マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

京都『イン・クライン』(その2)

2009年11月21日 | 身辺雑記

 (前回からの続き)
 クラスメイトBさんの夫さんから紹介して頂いた「日本魁物語」、直ぐには手に入らない予感がしました。案の定、文京区・北区・豊島区の図書館へオンライン予約するも全て「該当資料はありません」。そこで最後の手段、古本屋さんへオンラインアクセス。かなり在庫がありましたので、750円の平凡社発行の「日本魁物語」を購入。注文から5日で手元に届きました。この古本屋さん、料金は到着後の振り込みでOK。大らかな、お客さんを信用してのご商売の様です。
 この「物語」10章から成り立っていました。例えば「赤いブリキの旗」は南極探検に活躍した広瀬中尉の物語。「開化アンパン物語」はアンパンの甘みを開花させ、パンの普及に心血をそそいだ木村屋創業の親子の苦心譚。主として、江戸時代から明治時代にかけての、その道の先達の苦心と成功の物語。目標を掲げ悪戦苦闘した物語、そうです近代の「地上の星」達の物語です。「日本魁物語」とは言いえて妙です。著者は「駒 敏郎」。不明にして、初めて目にする名前です。

 その本の第5章が「青春の運河」。時は明治14年、主人公は22歳の田辺朔郎、当時工学大学校の学生。琵琶湖から、一条の水路を穿って水を京都盆地に導くという壮大な計画を依頼されたのでした。書きあげた「琵琶湖疏水工事計画」の大論文が依頼の源泉でした。
 物語は田辺が幾多の困難を乗り越え、疏水を完成させるまでを描きます。中でも長等山下の全長2キロに及ぶ隧道の難工事の描写が圧巻でした。

 『明治23年3月25日、全水路に通水試験が試みられた。大津口の閘門が開けられると、琵琶湖の水は大津運河に溢れ、長等山下2キロの闇を走り抜け山科に現れた。水は早春の野を流れ、日岡の山下をくぐって、京都の空の下へ出た』。著者も、100年以上前の快挙に立ち会っているかの様な、喜び溢れる筆使いで当時の様子を語ります。
 蹴上発電所は明治23年1月に竣工、翌24年に完成し、発電を開始。これが日本最初の水力発電所であり、明治28年にはその電力を使って、日本最初の市外電車が走った、とも記されています。
 多分、疏水完成と同時に「イン・クライン」も「水路閣」も完成したことでしょう。
 一読して驚かされる事は、まだ若干22歳の工学士に大工事を依頼する、明治時代の良さの一面です。外国人の直接の支援なく、自前の力のみで、当時技術的に不可能と言われた、この難事業に立ち向かう、田辺のみならず、技術者や作業者の気魄です。

 京都在住のクラスメイトからのメールで、「真如堂」の紅葉は真っ盛り、来週も見頃でしょうとの嬉しい便り、好天を祈るだけです。
 (Bさんの夫さんのブログ、凄いです。「轟亭の小人閑居日記」で検索すると現れます。長い年月、休むことなく毎日、綿々と文字通り「日記」が語り綴られています)

 
 



 

 


京都『イン・クライン』(その1)

2009年11月19日 | 身辺雑記

 間もなく出かけるミニクラス会の京都、一番の楽しみは紅葉です。京都の紅葉は一段と色鮮やか、今年もめぐり合えるでしょうか。その紅葉をめでながらの、主として東山方面の寺々をめぐる計画の中に唯一つ、お寺ではない「イン・クライン」を入れました。「青蓮院」から「南禅寺」への散策道に丁度「イン・クライン」は存在するのです。
 京都に詳しい妻から「イン・クライン」の話を聞いてその名前の意味するところを広辞苑で調べました。
 『傾斜面にレールを敷き、動力によって台車を走らせ、貨物や舟を昇降させる一種のケーブル・カー。日本では琵琶湖疎水の蹴上にあったものが有名』とあります。この実態を是非見たいものと、5年ほど前、妻に案内して貰い訪ねました。
 地下鉄東西線「蹴上」駅で下車すると、直ぐそこに「イン・クライン」を今に留める緩やかな斜面がありました。そこに掲げられた案内板を読むと「琵琶湖疎水は明治時代に造られた水路で、大津と京都を結び、飲用や発電の水源の確保のほか、貨物や旅客の輸送に使われたもので、明治時代の大工事であった」事が書かれていました。琵琶湖の水を、ある所では地下を通し、ここ「蹴上」まで運んで来る水路が明治時代に完成したわけです。なんとなくは知っていましたが、確固たる知識を持たなかった私は、ここまで流れ来た疎水と「イン・クライン」を見て興奮しました。
 蹴上まで、流れに任せて運ばれてきた荷物は舟ごと台車に乗せられ”陸路”「イン・クライン」を下り、その先は運河を経て、鴨川へと到達したわけです。逆に上る時の動力に、ここに造られた日本第1号の水力発電所で発電された電力が用いられた事も知りました。
 台車と舟も保存されていました。ここまで流れて来た疎水は、ここからは南禅寺までの急傾斜を降ります。レンガ造りの立体水路「水路閣」が南禅寺脇を通り抜けます。私は水路のすぐ脇の道を降り南禅寺に至り、南禅寺は素通りして、そのまま「哲学の道」に並行する疎水を追いかけました。
 ある種の興奮と感動がありました。明治時代のダイナミックな一面に感動したのかも知れません。京都を訪れると3回に1回はここを廻ります。今回のミニクラス会の行程にも入れようと幹事のBさんにメールを打ちました。するとその夫さん、Bさんメールを通じ「日本槐物語」を読まれたらとの返信。知識の宝庫の様なBさんの夫さん、勿論知っている知識だったのです。早速「日本槐物語」を購入。その中の「青春の運河」一気に読みました。
 (このブログ次回に続く)


