マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

野村万作・萬斎 狂言の夕べ

2009年11月12日 | 身辺雑記

 11月11日(水)文京区シビックセンターに「野村万作・萬斎 狂言の夕べ」を観に行きました。特に狂言に興味があると言う訳ではありませんが、萬斎をひと目見ようと、妻のお供で出掛けました。と気楽な感じに書きましたが、このチケット取るのが大変で、お値段6000円ほどのS席を予約開始直ぐに申し込み、確保したチケットです。
 当日は雨にも関わらず空席が殆ど無いほどの満員盛況。万作・萬斎親子の人気が窺い知れます。舞台はまず、萬斎の解説から始りました。これから演じられる「萩大名」と「弓矢太郎」の説明をしながら、能の決まりごとや、一つ一つの動作の効果が語られます。初心の方もいる事を想定してのイントロ、分かり易い話です。例えば「萩大名」の冒頭の場面、「『おんごくの』と語りはじめられますがこれは「遠国」の事で、都から遠く離れた国と言う意味です」などの解説。この程度ならば私にも理解できる話です。身振り手振り、大きな舞台を縦横に使っての、動きながらの解説。私には理解できない事が多々ありましたが、楽しく話が聞けます。この解説が30分ほど。顔は綺麗で、声もよく
、動作もうつくしい、千両役者です。
 
 「萩大名」は野村万作演じる大名の無風流さがテーマ。続いての「弓矢太郎」では、萬斎演じる太郎が臆病者のくせに強がるのを、仲間が怖い話をして太郎を脅かす物語。語られる言葉がよく理解できないので、「萩大名」での微妙な”おかしさ”はよく理解できませんでしたが、「弓矢太郎」では、言葉の意味不明な部分があっても、物語の筋書きは分かり、萬斎の豊かな表情と動作に見とれて、能のおかしさが少しは実感できました。
 
 一度原本を読んでから狂言を鑑賞すれば、もっと良く理解できた事でしょうか。深く味わうにはその世界に深く入らねばならないだろうなと思いました。天才と言われる萬斎のしぐさもとその運動能力の高さに感心しながら初めての狂言は終わりました。

 


ミニ同窓会

2009年11月10日 | 身辺雑記

 一昨日、白山の中華料理店でミニ同窓会が開かれました。同窓会とは些か大袈裟ですが、30年前に同じ学び舎で出会った教員2名と元生徒さん達5名の計7名が一献傾け合ったのです。元生徒さんと言っても彼ら・彼女達、今年度中に46歳になります。もう”不惑”を超えています。
 7年ほど前、彼らの卒業以来初めての同期会が開かれました。120名もの参加者があり、20年振りの多数の再会がありました。その時に、私達元教員へは、卒業後20年に因んで”20年もののビンテージ”がプレゼントされると言う”憎き”演出もありました。”この学年の
担任で良かった”と卒業当時よりも感激したものです。昨年もこの同窓会が70名の参加で開かれました。この間に、K先生も交え、私が担任をしたことのある女生徒さん3名と、一昨年の3月に「やねせん」の「彬」で一献傾けた事もありました。
 彼ら・彼女達は母校の文化祭に訪れたときに寄った喫茶店で偶然の”赤い糸”の再会も果たし、偶に会うようにもなっていた様です。それもあり今回は、女生徒さんのみならず男生徒さんも加わって酒宴でした。
 その男生徒の一人A君は20年振り同窓会の立役者、中心メンバーでもあります。例の20年ものビンテージでまだ飲んでいなかったものを持ち込んでくれました。このお店「飲み放題」を頼んでおきましたから持込OK、生ビールで乾杯の後は20年ものビンテージで乾杯、味もさることながら、その経過に酔います。


     (A君が持ち込んだ20年もののビンテージ)

