こんな商店街を見ながら進んでいきますと、
大信寺に出ます。
八尾僧正、八尾地蔵、八尾明神と
これまでありましたが、
ここは「八尾御坊」と言われてます。
中に入っていくと、
ここに「河内県庁跡」があります。
河内県は明治政府によって
明治2年に設置された県ですが、
半年で「堺県」に編入されます。
そんなところの庁舎があった跡ですねえ。
この時代は自治が生まれたばかりで
どんどん変化していった時期。
堺県なんて奈良も含んでいたり
したんですねえ。
大信寺を出て少し行きますと、
ああここにお逮夜市の案内が
張られていますねえ。
このお逮夜市に来て
揃わないものはない
といわれるほど
にぎわっていたそうです。
その先に行くとこんな
小さな橋が立っています。
「成思橋」だそうです。
この橋のことはよくわかりませんでしたが、
小さな橋柱でもしっかり
残しているのがありがたいねえ。
大信寺の交差点から少し
歩道を歩いていきますと、
長瀬川に出ていきます。
この川はもとは大和川本流で
重要な川でした。
そしてここに架かっている橋が
「本町橋」でその横には
こんな立派な道標が建っています。
「右 かしわら 国分 すぐ信貴山道」
とあります。
この辺りは柏原への船便なんかが
あったようですから
こんな道標になっているんですねえ。
「北 左 信貴山道」
まあこれは信貴山への案内板。
「右 大坂道 すぐ 平野 天王寺」
そして「すぐ玉造道」となっています。
立派な道標でしたねえ。
で、ここの顕証寺の交差点のところから、
コースは久宝寺の方へと入っていきます。
あ、ここの家の名字は変わってますねえ
「包丁」だって。
ああ子どもが生まれたら
「一本」って名も面白いなあ
なんて考えてしまいました。
世の中にはいろんな名字が
あるんやなあとか
考えてしまいますよねえ。
ところがねえ、この地域は
この苗字の人が多いみたいで、
沿道の家の表札を見ていると
次々とこの名前が登場します。
そしてずっと奥の方に行くと、
この名前の家々の本家のような
感じのお家がありましたねえ。
神社の氏子総代と書いてありましたね。
上り旗から見て許麻神社の
総代かなあ。
久宝寺のこの辺りは
戦国時代に寺内町として
建設された古い町です。
多くの真宗門徒が集まって、
1500年頃に町内のここにある
顕証寺の周りで自治が行われました。
この通りには今もいろんな
遺跡が残っているし、
道の構成など500年前と
あまり変わらず古い歴史を
抱いたまま今も各地に
残っているところです。
ここがその顕証寺です。
中に入っていくと
立派なお寺でしたねえ。
真宗西本願寺の別院
となっています。
そしてその周辺には、
遺跡がいろいろと残っています。
これが「札ノ辻地蔵尊」。
室町時代末期の石仏です。
この地蔵尊の横には高札場があり、
こういう名前で呼ばれていたのでしょう。
そして寺井戸もありました。
この井戸は村民の飲用水をまかない、
水代として1軒当り
年1升の米を久宝寺御坊(顕証寺)に
納めたそうです。
古くは屋形を組み、
夜には錠が掛けられ、
大正12年に簡易水道が設けられるまで、
村内唯一の上水だったそうです。
ああ、こんな道標もありましたよ。
「左 大坂 平野道」
平野ってこういう道標では
よく出てくる地名ですねえ。
「右 和州信貴山 八尾地蔵尊道」。
こうして道標が建つということは、
昔は多くの人が集まったりする
場所だったんでしょうねえ。
そしてその近くには
「あごなし地蔵尊」もあります。
このあごなし地蔵尊の由来はというと、
そこには平安時代、
小野篁(おのの たかむら)の
物語が関連してはるそうです。
続く
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