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デンマンのブログ

デンマンが徒然につづったブログ

霊仙はなぜ毒殺されたの?

2016-01-20 14:41:54 | 日本史

 

霊仙はなぜ毒殺されたの?

 


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デンマンさん。。。 “霊仙(りょうせん)”というのは日本人のお坊さんでござ~ますか?


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そうです。。。

そのお坊さんはタイで托鉢(たくはつ)をしてペットのトラと食事を分け合って食べたのでござ~ますか?

いや。。。 そういう話は聞いてません。

それなのに、どういうわけでトラと食事を共にしているお坊さんの写真を貼り出したのでござ~ますか?

“霊仙(りょうせん)”がお坊さんだということを示すためですよ。

。。。で、このお坊さんが“マクベス”と関係あるのでござ~ますか?

いや、“霊仙”とマクベスは全く関係ありません。

それなのに、どうしてマクベスの血なまぐさい写真を貼り出したのでござ~ますか?

“霊仙”というお坊さんは 可哀想にも中国で毒殺されてしまったからですよ。

どうして中国で毒殺されたのですか?

だから、卑弥子さんも上の血なまぐさい写真を見れば そのような疑問を持つだろうと思ってマクベスの写真を貼り出したのですよ。

でも。。。、でも。。。、おばさんパンツを穿いた あたくしのセクシーな写真を貼りだしたのには、どのような理由があるのでござ~ますか?

あまり血なまぐさい話を強調すると、ネット市民の皆様が他のブログへ飛んでしまうと思ったので、卑弥子さんのセクシーなおばさんパンツ姿を貼り出したわけです。 (微笑)

つまり、あたくしのセクシーな姿でネット市民の皆様の気を惹こうとしたのでござ~ますか?

そうですよ。。。 卑弥子さんの魅力を借りたのです。 (微笑)

そういう事ならば、納得できますわァ。。。うふふふふふ。。。 でも。。。、でも。。。、そもそも、どういうわけで“霊仙”というお坊さんを持ち出してきたのですか?

実は夕べ、バンクーバー市立図書館で借りていた本を読んでいたら次の箇所に出くわしたのですよ。


霊仙(りょうせん) ?-826?


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出身不明、 興福寺の僧。

804年、 最澄・空海と同じ年の遣唐使船で入唐、 810年には般若三蔵について心地観経を訳している。

日本人僧で漢語・梵語に通じて訳場にあり、三蔵号を有したのは恐らく霊仙だけだろう。

憲宗の内供奉となり大元帥秘法を修し、長く五台山に住した。

嵯峨天皇は金百両を贈り、霊仙は仏舎利一万、新訳経典を答礼として渤海使節に託して送っている。

825年から828年の間に、五台山霊境寺の浴室で毒殺されている。


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(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)





(so003.jpg)

479ページ 『仏教の事典』
編集者: 末木文美士 下田正弘 堀内伸二
2014年6月25日 初版第2刷発行
発行所: 株式会社 朝倉書店




あらっ。。。 あの有名な最澄と空海というお坊さんと一緒に唐に出かけたのですわねぇ~。。。 でも、霊仙というお坊さんのお名前はこれまでに一度も聞いたことがありませんわァ。



実は、僕もこれまでに ずいぶんと歴史の本は読んだのだけれど、記憶になかったのですよ。

それで、このお坊さんの事に興味を持ったわけでござ~ますか?

そうです。。。 あのねぇ~、ちょっと調べただけでも、霊仙という人物は もしかすると最澄や空海をしのぐ人物だったかもしれないのですよ。

それは、どういうわけでござ~ますか?

霊仙は空海より15才年上だった。 南都の興福寺で法相を修めた学僧だったのですよ。 日本人僧で漢語・梵語に通じて訳場にあり、三蔵号を有したのは恐らく霊仙だけだろうと書いてあるけれど、梵語というのはサンスクリット語のことです。 古代インド・アーリア語に属する言語で古典語として、南アジアだけでなく東南アジアにおいても用いられていた。 今でも、この言葉を話している人たちが居ます。

その言葉を霊仙は中国で勉強したのでござ~ますか?

いや。。。 語学に関する限り、最澄と空海とは比べ物にならないほど出来たのですよ。 空海が唐に渡ったのは31歳のときだから その時、霊仙は46歳ですよ。 つまり、それまでに南都の興福寺でインドからの渡来僧からサンスクリット語を学んでいたはずです。

その証拠でもあるのでござ~ますか?

あのねぇ~、霊仙は入唐してから6年後の810年に『大乗本生心地観経』の筆受と訳語をつとめたのです。 当時の中国では仏教の経典の翻訳の仕事は国家事業だった。 一人の人物が辞書だとか参考書を調べて翻訳するわけじゃない。


中国の翻訳国家事業


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隋の煬帝(在位604-617)が洛陽上林園に訳経院を、唐の太宗(在位626-649)は玄奘のために長安大慈恩寺に翻経院を、同じく唐の中宗(在位683-710)は義浄のために大推薦福寺に翻経院をを建てている。

翻訳現場の分業体制は訳場列位(スタッフ・キャストの一覧表)をみればわかる通り、梵語原典を読む「読梵文」、梵文が漢文に正確に訳されているかを検討する「証(梵)文」、同じく訳語の語義考証に当たる「証義」、単語の正確を損なわず明快な文章に仕立てる「潤文」、漢訳文を確認しながら筆写する「筆受」、音写文字の吟味をする「正字」、さらに全体を俗人の役人「監護」が監督する。

大蔵経の翻訳とは僧俗の組織をあげての国家事業なのであって、現代のように辞書や資料を参照しつつ個人がする仕事ではなかったのである。




469ページ 『仏教の事典』




サンスクリット語で書かれたインドの経典を漢語に訳すには中国に渡ってから6年勉強したぐらいでは無理です。 つまり、入唐する前に奈良のお寺でインドからの渡来僧からサンスクリット語を学んでいたわけです。



でも、それは あくまでもデンマンさんの推測でしょう?

いや。。。 もし、6年ぐらい勉強した程度で漢語と梵語をマスターできたら、霊仙以外にも「三蔵法師」の称号を取得した日本人留学僧が居たはずですよ。

その「三蔵法師」の称号というのは取得するのが難しいのでござ~ますか?

今で言えば「ノーベル文学賞」をもらったぐらい素晴らしい事だった。

マジで。。。?

『大乗本生心地観経』の筆受と訳語をつとめた翌年、つまり、811年に憲宗皇帝が「三蔵法師」の称号を霊仙に贈った。 その事を祝って天長2年(825)に淳和天皇が黄金を贈ったほどですよ。

。。。で、いったい どういうわけで霊仙三蔵法師は毒殺されてしまったのでござ~ますか?

あのねぇ~、霊仙はその翻訳の業績が認められて憲宗皇帝の外護を受けるほどの立場をえたのです。。。 でもねぇ~、“人間万事塞翁が馬”。。。 良い事ばかりは続かない、不幸なことに その憲宗皇帝が反感をもつ勢力に暗殺されてしまったのですよ。



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即位後は宦官の勢力に対抗するために杜黄裳を登用した。
さらに地方の節度使勢力を抑制するため、817年(元和12年)には淮西節度使を討って地方の統制強化も実施している。

対藩鎮勢力の施策としては、儒者の臣を藩帥に任命し、監査任務を主とする監軍には宦官を配し、節度使勢力の動静を監視させる制度を開始した。

さらに名臣と謳われた武元衛や李吉甫らにも恵まれ、軍備を拡張した禁軍を積極的に活用した結果、唐王朝に反抗的であった河朔三鎮も服従を誓い、衰退した唐は一時的な中興を見た。

だが、太子に立てられた長男の王・李寧(恵昭太子)が19歳で早世すると、憲宗はその悲しみから仏教や道教に耽溺するようになった。
法門寺の仏舎利を長安に奉迎することを計画し、韓愈の「論仏骨表」による諫言を退け、莫大な国費を費やして供養を行なった。

また丹薬を乱用し宦官を虐待するという精神的異常をきたした。
そのため820年に宦官の王守澄や陳弘志らによって43歳で暗殺されてしまった。




出典: 「憲宗 (唐)」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




あらっ。。。 霊仙さんは その巻き添えを喰らったのでござ~ますかァ?



いや。。。 それまでにも霊仙の功績や名声を妬む者が居た。 だから、霊仙三蔵法師は警戒をしていたわけですよ。。。 暗殺が起きそうな不穏な動きを感じ取った霊仙和尚は五台山に逃げた。

それでも、しつこく霊仙和尚を亡き者にしようとした人たちが居たのでござ~ますか?

そうなのですよ。。。 いつの世にも“出る釘は打たれる”のですよ。

でもデンマンさん。。。 それは誤用です。 “出る杭は打たれる”と言ってくださいましなァ~。

とにかく、“坊主憎けりゃ袈裟まで憎い”と言いますからねぇ~。。。

つまり、逆恨みされたわけなのでござ~ますかァ?

そうなのですよ。。。 827年、霊仙の功績や名声を妬む僧により五台山の南の霊境寺の浴室で毒殺されたのです。 68歳の生涯でした。

どうして、その事件が明るみに出たのでござ~ますかァ?

開成5年(840年)、第十七次遣唐使船で入唐をした円仁が霊境寺でその最期の様子を聞いたのです。

でも。。。、でも。。。、不穏な動きを察していたならば、どうして日本へ脱出しなかったのでござ~ますか?

あのねぇ~、最澄と空海は相次いで帰国したのですよ。 霊仙も最澄や空海のように日本へ帰りたかったのです。 でもねぇ~、幸か不幸か霊仙は卓越した才能によって憲宗皇帝に名誉な“三蔵法師”の称号を贈られた。 

その称号を携(たずさ)えて日本へ帰ればよかったではござ~ませんかァ!

でも、帰れなかった。

どうして。。。?

再三の帰国願いを提出したのだけれど、その許可が出なかった。

どうしてでござ~ますか?

あのねぇ~、霊仙は憲宗皇帝にその学識と才能を認められ 寵愛を受けていた。。。 しかも、“大元帥法の秘法”までも受けていた。。。 そのため、仏教の秘伝が国内から失われることを恐れた憲宗皇帝によって日本への帰国を禁じられていたのですよ。

それで五台山に隠れているうちに毒殺されてしまったのですか?

そうです。。。

それほどの偉大な人物が、どうして歴史の教科書に載っていなかったのでござ~ますか?

あのねぇ~、大正時代の初めに京都大学の内藤教授が石山寺で経文を調べていたら霊仙を発見したというのです。。。 つまり、1000年以上の時を経て霊仙三蔵法師のことが分かったというのです。

“去る者は日々に疎(うと)し”と申しますが、中国で毒殺されると、日本人の関心も引かずに 忘れ去られてしまったのでしょうねぇ~。。。

そういうことですよ。。。 南無阿弥陀仏。。。 南無阿弥陀仏。。。



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桓武天皇のママがネットで(PART 1)

2015-08-08 11:26:44 | 日本史

 

桓武天皇のママがネットで(PART 1)

 


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デンマンさん。。。 どういうわけで急に“桓武天皇のママ”を持ち出してきたのでござ~♪~ますかァ~?


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あのねぇ~、たまたま夕べ、ライブドアの僕の『徒然ブログ』のアクセス解析のリストを見ていたら、“桓武天皇のママ”が出てきたのですよ。

どのように出てきたのでござ~ますか?

次のリストを見てください。


(liv50808b.png)

『拡大する』



これは『徒然ブログ』の8月1日から8日までの「リンク元URL」のリストですよ。。。 赤枠で囲んだ 15番に注目してください。



あらっ。。。 BING で検索して『桓武天皇のママ』を読んだのですわねぇ~。。。

そうです。。。 次の記事を読んだのですよ。


(liv30110e.png)

『実際の記事』



。。。で、どのようなキーワードを入れて検索したのでござ~ますか?



15番のURLをクリックすると次の検索結果が出てくるのですよ。


(bin50808a.png)

『現時点での検索結果』



あらっ。。。 「ござが天皇」と入れて検索したのでござ~ますわねぇ~。。。



そうなのです。。。

でも「ござが天皇」というのは 日本の長い歴史の中にも おりませんわァ~。。。 『ウィキペディア』で調べても出てこないのでござ~ますう。


(wik50808a.png)

『実際のページ』



あれっ。。。 卑弥子さんはよく知ってますねぇ~。。。?



その程度のことは日本人の常識でござ~ますわァ。

じゃあ、検索した人は何と言う天皇と勘違いしたのですか?

“ござが天皇”ではなく“ごさが天皇(後嵯峨天皇)”ですわよう。。。


(wik50808b.png)

『実際のページ』



さすがに京都の女子大学で腐女子たちに「日本文化と源氏物語」を教えている橘卑弥子・准教授ですねぇ~。。。



このようなところで煽(おだ)てないでくださいましなァ~。。。 んで、デンマンさんは実在しない“ござが天皇”について記事を書いたのでござ~ますかァ?

実在しない天皇の事で記事を書けるはずがないじゃありませんかア!

でも、検索結果のトップにデンマンさんの記事が出ているではござませんかァ~。。。!

あのねぇ~、BING の検索エンジンのプログラムが不完全なのですよ。。。 もう一度 僕のページの表示を見てください。


(bin50808b.png)



青丸で囲んだところに注目してください。。。 合わせると“ござが天皇”になるのですよ。



それでデンマンさんが書いた『桓武天皇のママ』という記事をトップに表示したのですか?

そうですよ。。。 つまり、人間が調べれば間違いにすぐ気づくのだけれど、検索エンジンのプログラムが不完全なので こういう結果になったわけですよ。

信じがたいことですわねぇ~。。。 んで、“ござが天皇”を入れてGOOGLEで検索すると どうなるのでござ~ますか?

検索してみましたよ。。。 その結果を見てください。


(gog50808a.png)

『現時点での検索結果』



さすがは GOOGLE でござ~ますわねぇ~。。。 間違ってデンマンさんの『桓武天皇のママ』を表示していませんわねぇ~。。。 んで、「桓武天皇のママ」を入れて検索すると、どうなるのでござ~ますか?



検索してみましたよ。。。 その結果を見てください。


(gog50808b.png)

『現時点での検索結果』



あらっ。。。 アメブロに投稿した『桓武天皇のママ』がトップに表示されるのですわねぇ~。。。 でも、どうしてライブドアの『徒然ブログ』に投稿した記事ではないのでござ~ますか?



『徒然ブログ』に投稿した『桓武天皇のママ』を見てみると、サイドバーが表示されてないのですよ。。。 でもねぇ~、アメブロの記事にはサイドバーが出てくる。。。 つまり、それだけ多くの語句が出てくるので、検索にひっかかる確率が高いのですよ。

。。。で、桓武天皇のママは、どのような人なのでござ~ますか?

あのねぇ~、上の検索結果の中にも「“桓武天皇のママ”は朝鮮人だったというのは本当ですか?」。。。と驚いている人がいるのですか?


(gog50808b2.png)



たぶん、この驚いている人は“ネトウヨ”かもしれませんわねぇ~。。。 んで、「Yahoo!知恵袋」では、どのように回答しているのでござ~ますか?



卑弥子さんのために、ここに書き出しますからじっくりと読んでみてください。


 (すぐ下のページへ続く)



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かぎろいミステリー(PART 1 OF 4)

2015-04-04 14:15:12 | 日本史

 

かぎろいミステリー(PART 1 OF 4)

 


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デンマンさん。。。どうして「かぎろい」を持ち出してきたのですか?


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あのねぇ~、夕べ、たまたま『なぜ万葉集は古代史の真相を封印したのか』という本を読んだのですよ。

それが「かぎろい」と関係あるのですか?

もちろんですよ。 その本の中で柿本人麻呂が詠んだ、あの有名な「かぎろい」の歌が出てきたのです。

それで、今日「かぎろい」を取り上げる気になったのですか?

