アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

945回 あちゃこの京都日誌  新シリーズ「新天皇国紀」①

2023-01-14 20:56:33 | 日記

「新天皇国紀」

 

新天皇国紀 皇室は現代にいたるまで如何に皇位を継承して来たか。

天皇家の血筋を守るため、暗躍した秘密組織「陸軍中野学校」とは ...

前書き

 平成の上皇陛下の生前退位を経て早4年が経ちました。この間、皇室(皇統)の存続について議論の必要性が言われています。そこには早急に解決すべき二つの大きな問題(課題)があります。

まずは、最重要課題である皇位継承問題があります。現在、皇位継承権者が僅か3名でこれでは天皇制の存続が危ういというものです。そして、膨大な皇室関係の仕事(行事)を受け持つ皇族の方の人員減少問題です。内親王殿下など女性皇族の方々は結婚とともに皇室を出て民間人になることになっているので、日本赤十字社の名誉総裁など数々の福祉関係団体の役職やスポーツ関係団体、文化事業の各種団体など皇族のお出ましが不可欠な仕事が多くあります。しかし、このままではその担い手が不足するという現状があります。

 皇位継承問題では、原則男系男子を守って来た天皇制ですが、時代に合わせて議論すべきだと言う声も多く、特にグローバル化が進み女系天皇や女性天皇なども可能にするなどの議論があります。また、皇族の方の減少問題では女性宮家の創設と言う解決策も提示されております。しかし、残念なことに事の本質を理解しない方が多く、テレビのコメンテーターの意見も中途半端になっています。もともとは学校教育でこのようなことについてちゃんと教えて来なかったことが問題だと考えます。戦後の日本史の授業は幕末までを教えても、明治維新以降の現代史としての天皇制を正しく教えて来なかった。右翼、左翼などの思想的な問題ではなく、事実としての歴史教育の観点からしっかりやっておくべきでした。

皇室の構成図 - 宮内庁

 ところが、小室氏と眞子内親王殿下との件で俄かに皇室におけるこのようなことが話題にあがって来ました。今こそ日本の歴史、とりわけ皇室の歴史を正しく知ることが重要と考え筆をとりました。勿論、学者でもない筆者が専門的に考察することはできませんが、歴史上皇統を守ることに苦心した8人の天皇を書くことで現在の天皇制も考える機会にしたいと思いました。天皇の神秘性を受け継ぐ一方、庶民にもあり得る誠に人間味にあふれる営みの歴史が見えてきます。我々は、先人の皇位継承への壮絶な戦いと工夫・苦悩を理解しなければならないのだと思います。

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944回 あちゃこの京都日誌  光格天皇研究 ⑩

2023-01-13 08:44:59 | 日記

終章 終わりに

  • 分かったこと、分からなかったこと。光格天皇 自身を後にし天下万民を先としの通販/藤田 覚 ...主たる参考書籍

分かったこと

分からなかったこと(今後の課題)

・光格天皇は早い時期から御親裁を行っていた。

・3事件を通じて、徐々に光格天皇の自立の経緯が分かった。

・前期の光格天皇の政治的成長には、鷹司輔平と松平定信が重要な役割を担ったこと。

・特に、定信の歴史的な見解については、研究が進み定説に変化があること。

・天皇の自立に従って、輔平とは決別した。同様に、家斉の成長と共に定信も老中を辞任した。

・後桜町上皇は、終始一貫光格天皇の和歌など文化活動と政治的自立の助言者であった。

・実父閑院宮典仁親王と実母大江磐代は、具体的発言は残っていないが、非常に温和な思いやり深い人物であった。

・朝廷・皇室は、儀式・儀礼を通じて、一般庶民と今よりはるかに身近な存在であった。

・後桜町天皇については当研究所中心に一層研究がすすむこと。

・朝幕関係の基本形式と、光格天皇前後での運用の変化。

 

・光格天皇の強い皇統意識の源泉

・尊号一件の時の典仁親王の見解

・後桜町天皇の待遇と即位の経緯

・鷹司輔平の心情と変節の背景

・尊号一件と大御所問題との関係

 

       
       
       
       

約半年間にわたって、「光格天皇とその時代」を研究して来た。

ここまで、前期光格天皇のレポートを書いていて、筆者が最も関心を持ったのは、鷹司輔平と光格天皇・松平定信と徳川家斉という人間関係である。その理由は、両者の関係にはいくつか共通点がある。

