美人スパイ
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デンマンさん、最近、美人スパイが出てくる映画にハマっているのですかァ~?
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美人スパイと言えば、ジェームズ・ボンドの007映画に出てくるけれど、僕は特に美人スパイに拘(こだわ)っているわけではありません。。。
じゃあ、どういうことを基準にして映画を選んでいるのですか?
あのねぇ~、僕はバンクーバー市立図書館のホーム・ページを開いて映画を観た人が感想を書き込んだページを見るのです。。。
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■『実際のページ』
この上のページを見て、まだ観たことがない映画をすべて予約するのです。。。そういうわけで、僕は最高限度の50本の映画を常に予約しているのですよ。。。
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50本ものDVDを予約しておいて、一度に50本の映画が届いたらどうするのですか?
一度に50本ものDVDが届くことはありません。。。感想を書き込む映画は、たいてい人気があるから、他のメンバーも予約しているのです。。。だから、予約してから1週間たっても、たいてい15本から20本のDVDが図書館の僕の専用の棚に届いているだけです。。。
15本から20本の映画を1週間で見るのですか?
ドラマは、1週間以内に見なければならないけれど、ドキュメンタリーは3週間以内に見ればいいのです。。。だから、1日3本の映画を見れば1週間に21本見ることができます。。。
あらっ。。。1日に3本の映画を観ているのですか?
そうです。。。平均して、1日に3本の映画を観ています。。。
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■『実際のページ』
1本の映画が1時間半として、1日に4時間半も映画を観るのですか?
そうです。。。
デンマンさんは1日に2本の記事を毎日ブログに投稿してますよねぇ~。。。よく映画を観る時間がありますわねぇ~。。。
1日は24時間ありますから。。。映画を観る時間はありますよ。。。
つまり、睡眠時間はナポレオンのように1日に3時間ほどですかァ~?
そうです。。。
まさかァ~。。。!?
それは冗談です。。。つまらない映画は20分観たらやめます。。。毎日2本の記事を投稿しているけれど、そのうちの1本は かつて書いた記事を再投稿しているのですよ。。。だから、映画を観て、ブログの記事を書いても毎日少なくとも7時間は眠ることができます。。。
。。。で、美人スパイ というのは、上のどの映画に出てきたのですか?
赤枠で囲んだ 5422番の映画ですよ。。。
それにしても映画の観すぎですわねぇ~。。。5月15日現在で、5450本もの映画を観ているではありませんかァ!。。。映画中毒ですわァ~。。。うふふふふふ。。。
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■『実際のページ』
『美しい名も知らぬ女(Beautiful Stranger)』というポーランドの映画ですわねぇ~。。。
そうです。。。この「美しい名も知らぬ女」というのが 美人スパイ なんですよ。。。
どういう話なのですか?
次のようなあらすじです。。。
A young Russian army lieutenant, in 1916 during World War I, is given the secret, dangerous mission of carrying documents from Saint Petersburg to Stockholm by train.
Love and duty conflict when the lieutenant finds out that a beautiful mature woman, with whom he falls in love, is a spy charged with capturing the documents he is guarding.
第一次世界大戦中の1916年、若いロシア陸軍中尉は、サンクトペテルブルクからストックホルムまで列車で書類を運ぶという秘密の危険な任務を与えられる。
中尉は、車中でたまたま出会った美しい熟女に恋してしまう。
彼女は、中尉が守っている文書を入手する任務を負ったスパイであることを知り、中尉は愛と使命を考えながら悩む。
カタログページの説明 (デンマン訳)
そもそも、この映画をどういうわけで取り上げたのですか?
ちょっと次のクリップを観てください。。。
この上のクリップで、次のような会話がかわされるのですよ。。。
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What are thins coming to!
ここでジューンさんに問題です。。。この上の英語の訳文は、どういう意味ですか?