そうです。。。 小百合さんも柿本人麻呂が詠んだ、あの有名な「かぎろい」の歌を読んでみてください。


人麿が見た「かぎろい」とは何か

『万葉集』巻(まき)1の48番に柿本人麿(かきのもとひとまろ)の有名な「かぎろい」の歌がある。

東(ひむがし)の

野に炎(かぎろひ)の

立つ見えて

かへり見すれば

月傾(かたぶ)きぬ


歌意は「東方の野には曙(あけぼの)の光がさしそめるのが見えて西を振りかえると月が傾いて淡い光をたたえている」(『万葉集』日本古典文学大系、岩波書店)というものだ。 ここで「かぎろひ」は「曙の光」とあるが、人麿が見たのはどんな現象なのだろうか。


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「かぎろい」は『古語辞典』(岩波書店)では、まず「揺れて光る意。 ヒは火。 炎」とあり、また「立ちのぼる水蒸気に光があたり、光がゆらめいて見えるもの」とし、「陽炎(かげろう)、地面が熱せられたときに見られる」の意をあげている。

さて日の出前には日中われわれがよく見る陽炎のようなものは出現しないので、「陽炎説」は成立しない。 「かぎろい」は万葉集では「炎」という字があてられていることに注目したい。 「かぎろい」にはこれまで天文学的に意味のある説が二つある。

その一つは、戦前、中山正実画伯が「かぎろい」にちなむ大作「阿騎野(あきの)の朝」を描くにあたってなされた考証にもとづくものである(中山説)。 それによれば柿本人麿の「かぎろひ体験」は、場所(東経135°.9、北緯34°.4)だけでなく、日時をも特定できるという驚くべき説で、持統天皇の朱鳥(しゅちょう)6年11月17日(ユリウス暦ではA.D.692年12月31日)、午前5時50分(日本標準時、日の出前約1時間)、月は望(満月)をわずかに過ぎて西の地平線の上10°の高さにあったという。 中山説はこのときの東の空の現象が「かぎろい」だとするものである。

もう一つは黄道光(こうどうこう)説である。 黄道光とは、太陽系の地球の公転軌道の付近に分布している固体微粒子が太陽光を受けて散乱しているものである。 この説を提唱している斉藤国治氏によれば、古天文学にもとづき、「かぎろひ」とは、季節は黄道光がもっとも見えやすい秋の朝とし、東の空に「舌」のような形で、日の出約1時間前に「立って見える炎状の光体」という形であらわれるというものである。

この二つの説はどちらも、主要点として「かぎろひ」は日の出前1時間の東の空の現象としているが、この日の出現象という一連の過程からみると、つぎのような疑問がわいてくる。 日の出前1時間というのは、日本列島の地理的位置を考慮すると、平均して太陽が地平線下12°にあるときということになる。 そのころ、東の空では薄明がはじまってはいるものの、よほど暗く、その色もせいぜい薄く青白いという程度で、当然ながら空全体が静かで何らの動きも感じられない。 また、黄道光も実際にはぼうっとした白っぽいもので、じっとしたまま動きもなく、日本のようにしめっぽい空ではそれを見分けることさえたやすくない。 まして「炎」ないしは「炎が立つ」というような強烈な印象には欠けるように思われる。

ここで私の「曙光説」を挙げてみたい。 私にとっての「かぎろひ」とは、太陽が地平線下約8°から6°にあるあいだで、数分間持続する空の現象の動的過程である。 時間でいえば、日本の各地、季節を平均して、日の出前約40分から数分間ほどになる。 このとき、東の空では、地平線上にまさに暗黒の天と地を切り裂くように、鮮やかな赤い光の帯が真横にあらわれる。 その上に橙色や黄色の帯がつづく。 光の帯はみるみる発達して、その幅も明るさも増し、さらに空気が澄んでいるときには、東の空高く、のし上がるように高度にして50°ぐらいにもおよぶ明るい大きな円形の発光が見えることがある。 その色は透明な赤橙色ないしはサーモン・ピンクで、まさに「炎」ないしは「炎が立つ」というのはこういう光景を指すのではないかと思われる。 「かぎろい」の歌には、火のようにゆれた燃え輝くものに直面したときに湧きいでる歓喜の心情が率直に歌われていると思う。 日の出前40分ころの東の空で一瞬一瞬にあらわれる劇的な変化こそ、それにこたえうるものと思う。

(注: 赤字はデンマンが強調
写真と地図はデンマン・ライブラリーより)




17 - 19ページ 『空の色と光の図鑑』
著者: 斉藤文一・武田康男
2002年8月1日 第8刷発行
発行所: 株式会社 草思社




そもそも“かぎろい”ってぇ、どのようなものなのですか?



次の写真を見てください。


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柿本のおっさんは、こうして「かぎろい」を見ながら歌を詠んだのですよ。 おっさんのバックグラウンドに見えているのが“かぎろい”ですよ。



。。。で、今日は“かぎろい”のミステリーに迫るのですか?

そうです。 『万葉集』日本古典文学大系によると、柿本のおっさんが詠んだ歌の意味は次のようだと書いてある。


(shoko04.jpg->shoko07)

東方の野には

曙(あけぼの)の光が

さしそめるのが見えて

西を振りかえると

月が傾いて

淡い光をたたえている




デンマンさんは、この歌の解釈が気に喰わないのですか?



いや。。。人麿の歌の意味を表面的に解釈すれば、確かに上のような意味になるでしょう。 でもねぇ、はっきり言って、このような和歌ならば誰にだって詠めるのですよ。 僕は初めて上の歌を見たときから、この歌が『万葉集』に取り上げられる程に素晴らしい和歌だとはどうしても思えなかった。 小百合さんはどうですか?

私はもともと和歌には関心が極めて薄いので『万葉集』のことはほとんど知らないのですわ。 うふふふふふ。。。

やだなあああァ~。。。このような時に「うふふふふふ。。。」と言って笑って済まさないでくださいよ。 日本人のミーちゃん、ハーちゃんが国際的に一番嫌われる悪い癖ですよ。

でも、マジで上の和歌が良いものとも、ダサいものとも私には分かりませんわ。

あのねぇ~。。。、冷静になって考えてみてくださいよ。 上の和歌が素晴らしいなんて思う人は、まず居ないと思うのですよ。 もう一度上の和歌の意味を読んでみてください。


(shoko05.jpg->kaki005)

東方の野には

曙(あけぼの)の光が

さしそめるのが見えて

西を振りかえると

月が傾いて

淡い光をたたえている




何度読んでみても、とりわけ心が揺さぶられるような素晴らしい歌ではないのですよ。



それはデンマンさんの個人的な意見ですわ。

あのねぇ~、小百合さんも、もう一度マジで読んでみてくださいよ。 いったい、どこに『万葉集』に載せるほどの魅力があると言うのですか?

だから。。。いいと思った人が昔に居たのですわ。

でもねぇ、その良さを『万葉集』日本古典文学大系を書いた人は全く理解してないのですよ。 だから、月並みな説明をしているだけ。。。 しかも「東方の野に 曙の光が見えて 西を振りかえると 月が傾いて淡い光をたたえている」というような、正に月並みなことしか書いてない。 バカバカしい! こんなバカバカしいことしか書けないから、日本のミーちゃんハーちゃんは万葉集など読まないのですよ。

デンマンさんは、なんだか上の和歌の本当の素晴らしい意味が分かっているようなことを言ってますわね?

そうですよ。。。僕は上の和歌の真意を理解しているのですよ。

マジで。。。?

このような時に冗談やウソが言えますか!?

分かりましたわ。 それで、その真意って一体どのようなものなのですか?

あのねぇ~、それを説明するには、ちょとばかり歴史を知らないと理解できないのですよ。 小百合さんのためにここに書き出しますから読んでみてね。


 (すぐ下のページへ続く)



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かぎろいミステリー(PART 2 OF 4)

2015-04-04 14:13:18 | 日本史



 

かぎろいミステリー(PART 2 OF 4)



高市皇子(たけちのみこ)

生年:654年(白雉5年)?
没年:696年8月13日(持統天皇10年7月10日)

日本の飛鳥時代の人物で、天武天皇の皇子(長男)である。
後皇子尊(のちのみこのみこと)と尊称される。

672年の壬申の乱勃発時、高市皇子は近江大津京にあり、挙兵を知って脱出し父に合流した。
若年であったが美濃国の不破で軍事の全権を委ねられ、乱に勝利した。

679年に天武天皇の下で吉野の盟約に加わり、兄弟の協力を誓った。
この後には他の皇子とともにしばしば弔問に遣わされた。
686年に持統天皇が即位すると、太政大臣になり、以後は天皇・皇太子を除く皇族・臣下の最高位になった。

天武天皇の第一皇子で、胸形尼子娘を母とする。
母の父は胸形君徳善である。
正妃は天智天皇皇女御名部皇女(元明天皇の同母姉)で、この間の子が長屋王である。
他に子供は鈴鹿王、河内女王、山形女王。
また万葉集によれば異母妹但馬皇女が邸内にいたという。
これが事実とすると但馬皇女は高市皇子の妻または養女であった可能性がある。
また、異母姉で弘文天皇妃の十市皇女が急死した際に情熱的な挽歌を詠んだために、十市皇女に対して好意を抱いていた(または、恋人、夫婦であった)のではないかとの説もある。

壬申の乱

大海人皇子は高市皇子に、「近江朝では、左右大臣と智謀の群臣が一緒に議を定めている。今朕はともに事を計る者がない。幼少の子供がいるだけだ。どうしたものか」と言った。
高市皇子は腕まくりをして剣を握りしめ、「近江の群臣は多いといえども、どうして天皇の霊に逆らえますか。天皇独りであっても、ここに臣高市、神祇の霊を頼り、天皇の命を請け、諸将を率いて征討します。これをどうやって防げましょうか。」と答えた。
大海人皇子は誉めて高市の手をとり背を撫でて、「慎め、怠るな」といった。
そこで鞍馬を与え、軍事をすべて委ねた。

高市皇子は和蹔(わざみ)に帰り、大海人皇子は野上に行宮を作った。
和蹔は和蹔原(和射見が原)のことで、後の関ヶ原盆地を指す。
不破関はその西方の入り口、野上は東の端にある。
各地から来た大海人皇子の軍勢は、和蹔に集結して高市皇子に掌握されたと考えられる。

28日に大海人皇子は和蹔に出向いて軍事を検校して帰った。
29日にも和蹔に行き、高市皇子に命令を与え、軍衆に号令して、また野上に帰った。
日付は不明だが、6月末か7月初めに、敵の小部隊が玉倉部邑を衝いたが、出雲狛が撃退した。

7月2日、大海人皇子はそれぞれ数万の二つの軍を送り出した。
一方は伊勢から倭(大和)に向かって大伴吹負軍の増援となり、もう一方は不破から出て近江に直に入った。
これ以後の戦闘で、高市皇子の名は見えない。
近江進攻軍とともにあり、指揮の実際は諸将に委ねたとみるのが自然だが、なお和蹔にあってさらに遠方から来る軍を受け入れたとみることも不可能ではない。

7月23日に大友皇子(弘文天皇)が自殺したことで、壬申の乱は終わった。
8月25日に、大海人皇子は高市皇子に命じて、近江の群臣を処罰させた。

天武天皇の時代

乱の終結した直後、高市皇子を除く他の皇子たちはまだ幼く(最年長の忍壁皇子でも10歳前後)、天武天皇の皇親政治のもと、高市皇子が重要なポストを占めていたことは間違いないだろう。
『日本書紀』天武天皇4年(675年)11月4日の条には既に、高市皇子より以下、小錦より以上の大夫らに衣、袴、褶、腰帯、脚帯、机、杖を賜う」とある。この時点で皇族・臣下の序列としては既に最高位だったのかもしれない。

天武天皇8年(679年)5月6日に、天皇、皇后(持統天皇)、草壁皇子、大津皇子、高市皇子、川島皇子、忍壁皇子、志貴皇子は、吉野宮で互いに助け合うことを約束した(吉野の盟約)。
10日に六皇子が大殿の前で天皇を拝した。
天武天皇が自らの死後に壬申の乱のような皇位継承争いが起こることを恐れたためとされる。

この頃から高市皇子は天武天皇の皇子の中で3番目とされるようになった。

皇女を母にもつ草壁皇子、大津皇子に次ぐ。
母親の身分による序列では10人中8番目。

太政大臣

天武天皇が亡くなった直後、皇太子につぐ皇位継承資格を持つと見られていた大津皇子が謀反の罪で死刑になった。
続いて皇太子の草壁皇子が持統天皇3年(689年)4月13日に薨去した。
そのためそれまで天武天皇の皇后として政務を執っていた鸕野讚良皇女が翌年(690年)1月1日に即位した。持統天皇である。
この年の7月5日に全面的な人事異動があり、高市皇子は太政大臣に任命された。このときから薨去まで、高市皇子は皇族・臣下の筆頭として重きをなし、持統政権を支えた。

持統天皇4年(690年)10月29日、高市皇子は多数の官人を引き連れて藤原宮の予定地を視察した。

持統天皇5年(691年)1月13日、高市皇子の封が2000戸を増し、前のとあわせて3000戸になった。持統天皇5年(691年)1月4日、高市皇子の封が2000戸を増し、前のとあわせて5000戸になった。

持統天皇7年(693年)1月2日に浄広壱の位に進んだ。

持統天皇10年(696年)7月10日薨去。『延喜式』諸陵によれば墓は「三立岡墓」で、大和国広瀬郡にあり、東西6町南北4町で守戸はなし。だが、高松塚古墳の被葬者を高市皇子とする説もある。

挽歌

万葉集巻第2の199~202番に柿本人麻呂作の高市皇子への、万葉集中最長の壮大な挽歌が収められている。


(kaki004.jpg->kaki199.jpg)

ここに「高市皇子尊」「後皇子尊」と尊称されている。
この尊称から高市皇子が立太子されていたのではないかとの説がある。
また柿本人麻呂がこれほど壮大な挽歌を寄せていることから、この2人は親交があったのではないかと言われている。

高市天皇説

上記の挽歌、高市皇子の長男・長屋王の邸宅跡から発見された「長屋親王宮鮑大贄十編」の木簡、政治情勢、壬申の乱における功績、母の実家の勢力、莫大な資産などから彼が天皇であったという説もあるが、はっきりとはしていない。(参考:九州王朝説)

高市皇子の歌

•万葉集巻第2 156~158番(高市皇子作の十市皇女への挽歌)
自作の歌はこの3首のみ

(注: 赤字はデンマンが強調
写真はデンマン・ライブラリーより)




出典:
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




つまり、上の和歌の本当の意味と高市皇子が関係しているのですか?



もちろんです。 だから高市皇子の略歴を持ち出したのですよ。

もしかしてデンマンさんは高市皇子が天皇になっていたと考えているのではありませんか?

確かに、そのような説があるのですよ。 上の略歴を読んでも天武天皇の子供の中では「壬申の乱」で高市皇子が一番活躍したのです。 だから、天皇になっていたとしても不思議じゃなかった。

天武天皇の長男だったのに、どうして天皇になれなかったのですか?

高市皇子のお母さんが天皇の娘ではなかったからですよ。 母親の身分による序列では10人中8番目だった。 でも、実力はナンバーワンだった。

それで柿本人麻呂が高市皇子を尊敬していたのですか?

そうですよ。 だからこそ、万葉集の中で最長の挽歌を高市皇子のために柿本人麻呂が詠んだのです。 つまりねぇ、高市皇子を天皇にしたいと思っていた人がかなり居たということですよ。

実力主義でなかったので高市皇子が天皇になれなかったのですわね?

いや。。。そう言う訳でもない。 実際、天武天皇が天皇になたのは「壬申の乱」というクーデターによって天智天皇の長男である大友皇子を破って天皇になったのですよ。 要するに実力によって天皇になったということですよ。 だから、高市皇子が天皇になっても不思議じゃなかったのです。

でも、そうならなかったのはなぜですか?

天武天皇の第一夫人の力が強かったのですよ。 クリントン夫人のようなものです。


(hillary07.jpg)



クリントン夫人って、それほど実力があったのですか?



クリントンが大統領になたのもクリントン夫人がついていたからですよ。 夫人が居なかったらまず大統領にはなれなかったでしょう!?

