだ。

   ☆   ☆   ☆

 気づくと私は、ある観念の中にいた。それは、死の間際にみた夢だったのか、それとも、死後の世界なのか、あるいは、私は夢うつつにどこかの駅でおりて、人もこない山奥に、さまよいこんで、それは現実なのか、わからない。でも、それは、すごく心地いい観念の世界だった。
私はもうその世界から現実にもどりたいとは思わない。私は河原で青鬼の褌を洗っている。カッコウの声が谷間にひびく。私はいつしかついウトウトする。
ややあって私は青鬼にゆすられて気がつく。青鬼はニッコリ笑って私をみる。人は鬼などこわくて、気味悪くて愛せないだろうと思うかもしれない。あるいは私が魔法にかかって、外見の美醜に対して無感覚の状態になってしまってるにちがいないと思うかもしれない。しかし私は彼の笑顔がこの世で一番好きだ。彼のやさしさが手を伝わって私の心にサッと伝わる。私はうれしくて満面の笑顔を返す。青鬼は私たちのために働きに出かける。果樹の手入れをしたり、狩をしたりする。私はうれしくて洗タクの続きをはじめる。私はその時つくづく生きてることのよろこびを感じる。夕方、青鬼が帰ってくる。私は夕食の用意をしている。青鬼は、「今日はこんなものがとれたよ」というように、戸をあけるとニッコリして私の視線を獲物の方にうながす。私はそれをみてほほえむ。私は青鬼といっしょにささやかな夕食をする。私は彼がおいしそうに私のつくった下手な食事をたべてくれるのがうれしい。
でも私はそんな自然の中で生きていく逞しさはなかった。私は高い熱を出して寝込んでしまった。彼は私のかたわらで、ずっと看病してくれる。彼はどうしたらいいかわからず、こまってしまって、ただ私の手をにぎって谷川から汲んできた、つめたい水でタオルをしぼり、頭をひやしてくれる。そのおかげで額はすずしい。私はもうすぐ死んでいくだろうと思う。でも私は幸せだ。こんなに私を大事にしてくれる人に見守られているのだから。青鬼は私がいなくなったら、きっとさびしくなってしまうだろう。彼のためにも生きたい。生きてることのよろこびって、自分がいなくなると自分のことを哀しんでくれる人がいることなんだなって思う。でもだんだん意識がうすれていく。私は目をつぶり涙をながす。
「サヨナラ。青鬼さん」





岡本君とサチ子

 岡本君は都内の、とある商事会社に勤めている社の信望もあつい商社マン・・・である。彼は入社後一年で、大学の時親しかった山下サチ子と結婚した。大学時代、岡本君は野球部のエースだった。彼のピッチングは打者の心理をよみ、直球と変化球のたくみな配球による、どちらかというと、打たせないものだった。豪速球ではなかったが、コントロールがバツグンで、見送りしてしまう打者も多かった。対抗試合では相手チームを完封することもおおかった。野球においてはクレバーで、三振した打者の多くはつい舌打ちした。が、それはスポーツの中での反射的なものだった。彼には悪意というものがなく、頭の回転がはやく、おしつけのない親切があった。あっさりしていて、何事に対しても、こだわり、や、とらわれがなかった。野球部にはマネージャーが二人いた。山下サチ子と堀順子である。二人はともに岡本君に思いをよせていた。が、サチ子の思いはことのほか強かった。岡本君と順子が二人で話しているところをみると必ずサチ子が入ってくる。そのたび、やむをえず、順子はその場を去らなくてはならなかった。親しかった二人だが、その点において、順子は内心、サチ子を快く思っていなかった。そんな状態が卒業までつづいたのである。卒業後、岡本君は、都内のある東証一部上場の商事会社に入った。会社にも野球部があり、仕事はできるわ対抗試合では完封するわで、会社が彼を歓迎したのは入社してから後のことである。おもねりのない彼の性格的魅力にひかれて商談がうまくまとまるのである。入社して一年後、岡本君は山下サチ子と結婚した。
