アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

950回 あちゃこの京都日誌  新シリーズ「新天皇国紀」⑥

2023-01-19 09:18:17 | 日記

⑦         皇室復古の闘い

光格天皇 - Wikipedia

徳川の時代になると、家康の定めた「禁中並び公家諸法度」により厳しく皇室の権力を制限されつつも、108代後水尾天皇は皇后(徳川和子)の徳川家の財力と、自らの長寿(85歳)を武器に皇室の復興に取り組む。しばらく後水尾上皇の時代が続き、晩年に出来た子の112代霊元天皇(79歳)も長寿を全うし数々の復興の試みを行った。しかし、その後は早世の天皇が続き、遂に118代後桃園天皇の時代に皇統断絶の危機を迎える。ただ、113代東山天皇の時代に新井白石の提言により新たに親王宮家(閑院宮家)を創設し危機に備えていたり、途中、女性天皇を挟むことで天皇位の空白をうめるなど様々な英知を集結していた。女性天皇とは117代後桜町天皇のことで、116代桃園天皇の早い崩御により甥の118代後桃園天皇の成長まで皇位をつないだ。つなぐだけではなく帝王学を訓育するなど、知性も人徳も備えた方であったようで、普通、内親王の場合早くからしかるべき公家に嫁ぐところだが二十歳を過ぎても独身のまま宮中に残していた。恐らく、皇位の危機に備えていたものと考えられる。このようにその時代の英知を駆使してあらゆる観点から手を打っていたのである。現代の有識者に望まれるのはまさにこの時の教訓であろう。

結果、119代光格天皇は傍系とは言え東山天皇の3世孫から即位し、現代に続く血統をつないでいるのである。この光格天皇はあらゆる点で現代の皇室のあり様を作った偉大な天皇と言える。

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949回 あちゃこの京都日誌  新シリーズ「新天皇国紀」⑤

2023-01-17 11:32:42 | 日記

⑤         皇位継承の決定権が武家に委ねられた結果の両統迭立

後嵯峨天皇 - Wikipedia御嵯峨天皇 2系統迭立へ

 次に、鎌倉時代後期の両統迭立から南北朝戦乱へと時代も注目だ。ここまで見て来たように親子相続をしているうちは良いが、兄弟相続を行えば必ずその後は「兄の子(皇統)」か「弟の子(皇統)」かで必ず争いは起こる。しかし、88代後嵯峨天皇の場合は後継者を自ら決められない事情があった。82代後鳥羽上皇の承久の乱の記憶がまだ残る頃だった為、幕府が主導して幕府に反乱の意思が薄かった皇子の血統から後嵯峨天皇を選んだ為、自らの二人の子のどちらの血統に継いでいくかが決められなかったので、幕府に委ねたのだ。皇室が自ら後継を決められない事態になっていた。この結果、2系統交互の皇位継承と定めた。大覚寺統、持明院統の両統迭立の始まりだ。しかも幕府自体も元寇を挟んで北条得宗家の権力基盤の弱体化が進み、朝廷(公家)・幕府(武家)両方の内部抗争が激化して行く。ある公家の日記に、「帝位の事、なほ東夷(あずまえびす)の計(はかり)なり。末代の事、悲しむべし。」と嘆いていて、結果、2系統は幕府が鎌倉から室町に移る時には、後醍醐天皇を担ぐ北朝と、足利尊氏が担ぐ北朝系天皇のそれぞれが正統の朝廷と主張しあった。挙句には「観応の擾乱」という尊氏と弟の直義の争いが南北朝を巻き込み敵味方が入り乱れる時代と言う「末代

⑥         皇室権威の衰退

後醍醐天皇と吉野 | 深掘り!歴史文化資源 | 奈良県歴史文化資源 ...「建武の新政」 後醍醐天皇

 後醍醐天皇は希代の傑物で、空前絶後の天皇だ。その建武新政は、前進的だったのか単なる復古政治だったのかは評価が分かれるが、いずれにしても「天皇の時代」と言う意味では別格の時代である。そして南北朝統一後は、皇室の権威は財政難とともに著しく低下した。もはや皇位は争うものではなくなった。遂に、戦国時代には、即位式どころか後土御門天皇が崩御しても子の後柏原天皇などは、朝廷に資金がなく大喪の礼すら出来ない時代を迎える。最近の大河ドラマでも御所の筑地塀が破壊されて路地から直接御所に出入り出来るシーンがあったが、誇張ではない。当然、応仁の乱から戦国時代の103代後土御門天皇から107代後陽成天皇まで5名の天皇は、譲位し院政を行うことも出来ず、結果皇室の権威を示すすべはなかった。従ってそれぞれの在位は平均30年を超えることになる。この間、天皇は歴史の表舞台には出て来ない。それどころか宮中行事の多くがこの時代に一旦断絶している。かろうじて、正親町天皇が織田信長に、後陽成天皇は秀吉に支援を受けているが、これは下剋上による天下統一にはせめて天皇の権威も無くてはならないものであった為である。「錦の御旗」は辛うじて成り上がり者の権威付けにはなったのである。決して、天皇を廃して自分が天皇になろうとした者はいなかった。

