アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

830 あちゃこの京都日誌 戦う天皇たち 後水尾天皇  ①

2021-04-25 07:15:21 | 日記

第3章 後水尾天皇

①        父子不仲   即位そのものを希望していなかった。

 

後陽成天皇

 後陽成天皇の第3皇子が第3章の主役、政仁(ことひと)親王、その後、後水尾天皇となる。その生誕の頃は、勇者が戦い続けた戦国時代の終焉を目前にした慶長元年であった。父後陽成天皇は、早く譲位して院政を行いたかった。戦乱の世の中が続き、皇室の権威が失墜した為、長く院政という時代がなかった、いや出来なかったのだ。幼い自分の子である天皇を支えて父が「院政(治天の君)」として実験を握るのは、朝廷権威の象徴だった。しかし、譲位や即位には余りにも莫大な金がかかる。そのような資金力は朝廷単独では到底無理な時代だった。しかも、しばしば譲位を申し出るものの、徳川家康が許さなかった。後陽成は子への愛情が薄かったのか、なぜか第1皇子も第2皇子も門跡寺院に出してしまった。実は、弟の八条宮智仁(としひと)親王への譲位を考えていた。しかし智仁親王は、以前豊臣家の養子となっていたことがあり、徳川幕府からは承認されるはずはなかった。因みに、その後「桂離宮」を造ったことで有名な方だ。

幕府からは、譲位するなら第3皇子の後水尾天皇への即位を勧められる。従って、後陽成自らの意志というより幕府の後押しで仕方なくの即位となった。その為、後水尾との親子関係は終生良くなかった。譲位後も、諸道具や書類を引き渡さないなど険悪なムードさえあったという。即位の経緯以外何か理由があるのか、臨終の際にも臨席を許さなかったようだ。

因みに、水尾天皇とは、右京の水尾村に御陵がある平安初期の清和天皇のことだが、清和天皇も本流ではなく、兄の惟喬親王がいながら藤原氏の推挙で即位している。当時は、良房の時代でありその権力闘争の結果であったのだ。その為か、生前から同じ境遇の水尾の追号を望んだのである。後鳥羽、後醍醐とは、事情は異なるが前天皇の第1皇子からの平和裏に即位したものではなかったのは同じだ。違うのは、以下に書くが何より即位そのものを希望していなかった。

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829 あちゃこの京都日誌 戦う天皇たち 後醍醐天皇 ⑥

2021-04-23 08:55:44 | 日記

三  戦う天皇ゆかりの寺院 笠置寺  巨大摩崖仏の拓本を大阪万博で見られるか。

山号  鹿鷺山

宗旨  真言宗智山派

開基  天武天皇(大海人皇子)

本尊  弥勒摩崖仏

 

摩崖仏

  先日、笠置寺に後醍醐天皇を偲んで行って見た。しかし観光気分で行く寺ではない。標高300mほどの山自体が寺の境内であり、そこが修行の場でもある。2000年近くも前から信仰の対象であったようだが、天武天皇勅願寺として良弁僧正によって巨岩に摩崖仏を彫りそれを本尊として発足した。その後、平安時代の末法思想の中で発展し、そして歴史に名前が知れたのは、やはり太平記の時代である。後醍醐天皇が一度目の倒幕に失敗した後、ここ笠置寺に本拠地を構えたのだ。ただ、残念ながらその戦火により多くの建造物が焼失し摩崖仏も火災の熱により表面が剥落した。40分ほどの修行場巡りに挑戦したが、日頃の不摂生が祟り息が上がってしまった。しかし、朝方のにわか雨の時の水気を通じて吹く冷たい風が心地よく、一息入れて気分よく山を下った。

 帰りに受付にいた地元のボランティアの方に詳しく聞くと、本尊の摩崖仏は、ほとんど何も見えないが、拓本を採ると古(いにしえ)の姿が浮かび上がるのだそうだ。高さ10m以上もある巨大拓本を地元総出で採ったらしい。ところが大きすぎて展示する場所がなく、公民館の倉庫に眠っているとの事、来るべき大阪万博での公開を目指していると言う。

 三門をくぐり帰る時、野生イノシシの親子が道を横切った。現在の笠置寺は後醍醐天皇一派が、戦乱を仕掛けたとは思えない静寂の中だった。

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828 あちゃこの京都日誌 戦う天皇たち 後醍醐天皇 ⑤

