後期ゴシック彫刻・市民運動・演劇教育

小学校大学教師体験から演劇教育の実践と理論、憲法九条を活かす市民運動の現在、後期ゴシック彫刻の魅力について語る。

〔746〕3回も来場の方、雲蝶で談論風発の方、写真集4冊買ってくださった方…豊かな交流づくしの写真展でした。

2024年11月16日 | 美術鑑賞

 12日間の写真展で210人の方が来場されました。奇しくも2回とも500人いらした以前の写真展にも劣らないほどの豊かな交流がそこここで展開されました。連れ合いの福田緑が以下のようにその出会いを書いています。

▶心に残る愛のエピソード(その2)*福田緑のブログより

 連れ合いも受付の友人たちも深く感銘を受けた一人のお客様がいます。

 その方は11月4日にいらして、その後は最終日まで毎日ギャラリーに見えたのでした。しかも4日になんと写真集4巻まとめてご購入! 背中のリュックに3冊、手許に1冊お持ち帰りになりました。その理由が入院中のお連れ合いに見せてあげたいとのこと。お連れ合いは現在気官切開・胃瘻で寝たきりだそうですが、若い頃から絵を描き、結婚前に一人でヨーロッパを回った時には感想を度々彼にハガキで送ってきたとのこと。そのハガキをコピーしてお持ちになっていて三津夫と私に「よかったら読んでください」とおっしゃいます。そのお連れ合いが町や美術館を訪ねては心弾ませている様子が細かな文字でビッシリ書かれていて、それをご丁寧にワープロかパソコンで打ち直し、両方とも見せてくださいました。幸いあまりお客様が見えなかった時間帯でしたのでじっくり拝見し、その文面は、入院して絵筆を取れなくなったお連れ合いの若かりし頃を想像させてくれる内容で深い感銘を受けました。しかも、そのお連れ合いと一緒に私の写真集を見て楽しみたいという思いが伝わってきて、ご夫妻の愛情の深さを感じ取ったのでした。ありがとうございます。

 

365. 福田緑写真展No.3 「リーメンシュナイダーと同時代の作家たち」終了! - リーメンシュナイダーを歩く 

365. 福田緑写真展No.3 「リーメンシュナイダーと同時代の作家たち」終了! - リーメンシュナイダーを歩く 

▶写真展は無事終了いたしました。❤この彫刻は聖バルバラのレプリカで、留学時代にヴュルツブルクで購入してきました。菩提樹で作られていて、その手触りを味わっていただく...

goo blog

 

  次に紹介したいのは、「石川雲蝶で談論風発の方」です。近隣の所沢市にお住まいの女性でした。とてもお元気な方で、どうしたことか、彫刻繋がりで雲蝶の話題になったのです。なんと2,3日前に新潟に旅行されて雲蝶作品に感銘を受けたということでした。ギャラリー2回目の来場のとき雲蝶に関する資料を多数貸してくださったのでした。


 実は我々は、この写真展を終えて、1、2週間後に雲蝶作品を訪ねる2泊の個人旅行に出かける計画でした。
  当然話題沸騰、談論風発の賑やかなおしゃべりになったことはご想像の通りです。

 実は近場の田無神社にも素晴らしい彫刻があるということをこの方は教えてくれました。「天才嶋村俊表の彫刻」です。田無神社社報もいただきました。拝観可能になったときには是非訪ねたいと思います。

 そしてなんと、写真集2-5巻4冊を纏めて買ってくださった方が3人もいらっしゃいました(1巻は完売)。感謝に堪えません。


〔745〕袴田事件の次は狭山事件ですね。再審無罪を勝ち取りましょう。

2024年11月15日 | 図書案内

  70年代の後半に埼玉県狭山市に引っ越しました。新規入居した狭山台ハイツは狭山事件現場に囲まれた地点に位置していました。石川一雄さんの家、犯人を取り逃がしたお茶畑、被害者が殺害された畑にとり囲まれたようなところでした。
 月に1回ぐらいだったでしょうか、狭山事件の現地見学会が開かれ、参加しました。石川さんは間違いなく無罪だなと確信したのは、石川さんの小さな家に入ったときでした。警察が3度目の捜索で、入口すぐの鴨居の上から、脅迫状を書くのに使われた万年筆が発見されたというのです。
  鴨居は小学生でも手が届く低いところでした。捜査の専門家の刑事が見逃すはずはありません。しかも脅迫状のインクの色と違っていました。脅迫状は、ほとんど学校に通っていなかった石川さんに書けるはずがありません。稚拙を装った比較的学識の高い者の仕業と思われます。