 A君のブログがブレイクしているようです。テレビ局の取材を受け”テレビ出演”も果たしました。教員のK先生も”熱血教師”としてテレビ出演したようですが、長時間の取材の後、僅か1分にも満たない放映と愚痴っていましたが・・・。
 S君はもう既にお孫さんがいるとの事。教員二人はまだその経験をしていません。まだ45歳の身でお孫さんがいる、信じがたい事です。これには、先に生まれた身ながら逆転されました。
 K女史さんは宅地建物取引主任の資格を取得し、営業面でバリバリの活躍中の由。彼女も含め元女子生徒さんたちは子育て真っ最中、大変な事態に遭遇しながらも元気に頑張っている話が聞けて、こちらもより元気になれます。
 若い人と会うと、その若さのほんの一部がこちらに伝染するような気がします。こういう伝染は大歓迎です。
 あっと言う間の3時間、楽しいひと時を過ごしました。
 (A君のブログ:「Hanna-papaの菜園日記」で検索して、一度訪れてみてください。屋上を利用しての菜園での豊かな収穫の模様が語られています)


ミニクラス会に向けて

2009年11月09日 | 身辺雑記

 11月26日から27日に京都で行うミニクラス会に向けて色々な準備を進めてきました。普通の旅行では宿の予約と交通手段の確保、それにコース決定が事前の準備。今回の京都旅行はそれに加えて、「桂離宮」等への参観申し込みと、宴会をする場所の予約が必要でした。宿泊先がホテルでその様な施設を持たない為、他の場所を確保する必要があり、更に京都ならではの料理を味わいたいとの思いもありました。

 これらの準備で「桂離宮」参観は殆ど希望が実現しませんでした。参観希望の3ヶ月前から始るオンライン予約は、8月1日から予約開始ですが、実質的には8月1日の申し込みのみ有効となるほどの高倍率。朝5時から予約開始、このサイトへもの凄い予約が殺到します。”早いもの勝ち”ではないのに、そう思ってか、ハタマタ、セッカチの人間が多いのか、膨大なアクセスが到達し、申し込み受付までに相当の時間がかかります。26日と27日の予約をクラスメイト4人で8つ申し込むも全敗、紅葉の京都での「離宮」参観は”高根の花”と知りました。50倍以上の倍率だったと思います。
 もう一つの申し込みは往復葉書によります。こちらも8月1日以降の消印のあるものが有効。しかし8月1日の消印の葉書で定員を超えてしまいますから、8月1日消印のある葉書のみで抽選が行われてしまいます。「桂離宮」と「修学院離宮」の2箇所への8枚の葉書、当選は僅か1枚でした。1枚の葉書に申し込める人数は4人まで。クラスメイトの内4名のみに幸運の女神は微笑んだのでした。結局、成績は1勝15敗に終わったのです。

 新幹線の予約も一仕事です。幹事が行く方の全部の指定券を一箇所で申し込めば当然席はかたまって取れると思いますが、クラスメイトの多くは「ジパングクラブ」会員で、購買時に、その手帳を見せる必要があります。その方達が一箇所に集うか、手帳を一箇所に集中する必要が生じます。どちらも大変なことと考えて、取れた指定券を私まで郵送してもらい、私が座席変更をする、という作戦を立てました。指定席変更は1回は無料で行えるからです。
 ほぼ全員が私が指定していた列車の指定券を確保し、郵送してくれました。これをまとめてJRの「緑の窓口」に出かけましたが、希望は実現しませんでした。「ジパングクラブ」会員の利用できる新幹線は「ひかり号」に限定されている事が一つの原因だと思います。この「ひかり号」運転数が少ないのです。「ジパングクラブ」会員の予約が数本の「ひかり号」に集中し、しかも希望する席が「禁煙席」の方が圧倒的に多いので、もはや指定席の「禁煙席」に余裕がないのです。クラスメイトの多くも「喫煙席」を望まない為、席の変更は断念しました。
 何故か東海道新幹線には「喫煙席」がありました。一番疑問に感じる事は「吉永小百合」さんなどを登場させて「ジパングクラブ」への入会キャンペーンを張りながら、いざ入会するとそのサービスが充分でない実態がある事です。大袈裟な言い方ですが”釣った魚に餌は要らない”的「JR東海」の営業姿勢に疑問と不満を抱きます。