まず、両者の地位は逆転していたかも知れないこと。鷹司輔平は、世襲親王家の閑院宮家の直系で典仁親王の実兄であり、当然ながら直系天皇の事情によっては皇位継承の可能性はあった。

一方、松平定信も御三卿のひとつ田安家を相続する可能性があったことは第4章で書いた。田沼意次の陰謀により将軍職への道は閉ざされたが、田安家を継いでいれば大いに可能性があったのである。

次に、年齢の関係である。千度参りの時点で、光格天皇17歳、鷹司輔平49歳。徳川家斉15歳、松平定信29歳であった。輔平はやや高齢であるが、天皇・将軍の方は、自立しつつも二人の援助が必要な時期であった。そして、輔平罷免の時、天皇は20歳、輔平は52歳。松平定信の老中辞任が、家斉21歳、定信35歳である。すでに、天皇も将軍も自立し自らの政治を行いたい年齢となっていたのである。これらの事実を冷静に考えると、輔平も定信も、自らが天皇なら、将軍ならこうするという強い思いがあったと考える。可能性のなかった地位ならば、そうは思わないが実現可能だった地位に対して、自らの理想があったと考えるのは当然であろう。しかも、就任初期は天皇・将軍からは信頼もされ、任されていたのである。特に、定信については「自分の思いで政治を行った。」という主旨の発言があった。ところが、天皇・将軍共に、二十歳を越えると、両者の考えに微妙に隙間が出て来たのではないだろうか。事実、光格天皇の輔平への御不満は、資料により藤田氏が解明している。輔平が、尊号一件について天皇の勅問を受けた時、息子とたった二人反対した(少なくとも賛成しなかった。)経緯はその様に考えれば納得が出来る。すでに光格天皇の子飼いの公家衆の時代になっていたのだろう。また、定信についても辞任時の周辺の冷たい態度については、すでに家斉が自らの意志で政治を行おうとする空気を、定信以外は感じていたのだと思う。

現代の企業経営者の後継問題でも、同様の話は多い。オーナー社長がめでたく子の若社長に引継ぎをする。新体制が軌道に乗るまで、親である前社長時代の役員たちが、重要な判断を行う。若社長もしばらくは頼りにもし、その判断をありがたく受け入れる。しかし、数年たち若社長にも自信が出てきて、中には自らが選んだ若手役員も出て来ると、古手の役員は煙たくなるのである。まして、光格天皇のように、前社長の息子ではなく、遠い親戚から社長を継いだ場合、軽んじられないように必死で自分の周辺を息のかかった役員で固めるのは当然である。

皇室と企業とを比較するのは、不遜であり無理があるが、案外人間というものは同じような心模様ではないだろうか。そのような思いで、今回の研究のひとまず締めくくりとしたい。

最後に、光格天皇の研究については、藤田覚氏を中心に想像以上に相当研究が進んでいて数多い著作物を読みこなすのに多くの時間を費やした。また、後桜町天皇については、本学名誉教授所先生・担当教授の若松正志先生が最新の研究者のおひとりであることが非常に心強かった。稚拙な研究レポートを真剣にご指導いただいた若松教授には特別感謝いたします。なお、研究中、NHKの特集番組で、当該研究に関するコメンテーターに若松教授が出演した。このような一流の学者先生と議論できるのは、至福の時であった。(拝)

 

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943回 あちゃこの京都日誌  光格天皇研究 ⑨

2023-01-12 09:18:10 | 日記

※ 重要な第6章を飛ばしたので、追加訂正する。

第6章 光格天皇時代の君主意識

☆光格天皇の政務開始

刀剣ワールド】光格天皇

 次に、光格天皇の君主意識を藤田氏の研究を中心に検討する。『光格天皇』(同氏 ミネルヴァ書房 2018年)では、天皇16歳の天明6年には早くも新嘗祭の復古再興などいくつかの朝議の再興に取り組んでいて、武家伝奏を自ら招き「内密の叡慮」「思召」を伝えている。その事で、主導性や強い意思と粘り強さを見る事が出来る(33頁)としている。また、天明8年に鷹司輔平が松平定信に送った書状には、桜町天皇以降、女帝の時もあり摂政の時代が長く、関白の時も天皇が幼かったり虚弱だった為、実質摂政に近かった。ところが光格天皇は、当時の関白の九条尚実が病気であった為、「早くから朝廷政務の処理に慣れ、一二の近臣らが意見を申し上げているであろうが、(中略)近来にないまことに喜ばしい時節」(『松平定教文書』から要約)だと、御親裁の様子を報告している。加えて、先帝である上皇がいれば二十歳くらいまでは院政という事もあったが、この時は女性である後桜町上皇のみであった為、影響力のある摂政や上皇共にいない状況であった。このように光格天皇は、十代後半には早くも朝廷政務を主導していて、しかもすこぶる健康であった。

