幕末三舟と言えば勝海舟・山岡鉄舟・高橋泥舟。もともとこの呼び方は幕末から言われたのではなく明治に入ってからですが、最期の高橋泥舟はあまり名前が知られていません。それは高橋泥舟そのものの生き方にあるのだと思いますが、この三舟が成し遂げた江戸無血開城こそ高橋泥舟が謹慎中の徳川慶喜を上野寛永寺で護衛し勝海舟・山岡鉄舟に慶喜の意思を伝え動かしたものと言えます。幕臣であった高橋泥舟は槍の名人で若き頃から注目され幕府講武所教授方として活躍、高橋伊勢守になります。幕末最後の頃は15代将軍徳川慶喜の護衛にあたりますが、主人の徳川慶喜が賊軍の将となり明治以降世に出なかったのに従い、明治政府からの役職の要請を一切断り明治36年69歳で亡くなるまで世に出ることはありませんでした。
明治24年に信州の青年が、高橋泥舟本人にその生き方を問いたところ、
「慶喜公の護衛の任に当たったのは、私でなければできない内情があったのだ。それもまた天命であることよ。我が家が徳川三百年の恩顧に報いるのは、実に自然なことだし、そこでその任を終わるのもよしとしよう。どうして浮雲のような栄華を求めようとして世に出よう、などと思うものかな」
と言われたといいます。(「高橋泥舟」教育評論社より)
まさに至誠一貫の人。このような生き方に現代人の生き方を見直してみる必要があると感じている今日この頃です。
明治24年に信州の青年が、高橋泥舟本人にその生き方を問いたところ、
「慶喜公の護衛の任に当たったのは、私でなければできない内情があったのだ。それもまた天命であることよ。我が家が徳川三百年の恩顧に報いるのは、実に自然なことだし、そこでその任を終わるのもよしとしよう。どうして浮雲のような栄華を求めようとして世に出よう、などと思うものかな」
と言われたといいます。(「高橋泥舟」教育評論社より)
まさに至誠一貫の人。このような生き方に現代人の生き方を見直してみる必要があると感じている今日この頃です。