。。。で天武天皇の第一夫人って誰ですか?

天武天皇のすぐ後で持統天皇になった鸕野讚良皇女ですよ。

つまり、クリントン夫人のような、でしゃばっている夫人が居たために高市皇子は天皇になれなかったのですか?

その通りですよ。 持統天皇は自分の子供に天皇になって欲しかった。 だから、自分の子供が天皇になる間だけ自分が天皇になって時間稼ぎをしたというわけですよ。

つまり、その間に柿本人麻呂を含めたグループが高市皇子を天皇にしようという動きがあったのですか?

その通りです。

でも、失敗してしまったのですか?

その通りですよ。

どうしてデンマンさんは、そうだと思うのですか?

あのねぇ、そういう動きに参加していたために柿本人麻呂は持統天皇に睨(にら)まれて左遷され、一生を棒に振ってしまったのですよ。

マジで。。。?

もちろんですよ。 柿本人麻呂の略歴を読んでみてください。


柿本人麻呂


(kaki003.jpg)

660年頃 - 720年頃


柿本人麻呂は、飛鳥時代の歌人。
名は「人麿」とも表記される。
後世、山部赤人とともに歌聖と呼ばれ、称えられている。
また三十六歌仙の一人で、平安時代からは「人丸」と表記されることが多い。

出自・系譜

柿本氏は、孝昭天皇後裔を称する春日氏の庶流に当たる。
人麻呂の出自については、父を柿本大庭、兄を柿本猨(佐留)とする後世の文献がある。
また、同文献では人麻呂の子に蓑麿(母は依羅衣屋娘子)を挙げており、人麻呂以降子孫は石見国美乃郡司として土着、鎌倉時代以降益田氏を称して石見国人となったされる。
いずれにしても、同時代史料には拠るべきものがなく、確実なことは不明とみるほかない。

彼の経歴は『続日本紀』等の史書にも書かれていないことから定かではなく、『万葉集』の詠歌とそれに附随する題詞・左注などが唯一の資料である。
一般には天武天皇9年(680年)には出仕していたとみられ、天武朝から歌人としての活動をはじめ、持統朝に花開いたとみられることが多い。
ただし、近江朝に仕えた宮女の死を悼む挽歌を詠んでいることから、近江朝にも出仕していたとする見解もある。

賀茂真淵によって草壁皇子に舎人として仕えたとされ、この見解は支持されることも多いが、決定的な根拠があるわけではない。
複数の皇子・皇女(弓削皇子・舎人親王・新田部親王など)に歌を奉っているので、特定の皇子に仕えていたのではないだろうとも思われる。
近時は宮廷歌人であったと目されることが多いが、宮廷歌人という職掌が持統朝にあったわけではなく、結局は不明というほかない。
ただし、確実に年代の判明している人麻呂の歌は持統天皇の即位からその崩御にほぼ重なっており、この女帝の存在が人麻呂の活動の原動力であったとみるのは不当ではないと思われる。
後世の俗書では、持統天皇の愛人であったとみるような曲解も現れてくるが、これはもとより創作の世界の話である。

『万葉集』巻2に讃岐で死人を嘆く歌が残り、また石見国は鴨山での辞世歌と、彼の死を哀悼する挽歌が残されているため、官人となって各地を転々とし最後に石見国で亡くなったとみられることも多いが、この辞世歌については、人麻呂が自身の死を演じた歌謡劇であるとの理解や、後人の仮託であるとの見解も有力である。
また、文武天皇4年(700年)に薨去した明日香皇女への挽歌が残されていることからみて、草壁皇子の薨去後も都にとどまっていたことは間違いない。藤原京時代の後半や、平城京遷都後の確実な作品が残らないことから、平城京遷都前には死去したものと思われる。

代表歌

•天離(あまざか)る 鄙(ひな)の長道(ながぢ)を 恋ひ来れば 明石の門(と)より 大和島見ゆ

東(ひむがし)の 野にかげろひの 立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ

•ま草刈る 荒野にはあれど 黄葉(もみぢば)の 過ぎにし君が 形見とぞ来し

•近江の海 夕波千鳥 汝が鳴けば 心もしのに いにしへ思ほゆ

また、愛国百人一首には「大君は神にしませば天雲の雷の上に廬(いほり)せるかも」という天皇を称えた歌が採られている。

官位について

各種史書上に人麻呂に関する記載がなく、その生涯については謎とされていた。
古くは『古今和歌集』の真名序に五位以上を示す「柿本大夫」、仮名序に正三位である「おほきみつのくらゐ」と書かれており、また、皇室讃歌や皇子・皇女の挽歌を歌うという仕事の内容や重要性からみても、高官であったと受け取られていた。

人麻呂にまつわる異説・俗説

その通説に梅原猛は『水底の歌-柿本人麻呂論』において大胆な論考を行い、人麻呂は高官であったが政争に巻き込まれ刑死したとの「人麻呂流人刑死説」を唱え、話題となった。
また、梅原は人麻呂と猿丸大夫が同一人物であった可能性を指摘する。
しかし、学会において受け入れられるに至ってはいない。
古代の律に梅原が想定するような水死刑は存在していないこと、また梅原がいうように人麻呂が高官であったのなら、それが『続日本紀』などになに一つ残されていない点などに問題があるからである。
なお、この梅原説を基にして、井沢元彦が著したものがデビュー作『猿丸幻視行』である。

『続日本紀』、元明天皇の和銅元年(708年)4月20日の項に柿本朝臣猨(エン、さる?)の死亡記事がある。
この柿本サルこそが、政争に巻き込まれ、皇族の怒りを買い、和気清麻呂のように変名させられた人麻呂ではないかとする説もある。
しかし、当時、藤原宇合(うまかい)・高橋虫麻呂をはじめ、なまえに動物・虫などのを含んだ人物は幾人もおり、「サル」という名前が蔑称であるとは考え難いことはすでに指摘されている。
このため、井沢元彦は『逆説の日本史』で、「サル」から人麻呂に「昇格」したと述べている。
しかし、「人」とあることが敬意を意味するという明証はなく、梅原論と同じ問題点を抱えている。
柿本サルについては、ほぼ同時代を生きた人麻呂の同族であった、という以上のことはわからないというべきであろう。

(注: 赤字はデンマンが強調
写真はデンマン・ライブラリーより)




出典:
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




上の略歴に手がかりがあるのですか?



そうですよ。 人麻呂は高官であったが政争に巻き込まれと書いてあるでしょう? 僕は人麻呂が刑死したとは思わないけれど、間違いなく政争に巻き込まれ、持統天皇ににらまれて左遷されたと思っているのですよ。

その根拠は。。。?

あのねぇ、『万葉集』を編纂したのは大伴家持なのです。 大伴家持も柿本人麻呂も日本では「歌人」として知られているけれど、当時の文人は中国の伝統に則(のっと)って、現在の感覚で言えば政治家としての活動もしていた。 その政治家としての活動の部分が日本史では取り上げられてない。 脱落している。 特に柿本人麻呂の略歴からは政治的活動はすっぽりと脱落している。

大伴家持の場合には政治的活動も略歴の中に書かれているのですか?

書かれてますよ。 だから、そのことで僕は『万葉集』は単なる歌集ではなくて、政治的批判の書であると次の記事の中で書いたことがある。



 (すぐ下のページへ続く)

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かぎろいミステリー(PART 3 OF 4)

2015-04-04 14:12:33 | 日本史






 

かぎろいミステリー(PART 3 OF 4)



(temple53.jpg)

『万葉集の謎と山上憶良』

 (2006年7月1日)



(sayuri55.gif)

つまり、柿本人麻呂が高市皇子を天皇にするための政治的活動をして、それが持統天皇の知るところになって、人麻呂は左遷されて一生を棒に振ったとデンマンさんは信じているのですか?


(kato3.gif)

そうですよ。

持統天皇はそのような事をする人なのですか?

する人なのです。 子供の頃に不幸な事件が度重(たびかさ)なってぇ心にトラウマを受け、権力に人一倍こだわるようになってしまった不幸な女性なのですよ。 その事で僕は次の記事を書いたのです。 ぜひ読んでみてください。


(bond010.gif)

『古代のある女の悲劇』

 (2006年7月3日)


『愛と怨霊』

 (2007年6月9日)


『いにしえの愛とコミュニケーション』

 (2007年1月8日)




。。。で、柿本人麻呂の詠んだ「かぎろい」の和歌は、実は、政治批判の歌だとデンマンさんはおっしゃるのですか?



その通りですよ。


(kaki104.jpg->shoko07.jpg")

 

東(ひむがし)の

野に炎(かぎろひ)の

立つ見えて

かへり見すれば

月傾(かたぶ)きぬ




上のつまらない和歌が『万葉集』の中に柿本人麻呂の代表的な歌として載せられている。 なぜだと思いますか?



どうしてですか?

万葉集を編纂した大伴家持が歴史の真相を後世の我々に知って欲しかったからですよ。

その歴史の真相ってぇ何ですのォ~?

だから、高市皇子を天皇にするための政治的活動があったということですよ。

でも、そのような事を歴史の時間に先生は言いませんでしたわ。

多分、そのような事を言った人はあまり居ないでしょうね?

でも、デンマンさんはマジで柿本人麻呂が高市皇子を天皇にする政争に巻き込まれたと信じているのですか?

マジで信じています。

。。。で、上の和歌の真意はどのようなことになるのですか?

次のようになるのですよ。



(shoko07.jpg->shoko05.jpg)

実にきれいな日の出です。
この太陽が天照大神(あまてらすおおみかみ)のシンボルです。
そしてまた女帝・持統天皇のシンボルでもある。

どうして。。。?

あなたは、きっとそう思うでしょうね。
天孫降臨(てんそんこうりん)は、天照大神(あまてらすおおみかみ)の孫である瓊瓊杵尊(邇邇藝命・ににぎ)が、葦原中国平定を受けて、葦原中国の統治のために降臨したという日本神話の説話です。
なぜ、この説話を持ち出してきたのか?と言えば、持統天皇がちょうど同じようにして孫に皇位を継がせている。
その事を正当化するために「天孫降臨」を『古事記』や『日本書紀』に書かせたことも十分に考えられます。

政治家としての持統天皇は、天武天皇から我が子の草壁皇子、そして孫の珂瑠(軽)皇子(かるのみこ)に皇位を伝えることに拘(こだわ)った。
持統天皇は草壁皇子が天武天皇の後を嗣(つ)ぐことを望み、夫に働きかけて草壁皇子を皇太子に就け、夫の死後に草壁皇子のライバルであった大津皇子を陰謀によって排除した。

天武天皇の葬礼が終わったあとに草壁皇子を即位させるつもりだった。
しかし、その実現前に皇子が死んだために、やむなく自分が即位して孫の珂瑠皇子が文武(もんむ)天皇として皇位につくまでの時間稼ぎをした。

系図で見ると次のようになります。


(keizu03.gif)

つまり、珂瑠(軽)皇子が文武(もんむ)天皇として輝く。
それが上の日の出の光景です。

でも、「壬申の乱」を見れば、誰でも高市皇子の活躍を無視するわけにはゆかない。
だから、天武天皇の長男であり、実力もナンバーワンの高市皇子が次期天皇になるのが当然だと思った人が居たとしても不思議じゃない!
その一人が柿本人麻呂だった。
高市皇子が次期天皇になるように支援し協力したのです。
だから持統天皇に睨(にら)まれて左遷されてしまった。


(kaki105.jpg->shoko07.jpg)

「かぎろい」とは太陽が昇る前の上のような光景です。


ここで私の「曙光説」を挙げてみたい。 私にとっての「かぎろひ」とは、太陽が地平線下約8°から6°にあるあいだで、数分間持続する空の現象の動的過程である。 時間でいえば、日本の各地、季節を平均して、日の出前約40分から数分間ほどになる。 このとき、東の空では、地平線上にまさに暗黒の天と地を切り裂くように、鮮やかな赤い光の帯が真横にあらわれる。

その上に橙色や黄色の帯がつづく。 光の帯はみるみる発達して、その幅も明るさも増し、さらに空気が澄んでいるときには、東の空高く、のし上がるように高度にして50°ぐらいにもおよぶ明るい大きな円形の発光が見えることがある。 その色は透明な赤橙色ないしはサーモン・ピンクで、まさに「炎」ないしは「炎が立つ」というのはこういう光景を指すのではないかと思われる。

「かぎろい」の歌には、火のようにゆれた燃え輝くものに直面したときに湧きいでる歓喜の心情が率直に歌われていると思う。 日の出前40分ころの東の空で一瞬一瞬にあらわれる劇的な変化こそ、それにこたえうるものと思う。

(注: 赤字はデンマンが強調)




19ページ 『空の色と光の図鑑』 株式会社 草思社


火のように揺れ、燃え輝いている「かぎろい」こそ、人麻呂の眼には、持統天皇の野心と陰謀に映る。
当然、人麻呂はムカついているのです。

そして、西を振りかえると月が傾いて淡い光をたたえている。
つまり、高市皇子が次期天皇になるという望みは完全に絶たれてしまった。
やがて沈んでしまう月のように。。。
要するに歌の意味は次のようになるのですよ。


東(ひむがし)の

野に炎(かぎろひ)の

立つ見えて

かへり見すれば

月傾(かたぶ)きぬ


 


(kaki003.jpg->kaki005.png)

 


ああ、何ということだ
持統天皇の野心と陰謀は
ついに、ここまで剥(む)き出しにされ
大津皇子は自殺に追いやられてしまった。

この分では高市皇子が皇位につくこともあるまい。
命を永らえることさえ危(あや)ういのだ。

高市皇子の運命は、今、まさに沈もうとする
月のようではないか…。



確かに持統天皇は野望を実現させたけれど、
まさか自分が死んだあとに、天皇の実権が藤原氏に移るとは想像もしていなかったに違いない。

庇を貸して母屋を取られる

藤原不比等は持統天皇以上の野望を胸に秘めていた。
持統天皇に協力していると見せかけて、
実は、藤原氏は天皇から実権を奪い取ろうと着々とその計画を進めていた。

天皇にはなれなかったけれど、高市皇子は実際に実力を持った人物だった。
その実力は長男の長屋王に引き継がれてゆく。


(keizu901.png)

藤原氏に対抗して天皇を中心とした政治を行おうとした長屋王は、藤原四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)の陰謀に遭って自殺しなければならなかった。
これが世に言う「長屋王の変」です。

高市皇子は持統天皇の野望に破れ
その子の長屋王は藤原氏の陰謀によって自滅しなければならなかった。
このようにして藤原氏の政権は確立されていった。




ずいぶんと長ったらしい説明ですわ。 柿本人麻呂の和歌に上のような歴史的事実が込められているという根拠があるのですか?



ありますよ。 あのねぇ~、柿本人麻呂の和歌を選んだのは万葉集・編集長の大伴家持なのですよ。 この人は万葉集の最後に自分の歌を載せている。



(yakamo3.jpg)

 

新しき 年の初めの 初春の

今日降る雪の

いやしけ吉事(よごと)


 



新しい年の始めの初春の

今日降る雪のように、

これからの世には

よい事がいっぱいありますように…。





これは天平宝字3(759)年の元旦に詠んだ歌なのですよ。 でもねぇ、大伴家持の願いとは裏腹に、このあと家持には良い事は起こらなかった。 むしろ悪い事が待っていた。



どのような。。。?

あのねぇ~、この歌を詠んでから26年後の延暦4(785)年8月28日に、大伴家持は奥州の多賀城で68歳の生涯を閉じたのです。 ところが、藤原氏は家持が死んだ後も、そっとしておいてはくれなかった。

大伴家持が亡くなってからって。。。死んでからでは何もできないでしょうに。。。

でも藤原政権はしつこいのですよ。。。翌年、京都で藤原種継(たねつぐ)暗殺事件が起きた。

その事件と大伴家持が関係あるのですか?

大いに関係がある。 権力を握る藤原氏によって大伴家持は、その事件の首謀者の一人に仕立てられてしまったのですよ。 しかも、大伴家持の遺骨は掘り返されて隠岐(おき)の島に流刑にされてしまった。

わざわざ遺骨を掘り起こして隠岐(おき)の島まで持っていったのですか?