 他方、寛政8年光格天皇26歳の時には、不行跡を咎め、公卿を大量処分している。自殺者(未遂)を出すほどの厳しさで、「不法遊興」を責め、注意事項を箇条書きで通達している。その様に、部下である公家にも禁裏への奉公を要求し厳しい姿勢で臨んでいる。(同氏)『江戸時代の天皇』

 

☆対幕府は

江戸幕府の成立 | 世界の歴史まっぷ家康が創設した江戸幕府 どうする?

 一方、幕府に対しても強く対応している。寛政の改革の中、朝廷にも倹約を求めて来た時に、「天皇が不自由」にならないよう周辺は天皇には直接伝えなかったようだが、寛政2年の『実種公記』には、「この節御省略の儀仰せ出されるのあいだ」と、書かれているので天皇も気づいていたことと思うが、翌年、倹約の結果剰余が出た事から、幕府から褒美(給物)を配ると言って来た。関白からその報告を聞いた光格天皇は、幕府の命令で倹約をしたわけでない、天皇自身の考えで倹約したのだから、幕府からの「会釈(挨拶)」はあり得ない認められないとした。結局は所司代の「一命にも関わる事(切腹)」として許している。しかし、それ以降所司代は、「このような時は事前に相談してから行う。」と武家伝奏に約束している。

 また天皇は、武家伝奏が、いつも所司代宅に赴き所司代が伝奏屋敷に来ないのはおかしい、所司代にも武家伝奏屋敷に来るようにと、対等の関係を求めた。まことに意気軒高たる二十歳ちょっとの天皇と述べている。しかしその為、幕府がその後の諸事件で警戒の眼で朝廷を見るようになった原因でもあった。

 

☆光格天皇の君主意識

第119代「光格天皇」|20人の天皇で読み解く日本史 | Discover ...

 光格天皇は、自らを「宗室の末葉、しかして不測の天運、辱く至尊の宝位に登る。」『宸翰英華』と、傍流意識を強く持っていた。その為、世間では「一段軽きように存じ奉る族(やから)もこれありけれ」『小夜聞書』とも言われ、傍流が故の辛く口惜しい気持ちはあったものと推察する。その為、藤田氏は、「自己の権威の強化を図ったのだ。」とか、さらに「傍流意識がむしろばねになったことはあり得る。」とした。

 また、後桜町上皇からの訓育を与えた書状に対し素直に応じ、「仰せのとおり、身の欲なく、天下万民をのみ慈悲仁恵に存じ(中略)何分自身を後にし、天下万民を先とし」(『宸翰英華』より藤田氏が要約引用)という強い君主意識を持っていた。さらに、寛政12年には、「上は神明宗廟和光同塵の恩覆により、下は執権幕府、文武両道の補佐をもって、在位安穏すでに20年有余に及ぶ。」『宸翰英華』と強い皇統意識を表明している。一方で、「脱衣の善政」という表現を引用し、このような意識は、歴代天皇の伝統的な共通のものとも述べている。

 しかし、歴代天皇の宸筆署名を詳しく調べた上に、光格天皇は、「天子」でも「大王」でもなく「大日本国天皇」と署名したものがあることに注目し、光格天皇の皇統意識はとりわけ強かったと結論付けている。

 

☆和歌からの考察

御桜町天皇と光格天皇 : あるちゅはいま日記

 一方、盛田帝子氏は、『近世雅文壇の研究』―光格天皇と賀茂季鷹を中心にー(汲古書院2013年)などで、和歌やその活動を通じて光格天皇に迫っている。「第3章光格天皇とその時代」には、まず後桜町上皇の以下の和歌を紹介している。

