「全体おれは幕末から明治の初年へかけて、自分に当局者でもなく、また成るべく避けては居たけれど、始終外交談判などを手伝はせられた。長州征伐の時にもあまり出過ぎたためにお上から叱られ、オロシアが来た時にも和蘭と交渉し、列国が下の関を砲撃した時にも長崎で談判を開き、薩長軋轢の時にも中に立ちなどして、長らくの間、天下の安危を一新に引き負うたが、そのうちにはいろいろの人物に接した。そして日本人の間では憎まれ者になつたけれども、これでも大院君や、李鴻章には、ずいぶん持てるのだ。先般薨去sられた島津公のごときも、三代以前から懇意である」(勝海舟「氷川清話」より)
立場を超えて天下の安危を一身に負った勝海舟。この苦労が人物との交流を生み自らも人物を養成していったのでしょう。現代はどうでしょう。人の手柄を自分の手柄と言い、自分に責任がかぶりそうになると責任は無い、関係無いと言う、これでは人物は生まれませんね。
立場を超えて天下の安危を一身に負った勝海舟。この苦労が人物との交流を生み自らも人物を養成していったのでしょう。現代はどうでしょう。人の手柄を自分の手柄と言い、自分に責任がかぶりそうになると責任は無い、関係無いと言う、これでは人物は生まれませんね。