 幸福な日々がつづいたことはいうまでもない。そして、月並みですまないのですが、少したってから多少やっかいなことがおこったのです。そのあらましはこうです。
 ある日、彼女に電話がかかってきたのです。その人の言うところによると・・・岡本君はどうもこのごろ誰かと親しくしている。二人が喫茶店で話しているのをみた・・・というのである。電話の相手はその喫茶店の名前と場所を言った。サチ子は、はじめウソだと思っていた。だがある日の夕食の時、さりげなく言ったさぐりのコトバに、彼女は夫の表情に憂色をみた。ちなみにおかずは有色野菜が多かった。数日後、「今日は少しおそくなるから」と言って岡本君がでかけた日のこと。彼女はとうとう疑心に抗しきれなくなり、岡本君の退社時間より数時間前に、電話の相手が言ったその喫茶店のある場所へ行ってみた。するとたしかにその名の店がある。彼女はその店をみることができる向かいの喫茶店に入った。一時間ほどたった。「あっ。」と言って彼女がスプーンを落とし、我が目を疑ったことは想像に難くない。彼女はいたたまれず店を飛び出した。何もわからなくなってしまった。ただ足だけがうごいて、ともかく家についた。そしてそのまま食卓についた。
 「あの相手の人はいったい・・・」
 日はどんどん暮れていく。
 チャイムが鳴った。
 「ただいまー。」
 岡本君が帰ってきた。ほろ酔いかげんである。ドッカと腰かけ、
 「おい。サチ子。メシは。メシ。」
 これがいけなかった。こういう状態でおこらずにいるにはインドで三年は瞑想修業していなくては不可能である。彼女は今日みたことをすべて語った。そして相手の女性は、どういう人なのか問い質した。みるみる酔いが消えて、かわって蒼白になった岡本君は、このように弁明した。
 「彼女は自分と同期で入った人で、近く結婚するんだ。相手の男を愛してはいるが、僕にも好感を感じるというんだ。来春結婚するが、不安があるというんだ。そのため、自分の気持ちをたしかめるため、一ヵ月だけつきあってくれないか・・・とたのまれた。」
 「それで・・・」
 と彼女はあっさり言った。
 岡本君は冷汗をながしながら、
 「自分には最愛の妻がいるので、それはできない・・・ときっぱりことわった。だが彼女はどうしてもという。」
 「それから」
 「君にはすまないが、彼女の不安も、もっともだ、と思った。」
 「だから」
 「一ヵ月だけ・・・という条件でやむをえず承知した。心の中ではたえず君にすまない・・・とわびていたんだ。わかってくれ。」
 「わかったわ。」
 「そうか。わかってくれたか。」
 岡本君の顔が一瞬ほころんだ。
 「でも一つわからないことがあるわ。」
 「何だい。」
 彼女は急に険しい表情になり、声を大に言った。
 「本当にすまない・・・と思っている人が、どうしてほろ酔いかげんで、オイ、メシは・・・なんて言うの。私は一生浮気はしません。今日は食事をつくる気がしないので食事はありません。例の有色野菜が冷蔵庫にありますから、かじるなり、きざむなりしてください。」
 言って彼女は、その場を去るや、そのまま寝てしまった。これはこたえた。しかたなく岡本君は有色野菜をきざんでマヨネーズをかけて食べた。
 翌日、彼女がそのことを再びもちだそうとした時岡本君はつい、
 「ああ。きのう。そんな夢をみたの。」
 と言ってしまった。こんな賭は、まず成功しない。失敗すれば火に油をそそぐだけである。結果はみごとな失敗だった。
 岡本君の苦難の日々がはじまった。
 彼女はプンとおこり、何もしてくれない。岡本君は困って、
 「なあ。サチ子。おれがわるかったよ。もうカンベンしてくれ。」
 と頭をさげた。だが彼女はふくれっつら。
 「どうしたらゆるしてくれる?」
 と岡本君が聞くと、
 「もう二度と浮気しないとちかう?」
 と彼女は問いつめた。
 「ああ。誓うよ。」
 「じゃ、証拠をみせて。」
 「証拠ってどうすればいいの?」
