アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

826 あちゃこの京都日誌 戦う天皇たち 後醍醐天皇 ③

2021-04-19 08:10:30 | 日記

三、幕府の実情 元寇以降の幕府衰弱と各名門家の分裂

 

さて、この間の幕府の事情を確認すると、前項で書いたように承久の変で完全に朝廷を抑え込んだ幕府だったが、鎌倉時代の中期に、結果として幕府滅亡に至る大事件が起こった。2度の「元寇」である。文永11年(1274年)の文永の役、弘安4年(1281年)の弘安の役である。まさに、後嵯峨天皇から後深草天皇を経て亀山天皇に至る「両統迭立」の起因となった時点と重なる。幕府を揺るがす「萌芽が二つ」芽生えた時期であったのだ。元寇は、「神風」をもって守ったが、我々現代の人間は、その後、元が衰弱することを知っているが、当時の鎌倉幕府にとっては最大の政治課題が、「九州の防備」となった。ところが外敵に対する備えは、内戦と違って勝者はいない。従って、論考行賞(ご褒美・恩賞)がない。御家人たちは疲弊するのみである。さらに、結果的に幕府の西国支配が強くなったおかげで、幕府官僚たちが京の公家との関りを持ったことは大きい。「国難」と言われた当時は一致団結したが、徐々に元の脅威が去り政治闘争の時代となり、それに朝廷内の2流派の争いが微妙に重なって来る。現在思うほど頻繁な交流というほどではないが、東西の御家人の交流も増えたと考える。東国支配の鎌倉幕府、西国支配の朝廷というバランス関係から始まった鎌倉時代は、中盤から大きく変化したのだ。

元寇 - Wikipedia

 元寇からわずか50年後には、後醍醐天皇が登場し倒幕に至るのであるが、幕府支配は、将軍独裁(3代実朝まで)、執権の絶対権力(義時から時宗までか)、そして北条得宗家支配へと変化し、北条得宗家の取り巻きと北条家とは距離のある反北条家の御家人たちに分かれて行く。そして、放蕩執権高時が登場し完全に無力化する。遂には、有力御家人の離反が相次ぎ、「敵の敵は味方」とばかりに朝廷(後醍醐)に期待が集まる。足利高氏と後醍醐の合流はこのような背景の中で、誠に危うい、あやふやなものであった。

 また、源氏である足利家も新田家との確執があり、平氏である北条家も分裂に分裂を繰り返し、藤原氏も皇室もそれぞれ分家を繰り返し収拾がつかない段階に来ていた。それぞれの細分化した名門家を完全に統括する「聖主・賢王」待望の気運が高まっていた。『太平記』序文にあるように、「天の徳を体し、知の道に従う」ものが世を治め太平の世を迎えるのだ、という庶民感情も高まっていた。そこに現れた、後醍醐天皇に一瞬「聖主・賢王」の幻影を見たのかも知れない。延喜・天暦の時代(平安中期、醍醐天皇・村上天皇)の天皇親政を目指す後醍醐が時代の要請と重なった。

 

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825 あちゃこの京都日誌 戦う天皇たち 後醍醐天皇 ②

2021-04-17 15:42:57 | 日記

二、倒幕の必要性  後醍醐の倒幕計画に時間の猶予がなくなっていた。

 

 さて、大覚寺統の後醍醐天皇は、持明院統の花園天皇から譲位されたが、大覚寺統内部では、後醍醐の異母兄の後二条天皇の皇子(邦良)へのつなぎの天皇だったのである。従って、当時後醍醐は「一代の主」と言われた。政治的野望のある後醍醐天皇にすれば、自らが地位にあるうちに天皇親政を成し遂げる必要があった。当然、親幕府である持明院統に戻すわけにはいかず、その幕府の存在が大きく立ちはだかる。後醍醐の内部では必然的に「倒幕」が現実的になって来るのである。

後醍醐天皇 - クール・スーサン(音楽 芸術 医学 人生 歴史)

