昨日(2020年3月5日)の朝日新聞朝刊にバレエダンサー米沢唯さん(新国立劇場バレエ団プリンシパル)の芸術選奨文部科学大臣賞受賞のニュースが出ていました。まだお若いはずなのに、凄いことだなというのが率直な感想でした。そしてある出会いの光景が鮮やかに思い浮かんできました。 彼女に会ったのは1度だけです。そのことに触れる前に、この受賞がどれだけ素晴らしいことなのか、バレエ情報発信サイトに語ってもらいましょう。
□Ballet Constellation
バレエファンによるバレエファンのためのバレエ情報発信サイトです。
●芸術選奨文部科学大臣賞(舞踊部門2名)
*島添亮子(略)
*米沢 唯
【授賞対象】「ロメオとジュリエット」ほかの成果
【贈賞理由】高い技量と深い洞察力,豊かな音楽性と表現力を併せ持ち,米沢唯氏は短期間のうちに日本を代表するダンサーへと成長を遂げた。令和元年は,「ロメオと ジュリエット」において内省的かつドラマティックな演技でジュリエットを瑞々(みず みず)しく造形。また古典から現代作品まで多様な作品に主演,研ぎ澄まされたテクニックや音楽の奥底に沈潜する情感をすくいあげようとする繊細な表現力により,圧倒的な舞台成果を上げた。既に完成された高い領域に達していてるが,限界を押し広げていく可能性を持ち,成熟期へと向かう今後の深化・進化が多いに期待される。
出所:令和元年度(第70回)芸術選奨受賞者一覧(文化庁報道発表資料)”
前年の同賞は小野絢子さんが受賞しており、新国立劇場バレエ団にとっては嬉しい2年連続の受賞者輩出です!
しかも、米沢 唯さんは、2017年に芸術選奨文部科学大臣新人賞を受賞しており、その受賞から3年目という短期間で大臣賞を受賞するという快挙です!
「贈賞理由」に「既に完成された高い領域に達していてるが…」とあるように、技術力、演技力、音楽性や役柄に対する深い洞察力には目を見張るものがあります。
2月下旬に上演されたばかりの新国立劇場バレエ団『マノン』でも、女性バレエダンサーにとって難役のひとつであるマノンを、堂々たる技量と演技で英国ロイヤル・バレエ プリンシパルのワディム・ムンタギロフさんを相手に堂々と渡り合った姿は記憶に新しいですね。
米沢 唯さんのプロフィールはこちら(新国立劇場バレエ団公式サイト)
https://ballet-constellation.com/2020/03/04/70th-geijutsusehsho/
米沢唯さんのことを知ったのは脚本研究「森の会」でのことでした。劇遊び研究のレジェンド、平井まどかさんから渡された毎日新聞のコピーには唯さんのインタビュー記事が掲載されていました(2015年10月19日、夕刊)。「真実」を表現する喜び、「ホフマン物語」で2役に挑戦、などという見出しが躍っていました。
注目すべきは、この唯さんが実は私の師匠の1人、竹内敏晴さんの娘さんという事実でした。この記事のなかにも竹内さんが彼女に語ったことばが紹介されています。
「赤ずきんちゃんの役をいただいた小学生の頃、父は部屋の電気を消し、オオカミになって私を脅かしてくれました。『暗い森で獣に出くわしたんだよ。怖がるふりをしてはいけない、怖がるんだ』と」
竹内さんはいくつかの著書のなかで、唯さんと劇的に遊んだ思い出を書き記しています。うりこ姫の話などが頭の片隅に残っています。
赤ずきんちゃんの役というのは、ひょっとしてラボ教育センターのテーマ活動でのことかもしれません。彼女が名古屋にいるときにラボっ子で、竹内さんがよく会場まで唯さんを迎えに来てたということです。このブログにしばしば登場してくださっている矢部顕さんが当時中部支局の責任者で、そのことを証言してくれています。ラボに竹内さんを招聘したのも矢部さんの功績で、それに関連して、拙著『地域演劇教育論-ラボ教育センターのテーマ活動』(晩成書房)の巻頭言として彼に書いてもらいました。
唯さんにお会いしたのは一度だけです。
先日、100号で終刊を迎えた我々夫婦のミニコミ「啓」は読んでもらいたい人に手渡し、あるいは郵送したものでした。その150人の内の1人が竹内さんでした。我々夫婦共に昔からお世話になっていました。連れ合いの福田緑の単著『子どもっておもしろい』(晩成書房)の巻頭言を書いてくれたのも竹内さんでした。