肉屋さんで焼肉パーティ(その2)

2009年11月17日 | 身辺雑記

 「ミート青木」に到着すると、既に10数名の方達が集い、コンロの上で肉と牡蠣が焼かれ始めていました。この日は快晴で暖かい陽気。寒かったり、雨が降れば店内でのパーティの心積もりだったようですが、外に出てもポカポカの陽気、お店の前に机を並べて酒宴は始りました。
 今日提供されたものは、焼き物は牛肉・豚肉・鶏肉・ウインナー・生牡蠣。揚げ物はポテトコロッケ・一口かつ・ジャガイモ・クリームコロッケ等々。揚げ物は当然青木さんの手作りもの、というか商品。揚げ物は揚げたてに限ります。兎も角美味しい。
 焼肉の牛も100g700円で販売されているものだそうで,,
この牛も柔らかくて美味。思わずうなりました。生牡蠣は今日築地で2箱仕入れてきたもの。後は多めの野菜とご酒類。全て原価での提供。参加費1000円では申し訳ない感じです。
 宴が始った後で、店内を覗くとテーブル席には子供さんが5人ほど。参加者も徐々に増えてきて、女性も加わり総勢20数名。参加者の殆どが「宮元町会」の「睦」会員。そうでないのは区議会議員の山本さんと私のみ。今日は元生徒のT君は見えていません。勢い山本さんと話し込む事に。文京区議で、民主党選出の山本さん、まだ40歳ほどの若さ。初当選の頃は最年少であったそうで、話題は、今国政で行われている「事業仕分け」などの政治談議に。私は現在進行していることは、明治以来綿々と続いて来た官僚制度等、この国の成り立ちの基本の、大きな変革、言わば「平成維新」に見えると伝えておきました。
 参加者の中で一番お若い方に色々聞きました。「宮元祭」の折、K石材工業の軽トラックを自在に運転していた方で、その働き振りが際立っていた方です。「この町会には殆ど商店街はありません。にも関わらず、集まりに参加する若い人が多いのです」。何故ですかと尋ねると「偶然でしょう」。私には青木さんという結集軸があると思えるのですが・・・。
 その若い人たち(と言っても20代後半から50代前半とお見受けする方々ですが)皆良い体つきをしていて、お神輿や山車の収納などかなりの重労働の仕事をこなしていました。「皆さんかなり体を使うお仕事ですか」の問いには「多くの方はそうです」との返事。多くの町会が、主として商店主中心の会となるところ、ここでは勤め人の方々中心で会が形成・運営されていると推測しました。
 
 天候にも恵まれたパーティー、私は満足度高く、中座しての帰宅となりました。


      (昨年の宮元祭り、準備段階 ここに出店が)


     (綿アメもつくりました)
 

     (芋煮はこの鍋で300食)


     
(10時に「宮元祭」始まりました)


肉屋さんで焼肉パーティ(その1)

2009年11月16日 | 身辺雑記

 先週の散歩帰り、偶然「ミート青木」の青木さんにお会いすると、「今度の日曜日に焼肉パーティやるから、いらっしゃいませんか」と嬉しいお誘い。昨日お邪魔しました。

 青木さんとは長いお付き合いです。26年前この地に引っ越して来た頃、比較的ご近所にある肉屋さん、特に揚げ物が美味しくて、よく夕飯のおかずを買いに行きました。店主とお客の関係が長く続きました。
 ある日、勤め帰りに近所の居酒屋に寄りますと、青木さんが呑んでいました。そのグループの一角から「先生!」の声が。よく見るとT君でした。高校時代の元生徒さんで、元生徒会会長。彼もご近所に住んでいて、偶に会うことがありました。このシーンを見て、青木さんが吃驚。「二人は知り合いだったの」と。今度はT君が吃驚「二人は知り合いなの」。その時はその席に入れていただき、青木さんとT君の関係を聞きました。ご近所に住んでいる者同士、それも同じ町会の「宮本睦会」の会員との事。この事があってからは、「ミート青木」の利用度が増え、店主とお客の関係ながら、会話が多くなりました。

