昭和44年9月 私は転校先の新しい小学校へ登校しました。校舎は1棟 体育館もなければプールもありません。担任はTという男の先生と一緒に教室へ向かいました。まだ新しい小学校のせいか廊下・壁すべてが綺麗です。教室に入ると・・なんと生徒が20名足らずで4年生は1クラス、ちなみに5年・6年は一緒の教室で10名前後(+o+)転校前の学校では4年生が6クラスで1クラス45名前後いたので、あまりの少なさに驚きました。でも、この少なさが意外と学校生活の刺激にもなっていったのです。授業の合間の休憩時間、クラスの子たちとも、すぐなじんだのは全員転校性のようで、おかげで転校性だからと【イジメ】にもあわず、お互いに『前は、どんな学校?』『どこに住んでたん?』と聞きあってましたね。運動場も広く運動場から見える景色がよかった。高台にあった団地なので坂道は辛いですが、とにかく和香で田舎でした。母は買い物が不便らしく『バスに乗って駅まで行かへんと・・』といつもボヤいてましたが、このころから東京出身の母も関西弁??ちょっと変な発音でしたが話せるようになり始めました。少数の生徒のため朝礼も・・(え?こんだけ?)運動会も・・盛り上がりは小さいですが、でも高学年も低学年も、わきあいあいで行ってました。転校して少したった、ある日・・高学年の担任の先生(男)は、いつもジャージを着ていたのですが・・『スポーツクラブ、作るから、みんな入れへんか?朝、体操したり時には野球もええやん?縄跳びでもマラソンでもええ・・来週からするし来れる人は朝7:00集合や!』こんな呼びかけがあったので私のクラスの男子、それと高学年の生徒は参加したのです。でも朝7:00は正直、しんどかったのが本音でした。でも参加して思ったのは意外と気持ちいいなぁ~って。それと参加メンバー全員が仲良くなれたことでした。大きな小学校では味わえない雰囲気は私にとって新鮮でした。朝早く野球とかドッジボール・・時には腕立て伏せとか腹筋運動ばかりの柔軟体操・・これはきつかった。でも汗を流して、そのまま教室に行くのも悪くありません。たった1棟の校舎なのに空いてる教室がいくつかあって、空いてる教室を図書室・理科室・家庭科室にしていました。(以前の学校ではすべて専用教室があったのですが)平成の今、少子高齢化で学校教室の空室も目立ったり学校の統廃合があったりですが・・当時は、どんどん住宅や団地が建設され、私が転校してから数日おきに転校性がやってきたのです。
引っ越しも終わって夏休みを新居で過ごした私達家族。部屋は三階で風通しも陽当たりも最高でした。でも大阪とは思えない田舎(^^;;セミの声も半端ではありません。まだ友達の居ない私は1人で近くの山に虫取り網と籠を持って行くと様々なセミの声が聞こえてくるのです。アブラゼミ、クマゼミ、ツクツクボウシにミンミンセミ、大阪市内ではミンミン蝉はなかなか見ることができませんでしたので子供心にワクワク。驚いたのはクワガタ虫が木に居たことですね。こクワガタは勿論、ノコギリクワガタがいたのは感激でした。早速、クワガタを捕獲(^^)して虫カゴに入れた時は感無量(^^)なにせクワガタは百貨店で売っているものとしか認識がなかったものですから(^^)でも、蚊にたくさん、刺されるのが、たまらないのです。普通の蚊は当然ですけど黒くて足に白い筋のある蚊に刺されると、特に痒いのなんの。当時は虫除けスプレーみたいなのは無いですから、刺され放題(^^;;でもクワガタやセミのために手で痒いのを引っかきながらの闘いです。市内と違い不便さもありましたが男の子にとっては楽しいところでもあります。昆虫だけでなく蛇やトカゲ、カエルも勿論、いました。住んでいた団地の近くに池と竹藪があったせいか、とにかく蚊が凄いんです。勿論、網戸もしてましたが当時の網戸は木の枠で、出来ていて隙間がるあったのでしょうね。夜は家の明かりをめがけてたくさんの蚊が家の天井に所狭しといるので母が殺虫剤を天井に吹きかけるとパラパラと蚊が落ちるんです。市内に住んでいたときも勿論、蚊はいましたが、とにかく半端なく、家に入れない蚊が網戸の網目にたくさんの蚊が張り付くようにいるんですよ。もうビックリ(O_O)中にはアカイエ蚊と言って3センチくらいの大きな蚊も(O_O)そんな蚊、生まれて初めて、その時に見たものですから刺されたら大きな病気になる恐怖みたいなものを感じました。引っ越してきて、あと驚いたのは凄い人数の御用聞きが家に来たことですね。新聞屋は勿論、酒屋に米屋。お互いに競争で母に『奥さん!ウチでしてくれたら◯◯サービスするから!』母はニコニコしながら上手にじらさながら新聞は読売。米屋はT米穀店、酒屋はS.牛乳はM。父は、とにかくビールが好きで酒屋さんは、かなり儲けたと思います。なので、オマケにくれるグラスや栓抜きなど、やたらありました。引っ越した初めての夏休み。一応、宿題は以前の小学校でもらった『夏の友』とプリント問題に工作をしました。夏の友と言うのは1冊の問題集みたいなもので算数、国語など主要教科が、この1冊に収まっている当時の代表的な夏休み用宿題雑誌です。そして、いよいよ新学期になる頃、私は新しい学校にワクワク感とドキドキ感が入り混じりながら登校したのでした。
