後期ゴシック彫刻・市民運動・演劇教育

小学校大学教師体験から演劇教育の実践と理論、憲法九条を活かす市民運動の現在、後期ゴシック彫刻の魅力について語る。

〔278〕矢部顕さんからのハンセン病問題のドキュメンタリー製作についてのお知らせとお願いです。

2020年06月25日 | 映画鑑賞
 このブログでお馴染みの矢部顕さんから久しぶりにメールがありました。彼は私より少し年上ですが、岡山の地で元気に米と葡萄作りに精を出していたようです。そうした近況報告と共に送られてきたのが、ハンセン病問題のドキュメンタリー製作についての情報と、支援の依頼です。その詳細については次の矢部さんのメールをお読みください。少し長いのですが「ドキュメンタリー製作企画書」と「協賛金募集について」も読んでみてください。
 私にできることは知人友人にこうした運動を知らせることとカンパすることぐらいです。
 完成は来年秋を予定しているようです。楽しみですね。


●福田 三津夫 様

4月の下旬ころから、この頃まで、米つくりとブドウつくりにとっては、
非常に忙しい季節が重なります。

ブドウは、芽が出てきて、枝が伸び、花が咲いて、実を付けてくると、
枝の管理、満開3日以内にホルモン処理、粒が大きくなるまえに房の
整形、粒間引きなどなど、ブドウの成長に人間の仕事が追いつきません。、

米つくりは、4月下旬に、苗を育てる苗代づくり。5月になると、苗箱に
種を蒔いて、苗代でビニールでカバーして、種が発芽し、苗が大きくなる
まで育てます。

その間に、田んぼの耕うん、肥料撒き、水張り、代かき、薬撒きをして
田植えを待ちます。

作業にあわせての、用水路の水位の調節は数㎝単位でコントロールする
のですが、個々の要望を聞きながらの樋門の管理の役もやっています。

そんなわけで、先日、やっと田植え作業が終わりました。
年に1回の田植機の運転操作も思い出すのに時間がかかります。

ミスがあって、やり直しをしたりしました。
なんとか、やっと終わりました。

杖が無いと歩けないので、作業も今までよりも、多くの時間がかかって、
自分でも嫌になります。

昨日まで、猛暑のような日々でしたが、今日は雨になり、作業は一休みといった
ところです。

話は変わりますが、岡山に来て知り合った友人に報道カメラマンの宮崎賢さんという
方がいます。
彼が取材撮影してくれた放映のニュース特集のDVDを何回かお送りしたことが
ありますが、いま彼は定年退職して、ハンセン病問題の最後になるであろう
ドキュメンタリー製作に取り組んでいます。

その製作実行委員会が立ち上がり、小生も加わっています。
その趣意書・企画書を添付します。

お知り合いの方々に紹介していただければ幸いです。

矢部 顕


●ドキュメンタリー製作企画書

             2020年(令和2年)5月1日
ドキュメンタリー製作企画書
1 タイトル(仮題)
 「“かくり”の証言~長島愛生園・邑久光明園から~」

2 ドキュメンタリー製作の目的
我が国では、ハンセン病患者を隔離する人権侵害の法律が89年にわたり存在し、その法律のもとで、国による人権無視の終生絶対隔離政策が続けられてきました。この政策により、長年にわたり、ハンセン病病歴者は、多大な苦難と屈辱を被り、人間の尊厳を奪われてきました。そして、1996年(平成8年)に「らい予防法」が廃止されて24年を経過した現在においても、ハンセン病病歴者とその家族は、国の誤った強制隔離政策の結果として生み出された社会構造としての偏見差別の中で生きることを余儀なくされています。
そして今、ハンセン病国賠訴訟やハンセン病家族訴訟を通じて、国の人権教育や啓発のあり方が問い直されています。
  我が国のハンセン病強制隔離政策の負の歴史とその中で生き抜いて闘ってきたハンセン病病歴者とその家族の姿を、次の世代に継承するとともに、改めて、人権とはなにか、人間の尊厳とはなにかを一緒に考えるため、入所者の証言と島の四季の表情を映像で綴り、隔離の記憶を映像で記録したドキュメンタリーを製作します。

