※ 重要な第6章を飛ばしたので、追加訂正する。
第6章 光格天皇時代の君主意識
☆光格天皇の政務開始
次に、光格天皇の君主意識を藤田氏の研究を中心に検討する。『光格天皇』(同氏 ミネルヴァ書房 2018年)では、天皇16歳の天明6年には早くも新嘗祭の復古再興などいくつかの朝議の再興に取り組んでいて、武家伝奏を自ら招き「内密の叡慮」「思召」を伝えている。その事で、主導性や強い意思と粘り強さを見る事が出来る(33頁)としている。また、天明8年に鷹司輔平が松平定信に送った書状には、桜町天皇以降、女帝の時もあり摂政の時代が長く、関白の時も天皇が幼かったり虚弱だった為、実質摂政に近かった。ところが光格天皇は、当時の関白の九条尚実が病気であった為、「早くから朝廷政務の処理に慣れ、一二の近臣らが意見を申し上げているであろうが、(中略)近来にないまことに喜ばしい時節」(『松平定教文書』から要約)だと、御親裁の様子を報告している。加えて、先帝である上皇がいれば二十歳くらいまでは院政という事もあったが、この時は女性である後桜町上皇のみであった為、影響力のある摂政や上皇共にいない状況であった。このように光格天皇は、十代後半には早くも朝廷政務を主導していて、しかもすこぶる健康であった。
他方、寛政8年光格天皇26歳の時には、不行跡を咎め、公卿を大量処分している。自殺者(未遂)を出すほどの厳しさで、「不法遊興」を責め、注意事項を箇条書きで通達している。その様に、部下である公家にも禁裏への奉公を要求し厳しい姿勢で臨んでいる。(同氏)『江戸時代の天皇』
☆対幕府は
家康が創設した江戸幕府 どうする?
一方、幕府に対しても強く対応している。寛政の改革の中、朝廷にも倹約を求めて来た時に、「天皇が不自由」にならないよう周辺は天皇には直接伝えなかったようだが、寛政2年の『実種公記』には、「この節御省略の儀仰せ出されるのあいだ」と、書かれているので天皇も気づいていたことと思うが、翌年、倹約の結果剰余が出た事から、幕府から褒美(給物)を配ると言って来た。関白からその報告を聞いた光格天皇は、幕府の命令で倹約をしたわけでない、天皇自身の考えで倹約したのだから、幕府からの「会釈(挨拶)」はあり得ない認められないとした。結局は所司代の「一命にも関わる事(切腹)」として許している。しかし、それ以降所司代は、「このような時は事前に相談してから行う。」と武家伝奏に約束している。
また天皇は、武家伝奏が、いつも所司代宅に赴き所司代が伝奏屋敷に来ないのはおかしい、所司代にも武家伝奏屋敷に来るようにと、対等の関係を求めた。まことに意気軒高たる二十歳ちょっとの天皇と述べている。しかしその為、幕府がその後の諸事件で警戒の眼で朝廷を見るようになった原因でもあった。
☆光格天皇の君主意識
光格天皇は、自らを「宗室の末葉、しかして不測の天運、辱く至尊の宝位に登る。」『宸翰英華』と、傍流意識を強く持っていた。その為、世間では「一段軽きように存じ奉る族(やから)もこれありけれ」『小夜聞書』とも言われ、傍流が故の辛く口惜しい気持ちはあったものと推察する。その為、藤田氏は、「自己の権威の強化を図ったのだ。」とか、さらに「傍流意識がむしろばねになったことはあり得る。」とした。
また、後桜町上皇からの訓育を与えた書状に対し素直に応じ、「仰せのとおり、身の欲なく、天下万民をのみ慈悲仁恵に存じ(中略)何分自身を後にし、天下万民を先とし」(『宸翰英華』より藤田氏が要約引用)という強い君主意識を持っていた。さらに、寛政12年には、「上は神明宗廟和光同塵の恩覆により、下は執権幕府、文武両道の補佐をもって、在位安穏すでに20年有余に及ぶ。」『宸翰英華』と強い皇統意識を表明している。一方で、「脱衣の善政」という表現を引用し、このような意識は、歴代天皇の伝統的な共通のものとも述べている。
しかし、歴代天皇の宸筆署名を詳しく調べた上に、光格天皇は、「天子」でも「大王」でもなく「大日本国天皇」と署名したものがあることに注目し、光格天皇の皇統意識はとりわけ強かったと結論付けている。
☆和歌からの考察
一方、盛田帝子氏は、『近世雅文壇の研究』―光格天皇と賀茂季鷹を中心にー(汲古書院2013年)などで、和歌やその活動を通じて光格天皇に迫っている。「第3章光格天皇とその時代」には、まず後桜町上皇の以下の和歌を紹介している。
をろかなる われをたすけの まつりごと なをもかはらず たのむとをしれ
これは、光格天皇が践祚したタイミングで近衛内前へ下賜された和歌だが、彼は桃園天皇時代から長く摂政・関白として朝廷を支えて来た人である。まだ、引き続き皇統の安定に不安のある中で、内前に変わらず支えるように一首したためたのであった。(52頁)さらに、光格天皇即位後の、「御代始」に先立ち以下の和歌では、
民やすき この日の本の 国のかぜ なをただしかれ 御代の初春
と、詠んで祈りにも似た上皇の思いが読み取れるとした。
このように上皇の深い光格天皇への思いを紹介した上で、光格天皇自身の文壇活動や御所伝授を通じて、天皇が宮廷歌壇の中心人物として、伝統を守り、歌会制度を強化した事を詳しく書き、譲位直前の和歌では、
ゆたかなる 世の春しめて 三十あまり 九重の花を あかず見し哉
と、あたかも長い天皇在位中の功績を自ら称えたような和歌を残していることに注目した。
また、「おわりに」では、閑院宮美仁(はるひと)親王との関係に触れていて、光格天皇が天皇の実子でなかった為、実兄(14歳上)である親王は、光格天皇が歌人として自立するまで補佐的役割を果たしたことを、文献をもとに解き明かしている。
このように歌道においても後桜町上皇の訓育が大きかったことと、実兄の美仁親王や実父の典仁親王の存在が大きい事が分かった。また、和歌を通じて君主意識を育んだことも想像に難くない。(筆者感想)