そうなのですよ。 現在から見れば常識では考えられないような事をした。 つまり、それほど大伴家持は睨まれていた。

なぜ。。。?

だから、大伴一族は藤原氏に抵抗する集団と考えられていた。

どうして。。。?

なぜなら、大伴家持のお父さんの大伴旅人(たびと)は長屋王に協力していた。 当然のことだけれど、長屋王の父親・高市皇子や、その協力者・支援者だった柿本人麻呂の事なども大伴家持は、お父さんの旅人から聞かされていた。

つまり、大伴家持は柿本人麻呂が高市皇子を天皇にしようという政治活動に参加していたこと、それがもとで持統天皇に睨まれて左遷されてしまった事などをお父さんの旅人から聞かされていたとデンマンさんは主張するのですか?

その通りですよ。 だからこそ、一見つまらなそうに見える柿本人麻呂の和歌を大伴家持は『万葉集』に取り上げたのですよ。

要するに、何百年後に生きているデンマンさんのような歴史馬鹿に、歴史の真実を知ってもらおうとして『万葉集』の中に柿本人麻呂の「かぎろい」の和歌を取り上げたのですか?

そうです。。。でも「歴史馬鹿」だけ余計ですよ。(苦笑) とにかく、歴史の事実をはっきりとは書けなかった。 だから、柿本人麻呂は当たり障りのない「かぎろい」を詠む事によって歌の中に歴史の真実を読み込んだのですよ。 僕の言おうとしていることが小百合さんにも分かるでしょう?

もちろん、デンマンさんのお話を聞けば、そうなのかな?とも思いますけれど、歴史的には証拠がないのでしょう?

あのねぇ~、歴史にハマッている僕の歴史的仮説ですよ。 この記事を読んでくれる人の中に上の説明を読んで、そのような事も大いにあったかも知れないと思ってくれる人が居れば、こうして小百合さんと話した甲斐があるのですよ。



(laugh16.gif)


 (すぐ下のページへ続く)

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かぎろいミステリー(PART 4 OF 4)

2015-04-04 14:11:50 | 日本史





 

かぎろいミステリー(PART 4 OF 4)


【卑弥子の独り言】


(himiko22.gif)

ですってぇ~。。。
あなたはデンマンさんの説明に納得できましたかァ?

ええっ。。。 歴史には興味がないのォ~?

そんな事を おっしゃらないでくださいましなァ~。。。

じゃあ、あなたにも興味がある話題を。。。

どうして小百合さんが「軽井沢タリアセン夫人」と呼ばれるのか?
あなたは ご存知でござ~♪~ますかァ?

実は簡単な事なのですわよう。
小百合さんは軽井沢に別荘を持ったのですわ。
小さな頃から軽井沢に住むことが夢だったのですってぇ~。。。
分からない事ではござ~ませんわァ。

そもそも小百合さんが軽井沢に興味を持ったのは、朝吹登水子のエッセーなどを読んだことがきっかけだったとか。。。
現在、朝吹登水子の山荘、睡鳩荘(すいきゅうそう)は軽井沢タリアセンに移築されて公開されています。


(suikyu9.jpg)

それで、小百合さんは軽井沢タリアセンを訪れては睡鳩荘に足を運んで少女の頃の事を思い出すのが楽しみなんですってよ。

そういう訳で、デンマンさんが小百合さんのことを「軽井沢タリアセン夫人」と呼ぶようになったのですわ。

軽井沢・雲場池の紅葉

<iframe width="425" height="300" src="http://www.youtube.com/embed/Dt3k9--4xLE" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

軽井沢のイルミネーション

<iframe width="425" height="300" src="http://www.youtube.com/embed/dNGCgP1YLGA" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

秋の旧軽井沢銀座ぶらり散歩

<iframe width="425" height="349" src="http://www.youtube.com/embed/3CFuuOhmTxg" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

とにかく、明日もデンマンさんが興味深い記事を書くと思いますわ。
だから、あなたも、お暇なら、また読みに戻ってきてくださいまし。
じゃあねぇ~~。


(hand.gif)


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菊ちゃんと阿部忠秋(PART 1 OF 3)

2015-01-15 14:15:40 | 日本史
 

菊ちゃんと阿部忠秋(PART 1 OF 3)

 


(kikubisha.jpg)


(tadaaki1.jpg)




(sayuri55.gif)

デンマンさん。。。 どういうわけで菊ちゃんと江戸時代の忍藩主というか。。。、江戸城で老中も務(つと)めた阿部忠秋がタイトルに並ぶのですか?


(kato3.gif)

もちろん、時代が違いますからねぇ。 昭和時代の菊ちゃんと江戸時代の阿部忠秋には直接の関係はありません。

じゃあ、間接的に関係があるのですわねぇ~。。。

そういうことです。。。 小百合さんも次の記事を読んだでしょう?


(kiku50.jpg)

『毘沙門堂と菊ちゃん』



ええ。。。 上の記事は読みましたわ。



阿部忠秋は、忍藩主だった寛文7年(1667年)に、念珠仏・毘沙門天を江戸屋敷より移し、立派なお堂を建てて菩提寺の大長寺に寄進したのですよ。


大露仏と毘沙門堂


(bishamon2.jpg)

行田で唯一つの露坐の大仏で、「丈六の仏」といわれていたが、昭和19年、鉄の供出を強調され、大仏と半跏(片足だけくみ、片足は下におろす)の地蔵と金鐘とを戦争の為に、供出してしまった。
せめて、この大仏だけは、行田町の文化財として出したくはなかった。
『忍名所図会』には座像高さ“1丈2尺余”と書いてある。
今もその台石は残っているが、その上に1丈2尺の大仏であるから、子供心にすごく大きいものだと思った。

この大仏の由来について、何らの手がかりがないので、大長寺に何か記録がないかと探して貰ったが、住職が替わったばかりで、なんらの引き継ぎもなかった由である。
不思議なことには『忍名所図会』『北武八志』その他にも、何ら建立由来がない。
大仏に後背銘があったように覚えているが、今では致し方ない。
せめて拓本しておいて貰いたかった。
『忍名所図会』に「浄土宗沙門信阿和奉納す」とある。

大仏の後方、東に、西方を向いて、彫刻の沢山あった毘沙門堂があった。
昭和40年代、国道拡張の折、移築を余儀なくされた。
しかし、そのまま移転することもできないほどの荒廃で、戦中、戦後、乞食の棲家になって、失火しなかったのがせめてもの幸せという位、所々がこげていて、廃屋そのものであった。
教育委員会と交渉し、ついに取り壊し以外ない事になり、その彫刻をいかし、浅草の古物商(百万弗)に売却し、今は、奥日光の金精峠に、そのおもかげを留めている。

そもそもこの毘沙門堂は、藩主阿部豊後守忠秋が、念珠仏毘沙門天を江戸屋敷より移し、立派なお堂を菩提寺大長寺に建立寄進した。
像高37糎の毘沙門天である。

 (中略)

この毘沙門堂は寛文7年(1667年)の建立なので、京都出雲寺の最澄の作った毘沙門天を江戸に移し、寛文年代、法親王が住持となり、毘沙門堂門跡というようになったという事が記録にあるから、筆頭老中が阿部忠秋であるから、時代が合うので、その故事にゆかりある毘沙門の分身ではなかろうか。

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)




20-22ページ 『行田史跡物語』
著者: 大澤俊吉
1979(昭和54)年12月20日 初版発行
発行所: 歴史図書社



(daibuts85.jpg)



大仏さんの前で小百合さんとツーショットの写真を撮ったけれど、この大仏さんは2代目なのです。



ええ、ええ。。。 その事はデンマンさんから聞いたことがありますわァ。

菊ちゃんが生きていた当時は、この2代目の大仏さんは まだなかった。 でも、取り壊し前の毘沙門堂はあったのですよ。




それで、どうしてこの毘沙門堂と菊ちゃんが関わりがあるのですか?



実はねぇ~、僕が小学生の頃、菊ちゃんは僕のお袋になついて、よく遊びに来たのですよ。

その頃から菊ちゃんはデンマンさんのお嫁さんになりたかったのですか?

当時の菊ちゃんは20歳を出ているか出ていないか。。。とにかく子供の僕の目には、もう大人でしたよ。

でも、精神年齢は7つぐらいだったのですか?

そうなんですよ。 でもねぇ、いくらなんでも、まだ小学生の小さな僕を見て僕のお嫁さんになろうとは思わなかったでしょうね。 菊ちゃんが僕のお嫁さんになりたくて、お母さんに頼みに帰ったのは僕が中学生の時のエピソードですよ。

それで、デンマンさんが小学生の頃、どのようなエピソードがあったのでござ~♪~ますか?

時々、僕の家に興奮して駆け込んで来たのですよ。

一体何があったのですか?

大事件が持ち上がった訳ではないのですよ。 実は、菊ちゃんは言葉がはっきりと話せないのですよ。 確か“お嫁さん”のことを“いーやん”と言っていたように思うのですよ。 毘沙門堂の方を指差して、息を切らせながら“いーやんがきたぁ~。。。いーやんがきたのよゥ”。。。そう言いながら、アイドル歌手がやって来たように、うれしそうにはしゃぎ回ったのですよ。

それで、お嫁さんが毘沙門堂にやって来たのでござ~♪~ますか?

そうなんです。 “お宮参り”なんでしょうね。 上の説明にある通り、毘沙門天は七福神の一つですからね、縁起のいい神様ですよね。 それで、大長寺の檀家の娘さんが末永く婚家で幸せで居られるようにと願(がん)をかけるために毘沙門天にお参りにやって来るのだと思いますよ。


(bride12.jpg)

上の写真には男が写っているけれど、やって来るのは決まってお嫁さんだけなんですよ。 花婿が一緒に来たのを見たことがありませんでしたね。 ほぼ間違いなく付き添いの中年婦人と一緒に二人でやってくるのですよ。 多分その中年婦人は仲人さんだと思うのですよ。

それで、菊ちゃんは必ずデンマンさんの家まで知らせに飛んでゆくのですか?

そうなんです。 お袋だって忙しい時がありますからね。 菊ちゃんが来るたびに一緒に見に行けませんよ。 だから、お袋が忙しい時には、せっかく知らせに来たのだから僕に一緒に見に行くようにと言うのですよ。

それで、デンマンさんは菊ちゃんと一緒に見に行ったのでござ~♪~ますか?

小学生で暇をもてあましている事が多いからねぇ、付き合いましたよ。うへへへへ。。。1年に4,5回そう言うことがありました。 菊ちゃんは、もう、アイドル歌手がやって来たように嬉しそうにはしゃぐのですよ。“ちれいねぇ~、ちれいねぇ~” 感に耐えないような声を上げながら、うらやましそうにはしゃぎ回るのですよ。 よっぽど白無垢の衣装が素晴しいものに見えたのでしょうね。 だから、お嫁さんになる事がいつの間にか菊ちゃんの夢と言うかロマンになったのですよ。 いつか、自分もあのような白無垢の衣装を着て毘沙門堂にお参りしよう! そう思っていたのでしょうね。

そう言う“お宮参り”の風習が行田にはあるのですか?

実は、この記事を書くまで僕は良く知らなかったのですよ。 それで、ちょっと調べてみました。 つまり、“仏壇参り”の延長ですよ。 この毘沙門堂は大長寺にありますからね。 ご先祖様のお墓にお参りするついでに毘沙門天に願いをかけるのでしょう。


(bishamon2.jpg)



でも、菊ちゃんは白無垢の衣装を着ることもなく あの世の人になってしまったのでござ~♪~ますか?



そうなんですよ。 可哀想だけれど。。。奇病にかかってねぇ、40代で亡くなってしまったのですよ。 でもねぇ、エピソードはそれだけで終わりじゃないのですよ。“馬鹿の一つ覚え”という言葉があるでしょう?

ええ。。。よく聞きますわ。うふふふふ。。。

この菊ちゃんは、同じ事を切りもなく話すのですよゥ。お嫁さんがやって来てから1週間ばかりは、その話を飽きること無く繰り返すのですよ。“いーやんがちれいなおべべを着てきたにィ~”。。。で始まって、お宮参りの様子を何べんも何べんも話すのですよ。もちろん僕だけに話すのではなく、顔見知りの人には誰にでも話すのですよ。僕はお袋から「7才のバカ」 じゃなく、「7才の女性」として付き合うのですよ、と言われているから、よほどの事が無い限り、適当に相槌を打って、うん、うん、うん。。。そうだったねぇ~。。。と聞き役になるのですよ。

子供の頃からデンマンさんは話を聞くのが好きだったのでござ~♪~ますわね?

聞き上手になったのは菊ちゃんと付き合うことが多かったからでしょうね。うしししし。。。でもねぇ、他の子供は正直ですよゥ。きりもなく同じ事を繰り返すから。。。“バカァ~!同じ事を何度も何度も言うなア!あっちへ行ってろォ~!” たいていの子供や中学生ぐらいまでは、このように怒鳴りつけますよ。大人は無視して歩き去りますよ。そうすると最後には僕のところにやってくるのですよ。

デンマンさんは、菊ちゃんの話を聞いてあげるのですか?

もちろん、内心では“んも~~ またかよウ!?”。。。と思いますよゥ。でもねぇ、菊ちゃんが怒鳴り散らされたのを知っていますからねぇ~、なんとなく可哀想じゃないですかァ~。。。だから、半分上の空(うわのそら)で相槌打ってやるのですよ。

つまり、そう言う訳で菊ちゃんに好かれるようになった訳でござ~♪~ますわね?

多分、そうだと思うのですよ。まともに相手になってあげるのはお袋を除くと僕ぐらいでしたからね。。。

納得しましたわ。 それで菊ちゃんはデンマンさんのお嫁さんになりたかったのですわね?


(bride15.jpg)



おそらくそうでしょう。。。



でも、小百合さんのお話にどうして菊ちゃんのことを持ち出したのでござ~♪~ますか?

実は、大仏の前で小百合さんと会った時に白い椅子に座りながら、この話をしようと思ったのですよ。

。。。んで、お話になったのでござ~♪~ますか?

いや、途中で気が変わりましたよ。

どうしてでござ~♪~ますか?

毘沙門堂は日光に移築されて影も形も残っていないのですよ。今では、そのあたりは更地(さらち)になって駐車場になっていますよ。

それで、どうしたのでござ~♪~ますか?

上の毘沙門堂の写真をよく見てください。

上の写真がどうだとおっしゃるのですか?

よく見ると毘沙門堂の向かって左側に小さなお堂があって、その中に石像が見えるでしょう?


(bishamon2.jpg)



ええ、ええ。。。見えますわ。。。



これはお地蔵さんなんですよ。“塩なめ地蔵”と言うのですよ。このお地蔵さんが白い椅子のすぐそばに移されたのですよ。だからねぇ、僕はそこへ小百合さんを連れて行って、“僕が小学生の頃は、このお地蔵さんがアソコにあったのですよ。” そう言って毘沙門堂がある辺りを指差したものですよ。

それで。。。?

なんだか菊ちゃんの姿が思い出されてきましてねぇ~。。。それ以上話すのがつらくなって、話題を変えましたよ。

小百合さんはデンマンさんのその時の微妙な気持ちが分かったでしょうか?

菊ちゃんの事は一言も話しませんでしたからねぇ、小百合さんは何も分からなかったでしょうね。僕は、ただ、全く関係ない話を長々と続けましたから。。。

いつものようにでござ~♪~ますか。。。?

そうですよ。。。。でもね、おそらく、この記事を小百合さんが読めば、“塩なめ地蔵”の事をなつかしく思い出すと思うのですよ。




『毘沙門堂と菊ちゃん』より
(2008年1月7日)



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菊ちゃんと阿部忠秋(PART 2 OF 3)

2015-01-15 14:14:18 | 日本史




 

菊ちゃんと阿部忠秋(PART 2 OF 3)




つまり、江戸時代に阿部忠秋が建てて大長寺に寄進した毘沙門堂に 昭和になってから お参りにやって来る花嫁さんを菊ちゃんが毎回見に行ったということが 菊ちゃんと阿部忠秋のささやかな関係なのですか?