 そのあたりを、森茂暁氏『後醍醐天皇』から詳しく見る。系図を参考に理解したい。まず90代亀山上皇だが、この方は非常に魅力的な方であったようで、両親に可愛がられ兄後深草から譲位をされて践祚した。本来なら天皇になれなかったはずであるが、さらに自らの子に譲位した。後宇多天皇である。さらに女性たちにも恵まれ、記録に残るだけでも16人の女性から23人の皇女・皇子を残している。高貴な方は子孫繁栄が最大の使命だから決して好色と言ってはならない。精力的で恋多き天皇だったのだ。とりわけ晩年50歳半ばでできた恒明親王を何とか皇位につかせようと必死に動いた。政治力を駆使し持明院統とも幕府とも約束を取り付けた。しかし、その約束が実行される事はなく、持明院統の伏見・後伏見を経て、大覚寺統の後宇多上皇でさえ恒明ではなく自分の子の後二条天皇に即位させる。従って、冒頭に書いたように後二条の弟の後醍醐天皇に即位させても決してその後は後二条の子の邦良親王でなければならなかった。父亀山との約束を守らなかった後宇多にすれば、同じような望みであり、やはり実行されないかも知れないと危機感をもっていた。一方、後醍醐も実行する気は毛頭無かった。因みに、邦良親王の妃は、後宇多上皇の皇女である。孫に自らの愛娘を与えるという念の入れようであった。読者にはこの複雑さがご理解いただけているだろうか。古代・中世の歴史は閨閥・人脈どれもドロドロなのだ。

後醍醐天皇とは?政治や吉野、隠岐の島への島流しや家系図について解説!

 そんな状況の最中に、後宇多・後二条・邦良の親子3代が相ついで崩御する。すでに後宇多上皇の院政を停止させて親政を行っていた後醍醐の敵は、持明院統とそのバックにある幕府だけとなった。早々に東宮(次期天皇)争いが起こって、邦良の同母弟、先にかいた後宇多の遺児恒明親王、持明院統の後伏見の皇子などが候補となった。そして両統迭立の原則で、新しい東宮は持明院統の量仁親王となった。当然、幕府にすれば大覚寺統内の分裂抗争も判断材料になったと思われる。ただし、後醍醐と父の後宇多との関係は、近年の研究ではむしろ良好であったとの説が有力になっている。中井裕子氏『室町・戦国 天皇列伝』を参考に若干触れると、後醍醐の生母五辻忠子は、途中から夫である後宇多から舅(親)である亀山上皇の寵愛へと移っていく。このあたりは現代では理解不能だが昔は性について大らかであったことを理解せねばならない。そのお陰で母を通じて遅まきながら後醍醐は宮廷内の地位が上昇していく。しかも、父後宇多と同居していた時期もあり、兄の後二条同様に可愛がられ兄の死後は、大覚寺統に伝わる荘園の相続も受けているのである。後醍醐が東宮(尊治)時代に荘園に関する決定を行っていたことを権力志向の強さとする説があるが、むしろ後宇多に信頼されていた証だという。それまでの通説は覆されつつある。

 いずれにしても、次期天皇が持明院統に決まったことから、後醍醐の倒幕計画に時間の猶予がなくなっていたのは事実だ。

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824 あちゃこの京都日誌 戦う天皇たち 後醍醐天皇 ①

2021-04-16 08:53:53 | 日記

第2章 後醍醐天皇

一、時代背景 両統迭立までの経緯

両統迭立 - Wikipedia

 前章と重複するが、後醍醐天皇の登場までの鎌倉時代を承久の変以降の皇統の変遷から見る。後鳥羽上皇の御謀反(倒幕計画、実は義時討伐)の失敗で、当然、鎌倉幕府は皇位の継承に関して神経質になった。後鳥羽上皇は隠岐へ遠島となり、子である土御門、順徳の両上皇も島流しとなる。ただ、お二人の上皇の立ち位置はかなり違ったものだった。積極的に計画を推進した弟順徳(佐渡へ遠島)に対して、兄土御門は終始ほとんど関りがない。それでも土御門は自ら遠島を申し出て土佐に流され、その後阿波に移されている。

土御門天皇 - Wikipedia土御門上皇

 さて、変の後の天皇を誰にするかは、慎重に検討された。まず、順徳の皇子ですでに即位していた仲恭天皇を廃止(九条廃帝・承久廃帝とも言う)し、高倉天皇の血統にまでさかのぼりその孫にあたる後堀河天皇を即位させた。ところが、その皇子である次の四条天皇が早世した為、再び後継問題が浮上する。承久の変の記憶がまだ残る幕府は、順徳ではなくせめて土御門の血統ならば許せるとし、後嵯峨天皇の即位に決まった。

