ハブ ア ナイス doi!

いつまで続くのかコロナとの戦い。
全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

東海道、亀山宿から井田川へ1

2020年01月24日 20時48分13秒 | ウォーキング

松の内も過ぎたのですが、
まだもうちょっと昨年の
話が続きます。

今回は三重県に行った話です。
行先は前回に引き続き亀山。



前は亀山から西側の関の方へと
歩きましたが、今回は
その反対方向で亀山から
東の井田川へと歩いてきました。



足は友達の仕事車での送り迎えですから、
まあ楽ちんの極楽歩きですな。

ではさっそく向かっていきましょう、
ていうか車に乗せていただきましょう。

通いなれた西名阪自動車道で向かいます。
天気は曇り空の一日でしたが、
さほど寒くもない気候でしたねえ。

亀山の駅で下ろしてもらいます。
帰りの時間の目安なんかを
聞いておいて、さあでは
歩いていきましょう。

ここの駅前には大きな鳥居があります。
これが能褒野神社一の鳥居ですねえ。
ヤマトタケルが能褒野で
死去したとされ、
この能褒野神社の所の墓が
能褒野墓とされているそうです。

今日の歩き経路から少し北側に
その能褒野神社があるので、
寄って見れたらと
思っているのですが、
まあとりあえずは亀山市内と
東海道を通って
井田川へと結ぶコースを
歩いてみましょう。

前回歩いた時と同じく、
亀山城跡へ向かう坂道を
登っていきましょう。



右手に大きなお堀を兼ねた
「池の側」が見えてきたら、
そこが東海道との交差点です。

ではここから左側へ続く
旧東海道にはいってゆきましょう。



そこにはお城見庭園というのが
設けられています。



上がっていく階段の石垣には
亀山宿の説明やそれを絵にした
説明版が付いています。

「亀山領内東海道分間絵図」
が書かれてあり、このあたりは
城やお堀も見渡せる場所で
あったとされています。

確かに今もあずまやが作られて、
見晴らしのいい場所ですねえ。

このあたりは「西町問屋場跡」と
いわれています。



問屋場とは、公用の荷物を運ぶ
伝馬人足の継立や一般荷物の
管理を行うところで、
二軒の役員が交代ごうたいで
管理しているところでした。

これが城の方を見た景色で、



これが東の方に走っていく
東海道です。



ちょっと黄土色に色付けされた道で
静かな雰囲気が続いていますねえ。

家をよく見てみますと、
こんな木の札が張られています。
当時の状況を表現しているんだそうです。



ここが西町の「ひのや」さんということ。
ですね。この取り組みは
町並み保存会の人々がやってる催しで、
中には屋号札の名前と
そこの家の表札が重なる
ところもあって面白いです。

まあこの屋号札はいたるところに
ついています。
ぼちぼちと見ながらところどころで
紹介していきましょう。

ここに道標が二つありますね。





ひとつは「右東海道 左停車場」と
刻まれています。
停車場っていうのは、
亀山駅のことを言うのかなあ。

そしてもう一つは
「左東海道 右郡役所」と
書かれています。

郡というのは鈴鹿郡かなあ。
昔はそう呼ばれていた地域です。

そして何のお店かわからないところや



食堂を過ぎたら、



ここが飯沼慾斎の生家跡であります。



植物関連で草木図説を
出版した人で、
医者関連にも知識があって、
人体解剖なんかもした人だと
いわれています。

あの亀山城の所にも
こんな石碑が立っていましたねえ。



我が国の近代科学の礎を
築いた人です。

とそうしているうちに雨が
かなりふり始めました。

傘を差しましょう。
実は、亀山の駅で雨降りそうやなあ
どうしようと思っていると、
女性が一人近づいてきました。

「あの~旅の人のようですが、
この傘を使いませんか」と
声をかけてきはりました。



スーツケースを持って
遠出の旅に出かけるようで、
傘を始末しなきゃと
思っていたそうで、
そこに空を見上げる旅のおじさんが
いたので声をかけたようです。

「もう私はこんな街に帰ってこないねん」
とか
「彼氏を追って都会に住むのよ」
あるいは
「ハワイの気持ちい風が私をまってるわ」
なあんて考えていたのでしょうか。

そんな女性とおっさんdoironの
需要と供給が一致しましたので
ここはありがたく傘をいただきました。

続く

 



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