このブログにたびたび登場していただいている矢部顕さんはラボ言語教育総合研究所事務局長をされていました。私は彼とそこで出会い、彼が退職されてからもメールで親しくやりとりを続けさせてもらっています。興味深い情報がいっぱいいただき、私だけで読むのはもったいないので読者の皆さんにもお裾分けしている次第です。
今回はヒバゴンの話です。
*矢部さんには拙著『地域演劇教育論-ラボ教育センターのテーマ活動』の巻頭言をいただきました。
●福田三津夫さんへの手紙
ヒバゴンって知っていますか?
福田さんは「日本で、訪ねたいところが二つある。出雲と仏都会津です」とおっしゃっていましたね。先日、山陽新聞のコラムを読んで、何年かぶりに道後山キャンプのことを思い出しました。コラムを添付します。
福田さんが訪ねたいという出雲ですが、考古学的には、358本の銅剣が一度に発見された荒神谷遺跡とか、39個の銅鐸が一度に発見された加茂岩倉遺跡とか、『葬られた出雲王朝』の痕跡があちこちにあって、驚くばかりです。
それだけではありません。「ヤスキのハガネ=安来の鋼」で今でも有名ですが、奥出雲のほうでは「たたら」による鉄生産に関する史跡もたくさんあり、かつ「たたら」を復元して古来の方法での鉄づくりを再現しているところもあります。
古代から明治時代に八幡製鉄ができる前まで、中国山地は鉄生産のきわめて重要な拠点で、それは岡山県側にも広がっていました。岡山県は吉備王国です。大和朝廷確立の前は、出雲と吉備が巨大な勢力をもった王国だったので、大和との勢力争いや後の協力関係など古代史の未解明な事柄が数多くあります。製鉄技術の争奪戦もあっただろうと想像できます。大和の中心の三輪山の神が出雲の神というのも不思議なことです。これらの、考古学的、歴史的遺産が、すべて「スサノオ」「オオクニヌシ」と深い関係にあることが「神の国・出雲」の奥深さです。
岡山県に近い広島県と島根県との県境に位置する「道後山」の中腹で、ラボ・サマーキャンプを10年間くらい実施していました。(現在は、大山に場所を移しています)。まさに奥出雲です。
「イザナミを葬った」と古事記に書かれている比婆山は、道後山の隣の山です。 キャンプの野外活動のコースのひとつである「比婆連山縦走コース」に挑戦する子どもたちの引率を、わたくしは何回もやりました。比婆山の山頂にある「イザナミ御陵」や、「千人で引っ張っても動かない」というヨモツヒラサカをふさぐ「千引岩」もコースに入っていて、そこで子どもたちとともに手を合わせたものです。キャンプの夜は、地元の荒神神楽保存会の人たちによる神楽の鑑賞です。この神楽のクライマックスは、もちろんスサノオのヤマタノオロチ退治の場面です。
今から考えると、ラボ物語ライブラリー『国生み』(「国生み」「スサノオ」「オオクニヌシ」「わだつみのいろこのみや」の4話構成、谷川雁による古事記の再話)の出雲神話の舞台の場所がキャンプ地であり、ヤマタノオロチが住んでいたという船通山を目の前に眺め、イザナミ御陵のある比婆山に登山し、神楽を鑑賞し、グループ活動で『国生み』のテーマ活動にキャンプ参加の子どもたちが取り組む、という信じがたいほどロケーションに恵まれたキャンプだったのです。
このあたりは、今は行政的には広島県比婆郡西條町というところで、このあたりの山に、かつては「ヒバゴン」が出没していて、目撃者もたくさんいました。全国的に有名になって、問い合わせが多く、西條町役場には「類人猿課」ができたということを聞いたことがあります。道後山キャンプの始まる10年ほど前だったでしょうか。
私たちがキャンプで訪れた時には、騒ぎはおさまっていましたが、役場には「ヒバゴン」のぬいぐるみがあって、キャンプで使ったらどうか、なんて話もありました。
矢部顕
このブログが掲載されてから矢部さんから立て続けに下掲の文章が送られてきました。ある会報誌に掲載されてものです。これもさすがに読み応えのある文章なので皆さんにも「お裾分け」です。
八丈島赦免花伝説
―亀山城跡に移植された蘇鉄に花が咲いた―