をろかなる われをたすけの まつりごと なをもかはらず たのむとをしれ

これは、光格天皇が践祚したタイミングで近衛内前へ下賜された和歌だが、彼は桃園天皇時代から長く摂政・関白として朝廷を支えて来た人である。まだ、引き続き皇統の安定に不安のある中で、内前に変わらず支えるように一首したためたのであった。(52頁)さらに、光格天皇即位後の、「御代始」に先立ち以下の和歌では、

民やすき この日の本の 国のかぜ なをただしかれ 御代の初春

と、詠んで祈りにも似た上皇の思いが読み取れるとした。

このように上皇の深い光格天皇への思いを紹介した上で、光格天皇自身の文壇活動や御所伝授を通じて、天皇が宮廷歌壇の中心人物として、伝統を守り、歌会制度を強化した事を詳しく書き、譲位直前の和歌では、

ゆたかなる 世の春しめて 三十あまり 九重の花を あかず見し哉

と、あたかも長い天皇在位中の功績を自ら称えたような和歌を残していることに注目した。

 また、「おわりに」では、閑院宮美仁(はるひと)親王との関係に触れていて、光格天皇が天皇の実子でなかった為、実兄(14歳上)である親王は、光格天皇が歌人として自立するまで補佐的役割を果たしたことを、文献をもとに解き明かしている。

 このように歌道においても後桜町上皇の訓育が大きかったことと、実兄の美仁親王や実父の典仁親王の存在が大きい事が分かった。また、和歌を通じて君主意識を育んだことも想像に難くない。(筆者感想)

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942回 あちゃこの京都日誌  光格天皇研究 ⑧

2023-01-12 08:57:42 | 日記

第7章 続き ☆ 幕府と朝廷の茶番

光格上皇の後、仁孝天皇へ

 その後の朝幕関係を象徴するエピソードとして面白い論文がある。これも藤田氏の著書『泰平のしくみ』(岩波書店 2012年)から紹介しておく。光格天皇譲位後、文政10年(1827年)天皇は仁孝天皇だが、将軍家斉が太政大臣に昇進している。その時の仁孝天皇の「御内慮書」が残っている。それには、「徳川家斉の文武両面にわたる功労はぼう大である。」とし、将軍在位40年に及ぶあいだ、「天下泰平を維持し、将軍の徳はくまなく行き渡っている。」と称え、その功績を理由に、武官の長としては大将軍に任じられ、さらに「文官の長である太政大臣に任じたい。」とした趣旨を書いている。歴史上はじめて幕府将軍職と太政大臣をともに生前に給わるという栄誉である。そして、これを見れば、誰が読んでも朝廷が幕府に申し入れ、それを受け入れた結果としか思えない。しかし、事実ではなかったことを、藤田氏は解明した。

徳川家斉の性格、特徴、趣味、嗜好や女性関係などの雑学的 ...55人の子をもうけた大将軍?家斉

 事実は、将軍家斉が天皇・上皇に「おねだり」したもので、しかもあくまでも朝廷が決めたことにして欲しいというのであった。さらに、一度は、「御辞退これあるべし、再応のうえ御請け」と、ご丁寧に一度は「断る振り」をすることまで打ち合わせしている。家斉が、「随分と遠慮がちな、謙虚の美徳を備えた人物」と見えるようにしたのである。これを藤田氏は、「茶番」とした。

 重要なのは、この結果、朝廷が幕府に恩を売ったことになり、その後幕府から経済的援助や新たな朝議の再興を引きだすことに成功し実を得ていることである。

このように光格上皇から仁孝天皇の時代には、すでに幕府と対等かむしろ有利な駆け引きを行っている。「御所千度参り」の時に、恐る恐る幕府の機嫌を気にしながら交渉した時とは、大きく朝幕関係は変化している。氏はこの事で、幕末の朝幕関係に至る画期としている。

☆ 上皇の禁裏行幸回数から検討

 

 因みに、各上皇の禁裏行幸の回数を調べて見た。「東大史料編纂所蔵の近世編年データベース 」から、江戸時代に上皇となった4名の後水尾上皇、霊元上皇、後桜町上皇、光格上皇、をキーワード検索した。