3 撮影・取材・編集・構成担当者プロフィール
宮崎賢は、ハンセン病問題に関する取材歴は40年に及び、その間、岡山県の長島愛生園・邑久光明園をはじめ10か所の国立ハンセン病療養所や、「らい菌」の発見者であるアルマウエル・ハンセン医師が生まれたノルウェーのベルゲンやインドを訪れ、内外のハンセン病政策や現状を取材してきた。
これまでにハンセン病ドキュメンタリー13番組、TBS 報道特集、筑紫哲也のニュース23などで全国に発信。ニュース特集は150本を数える。
この間、1983年「地方の時代」映像祭で大賞2014放送グランプリ特別賞。第43回放送文化基金賞・個人賞。民間放送連盟賞優秀賞4度受賞。2019年報道活動部門(ハンセン病)でギャラクシー大賞などの放送賞多数受賞。

4 ドキュメンタリーのあらまし
  「島流しと思った。もう人生は終わったと・・・・」
「収容されたのは小学校5年生。ひらかなで『かくり』と書いて背中に貼って歩いて来た90年の人生でした」「戦争中、食料がないので、島を開墾し鍬で大きな根っこを掘り起こし、芋を作りました。強制労働でした。手足に傷を負って、敗血症で多くの人が死にました」
  入所者が沈黙を破り、隔絶の島での過酷な体験をカメラの前で初めて証言した。

  岡山県瀬戸内市邑久町虫明にある長島には、長島愛生園と邑久光明園の二つの国立療養所がある。入所者の平均年齢は86歳を超え、入所者は超高齢化しており、入所者の急激な減少により、やがて療養所としての役割は終焉を迎える。

 長島愛生園は、1930年(昭和5年)、初めての国立療養所として開園した。1931年(昭和6年)3月、全生園などから「開拓患者」84名が、長島愛生園園長光田健輔と共に島に降り立った。4月「癩予防法」が公布され、全てのハンセン病患者を収容する絶対隔離政策が始まった。9月には満州事変が勃発し、日本の戦時体制が強化されていく。
  愛生園では、開園当初から、「無らい県運動」に呼応して、定員をはるかに超える患者を収容し、開園4か月で、入所者は定員400人を超過した。
戦前隔離された入所者は、「警察が来るんです。家に何回も入所を勧奨に来ました。父親は嫌な顔をしていました」と証言。
国の増床計画の実現を待てない絶対隔離論者である園長光田健輔は、定員超過の解決策として、フィリピンのクリオン療養所で見たニッパ葺き小屋をヒントに、「十(と)十(と)坪(つぼ)坪(つぼ)住宅運動」を開始した。10坪住宅は、建設資金を国民の寄付に求め、患者作業で建設するというものであった。
患者は園に500円(現在の価値で約85万円)を寄付しなければ入居できなかった。1935年(昭和10年)には、定員890人に対して1163人を収容。273人が定員超過となり、患者関係費は実質3割の低下となり、入所者の生活は窮乏を極めた。10坪住宅は、1932年(昭和7年)から1944年(昭和19年)末までに149棟が建てられ、患者の3分の2にあたる約1000人が暮らしていた。定員5名の12畳半に8人。夫婦の居室も6畳に2組というような非人道的な状態が続いた。
1946年(昭和21年)に結婚した夫婦は、「私たちは新婚当初10畳の部屋に夫婦3組が押し込められました。カーテンもなかった。プライバシーというものはないです。人間扱いじゃない、粗末に扱われました」と証言する。

  苛酷な人権侵害の歴史を象徴する建造物が監禁室である。1916(大正5)年に療養所長に懲戒検束権が与えられ、1931年(昭和6年)には「国立らい療養所患者懲戒検束規定」が制定され、療養所から逃走した患者や、職員に反抗的な態度をとった患者などが、園長の権限で監房に収容された。食事は一日一回握り飯2個と沢庵一切れ、梅干し一個と水のみだった。  
  
入所者の録音テープが愛生園歴史館にある。テープには、40人分約70時間の証言が残されている。証言の聞き手は、入所者の「島田等」さん(1995年(平成7年)死亡)。島田さんは、園内では理論派として知られ、入所者からの人望も篤く、戦前に入所した患者の証言をテープに残していた。1932年(昭和7年)に収容された女性の貴重な証言。
  「職員は監房で死なせたということで近寄せなかったが、私は、監房の近くに住んでいたので、監房で亡くなった人を見ました。死体はひどい状態でした。監房での自殺者もありました」