 この後嵯峨天皇が南北朝時代の原因である2系統の「両統迭立」のきっかけをつくる。個々の天皇の経緯は別項に書くが、天皇の継承も長子相続が原則とは言え、時には、兄より弟、本妻の子より後妻の子の方が可愛いのは庶民も天皇も同じである。特に年老いてからの愛妾に「最後の一滴?」で出来た子は格別だ。その様なことが皇室ではとんでもない抗争を生む。後嵯峨天皇の後は、長兄の後深草(持明院統)、そして弟の亀山(大覚寺統)とつなぎ、それぞれの血統から交互に東宮(皇太子)を選んでいった。持明院統の天皇なら大覚寺統から、大覚寺統の天皇なら持明院統から東宮を決める。ただ、ややこしいのは天皇の実父が上皇として院政を行う。これを「治天の君」という。上皇であっても子が天皇でなければただの上皇であり、実際は「治天の君」が実権を持つ。しかも、両統迭立が単純に1回ずつ交互に行かないところがややこしい。

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823 あちゃこの京都日誌 戦う天皇たち 後鳥羽上皇 ⑧ 最終

2021-04-14 09:50:55 | 日記

六、事後処理  後鳥羽にも「顕徳院」と「徳」のつく怨霊封じの諡号を贈ったが。

 

 乱後の事後処理も速やかに行われた。3上皇の配流はすでに書いたが、さらに順徳上皇の子である今上天皇(仲恭天皇)は廃された。即位した事も消された為、九条廃帝とも言われ仲恭と諡号されるのは明治になってからだ。義時は次期天皇を後鳥羽の兄である守貞親王の皇子茂仁親王とした。後堀河天皇である。従って、守貞親王は天皇を経ず、「治天の君」になる。後高倉院という大上天皇の尊号を贈られるという歴史上初めての事態だ。別項「光格天皇尊号一件」で重要な先例となるので覚えておきたい。

100 順徳院 ももしきや | PolygonDrill百人一首の最後は順徳院

 これにて、保元の乱以来の「武者の世」の到来を告げた戦乱の時代は、大きな画期を迎える。義時・泰時の親子は、「御成敗式目」を制定し法の支配も強め武家社会の安定に努める。その頃には、平家合戦の記憶も遠くなりこの70年に及ぶ戦乱の犠牲者を悼む動きや、「平家物語」などの軍記物も出来てくる。そのような一時の平和の訪れで、3上皇の「恩赦」や「(京都への)還幸」を期待する動きもあった。現に、九条道家など両勢力に姻戚関係を持つ前関白は、幾度か幕府に働きかけたようだ。しかし後鳥羽は、隠岐で遂に60歳で崩御する。最後まで都への思いを断ち切れず、未練の死であった。その後、後堀河天皇から譲位された四条天皇が急逝した為、順徳上皇の皇子に次期天皇の期待が高まった。しかし、その夢も破れ、結果土御門上皇の皇子(後嵯峨天皇)に決まった。ただこの時すでに、土御門はこの世になく、幕府は生きている順徳が「治天の君」になることを警戒したのだ。徹底的に承久の乱の影響を廃したい幕府の姿勢は変わっていなかった。遂に、ここに順徳も「還幸」の望みを絶たれ配流池で絶命する。最後は、自ら食を絶つという壮絶な死であったという。

土御門天皇 金原陵 | 京都旅屋 ~気象予報士の観光ガイド・京都散策~土御門上皇陵

 当然、幕府・朝廷はそれぞれの怨霊を恐れた。特に後鳥羽は生前から強い霊力を発揮し、乱後すぐ北条政子始め幕府の重鎮の死を招き、餓死者を多く出す飢饉をおこした。身内でも、後の天皇はことごとく早世した。先の、九条道家の「還幸」の願いは「怨霊」を恐れてのことだったのだ。幕府は、諡号に「順徳」同様に後鳥羽にも「顕徳」と「徳」のつく怨霊封じの諡号を送ったが、それでも霊力が強く、泰時が懊悩の末に頓死するのを見て、後鳥羽と改めたほどだ。後世、後鳥羽天皇というのはこのような複雑な事情による。以降、「徳」のつく天皇諡号はない。