この英語は、なんだか変ですよねぇ~。。。thin というのは形容詞ですわ。。。辞書を引いても名詞はないはずです。。。あったとしても「細いもの」「薄いもの」に S を付けて複数形にする意味がありませんわ。。。それに定冠詞(the)が付いてないので、具体的に何を意味するのかが全く分かりません。。。この人物はポーランド語で話しているのです。。。おそらく、翻訳者の書き間違いだと思うのですわ。。。
なるほどォ~。。。僕も調べてみました。。。次の検索結果を見てください。。。
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■『拡大する』
■『現時点での検索結果』
GOOGLEの自動翻訳は、よく間違えるのだけれど、この検索結果は訳文が可笑しい事を指摘していますよ。。。こういうこともあるのですよ。。。thins じゃなく、正しい単語 things を入れると次のように訳してます。。。
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つまり、「いったい何が起ころうというのか!」と言っているのですよ。。。そう思いませんか?
そうですわねぇ~。。。定冠詞が付いてないので漠然と何か不安なことが起ころうとしている、と嘆かわしく思っているのですわァ。。。何しろ第一次世界大戦中ですから。。。つまり、この事で わたしを呼ぼ出したのですか?
そうです。。。いけませんでしたか?
このようなことなら、卑弥子さんでも間に合っていたではありませんかァ~?
いや。。。「美人スパイ」を取り上げたのだから、やっぱりジューンさんじゃないとまずいのですよ。。。うへへへへへへ。。。
。。。で、その後の会話はどうなっているのですか?
あのねぇ~、ここで日本人のミス鈴木が出てくるのですよ。。。
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Miss Suzuki
日本人の乳母(nanny)の役で出てくる このミス鈴木は、日本人にちょっとばかり容貌が似ているけれど、実は、ナタリヤ・アリンバサロヴァ(Natalya Arinbasarova)というカザフ人とポーランド人のハーフの女優です。。。
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Fine old British upbringings ...
古くからの素晴らしいイギリス流の
育て方を…
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What has upbringing got to do with it?
その育て方と、これから起ころうとしている
ことにどういう関係があると言うのォ~?
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Why do they drag the kids
along a Japanese nunny?
どういうわけで日本人の乳母といっしょに、
子どもたちと旅をしないといけないのよ?
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When is she supposed to bring them up?
ミス鈴木は、いつ仲間の日本人を
連れてくることになってるのだろう?
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There are Japanese spies everywhere!
日本人のスパイがどこへ行っても
居るじゃないのォ~!
この会話の後でこの映画の主人公の「美人スパイ」が偶然のようにしてロシア陸軍の中尉のテーブルに歩いてゆき、「失礼ですが、ここにかけてもよろしいかしら?」と言うのですよ。。。
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つまり、上の会話を聴いたのでデンマンさんはこの映画を取り上げる気になったのですかァ~?
そうですよ。。。特に美人のスパイが気に入って取り上げたわけじゃないのです。。。旦那に不満を抱えている奥さんが「日本人のスパイがどこへ行っても居るじゃないのォ~!」という字幕が急に目の前に出てきたので、僕はちょっとビックリしたのですよ。。。どうして、こんな所に日本のスバイが、ウジャウジャと出てくるのか!?。。。これってぇ悪い冗談なのかァ~? それにしても、これはポーランドの俳優を使い、ポーランドの監督が作った映画なのですよ。。。それなのに、突拍子(とっぴょうし)もなく日本のスパイが会話に出てくる!
それで、調べてみたのですか?