亀山城跡保存会事務局長
矢部 顕
●秀家ゆかりの蘇鉄が贈られてきた
関ヶ原の戦いで、西軍の主力として戦い敗れた宇喜多秀家は、徳川によって八丈島へ流刑となった。八丈島で、秀家が手ずから植えたとされる蘇鉄の株分けされたものが、秀家顕彰会「八丈島久福会」から岡山市に贈られてきた。秀家没から360余年の時空を越えて生誕地である亀山城に移植された。
*
我が家の裏の小山に亀山城があった。山陽道を見下ろす交通の要所。戦国武将・宇喜多直家の居城で、備前を支配したのち岡山城に移った。息子の秀家はここ亀山城で生まれたとされる。小山の裾に我が家はあるが、まわりは沼で天然の堀の役目をした。小山は沼に浮かぶ亀の形。(我家の今の住所は、岡山市東区沼)
豊臣秀吉の備中高松城の水攻めのときは、ここで黒田官兵衛らと作戦を練ったともいわれる。水攻めのさなか、本能寺の変が起こり、秀吉は2万の大軍を引き連れて京に引き返す。世に言う「中国大返し」である。
秀家は秀吉に可愛がられて、若くして五大老のひとりにまで登りつめた。秀吉の養女として育てられた豪姫を娶ることになる。直家の跡を継いで、岡山の町の基礎をつくった。
豊臣政権の貴公子と呼ばれた秀家は、秀吉の朝鮮出兵では大将をつとめたりして、最後が関が原の戦いである。潜伏、亡命、流罪と、関が原後も生き抜いた執念の男で、八丈島での生活は50年にもおよぶ。戦国武将で83歳まで長生きした例は他にない。
●蘇鉄に花が咲いた
この秀家ゆかりの蘇鉄に花が咲き、実をつけた。10月14日に植樹式をして亀山城跡に移植して1か月、11月のこと。
蘇鉄の花が咲いて思い起こすのは赦免花伝説である。
八丈島は1606年の宇喜多秀家遠島以来260年間、流人の島の時代が続いた。その間、1898人が流罪でこの島に送られた。初期は、主に政治犯、国事犯などの人が多く、教養ある博識な人が多かったため島民はこの流人たちを歓迎したと言われる。
●赦免花伝説
罪が許されると赦免状が届き、その罪人は本土に帰ることが出来る。当時は、秀家の菩提寺である宗福寺の蘇鉄の花が咲くと赦免状が届く前触れと言われた。花が咲くことは流人にとっては狂おしいほどに期待をもったことであったであろう。
赦免は、たとえば文政年間には69人、天保年間には41人、弘化年間には64人、嘉永年間には34人など計10回におよんだとか。あわせて741人に赦免状が届いた。
しかし、宇喜多秀家とその末裔にたいしては何の沙汰も無かった。長い流罪の生活に終わりをつげたのは、徳川の江戸時代が終わった、明治元年の恩赦によってであった。
●食料を送り続けた前田家
秀家の妻・豪姫は島への同行は許されず、実家の加賀前田家にもどった。
宇喜多家の家老・明石掃部全登は黒田官兵衛の影響からかキリシタンで、城下の民2000人(20人でもなく、200人でもなく!)に洗礼を受けさせたという。我が家のそばを流れる砂川の川底からはマリア像の破片などが出土する。家老・明石掃部全登からすすめられたかどうか知らぬが、豪姫はキリシタンだった。
豪姫は、八丈島の秀家らに食料を送りたいと徳川に願い出たが許されず、自らの信仰を捨てる、すなわちキリスト教を棄教することを条件に許された。
加賀の前田家は、秀家ならびに子孫一族のために食料と医薬品を、明治の恩赦があるまで八丈島へ送り続けた。徳川の怨みもここまでやるかと思うが、一度決めたら260年貫き通す前田家の代々の姿勢にも驚く。これらのことは日本の歴史上たぐい稀なできごとではないだろうか。
移植されたばかりの蘇鉄に花が咲いたということは、令和元年の恩赦があるということなのか。それとも、八丈島で生涯を終えた秀家の御霊が、自らの生誕地に蘇鉄とともに帰って来たと喜んでいるからであろうか。
【続報】
こんな情報が矢部さんから送られてきましたので追加しておきます。
今回はヒバゴンの話です。
*矢部さんには拙著『地域演劇教育論-ラボ教育センターのテーマ活動』の巻頭言をいただきました。
●福田三津夫さんへの手紙
ヒバゴンって知っていますか?