竹内さんは2009年に他界します。拙著『実践的演劇教育論-ことばと心の受け渡し』(晩成書房)に「竹内敏晴から学んだこと-語るということ」として詳しく書いています。
その年、竹内さんを偲ぶ会が立川の賢治の学校で開催されました。主催者の鳥山敏子さんが元気なときでした。その時に会で演劇教育の立場から何か話すことを求められました。話者は10数人いたでしょうか、そうそうたる登壇者でした。最後の方で私は竹内さんとの出会いから、私の教育実践に於ける竹内さんの存在について語りました。
集会がはけて駅に戻ろうとしたとき、親子らしき2人連れとすれ違いざまに話しかけられました。竹内さんのお連れ合いと娘の唯さんでした。「啓」は竹内さんよりお連れ合いの方がよく読んでいるということでお礼を言われました。ウィキペディア(にもしっかり掲載されています)によると唯さんは1987年生まれですから、このときは22歳になっていたのでしょうか。すでにダンサーとしてアメリカで活躍されていたのかもしれません。私にとっては、竹内さんと遊ぶ幼子の唯さんというイメージだったので、大人になった彼女がまぶしく頼もしく映ったものでした。
最初の出会いから数年してあの新聞記事で「再会」し、その2年後に芸術選奨文部科学大臣新人賞、さらにそれから早くも3年後の今年、芸術選奨文部科学大臣賞というわけです。
今、竹内さんの『老いのイニシエーション』(岩波書店、1995年)を手にしています。ここに登場してくる「笙子」と「ゆり」は竹内さんのお連れ合いと唯さんに違いありません。唯さんの受賞に心からおめでとうと言いながら再読しようと思っています。
今回のブログをしたためていたら、矢部顕さんから竹内敏晴追悼文が送られてきました。「藤原書店から刊行された、―セレクション竹内敏晴の「からだと思想」全4巻-の月報4に書いたものです。藤原書店の編集部からの依頼でした。中国支部のテューター向けに書いたものと、少し表現の違いがありますが、ほとんど同じです。」とメールにありました。竹内敏晴さんの一面を知る貴重な証言になっていますので、再録さていていただきます。
□追悼 竹内敏晴さんとの出会い
矢部 顕
竹内敏晴さんが上梓された最後の本『「出会う」ということ』(藤原書店2009年10月30日発行)のあとがきの日付は9月5日になっていました。2日後の9月7日に彼は膀胱がんで他界されましたが、最期まで命を燃やしていたことがこのことでもよく窺われます。亡くなられてから発刊された本は奥様からお贈りいただきました。思い返せば、恐れ多くも今まで本を上梓されるたびに贈呈していただいていました。
おつきあいのはじまりは、名著『ことばが劈かれるとき』(竹内敏晴著・思想の科学社1975年 のちに ちくま文庫)を読んで、たいへん強い感銘を受けてからでした。子どもの表現活動であるラボのテーマ活動の身体論と根底で相通じるものがあると直感したわたくしは、著者である竹内さんに手紙を差し上げ、東京世田谷のご自宅まで会いに行ったのでした。1979年のことでした。
当時わたくしはラボ教育センター中部総局のスタッフでしたが、今から思えば若造のわたくしが独りで会いにいくことを、上司がよくそれを認めたものだと思います。つぎの新春のラボの中部支部総会に講師として招聘し、中部支部のテューターはラボで初めての「竹内レッスン」を衝撃的に体験したのでした。それは、ラボが子どもから発見したテーマ活動の「ことばの身体性」を、大人に目の覚めるような実感をもって気づかせてくれる刺激的なレッスンでした。
それ以降、わたくしは全国各地のラボ事務局に転勤したのですが、赴任した支部で必ず竹内さんに来ていただいてテューター研修として竹内レッスンを実施したのでした。一泊二日のこともありましたが、それではもの足りなくてラボの物語をテーマにして5~6回連続のレッスンを何回も行いました。その後、あちこちの支部に行っていただくようになり、合計すればたいへんな回数になりますが、いま思えば、あんなすごい方によくぞこれだけ来ていただいたものよと感慨深いものがあります。