 袴田さんに続いて、石川さんの再審無罪を勝ち取りたいものです。

  最後に、くまもと「狭山事件」を考える住民の会の学習資料と、「止めろ!東電福島放射能汚染水海洋投棄!!」のパンフレットを紹介します。


〔744〕「小学校5年生は総合学習の時間にお米つくりをしています。」(矢部顕さんのお便り)

2024年11月15日 | メール・便り・ミニコミ

   矢部顕さんからいつものようにお元気なメールでの便りが届きました。

福田三津夫様

●小学校5年生は総合学習の時間にお米つくりをしています。
11月5日、稲刈りをして竿掛けをして、天日干しをした後、
11月11日、足ふみ脱穀機で脱穀し、唐箕で選別をしました。
籾摺をしたところ玄米60kgの収穫がありました。

写真を添付します。
私は稲作体験を指導する農家のおじいさんなのです。

●また、11月13日は、小学校6年生の亀山城跡清掃と歴史講話
がありまして、八丈島から贈られた蘇鉄を見ながら講話を
聴いてもらったその演題は「八丈島赦免花伝説」でした。
講話をする人は亀山城跡保存会事務局長の私でした。

レジュメを添付します。

●11月15日(土)は小学校の体育館で、五次元キーボードを駆使して、
ひとりでオーケストラの演奏をするコンサートがあります。
タイトルは「宇喜多家をめぐる歌物語」。
曲目は、宇喜多直家によせて、秀家によせて、豪姫によせて、などで
作曲も彼がしています。

●11月17日(日)には、亀山城跡プレーパーク(冒険遊び場)を開催します。
プレーパーク運動は、デンマークから輸入されたとのことで、その導入には
門脇厚司さん(『子どもの社会力』岩波新書著者、かつてラボで一緒に仕事
をさせてもらった)も関わっていたとのことです。

プレーパークというカタカナが気に入りませんが、なんのことはない、
私が子どものころに亀山城跡の林で遊んでいた遊びの再現です。

ということで、10月の忙しいお米の収穫作業が終わったと思ったら、
このところ、上記のような活動で忙しくしています。

矢部 顕


亀山城跡保存会子どもクラブ(浮田小学校6年生)
亀山城跡清掃と歴史講座
                      八丈島赦免花伝説
                      ―亀山城に移植された蘇鉄に花が咲いた―

                                                                        2024.11.13.
                                                              亀山城跡保存会事務局長
                                                                       矢部 顕

1. 八丈島から蘇鉄が贈られてきた
  ①贈り主 宇喜多秀家顕彰会「八丈島久福会」
  ②植樹式 2019年(令和元年)10月14日 
  ③蘇鉄に花が咲いた 2019年11月

2. 八丈島赦免花伝説
  ①秀家遠島(1606年)以降、260年間で1898人が流罪で八丈島へ島流し
  ②宗福寺(秀家菩提寺)の蘇鉄に花が咲く―赦免状が届く前触れ
  ③文政年間69人、天保年間41人、弘化年間64人、嘉永年間34人、・・・
   計10回 計741人に赦免状が届いた
  ④しかし、秀家、その末裔には赦免状は届かなかった
  ⑤明治政府による明治元年の恩赦によって

3. 加賀前田家の支援
  ①豪姫の八丈島への同行は許されず、実家の加賀前田家に戻った
  ②豪姫の秀家への食料支援の計画は、徳川から最初許されなかった
  ③豪姫のキリスト教棄教が条件だった
  ④江戸時代260年間、前田家は食料を送り続けた
    日本の歴史上たぐい稀な出来事

4. 宇喜多家の家老・明石掃部
  ①謎のキリシタン武将  黒田官兵衛の影響?
  ②城下の民2000人?を洗礼
  ③豪姫のキリスト教への帰依は?
  ③秀家を支えた後までも
  ④大坂の陣にキリシタン武将として参戦
   
5. 秀家生誕450年を記念して
  ①子どもの交流
    秀家生誕の地の浮田小学校と秀家終焉の地の
            八丈島大賀郷小学校との交流が始まった     
  ②360年の時空を越えた
     生きた歴史が続く 


〔743〕あの瀧沢敬三さんが7人のお仲間と写真展にやって来られました。

2024年11月11日 | 美術鑑賞

  瀧沢敬三さんのご著書はブログ〔725〕で紹介しました。


 その瀧沢さんが写真展に7人のお仲間を連れてやって来られました。緑の写真展ではかつてない最大の「ツアー」でした。
  連れ合いの福田緑が一通り展示物を案内した後、真ん中のテーブルを挟んで8人が椅子に座わられるや、立たたれるやら。
 私たち2人からは後期ゴシックの彫刻のことを中心に話しました。熱心に耳を傾けて下さいました。そして来場者の皆様にもいろいろ質問も投げかけました。どのような方々がお越しになっているのか興味があったからでした。「リーメンシュナイダー展」への「策略」なども授けていただきました。
 しばし話題沸騰、さながら大人の寺子屋状態と相成ったのでした。皆さんは小一時間滞在されたでしょうか。その後階下のカフェに移動されて食事をされたようでした。
 思いも寄らなかった大人数での写真展訪問、感謝の一言しかありません。