いや。。。 実は、それだけではないのですよ。

あらっ。。。 まだ他にも菊ちゃんと阿部忠秋のつながりがあるのですか?

あるのですよ。 小百合さんは“振袖(ふりそで)火事”ってぇ聞いたことがあるでしょう!?

あの江戸時代に起こった最大の火事ですか? 確か江戸城の天守閣が焼けてしまって、それ以来 江戸城には天守閣が再建されなかったのですよねぇ~。。。

あれっ。。。小百合さんは、結構 歴史に詳しいのですねぇ~。。。

いいえ。。。 デンマンさんからの聞きかじりですわァ。 うふふふふふふ。。。


明暦の大火 (振袖火事)

この明暦の火災による被害は延焼面積・死者共に江戸時代最大で、江戸の三大火の筆頭としても挙げられる。
外堀以内のほぼ全域、天守閣を含む江戸城や多数の大名屋敷、市街地の大半を焼失した。
死者は諸説あるが3万から10万人と記録されている。
江戸城天守はこれ以後、再建されなかった。

火災としては東京大空襲、関東大震災などの戦禍・震災を除けば、日本史上最大のものである。
日本ではこれを、ロンドン大火、ローマ大火と並ぶ世界三大大火の一つに数えることもある。

明暦の大火を契機に江戸の都市改造が行われた。
御三家の屋敷が江戸城外へ転出。
それに伴い武家屋敷・大名屋敷、寺社が移転した。
防備上千住大橋のみしかなかった隅田川への架橋(両国橋や永代橋など)が行われ、隅田川東岸に深川など、市街地が拡大した。

防災への取り組みも行われた。
火除地や延焼を遮断する防火線として広小路が設置された。
現在でも上野広小路などの地名が残っている。
幕府は耐火建築として土蔵造や瓦葺屋根を奨励したが、その後も板葺き板壁の町屋は多く残り、「火事と喧嘩は江戸の華」と言われるとおり、江戸はその後もしばしば大火に見舞われた。

振袖火事とも呼ばれるゆえんは以下のような伝承があるためである。


(oshichi2.jpg)

お江戸・麻布の裕福な質屋・遠州屋の娘・梅乃(16才)は、本郷の本妙寺に母と墓参に行ったその帰り、上野の山ですれ違った寺の小姓らしき美少年に一目惚れ。
ぼうっと彼の後ろ姿を見送り、母に声をかけられて正気にもどり赤面して下を向く。
梅乃はこの日から寝ても覚めても彼のことが忘れられず、恋の病か食欲もなくし寝込んでしまう。

名も身元も知れぬ方ならばせめてもと、案じる両親に彼が着ていた服と同じ、荒磯と菊柄の振袖を作ってもらい、その振袖をかき抱いては彼の面影を思い焦がれる日々だった。
だがいたましくも病は悪化、梅乃は若い盛りの命を散らす。
両親は葬礼の日、せめてもの供養にと娘の棺に生前愛した形見の振袖をかけてやった。

当時こういう棺に掛けられた遺品などは寺男たちがもらっていいことになっていた。
この振袖は本妙寺の寺男によって転売され、上野の町娘・きの(16才)のものとなる。

ところがこの娘もしばらくの後に病となって亡くなり、振袖は彼女の棺にかけられて、奇しくも梅乃の命日にまた本妙寺に持ち込まれた。
寺男たちは再度それを売り、振袖は別の町娘・いく(16才)の手に渡る。
ところがこの娘もほどなく病気になって死去、振袖はまたも棺に掛けられ本妙寺に運び込まれてきた。

さすがに寺男たちも因縁を感じ、住職は問題の振袖を寺で焼いて供養することにした。
住職が読経しながら護摩の火の中に振袖を投げこむと、にわかに北方から一陣の狂風が吹きおこり、裾に火のついた振袖は人が立ちあがったような姿で空に舞い上がり、寺の軒先に舞い落ちて火を移した。
たちまち大屋根を覆った紅蓮の炎は突風に煽られ、一陣は湯島六丁目方面、一団は駿河台へと燃えひろがり、ついには江戸の町を焼き尽くす大火となった。




出典: 「明暦の大火」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




この振袖火事が菊ちゃんと阿部忠秋にも関係あるのですか?



それが不思議にも関係あるのですよ。

どのように。。。?

あのねぇ~、確かに“明暦の大火”と呼ばれる大火事は実際にあった。 でもねぇ~、それにまつわる“振袖火事”の話は作り話なのです。

まさかァ~。。。、だってぇ~。。。、だってぇ~。。。、歴史の時間に、先生は“振袖火事”のことを史実として話しましたわァ。

そうなんですよ。 最近まで、“振袖火事”の話は事実だと信じられていた。 実際、去年の秋、僕が行田市に帰省した時にも NHKの木曜時代ドラマで“振袖火事”の事をやってましたよ。

でも、その話は作り話なのですか?

そうです。。。

どうして、その話が本当だと信じられてしまうほどに江戸時代に広まったのですか?

あのねぇ~、火元が本妙寺だと信じられていたのだけれど、本当の火元は、誰あろう 阿部忠秋の屋敷だったのですよ。

あらっ。。。 マジで。。。? でも、どうして本妙寺が火元だということになったのですかァ~?

だから、民衆に、そのように信じ込ませるように幕府の首脳陣が“振袖火事”の伝説を広めたのです。

だけど、どうして、そのような事までして嘘の話を広めたのですか?

あのねぇ~、幕府は火事の火元に対しては、当時、厳罰主義で臨んでいたのです。 それなのに幕府の老中の屋敷が火元とあっては、幕府の権威が失墜してしまうのですよ。

それで、火元を本妙寺ということにしたのですか?

そうですよ。 本妙寺は、たまたま阿部忠秋の屋敷の隣にあった。

でも、本妙寺の住職が それでは気持ちが納まらないでしょう?!

だから、その嘘の話を広めるために、住職を説得したのです。

。。。で、住職さんも幕府の言うことを聞き入れたのですか?

聞き入れたのです。 それが証拠に、火事の後で、阿部家からは供養代として、毎年 本妙寺に相当額の寄付が送られたのです。 それが、実に 1923年の関東大震災まで毎年続いたのですよ!

それってぇ、マジですかァ~?

ちゃんと記録にも残っているのです。

。。。で、阿部忠秋の屋敷に住んでいる誰が火をつけたのですか?

いや。。。 放火したわけではないのです。 たまたまその家に“お菊さん”という女中が住んでいたのです。


(kiku92.jpg)



あらっ。。。 この人ですか? なんだか菊ちゃんに似ているじゃありませんか?



そうですよ。。。 そのことについては、この後で話しますよ。

。。。で、この“お菊さん”が火事の原因を作ったのですか?

そうなのです。。。 “お菊さん”はネズミが大嫌いなのですよ。 たまたま阿部忠秋の部屋の行灯(あんどん)に火をともしに行った時にネズミがチョロチョロと“お菊さん”の目の前を横切ったのです。 それでビックリしてロウソクの火を畳の上に落としてしまったのですよ。


(kiku95.jpg)



あらっ。。。で、その“お菊さん”をかばう意味もあって、阿部忠秋は火元を本妙寺に肩代わりさせたと言うわけですか?



そうなのですよ。 阿部忠秋という人は、自己保身のために罪を他に押しつけるような卑劣な人物ではない。 それに、人望の厚い人格者であったらしい。 というのは、阿部忠秋は捨て子を拾って養育していたのです。 次のようなエピソードが伝わっていますよ。


阿部忠秋は毎年数十人の捨て子を養育していた。
このことはたちまち江戸中に知れ渡り、阿部忠秋の屋敷前や通勤経路には、捨て子をする人が増えた。

捨て子を見つけるとすぐに抱き上げる忠秋に、家臣が言いました。
「殿、際限がございませぬ」
「捨てたくて子を捨てる親はいないのだから、捨て子がいるということは、われらの政治がいたらなかったということ。 だからこそ、子を育てることで穴埋めをしたい」
「しかし、金が掛かります」
「わしは 遊興を控えて浮かせた金で養育しておる。 そなたらに迷惑をかけてはおらん」

成長した子は、男の子は家臣とし、女の子は嫁ぎ先を見つけてやった。


(kiku91.png)




もしや、“お菊さん”はこの捨て子のうちの一人だったのですか?



そうなのですよ。。。 この“お菊さん”は、菊ちゃんのように ちょっと知恵が遅れていた。 それで阿部忠秋も 失火の罪で死罪にするには忍びなかったのです。

。。。で、もしかして。。。、もしかして。。。、“お菊さん”の子孫が菊ちゃんなんですかァ~?

実は、そうなんです。。。 もし、“お菊さん”が失火の罪で死罪になっていたら、菊ちゃんはこの世に存在していなかったのですよ。



(laugh16.gif)

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菊ちゃんと阿部忠秋(PART 3 OF 3)

2015-01-15 14:13:33 | 日本史



 

菊ちゃんと阿部忠秋(PART 3 OF 3)


【卑弥子の独り言】


(himiko22.gif)

ですってぇ~。。。
あなたは、このデンマンさんのお話を信じることができますかァ~?

“信じる者は救われる”と申しますが、あなたは、どう思いますか?

実は、デンマンさんが“お菊さん”の子孫である菊ちゃんにエロい事をしようとしたのですわよゥ。
どこかに、その記事があるだろうと思って探してみたら、見つかったのでござ~♪~ますう。
うふふふふふふ。。。

あなたも、もし関心があったら読んでみてくださいまし。


(kiku008.jpg)

『菊ちゃんと八ツ橋』

ところで、どうして小百合さんが「軽井沢タリアセン夫人」と呼ばれるのか?
ご存知でござ~♪~ますか?

実は簡単な事なのですわよう。
小百合さんは軽井沢に別荘を持ったのですわ。

小さな頃から軽井沢に住むことが夢だったのですってぇ~。。。
分からない事ではござ~ませんわ。

そもそも小百合さんが軽井沢に興味を持ったのは、朝吹登水子のエッセーなどを読んだことがきっかけだったとか。。。

現在、朝吹登水子の山荘、睡鳩荘(すいきゅうそう)は軽井沢タリアセンに移築されて公開されています。


(suikyu9.jpg)

それで、小百合さんは軽井沢タリアセンを訪れては睡鳩荘に足を運んで少女の頃の事を思い出すのが楽しみなんですってよ。

そういう訳で、デンマンさんが小百合さんのことを「軽井沢タリアセン夫人」と呼ぶようになったのですわ。

軽井沢・雲場池の紅葉

<iframe width="425" height="300" src="http://www.youtube.com/embed/Dt3k9--4xLE" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

軽井沢のイルミネーション

<iframe width="425" height="300" src="http://www.youtube.com/embed/dNGCgP1YLGA" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

秋の旧軽井沢銀座ぶらり散歩

<iframe width="425" height="349" src="http://www.youtube.com/embed/3CFuuOhmTxg" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

とにかく、明日もデンマンさんが興味深い記事を書くと思いますわ。
だから、あなたも、お暇なら、また読みに戻ってきてくださいまし。
じゃあねぇ~~。


(hand.gif)


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兄妹の恋のつづき(PART 1 OF 3)

2014-12-04 13:11:13 | 日本史

 

兄妹の恋のつづき(PART 1 OF 3)

 


(karu013.jpg)


(kamata02.jpg)




(himiko22b.gif)

デンマンさん。。。 今日は 再び“兄妹の恋”を語るのでござ~ますかァ~?


(kato3.gif)

そうですよう。。。 卑弥子さんもワクワクしてきたでしょう?

でも、上の画像を見ると下の絵は、なんだか血なまぐさいですわよねぇ~。。。

卑弥子さんは、ずっと以前に“兄妹の恋”を語った時のことを覚えてますか?

ずいぶんと前のことでござ~ますわよねぇ~。。。

それほど前でもありませんよ。 今年の2月13日でした。


(sister90.jpg)

『兄妹の恋と大乱』



思い出しましたわ。。。 “兄妹の恋”の裏に、血なまぐさい権力争いが隠されていたというお話でござ~ましたわァ。



そうです。。。そうです。。。

確か、その時の兄と妹は、あの有名な木梨軽皇子(きなしの かるのみこ)と実の妹の軽大娘皇女(かるの おおいらつめ)でござ~ましたよねぇ~。。。


兄妹の恋


(karu013.jpg)

木梨軽皇子(きなしの かるのみこ)は、允恭(いんぎょう)天皇の第一皇子であり、皇太子でした。
母は皇后の忍坂大中津比売命(おしさかの おおなかつのひめのみこと)。
同母弟に穴穂皇子(あなほのみこ、後の安康天皇)がいました。
一番下の弟が大泊瀬稚武皇子(おおはつせの わかたけるのみこ) つまり、後の雄略(ゆうりゃく)天皇です。

『古事記』によれば、木梨軽皇子は允恭23年に立太子します。
しかし、同母妹の軽大娘皇女(かるの おおいらつめ)と情を通じ、それが原因となって允恭天皇の崩御後に廃太子され伊予国へ流されます。


(tokuko05.jpg)

その後、あとを追ってきた軽大娘皇女と共に自害したと言われます。(衣通姫伝説)

『日本書紀』では、情を通じた後の允恭24年に軽大娘皇女が伊予国へ流刑となり、允恭天皇が崩御した允恭42年に穴穂皇子によって討たれたと言われています。

四国中央市にある東宮古墳が木梨軽皇子の墓といわれ、宮内庁陵墓参考地とされています。




出典: 「木梨軽皇子」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




それで、今日の“兄妹の恋”というのは、どなたと どなたでござ~ましょうか?



天智天皇になる中大兄皇子と同母の妹で、孝徳天皇の間人(はしひと)皇后になる間人皇女(はしひとのひめみこ)ですよ。


間人皇女


(hashihito9.jpg)

(生年不詳 - 665年3月16日)

飛鳥時代の皇族。間人大后とも。孝徳天皇の皇后。
父は舒明天皇、母は皇極天皇(斉明天皇)。
天智天皇の同母妹、天武天皇の同母姉に当たる。

乙巳の変(645年6月)により皇極天皇が譲位し、軽皇子(孝徳天皇)が即位する。
間人皇女はそれに伴い皇后となり、葛城皇子(中大兄皇子、後の天智天皇)を皇太子とし、大化の年号が採用された。

大化元年(646年)末に、飛鳥板蓋宮から難波長柄豊碕宮に遷都する。
葛城皇子は孝徳の治世下で実質的に改革を推進しており、天皇と不仲になっていたらしい。


(koutokuzu.jpg)

白雉4年(653年)に葛城皇子は天皇の意に反し、皇極や間人皇女の他、多くの官僚を率いて飛鳥に戻ってしまう。

天皇はこれを恨み退位も考えたが、山碕(後の京都府乙訓郡)に宮殿を造営中に病に倒れ、白雉5年10月10日(654年)に難波の宮殿で崩御した。

この間、天皇が皇后である間人皇女に宛てた歌が『日本書紀』に残されている。


金木着け 吾が飼ふ駒は 引出せず

吾が飼ふ駒を 人見つらむか




原文:

繫於金木 吾飼駒當無出兮

吾之駒至今何以為所獲


間人皇女が夫である天皇と離れ葛城皇子(中大兄皇子、後の天智天皇)と共に飛鳥に遷った理由は明らかでない。
しかし、上の歌の「駒」が間人を譬喩しており、古代の「見る」が恋愛と直結するものであることから、自分の妻をほかの男に見られたの意に理解し、中大兄との近親相姦の関係を説く
吉永登のような見解もあり、直木孝次郎らによって支持されているが、これに対しては曾倉岑・荒井秀規らによる反論があり、荒井は「穿ちすぎであろう」と疑義を示している。




出典: 「間人皇女」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




でも。。。、でも。。。、デンマンさんは中大兄皇子と間人皇女(はしひとのひめみこ)の間には恋愛感情はなかったと言っていたではござ~ませんかァ!