 「あなたの気持ちを行為で示して。それとバツとしてこのノートにすべて、「サチ子。世界一愛してる。」と心をこめた、きれいな字でびっちりかいて。誠意がみとめられたら今回だけはゆるしてあげます。また浮気したら今度はもっときびしくするからね。わかった。」
 岡本君「トホホ・・・。わかったよ。でも仕事もあるし、時間もかかるから、すぐにはできないよ。」
 彼女、少し考えて、
 「じゃ、二週間だけまってあげるわ。」
 岡本君は内心で、
 「やれやれ。こまったことになった。」
 と言ってため息をついた。

 彼女はよろずのことを岡本君にいいつけるようになった。無条件降伏の立場を感じていた岡本君は、それに従うしかなかった。し、実際従った。彼女はだんだん、これからの結婚生活において、有利な条件を自分が手に入れたことに気づきだした。そして又、彼女は、自分の方から許しを求めず、それをすべて彼女の心に委ねている彼のまじめさに、いとおしさ、を感じるようになりはじめた。だが有利な条件を簡単に手離す気にはならなかった。狡知が彼女にめばえた。
 そんなある日曜日の様子。
 夕御飯は彼女がつくってくれたのだが、彼女に命じられて食器洗いをしている岡本君に、ゴロリと横になってテレビをみながら、ふりむきもせず、
 「ねえ。あなた。おわったら肩もんで。こってるんだから。」
 岡本君は肩を揉みながら思うのであった。
 「トホホ。何でオレこんなことしなくちゃならないんだろう。なんでこんな女と結婚しちゃったんだろう。結婚を申し込んだ時は、無垢な少女のように恥じらいながら、もじもじして「一生、何を言われても最善をつくすようがんばります。」と言ったが、あれはいったい何だったのだろう?それなのにオレが彼女のいうことをきいてれば手をかけた料理をつくって頬杖しながらニコニコして「ねえ。あなた。どう。おいしい?」などと言って本当に幸福そうな顔してる。」
 「ひょっとしてオレはだまされてしまったのかもしれない。」
 と、岡本君は思い、いたたまれなくなって外へとびだし、駅前ののんべえ横丁の飲み屋へ行って安酒をあおり、
 「オレは彼女のおもちゃじゃなーい。」
 と大声で一人どなるのであった。そして酒のいきおいをかりて、一大決心し、
 「よーし。もーガマンの限界だ。今日こそは白黒つけるぞ。」
 と、言って家へひき返し、
 「やい。サチ子。お前はオレをだましたんだろう。ほんとうのことを言え。おれは腹をきめている。お前がほんとうのことをいわないならばオレはお前と離婚する。」
 と問い詰めた。すると彼女は途端につつましく正座した。
 「そ、そんな。だます・・・なんて。ひどいわ。そんなふうにわたしを思っていたなんて、いくらなんでもひどいわ。ふつつかで、いたらない所は多くあるでしょうが、私なりに精一杯、努力しているつもりです。」
 と言って涙をポロポロこぼすのであった。
 「ひどいわ。だましたなんて。あんまりだわ。」
 彼女は何度も、くり返しながら泣きじゃくるのであった。そんな彼女をみていると岡本君はだんだん自分がひどいことを言って彼女を傷つけてしまったように思い、後悔し、
 「わかった。オレがわるかった。うたがってすまなかった。だからもう泣くのはやめてくれ。」と彼女の肩に手をかけていうのであった。すると彼女は、おそるおそる「ホント?」と言って目を上げた。
 「ああ。ホントだとも。」
 「もう離婚するなんていわないでくれる?」
 「ああ。いわないよ。」
 すると彼女の涙はピタリととまった。彼女は居間を出た。なにやら机でゴトゴト音がする。しばししてパタパタと早足に彼女はもどってきた。便箋とボールペンと印鑑と朱肉をもっている。彼女は、それらを机の上に置き、
 「じゃ、こう書いてくれない。」
 とモジモジして彼女が書いたらしい文をそっとだした。それにはこう書かれてあった。 「私、岡本○○はもう二度と自分から、妻サチ子と離婚したいなどとはいいません。もし、自分の意志で離婚を願い出るのであれば、自分の財産はすべて、妻サチ子にゆずり、生活の保障として毎月、収入の六割を妻サチ子に支払います。」