  邑久光明園の前身である外島保養院は、2府10県(第三区)による大阪府主管の公立ハンセン病療養所。1909年(明治42年)に大阪湾に注ぐ神崎川河口(現大坂市西淀川)の海抜ゼロメートル地帯の、近くに民家のない僻地に設立された。1934年(昭和9年)近畿地方を襲った室戸台風による高潮の被害で療養所は壊滅し、入所者173人職員とその家族など23人、あわせて196人の尊い命が奪われた。外島保養院は、住民の反対運動で現地復興が叶わず、長島愛生園がある長島の西端部に設置された。1938年(昭和13年)に「光明園」として再興され、その後1941年(昭和16年)に国立移管され、邑久光明園となり現在に至っている。

1997年(平成9年)、邑久光明園入所者自治会が、「外島保養院」跡地付近に「外島保養院記念碑」を建立し、室戸台風で犠牲となった入所者を追悼している。入所者自治会副会長の山本英郎さんは、「海抜ゼロメートルの土地で患者は生活させられた。一番住民が嫌うような場所で。室戸台風で犠牲になった人は気の毒だと思う。後世に伝えていかなければいけない」と話す。

  1945年(昭和20年)、愛生園入所者の死亡者数332人、死亡率は22.5%に達した。食料不足による栄養失調と強制労働が、患者を死に追いやった。島の山の中では、患者が島の木を切り倒し、大きな根っこを鍬で掘り起こし、およそ230人の患者が一人20坪の畑を割り与えられ、芋などを作り園に供出した。塩も不足し、トタン板を曲げて作った釜で昼夜をかけて海水を焚いて作った。子どもたちも、少年寮の裏山50アールを開墾し畑にしてさつまいもを植えた。患者は、この苛酷な労働により病状を悪化させた。
戦時中は、職員から「非国民」「穀つぶし」と言われ、患者は人間扱いをされなかった(故・阿部はじめ氏などの証言)。

  1943年(昭和18年)、アメリカで、プロミンがハンセン病に有効であることが発表され、我が国でも、1946年(昭和21年)東大薬学部の石館守三教授がプロミンの化学的合成に成功。多磨全生園と長島愛生園で試験治療が開始されてその効果が確認された。1949年(昭和24年)から全国の療養所の入所者対象にプロミンの本格的な治療を実施。ハンセン病は治癒する病気となり、療養所の中は明るい雰囲気に包まれていく。愛生園でプロミン治療を受けた北島かね子さんは、「犀川先生に道を歩いていたら呼び止められて『プロミンを打つと結節(皮膚のしこり)はすぐ引くよ』と言われ、プロミンをしてもらったら本当にきれいに治りました。嬉しかったです」と明るく話す。

  それでも「癩予防法」は廃止されなかった。1953年(昭和28年)、全国ハンセン氏病患者協議会(現・全療協)は「癩予防法改悪反対」のハンストや座り込みなどの抗議活動を行い、抜本的な改正を求めて闘った。しかし参議院では、患者の反対闘争に応える形で、9項目の付帯決議がなされたものの、同年8月、政府原案のまま「らい予防法」が成立。患者の人権闘争は、国民の支援やメデイアの支援が得られず挫折した。

 しかし、予防法改正闘争の結果として、1955年(昭和30年)9月、長島愛生園に患者のための唯一の高校「岡山県立邑久高等学校新良田教室」が開校した。生徒は第一期生として、希望に燃え、高い意識を持って高校生活を送っていたが、高校生活は、同時に偏見と差別との戦いの場でもあった。
  一期生は、「生徒にとって異邦人である先生たち。白ずくめの予防着・予防ズボン・予防帽。そこには厚い白衣の壁が厳然と存在する」と、卒業記念誌に投稿した。 
  卒業生である田村保男さんは、「我々高校生の見えるところでお金を消毒するのを見るのは嫌だった。見えないところで消毒してほしかった」と話す一方で、「全国の仲間と勉強するのは楽しかった」と希望に満ちた学校生活も話した。
  この教室で学んだ生徒は397人。307人が卒業し、225人が社会復帰した。専門学校や大学などに進学して社会で活躍した生徒も多くいる。新良田教室は、患者にとって“力の泉”だったのかも知れない。

