ハブ ア ナイス doi!

いつまで続くのかコロナとの戦い。
全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

これは天下の西大寺 3

2016年03月15日 21時19分12秒 | ウォーキング

結局、称徳天皇は思ったような
八角形の塔は作られないまま
西大寺は運営されていきました。

また政治の方も、
孝謙天皇から1代の淳仁天皇を経て
再度天皇となった称徳天皇は
道鏡との二曲政治を経て
権力を高めていこうとしましたが、
それもかないませんでした。

ある時山から石垣用の石を
切り出そうとしたときに、
その石が大きな声でないたそうで、
その時以来、称徳天皇は
病に臥せってしまいます。

これはまさにその石の祟りだと
周りの人たちは騒いだそうで、
その石を割り鎮めようとして
西大寺のわきに「石落神社」を立てて
鎮めようとしました。



それが今も西大寺の脇に残っています。



参道の端っこにある小さな石が
その石なのかもしれません。

しかしそれでもその石の祟りは鎮まることなく、
称徳天皇は何の医療行為もされぬまま、
静かに息を引き取ったそうです。

あれだけ壮大な寺院の設計を夢み、
多くの人々を動かした天皇も、
最後はあっけなく命を失ったそうです。
西大寺の北にある御陵で
今は静かに眠っておられます。

そうして西大寺を出ますと、
今度はさらに南の称徳天皇の父である
垂仁天皇の御陵や
唐招提寺、薬師寺と道はつながっていきますが、
今日はこのあと菅原天満宮をまわって、



そこまでとしました。

歩いたのはこんなコースです。



というのもその日は田原本で開催される
「和太鼓大会」の観劇に参加する予定だったので
そちらへと向かうことにしたのでありました。

西大寺の駅まで戻り、
まだ食べていなかった昼食を
駅の立ち食いうどんですまし、
待ち合わせの八木駅へと向かいました。

その日、和太鼓演奏会を開かれたのは

「田楽座」。

信州は伊那谷に誕生した歌と踊り、
太鼓や舞などの民俗芸能を今に伝える集団です。

普段は何かの仕事をしながら、
これに携わっているんではなくて、
これを仕事とし、芸能一本に携わっている
プロ集団です。



舞台に入ると演劇場には
小太鼓、大太鼓がおかれ
そしてそのすぐ前がもう観客席です。



太鼓はだんじり祭でも使われるので、
見慣れていますが、
じっと見ていたら皮の厚さが
こちらのほうがだいぶ厚みがありそうに思えました。

ホールの同じ床の上で
ライブ形式で行われるようです。



友達が持参してきてくれた座布団を敷きながら、
その出番を待ちます。

最初の演題の「打ち出し」が始まると、
もう目の前には別の世界が広がります。

途中、獅子舞やとりさし男の奮闘劇もあり、
音楽や踊りでわれわれの目を奪います。

まあ、行ってみればいかにもプロの
張りつめた芸が我々を魅了するわけですな。

床をつうじて腹に響いてくるような
和太鼓の音、
そして和太鼓を打つときの
メンバーのしぐさの一つ一つが
研ぎ澄まされています。

鐘、笛、小太鼓、大太鼓にこもる思いを
存分に聞かせていただきました。

演目時間は一時間。

あっという間に終わってしまいましたが、
音楽だけでなく演じる人たちの
熱い思いは十分に伝わりました。

今、日本で和太鼓を用いた
演劇クラブはいくつかあると、
この劇を教えてくれた人が話してくれました。

しかし、どのクラブも楽に運営されているわけではないでしょう。
練習をし、苦労もするけど
やはりこの熱い思いを伝えたい
という気持ちが彼らを支えているのでしょうね。

聞こえていたのは、
大音響の音楽だけではありません。

その合間に響く彼、彼女らの熱い鼓動が
轟いていたように思います。

この日は一日doironにとって、
春まだ浅き奈良の町を歩き
いろんなことを学び、
そして心から演劇も楽しんだ
いい一日なのでありましたとさ。

終わり。