 「宮元睦会」は「宮元町会」の中の、有志が作る団体で「お神輿」を担ぐ事を目的の一つとしています。他の町会で「睦」の名の付く団体の多くはその目的が中心ですが、「宮元」は違いました。毎年天祖神社で「宮元睦」祭りを開催するのです。申し込み制で何件かのフリーマーケットも出店しますが、自前で10軒ほどのお店を出し、焼きそば・ウインナー・芋煮・カレーライス・おでん・綿あめ等々を調理販売したり、「フレーベル音楽隊」を招いての演奏などもあります。参加者は年々増えて、今年は1000人は越えたと見ました。
 「落語会」を年2回、交流館で開催し、200人ほど入れる地下ホールは満員になるほど。「宮元睦会」は地域の活性化と更なる町おこしを狙っているようです。その活動の中心にいるのが青木さん、T君はその片腕の一人とお見うけしています。
 その様な会の様子を知るにつれ、町会の違う私も会の一員に入れないか聞いてみました。「会員資格に宮元町会員に加えて有志参加もありです」との返事を聞いて、この会に入れてもらう事に。「宮元睦」のTーシャツも頂き、昨年と今年、「宮元睦祭」では芋煮のお手伝い。300食の芋煮調理、豪快でした。(次回ブログに続く)


銭湯の朝風呂

2009年11月15日 | 身辺雑記

 昨日(11月14日)の散歩、借りていた図書をポスト返却する目的があり「滝野川図書館」のある滝野川方面へ。返却後「聖学院」通りの大通りを少し進んで、狭い路地裏に入り込みますとそこには銭湯が。「殿上湯」の名に魅かれ立ち止まって、看板を読むと「井戸水と備長炭のお湯」と書かれ、備長炭使用の効能も述べられていました。日曜日は朝7時から朝風呂営業とも記されていて、丁度翌日が日曜日、朝の散歩の延長線上に「銭湯での朝風呂」を志向しました。


     (殿上湯 路地裏にありました)

 銭湯へは10数年前までは良く行っていました。皇居周回コースでのランニング練習をしていた頃です。半蔵門近辺に「バン・ドゥーシュ」という名前だけは洒落た銭湯があり、ここを着替え場所兼入浴に利用していました。着替え後皇居周回を数週、かいた汗を入浴で洗い流し、ランニングの友Wさんと、帰りには生ビール一杯に喉を潤し、又汗をかくという”放課後”を過ごしていました。
 最近は近所に出来たスポーツクラブでの水泳練習の後の「Bath」への朝風呂入浴はありますが、「銭湯での朝風呂」は30年来のこと。日曜日の朝風呂は”のんびりとした”という感覚が残っていて、期待を抱いて出掛けました。
 
 今朝7時過ぎに「殿上湯」に到着。番台で450円を払い入場。昔と違い着替え場所全体を見渡せる高台に番台はありません。男女別に分かれる場所に番台はありました。入って直ぐシャンプーと石鹸を忘れたことに気が付き慌てて購入。シャンプー30円、石鹸20円でした。備え付けの化粧品等のあるスポーツクラブ利用の癖で大事な事を忘れていました。
 
 既に8人ほどの方が入浴しています。懐かしい壁絵は「西伊豆海岸から望む富士山」お馴染みの絵です。湯船には何故か多数のリンゴが浮いています。どうしてかなと、湯に浸かっている方にお聞きすると「ここの銭湯の裏庭にはリンゴの木があって、収穫されたリンゴを年に一度だけ、備長炭の代わりの使うのですよ」との話。半分嬉しい半面、備長炭の湯を期待していたマーちゃんは半分残念な気持ちです。
 昔は、暑い湯と並の湯の2つの湯船だけだったのに、ここの銭湯には、寝湯的な作りの湯と水風呂があり、昔とは様変わりしています。スポーツクラブの「Bath」と比較して、はるかにのんびり出来ます。これが朝風呂の最大の長所でしょうか。今日は備長炭は入っていませんでしたが、温かさが長持ちもしている気がします。
 帰りに番台のお兄さんに聞きました。「地下130mの井戸水を使用しています」との事。「殿上湯」の名前の由来は「分かりませんが、なんでもこの辺りに殿様が住んでいたからとか聞いています」と。さてどうでしょうか。湯冷めするタイプでは無い私は、その後も散歩しつつ帰宅しました。


  
        (朝風呂ありがわかります)



      (備長炭の効能書き)