年を経て、わたくしが中部支部の責任者として再び名古屋に赴任した頃、竹内さんは東京での生活を引き払って名古屋に住いされるようになっていました。毎週のように日常的にお会いするようになったのは、60歳を越えて生まれたまだ幼いお嬢さんがラボの事務所の教室で行われているラボ・パーティに入会を希望され、その送り迎えをされるようになったからでした。
お嬢さんがラボ活動に参加されている時間に、別室で原稿を書いたり、わたくしとお話したりしたものでした。ある日、子どもに読ませたい本の話題になり、わたしの息子の名前のもとになった『次郎物語』が竹内さんのお気に入りでもあることを知りました。購入したいが本屋で見つからないとおっしゃっていました。後日、その本をプレゼントするとお嬢さんが夢中になっていたことがありました。そのお嬢さんも大きくなって、後にバレリーナとしてカルフォルニア州サンノーゼ市のバレエ団のプリマドンナとお聞きし、たいへん驚きました。
最後にわたくしが「竹内レッスン」をお願いしたのは2004年の北関東信越支部での支部総会の研修で、お歳も傘寿の少し前だったと思いますが、初めてレッスンをしていただいた50歳過ぎのころと変わらぬ御身体のしなやかさにびっくりするとともに、からだから発することばの思想にあらためて感激したものです。レッスン会場が、たまたま丸木美術館(埼玉県東松山市)の近くだったものですから、終了後にご一緒に訪れたのですが、100名を超える大人数対象の一泊二日のレッスンの後でもあって、「原爆の図」は心身にかなりこたえたようで、お誘いしたことを後悔したものでした。
ラボ言語教育総合研究所ができて、竹内さんの薫陶を受けた福田三津夫さんが研究所メンバーとして参画していただいたことは嬉しいことでした。言語学者や英語学者だけではラボ教育の核心であるテーマ活動のなんたるかが解明できないからです。そして事務局長のわたくしとしては研究所で竹内さんのレポートは必須と思い講演をお願いしました。
2007年の講演「子どものからだとことば――共生態としての子ども」をしていただいたのが、お会いした最後となりました。研究所の紀要である『ラボ・パーティ研究』№20(2007.7.発行)にこの講演の記録が掲載されています。
竹内さんほど長いおつき合いをさせていただき、かつ、ラボ・パーティ教育活動への貢献と影響の大きかった方はそうはいません。感謝の気持ちでいっぱいです。つつしんでご冥福をお祈りします。 (2010.12.)
(さらに、矢部さんの補足です。)
そこで思い出したのですが、
『次郎物語』の下村湖人の生家が記念館になっていました。
佐賀県神崎郡千代田町(現 神埼市)の記念館を訪れたときに、
連れ合いが訪問者ノートに書いた文章が、教育委員会の広報紙に
載ったものを添付します。
□Ballet Constellation
バレエファンによるバレエファンのためのバレエ情報発信サイトです。
●芸術選奨文部科学大臣賞(舞踊部門2名)
*島添亮子(略)
*米沢 唯
【授賞対象】「ロメオとジュリエット」ほかの成果
【贈賞理由】高い技量と深い洞察力,豊かな音楽性と表現力を併せ持ち,米沢唯氏は短期間のうちに日本を代表するダンサーへと成長を遂げた。令和元年は,「ロメオと ジュリエット」において内省的かつドラマティックな演技でジュリエットを瑞々(みず みず)しく造形。また古典から現代作品まで多様な作品に主演,研ぎ澄まされたテクニックや音楽の奥底に沈潜する情感をすくいあげようとする繊細な表現力により,圧倒的な舞台成果を上げた。既に完成された高い領域に達していてるが,限界を押し広げていく可能性を持ち,成熟期へと向かう今後の深化・進化が多いに期待される。
出所:令和元年度(第70回)芸術選奨受賞者一覧(文化庁報道発表資料)”
前年の同賞は小野絢子さんが受賞しており、新国立劇場バレエ団にとっては嬉しい2年連続の受賞者輩出です!
しかも、米沢 唯さんは、2017年に芸術選奨文部科学大臣新人賞を受賞しており、その受賞から3年目という短期間で大臣賞を受賞するという快挙です!