 岡本君が「何でこんなことまでしなきゃいけないの?」と聞くと、彼女は真面目な口調で、 「私たちの愛ってこわれやすく、弱いでしょ。だから今もう一度、私たちの愛の永遠性を誓いあいたいの。」
 と目をかがやかせていう。岡本君は、何かへんだなーと思いながらも、ことば通りを書いて、印を押すのであった。
 でもこんな様子は一日だけ。彼女はまたしても、もとのような態度になった。岡本君は、とうとう本当に彼女の本心がわからなくなってしまい、それを知ろうと一計を案じた。
 それはこうである。
 大学の時、彼女と親しかった、堀順子・・・に自分の留守中に家に来てもらう。サチ子は順子には何でもはなすだろう。バックにテープレコーダーを入れておいてもらってサチ子に気づかれないように二人の会話を録音してもらい、動かぬ証拠をとるのだ。 はたして、それは実行された。順子は、近くに来たからついでによってもいい・・・と聞いて、岡本君の家にきた。ひさしぶりに会ったよろこびから、二人の会話は、はずんだ。順子はさりげなく言った。
 「いいわねえ。サチ子、岡本君と結婚できて・・・。彼にあこがれてた子、多かったのに。私もそうだったわ。うらやましいわ。」
 これはサチ子の優越感をくすぐった。
 サチ子は自慢げに言った。
 「そうでしょ。彼は私だけのものよ。一生ね。」
 「でも彼、結婚しててももてるわよ。そうしたらどうする?」
 「ダーメ。そんなことゆるさないわ。ちょっとでも他の人と親しくしたら、きびしくおしおきしてやるの。」
 「でも彼だって人がいいけど、そんなことしておこらない?」
 「ダイジョーブよ。あの人、頭わるいもん。ちょっと涙みせればすぐ信じちゃうわ。」 彼女は自分の狡猾さを思う所無く自慢した。
 二人はその後、話題をかえ、少しはなしたのち、学生時代と同様、バーイ、といってわかれた。
 その日、彼女はうかれた気持ちで、ダンナさまが帰ってくるのをまっていた。夕方から小雨がふりだした。
 チャイムがなった。
 「おかえりなさい。今日は、あなたの大好きなビーフシチューよ。」
 と、いつも以上の笑顔で言った。
 だが様子が変である。
 岡本君は今まで一度もみせたことのない険しい表情で彼女をジロリとニラミつけたのち、だまって上がっていった。このはじめてみる岡本君の態度に彼女は少し、不安を感じだした。
 「ねえ。あなた。どうしたの。」
 といっても岡本君は何もいわない。
 「おふろを先にしますか。食事を先にしましか。」
 と聞いてもこたえてくれない。
 岡本君は上着をぬぎすてて、食卓についた。そして彼女をひとニラミした。彼女は、おそるおそるテーブルについた。シチューの鍋はさめるのを警告するかのごとくカタカタ音をならしている。雨の音がはげしくなった。
 岡本君はだまってカバンからテープレコーダーを出した。それは、今日のサチ子と順子の会話だった。話が大事なところへきた。それもすべて録音さていた。岡本君は彼女をニラミつけている。彼女の顔からみるみる血の気がひいた。そしてワナワナ、ガクガクふるえだした。岡本君はテープをきった。そしてどなりつけた。
 「おい。サチ子。何とかいってみろ。このおおうそつき女!!このサギ師。オレはお前と離婚する。お前なんかに慰謝料をやる必要なんかない。それとも、このテープをおれとお前の両親にきかせてやろうか。どっちが正しいか、きいてみようじじゃないか。」
 彼女はただワナワナ、ガクガクふるえているだけである。
 「えっ。オイ。何とかいってみろ。」
 岡本君はシチューの鍋をおもいっきり床へたたきつけた。
 「何が永遠の愛だ。人をバカにしやがって。」
 彼女は無力感にうちひしがれてしまっている。だまっている彼女に、
 「エッ。オイ。何とかいってみろっていってるんんだ。」
 とどなりつかた。
 彼女は目からポロポロなみだをこぼしだした。
 「フン。その手はもうくわん。このペテンおんな。」