 武士と戦う天皇を、後鳥羽天皇から書いたが、武力の前に全面敗北であった。その後、後醍醐天皇が一瞬「中興」する。このようにまだ皇室が武力を行使できた時代である。戦国時代には、武力どころか経済力もなくなり、後水尾天皇は権威だけで幕府と戦おうとする。本格的尊王思想の高まりは、江戸時代後期光格天皇を経て、王政復古を果たすのは、まだまだ先の幕末であり、ここから600年も後のことである。

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822 あちゃこの京都日誌 戦う天皇たち 後鳥羽上皇 ⑦

2021-04-14 09:01:59 | 日記

五、後鳥羽の君主意識  権威(地位)だけではなく自由(精神)もすべて上皇が与えるもの。

ここまででどうしても確認しておかねばならないのが、後鳥羽上皇の君主意識である。ここは、本郷和人氏『承久の乱』に分かり易く書いている。同書「第5章後鳥羽上皇の軍拡政策」の中で、後鳥羽と義時の国家観の違いを説明している。

まず、後鳥羽は、「伝統的な国家観」を持っていたとした。つまりすべての頂点に皇室がいて、貴族には政治、寺社には文化・宗教、武家には治安維持というように役割分担があり、それを「権門」といい、相互補完しながら最終的には天皇を支えるという事だ。一方、それらに対して大臣・将軍・僧正というように権威を与えるのが天皇であり、征夷大将軍もその例外ではない。それに対して、義時の国家観は「在地領主の為の政権を在地領主が支える。」独立した関東政権であり「東国国家論」とも言うべきものであった。相対立するようだが、その共存を考えたのが実朝だったのではないか。つまり東国支配に留まる鎌倉幕府が、朝廷の権威を最大限に利用し安定的に治め、地盤を固めることによっていずれは西国も支配下に治めて行くという目論見だ。その後、江戸時代になって「大政委任論」(天皇から政治運営の大権を委任されている。従って、幕末に「大政奉還」と言う概念に行きつく。)という考え方が出て来たが、それを先取りするような考え方だ。その為には、朝廷と対立するのではなく、幕府の強化のために皇族将軍を招いて、むしろ朝廷崇拝を一層高めるという政策だ。

 北条義時とはどんな人?生涯・年表まとめ【家系図や執権政治、承久の乱 ... 北条義時

その為に実朝は、朝廷の忠実な近臣になろうとした。天皇⇨将軍⇨御家人という統治ラインを考えたのである。実朝が、初代頼朝の右大臣を越えて太政大臣にまで地位を挙げたのは、このような深い読みがあったと見るべきだ。幕府にとって「対立」には何のメリットもないのである。しかしそれは義時と後鳥羽では成り立たず、御家人たちからは、実朝は朝廷へ迎合したとしか見えなかったのだ。

古今和歌集 [1] (国立図書館コレクション) | 紀貫之 [ほか] | Kindle本 ...

さらに、後鳥羽の国家意識は、極端なものであった。三種の神器を欠いた即位であったことによるコンプレックスが終生付きまとった。従って、強い「復古主義」の実践者となった。延喜・天暦の醍醐天皇・村上天皇の時代に憧れた。それは、勅撰和歌集に「新古今和歌集」と命名したことに顕著に現れている。(古今和歌集は醍醐天皇の勅撰)従って、自らも朝廷儀式の勉学に励んだ。時には、公家衆にもきつく叱責したようだ。また、自由闊達を標ぼうするが、自由も闊達も後鳥羽が考え与えるものであって、部下である公家たちが天皇や上皇の権威を冒すような振舞いがあれば、「戯れと雖も、頗る恐れあり」(明月記)と叱責した。突然に激怒するようなこともあったようだ。権威(地位)だけではなく自由(精神)もすべて上皇が与えるもので個人の自由ではなかった。そのような神経質な対応は、いつの時代でも人望を得ることはない。そのような後鳥羽にとって、義時は「自由に振舞う不埒者」に見えたのだ。義時討伐の精神的背景はここにある。

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