福田さんは「日本で、訪ねたいところが二つある。出雲と仏都会津です」とおっしゃっていましたね。先日、山陽新聞のコラムを読んで、何年かぶりに道後山キャンプのことを思い出しました。コラムを添付します。
福田さんが訪ねたいという出雲ですが、考古学的には、358本の銅剣が一度に発見された荒神谷遺跡とか、39個の銅鐸が一度に発見された加茂岩倉遺跡とか、『葬られた出雲王朝』の痕跡があちこちにあって、驚くばかりです。
それだけではありません。「ヤスキのハガネ=安来の鋼」で今でも有名ですが、奥出雲のほうでは「たたら」による鉄生産に関する史跡もたくさんあり、かつ「たたら」を復元して古来の方法での鉄づくりを再現しているところもあります。
古代から明治時代に八幡製鉄ができる前まで、中国山地は鉄生産のきわめて重要な拠点で、それは岡山県側にも広がっていました。岡山県は吉備王国です。大和朝廷確立の前は、出雲と吉備が巨大な勢力をもった王国だったので、大和との勢力争いや後の協力関係など古代史の未解明な事柄が数多くあります。製鉄技術の争奪戦もあっただろうと想像できます。大和の中心の三輪山の神が出雲の神というのも不思議なことです。これらの、考古学的、歴史的遺産が、すべて「スサノオ」「オオクニヌシ」と深い関係にあることが「神の国・出雲」の奥深さです。
岡山県に近い広島県と島根県との県境に位置する「道後山」の中腹で、ラボ・サマーキャンプを10年間くらい実施していました。(現在は、大山に場所を移しています)。まさに奥出雲です。
「イザナミを葬った」と古事記に書かれている比婆山は、道後山の隣の山です。 キャンプの野外活動のコースのひとつである「比婆連山縦走コース」に挑戦する子どもたちの引率を、わたくしは何回もやりました。比婆山の山頂にある「イザナミ御陵」や、「千人で引っ張っても動かない」というヨモツヒラサカをふさぐ「千引岩」もコースに入っていて、そこで子どもたちとともに手を合わせたものです。キャンプの夜は、地元の荒神神楽保存会の人たちによる神楽の鑑賞です。この神楽のクライマックスは、もちろんスサノオのヤマタノオロチ退治の場面です。
今から考えると、ラボ物語ライブラリー『国生み』(「国生み」「スサノオ」「オオクニヌシ」「わだつみのいろこのみや」の4話構成、谷川雁による古事記の再話)の出雲神話の舞台の場所がキャンプ地であり、ヤマタノオロチが住んでいたという船通山を目の前に眺め、イザナミ御陵のある比婆山に登山し、神楽を鑑賞し、グループ活動で『国生み』のテーマ活動にキャンプ参加の子どもたちが取り組む、という信じがたいほどロケーションに恵まれたキャンプだったのです。
このあたりは、今は行政的には広島県比婆郡西條町というところで、このあたりの山に、かつては「ヒバゴン」が出没していて、目撃者もたくさんいました。全国的に有名になって、問い合わせが多く、西條町役場には「類人猿課」ができたということを聞いたことがあります。道後山キャンプの始まる10年ほど前だったでしょうか。
私たちがキャンプで訪れた時には、騒ぎはおさまっていましたが、役場には「ヒバゴン」のぬいぐるみがあって、キャンプで使ったらどうか、なんて話もありました。
矢部顕
このブログが掲載されてから矢部さんから立て続けに下掲の文章が送られてきました。ある会報誌に掲載されてものです。これもさすがに読み応えのある文章なので皆さんにも「お裾分け」です。
八丈島赦免花伝説
―亀山城跡に移植された蘇鉄に花が咲いた―
亀山城跡保存会事務局長
矢部 顕
●秀家ゆかりの蘇鉄が贈られてきた