そうなのですよ。。。僕は歴史に興味があったから、第一次世界大戦中だということで すぐに明石元二郎という人物が頭に浮かんだ。。。
明石元二郎
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生誕: 1864年9月1日(元治元年8月1日)
他界: 1919年(大正8年)10月26日
明石 元二郎(あかし もとじろう)は、明治・大正期の日本の陸軍軍人。
陸軍大将正三位勲一等功三級男爵。第7代台湾総督。福岡藩出身。
夫人は国子(郡保宗の二女)、後妻に黒田信子(黒田一葦の娘)。
明石泰二郎(陸士27期、陸軍少将)は甥。
生い立ち
福岡藩士・明石助九郎貞儀の次男として元治元年(1864年)に福岡藩・福岡城下の大名町に生まれる。
明石家の家格は「大組」(福岡藩黒田家の家中で、最上位の家格「中老」に次ぐ2番目の家格。)であり、1300石の大身であった。
1877年(明治10年)6月に陸軍士官学校幼年生徒となった。
1883年(明治16年)12月25日、陸軍士官学校(旧陸士6期)を卒業し、同日、歩兵少尉に任じられた。
更に1889年(明治22年)に陸軍大学校(5期)を卒業する。
ドイツ留学、仏印出張、米西戦争のマニラ観戦武官を経て、1901年(明治34年)にフランス公使館付陸軍武官となる。
1902年(明治35年)にロシア帝国公使館付陸軍武官に転任、のちに首相となる田中義一陸軍武官から業務を引き継ぐ。
当時からロシア国内の情報を収集し、ロシアの反政府分子との接触を試みる工作活動が行われていた。
首都ペテルブルクのロシア公使館に着任後、日英同盟に基づいた情報協力により、イギリス秘密情報部のスパイであるシドニー・ライリーと知り合い、友人となった。
明石の依頼により、ライリーは1903年(明治36年)から建築用木材の貿易商に偽装して戦略的要衝である旅順に移住し材木会社を開業、ロシア軍司令部の信頼を得て、ロシア軍の動向に関する情報や、旅順要塞の図面などをイギリスおよび日本にもたらしている。
日露戦争での諜報活動
明治37年(1904年)、日露戦争が開戦すると駐ロシア公使館は中立国スウェーデンのストックホルムに移り、明石(当時の階級は大佐)は以後この地を本拠として活動する。
開戦直前の1月、参謀本部次長児玉源太郎は開戦後もロシア国内の情況を把握するため、明石に対し「ペテルブルク、モスクワ、オデッサに非ロシア人の外国人を情報提供者として2名ずつ配置」するよう指令電報を発した。
さらに明石は日露開戦と同時に参謀本部直属のヨーロッパ駐在参謀という臨時職に就き、ストックホルムに移った際にも児玉から、「お前を信じているぞ」という趣旨の激励の電報が届いた。
明石はロシア支配下にある国や地域の反ロシア運動を支援し、またロシア国内の反政府勢力と連絡を取ってロシアを内側から揺さぶる為、様々な人物と接触した。
例を挙げると、フィンランドの反ロシア抵抗運動指導者カストレーン、シリヤクス、スウェーデン陸軍将校アミノフ、ポーランド国民同盟ドモフスキ、バリツキ、社会革命党チャイコフスキー、グルジア党デカノージ、ポーランド社会党左右両派、他ロシア国内の社会主義政党指導者、民族独立運動指導者などである。
特に、当時革命運動の主導権を握っていたコンニ・シリヤクス (Konni Zilliacus)率いる フィンランド革命党などを通じ、様々な抵抗運動組織と連絡を取り、資金や銃火器を渡し、デモやストライキ、鉄道破壊工作などのサボタージュが展開されていった。
内、鉄道破壊工作などは失敗するものの、デモ・ストライキは先鋭化し、ロシア軍はその鎮圧のために一定の兵力を割かねばならず、極東へ派遣しにくい状況が作られた。
明石の工作の目的は、ロシア国内の反乱分子の糾合や、革命政党エスエル(社会革命党)を率いるエヴノ・アゼフなどへの資金援助を通じ、ロシア国内の反戦、反政府運動の火に油を注ぎ、ロシアの対日戦争継続の意図を挫折させようとしたものであり、満州軍においては、欧州の明石工作をロシア将兵に檄文等で知らせて戦意を喪失させようと計ったり、また欧州情勢を受けてロシア軍の後方攪乱活動を盛んに行ったりした(満州義軍)。
また明治37年(1904年)5月、ポーランドの反ロシア民族主義者ロマン・ドモフスキが児玉源太郎と会談した。