 

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948回 あちゃこの京都日誌  新シリーズ「新天皇国紀」④

2023-01-17 11:32:42 | 日記

 

③         天皇は相応の年齢と素養を求められた。

文武天皇の時代に起こった長屋王の変とは?藤原氏との関係は ...男系男子を旨とする

 何とか嫡子相続を主体に考えようとするが、やはり直系の皇子が幼少なら即位は認められず、例えば天武天皇の皇太子草壁皇子は25歳とは言えまだ十分ではないとの事で、皇太后の鵜野が称制(後の摂政)で補助し結果的にはその草壁皇子が早世したたため甥の軽皇子(文武天皇)7歳の成長を待つ間、その鵜野が女帝持統天皇となっている。その文武天皇即位時には、意見が分かれ、「神代より以来、子孫相承」と基本理念に関わる宣言をし争いを収めたという。また、母が皇族ではない聖武天皇(藤原氏出身)あたりから、生母が皇族以外でも、その皇子・皇女が天皇の直系であれば皇位を継承できるとなった。その後、永く藤原氏が天皇の外祖父の地位を利用して皇室を牛耳る素地が出来て行く。

④         皇室最大の危機を乗り越え平安時代には幼帝の時代へ。

和気清麻呂 - Wikipedia和気清麻呂 皇統の危機を救った英雄

 そして、奈良時代末期の称徳天皇の時、皇位を狙う弓削道鏡への嘘の御宣託に対して和気清麻呂が「天つ日嗣は必ず皇儲」を建てるべしとの復奏で防いだという大事件があった。歴史上最初で最大の皇統断絶の危機であった。この後、皇室以外の者が表立って皇位を狙ったのは、平安中期の平将門以外には無くなる。しかし、58代光孝天皇は、前天皇の陽成天皇の別系統から選ばざるを得なかったため、その子59代宇多天皇は、臣籍降下(皇室外に)していたいわば「只の人」から即位している。このような危機はしばしば訪れる。一方で、藤原摂関家の台頭、その後の院政の出現など天皇の権威や神秘性を利用しその存在が形骸化して行く中で天皇即位の若年化が進む。61代朱雀天皇は3歳で皇太子になり8歳で即位した。63代冷泉天皇の即位は18歳だが、皇太子には生後間もなくなっている。いずれも藤原忠平や実頼と言う摂関家の長が摂政や関白にあった時代である。その後、64代円融天皇11歳、66代一条天皇7歳、68代後一条天皇も9歳で即位している。時代は道長・頼通の藤原摂関家の全盛であった。さらに、73代堀河天皇は8歳、74代鳥羽天皇は5歳、75代崇徳天皇などは5歳で即位し、いずれも白河院制の時代で幼少の即位が続き、平清盛政権での81代安徳天皇3歳での即位の前例となった。この流れは、82代後鳥羽天皇4歳とその子たちまで続くいわば「幼帝時代」と言っても過言ではない。同時に天皇権威の危機でもあった。

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947回 あちゃこの京都日誌  新シリーズ「新天皇国紀」③

2023-01-17 09:05:33 | 日記

序章 皇位継承の経緯

①         神話の時代は、親子相続が原則で順調に継承した。

革命」のない国日本~日本の歴史の継続性 - 榊原英資|論座 ...令和の即位の礼

 その前にまず大雑把に皇位継承の歴史を振り返る。太古の日本は、今から13000年くらい前から2300年くらい前までの縄文時代を経て、約2000年前の弥生時代中期以降になって、多くの豪族の中から九州高千穂あたりに大きな勢力を貯えていた者たちが、何らかの理由で東征して大和地方に拠点を移した。その勇敢な豪族が大和政権を営み、その初代の統治者こそが神武天皇ということになっている。『古事記』には、神倭伊波礼比古命(かむやまといわれひこのみこと)。『日本書紀』では、始馭天下天皇(はつくにしらすすめらみこと)とされその後、諡号の神武天皇が贈られる。その時、九州に残った同じ豪族の一部が当時の中国の魏と交流したのが、邪馬台国と考えられる。その女王卑弥呼とアマテラスを同一視する学者も多い。