  プロミンで治る時代になった1950年代後半から、ハンセン病療養所は文芸ルネッスサンスがあった。絵画・写真・陶芸・詩・川柳・音楽活動など幅広い活動が展開された。戦後の飢餓状況を抜け出し、療養所の中にも少し光がさしだした。その中でもハーモニカバンド「青い鳥楽団」(楽長 近藤宏一さん)の活躍は入園者を驚かすものだった。
  社会のハンセン病にたいする偏見差別が強かったこの時期に支援者の理解を得て、1967年(昭和42年)から毎年、園外演奏に出かけ、9年間に13回の演奏会をおこなった(『愛生』第58巻 平成16年)。生前の、近藤さんは、「ハーモニカを通じて社会の交流ができた。ハンセン病の啓発にも繋がった。すばらしい仲間に支えられて演奏する喜びが味わえた」と話した。

 「人間回復の橋早期実現」
  島の対岸のフェリー乗り場に、立て看板が掲げられた。
  1982年(昭和57年)、台風の余波で白波が起つ長島の桟橋に、架橋現場の視察のため、森下元晴厚生大臣が降り立った。愛生園入所者自治会の会議室で架橋促進委員長の加川一郎さんが、「島流しの生活を一日でも早く終わらせて欲しい」と声を振り絞って大臣へ要望した。愛生園が開園して半世紀が過ぎていた。
1988年(昭和63年)に長島に元患者の悲願であった「人間回復の橋」邑久長島大橋が開通した。長島で架橋運動が始まって17年の歳月が過ぎていた。橋を渡った入所者は、「これでやっと人間に帰れる」「生きている内に橋を渡れるとは思わなかった」と声を弾ませた。

  しかし、橋が開通しても、患者を島に閉じ込めた「らい予防法」は厳然と生きていた。世界各国では、1950年代から1960年代にかけて、ハンセン病は治る病気として次々に隔離法が廃止されていた。
我が国が「らい予防法」を廃止し、厚労大臣が法廃止の遅れを謝罪したのは、「癩予防ニ関スル件」制定から89年が経過した1996年(平成8年)。余りにも遅すぎた法廃止であった。

  1998年(平成10年)、九州の国立ハンセン病療養所入所者13人が、「らい予防法」を憲法違反だと訴え、国を提訴した。原告らは、長年、人間の尊厳を踏みにじられてきた。病気になったという理由だけで隔離され、断種(優生手術)させられ、妊娠すれば堕胎された。人間の尊厳を取り戻す人間回復裁判だと原告らは宣言した。

  2001年(平成13年)、熊本地裁は「らい予防法」は憲法違反と国の責任を断罪した。その後、国は控訴を断念し判決が確定した。原告らは、市民が裁判支援に加わったことに感謝した。

  愛生園で暮らす三重県出身の夫妻がいる。川北為俊さん(85歳)と幸子さん(81歳)は、連れ添って60年になる。3年前に高齢と病気の後遺症で体が不自由になり最後となるだろう帰郷。長年支援してきた小学校教諭の草分京子さんら3人が迎えた。為俊さんは不自由な体で両親が眠るお墓に手を合わせ、最後の墓参りを報告した。
  「故郷の空気はおいしい」と為俊さん。支援する草分先生が教える小学校に招かれ、6年生の児童と給食を初めて食べ、「おいしい」と為俊さん。「胸がぱくぱくする」と幸子さん。初めての給食に嬉しさで胸が詰った。給食の後、為俊さんは、「子どもたちは夕方になると、お母ちゃんお母ちゃんと泣いとった」と13歳で強制隔離された体験を児童に話した。
静かに聞きいっていた児童たちは、為俊さんの話が終わると、活発に質問を投げかけた。
  最後に児童たちは「カントリーロード」の歌をプレゼント。北川さん夫妻は目に涙を浮かべた。幸子さんは「胸がピンク色に染まりました」と笑顔を浮かべた。

  2018年(平成30年)4月、愛生園で人権闘争に長年尽力した宇佐美治さんに死が近づいていた。生前、宇佐美さんは、「人間らしく生きたかった。最期は家族に見守られて死んで逝きたい」と話していたが、横には家族はいない。カメラマンの宮﨑賢が宇佐美さんに声をかける。
  宇佐美さんに光田健輔初代園長の話を向けると、意識が薄れる中で大きな声で反応し呻いた。最期まで光田健輔園長の終生絶対隔離を非人道的だと糾弾してきた宇佐美さんの伝言に聞こえた。                                        (完)


