渡辺松男研究36(16年3月実施)
【ポケットベル】『寒気氾濫』(1997年)120頁~
参加者:石井彩子、泉真帆、M・S、曽我亮子、船水映子、渡部慧子
レポーター:鈴木 良明 司会とテープ起こし:泉 真帆
297 酔えば吾が還りたくなる古典主義「ヴァルパンソンの浴女」の背中
(レポート)
フランスの十九世紀古典主義の画家アングルの描いた「ヴァルパンソンの浴女」は、背中を中心に背後の裸体が描かれている。そこには、装飾性やあからさまな官能性ではない、簡素で穏やかな女体のやさしい雰囲気がただよっており、構図の面から、「泉」(正面から立ち姿の裸体)や「オダリスク」(横たわり背後を見せる裸体)と比べても古典主義的な厳粛さがある。酔った作者は、いつもながらそこに還りたくなるのだが、もしかすると愛妻のことを思っているのかもしれない。(鈴木)
(当日発言)
★酔わなくてもいつも、何か自分が安らぐものを体のどこか脇において持ってらっしゃる作
者じゃないかなと。たまたまこの「ヴァルパンソンの浴女」っていうのを出しただけで、
まだ何かいっぱい自分の心が安らぐものをお持ちの方と拝察しました。(船水)
★酔うことによって時代をぽーんと飛んで、古典の時代、昔の時代へ還る。古典主義がとて
も大事なところだと思いました。(慧子)
★酔うと人って官能的になる。でクラシックに還るというか、例えば現代音楽よりもバッハ
が良いとか。そんなクラシックで、しかも「浴女」。絵はその背中の線が非常に奇麗で。
そういったところに還りたくなるという酔った勢いの官能的な気分が出ている。(レポー
トにある)愛妻のことを思っている、だと有り難いですね。(石井)
★松男さんは古典主義者。だから何かがあると古い世界の穏やかな絵を好む。あからさまに
前を見せるような絵じゃなく、背中を見せる穏やかな絵を好んでいる感じですね。
(曽我)
★この連作の最後に、299番「家族ああきのうとまったく同位置にポットはありて押せば
湯が出る」があるし、「ヴァルパンソンの浴女」にはあたたかなオフクロさん的なイメー
ジがあったので、「還りたき」は帰巣本能みたいなものかと。(真帆)
★295番の「残業を終えるやいなや逃亡の火のごとく去るクルマの尾灯」も家に帰ろうと
している。これが次の歌は「還る」。(慧子)
★一連で「去る」とか「還る」とか「逃亡」とか。うまく納めましたね。(石井)
★家に帰りたいんですねえ。(慧子)
★男性の特権ですね、この帰るところが。(M・S)
★港なんですかね。(船水)
★酔ったら還りたくなるというこの「還り」という字を使いたくなる気持は女性だって分
る。女の人だって、酔って官能的に本能的なところに還りたいような、ありますよね。こ
れはそれを表しているような感じがします。(慧子)
★しっくり行きますね。ひょっとしたら動くのかもしれないけど、やはり松男さんの本音と
いうのか、表現されていますね。なにかすごい時空を含んでいるような感じがします、こ
の歌で。この「還りたい」という字でね。(慧子)
★296番「酔い痴れてわれらスナック去りしあとタガログ語にて罵倒されいん」の後にあ
るということは、これは、言い訳なんですよ。296番だと、酔い痴れて罵倒されてい
る、スナックで何したのって話になる訳ですよ。でそのときに、そんな変なことしてな
いよ、それで罵倒されたんじゃあないよ、ということを297番で詠ってないと、あとで
奥さんから何言われるか分んないでしょ。(鈴木)
★(一同笑)
★奥様のための歌集かしら。(石井)
★そこまで極端じゃあないけど、気持はありますよね。(鈴木)
★じゃあ恐れ入りますが質問です。鈴木さんはこの例えば、吾が還りたくなる……何を
お入 れになりますか?(船水)
★それは、酔ってみないと分らないですね。(鈴木)
★そこがね、人それぞれ違いますものね。(M・S)
★わたしは無に還りたい。(鈴木)
(後日発言)
アングルは、正確には「新古典主義」の画家ですね。「ヴァルパンソンの浴女」は穏やかな官能性を持つとか評されているけれど、どちらかといえばお母さんの背中、のような安定感を感じる。酔った〈われ〉が還っていきたいのは、そういうお母さん的な安堵感ではないか。(鹿取)
【ポケットベル】『寒気氾濫』(1997年)120頁~