 その他の準備は順調に進み、紅葉の名所も何箇所か廻るミニクラス会、楽しみにその日の来るのを待っているところです。


神苑講

2009年11月08日 | 身辺雑記

 ラジオ体操に通いだして1年ほど経ち、会釈のみならず、会話も交わす方が増えてきました。変わらぬものと変わりゆくものにも気がつくようになりました。
 ラジオ体操の開始10分前には、23段の階段(13階段ではありません)を昇り社殿にお参りをします。落ち葉が増えてきました。KAさんは私よりかなり早く来て、社殿の周りの落ち葉を拾い集め、清掃をし、ゴミをまとめてゴミ箱に移動しています。頭が下がります。
 唯一お若い(と言っても30代の)方、不思議な事にラジオ体操第一が終了すると会場から去ります。KOさんとマーちゃんはどうしてだろうねと会話を重ねていましたら、天祖神社の祭礼の日に富士前町会のテントまで奉納金を持ってきてくれました。早速KOさんが、ラジオ体操第一のみで去る理由を尋ねますと「ラジオ体操第2は知らないから」との意外な返事。いつもラジカセを持ってきてくださる85歳のSさんにこの事を話すと、何日か後に、Sさん、ラジオ体操第2の体操の仕方を書いたパンフレットを渡してあげました。そのお若い方、数日後からラジオ体操体操を終わりまで一緒にするようになりました。
 寒くなりだした日々にも半袖のスポーツシャツで現れるUさん、聞くところによりますと、このラジオ体操に通うこと26年の超ベテランのご婦人で、溌剌とした体操をする方。元区議さんの妻さんと聞きましたので、ネットで調べると、なんと「花笠踊り」の先生で、元幼稚園の先生だと知りました。一昨日体操をしながら、空の方を眺めていますから、何だろうと私もその方向に目をやりますと、残月が晴れた空に架かっていました。昨日その月を眺めると同じ時刻で月は少し東に移動していました。
 私が密かに敬愛する85歳のSさんに「富士講のメンバーですか」と尋ねると「私は富士講には入っていません。父は『神苑講』に入っていました。その『神苑講』が昭和13年に、富士神社の周りの石垣工事をしたのです。その名残が社殿の裏側にありますからご案内しましょう」との嬉しいお話。体操開始の数分前に社殿の後ろを一緒見に行きました。確かにその事業をした記念版が埋め込まれ、Sさんのお父上の名前も刻み込まれていました。私にとって非常に楽しくなる発見です。
 「神苑講」と「富士講」の関係をお聞きすると、「神苑講」が「富士講」に変わっていったとのお話。その時はお聞きしませんでしたが、これには些かに疑問を感じました。「富士講」は江戸時代から存在していた講。「富士講」の方が古くから存在していたはずです。
 妻とこの事で考えて見ました。二人の間での一応の解釈ですが、江戸時代に流行した「富士講」は富士登山を目的とする集まりの一般名詞的な呼び名。その「富士講」を実施するいろいろな講があり、その講には例えば「神苑講」の様な固有の名前が付けられていたが、それらが統合されて、富士神社の講としては、現在は固有名詞としての「富士講」のみが残った。「神苑講」が「富士講」に名前変更したというより、「神苑講」も他の講と一緒に「富士講」に統合されたのではないか、と解釈しました。初心者が勝手に解釈するとはおこがましいとは思いますが、後日詳しく調べて見たいと思います。


   
(石で作られた記念碑が埋め込まれていました)


   (神苑講のメンバーの名前も刻まれています)



     (色あせてしまった記念碑もありました)



     (昭和13年の工事で完成した石垣)