関ヶ原の戦いで、西軍の主力として戦い敗れた宇喜多秀家は、徳川によって八丈島へ流刑となった。八丈島で、秀家が手ずから植えたとされる蘇鉄の株分けされたものが、秀家顕彰会「八丈島久福会」から岡山市に贈られてきた。秀家没から360余年の時空を越えて生誕地である亀山城に移植された。
*
我が家の裏の小山に亀山城があった。山陽道を見下ろす交通の要所。戦国武将・宇喜多直家の居城で、備前を支配したのち岡山城に移った。息子の秀家はここ亀山城で生まれたとされる。小山の裾に我が家はあるが、まわりは沼で天然の堀の役目をした。小山は沼に浮かぶ亀の形。(我家の今の住所は、岡山市東区沼)
豊臣秀吉の備中高松城の水攻めのときは、ここで黒田官兵衛らと作戦を練ったともいわれる。水攻めのさなか、本能寺の変が起こり、秀吉は2万の大軍を引き連れて京に引き返す。世に言う「中国大返し」である。
秀家は秀吉に可愛がられて、若くして五大老のひとりにまで登りつめた。秀吉の養女として育てられた豪姫を娶ることになる。直家の跡を継いで、岡山の町の基礎をつくった。
豊臣政権の貴公子と呼ばれた秀家は、秀吉の朝鮮出兵では大将をつとめたりして、最後が関が原の戦いである。潜伏、亡命、流罪と、関が原後も生き抜いた執念の男で、八丈島での生活は50年にもおよぶ。戦国武将で83歳まで長生きした例は他にない。
●蘇鉄に花が咲いた
この秀家ゆかりの蘇鉄に花が咲き、実をつけた。10月14日に植樹式をして亀山城跡に移植して1か月、11月のこと。
蘇鉄の花が咲いて思い起こすのは赦免花伝説である。
八丈島は1606年の宇喜多秀家遠島以来260年間、流人の島の時代が続いた。その間、1898人が流罪でこの島に送られた。初期は、主に政治犯、国事犯などの人が多く、教養ある博識な人が多かったため島民はこの流人たちを歓迎したと言われる。
●赦免花伝説
罪が許されると赦免状が届き、その罪人は本土に帰ることが出来る。当時は、秀家の菩提寺である宗福寺の蘇鉄の花が咲くと赦免状が届く前触れと言われた。花が咲くことは流人にとっては狂おしいほどに期待をもったことであったであろう。
赦免は、たとえば文政年間には69人、天保年間には41人、弘化年間には64人、嘉永年間には34人など計10回におよんだとか。あわせて741人に赦免状が届いた。
しかし、宇喜多秀家とその末裔にたいしては何の沙汰も無かった。長い流罪の生活に終わりをつげたのは、徳川の江戸時代が終わった、明治元年の恩赦によってであった。
●食料を送り続けた前田家
秀家の妻・豪姫は島への同行は許されず、実家の加賀前田家にもどった。
宇喜多家の家老・明石掃部全登は黒田官兵衛の影響からかキリシタンで、城下の民2000人(20人でもなく、200人でもなく!)に洗礼を受けさせたという。我が家のそばを流れる砂川の川底からはマリア像の破片などが出土する。家老・明石掃部全登からすすめられたかどうか知らぬが、豪姫はキリシタンだった。
豪姫は、八丈島の秀家らに食料を送りたいと徳川に願い出たが許されず、自らの信仰を捨てる、すなわちキリスト教を棄教することを条件に許された。
加賀の前田家は、秀家ならびに子孫一族のために食料と医薬品を、明治の恩赦があるまで八丈島へ送り続けた。徳川の怨みもここまでやるかと思うが、一度決めたら260年貫き通す前田家の代々の姿勢にも驚く。これらのことは日本の歴史上たぐい稀なできごとではないだろうか。
移植されたばかりの蘇鉄に花が咲いたということは、令和元年の恩赦があるということなのか。それとも、八丈島で生涯を終えた秀家の御霊が、自らの生誕地に蘇鉄とともに帰って来たと喜んでいるからであろうか。
【続報】
こんな情報が矢部さんから送られてきましたので追加しておきます。