満洲軍設置の折、激務であった児玉がわざわざ時間を割いたのは、明石から情報を得ており、連携が取れていた為である。
日露戦争中全般にわたり、ロシア国内の政情不安を画策してロシアの継戦を困難にし、日本の勝利に貢献することを意図した明石の活動は、後に、明石自身が著した『落花流水』などを通じて巷にも日本陸軍最大の謀略戦と称えられるようになった。
参謀次長長岡外史は、「明石の活躍は陸軍10個師団に相当する」と評し、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世も、「明石元二郎一人で、満州の日本軍20万人に匹敵する戦果を上げている」と言って称えたと紹介する文献もある。
成果の度合いや後述するレーニンとの会見の有無については別にしても、これら明石の謀略活動の意図に関しては研究者の間でもほぼ見解は一致している。
なお、前述した『落花流水』や司馬遼太郎が執筆した小説『坂の上の雲』において、以下のような粗筋がベースになって描かれている。
明治37年(1904年)、明石はジュネーヴにあったレーニン自宅で会談し、レーニンが率いる社会主義運動に日本政府が資金援助することを申し出た。
レーニンは、当初これは祖国を裏切る行為であると言って拒否したが、明石は「タタール人の君がタタールを支配しているロシア人の大首長であるロマノフを倒すのに日本の力を借りたからといって何が裏切りなのだ」といって説き伏せ、レーニンをロシアに送り込むことに成功した。
その他にも内務大臣プレーヴェの暗殺、血の日曜日事件、戦艦ポチョムキンの叛乱等に関与した。
これらの明石の工作が、後のロシア革命の成功へと繋がっていく。
後にレーニンは次のように語っている。「日本の明石大佐には本当に感謝している。感謝状を出したいほどである。」と。
この件は歴史家から疑念が示されている。
例えば、稲葉千晴が明石が拠点とした北欧の研究者と共同して行った明石の工作の検証作業では、レーニンと会談した事実や、レーニンが上記のような発言を行った事実は確認されず、現地でもそのような説は流布していないことが示された上、ロシア帝国の公安警察であるオフラナが明石の行動をチェックしており、明石が血の日曜日事件やポチョムキンの反乱に直接関与していた根拠は薄いとしている。
ただし一方で稲葉は、日露戦争において欧州での日本の情報活動が組織的になされていたこと、その中で明石の収集した情報が量と質で優れていたことについては評価している。
今井はレーニンと会談したという話を、日露戦争後に陸軍で傍流扱いされた明石の屈折した感情から出た言葉ではないかと推定している。
また西原和海も、著書において“レーニンは明石の申し出を断った”と記している。
日本国内においては、日露戦争での明石の活動が評価されているが、対戦国であったロシア側は、明石の活動がロシアの対日警戒、対日諜報活動を促したとしている。
ロシアの月刊誌『ロージナ(ロシア語版)』(Родина、『祖国』の意)は2004年の日露戦争特集号で、日本の参謀本部や外務省は満州において中国人やモンゴル人を使って強力な情報網を構築したが、このことがロシア(ソ連時代)の対日情報工作の強化(一部はゾルゲ事件のように明るみに出る)に繋がったこと、また日本自身の防諜体制の甘さをもあわせて指摘している。
日本側もフランス人記者を使ったロシアからの諜報工作に晒されていたのである。
日露戦争中、明石は一人で巨額の工作資金を消費した。
それは当時の国家予算約2億3,000万円の内、100万円(今の価値では400億円以上)程であったが、参謀総長山縣有朋、参謀次長長岡外史らの決断により参謀本部から支給され、ロシア革命支援工作などにも利用された。
この点について評論家西部邁は「日露戦争のときには、日本にも明石元二郎という立派なスパイがいました。彼が使った工作資金はいまの標準でいうと数百億円ですってね。一兆円という話も聞いたことがある。それで第一次ロシア革命を煽り立てるわけです。これにはさすがのツアーも参ってしまった。」と述べている。
エピソード
ほとんど歯を磨く習慣がなく、それが晩年まで続いた。