 瀧沢さんから日を置かずドイツ語のご著書が送られてきました。以前出版された『西方見聞録』(全4巻、日本自費出版大賞入賞)の第2巻『西ドイツ一周研究旅行記』をドイツ語に翻訳されたもので、ドイツで出版されています。この本は、ドイツ人デザイナーのリサ・アイトさんがドイツの「造本・装幀コンクール」の該当部門へ応募し、入賞したということでした。
 この本にまつわる様々な資料も封入されていました。ここでは日独教会機関誌への報告を紹介します。

 お手紙には次のようにあります。
「このたびは大勢でおじゃまし、他のお客様にご迷惑をおかけしたのではないかと心を痛めております。全員皆、普段体験できない新鮮な感動を受け大満足の一日でした。
 『人生は出会い』ひたすら感謝です!」
 
   こちらこそ、いろいろ教えていただき感謝申しあげます。ありがとうございました。


〔742〕第3回福田緑写真展「祈りの彫刻 リーメンシュナイダーと同時代の作家たち」を終え、「没後500年・リーメンシュナイダー展」開催の夢へ邁進します。

2024年11月10日 | 美術鑑賞

  2024年10月26日(土)から11月6日(水)まで、第3回福田緑写真展「祈りの彫刻 リーメンシュナイダーと同時代の作家たち」が、西武池袋線秋津駅徒歩1分のカフェギャラリー縁(えん)で開催されました。


 来場者は1,2回目のそれぞれ約500人に比べると、今回の210人はやや減少しましたが、その分ゆったりとした雰囲気の中で、丁寧で充実した交流がそこここで展開されました。来場者と私ども主催者の満足度はマックスと言って良いと思います。なんと3回も足を運んでくださった方、さらに2回という方も数人いらっしゃいました。

  写真展の充実感を日々感じるなかで、ある確固たる念いが大きく頭をもたげてきました。それは日本で「没後500年・リーメンシュナイダー展」を開催したいという願いです。
 常々緑はあと2回は写真展をやりたいと言っています。7年後の2031年、第5回写真展は、「リーメンシュナイダー没後500年」と銘打って開催したいということでした。
  私はもちろんそれには賛成なのですが、いっそのこと「没後500年・リーメンシュナイダー展」をどこかで開いてもらえないかと思いついたのです。たとえば、国立西洋美術館とか、東京芸術大学美術館とか、大それたことを思いつきで周囲の仲間に吹聴してみました。同時に第5回写真展を開催するというのがおもしろいのではないかと考えたのです。
  こうした考えを様々な来場者(美術館でボランティアをされている方、研究者、様々な美術愛好家、ルポライター、大学教授など)に打ち明けたところ、様々な反応、情報が伝わってきました。ひょっとしたらできるかも知れないと、いまは思い始めています。

  そこでまずは少し調べてみました。いままでにどれくらいリーメンシュナイダーの作品が日本に来ているかということです。見落とししている展覧会がありましたら教えて下さい。
 新たな目標が生まれて楽しくなってきました!

 

                  来日リーメンシュナイダー作品一覧

●デューラーとドイツ・ルネッサンス展(1972年、国立西洋美術館、京都国立近代美術館)
・クリスマスの情景、十字架のキリスト 2点

●ドイツ美術展 中世から近世へ(1984年、国立西洋美術館)
・三王の礼拝、テューリンゲンの聖エリーザベト、聖ラウレンティウスと聖ステファヌス(周辺作家)  3点

●大英博物館の至宝展(2003,2004年、東京都美術館など4館)
・東方三博士礼拝を表した木製祭壇彫刻 1点

●ベルリン国立美術館展(2012年、国立西洋美術館、九州国立博物館)
・聖母戴冠、奏楽天使、龍を退治する馬上のゲオルギウス 3点


〔741〕「久々に、新しい憲法チラシができましたので、お送りします。」(塚越敏雄さんより)

2024年11月10日 | メール・便り・ミニコミ

●おはようございます。久々に、新しい憲法チラシができましたので、お送りします。                     塚越敏雄

 

 


