当時に「葬式鉄」等と言う言葉はありませんでしたが、いつの時代も消える列車の前にはカメラの放列があります。 72,03,05 上野 SSフィルム Nikon COOLSCAN ⅣED
12年3月ダイヤ改正では新幹線の100系や300系の撤退。゛日本海゛・゛きたぐに゛の廃止。゛あさぎり゛の区間短縮及び形式変更とそれに伴う371系定休運用離脱。あるいは小田急の3形式の引退など話題が尽きませんが、40年前の3月にもダイヤ改正で消える名門列車がありました。それが特急に格上げとなる客車組成による昼行急行゛白山゛です。この当時、客車組成の夜行列車はいくらでもありましたが、さすがに客車組成の昼行急行となると上野―青森間の゛十和田゛と函館―札幌間の山線経由の゛ニセコ゛、それに上野―金沢間の゛白山゛の3本のみとなっていました。゛十和田゛と゛ニセコ゛は郵便・荷物輸送を兼ねた列車で、お客のためと言うより郵便・荷物のために設定されているのでは?と錯覚する様な列車でしたが゛白山゛は横軽通過と言う特殊事情で客車組成で残っていた列車でした。当時は交直流両用で横軽対策が施された車両がなく上野―金沢間を昼間に直通で結ぶ列車は客車組成に頼るしかありませんでした。夜行列車は複数ありましたが同区間を昼行で走る列車は゛白山゛のみと言う状況にありました。このために同列車はいつも混雑していた記憶があります。事実、客車組成の昼行急行に乗りたさ一心で小諸での接続が極めて悪いにも関わらず小海線のC56を撮影した帰り道に゛白山゛に乗った記憶がありますが、年末の上り列車にも関わらず自由席は満席で上野まで座れなかった苦い記憶がありました。
この゛白山゛の体質改善のために489系が開発され3月から特急゛白山゛として運転される事になったわけです。ただ増発ではないので混雑は変わらないのにぃ!と思うのが自然ですが、当時の横軽は貨物列車もあった時代だったので、増発は到底無理な話だったと推測されます(客車組成では横軽通過は10両だったのが489系だと12両になるのですが抜本的な輸送改善とはなっていません)。
この頃の鉄ちゃんでも客車組成の昼行急行は結構人気がありましたが゛十和田゛は人気のないEF80(ダチャマルと呼ばれ、ほとんどカメラを向ける鉄ちゃんはいませんでした)なのに対して゛白山゛はあの頃からも人気のあったEF62が牽引していたために、格上げの話が出る以前から同列車にカメラを向ける鉄ちゃんはたくさん見掛けました。また横軽通過による定数が低く押さえられている特殊事情から10系軽量客車が尾久に集中配置され゛白山゛など横軽通過の客車組成列車に優先的に充当さるた事も特筆される事実ではないでしょうか?話が逸脱しますが、今を持っても不思議なのがこの10系客車が根強く絶大な人気がある事です。私の好みから言えば43系や61系の方が好きなのですが、当時から10系客車が組み込まれた列車は人気がありました。晩年、10系客車が淘汰されてからは解らなくもないのですが、旧型客車(雑型客車)がまだまだ沢山走っていた当時から人気があったのはヨーロッパ風スタイルが好まれたのでしょうか?根強い人気がありました。頑固な私の事ですので従来の旧型客車に魅力を感じていただけに不思議でなりませんでした。
格上げ間近の上野駅には゛白山゛はコンパクトカメラを持った鉄ちゃんがたくさん集結していました(当時一眼レフはまだ普及せず、中学生や一部高校生はコンパクトカメラを持って撮影するのが当たり前でした)。゛白山゛が推進で入って来るとワッと機関車に駆け寄って撮影をし始めました。それが上の写真です。
真新しい489系の臨時特急”新雪”号ですが、定期運用に充当される前の489系でしたので一日2往復したのかもしれません。 72,03,05 上野 489系”新雪” Nikon COOLSCAN ⅣED
一方、上の写真は冬の名物とも言える上野ー石打間の臨時特急゛新雪゛です。この特急は例年、定期特急の合間で運転さるのが常で181系゛とき゛の間合いで運転されていました。この年は゛白山゛デビュー前の489系が充当されて注目されていました。この゛新雪゛が時刻表で現れると冬が来たと思える程の名物詞となってのを記憶しています。
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