服装について無頓着であり、陸軍士官学校時代、制服のズボンが緩く、へそを出しながらズボンの裾を引きずって歩いていた。
整理整頓にも無頓着で、台湾総督時、官邸を一切掃除させず、身辺が荒れ放題となっていた。
絵葉書が好きで、玄関・応接間・寝室など家中に絵葉書を貼りつけた為、まるで7、8歳の子供部屋のようになっていた。
外国語と算術に長けていた。
あるパーティの席で、ドイツとロシアの士官がおり、ドイツの士官が明石にフランス語で「貴官はドイツ語ができますか」と聞いてきた。
元二郎は、「フランス語がやっとです」とわざと下手なフランス語で答えた。すると、そのドイツの士官は、元二郎を無視して、ドイツ語でロシアの士官と重要な機密について話し始めた。
しかし、元二郎は、ドイツ語は完璧に理解しており、その機密をすべて聞いてしまったという。
元二郎は、フランス語、ロシア語、英語も完璧に理解していた。
製図書きにも優れており、ある外国人のパーティに出席した際、名刺を忘れた八代六郎の為にその場で器用に紙を裂き、まるで印刷してあったかのように文字を入れ、10枚ばかり即席の名刺を作成した。
製図の授業の際、明石は鼻水を垂らしながらもそれを手で拭い、なおかつその手でまた製図をいじっていたので、製図が真っ黒になってしまっていた。
陸軍幼年学校時代の明石は、お稲荷様にお供えされた赤飯の盗み食い常習犯であり、また夜中にボートに乗って転覆させたりなど悪戯を繰り返していたが、教師や先輩、友人などから嫌われたり憎まれたりすることはなかった。
陸軍士官学校時代も、周りの同僚や先輩などから好かれており、何かにつけ明石のもとに集まったり、噂の対象になっていたという。
陸大時代は下宿に猫を一匹飼っており、軍服に猫の毛が付いたまま講義に出席していたようである。
何かに熱中すると、ほかのことを完全に忘れてしまう性格でもあった。
上原勇作の手引きで山縣有朋と対談した時、どんどん話にのめりこんでゆき、しまいには小便を垂れ流していることに気がつかずそのまま熱弁を振るうに至ってしまった。
山縣もその熱意にほだされ、小便を気にしながら対談を続けざるを得なかったという。
協調性に欠けていて風采が上がらず、また運動音痴であったとされており、ロシア公使館付陸軍武官時代の上司にあたる駐露公使の栗野慎一郎でさえ、彼の能力を見抜けず、開戦の直前に外務省に「優秀な間諜が欲しい」と要請したほどであった。
栗野は、明石と同じ 修猷館出身である。
日清戦争後の参謀本部勤務中に勃発した米西戦争では、観戦武官としてフィリピンに赴いた。
この時、アメリカ軍は、陸戦においてはスペイン軍とは直接交戦せず、フィリピンの独立運動の指導者アギナルドの率いる市民軍に武器と資金を援助し、これを支援した。
アメリカ軍の支援を受けたアギナルド市民軍は、各地でスペイン軍を撃破し、これを駆逐した。
明石は、この戦いを観戦することで、後のロシア革命工作のヒント(敵の中の反対勢力を支援する)にしたと言われている。
明石の行ったロシア革命工作は、後に陸軍中野学校で諜報活動のモデルケースとして講義されている。
ロシアでの偽名は、アバズレーエフであった。
任務のため、スパイ活動や憲兵政治など社会の暗部で活躍したが、私生活では極めて清廉であった。
その一例として、革命工作資金の100万円のうち27万円が使い切れずに残ってしまった。
本来軍の機密に関する金であり、返済の必要はないのだが、明石は明細書を付けて参謀次長の長岡外史に全額返済した。
うち100ルーブル不足していたが、明石が列車のトイレで落としてしまった分であった。
ヨーロッパ赴任中、泥靴のまま公使館に入り、そのまま平気な顔をしていた。
日露戦争後高官となった後も、明石は薄汚い布団で犬を抱きながら寝ていた。
死因については、脳溢血説、肝硬変説などがある。生前、大酒飲みだったので、肝硬変説は特に有力視されているが、最近では当時世界的に流行していたスペイン風邪(インフルエンザの1種)ではなかったかと言われている。
出典: 「明石元二郎」
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上の映画には、この明石元二郎という人物は出てませんけれど、この映画は実際にあったことに基づいて作られたのですかァ~?