参加者:石井彩子、泉真帆、M・S、曽我亮子、船水映子、渡部慧子
レポーター:鈴木 良明 司会とテープ起こし:泉 真帆
297 酔えば吾が還りたくなる古典主義「ヴァルパンソンの浴女」の背中
(レポート)
フランスの十九世紀古典主義の画家アングルの描いた「ヴァルパンソンの浴女」は、背中を中心に背後の裸体が描かれている。そこには、装飾性やあからさまな官能性ではない、簡素で穏やかな女体のやさしい雰囲気がただよっており、構図の面から、「泉」(正面から立ち姿の裸体)や「オダリスク」(横たわり背後を見せる裸体)と比べても古典主義的な厳粛さがある。酔った作者は、いつもながらそこに還りたくなるのだが、もしかすると愛妻のことを思っているのかもしれない。(鈴木)
(当日発言)
★酔わなくてもいつも、何か自分が安らぐものを体のどこか脇において持ってらっしゃる作
者じゃないかなと。たまたまこの「ヴァルパンソンの浴女」っていうのを出しただけで、
まだ何かいっぱい自分の心が安らぐものをお持ちの方と拝察しました。(船水)
★酔うことによって時代をぽーんと飛んで、古典の時代、昔の時代へ還る。古典主義がとて
も大事なところだと思いました。(慧子)
★酔うと人って官能的になる。でクラシックに還るというか、例えば現代音楽よりもバッハ
が良いとか。そんなクラシックで、しかも「浴女」。絵はその背中の線が非常に奇麗で。
そういったところに還りたくなるという酔った勢いの官能的な気分が出ている。(レポー
トにある)愛妻のことを思っている、だと有り難いですね。(石井)
★松男さんは古典主義者。だから何かがあると古い世界の穏やかな絵を好む。あからさまに
前を見せるような絵じゃなく、背中を見せる穏やかな絵を好んでいる感じですね。
(曽我)
★この連作の最後に、299番「家族ああきのうとまったく同位置にポットはありて押せば
湯が出る」があるし、「ヴァルパンソンの浴女」にはあたたかなオフクロさん的なイメー
ジがあったので、「還りたき」は帰巣本能みたいなものかと。(真帆)
★295番の「残業を終えるやいなや逃亡の火のごとく去るクルマの尾灯」も家に帰ろうと
している。これが次の歌は「還る」。(慧子)
★一連で「去る」とか「還る」とか「逃亡」とか。うまく納めましたね。(石井)
★家に帰りたいんですねえ。(慧子)
★男性の特権ですね、この帰るところが。(M・S)
★港なんですかね。(船水)
★酔ったら還りたくなるというこの「還り」という字を使いたくなる気持は女性だって分
る。女の人だって、酔って官能的に本能的なところに還りたいような、ありますよね。こ
れはそれを表しているような感じがします。(慧子)
★しっくり行きますね。ひょっとしたら動くのかもしれないけど、やはり松男さんの本音と
いうのか、表現されていますね。なにかすごい時空を含んでいるような感じがします、こ
の歌で。この「還りたい」という字でね。(慧子)
★296番「酔い痴れてわれらスナック去りしあとタガログ語にて罵倒されいん」の後にあ
るということは、これは、言い訳なんですよ。296番だと、酔い痴れて罵倒されてい
る、スナックで何したのって話になる訳ですよ。でそのときに、そんな変なことしてな
いよ、それで罵倒されたんじゃあないよ、ということを297番で詠ってないと、あとで
奥さんから何言われるか分んないでしょ。(鈴木)
★(一同笑)
★奥様のための歌集かしら。(石井)
★そこまで極端じゃあないけど、気持はありますよね。(鈴木)
★じゃあ恐れ入りますが質問です。鈴木さんはこの例えば、吾が還りたくなる……何を
お入 れになりますか?(船水)
★それは、酔ってみないと分らないですね。(鈴木)
★そこがね、人それぞれ違いますものね。(M・S)
★わたしは無に還りたい。(鈴木)
(後日発言)
アングルは、正確には「新古典主義」の画家ですね。「ヴァルパンソンの浴女」は穏やかな官能性を持つとか評されているけれど、どちらかといえばお母さんの背中、のような安定感を感じる。酔った〈われ〉が還っていきたいのは、そういうお母さん的な安堵感ではないか。(鹿取)
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