〔740〕清瀬市議・ふせ由女の「ゆめ通信」(40号、2024年秋号)は図書館を3分の1に減らす市の暴挙と、鎌田慧さんの講演「ハンセン病と私」特集です。

2024年11月07日 | メール・便り・ミニコミ

  内容は表題の通りですが、じっくり読んでください。
 図書館削減暴挙は現在進行形です。いずれ「反攻」の市民運動を報告したいと思います。


〔739〕「佐々木松雄さん追悼 「鶴島哀歌」のうたがながれる」〈矢部顕さんより〉

2024年10月31日 | メール・便り・ミニコミ

 ■福田三津夫様

 お米の収穫作業が終わったことを、このあたりの古老たちは「秋が終わった」と言います。
 わたしは、自分の秋が終わったら、11月は亀山城跡保存会の活動が忙しくなります。6年生への亀山城歴史講座、亀山城プレーパーク(冒険遊び場)開催、五次元キーボード演奏会<宇喜多家をめぐる歌物語>協賛準備、宇喜多家法要。ほかにも、五年生の学習田のお米の収穫作業やらで、そちらのほうが忙しくなります。 
 
 先回のメールで、9月1日にあった「青い鳥楽団」復活のニュースと資料をお送りしました。10月14日には、次のようなイベントがありました。(お米の収穫作業で忙しく参加できませんでしたが) 
 長崎のキリシタンが岡山県の無人島に強制隔離されて、はげしい労働とキリスト教の棄教を迫られ、何人かの人が亡くなりました。その人たちを追悼する集いです。 その島は、愛生園がある長島の近くにある鶴島という島です。長島のことは知っていても鶴島のことは多くの人は知りません。
 じつは、先にお送りしたメールの「青い鳥楽団」の楽長・近藤宏一さんが作詞作曲した「鶴島哀歌」という歌があるのです。10月14日、約170人の巡礼参加者は追悼のミサの後、全員で「鶴島哀歌」をうたったのです。
 先にお送りした資料のうち、1968年に行われた大阪での一般市民の前での「青い鳥楽団演奏会の当日パッフレットを見ると、そこでも「鶴島哀歌」が歌われていたのです。歌ったのは、近藤宏一さんを人生の師と仰ぐ佐々木松雄さんで、彼は愛生園にあった岡山県立邑久高校長島分校(新良田教室)の卒業生でした。 
 佐々木松雄さんがお亡くなりになった(2019年)お葬式の棺の中には、わたしは「青い鳥楽団」演奏会の当日パンフレットを納めたのですが、誰か知らない人が「鶴島哀歌」の歌詞を書いた紙を納めた人がいたのには驚きました。

●佐々木松雄さん追悼 「鶴島哀歌」のうたがながれる
●鶴島巡礼について取材報道された朝日新聞記事
                      を添付します。
 
                               矢部 顕


追悼佐々木松雄さん
            「鶴島哀歌」のうたがながれる
                       ―佐々木松雄さんと鶴島哀歌―
                                    
                                                                                
                                                                        矢部 顕
●鶴島哀歌 独唱 佐々木松雄
11月6日(2019年)、佐々木松雄さんが亡くなった。急性肺炎。享年73歳。新良田教室第6期生。
多磨全生園でのご葬儀に参列するという友人に頼んだ。青い鳥楽団演奏会「らいを聴く夕べ」のパンフレットを棺に納めてほしい、と。
葬儀後、友人からはていねいにもパンフレットを棺に入れた写真がメールで届いた。その写真にはパンフレットの他に、大きな活字が印字された白い紙が見てとれた。よく見ると詩が書かれているようだった。拡大してみると、なんとそれは「鶴島哀歌」の歌詞だった。「鶴島哀歌」の歌詞を棺に納めた人がいたのだ。
 愛生園盲人会の青い鳥楽団が、療養所内や病院内でなく、一般市民の前ではじめて演奏会をしたのは大阪城の近くの大阪厚生会館(現在は大阪府立青少年センター)大ホールで1968年6月のこと。交流(むすび)の家開所記念行事としてFIWC関西が主催して行われた。
 B5版20頁のこの当日パンフレットの演奏プログラムの頁のなかに「鶴島哀歌 独唱 佐々木松雄」とある。青い鳥楽団メンバー紹介の頁を見ると、「佐々木松雄(岩手県出身、新良田教室卒業、宮城県東北新生園より協力参加)」と記されている。この日のために東北新生園から大阪に駆けつけたことがうかがわれる。
 佐々木松雄さんは東北新生園で療養していたが、療養所で唯一の高校である新良田教室(岡山県立邑久高校の分校)に入学するために長島愛生園に転園した。その高校生の頃、青い鳥楽団楽長近藤宏一さんと出会う。近藤さんの高潔な人格に感銘を受け、その時から生涯の師として仰ぐようになった。近藤さんは詩人でもあった。
      盲目十年
  人間の
  ものを見るという不思議
  見えないという不思議
  これぞ まこと
  神の傑作・・・・
佐々木さんはこの詩が好きで高校時代いつも口ずさんでいたそうだ。
 近藤宏一さんがスイスでのウエルズリー・ベイリー賞(*)授賞式(2007年)に赴くときも、目の見えない近藤さんの手足となって案内した。その時の様子を『むすび便り』に原稿を依頼したのだが、出来上がった原稿は紙面に載せるにはあまりにも長かったので、エッセンスだけを抜粋して『むすび便り』(2007年12月)に掲載し、全体は『青い鳥楽団近藤宏一さんの授賞式随行記』として冊子として印刷発行した。(2008年)。
 長島愛生園でFIWC関西が実施しているように、多磨全生園の祭りのときFIWC関東はチンドン隊を編成して祭りを盛り上げた。夜の交流会で、チンドン隊に参加した若い人たちにむかって、チンドン隊の演奏曲「青い鳥行進曲」(青い鳥楽団のテーマソング)について語ったのは東北新生園から多磨全生園に移っていた佐々木松雄さんだった。若いころから、そして今も尊敬してやまない近藤宏一さんの作詞作曲のこの曲ができるまでの青い鳥楽団の歩みについての話だった。彼が近藤さんの話をはじめると、熱がこもってきてなかなか終わらない。話を聞いている若者の中に、ひとりの若くない者がいた。大阪での青い鳥楽団演奏会を主催したメンバーのひとりの私がいて、後で名乗り出たものだった。
そのころ私は東京に住まいしていたので、それ以来たびたび佐々木さんを訪ねて親交をむすんだ。病気で麻痺した手のリハビリで始めた陶芸の作品が家の内外に処狭しと置かれていたのを思い出す。