  •  禁裏御幸あらせられる。と、明確に御所に行った回数をA
  •  その様に推察できる記載 の         回数をB 

として目検で追って集計した。従って正確性については自信はないが、上皇の譲位後の若い天皇への思い入れを推し量って見た。

光格

1年目

文化15

2年目

文政2

3年目

文政3

26

21

20

13

13

18

39

34

38

光格上皇が仁孝天皇への行幸回数

後桜町

1年目

天明2

2年目

天明3

3年目

天明4

16

11

11

19

12

12

後桜町上皇の光格天皇への行幸回数

 その結果は明らかで、後桜町上皇の後桃園・光格天皇への回数と、光格上皇の仁孝天皇への回数は突出している。後水尾上皇と霊元上皇については、自身の健康状態が必ずしも良くなく、後水尾上皇はその事(腫物)が譲位の理由となっているので、単純に論じるレベルのものではないが、一般庶民が、我が子の家に訪問するのとは違って、儀礼に沿った行列で動く身分と考えれば、印象的としてもお二人の回数は、健康が良好であるだけではなく「皇室(皇統)の継続」「皇室権威の向上」への思い入れが感じられる。

孝明天皇の賀茂社行幸とその絵巻 | 日本服飾史孝明天皇の行幸の様子

 このように見ると、災害や改革失敗による幕府の権威失墜(いわば敵失)や、尊王思想の高まりという時代の変遷が背景にはあったが、やはり天皇・上皇ご自身の強い御意思、ご努力を見逃してはならないと痛感した。血統だけではなくそのような君主意識も合わせて光格天皇を起点に今日に継がれたのだと考える。(筆者感想)

 

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941回 あちゃこの京都日誌  光格天皇研究 ⑦

2023-01-09 10:24:16 | 日記

第7章 研究の総括

 ここまで光格天皇の前半について論じて来た。ここで箸休めの話を書きたい。光格という諡号についてだ。尊号・追号とも言うが、格調の高い良い名ではないか。因みに、諡号に「光」がつく天皇には共通点がある。光仁天皇・光孝天皇などが分かりやすいが、奈良時代末期の光仁天皇は桓武天皇の父で、弓削道鏡事件で有名な称徳天皇(女帝)の後を継いだ天皇だ。天武天皇系から天智天皇系に皇統が変わる一大変化の節目をつないだ天皇だ。また平安中期の光孝天皇も陽成天皇の突然の退位を受けて3代さかのぼりすでに55歳の高齢で急遽即位した天皇だ。いずれもその後は両天皇の皇統で安定する。つまり新しい皇統につないだ天皇、言い換えれば皇統の断絶を救った天皇なのだ。中国にも「光」のつく皇帝には同様の意味合いがあったようで、媒質を必要とせず、真空でもまっすぐ伝わる「光」は「永遠に伝える、またつなげるもの」としての深い意味があったようだ。

刀剣ワールド】光格天皇

従って、後桃園天皇崩御後の皇統の危機を救う光格天皇に崩御後贈る「名」には「光」の文字を入れるのはそのような深い思いがあったと思う。(当然、崩御後贈られる諡号だが生存時から用意されることもある。)しかし、この天皇の素晴らしいのは、単に繋ぎに留まらず皇室の復古及び一大改革を成し遂げたとんでもないお方なのだ。

  • 前期光格天皇の姿 

 刀剣ワールド】光格天皇

 ここまで光格天皇の前半期における3大重要事件を詳しく見て来た。そこからは、傍系から幼少にして即位した天皇が、3事件を通じて成長する姿が見えて来た。

「御所千度参り」では、光格天皇の叡慮を受けた公家衆の幕府への遠慮がちな動きが分かった。一方、天皇よりもむしろ後桜町上皇や関白鷹司輔平が主体的に動いたこと、また、御所に住まう公家衆が積極的に民衆への施しを行うなど、皇室と民衆の身近さも理解できた。このあたりは、森田登代子氏『遊楽としての近世天皇即位式』(ミネルヴァ書房 2015年)に詳しい。

また、「御所造営問題」では、光格天皇が君主意識を強く持とうとし、自らの意志(叡慮)を強く表明し始めた。まさに、青年天皇のデビューとも言える姿がうかがえた。加えて、その実現の為に忠実に幕府と交渉を仕掛ける鷹司輔平の姿もあった。そして「尊号一件」では、若くして御親政を行い完全に自立しようとする光格天皇の強い意思と姿がうかがえた。さらに、ここまで忠実に接し頼りにもして来た鷹司輔平との決別を決断し、幕府に対等な姿勢で要求を通そうとする堂々とした天皇の実態が分かった。そこには、この時まで共に和歌や古典を学習し、その勉強会を通じて形成された若い公家衆の意見が背景にあったと思われる。ただ、最終的には後桜町上皇の「御諫め」には抗えず、天皇デビュー以降最初の敗北、挫折を知る。

