スカ線の付属編成を2編成併結してのグリーン車不連結の快速でしたが当時、冷房化率が高かったスカ線の車両てしたので快速でありながら冷房車両が充当されて(155系や167系は急行なのに非冷房)、たまたま乗った乗客(時刻表には掲載されず、駅の臨時時刻表に追加として手書きで書かれている程度)には好評でした。この列車は横浜―伊豆急下田間の片道運転だった記憶があります。本来は最低でも品川始発にするべきですが、品川駅臨時ホームが特発対応のために使用不可と言うことで苦肉の策として大船電車区出区後は一旦上って横浜始発として上り本線から下った列車でした。車内に掲げられている”伊豆急下田”案内板は大船電車区出区されると大船駅で搭載し、掲示しました(当時、私は大船駅でバイトをしていましたので、何回かこのサボを搭載した覚えがあります)。なおこの列車の対となる上り列車はどのような運転区間だったか。客扱だったか回送だったか全く記憶にありません。 73,08,** 9777M 網代 サクラフイルム スキャナー : Nikon COOLSCAN ⅣED
40年前の東海道線は夏本番を迎えて臨時列車のオンパレードでした。この当時、この季節になると品川と尾久の20系客車を寄せ集めて臨時”あさかぜ”を運転し、更には各客車区からかき集めた予備車の旧型客車(雑客=雑型)を寄せ集めて九州直通の臨時急行がを運転していました。また伊豆方面には修学旅行用の155系や167系が臨時”おいくず”として充当され(”伊豆”は全車指定列車なので155系・167系の臨時列車は”おくいず”だけでした。)、更には日曜だから空いている(電車区で休んでいる)と言う理由で大船電車区のスカ線(横須賀線)の113系付属2M2Tを2編成つなげて伊豆急下田へ、また先日ご紹介した様に蒲田電車区から103系を借りて、運転士と車掌は東神奈川から応援してもらって品川・横浜-平塚・小田原間でピストン輸送をしていました。さらには九州・西日本から沼津までやって来て品川まで回送する創臨の回送6348レや8312レを沼津から車内未清掃のまま品川まで特発臨として運転したりしていました。とにかく、この時代、東海道線に限らず国鉄は持てる力をフルに活用して多客期に対処する、それが国鉄流の夏期輸送でした。
昭和40年代は所得は延びても自動車が一家に1台なんて夢の時代でしたので、それだけ鉄道の需要があったのだと思います。事実、この当時既に横浜新道(当日はワンマン道路と言っていました)も夏の日曜日といえどもさほど酷い渋滞はありませんでした。その一方で海へ向かう鉄道はどの列車も超満員でそれだけ自動車の量が少く鉄道に頼っていた時代だったと思います。
今では伊豆急への臨時列車はその面影を残すのみで、それ以外は他の交通機関(自動車や航空機)にとってかわってしまって見る影もありません。この頃は国鉄が国鉄らしかった最後の時代だっと思います。
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ワム8
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