昨日は、復帰第3戦のゴルフだったので、お休みにした。
台風の中で強行したお陰で、バチが当たったのか散々だった。
ゴルフの神様は、一生分のバンカーショットを私に命じた。一日の大半を砂場で過ごした。
出ない、出ない。そして出たら向こうのバンカー。思いっきり打ったらバンカーの側面に突き刺さる。
最後は、バンカーの無い方向に打っているのに玉は、バンカーに向かって飛ぶ。
一緒にまわったバンカー(銀行員)に、八つ当たり。「お前のせいだ。」「わしは、株屋だ。」
最後は、意味不明の暴言を発し白けた雰囲気の中、散会。風雨が一層強まった。
前項の続き、
光厳天皇は、後醍醐天皇が鎌倉幕府倒幕の陰謀に一旦敗れた事で、その廃位により、97代天皇として即位した。
その後、後醍醐の復権により、その事自体(後醍醐の廃位と光厳の即位)が無かった事とされ、北朝初代と言われる事になる。
その為、現在の125代続く皇位には数えられていない。
後醍醐天皇と足利尊氏の再上洛の時には、北条一族と共に近江方面に逃げる。その折、野伏に度々襲われ命の危険に晒された。
神武以来の皇統にある方が、野人のような野伏達に襲われる悲劇・恐怖は想像外だ。
ところがその建武の親政は、瞬く間に破たんする。新田義貞が尊氏討伐の院宣を後醍醐に賜ると、
尊氏は新田討伐の院宣を光厳上皇に賜るという事態になる。
南北朝の始まりだ。結局、京都は、尊氏の支配するところとなったのだから、当時はむしろ北朝方に大義はあったはずだ。
光明天皇・崇光天皇と北朝15年にわたり「治天の君(院政)」に君臨している光厳帝を皇統に入れないのには違和感がある。
さらになお、光厳帝の御不幸は続く。
後醍醐が北朝の三種の神器が偽物と公言した事から、北朝方は武将たちから何かにつけて軽んじられた。
加えて、自分の叔父の花園帝の后に産ませた皇子を皇太子にするなど、複雑な経緯もあってそのスキャンダルには評価が分かれる。
その後、観応の擾乱により、幕府が一時南朝方に降伏すると、吉野へ拉致されるなど再び流浪する。
晩年は、夢窓国師に師事し禅僧として、常照皇寺に隠棲した。その間の経緯を本で読んだが、理解不能だった。