ハブ ア ナイス doi!

いつまで続くのかコロナとの戦い。
全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

紀州街道を歩くさかい その1

2013年04月12日 21時27分07秒 | ウォーキング

さて、先日泉大津市内の部分を歩いた紀州街道なんですが、
爽やかな天気の日に
花粉ニモ負ケズ、黄砂ニモ負ケズ
PM2.5にも、北のミサイルにも負ケズ
今度は助松より北の部分を歩いてきました。
題して「紀州街道を歩くさかい」
もちろん「さかい」と「堺」はかけています。

この道は、今もランニング仲間が
住吉大社まで走ったりする道で、
アブさんちもよく走っていたように思います。
もちろんdoiron自身も
何度か走ったことがある道です。

ですが、今回歩いてみて思ったのは、
車と走るのとでは
全然景色が違うように、
走るのと歩くのとでも
まったく違う印象でした。

この歳になるまで考えたこともなかったことや
全然気づかなかったことなどもあり、
いささかオーバーかもしれませんが、
また新たな世界に出会ったような気がします。

街道を歩くのは、
先人の想いに触れ、
謎に触れ、未知のいにしえにも触れる
なかなか味わいのあるものだと、
今回のウォーキングでしみじみと感じました。

まあ、あくまで自己満足の世界なんで、
何ゆうてんねん、というお方もおられるでしょうが、
この街道歩きのdoironの言葉に触れ、
走るときにちょっとした周りの風景に
興味と親しみを持っていただけたら
一段とほっつき走りも楽しくなるんではないかと
思っておりますので、ぜひご一読ください。

それでは、紀州街道 高石~堺編の始まりです。

前回は、北助松駅をまっすぐ海の方に下がって、
突き当たりの紀州街道を左折して南下しましたが、
今回は右折して北上していきます。

で、その起点でいきなり、
未知のいにしえに出会いました。

これ。



右折しようとする道の角に一つの石の道標がありました。
前回、泉大津に紀州街道の道標はないと
書いたのにここへきていきなり訂正か、
と思いつつ眺めてみると、
そこに書かれてあったのは
大正6年に建てられたものであることと

「中和泉街道」

なる文字が刻まれていました。

先日、図書館で見つけた
「大阪の街道と道標」にも
そんな街道名は出てなかったはずです。

ただ「和泉街道」はあった記憶があるので、
その時は「右、○○街道」とよく道標に書かれてあるように
きっと、「中」にも何か表現の意味があるんだろうから、
帰って調べようと
その場は「中・和泉街道」であると納得して歩き始めました。

で、先に後刻に調べた内容を書きますと、
和泉街道というのは
高石の取石で熊野街道を離れて、
太子町の聖徳太子の墓所があるといわれる
叡福寺に至り、
その先で日本最古の官道である竹内街道に
つながる街道なので、
まったく別物であることがわかりました。

で、さらに調べていくと、
やはりネットの威力はすごいですねえ、
答えに行きつきました。

実は、街道の名前そのものが

「中和泉街道」

だったんです。
この助松町から伸びる
「中和泉街道」は
「布引の道」とも称され、
助松浜に上陸した信太大明神が、
先日少し前に、このブログの
「信太楽しむのだ」シリーズで紹介した
聖(ひじり)神社に向かった道なんだそうです。

確かに、それなら地理的にも
つじつまが合います。

そしてその道行の際に布を引いたことから、
「布引の道」なんだとか。

布引という漢字でも、由来の記述でも
布を「引いた」となっているので、
ずるずると引きずって歩いたのでしょうか。
それとも泉州のこのあたりでは
敷く(しく)とはあまり言わずに
敷く(ひく)と言います。
なので、古代のレッドカーペットよろしく、
道に布を敷きつめたのかもわかりません。

三省堂の「新明解国語辞典」では
「布引」は『(さらすために)布を引っ張ること』
あるいは『布を張ったもの』となっていますが
なるほど六甲の布引の滝は
布を引っ張って貼ったような
様子を呈していますねえ。
でも、歩くのにそれはどうなんでしょう。
おつきのものが、ちょっと誤って踏もうものなら
まるでドリフか吉本やもんな。

結局その辺はよくわかりませんでした。
またそれは次の課題にいたしましょう。

ともかく、道標に彫られていた言葉は
そういう伝承をはらんでいたわけでした。

とまあ、歩き始めていきなり
いにしえに出くわしたわけですが
この後も歩を進めるにつれ
地名にまつわる話や
道標にまつわる話などいろんな
いにしえに出会った旅になりました。

doironが出会った意外なエピソードや秘話とは?


「紀州街道を歩くさかい」

は次回に続きます。


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