●私たちは製作に賛同いたします            賛同者 (敬称略・順不同)

市村 元(「地方の時代」映像祭プロデューサー)、井上英夫(金沢大学名誉教授)、関 隆晴(大阪教育大学名誉教授)、鈴木 静(愛媛大学教授)、阪井ひとみ(阪井土地開発)、室山昭彦(倉敷商業高校野球部元監督)、金平茂紀(TBS報道特集キャスター)、臼井敏夫(岡山南高校野球部元監督)、斎藤貞三郎(毎日新聞大阪本社制作技術局長)、笠井直美(信越放送編成部)、門屋和子(主婦)、湯浅 進(NPO法人むすびの家理事長)、魚森洋史(RSKプロビジョン元社長)、影山正興(RSK元制作部長)、田中睦郎(RSK元報道制作局次長)、藤原敏久(キョウエイ藤原保険事務所代表取締役)、片岡郁男(農事組合法人佐伯営農組合代表)、中山節夫(映画監督)、宮崎信恵(映画監督)、草分京子(三重県小学校教諭)、篠埜 護(岡山県元中学校校長)、谷岡美穂(医療ソーシャルワーカー)、谷岡聖史(東京新聞記者)、江刺正嘉(毎日新聞記者)、阿部光希(山陽新聞記者)、角南和治(岡山協立病院副院長)、八重樫信之(日本写真家協会会員)、村上絢子(IDEAジャパン事務局長)、杉原尚示(郷土史家)、酒井光雄(香川ハンセン病問題を考える市民の会)、増田聡子(精神保健福祉士)、平川 忠(備前焼作家)、徳田 靖之(ハンセン病国家賠償請求訴訟弁護団共同代表)、角南元司(JXジュンテック社長)、藤原 茂(藤原企画)、増田 尚(弁護士)、佐渡裟智子(ハンセン病朗読ボランティア50年)、浅野 弘(マスカット農家日本一)、曽根英二(RSK元報道ディレクター・菊池寛賞受賞)、内田真澄(鳥取県看護協会会長)、横谷照夫(赤磐市詮量寺代表役員)、近藤真紀子(香川県立保健医療大学教授)、岩脇 彰(三重県小学校教諭)、小川秀幸(テレビディレクター)、三宅美千子・三宅洋介(ハンセン病を考えるネットワーク泉北)、訓覇 浩(ハンセン病市民学会事務局長)、虫賀宗博(論楽社)、徳永 進(野の花診療所・医師)、隈元信一(朝日新聞元論説委員)、青谷善雄(NPO法人むすびの家理事)、林 力(ハンセン病家族訴訟原告団団長)、黄 光男(ハンセン病家族訴訟原告団副団長)、山田 晴海(ハンセン病家族訴訟原告)、原田信子(ハンセン病家族訴訟原告)、松田通男(RSK初代イブニングニュースキャスター)、岩脇宏二(ハンセン病問題を共に考える会三重共同代表)、藤原明文(岡山県警元刑事)、伊波敏男(作家)、金 勝男(フリーカメラマン)、新保庄三(花さき保育園理事長)、原田恵子(福祉運動みどりの風)、松本 伸(三菱自動車水島製作所元所長)、高橋公正(民放連山陽放送労働組合元委員長)、中尾監一(年金生活者)、丹羽弘子(盲学校教諭)、富田美代子(無職)、土屋和代(会社員)、山下 徹(RSKプロビジョン元報道チーフカメラマン)、林 慎一(フリーカメラマン)、林 由子(パート職員)、正躰晃子(主婦・日本百名山走破)、正躰照師(銀行元支店長)、横谷祐二(横谷工務店代表取締役)、山田信和(フリーアナウンサー)、酒井義一(ハンセン病首都圏市民の会事務局長)、横田廣太郎(元新良田教室教諭)、木村哲也、杉野政代(会社員)、小崎敏章(無職)、赤田裕支(会社員)、石田由美子(主婦)、城之内庸仁(一般社団法人岡山に夜間中学校をつくる会理事長)、遠藤美穂(テレビせとうち編成局次長CM部長)、大黒澄枝(元中学校教諭)、愛須勝也(弁護士)、有馬紫朗(テレビ報道カメラマン)、神谷健太郎(フリーテレビカメラマン)、岡崎久美子(クレイアート作家)、岸上昭子(主婦)、田中キャサリン(大手前大学講師)、大和豊子(医師)、大槻倫子(弁護士)、福田きよこ(NPO法人むすびの家理事)、船橋美和子(自営業)、アカリトバリ(ミュージシャン)、山口カズコ(無職)、村田和也(元プロボクサー)、内藤雅義(弁護士)、片野恵子(主婦)、渡辺 