アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

124 アチャコの京都日誌 再びの京都 泰産寺  古代の英雄 坂上田村麻呂と阿弖流為

2017-08-21 20:13:06 | 日記

第14番は、泰産寺 

泰産寺・子安の塔の歴史は古く、光明皇后が観音様にお願いし無事安産にて出産したことで、三重の塔を建立したという。

元は、清水寺仁王門の下にあったと言うから、清水の三重の塔と並んで建っていたことになる。

中には、千手観音が安置され、子安観音と言う。

清水の舞台から見るとそれなりの存在感がある塔だが、近くで見ると意外に小さい。

高さは15メーター。

因みに、以上の清水の5か所。納経所はすべて本堂東に一括して対応している。

納経帖は300円。軸は500円。

計4800円払った。

暇も金も要るのが巡礼だ。(涙)

さて、最後のネタ。

阿弖流為と母礼(モレ)の碑だ。清水の創建当時、平安の初期の最大の政治課題は、東北の征伐だ。

「まつろわぬ民」の征服は、数々の戦いを生んだが、坂上田村麻呂に至ってやっと成ったのだ。

征夷大将軍の祖、田村麻呂は、清水寺の創建者でもある。開祖は、延鎮と言う奈良の僧だ。

田村麻呂は、遂に降伏した北の王者二人を京に連れて来る時の条件として、「命は救う」と約束した。

しかし、京の公家は二人を信用せず処刑を命令する。田村麻呂の説得も空しく処刑は行われた。

1200年の怨讐を越えて、遷都1200年を記念して岩手県人会を中心に顕彰碑が建てられた。

さらに近年、毎年夏に岩手名産の南部鉄でできた風鈴を寄贈する。

何百の風鈴の音色は、極楽浄土が来たようだ。

これを騒音と言う人もいると聞いて悲しくなる。

田村麻呂を祀る「開山堂」の前には、一段と多い風鈴が釣られる。

古代の英雄たちの友情を感じる。

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123 アチャコの京都日誌 再びの京都 13番朝倉堂  中興の祖 二人

2017-08-21 08:42:58 | 日記

13番 朝倉堂  訂正12番が、本堂です。

朝倉堂の朝倉とは、

戦国武将の浅井・朝倉の、朝倉氏の事だ。

応仁の乱で、壊滅的な被害を受けた清水寺を復興したのが朝倉貞景。

越前朝倉氏の第9代だ。大変信仰に厚い人物で多くの寺院を復興している。

その二代後が、悲運の武将浅井義景だ。室町幕府最後の将軍義秋(のち義昭)が、義景を頼った時に天下に号することも出来た。

しかし、浅井長政と画策し信長を挟み撃ちにして窮地に追い込んだのに、逃してしまい、

結果、姉川の合戦で大敗し、滅亡後浅井長政と共に、信長に頭蓋骨を箔濃(はくだみ)にされた。

一説には信長は、それで酒を飲んだとされる屈辱の武将だ。

晩年、酒と女に溺れた事から後世評価は低い。

浅井長政が、養源院に祀られたのと大違いだ。(浅井長政は娘の淀君のお陰か?)

まあ、その朝倉氏。

正式には法華堂。中は非公開だが本尊と同じ千手観音が安置されているという。

 

 

今日のネタは、大西良慶和尚。

朝倉貞景が室町の中興の人とすれば、昭和の中興の人だ。

「大西良慶」の画像検索結果

107歳で天寿を全うした人だが、徳の島の7つ子の命名者でも有名。

良慶節と言われた説法は私にも記憶がある。「人間というものはなあ・・・。」てな感じ。

そして本当にすごいのは、清水寺を本山として独立させた事だ。

それまで清水寺は、法相宗の末寺、本山は興福寺だった。平安の創建時からそれまで南都興福寺の末寺だった為

こんな大きなお寺が末寺とは?

北嶺比叡山からの迫害を受け続けた苦労の連続だったのだ。(南都北嶺の争いの歴史は後日書く。)

それを北法相宗本山として独立させたのだ。興福寺の管主も兼ねていた大西良慶しか出来ない大仕事だった。

よって、開山堂を建立し祀られている。

ココも訪ねる人はいないが、ぜひ心静かにお参りしてほしい。北総門を出た成就院の手前にある。

成就院は大西良慶さんの住んでいた塔頭寺。

まだまだ話題は尽きない清水寺。続く、

 

 

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