●殉教の島に歌がながれる
「むすび便り」の読者のみなさんは愛生園のある長島に行ったことのある人は多いと思うが、近くに鶴島という島があることをご存知だろうか?
長島の東5km、周囲2kmの小さな島で人は住んでいない。流刑地として明治初期の1870年、長崎の浦上地区の潜伏キリシタンがこの島に送られ、拷問の末に棄教を迫られ、死者もでた。江戸時代の弾圧だけでなく、明治政府誕生後もこんなことがあったことを初めて知った
岡山カトリック教会が主催する巡礼の旅は昨年50回を数え、岡山以外の県からもふくめて163人が参加した。なんと163人! この人数に驚いてしまった。
わたしが転居してきてから親しくしている近隣の友人がいる。その娘さん夫婦が最近近くに引っ越してきた。その若いご夫婦と話していて、彼らが巡礼に参加したことを聞いて、またびっくり。
この夫婦が日曜日に通っている岡山教会が作った『殉教地 鶴島』と題した小冊子によると、幕末にも、また明治になってからも、浦上地区の潜伏キリシタンに対する大弾圧があり、3394人が西日本の21藩に流刑者として預けられた
岡山に流された117人は牢獄に入れられた後、113人が島に送られ、貧しい食事と狭い住まいしか与えられず、開墾を強制され棄教を迫られた。激しい拷問で転ぶものが続出。その数は半数を超えたという。しかし死を通して信仰を守った人もいた。明治新政府が成立してもなおこのようなことがあったのは、神道国教主義を政府方針としてキリシタン弾圧を決定したからであった。その後、各国がまず我が国を責めたものはこのキリスト教弾圧政策であり、その解放であったと言われている。その結果、太政官布告により我が国で初めて宗教の自由が保障されたのは明治6年。鶴島の人々は、3年余の流刑から解放され、浦上に帰ることができた。鶴島に残る十二の魂は、結局我が国最後の殉教者となった訳である。
この巡礼に参加した人たちはキリシタン墓地と呼ばれる場所で、野外ミサを行った。配布された16頁のプリントにミサ式次第が詳しく書かれ、その中の1頁は「鶴島哀歌」の歌詞と音符が印刷されていた。ミサ終了後、「鶴島哀歌」を全員で合唱した。

瀬戸の渦潮 見下ろす丘に
石の十字架は 静かに眠る
流刑の鞭に 倒れし人の
悲しい祈りよ その声よ
ああ 鶴島に
今日も蜜柑の 花散るばかり
          
うつし世遠く 捨てし心に
秘めて指操る ロザリオひとつ
涙にぬれし 踏み絵の御母に
捧げし誓いよ その魂(たま)魂(たま)よ
ああ鶴島に
今日も海鳥 さえずるばかり
          
巡る砂浜 たたずむ小道
しのぶ歴史に かげろう燃える
永遠(とわ)永遠(とわ)の救いに 生命(いのち)生命(いのち)をかけた
せつない願いよ その歌よ
ああ鶴島に
今日もひそかに 夕凪せまる
            (作詞作曲・近藤宏一)
          