 

②         古代は、有力豪族と血縁を強め、男系男子を確立する。

継体天皇 - Wikipedia継体天皇 

 その後、大王家は有力豪族との婚姻を繰り返し、時には同族婚(異母兄妹など)も辞さず血脈を守りつないで来た。その結果、王位は大和王族の血脈の中から選ぶと言う通念が確立していった。その限られた血脈の中での婚姻は平安時代まで続く。それでも当初は親子相続が当たり前だったのだが、継体天皇の子たちの3兄弟や欽明天皇の子の4兄弟姉、さらに舒明天皇もその後3代(重祚あり)2名の天皇は姉弟であり、飛鳥時代にはむしろ兄弟相続が当たり前のようになって行った。その結果、天智天皇が子の大友皇子へ直系相続を目指したら、弟の後の天武天皇と大乱になってしまった。後に壬申の乱と言う大規模な戦闘の結果、天武天皇の勝利となったもののその反省から、嫡子相続が基本になって行く。

しかし、その教訓はなかなか定着せず、兄弟相続は平安時代初期の薬子の変や鎌倉末期からの南北朝時代などの混乱を招く。

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946回 あちゃこの京都日誌  新シリーズ「新天皇国紀」②

2023-01-16 08:38:02 | 日記

皇位継承の筆者統計より

神を統合した日本国の創始者「神武天皇」日本人なら知っておき ...初代神武天皇

 本文に入る前に、126代今上陛下までの皇位継承の130例(南北朝の北朝含む)をすべて調査して見た。その結果、親から子への継承が一番多いのは当然だが、67例で半分ほどに過ぎないことが分かった。これを第1子かそれ以外かを見れば色々な事情が見えてきそうだが、正規なお后からの御子以外は記録に不明なものが多く詳細な調査は断念した。次は、兄弟間の継承例が26例で次に多い。これは兄から弟へが24例を占めるが、4件が兄へ継承している。古代の24代仁賢天皇は弟の顕宗天皇からが初見だが。33代推古天皇(本邦初の女性天皇)と117代後桜町天皇(現在最後の女性天皇)はそれぞれ弟の崇峻天皇、桃園天皇の早世により急遽次代へのつなぎの為の即位であった。また、71代後三条天皇も弟からの継承だがこれは本編で詳しく書く。あとは、従兄弟・甥・孫など血統の近いものへの継承が続く。意外に1代飛んで孫への相続は少なく、古代の欽明天皇(推古の孫)、文武天皇(持統の孫)はいずれも女性天皇の直系孫で、この2例は複雑な事情が絡むが、戦国時代の陽成天皇は正親町天皇の孫だが、父である皇太子が即位以前に亡くなった為で特に複雑な事情や争いはなかった。この時代にはあえて争って天皇の地位を奪い合うものではなくなっていた。そして以上の範疇に入らない、別系統からの即位が14例ある。26代の継体天皇は5世さかのぼり応神天皇の子孫と言う特殊事例で、真相はかなり怪しい。あとは南北朝時代に見られるように二つの血統が争う場合だ。ただ原則男系男子(父親をたどれば天皇にたどり着く)であることは間違いない。それ以外は、重祚と言う同じ天皇が2度即位したのが2例ある。皇極天皇は舒明天皇の后(重祚して斉明天皇)、孝謙天皇は聖武天皇の皇女(重祚して称徳天皇)である。いずれも古代における例だ。因みに、江戸時代後期の光格天皇が別系統から即位した以降は、今上陛下まで7代は親子の継承という順当な即位を続けている。

孝謙天皇 - Wikipedia孝謙天皇は重祚して称徳天皇となる。(重祚:再び即位する事)

 このように様々な皇位継承の形を踏みながら現在まで男系男子をつなぐ中で、半分以上は親子以外の継承で繋いで来た。そこには、権力という魅力あふれる最高の地位である天皇の地位を奪い合う時代の複雑な皇位継承もあれば、後継者のいない皇室断絶の危機を知恵と権威で守って来た先人の苦労もうかがえる。皇位継承を争うことのない現代でも、直系の親子(しかも長男)以外の継承や女性天皇については慎重に検討する必要がある。その為にはまず先人の苦労を正しく知ることが重要だ。以下に象徴的な事例を示しつつ検討したい。

親子 孫へ 兄へ 弟へ 従兄弟へ 甥へ 別系統から 其の他
51.54%   2.31% 3.08% 18.46% 3.08% 6.15% 10.77% 4.62%
67   3 4 24 4 8 14 6
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