 朝のラジオ体操、単に体を動かすだけでなく、他の方と会話を交わし始めると気が付くことが多々あり、心地よい空間となり始めています。


初めての常念岳

2009年11月07日 | 信濃紀行

 初めて常念岳に登ったのは1980年(昭和55年)、正確には今から29年前の夏です。上高地の徳沢→蝶ヶ岳→常念岳→大天井岳→燕山荘→中房温泉と縦走してきました。
 上高地河童橋から徳沢までは、梓川沿いの、森林に覆われた平坦な道が続く気持ちよいコース。入山一日目は、井上靖原作「氷壁」の宿徳沢園脇にテントを張りました。テントはかってボーイスカウト経験のあるHさんが持参。布製のごわごわしたテントでしたが、しかしこのテントが実は問題でした。今でこそ軽量の、組み立ても簡単なテントしか使われていませんが、29年前はまだ布製のテントも使われており、このテント実に重いのです。ポール立てに
かなり苦労をして組み立てました。
 早朝にテントを撤収し、荷詰めの段になってこのテントがザックに収納で出来ないのです。メンバー4人のザック、縦走をするには余りに小さかった事もありますが、どうしてそんな事になったか、今でも思い出せません。徳沢から蝶ヶ岳への登りに、このテントを代わる代わる持つ事にしたのです。あるものは自分のザックの上部に括りつけたり、あるもには首からつるしたり。本格的な登山が未熟な4人とは言え、他の登山者から見れば、滑稽で無謀な行為に見えたことでしょう。
 この様なスタイルでの登山が文字通り重荷になりました。4人とも同じ職場の人間。一緒に働き、よく呑んでいましたから人間関係の意思疎通は出来ていたのですが、一緒の登山は始めて。後から思えば、登山への意思疎通には欠けていました。最年長の私が中心となり、しっかりとした計画を練らねばならなかったのだと思います。この上りの「長堀尾根」で長時間を要し、稜線に出たのはお昼近かったと思います。稜線に出れば、雄大な穂高が眺められたはずですが、記憶にありません。疲労困憊していました。コースタイム4時間40分のところ、6時間は要した事でしょう。

 ここから常念岳への尾根縦走、ただただ難儀でした。漸く常念岳に到着、微かに見える「常念小屋」までの道のりが長かった記憶だけ残っています。「一の沢」を登ってきた仲間3名は既に小屋に到着していて、小屋付近から手を振って待っていて呉れました。常念岳から下る途中、仲間の一人が「明日は直ぐ帰らせて貰います」と。今でも覚えている一言です。
 しかし、次の日の早朝、テント場から見た槍ヶ岳、忘れられない風景がそこに展開していました。前日の疲れも取れ、心に余裕も出来きたからだと思いますが、腰を下ろしゆったりと眺める”対岸”の稜線は左から前穂高・奥穂高・北穂高と連なり、大キレット挟んで南岳・槍ヶ岳へと続く一大パノラマ。同行の仲間達も息を飲んで見つめていました。後から思えば、その後続く幾多の山行は、ここが出発点だったと思います。

 快晴の中、パーティーは7名となり、重いテントも某大学の山岳部員だったKさんのキスリングに上手く収まり、彼を先頭に大天井岳めざし出発。大天井岳からは所謂「表銀座コース」です。が、この辺りから昨日の疲れの影響か、パーティの歩みは遅くなります。燕山荘に着いたのは夕闇が迫る頃。慌てて「中房温泉」への下山を開始するも途中で日が暮れてしまします。懐中電灯を使わねばならなくなると、更に歩みは遅くなり、宿の到着は午後11時、宿は食事をそのままにしたまま待っていてくれました。宿の予約は私がしたので、宿からは私の家に電話。「まだ到着しません。どうしたのでしょう」の様な内容だったのでしょう。妻からこの時の驚きを何度も聞かされました。

 帰ってきてからの反省会。装備が貧弱過ぎた、懐中電灯持参者が一人に象徴される如く打ち合わせ不十分等々、登山のイロハに当たる様な事柄が反省材料に挙げられたのです。初めての本格的な縦走は失敗に終わりましたが、全員が無事帰ってこられた事がせめてもの救い。この登山経験を一つの教訓にしてその後の山登りをしてきた積もりですが、もう一度この稜線に立ち、心行くまで山岳風景を味わいたいとの思いが、少しずつ湧いてきてます。
 それにしても「いまだ下山せず!」に登場された遭難パーティは、私達が縦走してきてのとは逆(こちら表銀座コースの普通の歩みですが)に、厳冬の時期の猛吹雪の中をラッセルしながら進んでいった事を思うと、その困難さがどんなに大変であったか、少しは想像出来るのです。