あれっ。。。 卑弥子さんは、そんな事まで覚えているのですか?

あたくしの記憶力は、デンマンさんが考えている以上に 相当なものでござ~ますわよう。 次のように書いていたのを覚えておりますわァ。


僕は中学校の歴史の時間に“大化の改新”について学んだことがありました。
僕はとりわけ歴史が好きなわけではなかった。
数学とか物理の方が好きだった。
本当に歴史が面白くなったのは社会人になって、松本清張さんとか司馬遼太郎さんの歴史小説を読むようになってからのことです。

でも、中学校の歴史の時間は面白かった。
先生が歴史が好きな事が良く分かった。
その話し方も熱を帯びて、僕は引き込まれるように聞き入ってしまうことも多かった。

“大化の改新”の話しも面白く聞いたものでした。
今から思えば、その先生は後に天智天皇になる中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)の熱烈なファンだったようです。
大化の改新を日本史の上でも大変重要な出来事として評価していたし、この皇子に関しては、ベタ褒(ほ)めにしていたものです。

先生の話を聞いて、確かにすばらしい人物だと言う事が僕にも良く理解できたものでした。
だから、僕も、中大兄皇子は聖徳太子よりもすばらしい人物だと思っていたものでした。

ところが、高校の古文の時間に額田女王の歌を読んだ。
僕にしてみれば、あれほどすばらしい中大兄皇子を選ばずに、額田女王は、後に天武天皇になる大海人皇子(おおあまのおうじ)を選んだ。
僕にはこの点が理解できなかった。
古文の先生も、その辺のところは良く説明しなかった。

そういうわけで、この事は僕には謎めいた事としてずっと後まで不思議な事としてオツムの片隅に残っていた。
ところが、高校を卒業して20年ほどたった頃に、僕は次の歌に出くわしました。


“金木(かなき)つけわが飼ふ駒は引き出せず

わが飼ふ駒を人見つらむか”


これは孝徳天皇が詠(よ)んだ歌です。
分かりやすいように背景を説明します。

天智天皇と実の妹は恋愛関係にあったという歴史学者が居ます。
僕は、そのような事もありうるとは思っていますが、天智天皇と実の妹が“恋愛”していたとは思いません。

一口で言えば、天智天皇は女性にモテルようなタイプではなかったからです。

しかも、実の妹を本当に愛していたなら、孝徳天皇に監視役として嫁がせるようなことは、初めから決してしないと僕は信じているからです。

孝徳天皇は中大兄皇子(後の天智天皇)の叔父にあたります。
つまり、皇子の母親の弟です。

大化の改新をやり遂げた中大兄皇子と中臣鎌足(後の藤原鎌足)が相談して、いろいろな事情から、中大兄皇子がすぐに天皇にならない方が良いという事になり、後ろから操りやすい叔父を天皇にしたのです。
その監視役として皇子は妹をこの叔父に嫁がせました。
ところが、だんだんとこの叔父が皇子の言うことを聞かなくなった。

大化の改新より8年後の653年、孝徳天皇は遷都の問題で中大兄皇子と対立します。
孝徳天皇は都は現在の難波のままでよいと言うのですが、中大兄皇子は強引に大和へ都を移してしまいます。
孝徳天皇は天皇とはいえ、実権は中大兄皇子が握っています。
つまり、孝徳天皇は実権を持たないお飾り天皇です。

しかし、いかに傀儡(かいらい)とはいえ、天皇です。
しかも皇子の母親の実の弟(叔父)です。
その天皇を皇太子に過ぎない中大兄皇子が置き去りにしたのです。

その時、皇子は実の妹の間人(はしひと)皇后を無理やり連れて行ってしまったのです。
もちろん、これは僕の解釈ですが。。。


確かに事情はよく分かる。

しかし、結局お前は、夫であり、叔父である、私よりも、実の兄である、中大兄皇子の言うことに従って、私を見捨ててゆく。

人の世は、決してそういうものではないと私は思う。

だが、今となっては、嘆いたところで仕方がなかろう。


間人(はしひと)皇后は無理矢理連れて行かれたのだから、それも仕方がないのだろう。
孝徳天皇は、そのように諦めたのでしょうね。

僕がここで言いたい事は、政治と言うのは政治力、言い換えれば、権力だけで推し進めてもうまく行くものではないですよね。
結局、その政治家の人間性が問題になってきます。
ここで中大兄皇子の人間性を詳しく述べる事はしません。
関心のある人は次の記事を読んでください。

『定慧(じょうえ)出生の秘密』

要するに、中大兄皇子には実行力とやる気があるので、中臣鎌足がこの皇子と組んで実行したのが大化の改新だった。
しかし、もともと鎌足が目をつけたのは孝徳天皇になる軽皇子(かるのみこ)の方だったのです。
でも、実行力とやる気がイマイチだった。
それで、中大兄皇子の方と組むと言う経緯(いきさつ)があったのです。

何事かを起こすには、やはり実行力とやる気ですよね。
しかし、政治を行うと言うことになると人間性が問題になってきます。

この人間性を象徴する意味で僕は上の歌を引き合いに出したのです。
つまり、中大兄皇子(天智天皇)は、このようは非情な事をする人です。




『性と愛と批判』より
万葉集の中の政治批判
【2006年5月8日】



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兄妹の恋のつづき(PART 2 OF 3)

2014-12-04 13:10:25 | 日本史


 

兄妹の恋のつづき(PART 2 OF 3)




ここで、前言を翻(ひるがえ)して 中大兄皇子と間人皇女(はしひとのひめみこ)の間には恋愛感情があったなどと言うつもりはないでしょうねぇ~!?



もちろん、そのような事を言うつもりはありません。

でも、タイトルには“兄妹の恋のつづき”と書いてござ~ますわァ。。。 つまり、デンマンさんは 中大兄皇子と実の妹の間人皇女の間に恋心があったと言おうとしたのに 間違いがないのですわァ。。。 でも、あたくしが古い記事を持ち出してきたので、デンマンさんは都合が悪くなったので、撤回したのです。 そうでしょう?

卑弥子さんは、なかなか鋭いことを言いますねぇ~。。。 実は、そうだと言いたいところです。。。 でも、違うのですよ。 上の引用の一番下に万葉集の中の政治批判と書いてあるでしょう。。。!?

それがどうしたと言うのでござ~ますか?

つまり、『古事記』や『日本書紀』の中にも政治批判が書き込まれてるのですよ。

それは初耳ですわ。。。 そのようなお話は聞いたことがござ~ませんわァ。

あのねぇ~、僕は次のように書いたことがある。


『日本書紀』に隠された真実の声

この事件(乙巳の変)の後で、現場に居合わせた古人大兄皇子(ふるひとの おおえのみこ)は人に語って言います。
「韓人(からひと)、鞍作臣(くらつくりのおみ)を殺しつ。吾が心痛し」
つまり、「韓人が入鹿を殺してしまった。ああ、なんと痛ましいことか」 

しかし、「韓人」とは一体誰をさして言ったのか、ということで この事件に関する研究者の間では、いろいろな説が出ています。
入鹿を殺したのは、中大兄皇子です。
その計画を立てたのが中臣鎌足。
それに手を貸したのが佐伯連子麻呂と葛城稚犬養連網田です。
ところが、この中には従来の古代史研究者の間で「韓人」と信じられている人は居ません。

「韓人」とは、もちろん韓(から)からやって来た人のことです。
下の地図で見るとおり、紀元前1世紀の朝鮮半島には馬韓・辰韓・弁韓という3つの「韓国」がありました。


(korea03.gif)

これらの国は、国といっても部族連合国家のような連合体です。
大まかに言えば、このうち辰韓と弁韓は紀元前57年に融合して新羅になります。
一方、馬韓は百済になります。

要するに「韓人」とは朝鮮半島の南部からやって来た人をそのように呼んだわけです。
従って、この当時で言えば百済か新羅からやって来た人のことです。

実は、中臣鎌足は百済からやってきたのです。
少なくとも、彼の父親の御食子(みけこ)は、ほぼ間違いなく百済から渡来した人間です。

中臣という姓は日本古来の古い家系のものですが、この御食子は婚姻を通じて中臣の姓を名乗るようになったようです。
藤原不比等は当然自分の祖父が百済からやってきたことを知っています。
しかし、「よそ者」が政権を担当するとなると、いろいろと問題が出てきます。

従って、『古事記』と『日本書紀』の中で、自分たちが日本古来から存在する中臣氏の出身であることを、もうくどい程に何度となく書かせています。

なぜそのようなことが言えるのか?という質問を受けることを考えて、次のページを用意しました。ぜひ読んでください。


(fuhito02.jpg)

『藤原氏の祖先は

朝鮮半島からやってきた』


『日本書紀』のこの個所の執筆者は、藤原不比等の出自を暴(あば)いているわけです。
藤原氏は、元々中臣氏とは縁もゆかりもありません。
神道だけでは、うまく政治をやっては行けないと思った時点で、鎌足はすぐに仏教に転向して、天智天皇に頼んで藤原姓を作ってもらっています。

その後で中臣氏とは袖を分かって自分たちだけの姓にします。
元々百済からやってきて、仏教のほうが肌に合っていますから、これは当然のことです。

この辺の鎌足の身の処し方は、まさに『六韜』の教えを忠実に守って実行しています。
彼の次男である不比等の下で編纂に携わっていた執筆者たちは鎌足・不比等親子の出自はもちろん、彼らのやり方まで、イヤというほど知っていたでしょう。

執筆者たちのほとんどは、表面にはおくびにも出さないけれど、内心、不比等の指示に逆らって、真実をどこかに書き残そうと常に思いをめぐらしていたはずです。
しかし、不比等の目は節穴ではありません。
当然のことながら、このような個所に出くわせば気が付きます。
不比等は執筆者を呼びつけたでしょう。



(fuhito03.jpg)

「きみ、ここに古人大兄皇子の言葉として『韓人、鞍作臣を殺しつ。吾が心痛し』とあるが、この韓人とは一体誰のことかね?」


(yakunin8.jpg)

「はっ、それなら佐伯連子麻呂のことですが」

「彼は韓からやって来たのかね?」

「イエ、彼本人は韓からではなく、大和で生まれ育ちました。しかし、彼の母方の祖父が新羅からやってきたということです。何か不都合でも?」

「イヤ、そういうことなら別に異存はないが。しかし、君、古人大兄皇子は、実際、そんなことを言ったのかね?」

「ハイ、私が先年亡くなった大伴小麻呂の父親から聞きましたところ、はっきりとそう言っておりました。中国の史書を見ると分かるとおり、歴史書を残すことは大切なことだから、古人大兄皇子の言葉としてぜひとも書き残してください、ということで、たってのお願いでした。何か具合の悪いことでも?」

「イヤ、そういうことなら、そのままでいいだろう」


恐らくこんな会話が、編集長・藤原不比等と しらばっくれた、しかし表面上はアホな顔つきをしていても、内心では反抗心の旺盛な執筆者との間で交わされたことでしょう。


(shotoku03.gif)

執筆者の中にも気骨のある人がいたでしょうから、不比等と張り合って上のような狸とイタチの化かし合いの光景が見られたことでしょう。

この古人大兄皇子は上の聖徳太子の系譜で見るように、蘇我氏の血を引く皇子です。
蘇我入鹿とは従兄弟です。
また、中大兄皇子とは異母兄弟に当たります。

古人大兄皇子が次期天皇に目されていました。
しかし野望に燃える中大兄皇子のやり方を知っている皇子は、身の危険を感じて乙巳の変の後出家して吉野へ去ります。
しかし、中大兄皇子は、それでも安心しなかったようです。

古人大兄皇子は謀反を企てたとされ、645年9月に中大兄皇子の兵によって殺害されます。
これで、蘇我本宗家の血は完全に断たれることになったのです。

古人大兄皇子が実際に「韓人(からひと)、鞍作臣(くらつくりのおみ)を殺しつ。吾が心痛し」と言ったかどうかは疑問です。
野望に燃える中大兄皇子の耳に入ることを考えれば、このような軽率なことを言うとは思えません。

しかし、『日本書紀』の執筆者は無実の罪で殺された古人大兄皇子の口を借りて、真実を書きとめたのでしょう。
「死人に口なし」です。

このようにして『日本書紀』を見てゆくと、執筆者たちの不比等に対する反抗の精神が読み取れます。
中大兄皇子と中臣鎌足にはずいぶんと敵が多かったようですが、父親のやり方を踏襲した不比等にも敵が多かったようです。

中大兄皇子が古人大兄皇子を抹殺した裏には、鎌足が参謀長として控えていました。
この藤原氏のやり方はその後も不比等は言うに及ばず、彼の子孫へと受け継がれてゆきます。

後世、長屋王が無実の罪を着せられて藤原氏によって自殺へ追い込まれますが、このやり方なども、古人大兄皇子が殺害された経緯と本当に良く似ています。




『韓人(からひと)」とは誰か?』より
(2003年9月24日)




つまり、『古事記』や『日本書紀』の編集に携わった人の中には反骨精神が旺盛で、政治的批判をそれとなく書き込んだ人たちがいたと、デンマンさんは言いたいのでござ~ますか?



その通りですよ。

でも、その事と “兄妹の恋のつづき”は、どのように関係しているのでござ~ますか?

あのねぇ~、僕に言わせれば『古事記』も『日本書紀』も、藤原氏が当時の政権の正当性を反動派や当時の官僚や後世の官僚に訴えるために書いたものですよ。 でもねぇ~、執筆者の中には表面上は藤原氏に従っている振りをしながら、反発精神に燃えて人たちもいた。 その仮面をかぶった反動派の執筆者たちは、史書の各所で、後の世の人が読めば、天智政権・藤原政権の横暴が解るように書いている。

たとえば。。。?

だから、『日本書紀』の中でも 古人大兄皇子の言葉として「韓人(からひと)、鞍作臣(くらつくりのおみ)を殺しつ。吾が心痛し」と言った、と書き込んで執筆者がいたのですよ。 表面には おくびにも出さないけれど、内心、藤原不比等の指示に逆らって、真実をどこかに書き残そうとしたわけです。

“兄妹の恋”の中にも、そのように真実をどこかに書き残そうとした執筆者の苦心が見えるのでござ~ますか?

見えるのですよ。 だいたい、木梨軽皇子(きなしの かるのみこ)と実の妹の軽大娘皇女(かるの おおいらつめ)の恋の物語などは、本来ならば、藤原氏は書かせたくはなかったでしょう。

どうして。。。?

『ウィキペディア』にも書いてあるけれど、「間人皇女が夫である天皇と離れ葛城皇子(中大兄皇子、後の天智天皇)と共に飛鳥に遷った理由は明らかでない。 しかし、上の歌の「駒」が間人を譬喩しており、古代の「見る」が恋愛と直結するものであることから、自分の妻をほかの男に見られたの意に理解し、中大兄との近親相姦の関係を説く」研究者もいるのですよ。 つまり、このような関係があることを匂わせるために、『古事記』の執筆者の中に 木梨軽皇子(きなしの かるのみこ)と実の妹の軽大娘皇女(かるの おおいらつめ)の恋の物語をどうしても書かなければならないと思った人がいたのですよ。

実際、当時、政権に携わっている人たちや、反動派の人たちにも、間人皇女と中大兄皇子の関係を疑っていた人たちがいたのでござ~ますか?

いたのですよ。

その証拠でもあるのでござ~ますか?

あのねぇ~、もうずいぶん昔のことだから、二人が関係しているところを撮った写真があるわけではない。 でもねぇ、状況証拠がある。

その状況証拠とは、いったい どのようなものでござ~ますか?

中大兄皇子は、本来ならば、大化の改新を断行した時に、天皇になれるはずだったのですよ。 でもなれなかった。

どうして、その時に天皇になれなかったのでござ~ますか?