実は、上の映画はアレクセイ・トルストイが書いた歴史小説のエピソードを原案として作られたのです。。。
アレクセイ・トルストイ
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生誕: 1883年1月10日(ユリウス暦1882年12月29日)
他界:- 1945年2月23日
アレクセイ・ニコラエヴィッチ・トルストイ(Алексей Николаевич Толстой、英語:Aleksey Nikolayevich Tolstoy)は、ロシア(ソ連)の小説家。
多くの分野で執筆活動を行なったが、専門はSFと歴史小説であった。
「伯爵同志」と渾名された。
生涯
アレクセイ・ニコラエヴィッチ・トルストイはニコラエフスク(現在のサラトフ州プガチョフ)で1882年、トルストイ伯爵家の貧乏な分家に生まれた。
父は驃騎兵の任および地主の職から退いたニコライ・アレクサンドロヴィッチ・トルストイ伯爵であり、母は児童作家のアレクサンドラ・レオニエヴナ・ボストロム(トゥルゲネヴァ生まれ、通常アレクサンドラ・トルストイとして知られる)であった。
アレクセイは一家の第4子であった。母親は、妊娠2ヶ月だった時に情夫のアレクセイ・アポロノヴィッチ・ボストロムと駆け落ちした。
当時の離婚に関する法律に従って、有罪のアレクサンドラは再婚を禁じられた。
彼女が新生児を自分の手元に置いておく唯一の手段は、子供をボストロムの息子として登録することだった。
かくして、13歳になるまでアレクセイはアレクセイ・ボストロムとして育ち、自分の父親が義父だと疑うことはなかった。
1896年にトルストイ、ボストロム両家は官僚的な事務処理に大変な労力を費やして、アレクセイをトルストイ伯爵として登録し直した。
それでもなお、彼はアレクセイ・ボストロムを本当の父と見なしていて、ニコライ・トルストイや年上のきょうだい達と顔を合わせることはほとんどなかった。
1900年にニコライ・トルストイが死に、アレクセイには3万ルーブルと有名な家名が遺された。
のちに彼は、トルストイ家の遺産に対してかなりユーモラスな態度を身に付けた。
彼はアパートの壁を黒ずんだ肖像画で埋め尽くし、新来者にトルストイ家の祖先たちについて語ること(そうしてから全ての肖像画が近所の古道具屋で適当に買い集めたものであり、祖先の逸話は完全に作り話であると相手に明かす)で知られるようになった。
アレクセイ・N・トルストイ(以降A.N.トルストイと表記する)の初期の短編小説は、過度の自然主義と必然性のないエロティシズムにより、そしてミハイル・アルツィバーシェフ言うところの「味」が概して欠如していることにより、アレクサンドル・ブロークその他の有力な批評家に酷評された。
A.N.トルストイ名義で1900年代序盤に出版されたポルノグラフィ的作品には、本人の手によって封印されたものもあると言われる(しかし現在、大部分の批評家はA.N.トルストイがそれらの作者であるかどうか懐疑的である)。
A.N.トルストイはボリシェヴィキによる10月革命の最中、1917年にロシアを去って、初めはドイツへ、後にはフランスへ移住した。1923年、彼は本国に送還され、最も人気のある作家としてソヴィエト体制に受け容れられた。
彼は終生、共産党の忠実な支持者となって、スターリンを賞賛する作品を書き、またマクシム・ゴーリキーと組んで悪名高い旅行記(白海・バルト海運河への旅行を題材としたもの)を書いた。
A.N.トルストイは2編の長大な歴史小説を発表した。
ピョートル1世の政策をスターリンのそれになぞらえようと努めた『ピョートル一世』(1929年 - 1945年)、そしてロシア内戦を含む1914年から1919年までの時代を描いた『苦難の道』(1922年 - 1941年)である。
また数編の戯曲も書いた。
通常、A.N.トルストイはロシア語のSF小説としては最初の(そして最上の)作品を書いた業績で知られている。
火星への旅を扱った『アエリータ』(1923年)、そして『ガーリン技師の双曲線』は大衆から絶大な人気を得た。
前者は1924年に映画化された(SF映画の先駆けであった)。
