⑦ 皇室復古の闘い
徳川の時代になると、家康の定めた「禁中並び公家諸法度」により厳しく皇室の権力を制限されつつも、108代後水尾天皇は皇后(徳川和子)の徳川家の財力と、自らの長寿(85歳)を武器に皇室の復興に取り組む。しばらく後水尾上皇の時代が続き、晩年に出来た子の112代霊元天皇(79歳)も長寿を全うし数々の復興の試みを行った。しかし、その後は早世の天皇が続き、遂に118代後桃園天皇の時代に皇統断絶の危機を迎える。ただ、113代東山天皇の時代に新井白石の提言により新たに親王宮家(閑院宮家)を創設し危機に備えていたり、途中、女性天皇を挟むことで天皇位の空白をうめるなど様々な英知を集結していた。女性天皇とは117代後桜町天皇のことで、116代桃園天皇の早い崩御により甥の118代後桃園天皇の成長まで皇位をつないだ。つなぐだけではなく帝王学を訓育するなど、知性も人徳も備えた方であったようで、普通、内親王の場合早くからしかるべき公家に嫁ぐところだが二十歳を過ぎても独身のまま宮中に残していた。恐らく、皇位の危機に備えていたものと考えられる。このようにその時代の英知を駆使してあらゆる観点から手を打っていたのである。現代の有識者に望まれるのはまさにこの時の教訓であろう。
結果、119代光格天皇は傍系とは言え東山天皇の3世孫から即位し、現代に続く血統をつないでいるのである。この光格天皇はあらゆる点で現代の皇室のあり様を作った偉大な天皇と言える。