近藤さんがこの歌を作った動機が著作『ハーモニカの歌』に記されている。「他人事に思えなかった。縁もゆかりもない流刑の島に、ただ命をさえ捨ててもよいという運命と、ハンセン病によって一生を変えられ、やがて島の療養所の土に帰する私の生きざまとが、どこかで結びついているように思えた」。


  ――――――――――――
*The Leprosy Mission International(国際救らいミッション)<TLM>の創始者ウエルズリー・ベイリー氏を記念して、TLMが125周年を迎えた1999年に創設された。ハンセン病問題に対する勇気と成果、たぐい稀なる貢献をした人に贈られる。2007年には世界中から2名が選ばれ、スイスでの国際総会における特別歓迎会で授賞式が行われた。

(やべ あきら・岡山市在住)
1965年からFIWC関西に参加。青い鳥楽団演奏会(1968年)を主催した時のFIWC関西委員会委員長。NPO法人むすびの家理事。


〔738〕「九条守って世界に平和」(マスコミ・文化 九条の会 所沢)-素敵なミニコミが続きます。

2024年10月24日 | メール・便り・ミニコミ

  「九条守って世界に平和」(マスコミ・文化 九条の会 所沢)のバックナンバーをいただきました。最新が200号でしたが、ある筋からメールで201号が送られてきました。〈転送歓迎〉ということなので、紹介させていただきます。
 通常は8頁立ての隔月刊のようです。内容は多岐にわたっていますが、レベルが高く、じっくり読み込みたい記事ばかりです。
 著名人の執筆者も多いようですが、中嶋里美さん(所沢市)、植竹しげ子さん(清瀬市)など知り合いのお名前も見えて嬉しかったです。


◆映画「学校」の黒井先生
  (亡くなった西田敏行さんが日本アカデミー賞を受賞した役)

                               前川喜平(現代教育行政研究会代表)

 亡くなった西田敏行さんが日本アカデミー賞を受賞した役は、夜間中
学を描いた1993年の映画「学校」 (山田洋次監督)の黒井という教師の
役だった。
 この黒井先生のモデルは複数いる。
 塚原雄太氏は東京の夜間中学で1957年から20年以上教鞭(きょうべん)
をとり、夜間中学廃止の危機を乗り越えて夜間中学の教育を先導した人
物だ。
 毎年開かれている夜間中学の生徒のスピーチ大会は、塚原氏の詩の一
節からで「花咲け出愛(であい)」スピー チ大会と呼ばれている。

 見城慶和(けんじょうよしかず)氏は塚原氏の著書「夜間中学生」に感
銘を受けて1961年に夜間中学の教師になり、40年以上教えた。
 その様子は2003年のドキュメンタリー映画「こんばんは」(森康行監
督)に生き生きと描かれている。

 松崎運之助(みちのすけ)氏は1973年から30年以上夜間中学で教えた。
 映画の原作となった本の著者だ。田中邦衛さんが演じた「イノさん」
は、松崎氏が実際に教えた井上さんという生徒がモデルだ。
 夜間中学はこうした教師たちが作り上げてきた。文部科学省の主導で
作られた学校ではない。
 文科省は10年前に態度を改め、今では全国の教育委員会に夜間中学の
設置を促しているが、現場の教師が日々の実践から積み上げた学びのあ
り方を離れて夜間中学は作れない。
 単に昼間の中学校を夜に移したものではないのである。
              (10月20日「東京新聞」朝刊21面「本音のコラム」より)


 ◆世界終末90秒前

                       大矢英代(カリフォルニア州立大助教授)

  今年のノーベル平和賞が、全国の被爆者らでつくる日本原水爆被害者
団体協議会(被団協)に決まった。
 反核平和運動の最前線に立ってきた被爆者のみなさんに心からの敬意
と祝福を表したい。
 いま、私たちがやらねばならないのは、祝福ムードを盛り上げること
よりも、会見で委員らが語った「怒り心頭」の思いを受け止め、行動に
移すことであると思う。

 石破茂首相が言及した米国の核兵器を共同運用する「核共有及び核持
ち込み」について、田中煕巳代表委員は「論外」と切り捨てた。
 日本政府は 「共有だから保持ではない」という卑怯な口実で実質的核
保有国になりたがっている。
 被爆者への冒涜(ぼうとく)であり、犠牲者を二度殺すことと同じでは
ないか。いや、それ以上に、人類の危機を加速させるものである。

 1945年、広島・長崎への原爆投下への反省から創刊された米国の科学
雑誌「原子力科学者会報」は、表紙に世界終末時計を掲載する。
 毎年更新される時計は、今年、深夜0時の90秒前で止まっている。
 深夜をまわれば、核戦争によりこの世界は破滅し、人類は滅びる。
 その時は着実に迫っている。
 世界終末時計を止める方法は「核共有」などではない。
 ノーベル平和賞受賞を機に、まずは「核兵器は抑止力」などという愚
かな考えを日本政府に捨てさせねばならない。
              (10月21日「東京新聞」朝刊19面「本音のコラム」より)