2021-04-22 08:55:22 | 日記

② 後醍醐の失敗 「王朝時代の終焉」

 遂に後醍醐天皇の「失敗」について書かねばならない。ここでは兵藤裕己氏『後醍醐天皇』(2018年)を参考にする。まず、兵藤氏は時代を俯瞰するならば建武政権は、「王朝の歴史物語の終焉」だと述べている。ここまでは天皇を中心とした公家の権力闘争を軸に、それぞれの派閥に豪族であったり武士集団が離合集散して来た。「薬子の変」から始まった平安時代の戦乱は、しばらく表面上平和な時代を経て、「保元・平治の乱」を境に頻繁に起こる。その後の平家滅亡から承久の変に至る戦乱もすべて王朝内の権力闘争や閨閥闘争が関わって来た。源平合戦も公家の代理戦争が発端だという。雅(みやび)であるはずの王朝物語がしばしば戦乱の原因を作ってしまっていたのだ。しかし、後醍醐天皇の失敗以降は、完全に武士が主役であり「応仁の乱」では、全く皇室の関与はないとした。

 

さて、後醍醐天皇の失敗のキーワードは、「無礼講」と「下剋上」である。「無礼講」は、現代の無礼講と違って「破仏講」とも言われ仏教の教えを忘れ「宋学」にかぶれた連中の集まりを意味した。儒教とも言われる朱子学思想は、王道にもとづいた皇帝専制的な官僚国家をめざすものである。楠木正成や名和長年のような「在野の士」「草莽の臣」を登用するのはその象徴的なことでもある。在野とか草莽という言葉を聞いていると、幕末勤王の志士を思い浮かべるが、それらが主役に出てくるのは明治維新まで待たねばならない。つまり、建武政権の本当の実現は、明治維新とも解釈される。さて、後醍醐の倒幕の真意は、「東夷(鎌倉)に天誅を下す事」だったのである。維新の志士たちの憧れの※児島高徳もこの時代の英雄だった。しかし、彼ら悪党たちはやはり、「怪しき人々」であった。

そして「下剋上」。破格の昇進を遂げた彼ら悪党たちと天皇を結びつける回路は当時まだ用意されていなかった。また、建武政権の批判で有名な「二条河原落首」を書いたのは相当な知識人だと言われるが、楠木や名和たちが、「キツケヌ冠上ノキヌ」をまとい、「内裏マジハリ」をするさまは、既得権を奪われた公家からすれば憤懣やるかたない気持ちであった。「名器は濫りに人に仮さず」とは、官職や位階はみだりに与えるものではなく、あくまでも「先祖経歴」の先例に従うべきとする高級公家たちには、建武政権とは上下の秩序を乱す政治としか見えなかったのだ。その不満分子には、南朝重臣の北畠親房や顕家親子も入っていた。三公(太政大臣・右大臣・左大臣)や摂政・関白を置かない天皇親政は、結果として、三位以上の高級公卿を「国司」という「碑官」(低位の官職)に任じるなど、官位のデフレを招く。落首で「物狂いの沙汰」と言ったのはそのような既得権益を守ろうとした守旧派の発言だったのだ。結果として、大半の公家、多くの御家人の不満を生んでしまった。承久の乱の時の、後鳥羽上皇は「倒幕」というより、北条義時一人を成敗しようとしたことは前章で明らかとなったが、後醍醐天皇は幕府のみならず自分以外の既得権をすべて成敗しようとしたのだ。この挫折後、歴史から朝廷が主役になることはなくなる。残念ながら天皇も歴史を牽引する力がなくなる。その実現は江戸時代の光格天皇を経て、その真の実現は「明治維新」まで待つしかなくなる。

なお、南朝が正統とされたのは、徳川家康公が足利幕府のあとを受けて徳川幕府を開く時、足利氏を否定する為に源家新田流を標ぼうしたからである。さらに、幕末の王政復古の大号令は、関白・摂政など一切おかない君主国家でありまさに「建武政権」の再来であった。その後の皇国史観の中で、「臣民」とか「国体」などの思想を進める為には南朝を正統とする以外に選択枝はなかった。なお、後醍醐天皇の諡号は、本来なら怨霊を恐れて、崇徳や安徳、顕徳(後鳥羽)・順徳などの徳のつく諡号が贈られるはずだが、ご本人が生前から希望していた為、後醍醐院とされた。遺言は、「玉骨はたとえ南山の苔に埋るとも、魂魄は常に北闕の天を望んと思ふ」(私の身体は南の吉野で白骨になるけど、魂は常に北の京都奪還の執念を持ち続ける。)といった大意である。

 