その後は、和歌研鑽を通じて文化的な復古活動に専念して行くことになったと思料する。その中期以降の光格天皇研究については今後の課題としたい。

 

  • 光格天皇とその時代

江戸幕府が「禁中並公家諸法度」を制定する(新暦9月9日 ...」禁中並び公家諸法度」第1条

序章で、筆者は、「禁中並公家諸法度」で完全に統制化された朝廷が、突然幕末に、日米修好条約の「勅許問題」とか、幕府滅亡につながる「大政奉還」となり、突然朝廷が政治の表舞台に登場することに興味をもっていたことが研究のきっかけと書いた。江戸幕府発足時の後水尾天皇から、幕末動乱時の孝明天皇はそれぞれ理解できるが、その間の朝幕関係が、長く疑問であった。「大政奉還」というが、「奉還」すべき「大政」はいつ幕府に委ねられたのか。幕府の発足をもって「大政が委任」されたのならば、あたかも朝廷を支配するような「禁中並公家諸法度」の必要性がないではないか。

 それについては、家近良樹氏の『幕末の朝廷』(中公業書 2007年)で、孝明天皇について論じる際に、「江戸時代中期には、とうてい考えられない高度な権威を、天皇・朝廷はいついかにして身に着けたのか、」を近世史の立場から解明したのが藤田氏であると言い、多くの著作の中で、「天皇・朝廷勢力の主体的で、執拗な戦い」が、「孝明天皇の精神的バックボーンになった。」という藤田氏の研究を紹介している。(第1章 29頁)

 南北朝時代までは、朝廷の権威の裏付けを奪いあった時代であった。しかし、応仁の乱から戦国時代は、天皇・朝廷の権威低下と、何より財政的な困難から朝廷儀式もままならない時代を経て、皇室を崇拝しその権威を利用し覇権を争う時代が来る。織田信長が時代を切り開き、豊臣秀吉が朝廷のトップである太政大臣になり朝廷の財政は一時的に繁栄するが、徳川家康が幕府を開くと、「禁中並公家諸法度」で、幕府の支配下に朝廷を置いた。そこから幕末の尊王・倒幕運動へと時代変遷が、「光格天皇とその時代」を見て行くことで、その転換期である事がよく分かった。(筆者感想)

 「御所千度参り」では、天皇が事態を憂慮して関白鷹司輔平をして、窮民救済策を幕府に講じるように命令したという「偽勅」が出回るほど、すでに時代は民衆(少なくとも京都では)が天皇(朝廷)に具体的施策への期待をしていたことが分かった。

徳川家斉が俗物将軍と言われた本当の理由~子供の数は53人  江戸幕府11代将軍 家斉

また、天明7年「大嘗祭」の時に、将軍家斉へ光格天皇が贈った和歌では、

民草に露の情けをかけよかし 代々の守りの国の司は

と、若い17歳の天皇が、同じく若い15歳の将軍に対して和歌に託して「仁政」の実行を求めている。このような君主意識はどのように育んだのかを考えてみた。それについては、橋本富太郎氏が、「後桜町上皇から光格天皇への御訓育」(『京都産大日本文化研究所報』24号7P2018年)の中で、光格天皇が傍系からの皇位継承であった為、殊更に理念的な天皇像を追求したとする説に対し、こうした理念性は歴代に普遍的に存在するもので、光格天皇のような境遇にのみ出現するものではないとした。しかし一方で、同氏は、光格天皇の場合、後桜町上皇という優れた指導者をもっていたことが重要であるともしている。このあたりは、今後の研究課題としたい。

つまりは、飢饉にも見舞われた江戸時代後期の背景(天変地異と各改革の失敗による幕府権威の失墜)など様々な要因と、光格・後桜町両天皇の修養と訓育の良好な関係、さらには実父典仁親王や叔父鷹司輔平などとの関りの中で光格天皇の君徳が涵養されたと考える。(筆者感想)

 

 

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