レンタサイクルで奈良市内を走ってた日、せっかく自転車なので奈良市山町にある尼門跡(比丘尼御所)の
円照寺まで行きました。経路としては東大寺大仏殿からまっすぐ道を南下して、円照寺バス停前に
参道入り口があり、さらにそこを進むと山門が見えてきます。大仏殿からは距離にすると5km近くは
ありますかね。参道はうっそうとした森林の中にあって俗界とは完全に遮断された空間に境内があります。
円照寺門跡寺史
開基は後水尾院(天皇)第一皇女の梅宮、法名は文智大通大師。寛永18年(1641)修学院に草庵を
結んでこれが円照寺の始まりであるが、後水尾院の修学院山荘造営の時に奈良の八嶋村に移転する。
さらに寛文9年(1669)に八嶋村から近くの山村に移転して現在にまで至る。代々皇女をもって
住持とした。寺領300石。臨済宗妙心寺派、本尊は如意輪観音菩薩。
幸薄い皇女梅宮
開基の梅宮は後水尾院の第一皇女として生まれましたが、生母がおよつ御寮人(将軍息女の東福門院入内
の前にいた後水尾院の愛妾でその存在が幕府の忌諱に触れていた)であったために内親王宣下もなく
日陰的な存在でした。摂家の鷹司家に降嫁しましたが、やがて離縁となり出戻りになります。
そして生母のおよつ御寮人が没した後に剃髪して仏門に入りました。そのときはまだ22才の若さです。
父帝である後水尾院とは仏道を通じて父娘の情愛を深め、継母にあたる東福門院や異腹の妹たちとも
交流があったようです。最初に草庵を結んだ修学院も山里ですが、さらに京洛から離れた草深き地を求めて
大和の八嶋村、さらには山村に移居して80歳近い天寿を全うしました。
境内には内裏の旧殿を移築した宸殿の他に書院や奥御殿などがあるそうですが非公開です。写真は書院の玄関で
右側に少し見える茅葺屋根の建物が本堂(円通殿)です。結界があるので境内も深くは入れません。
修学院にある林丘寺と同じく外とはあまり交わらないガードの固い尼門跡のようです。しかし境内は
整然としていて江戸時代からの建物も外見では特に痛んでいる様子もなかったですが、檀家もなく観光収入も
なくて寺観を保持しているのは不思議です。他の拝観謝絶尼門跡寺院も同様ですが・・・。
円照寺は山村御流という華道の家元だそうです。入門したら御殿に昇殿できるのでしょうかね。
これで京洛・南都に残る尼門跡13ヶ寺はすべて訪れました。そのうち拝観ができたのは中宮寺・宝鏡寺・曇華院・
霊鑑寺・法華寺の5ヶ寺で、拝観はできなかったもののご朱印がいただけたのは大聖寺・光照院の2ヶ寺、
その他の拝観謝絶でご朱印もないのが三時知恩寺・慈受院・宝慈院・本光院・林丘寺・円照寺の6ヶ寺。
尼門跡寺院は幕末には15ヶ寺あり、慈受院と併合した総持院を除いて14ヶ寺が現在まで法灯を継いでいます。
皇子親王の門跡とは異なって皇女や摂家子女の隠棲御所としての側面をも持つためか、江戸時代の寺領も
数十石~数百石と少なくて現在もこじんまりとした境内が印象的ですが、定規筋の入った塀に
菊の御紋の瓦を頂く門や宸殿などの御殿、庭の造作などに格式高い独特な雰囲気を感じました。
御所人形が多く残るのも尼門跡特有と言えますか。
拝観を行なわない寺院はそれなりの理由があると思いますが、期間限定でもなにかの機会で拝観できる日が
来ることを希望して待ちます。尼門跡(比丘尼御所)は残り1ヶ寺、近江八幡に瑞龍寺門跡があります。
こちらは少し遠いのでまたの機会に訪れたいと思います。
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円照寺まで行きました。経路としては東大寺大仏殿からまっすぐ道を南下して、円照寺バス停前に
参道入り口があり、さらにそこを進むと山門が見えてきます。大仏殿からは距離にすると5km近くは
ありますかね。参道はうっそうとした森林の中にあって俗界とは完全に遮断された空間に境内があります。
円照寺門跡寺史
開基は後水尾院(天皇)第一皇女の梅宮、法名は文智大通大師。寛永18年(1641)修学院に草庵を
結んでこれが円照寺の始まりであるが、後水尾院の修学院山荘造営の時に奈良の八嶋村に移転する。
さらに寛文9年(1669)に八嶋村から近くの山村に移転して現在にまで至る。代々皇女をもって
住持とした。寺領300石。臨済宗妙心寺派、本尊は如意輪観音菩薩。
幸薄い皇女梅宮
開基の梅宮は後水尾院の第一皇女として生まれましたが、生母がおよつ御寮人(将軍息女の東福門院入内
の前にいた後水尾院の愛妾でその存在が幕府の忌諱に触れていた)であったために内親王宣下もなく
日陰的な存在でした。摂家の鷹司家に降嫁しましたが、やがて離縁となり出戻りになります。
そして生母のおよつ御寮人が没した後に剃髪して仏門に入りました。そのときはまだ22才の若さです。
父帝である後水尾院とは仏道を通じて父娘の情愛を深め、継母にあたる東福門院や異腹の妹たちとも
交流があったようです。最初に草庵を結んだ修学院も山里ですが、さらに京洛から離れた草深き地を求めて
大和の八嶋村、さらには山村に移居して80歳近い天寿を全うしました。
境内には内裏の旧殿を移築した宸殿の他に書院や奥御殿などがあるそうですが非公開です。写真は書院の玄関で
右側に少し見える茅葺屋根の建物が本堂(円通殿)です。結界があるので境内も深くは入れません。
修学院にある林丘寺と同じく外とはあまり交わらないガードの固い尼門跡のようです。しかし境内は
整然としていて江戸時代からの建物も外見では特に痛んでいる様子もなかったですが、檀家もなく観光収入も
なくて寺観を保持しているのは不思議です。他の拝観謝絶尼門跡寺院も同様ですが・・・。
円照寺は山村御流という華道の家元だそうです。入門したら御殿に昇殿できるのでしょうかね。
これで京洛・南都に残る尼門跡13ヶ寺はすべて訪れました。そのうち拝観ができたのは中宮寺・宝鏡寺・曇華院・
霊鑑寺・法華寺の5ヶ寺で、拝観はできなかったもののご朱印がいただけたのは大聖寺・光照院の2ヶ寺、
その他の拝観謝絶でご朱印もないのが三時知恩寺・慈受院・宝慈院・本光院・林丘寺・円照寺の6ヶ寺。
尼門跡寺院は幕末には15ヶ寺あり、慈受院と併合した総持院を除いて14ヶ寺が現在まで法灯を継いでいます。
皇子親王の門跡とは異なって皇女や摂家子女の隠棲御所としての側面をも持つためか、江戸時代の寺領も
数十石~数百石と少なくて現在もこじんまりとした境内が印象的ですが、定規筋の入った塀に
菊の御紋の瓦を頂く門や宸殿などの御殿、庭の造作などに格式高い独特な雰囲気を感じました。
御所人形が多く残るのも尼門跡特有と言えますか。
拝観を行なわない寺院はそれなりの理由があると思いますが、期間限定でもなにかの機会で拝観できる日が
来ることを希望して待ちます。尼門跡(比丘尼御所)は残り1ヶ寺、近江八幡に瑞龍寺門跡があります。
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