  • 鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍したとされる武将。備前国児島郡林村出身。

隠岐に流された天皇の奪還を断念せざるを得なくなった時、傍にあった桜の木へ「天莫空勾践 時非無范蠡」(天は春秋時代の越王・勾践に対するように、決して帝をお見捨てにはなりません。きっと范蠡の如き忠臣が現れ、必ずや帝をお助けする事でしょう)という漢詩を彫り書き入れ、その意志と共に天皇を勇気付けたという。

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827 あちゃこの京都日誌 戦う天皇たち 後醍醐天皇 ④

2021-04-21 10:03:13 | 日記

四、建武の新政「狂気の政権だったか。」

吉野後醍醐稜を守る如意輪寺

 さて、今回のシリーズは「武士と戦った天皇たち」である。従って、何故後醍醐は倒幕にこだわったかを書いて来たが、その前に「建武政権」と「足利高氏」について考えなければその真相にたどり着けない。なお、討幕と倒幕は使い分けねばならない。後醍醐は「倒幕」を目指したが、実現したのは新田・足利の「討幕」による。つまり、幕府を倒すことを倒幕と言うが、武力行使により力ずくで討ち果たすのが討幕である。ややこしいか。

 まず、従来からの建武の新政のイメージというものは、「後醍醐天皇が、時代に合わない非現実的な施策を独裁的に行った。」「公家に厚く武士に薄い論功行賞だった為、武士に不満がたまった。」という政治的な批判や、「怪僧文観をそばに置き妖術を駆使した異形の天皇だった。」というのも代表的印象だろう。これはやはり、『太平記』の影響が大きいと思われる。この「太平記史観」により、後醍醐は三種の神器を保有する正当な君主であるが、暗愚で不徳の天皇でそれを必死に支える「忠臣」の存在が、日本人の精神構造上「判官贔屓」のようなものになって、新田義貞や楠木正成という英雄を生んだ。さらに、不公平な恩賞配分、無謀な内裏造営計画、御家人たちへの重税などの批判が、現代までの普遍的イメージとなっている。

 また、『神皇正統記』を記した南朝の重鎮である北畠親房や子の顕家でさえも、建武の新政については強く批判をしている。さらに、江戸時代に入っても「正徳の治」として有名な学者で政治を主導した新井白石なども、著書の中で他と同様の厳しい評価を下している。それが明治になり「皇国史観」のもと、南朝を正式に正統と定め、さらに一層楠木正成を「大楠公」と崇め、建武の新政の失敗を「逆賊」足利尊氏の悪行に責任を押し付けた。それでも後醍醐への批判的見方は太平記史観の域を脱せなかった。

 そして、太平洋戦争以降、一時隆盛を極めたマルクス主義的思考方法が歴史研究にも波及し、建武の新政は、古代への復古を目指した「反動的政権」と見なされた。加えて、網野善彦氏が『異形の王権』論を唱えることで後醍醐の「異常人格」像が一層後醍醐のイメージを定着させることになった。一方、亀田俊和氏『南朝研究の最前線(建武の新政は、反動的なのか、進歩的なのか?)』には、すべての研究は太平記史観の申し子であり、建武の新政も後醍醐も正統には評価されていないとした。その根本は「同政権が短命に終わったという事実」により、すぐに倒された政権は政策に間違いがあったという先入観があったことを強調した。従って、「政権の寿命と政策の善悪は必ずしも比例しない。」と主張した。

 現在では、建武政権の諸政策を積極的に評価し、その先進性に着目する説が多く出されている。鎌倉幕府から室町幕府の中間に位置する建武政権は、決して反動的なものではなく政策的には連続したもので、むしろ建武政権の諸施策が室町幕府で花開いたとする見方も出てきている。後醍醐天皇像も、今後若手の研究者により決して「異形の天皇」ではなく生き生きとした生身の人間であることが見えて来るのかも知れない。

 

 

① 尊氏との関係「尊氏の人物像と後醍醐との関係」

足利氏菩提寺 等持院

 足利尊氏は、後醍醐天皇の諱である「尊治」の一文字を下賜されて尊氏と名乗った。従って、建武政権当初の二人は良好な関係であったことは間違いがない。鎌倉で幕府を倒したのは新田義貞だが、倒幕の第一功労者は尊氏その人であった。しかし、歴史的に尊氏の評判は最悪だ。幕府執権の北条家の一族に連なる足利家は、北条得宗家に次ぐ待遇を受けていた名門であった。しかも源義家を源流に持つ源氏の総帥でもあった。(そのあたりは諸説あり怪しいが)要するに北条家を除くと一番幕府に近い家柄のはずだったのだ。それが裏切ったのだ。足利家菩提寺「鑁阿寺」に残っていた※「願文」にはその三代後には天下を束ねると書いてあり尊氏がその三代目であったとか、当時の征夷大将軍は宮将軍(皇族から将軍を迎えていた)だったのでそれを狙ったとか諸説あるが、裏切った事実は間違いない。さらに、その後、後醍醐とも決別し北朝を立てるが、それも一時裏切る。最後は最愛の弟直義を裏切り殺害する。まさに紆余曲折の裏切り人生だった。