〔737〕「キラキラ星通信」(無実の死刑囚・袴田巌さんを救う会)、「茨木のり子手帖」(茨木のり子の家を残したい会)、「現代女性文化研究所ニュース」(現代女性文化研究所)いずれも素敵なミニコミです。

2024年10月20日 | メール・便り・ミニコミ

 今読んでいる素敵なミニコミを紹介します。綺羅星のようなミニコミ群です。

 トップバッターは「キラキラ星通信」。東村山市の門間夫妻を中心に結成された無実の死刑囚・袴田巌さんを救う会が発行する通信です。本114号は14頁の冊子です。
 先日袴田巌さんの再審無罪が確定しました。
 私たちの清瀬・憲法九条を守る会や清瀬・くらしと平和の会では、袴田秀子さんや門間夫妻の話を聞いたりしてきました。署名を集めたり、様々な請願葉書を送ったり、カンパを集めたりもしてきました。無罪確定は本当に嬉しいことです。
  10月26日(土)「袴田秀子さんをお迎えして」の学習会がカトリック清瀬教会であります。

  「茨木のり子手帖」は茨木のり子の家を残したい会の季刊紙です。第21号(2024夏)は茨木のり子の詩や写真が満載の手作り感溢れる34頁の冊子です。編集代表は柳田由紀子さん、国分寺での第2回福田緑写真展に来ていただいて、初めてお話ができました。

 ラストバッターの現代女性文化研究所発行「現代女性文化研究所ニュース」は以前にもブログで紹介しました。本68号は24頁です。
  講座「いま大杉栄と伊藤野枝」(講師、鎌田慧)、講座「戦争の記憶-空襲体験を語る」(講師、向井承子)などの記録が掲載されています。ちょっとしたお出かけの読み物として最適です。


〔736〕「評価できる首相なんていません。逆に評価できない首相が3人までなんて少なすぎる!」(朝日新聞掲載)という意見に共感しきり。

2024年10月20日 | テレビ・ラジオ・新聞

 土曜日の朝日新聞に「be」という別紙が付いてきます。昨2024年10月19日(土)のランキング欄は「歴代首相、評価するのは?」でした。自分が同じ質問を受けたら誰も思い当たらないので途方に暮れたことでしょう。下掲のような声が紹介されていて、いたく共感した次第です。
「『まだまし』と仕方なく選んだだけで、評価できる首相なんていません。逆に評価できない首相が3人までなんて少なすぎる!」(静岡、52歳女性)

  それでもこんな人が選ばれていました。
1位、田中角栄 601票   
2位、小泉純一郎 547票
3位、伊藤博文 440票
4位、吉田茂 408票
5位、村山富市 273票

   ちなみに「評価が低い歴代首相」のランキングは以下の通りです。
1位、安倍晋三 1114票
2位、森喜朗 714票
3位、東条英機 597票


〔735〕『言葉果つるところ』〈新版〉(石牟礼道子・鶴見和子、藤原書店)を読んでみようかと思っています。

2024年10月19日 | 図書案内

   朝日新聞の朝刊1面に鷲田清一さんの「折々のことば」というコラムがあります。図書や新聞などの一部を紹介し、コメントすることが多いようです。「天声人語」の前後に目を通すのが習慣になっています。
 なぜか、ここ数日は『言葉果つるところ』〈新版〉(石牟礼道子・鶴見和子、藤原書店)が連続して取り上げられています。宣伝になってはまずいと判断しているのでしょうか、出版社名は書かれていません。

 以前にもこのブログで紹介しましたが、藤原書店の「機」という宣伝誌が充実しています。32頁の小冊子ながら内容が実に濃いのです。
 2024年9月号(390号)の巻頭と最終頁を紹介します。5頁にわたって『言葉果つるところ』の対談の1部と推薦文が掲載されています。「折々のことば」と重ね合わせながら再読しているところです。


〔734〕第3回福田緑写真展「祈りの彫刻 リーメンシュナイダーと同時代の作家たち」がアサココに紹介されました。

2024年10月18日 | テレビ・ラジオ・新聞

   アサココは第1・第3木曜日に多摩地区(町田市と稲城市は除く)に配布される朝日新聞と一緒に届けられる多摩地区のタウン紙です。8頁の決して大きくはない新聞ですが、私たちに多くの有益な情報をもたらしてくれます。全体的にはリベラルな傾向に心落ち着きます。
  前回の第2回写真展(国分寺、司画廊)の時にも一面に大きく取りあげてくれました。アサココを読んだという読者数人が、開館前にいらしていたということを鮮明に覚えています。
  今回も編集長の長田米子さんが我が家に来てくださって、緑にインタビューをしてくれました。読みやすい記事に纏めてくれました。感謝です。