文(ビデオエディター)、立花明彦(静岡県立大学教授)、立花礼子(主婦)、小林数義(漁業)、妻井令三(認知症の人と家族の会岡山県支部元代表)、船田 努(民放労連山陽放送労働組合元委員長)、小池正一(RSK元制作技術部長)、石井 尚(毎日新聞記者)、遠藤寛子(フリーアナウンサー)、石川寛昭(会社員)、柚本哲男(会社員)、市川敏史(テレビカメラマン)、市川剛士(桃農家)、森幸 健(沖縄愛楽園入所者)、米倉豊正(沖縄愛楽園入所者)、池内未有希(中学校教諭)、小野未鈴(中学校教諭)、小野智慶(中学校教諭)、池内亮介(中学校教諭)、赤田裕支(会社員)、宮崎完一(農業)、宮崎みや子(介護職員)、小林浩人(会社員)、小林恭子(学校職員)、角南茂夫(無職)、角南牧子(MahaloMahaloHula Studio主催)、木川佳子(夕焼け子ども食堂)、恒本重男・崇子(無職)、小林新一郎・とし子(無職)、江口元利・友紀(会社員)、坪井伸一(会社員)、妹尾恵美(フリーアナウンサー)、榎崎朱子(会社員)、河原祥子(フリーアナウンサー)、迫田登紀子(弁護士)、坂手洋二(劇作家)、稲本ヒロエ(美容師)、久木田照子(毎日新聞記者)、吉江真理子(エディター&ライター)、岡本佳彦(会社員)、蔵座江美(ヒューマンライツふくおか理事)、水谷 賢(弁護士)、篠埜智子(主婦)、森元美代治(NGO IDEAジャパン理事長)、森元美恵子(NGO IDEAジャパン理事)、大前有光(RSKプロビジョン元総務部長)、河原 大(テレビディレクター)、山田伸二(RSKプロビジョン元社長)、茅原 淳(会社員)、波佐間崇晃(テレビアナウンサー)、藤原準三(無職)、小尾渚沙(フリーアナウンサー)、北川拓治(岡山県川柳協会副会長)、山口典子(テレビ報道記者)、西浦直子、加藤めぐみ(社会福祉法人大阪府済生会ハンセン病回復者支援センター職員)、田口温美(社会保険労務士)、迫田 学(弁護士)、藤川智子(弁護士)、立岡修二(元瀬戸内市長)、古川克行(RSK報道部元記者)、高田栄子(主婦)、小松裕子(真宗大谷派僧侶)、久保井 摂(弁護士)、坂 俊介(会社員)、江草聡美(シニア野菜ソムリエ)、佐々木美穂(会社員)、仲野尚代(会社員)、長谷川昌也(東映アニメーション企画部室長代理)、横井香苗(広告業)、日原和美(キレイの習慣主催)、神谷誠人(弁護士)、柄澤恵子(ピアノ講師)、角南滋夫(無職)、瀬川至朗(早稲田大学政治経済学術院教授)、黒尾和久(重監房資料館部長)、和泉眞蔵(アイルランガ大学熱帯研究所ハンセン病研究グループ顧問)、塩田 恵(ハンセン病首都圏市民の会)、福岡安則(埼玉大学名誉教授)、雨宮 徹(朝日新聞記者)、岸本康之(農業)、森山一隆(奄美ハンセン病文庫友の会代表)、有吉正春(元高校教師)、西岡良治(農業)、西岡昌磨(無職)、原田健男(放送ジャーナリスト)、南 幸男(カメラマンDirector of Photography)、高山雅之(郷原漆器生産振興会会長)、高橋邦彰(団体役員)、窪田 聡(音楽家)、篠田澄江(純工房)(2020年6月4日現在)