 彼女は、ますます泣きながら、
 「ゴメンなさい。かるはずみなことをいってしまって。でもあなたを愛している気持ちは本当です。」と訴えた。
 「フン。もうオレはお前の口車には二度とのせられないぞ。」
 彼女は答えられない。
 「でてけ。今すぐでてけ。お前の顔などもうみたくない。」
 と言って岡本君は一万円札を卓上にたたきつけた。でも彼女は、うつむいたまま動けない。業を煮やした岡本君は一万円札を彼女のポケットにつめこみ、腕をつかんで彼女を無理矢理立たせた。そして彼女を玄関まで荒っぽく連れていった。岡本君は玄関をあけると、降りしきる雨の中へ、彼女をつきとばした。そして靴と傘を放りだした。いかりを込めて戸を閉めてカギをかけた。岡本君はテーブルについた。箪笥の上にのってる結婚式の二人の笑顔の写真が目についた。無性に腹がたって、写真をとりだして、二人をひきさいた。それでも気がおさまらず、ズタズタにひきさいた。
 岡本君は台所から酒をもってきてのんだ。のみにのんだ。彼女のものが目につくたびに虫酸が走った。そしてそのいくつかのものを床にたたきつけた。外では雨がはげしく屋根をうっている。気づくと、もう十一時を過ぎていた。岡本君はワイシャツのまま床のついた。このうっとおしい雰囲気から、ともかくはなれたかった。彼女の実家は電車で五つはなれた所である。
 「もうとっくについているだろう。あいつは今、どんな弁解を考えてるだろう。いや、もう弁解なんかかんがえられないだろう。」全部いいきったマンゾク感、翌日が休みである安心感に酒の力が加わって、岡本君はいつしか眠りへと入っていった。外では、あいかわらず、雨がはげしく屋根をうっている。

        ☆     ☆     ☆

 岡本君が目をさましたのは翌日の昼過ぎだった。のんだわりには頭はすっきりしていた。カーテンをあけると雨はもう、すっかりやんでいた。雨上りの虹がかかっている。その美しさは岡本君の心にゆとりを与えた。岡本君は何本かタバコを吸った。
 「考えてみてば、オレもちょっといいすぎたかもしれない。あいつにとってはオレがすべてだったんだからな。あいつは嫉妬深いんだ。雨の中につきとばしたのはちょっとやりすぎだったかな。だがこれで、あいつの方でも、オレがきらいになっただろう。あとくされなくわかれられる。」 岡本君は顔を洗い、パンと牛乳の軽い食事をした。そして新聞をとりにいこうと思って玄関をあけた。すると、そこに一人の女性がうつぬいたまま正座している。全身ズブぬれである。サチ子だった。稲妻のような衝撃が岡本君の全身をおそった。しばしの間、茫然と立ちつくしたまま、彼女をみていたが、彼女は微動だにしない。しばしして、やっとわれに帰った岡本君は彼女のもとにしゃがみこんだ。彼女は、まぶたはさがっていたが、目はとじていなかった。岡本君は彼女のひたいをさわった。かなりの熱がある。
 「お前。昨日からずっとこうしていたんか?」
 岡本君が聞くと彼女は力なくうなずいた。岡本君の目から涙が急にあふれだし、とまらなくなった。岡本君は心の中で思った。
 「ああ。この女だ。おれにとって世界一の女はこの女だ。オレが一生、命をかけてまもってやらなくてはならないhのはこの女だ。」
 岡本君は彼女を力づよくだきしめた。彼女は意識がうすれ、感情もほとんどマヒしていた。ただ一言、
 「ゴ・メ・ン・ナ・サ・イ。」
 と感情のない電気じかけの人形のように言って、たおれふしそうになった。岡本君は彼女をささえ、力づよくだきしめた。
 「オレがわるかった。お前をうたがったオレがわるかった。もう二度とお前をうたがったりしないよ。お前をうたがったオレをゆるしてくれ。」
 すべてを洗いながしたかのごとく降った雨の後の日の光は、ときおりおちる庭の樹の雫を宝石のようにかがやかせていた。

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