「贈賞理由」に「既に完成された高い領域に達していてるが…」とあるように、技術力、演技力、音楽性や役柄に対する深い洞察力には目を見張るものがあります。
2月下旬に上演されたばかりの新国立劇場バレエ団『マノン』でも、女性バレエダンサーにとって難役のひとつであるマノンを、堂々たる技量と演技で英国ロイヤル・バレエ プリンシパルのワディム・ムンタギロフさんを相手に堂々と渡り合った姿は記憶に新しいですね。
米沢 唯さんのプロフィールはこちら(新国立劇場バレエ団公式サイト)
https://ballet-constellation.com/2020/03/04/70th-geijutsusehsho/
米沢唯さんのことを知ったのは脚本研究「森の会」でのことでした。劇遊び研究のレジェンド、平井まどかさんから渡された毎日新聞のコピーには唯さんのインタビュー記事が掲載されていました(2015年10月19日、夕刊)。「真実」を表現する喜び、「ホフマン物語」で2役に挑戦、などという見出しが躍っていました。
注目すべきは、この唯さんが実は私の師匠の1人、竹内敏晴さんの娘さんという事実でした。この記事のなかにも竹内さんが彼女に語ったことばが紹介されています。
「赤ずきんちゃんの役をいただいた小学生の頃、父は部屋の電気を消し、オオカミになって私を脅かしてくれました。『暗い森で獣に出くわしたんだよ。怖がるふりをしてはいけない、怖がるんだ』と」
竹内さんはいくつかの著書のなかで、唯さんと劇的に遊んだ思い出を書き記しています。うりこ姫の話などが頭の片隅に残っています。
赤ずきんちゃんの役というのは、ひょっとしてラボ教育センターのテーマ活動でのことかもしれません。彼女が名古屋にいるときにラボっ子で、竹内さんがよく会場まで唯さんを迎えに来てたということです。このブログにしばしば登場してくださっている矢部顕さんが当時中部支局の責任者で、そのことを証言してくれています。ラボに竹内さんを招聘したのも矢部さんの功績で、それに関連して、拙著『地域演劇教育論-ラボ教育センターのテーマ活動』(晩成書房)の巻頭言として彼に書いてもらいました。
唯さんにお会いしたのは一度だけです。
先日、100号で終刊を迎えた我々夫婦のミニコミ「啓」は読んでもらいたい人に手渡し、あるいは郵送したものでした。その150人の内の1人が竹内さんでした。我々夫婦共に昔からお世話になっていました。連れ合いの福田緑の単著『子どもっておもしろい』(晩成書房)の巻頭言を書いてくれたのも竹内さんでした。
竹内さんは2009年に他界します。拙著『実践的演劇教育論-ことばと心の受け渡し』(晩成書房)に「竹内敏晴から学んだこと-語るということ」として詳しく書いています。
その年、竹内さんを偲ぶ会が立川の賢治の学校で開催されました。主催者の鳥山敏子さんが元気なときでした。その時に会で演劇教育の立場から何か話すことを求められました。話者は10数人いたでしょうか、そうそうたる登壇者でした。最後の方で私は竹内さんとの出会いから、私の教育実践に於ける竹内さんの存在について語りました。
集会がはけて駅に戻ろうとしたとき、親子らしき2人連れとすれ違いざまに話しかけられました。竹内さんのお連れ合いと娘の唯さんでした。「啓」は竹内さんよりお連れ合いの方がよく読んでいるということでお礼を言われました。ウィキペディア(にもしっかり掲載されています)によると唯さんは1987年生まれですから、このときは22歳になっていたのでしょうか。すでにダンサーとしてアメリカで活躍されていたのかもしれません。私にとっては、竹内さんと遊ぶ幼子の唯さんというイメージだったので、大人になった彼女がまぶしく頼もしく映ったものでした。
最初の出会いから数年してあの新聞記事で「再会」し、その2年後に芸術選奨文部科学大臣新人賞、さらにそれから早くも3年後の今年、芸術選奨文部科学大臣賞というわけです。
今、竹内さんの『老いのイニシエーション』(岩波書店、1995年)を手にしています。ここに登場してくる「笙子」と「ゆり」は竹内さんのお連れ合いと唯さんに違いありません。唯さんの受賞に心からおめでとうと言いながら再読しようと思っています。
今回のブログをしたためていたら、矢部顕さんから竹内敏晴追悼文が送られてきました。「藤原書店から刊行された、―セレクション竹内敏晴の「からだと思想」全4巻-の月報4に書いたものです。藤原書店の編集部からの依頼でした。中国支部のテューター向けに書いたものと、少し表現の違いがありますが、ほとんど同じです。」とメールにありました。竹内敏晴さんの一面を知る貴重な証言になっていますので、再録さていていただきます。
□追悼 竹内敏晴さんとの出会い
矢部 顕