●協賛金募集について

                            2020年(令和2年)5月1日
関係各位

ドキュメンタリー「“かくり”の証言~長島愛生園・邑久光明園から~」(仮題)
協賛金募集について(趣意書)
謹啓 時下、ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。
 さて、この度、ドキュメンタリー「“かくり”の証言~長島愛生園・邑久光明園から~」製作実行委員会を立ち上げました。
 我が国では、人権侵害の法律が89年にわたり存在し、その法律のもとで、国による人権無視の終生絶対隔離政策が続けられてきました。この政策により、長年にわたり、ハンセン病病歴者は、多大な苦難と屈辱を被り、人間の尊厳を奪われてきました。そして、1996年に「らい予防法」が廃止されて24年を経過した現在においても、ハンセン病病歴者及びその家族は、国の誤った強制隔離政策の結果として生み出された社会構造としての偏見差別の中で生きることを余儀なくされています。今、ハンセン病国賠訴訟やハンセン病家族訴訟を通じて、国の人権教育や人権啓発の在り方が問い直されています。
 「“かくり”の証言」は、我が国のハンセン病隔離政策の「負の歴史」及びその中で生き抜いて闘ったハンセン病病歴者及びその家族の姿を、次の世代に継承すると共に、改めて人権とはなにか、人間の尊厳とはなにかを一緒に考えるため、入所者の証言と島の四季の表情を映像で綴り、隔離の記憶を映像で記録したドキュメンタリーです。
 「“かくり”の証言」の撮影・取材・編集・構成を担当する宮崎賢は、これまで、40年に及ぶハンセン病問題取材歴があり、この間、長島愛生園や邑久光明園をはじめ10か所の国立ハンセン病療養所や「らい菌」の発見者であるアルマウエル・ハンセン医師の生まれたノルウェーのベルゲンやインド等、国内外のハンセン病政策や現状を取材。これまでにハンセン病ドキュメンタリー13番組、TBS報道特集、筑紫哲也のニュース23などで全国に発信。ニュース特集は150本を数えます。
 つきましては、上記ドキュメンタリー製作の趣旨をご理解いただき、皆様の格別のご芳情をお寄せいただきたく、略儀ながら書面をもってお願い申し上げる次第です。  謹白                                                 

1 内 容:「“かくり”の証言~長島愛生園・邑久光明園から~」製作費支援
  完成年月 2021年秋(予定)
  完成時間 1時間30分(予定)
  完成した作品は人権教育や人権啓発に役立てていただきたいと考えています。
2 協賛申込:企業・団体:一口10,000円
個人:一口2,000円(できれば3口以上でお願いします) 
別紙の「協賛金申込書」にてお申し込みください。
3 入金方法:現金または別紙指定口座へのお振込
4 募集期間:令和3年5月末日まで。目標額:700万円 
5 特  典:別紙協賛申込書をご参照ください。         
  「“かくり”の証言~長島愛生園・邑久光明園から~」製作実行委員会
                         製作実行委員会委員長 近藤 剛

●製作実行委員会 近藤 剛(ハンセン病国家賠償訴訟瀬戸内弁護団事務局長)、難波幸矢(元瀬戸内ハンセン病人間回復裁判を支える会代表)、宮崎 賢(報道カメラマン)、有吉和生(RSK元記者)、亀池弘二(RSK元編成部参事)、矢部 顕(NPO法人むすびの家理事)

「“かくり”の証言~長島愛生園・邑久光明園から~」(仮題)
製作協賛申込書


「“かくり”の証言~長島愛生園・邑久光明園から~」(仮題)
 製作実行委員会事務局(近藤剛法律事務所内)行
  FAX:086-463-6673 E-mail: go23372@topaz.plala.or.jp 

企業・団体様 一口10,000円(何口でも結構です)
個人の方 一口2,000円(できれば、3口以上でお願いします)
※申し込み期日:令和3年5月31日

【特典】・・10,000円以上協賛していただいた企業名・団体名、個人の方の氏名を、完成作品のエンドロールに表示させていだきます。
※申込書送付・お問い合わせ
      「“かくり”の証言」製作実行委員会事務局(近藤剛法律事務所内)
FAX: 086-463-6673  E-mail:  go23372@topaz.plala.or.jp

※振込先 株式会社ゆうちょ銀行  店名:五四八(読み ゴヨンハチ) 店番:548
預金種目:普通預金 口座番号:3985311 
名義人 「“かくり”の証言」製作実行委員会                         


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