その4 継体天皇の登場 「皇統が変わる時前天皇を貶める歴史改ざんは当たり前?」
武烈天皇
ここまでで、古代から男系男子で繋ぐ「万世一系」の原則を確認しつつ、女性天皇で危機を乗り越えて来た事実を書いた。ダイバシティーを先取りする皇室の歴史が分かった。
さて、河内王朝(百舌鳥古墳群の辺り)の最後の天皇である武烈天皇は、誠に勇ましい尊号だが、「悪逆非道」の天皇と言われている。これは、中国にある辛酉革命の考え方で、「王朝の最後は徳の無い大王だったので、仕方なく次は有徳の大王が新王朝を立ち上げた。」ことにしたのである。例えば、北条幕府最後の執権北条高時、足利幕府最後の将軍義昭など、政権交代にはよくある話で、特に創作の多い「日本書紀」の記載はそのまま信じられない。現代の財務省始め高級官僚の公的文書改ざんなど可愛いものだ。
さらに、「日本書紀」には、武烈天皇崩御後、大連大伴金村という豪族の長が、仲哀天皇5世の孫、倭彦王に大王としてお迎えに行ったところ、倭彦王は「迎えに来た兵を見て恐れて山谷に逃げた。」と、一方、応神天皇5世孫の男大迹(おほど)王は、「慈悲深く孝行篤い人格で、兵を整え礼を尽くして迎えに行くと、泰然自若としてすでにもう大王のようだった。」ので、一同忠誠を尽くすことを誓ったという。このあたりも架空の物語を創作した可能性が高い。ただ、不思議なのは継体天皇がまず、樟葉宮(現在の枚方)に入った事だ。大和の地を踏むのは、その後20年を要する。これは継体にとっては不利な話なので、事実に基づくと思う。
聖王と称えられた仁徳天皇ではなく、その親である応神天皇の5世の孫としたのは、仁徳王朝の否定でありやはり、王朝交代があったと考えるべきかも知れない。しかし、あまた有力豪族がいる中で極めて薄いとはいえ同じ血族の男子を指名した事、王朝交代という解釈にはしなかった事、あくまでも男系にこだわった事、さらに、取り巻きの豪族の長たちが実質の政権運営を行っていたらしい事など、その後の皇室継承の原則と世界に例のない政権運営システムの原型がうかがえる。重要なのは、決して武力だけで天皇になるわけではないということだ。
一方、仁徳天皇の血統をつなぐ王たちも存在したはずであり、恐らくそれらを担ぐ抵抗勢力との間に20年の長きにわたる闘争があったのだ。継体天皇は即位時すでに57歳で、20年かけて大和に入った時はすでに82歳で、崩御するまでわずか4~5年しかなかった。嘘も誠もありながら、今に続く皇統の伝統的継承の始まりはこの天皇のもとで実現したということだ。この事は大変重要なことだ。
- 「武烈天皇の悪逆非道」日本書紀より現代語訳
妊婦の腹を裂いてその胎児を見た。
人の爪を抜いて、芋を掘らせた。
人の髪を抜いて木登りをさせ、木の根元を切り倒し、登らせた者を落とし殺して面白がった。
人を池の樋に入らせ、そこから流れ出る人を三つ刃の矛で刺し殺して喜んだ。
人を木に登らせて、弓で射落として笑った。
女を裸にして平板の上に座らせ、馬を引き出して女らの面前で馬に交尾させた。女性器を調べ、潤っているもの(すなわち愛液が分泌されている者)は殺し、潤っていない者は、奴隷として召し上げた。これが楽しみであった。
筆者注・明らかに悪意のある他愛もない創作に思える。中国の殷の紂王(酒池肉林の逸話で有名)に似た話がある。