竹内敏晴さんが上梓された最後の本『「出会う」ということ』(藤原書店2009年10月30日発行)のあとがきの日付は9月5日になっていました。2日後の9月7日に彼は膀胱がんで他界されましたが、最期まで命を燃やしていたことがこのことでもよく窺われます。亡くなられてから発刊された本は奥様からお贈りいただきました。思い返せば、恐れ多くも今まで本を上梓されるたびに贈呈していただいていました。
おつきあいのはじまりは、名著『ことばが劈かれるとき』(竹内敏晴著・思想の科学社1975年 のちに ちくま文庫)を読んで、たいへん強い感銘を受けてからでした。子どもの表現活動であるラボのテーマ活動の身体論と根底で相通じるものがあると直感したわたくしは、著者である竹内さんに手紙を差し上げ、東京世田谷のご自宅まで会いに行ったのでした。1979年のことでした。
当時わたくしはラボ教育センター中部総局のスタッフでしたが、今から思えば若造のわたくしが独りで会いにいくことを、上司がよくそれを認めたものだと思います。つぎの新春のラボの中部支部総会に講師として招聘し、中部支部のテューターはラボで初めての「竹内レッスン」を衝撃的に体験したのでした。それは、ラボが子どもから発見したテーマ活動の「ことばの身体性」を、大人に目の覚めるような実感をもって気づかせてくれる刺激的なレッスンでした。
それ以降、わたくしは全国各地のラボ事務局に転勤したのですが、赴任した支部で必ず竹内さんに来ていただいてテューター研修として竹内レッスンを実施したのでした。一泊二日のこともありましたが、それではもの足りなくてラボの物語をテーマにして5~6回連続のレッスンを何回も行いました。その後、あちこちの支部に行っていただくようになり、合計すればたいへんな回数になりますが、いま思えば、あんなすごい方によくぞこれだけ来ていただいたものよと感慨深いものがあります。
年を経て、わたくしが中部支部の責任者として再び名古屋に赴任した頃、竹内さんは東京での生活を引き払って名古屋に住いされるようになっていました。毎週のように日常的にお会いするようになったのは、60歳を越えて生まれたまだ幼いお嬢さんがラボの事務所の教室で行われているラボ・パーティに入会を希望され、その送り迎えをされるようになったからでした。
お嬢さんがラボ活動に参加されている時間に、別室で原稿を書いたり、わたくしとお話したりしたものでした。ある日、子どもに読ませたい本の話題になり、わたしの息子の名前のもとになった『次郎物語』が竹内さんのお気に入りでもあることを知りました。購入したいが本屋で見つからないとおっしゃっていました。後日、その本をプレゼントするとお嬢さんが夢中になっていたことがありました。そのお嬢さんも大きくなって、後にバレリーナとしてカルフォルニア州サンノーゼ市のバレエ団のプリマドンナとお聞きし、たいへん驚きました。
最後にわたくしが「竹内レッスン」をお願いしたのは2004年の北関東信越支部での支部総会の研修で、お歳も傘寿の少し前だったと思いますが、初めてレッスンをしていただいた50歳過ぎのころと変わらぬ御身体のしなやかさにびっくりするとともに、からだから発することばの思想にあらためて感激したものです。レッスン会場が、たまたま丸木美術館(埼玉県東松山市)の近くだったものですから、終了後にご一緒に訪れたのですが、100名を超える大人数対象の一泊二日のレッスンの後でもあって、「原爆の図」は心身にかなりこたえたようで、お誘いしたことを後悔したものでした。
ラボ言語教育総合研究所ができて、竹内さんの薫陶を受けた福田三津夫さんが研究所メンバーとして参画していただいたことは嬉しいことでした。言語学者や英語学者だけではラボ教育の核心であるテーマ活動のなんたるかが解明できないからです。そして事務局長のわたくしとしては研究所で竹内さんのレポートは必須と思い講演をお願いしました。
2007年の講演「子どものからだとことば――共生態としての子ども」をしていただいたのが、お会いした最後となりました。研究所の紀要である『ラボ・パーティ研究』№20(2007.7.発行)にこの講演の記録が掲載されています。
竹内さんほど長いおつき合いをさせていただき、かつ、ラボ・パーティ教育活動への貢献と影響の大きかった方はそうはいません。感謝の気持ちでいっぱいです。つつしんでご冥福をお祈りします。 (2010.12.)
(さらに、矢部さんの補足です。)
そこで思い出したのですが、
『次郎物語』の下村湖人の生家が記念館になっていました。
佐賀県神崎郡千代田町(現 神埼市)の記念館を訪れたときに、
連れ合いが訪問者ノートに書いた文章が、教育委員会の広報紙に
載ったものを添付します。