『アエリータ:火星の女王』の他にも、トルストイの小説を基にした映画はソビエト連邦で数作、公開された。
またA.N.トルストイは『ニキータの幼年時代』を始めとする児童向けの本も数冊したためている。
『ニキータの幼年時代』は自身の幼年時代の回想録であるが、この本は時に息子ニキータに関するものだと誤解された。
実際には、彼はニキータという名前が好きだから使ったのであり、後年その名を自分の長子にも付けただけのことであった。
彼の児童書で最も著名なものは、イタリアの児童文学『ピノッキオ』を翻案した『ブラチーノの冒険、または黄金の鍵』(1936年)である。
その主要登場人物であるブラチーノは、ソヴィエトの人々の間ですぐに大人気となった。
代表的作品
Lirika (1907年) - 詩集。
The Ordeal (1918年)
Nikita's Childhood (1921年)
『ニキータの少年時代』上脇進訳 佐藤忠良絵 岩波少年文庫 1957
『ニキータ物語』田中泰子訳 理論社 1986
苦難の路(苦悩の中をゆく) (1921年 - 1940年) 3部作。1943年にスターリン賞。
『苦悩の中を行く』富永順太郎訳 文化学会出版部 1926
『苦難の路』原久一郎訳 改造文庫 1932
『苦悩の中をゆく 小説』昇曙夢,富永順太郎共訳 民主評論社 1950
『苦悩の中をゆく』原卓也訳 新潮文庫 1957
『苦悩の中をゆく』小沼文彦訳 角川文庫 1957
出典: 「アレクセイ・ニコラエヴィッチ・トルストイ」
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この歴史小説家のアレクセイは、あの有名な『戦争と平和』を書いたレフ・トルストイと関係があるのですか?
レフ・トルストイは本家の生まれで、アレクセイは貧乏な分家の生まれです。。。
つまり、上の映画は、歴史小説家のアレクセイが書いた話に基づいて作られたので、空想の物語ではないのですわねぇ~。。。
ある程度、当時の歴史的事実に基づいて作られたのですよ。。。だから、映画に出てきたミス・スズキという女性が明石元二郎に雇われた女スパイだったということも充分に考えられるのです。。。
つまり、ウィキペディアの説明にも書いてあるように、明石元二郎は ロシア国内の反政府勢力と連絡を取ってロシアを内側から揺さぶる為、様々な人物と接触したのですわねぇ~。。。
そうです。。。おそらく、明石元二郎はミス・スズキを始めとして、多くのスパイを雇ってスパイ網を構築していたのですよ。。。
そのことが上の映画に出てきたとデンマンさんは思うのですか?
そうです。。。この映画の美人スパイも、明石元二郎に雇われた女スパイかもしれないのですよ。。。「火のない所に煙は立たず」と昔の人は言いましたからねぇ~。。。僕は改めて、当時の日本のスパイ活動は想像を超えたものだったのだと、この映画を観て改めて感嘆したのですよ。。。当時の日本が日露戦争に勝てたのが納得ゆきます。。。Information is power!(情報はパワーだ!)なのですよ。。。
つまり、明石元二郎のスパイ活動でロシア革命を支援したことが日露戦争の勝利に繋がったのですわねぇ~。。。
もちろん、東郷平八郎の指揮で日本海海戦で勝ったとか、そういう勝因もあるけれど、ロシア革命が起きたので、ロシア帝国は日本と戦争をやっているどころではなかった。
それで停戦したのですわねぇ~。。。
そうです。。。ロシアは、負けたとは思ってないのだから。。。
でも、世界は、小国の日本が大国のロシアに勝てた、と驚いたのですわねぇ~。。。
そういうことです。。。経済戦争も情報戦ですよ。。。だから、第2次大戦後、日本は経済大国になったけれど、CIAのスパイ活動で、日本は経済大国から 転げ落ちて経済小国になってしまったのですよ。。。
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■『CIAの経済戦略』
初出: 2023年5月19日
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