中大兄皇子は、次期天皇に目されていた異母兄の古人大兄皇子を殺している。 兄殺し! 更に、乙巳の変(645年6月)、つまり、大化の改新で、皇極天皇が譲位する。 この時にも、中大兄皇子は過去の悪行が災いして人望がなく、天皇になれず、皇極天皇の弟、つまり、中大兄皇子の叔父さんである軽皇子が孝徳天皇として即位する。

。。。で、この時に、中大兄皇子はスパイ兼監視役として妹の間人皇女を叔父さんのお嫁さんにすると画策したのでござ~ますか?

そうです。。。 翌年、大化元年(646年)末に、飛鳥板蓋宮から難波長柄豊碕宮に遷都する。 実権を握っていたのは、大化の改新で活躍した中大兄皇子だった。 それで、叔父の天皇とは不仲だった。 白雉4年(653年)、よせばいいのに、中大兄皇子は叔父さんを一人残して、多くの官僚と共に、実の妹でもあり、叔父さんの妻でもある間人皇后を無理やり飛鳥に連れ去ってしまう。 当然のことながら、噂が立つのですよ。 中大兄皇子と妹の間人皇女は恋愛関係にあったと。。。 そして、それを裏付けるように そういう事が過去にもありましたよ、と『古事記』の執筆者は木梨軽皇子(きなしの かるのみこ)と実の妹の軽大娘皇女(かるの おおいらつめ)の恋物語を書き込んだわけですよ。



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兄妹の恋のつづき(PART 3 OF 3)

2014-12-04 13:09:12 | 日本史


 

兄妹の恋のつづき(PART 3 OF 3)


【卑弥子の独り言】


(himiko22.gif)

ですってぇ~。。。
あなたは、どう思いますか?

中大兄皇子と実の妹である間人皇女の間に恋愛関係があったと思いますか?

ええ? もうずいぶんと昔の話だから、どうでもいいのでござ~ますかァ?
解りましたわ。

じゃあ、あたくしの個人的なことになりますけれど、あたくしは“平成の紫式部”と呼ばれているのでござ~ますゥ。
信じられないってぇ~。。。?

じゃあ、『卑弥子の源氏物語』を お読みくだしまし。。。


(bond010.gif)

『卑弥子の源氏物語』

どうですか? あたくしが “平成の紫式部”だと納得がゆきましたか?

ええっ。。。 ちょっと納得がゆかないのでござ~ますかァ?

そうでしょうねぇ~。。。 あたくしだって、デンマンさんの お話を聞いていて なんとなく 騙されているような気になるのですものォ~。。。 

でも こう見えても あたくしは京都の女子大学で腐女子たちに「日本文化と源氏物語」を講義しているのでござ~ますわァ。

ただし、なかなか あたくしの魅力を認めてもらえないのでござ~ますう。
つまり、結婚相手が 現れないのですわァ。

この際 高望みはいたしません。
“寅さん”のような人でもいいですわ。
旅に出ていることが多いので 手がかからないと思うのでござ~ますう。

ついでだから、寅さんの映画でも見て、希望をつなごうと思います。

“袖触れ合うも他生の縁”と申します。
あなたも 一緒に寅さんのYouTubeでも見てくださいねぇ~。。。


(tora019.jpg)

<iframe width="420" height="315" src="//www.youtube.com/embed/0HoRb0ewoxQ?feature=player_detailpage" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

ところで、紫式部のお話も面白いですけれど、古代のお話も心にしみますわァ。
たまには、日本の古代史の記事も読んでくださいませぇ。

そういうわけで あなたのために平安史、古代史の記事を用意しました。
ぜひ 覗いてみてください。

天武天皇と天智天皇は

同腹の兄弟ではなかった。
 

天智天皇は暗殺された 

定慧出生の秘密 

藤原鎌足と長男・定慧 

渡来人とアイヌ人の連合王国

なぜ、蝦夷という名前なの?

平和を愛したアイヌ人

藤原鎌足と六韜

古事記より古い書物が

どうして残っていないの?


今、日本に住んでいる人は

日本人でないの?


マキアベリもビックリ、

藤原氏のバイブルとは?


とにかく、次回も興味深い記事が続きます。
だから、あなたも、また読みに戻ってきてくださいね。
じゃあ、またねぇ~。。。


(hand.gif)


ジューンさんの熟女下着 June Adams 下着美人
(30june.jpg)


(surfing9.gif)



(sayuri5.gif)

ところで、平成の紫式部こと、卑弥子さんは見かけによらず、京都の女子大学で腐女子に「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授という肩書きを持っています。

卑弥子さんの面白い話をもっと読みたい人は
下のリンクをクリックして読んでみてくださいね。


『曲屁(きょくべ)』

『天神様と東日本大震災』

『日本は良い国か?』

『日本を良い国に…』

『エロい熟女』

『アッと驚くマキアベリ!』

『良寛さんの顔』

『あなたの中の阿修羅』

『蝦夷って悪い意味?』

『伎楽は呉の音楽?』

『呉越の謎』

『紅のボートピープル』

『蕎麦屋と忠臣蔵』

『ピンクと桃色』

『妻の不貞』

『卑弥子さん、ご指名ですよ!』

『カン違い大岡越前』

『ロマンのカシオペア』

『カシオペアの現実』

『エロい徳子を探して』

『紫式部と皇国史観』

『エロい道鏡と薬師如来』

『天平の麗しき淑女』

『元からの饅頭』

『なぜ唐に留まったの?』

『下着美人』

『一所懸命』

『ねぇ、ねぇ、ねぇ効果』

『今さら聞けない、床上手』

『兄妹の恋と大乱』

『えっ、ヒトラーはベジタリアン?』

『外人に乗っ取られた日本?』

『失われたバレンタイン』

『軽井沢夫人@日本王国』

『都知事になれなかった男』

『落選男の正体?』

『カナダはカエデの国なの?』

『海外飛躍遺伝子』

『ふるさとは遠きにありて…』

『芭蕉と遊女の出会い』

『芭蕉と遊女が…あれぇ~!』

『宮沢りえと3723人の観客』

『血のつながり』

『チョー有名な三角関係』

『日本の真ん中』

『デンマンの死@玉淀』

『血の絆』

『イジメられたら?』

『アタマにくる一言をかわすには』

『顔文字がダメなら?』

『日本の一番長い日』

『オルフェと聖徳太子』

『寅さんの本棚』

『平成の紫式部』

『心にしみるウンチ』

『念願のトップページへ』

『愛とロマンの昔話』

『愛とロマンのアクセス解析』



軽井沢タリアセン夫人の小百合さんが扮するゴディバ夫人 Sayuri
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(byebye.gif)
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謙信と軽井沢タリアセン夫人(PART 1)

2014-10-30 16:35:19 | 日本史


 

謙信と軽井沢タリアセン夫人(PART 1)

 


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あらっ。。。 どうして上杉謙信と軽井沢タリアセン夫人が一緒に出てくるのでござ~ますかァ~?


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卑弥子さんならば、どうして上杉謙信と軽井沢タリアセン夫人が一緒に出てくるのか?。。。 その事はすぐに解るでしょう!

解らないからデンマンさんに尋ねているのですわ。

じゃあ、ちょっと次の記事を読んでみてください。


愛のポテトチップサンド

 


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デンマンさん。。。 ロマンチックで食欲が湧くタイトルですわねぇ~。。。



いけませんかァ~?

いけないことはありませんけれど、デンマンさんの常連さんたちは白けると思いますわァ~。。。

どうして僕のブログの常連さんたちが白けてしまうのですかァ~?

だってぇ~、デンマンさんは、また得意げに「さきたま古墳公園」でのピクニックの事を書くのでしょう?

あのねぇ~、白ける人は居ないと思いますよ。

どうしてですか?

どうしてってぇ~、上の写真を見ただけでも「さきたま古墳公園」ってぇ言うのは、日本離れした。。。ちょっと狭い日本では考えられないくらいの広々とした公園なのですよ。 初めてこの記事を読む人は、上の写真を見て「いったい ここはどこの公園だろうか?」。。。 とても日本の公園ではないだろうと思うのですよ。

そうでしょうか?

もう一度じっくりと写真を見てください。


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アメリカやカナダにある公園だと言われても納得できるくらいの広々とした公園なのですよ。



確かに、言われてみると 狭い日本には広すぎるほどの印象を与えますわねぇ~。。。

。。。でしょう!? だから、白けるどころか、上の写真を見ただけでも 何も知らない人は興味が湧きますよ。

そうでしうか?

しかも小百合さんの魅力的な写真が出てくる。


(sayuri88.jpg)



この上の写真を見た人は、「どうして こんな格好をしているのだろうか?」。。。と、ますます興味が湧いてくるのですよ。

そうでしょか?

しかも、広い公園に小百合さんだけしか見当たらない。 「いったい、ここはどこなの?」。。。「マジで、こんな公園があるのォ~?」。。。と不思議な気持ちで読み続けるのですよ。

そうでしょうか?

そうですよ。。。 ところで、小百合さん。。。こんな広々とした公園なのに ピクニックをしている人が どういうわけで僕と小百合さんだけなのですか?

デンマンさんは知らないでしょけれど、最近、日本の公園では、火を使ってはいけないのです。 だから、バーベキューなど、公園内で してはダメなのですわ。 それで、ピクニックをする人も少ないのだと思いますわ。

でもねぇ~、昨日(10月16日)は、関東地方は素晴らしい秋晴れだったのですよ。 それなのに、バーベキューをしながらピクニックを楽しんでいるのは僕と小百合さんだけでしたからねぇ。。。 うへへへへへ・・・・ 僕は不思議な気分でしたよう。 でもねぇ、小百合さんと公園を自分の裏庭のように独り占めしている気分になって 実に楽しかったですよう。

私は公園の管理人さんが見回りに来て、「火を使うのなら出て行け!」と言われるのじゃないかと。。。気が気ではありませんでしたわ。




『愛のポテトチップサンド』より
(2014年10月17日)




小百合さんと「さきたま古墳公園」でピクニックした事と上杉謙信が関係あるのでござ~ますかァ~?



もちろんですよう。。。 関係なかったら上の記事を卑弥子さんに読んでもらうようなことはしませんよ。

だから、どのように関係しているのでござ~ますか?

ちょっと次の地図を見てください。


(sakitama95b.jpg)



赤丸で囲んだ古墳に注目してください。



“丸墓山古墳”と書いてありますわね。

そうです。。。 この丸墓山に上杉謙信がやって来たのですよう。

でも、上杉謙信は越後の国。。。 つまり、現在の新潟県上越市に住んでいたのでしょう?

そうです。。。

その謙信が丸墓山にピクニックをするためにやって来たのでござ~ますかァ~?

戦国時代に、わざわざピクニックをするために はるばる新潟県から軍団を引き連れて埼玉県までやって来るはずがないでしょう! 忍城を攻略するためにやって来たのですよう。


(kenshin90.jpg)

<iframe width="500" height="350" src="//www.youtube.com/embed/jcG90I5UB3I?feature=player_detailpage" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>



。。。で、忍城は謙信の軍に攻め滅ぼされてしまったのでござ~ますかァ~?



この当時から忍城は難攻不落の城と言われていたのです。 だから、謙信も諦めて越後に帰ってしまったのですよう。

忍城を攻めたのは たったの1回だけですか?

謙信は忍城を3度攻めたらしい。 ものの本には次のように書いてある。


行田市内に上杉謙信の築いた城があったことを知っている人は少ない。
皿尾の雷電社がその名残りである。


(sarao20.jpg)

四百余年の前のことであり、完全な城ではなく砦に近いものであったらしいが、『関八州古戦録』『成田記』に“皿尾城”と記してある。

上杉謙信が忍城を攻めたことが三度ある。
天文22年(1553年)、永禄2年(1559年)、永禄3年(1560年)である。

天文22年雪どけ3月謙信は5千騎の大軍で関東に攻め入り忍城を攻めた。
成田16代長泰はかねて期していたので、本丸から全軍を指揮した。
謙信は佐間、下忍口を回る。

 (中略)

戦いらしい戦いもなく、小田原の援軍が来るのを知って謙信は引き上げた。 


第2回目は、永禄2年で館林より攻め入り、あっという間に利根川を渡り忍城に攻め入ったという。
丸墓山に櫓を組んで策戦を立て、忍城を水攻めしようとしたが、謙信の軍師宇佐美駿河守定勝は、水攻めは短時日では出来ない。
北條の援軍を考えて和睦すべきと進言、丸墓山の下の西行寺で和議をしたという。

その年(永禄3年)、謙信は9万6千を率いて小田原城を攻めた。
その時の戦勝祈願の鎌倉八幡宮の儀式の折、成田長泰のみ成田氏代々の儀礼によって馬乗のまま対面しようとしたので、謙信は怒り下馬させた。
一説には笞でなぐったとある。

成田長泰は一族をまとめ忍城へ引き返した。
関東の諸将もそれぞれ居城に引き上げたので、さすがの謙信も上州へ戻っていったという。

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)




198-200ページ『行田史跡物語』
著者: 大澤俊吉
1979(昭和54)年12月20日 初版発行
発行所: 歴史図書社




謙信は丸墓山に櫓を組んで策戦を立て、忍城を水攻めしようとしたのですよう。 でも、謙信は石田三成よりも頭が良かったらしい。



どうして水攻めしなかったのでござ~ますか?

あのねぇ~、忍城は“忍の浮き城”と言われるくらいだから、水攻めをしたって、効果がないのですよう。 実際、石田三成は本陣を丸墓山古墳に置き、近くを流れる利根川を利用して水攻めを行った。 総延長28キロメートルに及ぶ石田堤を造った。 でも、忍城はついに落城しなかった。


(oshi80.jpg)

石田三成が忍城水攻めのとき

陣を張った丸墓山古墳


<iframe width="500" height="350" src="//www.youtube.com/embed/YbJaF5Rv6Ck?feature=player_detailpage" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>


時は天正18年(1590年)6月4日館林城を落とした石田三成の2万3千の大軍は、6日は完全に忍城を包囲したが、11日の総攻撃にも忍城を落とすことが出来ず、三成は“水攻め”を策し、7日間で白川戸西明寺から埼玉(さきたま)の丸墓山、堤根、吹上、久下(くげ)へかけて、一大堤防を築き水攻めは着々と進んだ。

16日夜陰に乗じて下忍口より出た水泳の達人十数人は、見事、新堤を切り崩したので、敵の陣地に濁流が流れ込んだ。
口碑につたわる破壊の場所は下忍の堀切橋と、渡柳の堀切橋であったので、その地名が残っているという。

水攻めの失敗で6月25日、岩槻城を攻略した軍が石田三成の軍に援軍として到着した。
しかし三成は加勢されたのでは面目が立たないと、ひそかに下忍口に攻め寄った。

しかし左右沼地と地理に不案内なので、多勢で押し寄せたが、攻め込むことは出来なかった。
忍の城兵はは全くの少数であったがよく守り抜いた。


(tokuko05.jpg)

27日には長野口から入った石田勢は大手口まで攻め入ったが、成田氏長の娘18歳の甲斐姫の奮戦で士気が上がり、佐間口の決戦は正木丹波守の指揮で城兵は勇気百倍、2万数千の敵に千にも足りない少数で勝利をおさめた。


(kaihime21.jpg)

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)




186ページ『行田史跡物語』
著者: 大澤俊吉
1979(昭和54)年12月20日 初版発行
発行所: 歴史図書社




18歳の甲斐姫の奮戦で士気が上がり、佐間口の決戦は正木丹波守の指揮で城兵は勇気百倍、2万数千の敵に千にも足りない少数で勝利をおさめた」と書いてありますけれど、甲斐姫は何をしたのでござ~ますかァ~?



甲斐姫は長刀(なぎなた)の達人だったのですよ。

長刀ってぇ、あの包丁のお化けのようなものでござ~ますかァ~?

そうです。


(naginata.jpg)

<iframe width="500" height="350" src="//www.youtube.com/embed/GrjkYMGtBQs?feature=player_detailpage" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>



あらっ。。。 女だてらに すっご~いざ~ますわァ。。。



卑弥子さんも長刀を始めたらどうですか?

いいえ。。。 あたくしは、このような はしたないことは出来ませんわ。

どうして。。。?

