以下は、完全にコピペです(感謝) 意外と知られていない 青梅せんべい 歴史です。
ネタ本は「青梅再発見」(大倉)です。
市内の和菓子屋で、青梅せんべいの元祖を名乗っている店はありません。
青梅せんべいの発祥については、資料が残されておらず、様々な資料から類推するに・・・。
幕末から明治にかけて、一本啓左衛門という人物が、上総から青梅の仲町に来て「一本(いちもと)」という青梅せんべいを売る店を創業。田島家を名乗る。本町の目抜き通りに店を移し、幕末から明治にかけて繁栄を築く。特に二代目が大きな財産を築いたが、三代目になると後継ぎがおらず、ある日突然、弟子たちに製造機材を譲渡して、店をたたみ、どこかへ忽然と消えてしまった。ということです。
●瓦せんべい・・・小麦粉・タマゴ・ザラメ糖を使い、梅花の型で香ばしく焼く。
どれ程古い歴史があるかは不明 → 文書となった資料が無い
戦前…元来は、三輪の梅の花を重ねたデザイン
戦後…二輪の短縮型が考案
現在…各種味のバリエーション、小型のものも
●青梅市に元祖と呼ばれる確かな店がない
●本家争いも無い
各地の名所や観光地では本家や元祖を名乗る争いが多い。→青梅せんべいには無い!?
・昭和56年のとある店主の証言
各店の創業者にあたる先代や先々代は、同じ店で修業をしていた。
・修業先
青梅本町の「一本(いちもと)」
→なぜか店をたたんでいる。
○証言
証言1…
「一本の名入りばんじゅう(菓子箱)を親方から貰い受けて、長く商売に使っていた」
証言2…
「つい先頃まで、作業場に漆塗りの蒸籠(せいろ)があり、一本と書いてあった。祖父がもらった」
証言3…
「古いせんべいの焼き型は「一本」から預かったもの、預けた本人は、青梅を出たきり行方知れず」
● 明治の名鑑に「一本」
・市内上町の桑田商店に明治27年の「関東商業名鑑」。三多摩が東京府になり間もない頃。
・青梅町の部に銀行、鉄道、商店、材木商など40軒ほど。「一本」も記載。田島忠兵衛の名。
● 町方文書に「青梅百文」
・青梅市教育委員会の青梅町方文書(まちかたもんじょ)の調査
ある商家の古文書から。
「青梅百文」→青梅せんべい
「錬り一本百弐拾文」→ようかん
● 元祖は「一本」
・「青梅せんべい」を焼いていた菓子商の「一本」はどこへ消えたか?
・田島忠兵衛は、どのような人物だったのか?
・幕末から明治にかけて「一本」を知る職人衆であれば、間違っても「青梅せんべい」の元祖とは言えない。
忠兵衛の後継者
○田島忠兵衛
・天保元年(1830年)4月16日生まれ。為造、権三郎の二人の息子。
・明治22年8月23日…59才で他界。
・明治25年3月11日…長男の為造(33歳の時)が、忠兵衛を襲名
・明治29年5月…弟の権三郎が他界(31才)
・弟の権三郎には子がない。
・また長男の為造も二度結婚、二度離婚。子宝に恵まれず。
● 明治の末年の旅立ち
・何年かは不明…「一本」伝来の菓子道具の全てを弟子達に託す。
→店をたたんで、二代目・長男の為造はどこかへ旅立つ。
○手がかり
・本町の町内文書に残る…父・忠衛門、二代目忠衛門。高額寄付者。
○天寧寺には…
・弟・権三郎の一周忌。先祖と弟の供養に納められた明治30年5月30日の位牌。
・願主は二代目・田島忠衛門。位牌は総高1尺5寸(約45cm)、淡い紫がかった漆の地。
・盛大な法要だったことがうかがわれる。
● 後継者・弟の死去
・明治29年5月…弟の権三郎が他界(31才)
・明治30年5月…一周忌法要。
・その後、二代目忠衛門は妻と離縁。
→店をたたむ決意を固めたのではないか?
・明治の末・・・親子三代、暖簾を維持してきた青梅の地を後にして、再び戻ってくることはなかった。
※一本 = 田島忠兵衛 だったので、結構ぐちゃぐちゃで文書として残っているものが少ないそうです。また、大きく財を成したので、青梅大祭の山車や、色々なことに寄付も相当したようです。突然現れて、財を成し、突然消えて行ってしまった田島忠兵衛のようですね。焼型をはじめ道具類を全部、職人に貸しあたえて去っていったとはすごいですね
※三輪の梅の花を模した青梅せんべいを覚えています。もしかして、当時の焼型????? 職人が焼いていました。