黒駒 寺社参拝記

畿内を中心とした寺社参拝記です。主に西国三十三所や聖徳太子霊場を巡礼中です。

今日は何の日

2006-06-02 23:23:11 | Weblog
1582年(天正10年)6月2日 織田信長、京の本能寺で家臣の
                 明智日向守光秀に討ちとられる

日本のファシスト信長の最期は家臣の謀反で討ち取られるというなんともあっけない
最期でした。前にも書いたけど僕は信長という人物は大嫌いです。っていうか
この人物を偉人として認めることは虐殺者を認めることでありヒトラーを賛美
するに等しいからです。日本はもちろん世界の歴史というものは常に戦争によって
変化し安定してしていくものでそのこと自体は否定しませんが、この信長という
人物は意味なく人を殺傷する一種の精神異常者だと思います。天下人でこれほど
殺戮を好んだのは室町幕府六代将軍の義教も同じで、この人物も臣下の赤松氏によって
暗殺されるという最期でした。小説や時代劇によって英雄視され人気のある信長
ですが実際にこんな人物が近くにいたら怖くて普通の生活はできないですよ。
この信長だけは偉人として認めたくはないですね。

1946年6月2日 イタリアが国民投票で王制から共和制となる

ファシズム・ファシストという言葉の発祥地であるイタリアは第1次大戦後に
ファシストのムッソリーニにより独裁政治がひかれましたが政治形態としては
形式的に国王が頂点の王制国家でムッソリーニも国王からの承認と支持を得て
政権を担当しました。しかしこれは国王がムッソリーニ率いる黒シャツ隊の
ローマ進軍に屈したからで、事実上は国王はムッソリーニに囚われたのも同然
の扱いでした。イタリア王家は中世の騎士貴族を祖とする名門サヴォイア家で
当時はその末裔エマヌエレ三世が国王でした。ムッソリーニの失脚・処刑後は
解放されて立憲君主制を維持しようとしましたが国民投票で王制の廃止が決定され
その前に皇太子に譲位していたエマヌエレ三世はエジプトへと亡命して
息子の新国王も王制廃止で亡命をせざるを得なくなり、イタリアのサヴォイア王朝は
消滅しました。