だってぇ~、長刀のお稽古を始めたら、ますます結婚できなくなりますわァ~。。。おほほほほほ。。。



(laugh16.gif)

 (すぐしたのページへ続く)

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謙信と軽井沢タリアセン夫人(PART 2)

2014-10-30 16:33:18 | 日本史


 

謙信と軽井沢タリアセン夫人(PART 2)


【卑弥子の独り言】


(himiko22.gif)

あなただってぇ~、結婚のことを考えるならば、長刀のような危ない物を振り回していたら、男性が近寄らないと思うでしょう?!
あたくしは、やっぱり、武道よりも日本の古典に親しみたいのでござ~ますわ。

でも、甲斐姫ってすごいですわよねぇ。
ちいっとばかり あこがれますわ。


(kaihime12.jpg)

<iframe width="420" height="315" src="//www.youtube.com/embed/7kQxD7r8wM4?feature=player_detailpage" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

でも やっぱり、あたくしは古風な平安女性をお手本にいたします。
こう見えても あたくしは京都の女子大学で腐女子たちに「日本文化と源氏物語」を講義しているのでござ~ますわァ。
長刀の稽古を始めるよりも、源氏物語を教えていた方が、男性は安心すると思うのでござ~ます。

この際 高望みはいたしません。
“寅さん”のような人でもいいですわ。
旅に出ていることが多いので 手がかからないと思うのでござ~ますう。

この際、寅さんの映画でも見て、希望をつなごうと思います。
ついでだから、あなたも 一緒に寅さんのYouTubeでも見てくださいねぇ~。。。


(tora019.jpg)

<iframe width="420" height="315" src="//www.youtube.com/embed/0HoRb0ewoxQ?feature=player_detailpage" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

ところで、戦国時代のお話も面白いですけれど、古代のお話も心にしみますわァ。
たまには、日本の古代史の記事も読んでくださいませぇ。

そういうわけで あなたのために平安史、古代史の記事を用意しました。
ぜひ 覗いてみてください。

定慧出生の秘密 

藤原鎌足と長男・定慧 

渡来人とアイヌ人の連合王国

なぜ、蝦夷という名前なの?

平和を愛したアイヌ人

藤原鎌足と六韜

古事記より古い書物が

どうして残っていないの?


今、日本に住んでいる人は

日本人でないの?


マキアベリもビックリ、

藤原氏のバイブルとは?


とにかく、次回も興味深い記事が続きます。
だから、あなたも、また読みに戻ってきてくださいね。
じゃあ、またねぇ~。。。


(hand.gif)


ジューンさんの熟女下着 June Adams 下着美人
(30june.jpg)


(surfing9.gif)



(sayuri5.gif)

ところで、平成の紫式部こと、卑弥子さんは見かけによらず、京都の女子大学で腐女子に「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授という肩書きを持っています。

卑弥子さんの面白い話をもっと読みたい人は
下のリンクをクリックして読んでみてくださいね。


『曲屁(きょくべ)』

『天神様と東日本大震災』

『日本は良い国か?』

『日本を良い国に…』

『エロい熟女』

『アッと驚くマキアベリ!』

『良寛さんの顔』

『あなたの中の阿修羅』

『蝦夷って悪い意味?』

『伎楽は呉の音楽?』

『呉越の謎』

『紅のボートピープル』

『蕎麦屋と忠臣蔵』

『ピンクと桃色』

『妻の不貞』

『卑弥子さん、ご指名ですよ!』

『カン違い大岡越前』

『ロマンのカシオペア』

『カシオペアの現実』

『エロい徳子を探して』

『紫式部と皇国史観』

『エロい道鏡と薬師如来』

『天平の麗しき淑女』

『元からの饅頭』

『なぜ唐に留まったの?』

『下着美人』

『一所懸命』

『ねぇ、ねぇ、ねぇ効果』

『遊女と三つ子』

『布袋さんの魅力』

『今、エジプトに?』

『鍋かむり祭り』

『日本人はどこから来たの?』

『卑弥子も待ってます』

『卑弥子の源氏物語』

『源氏物語もエッチなのに』

『失意の紫式部』

『めちゃムカつく足枷』

『床上手な女になりたい』

『日本へ、紀元前のメイフラワー号』

『日本の死海文書』

『今さら聞けない、床上手』

『兄妹の恋と大乱』

『えっ、ヒトラーはベジタリアン?』

『外人に乗っ取られた日本?』

『失われたバレンタイン』

『軽井沢夫人@日本王国』

『都知事になれなかった男』

『落選男の正体?』

『カナダはカエデの国なの?』

『海外飛躍遺伝子』

『ふるさとは遠きにありて…』

『芭蕉と遊女の出会い』

『芭蕉と遊女が…あれぇ~!』

『宮沢りえと3723人の観客』

『血のつながり』

『チョー有名な三角関係』

『日本の真ん中』

『デンマンの死@玉淀』

『血の絆』

『イジメられたら?』

『アタマにくる一言をかわすには』

『顔文字がダメなら?』

『日本の一番長い日』

『オルフェと聖徳太子』

『寅さんの本棚』

『平成の紫式部』

『心にしみるウンチ』

『念願のトップページへ』



軽井沢タリアセン夫人の小百合さんが扮するゴディバ夫人 Sayuri
(godiva05.jpg)


(byebye.gif)
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チョー有名な三角関係(PART 1)

2014-05-28 16:32:27 | 日本史

 

チョー有名な三角関係(PART 1)

 


(bedrm03.jpg)




(himiko22b.gif)

デンマンさん。。。 なんだか おもろい画像でござ~♪~ますわねぇ~。 おほほほほほ。。。 でも、どうしてベッドルームが日本間なのでござ~ますか?


(kato3.gif)

だから、日本のお話ですよう。

ムカついている女性は、日本人には見えませんわ。。。んで、最近のお話でござ~ますか?

いや。。。 ずいぶんと昔の話ですよ。 卑弥子さんは最近の“チョー有名な三角関係”を知っているのですか?

いいえ。。。 あたくしは、そのような事には興味がござ~ませんわァ。

あれっ。。。 マジで。。。? 女性は、けっこう そういう事には興味があるじゃありませんかァ! 女性週刊誌が売れるのも芸能界の乱れた関係やゴシップが たくさん書いてあるからじゃないのですかァ?

。。。んで、ずいぶん昔の“チョー有名な三角関係”というのは、いったい誰のことでござ~ますかァ~?

卑弥子さんも良く知っている人物ですよ。 ちょっと次の和歌を読んでください。




茜(あかね)さす 

紫野行き

標野(しめの)行き 

野守(のもり)は見ずや 

君が袖振る

 

作者:

額田王(ぬかたのおおきみ)




現代語訳:

茜色の光に満ちている紫の野、

天智天皇御領地の野で、

あぁ、あなたはそんなに

袖を振ってらして、

野守が見るかもしれませんよ。


(violet3.jpg+spacer.png+bond010.gif)



あらっ。。。 このお歌は、あの有名な額田王(ぬかたのおおきみ)がお詠みになったものではござ~ませんかァ!



そうですよう。

懐かしいですわァ。 確か以前にデンマンさんは『日本で最も有名な三角関係』というタイトルで記事を書いていましたわね。


(lotus68b.jpg)

『日本で最も有名な三角関係』



。。。んで、どう言う訳で、また額田王のお歌を取り上げたのでござ~ますか?



あのねぇ~、実は夕べ本を読んでいたら次の箇所にぶち当たったのですよ。


「天智・天武」兄弟の争いか

『日本書紀』や『万葉集』はこの二人と額田王の関係を文芸的、映像的に描くが、歴史学者や文学研究者のなかにできすぎの話とする見解が増えてきた。

天智・天武兄弟説の矛盾には「大化の改新」でも触れたが、この二人をめぐる額田王の恋歌にしても早くから白川静、沢潟久治、池田弥三郎、山本健吉らによって否定されている。

短歌の文体も初期の漢詩体ではなく数十年後の文体であり、後世の造作の疑いが大きい。


(nukata09.jpg)

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
イラストはデンマン・ライブラリーより)




298ページ 『ゼロからの古代史事典』
編著者: 藤田友治、伊ヶ崎淑彦、いき一郎
2012年8月10日 第2刷発行
発行所: 株式会社 ミネルヴァ書房




つまり、上の歌は額田王がお詠みになったのではなくて、誰か他の人が作ったというのでござ~ますか?



そうですよゥ。。。

。。。んで、デンマンさんも、そう思うのでござ~ますか?

そうです。。。 「大化の改新」だとか。。。 いろいろと考えてゆくと、この当時、不思議な謎が多すぎるのですよ。


(taika001.jpg)

<iframe width="500" height="350" src="//www.youtube.com/embed/v6DnTVaLD0I" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>



「大化の改新」はマジでなかったのでござ~ますかァ?



もちろん「乙巳の変(いっしのへん)」という大事件はあったのですよ。 つまり、中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌子(藤原鎌足)らが宮中で蘇我入鹿を暗殺して蘇我氏(蘇我本宗家)を滅ぼしたのですよ。 でもねぇ~、その後、中大兄皇子は体制を刷新して大化の改新と呼ばれる改革を断行したことになっている。 でも、この一連の政治改革について、歴史研究者の間で、いろいろな疑問を投げかけている人がいるわけですよ。

上のビデオクリップは、その疑問についてのことでござ~ますか?

そういうことです。

。。。んで、額田王のお歌とされているものも、「大化の改新」と関係あるのでござ~ますか?

僕は関係していると思うのです。。。 だから、こうして また“チョー有名な三角関係”を取り上げたわけなのですよ。

分かりましたわ。。。 では、その訳をさっそく 伺いたく思いますわァ~。

あのねぇ~。。。 上の引用の中で次のように書いてあることに注目してください。


(bond010.gif)


『日本書紀』や『万葉集』は

この二人と額田王の関係を

文芸的、映像的に描くが、

歴史学者や文学研究者のなかに

できすぎの話とする見解が増えてきた。




できすぎの話というのは、いったい どういうことでござ~ますか?



つまり、あまりにも都合のいいような話ということですよ。

誰にとってでござ~ますか?

もちろん、天智天皇の後に政権の座につく天武天皇に都合のいい話になっているのですよ。

そうでしょうか?

だってぇ、そうじゃありませんか!? 上の歌を読む限り額田王が 後に天武天皇になる大海人皇子に惹かれているのがよく解る。 この歌を後世の我々が読むと、どうやら人間的に見て天智天皇よりも天武天皇の方がすぐれているのではないか! だから、額田王も天武天皇の方に惹かれているのではないか! 僕は、初めて上の歌を読んだ時に、そのような印象を持ったのですよ。 ところで、この時大海人皇子(後の天武天皇)は額田王の上の歌に答えている。



(murasaki2.jpg)

紫草(むらさき)の 

にほえる妹(いも)を

憎くあらば 

人妻ゆえに 

われ恋ひめやも




額田女王は、大海人皇子の間に十市皇女をもうけていますが、
その後、額田女王は天智天皇に召され、大海人から見れば“人妻”となったのです。
この歌は、二人の“秘めた恋心”を大胆に告白したものと解釈している人が多いですよ。
つまり、後の天武天皇が、こう詠(うた)っているんですよね。


今のオマエは天皇の妻であるかもしれない。

でも、ボカァ~、オマエのことが忘れられないんだよ。

こんなに愛してしまっているんだよ。

もう、恥も外聞もないよ。

ボカァ~、だから、オマエ見ると、どうしても、

あのように手を振ってしまったんだよ。

分かるだろう?


こんな気持ちだと思うのですよね。
この歌は、668年の蒲生野での遊猟のあと、大津宮での浜楼での宴の際に衆目の中で詠まれた、と言われています。
後に額田女王をめぐって大海人皇子と天智天皇(兄弟)との確執を招き、壬申の乱の遠因になったという歴史家も居るほどです。

この歌は、“戯れ”の歌という見方もあり、戯れの中にこそ真実が秘められているといった解釈もあります。
いずれにしてもこの古代のロマンにあふれるこの歌が、今も多くの万葉ファンを魅了していることは疑いのないことです。

天智天皇の死後、その子である大友皇子と大海人皇子の間で皇位継承をめぐって戦われたのが672年に起こった壬申の乱です。
この乱は額田女王にとって大きな悲劇でした。
大海人皇子とは十市皇女をなした仲です。
一方の大友皇子は十市皇女の夫です。

つまり、かつての愛人と娘の夫が戦ったわけです。

戦いは大海人皇子に有利に展開し、瀬田の合戦に破れた大友皇子は山背国、山前の地で首をくくり自害したのです。
十市皇女も夫の後を追って自殺したと言われています。
乱後の大海人皇子は天武天皇となり、その時、彼を側で支えたのは額田女王ではなく、天智天皇の娘(後の持統天皇)鸕野讚良(うののさらら)皇女だったのです。

その後、額田女王の身の上にどのような変化があったのかは史実としては不明ですが、彼女は自分自身の時代の終焉を悟ったに違いありません。
大津宮は遷都からわずか6年余りで廃都となりました。

額田女王は“万葉の女王”で

あるにもかかわらず、

なぜ謎の女性なのか?



(seisho05.gif)



額田女王こそ、万葉集という現代人には無縁のような歌集にロマンをちりばめている日本史上屈指の女流歌人だと僕は思いますね。
また、僕だけではなく、多くの歴史家や、文学愛好家や、歌人、詩人たちがそう信じていると思います。
額田女王は大化の改新から壬申の乱にかけて活躍し、
万葉随一の女流歌人と言われた。

彼女はまた絶世の美女とも言われ、天智天皇・天武天皇に深く愛された。

激動の歴史の中で、額田女王は、ひたすら自らの思いに忠実に生きた。
美しく、才知にあふれ、強く情熱的な女性であった。

あなたもそう思いませんか?
だからこそ、万葉集の額田女王の歌はロマンを漂わせながら光り輝いている。

なぜ、光り輝いているのか?
もちろん歌そのものがロマンに満ちている。
しかし、それならば、なぜ、『日本書紀』には、額田女王の記述がたったの1行なのか?
なぜなのか?

額田女王のすばらしい業績が万葉集の中で光っている!
それなのになぜ?

僕はこのことでずいぶんと考えさせられました。
何も僕が深刻ぶって悩まなくても良いのですが、僕にとって、額田女王が、あたかも“古代のレンゲさん”のような存在になっている。

叶わぬ僕の片思いなんですよ。
つまり、“心の恋人”です。うへへへへ。。。。
僕は気が多いのですよ。

では、マジになって。。。

あれほど万葉集の中で輝いている額田女王が『日本書紀』の中では、なぜ1行の記述なのか?
それは次の天皇家の系図を見ると実に良く分かりますよ。


(keizu03.gif)

この当時の実権を握っていたのは持統天皇と藤原不比等だったんです。
この二人の結びつきがこの系図にありありと表れています。
この二人の人物は政治的に2人3脚で律令政治を確立させて実施した同志だったんですよね。

『日本書紀』の編集長は誰か?
藤原不比等です。
壬申の乱の後、大海人皇子は天武天皇となった。
その時、彼を側で支えたのは額田女王ではなく、天智天皇の娘(後の持統天皇)鸕野讚良(うののさらら)皇女だった。
天武天皇はあれほど額田女王を愛していたのに!
なぜ?

あなたにも分かりますよね?
水面下で額田女王と持統天皇との女の確執がある。
額田女王は人から愛される性格だった。
それは、この女性が二人の天皇から愛されたことでも良く分かることです。

ところが持統天皇は人から愛されるような性格ではなかったのです。
持統天皇にしてみれば、同じ女として面白くあろうはずがない!

これは歴史家が誰も言っていないことですが、僕は持統天皇が境界性人格障害者だと信じることができます。
もちろん、当時、そのような病名はない!
他に、このようなことを言う人も居ませんよ!

とにかく持統天皇は独占欲の強い人だった!

それは、天武天皇の血を引く天皇後継者の息子たちがたくさん居たにもかかわらず、持統天皇は断固として、自分の血が流れていない者には皇位に就(つ)かせなかったことからも実に良く表れています。


 (すぐ下のページへ続く)


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