 話を建武政権に戻す。鎌倉幕府崩壊後、最後の執権高時の遺児時行(ときつら)の反乱「中先代の乱」の鎮圧の為鎌倉に転戦後、尊氏は、後醍醐の要請を受けて京都に戻る際、弟直義に「京都は危ない殺される。」と進言され出家し籠ってしまう。その後、あろうことか足利討伐の院宣を受けて新田義貞が鎌倉に攻め込んできた時、劣勢の弟直義を見殺しに出来ないと再び出陣する。このように数々のエピソードや経緯を見て行くと英雄のかけらもない。ただし、戦いには不思議に強く、連戦連敗の弟直義とは大いに違う。歴史的研究でも、優柔不断なところが多く、八方美人とも言われている。室町幕府設立という武家社会の英雄なのだが、計画的に物事をすすめ「野望」を「勝ち取った」とは到底思えない。それでも後醍醐政権である建武政権の一番の侍大将は尊氏だったし、そのままでもいずれ征夷大将軍の称号も望めたかも知れなかった。実際、後醍醐天皇は公家ばかりではなく、かなりの数の御家人を登用している。結果として、お二人とも時代の英雄なのだが、時代を見通す眼力とバランスある政治力を有していれば二人の関係性には違う結果があったのではないか。また、素朴な疑問として後醍醐天皇が完全に武士を敵視するのなら尊氏に「諱」を与えるほど重用しないだろうとも思う。後醍醐天皇は、持明院統の背後にある鎌倉幕府を敵視したのであって、武士そのものを敵視したものではなかったのではないか。

 

※ 八幡太郎源義家が「自分は七代の子孫に生まれ変わって天下を取る」という内容の置文を残している。義家の七代の子孫にあたる足利家時は、自分の代では達成できない事を悔い、八幡大菩薩にさらに三代後の子孫には天下を取らせよと「願文」を残して自害した。三代の子孫とは足利尊氏・直義兄弟だ。

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番外  俺にも言わせろ

2021-04-19 19:27:55 | 日記

福島原発の汚染処理水放出の件で、またまた韓国・中国が反発している。自らも同様の処理水を海洋に放出しているくせに日本が行うと言うと反発する。放出する水は韓国の水道水よりも水質は良いらしい。それを批判するのは言いがかりでしかない。そもそもIAEAと言う国際機関が適正と認めたものを非難する筋合いはない。

一方、中国は、ウィグル自治区の迫害問題など、各国が発言すると内政干渉だと大騒ぎする。日米で台湾問題に脅威を表明しただけで猛反発だ。このような高圧的な対応に我々日本は弱腰でここまで対応してきた。言わば大人の対応をして来たのだ。

しかし、惻隠の情とか武士の情けなどと言う日本の文化で言う美徳は通じない。三国志にあるように陰謀・裏切り・虐殺・略奪の当たり前のお国柄なのだ。日本の忍耐も限界に近い。特に、韓国は小国にも関わらず上から目線の横暴は許しがたい。

ここは日本も、靖国参拝批判を「国内干渉」だと、堂々と国際社会にアピールしよう。日本のお国の為に命をささげた英霊に、哀悼の誠を捧げることに我々が外国の批判に影響されることの異常性をしっかり主張しようではないか。このままでは日本の国柄が保てない。

戦争を賛美するのではない。間違った国粋主義を良しとするものではない。平和主義の前提のもと、正しく日本の主張をすべきなのだ。まずは、教育現場で正しく日本の歴史を教えて貰いたい。日本は神の国と言って批判された首相がいたが、神武以来万世一系の天皇を頂く「神の国」であることは間違いない。

だからと言って、日本だけが世界で優位に立つ唯一の国なのではない。国際社会と協調して行くのは基本姿勢だ。中国の中華思想が前面に出て来た現在、各国が覇権争いではなく如何に強調し環境問題や民族自決運動を支援できるかがポイントだ。領土を広げる争いでは決して無い。

 

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