■アサココのサイトです。クリックすると記事が実に鮮明に見ることができます。

http://asacoco.jp/wp-content/uploads/2024/10/2024_1017_286_01.pdf


〔733〕大どんでん返し、市内の公共施設に写真展のチラシ陳列がほぼ許可されました。

2024年10月18日 | 市民運動

  妻が中里地域市民センターに写真集のチラシを置いてほしいと話したところ、拒否されたということを以下のブログに書きました。

●ブログ〔728〕初めてのことです。なんと、写真展「祈りの彫刻 リーメンシュナイダーと同時代の作家たち」のチラシが公共施設に置けなくなりました。

  ところがところが、なんと大逆転、清瀬市内の公共施設ほぼすべてに置けることになったのです。その顛末を記録しておきましょう。
  10月14日(月)、清瀬けやきホールで清瀬・憲法九条を守る会と清瀬・くらしと平和の会の合同会議がありました。終了後、エントランスのチラシ置き場を見回すと、そこには清瀬市以外の様々な催し物(コンサートや演芸など)のチラシが置いてありました。そこで、写真展のチラシを置いてもらえないのか頼んだところ、快く受け取ってもらえました。
  ならばということで、再び中里地域市民センターで今度は妻と2人で再交渉です。今回は館長が対応しました。チラシ陳列は清瀬市の公立施設を利用する催し物に限るというので、ここに置かれている八王子市の東京富士美術館のチラシはどうなのかと問うたのです。東京富士美術館は創価学会・公明党と繋がりの有る美術館として周知の事実です。このあたりから館長のことばのトーンが変わってきたのを感じました。そして、あっさり、チラシ受け取りを承諾したのです。

 気をよくして野塩地域市民センター 、松山地域市民センター、下宿地域市民センターに車で回ったところ、こちらもあっさりとチラシを置かしてくれました。氏名と連絡先を用紙に記入するだけでした。
 児童センターころぽっくる、コミュニティプラザひまわりもオーケーでした。
 そしてさらに市役所ではこの手のチラシは置かないが、地域の公共施設に掛け合ってくれということでした。不可解なのは中清戸地域市民センターでした。私は車番で、妻だけで交渉した時は煮え切らない態度で、再度2人で出向くことになりました。市役所から近くて、議員などが会議などで訪れることが多いので、難しいというのです。これはまったく意味不明です。春頃に、やはり市内の公立施設の催し物しかチラシは置けないという通達があったというのです。市役所との言い分の違いに唖然とするばかりでした。

  地元清瀬での無料の写真展に一人でも多く来てほしいという願いで市内を回遊してみたことで、清瀬市の文化に対する考えが透けて見えてきました。市長はじめ市の管理職と現場で働く人たちの思いのズレなども感じました。今は市民の様々な文化要求に応える市政であってほしいと願うばかりです。


〔732〕「伊勢大神楽」という国指定重要無形民俗文化財があるのはご存知でしょうか?(矢部顕さんのメール)

2024年10月15日 | メール・便り・ミニコミ

 矢部顕さんから以下のようなメールが届きました。岡山県の「伊勢大神楽」という国指定重要無形民俗文化財についての情報です。懐かしい日本の原風景とでも言えるものでしょうか。


    「伊勢大神楽」という国指定重要無形民俗文化財
        があるのはご存知でしょうか?


 毎年9月16日、朝、川向うの隣の村から笛の音が聞こえてくると、やがて獅子舞の一行が橋を渡ってわが村に入って来るのが見えます。
 100年もそれ以上の昔から、毎年毎年、獅子舞が来るのは9月16日と決まっているのです。
 この日は、沼村のすべての家庭を1軒1軒訪ねて、それぞれの家の玄関で獅子が舞い、お祓いをしてまわり、御神札を配布していきます。
 午後には、村の鎮守のお宮の境内で、総舞という芸能、舞や踊りや漫才や曲芸などを見せてくれます。
 わたしが子どもの頃(高度経済成長の前)には、村中の老若男女が1年に1回の楽しみで大勢の人たちがお宮に集まりました。昔から変わらない、まさに村の原風景ともいえるものでした。
 我が家にくるこの獅子舞の講社の人たちは、滋賀、和歌山、三重、大阪、岡山と、ほとんど1年中旅から旅へと歩き続け、獅子舞を各地に届けるのです。

下記をクリックすると動画を見ることが出来ます。
https://www.youtube.com/channel/UCrwvf2XYVCEZdykEIFPiPJg
伊勢大神楽講社【公式】旅する獅子


谷川雁がこだわった「村」がここにある気分になります。
                           矢部 顕