さあ、では尼崎領へと入って行こう。
神崎川の堤防に上がるところには、
「神崎川一心地蔵尊」がある。
なんでも昔「神崎一心の戦」というのがあったそうだ。
楠木正成が一心を込めた
神出鬼没の戦いをしたことから
その名前がついているそうだけど、
いまは身代わり地蔵尊として
地域の信仰を集めている。
え~っと、ほんじゃほっつきすぎだと
ミセスに代わりに叱られてもらおう。
これで安心してほっつけるかなあ。
ば、ばちあたりですか?
ほんじゃ真面目に
「ムニャムニャムニャ」。
堤防に上がっていくと、
かなり交通量が多い。
注意して信号を渡り、
いよいよ神崎川沿いを
しばらく歩くことになる。
この神崎川は実はずっと昔に
大阪市と摂津市の境界のところで
大規模な治水工事が行われて以来、
淀川とつながっているのだ。
いやはやまったく琵琶湖の恩恵は
関西にあまねく浸透しておりますな。
そしてまたこの川は、
ルネの仲間たちと楽しく参戦した
「吹田中之島5時間耐久マラソン」が
開催されていた川である。
2000年は
ちょうど、高橋尚子がシドニーで金メダルを採った日だった。
なのでもう15年前になる。
あの時は帰って結果を楽しみにしよう
と思っていたら、
大会関係者がコースを走りながら
「高橋金メダル」を連呼していたんだよなあ。
その日レースで60kmを走って、
賞品にもらったシューズは
履くという役割を果たしたものの
今も納戸の下駄箱で眠っている。
これがその神崎川。
いやあ、淀川の支流として
最近はとみに親しみを感じるとともに、
なんだかとても懐かしい気がした。
この川を上流へ向かって歩いていくと、
堤防上の道に「神崎金毘羅さんの石灯籠」が立っていた。
昔の船着場にあったものを
ここに移設した灯籠だそうだ。
金毘羅さんと言えば海上の守護神。
読みかけて止まっている
「菜の花の沖」にもこのあたりの海上交通が
とても盛んだったことが書かれてあるように、
たくさんの船乗りの信仰を集めた
金毘羅権現のこの灯籠は、
灯台の役目もしたそうだ。
今は役目を終えて、
のんびり余生を送っている姿は
なんとなく自分と重なるものがある。
なおも神崎川沿いを進み、
新幹線の高架の手前で
ちょっと寄り道をする。
そこにあったのが「神崎遊女塚」。
神崎川が淀川とつながったことにより、
この神崎の地は京都からの水運の
玄関口にもなった。
それゆえ人々が集まり、
享楽の文化も栄えて行った。
まったく人間て奴は
寄れば享楽に走ってしまう奴なのだ。
そして享楽はまた人を呼び
いっそう栄えて行く。
ここ神崎の地も御多分に漏れず、
一時は大変賑わったそうだ。
そんな神崎の地に、
ある時法然上人がやってきた。
人は「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えれば、
みな平等に往生できるという
専修念仏の教えを説き、
後に浄土宗の開祖となった上人である。
その上人の法話を聞いた遊女5人が
自分の身の罪業を恥じ、
神崎川に身を投げたという話が
この遊女塚の由来になっている。
この塚は民間会社の敷地内で
橋に使われていたものが
明治2年に見つかり
ここに据えなおされたもので、
裏には遊女5人の名前も刻まれている。
それは、果たして後世の人が
浄土宗を広めるために
作った逸話であったのか、
それとも遊女5人が
本当にそんなことで自ら命を絶ったのか。
今となっては、塚に込められた人の気持ちは
浅薄凡庸のdoironには
推し量ることもできない。
ただこうして各地を訪ね歩き、
見聞きすることで少しでも
楽しく暮らせたらと、
生き残った身としては考えてしまうのだ。
では再び川に戻って、
しばらくは川の生き物や
河原の植物でも眺めながら歩いてみよう。
がさごそと続く。
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