引っ越しが決まり家族4人、部屋の下見と掃除に行きました。京阪電車に乗り香里園という駅から更にバスで10分、バス停から徒歩15分ですが現地までの坂道がキツく母も私もクタクタでした。バスに女性の車掌さんが首からバックをぶら下げ停留所ごとにマイクで『次は◯◯~』とアナウンスするのです。大阪市バスでは既にワンマンだったので新鮮でした。7月頃でしたが当時の路線バスにはエアコンほもちろん、扇風機もなく窓を開けて自然の風を車内に運ぶしかありませんので信号待ちになると暑い暑い(^^;;漸く最寄りのバス停に着くと父か『これから、この坂道を上がるんや。昔は山やったらしいけど、ほら家とか団地があるやろ?まだまだ団地も家も増えるらしいで』私達家族が入居する団地は住宅供給公社の団地で新築でした。建物の中に入ると新築特有の匂いがして周囲はと言うと、のどかな風景で竹藪や池、向かいは原っぱで空気も田舎と同じくらい綺麗なとこでした。当時の寝屋川市って田舎で小学校の運動場から万博公園のエキスボタワーが見えましたから(^^;;部屋に入ると部屋か3つ。『ここの四畳半の部屋は、お前の勉強部屋や!』父が笑顔を見せながら言いました。四畳半と言えば私か幼いころ家族で暮らした広さが今度は自分だけの部屋になったのです。弟は未だ小さく私だけの部屋となりました。嬉しかったなぁ。掃除も積極的にやりました(^^;;
当時の大人気は野球と言えば巨人(ジャイアンツ)相撲は横綱・大鵬関、お弁当には卵焼きが子供に大人気。さらに人気なのは【プロレス】なんです。テレビでは19時・20時のゴールデンタイムにプロレス中継があってクラスの男子はよく観ていました。学校に行くとプロレス技のかけあいっこ。ザ・デストロイヤーの得意技【四の字固め】アントニオ猪木の【コブラツイスト】ジャイアント馬場の【空手チョップに16文キック】よく真似しては学校の休息時間で遊んでました。四の字固めはかけられると結構、痛いんです(+o+)外人レスラーは悪役が多くってブッチャーやボボ・ブラジル、超おデブのカルフォーン・・吸血ブラッシー・・カッコいい覆面レスラーのミルマスカラス・・悪役が多い外人レスラーの中、一人、正統派レスラーで人気者がいました。ビル・ロビンソン!得意技は【人間風車】好きでしたねぇ・・プロレスはショーでもあるのですが悪役レスラーが反則するんですね。パンツの中に栓抜きを隠していてレフリーの目を盗んでスリパーフォールドという技をしながら日本人レスラーの顔面(オデコ周辺)を栓抜きで殴るんです。流血したり・・そしてリングから引きずりおろして観客の椅子・ゴングを凶器にしリングの外で乱闘・・面白かったですよ。街頭テレビ(私は当時は生まれていません。)の力道山がプロレス人気の始まりですが男の子にとってプロレスは人気スポーツ番組でした。野球は今でこそ各チームに熱烈なファンがあって地元意識が根強く福岡はソフトバンク、札幌では日本ハムファイターズ仙台は楽天・・でも昭和40年代と言えば日本全国巨人一色みたいで大阪で住んでいた私達の地元でもタイガースでなくジャイアンツファンが殆ど。野球帽のマークもジャイアンツ・・今では阪神タイガースグッズも多く売られ甲子園での試合はタイガース一色。梅田の阪神電車の入口付近では六甲おろしの大合唱・・昭和40年代では考えられません。まぁジャイアンツは確かに強く9年連続優勝してましたし・・私と父は、ひっそり隠れ阪神ファンでした。アニメも巨人が主役。代表的なのは川崎のぼる・梶原一騎コンビの作品【巨人の星】です。主人公の星 飛雄馬にライバルは阪神の花形 満、大洋(現在のDeNA)の左門豊作・・大リーグボールという魔球を星投手があみだすんです。その大リーグボールの2号は?なんとボールがベースの上で消えるんです。サプライズ!!大リーグボール1号、そして消える魔球の2号ともに阪神の花形が打つのです(*^_^*)阪神ファンの私にとっては嬉しかったシーンでした。当時のアニメ巨人の星から始まって、いわゆる【スポコンブーム】の幕開けとなりました。プロレスの代表は勿論、タイガーマスク。ボクシングは、あしたのジョー・・テニスはコートにかける青春、バレーボールはアタックNo1・・相撲はなぜか・・ありません。そんな高度経済成長の波とともに頑張る日本人が子供向けアニメにも影響していたのでしょうね。そんな状態で我が家にも貧乏から中流意識が芽生え始め、私が小学校4年生の初夏のころ・・父が突然、『引っ越しや!!今度は広いぞ3DKの団地や!!』そう笑顔で母と私に言ったのです。『8月に引っ越す!今度は新築の団地や!空き家ちゃうで!ちょっと田舎やけど風呂のある!!』私は驚きました。『おとうちゃん!!お風呂もあるん?ホンマ??』耳を疑った私は父に確認すると『そや!ホンマやで!引っ越して落ち着いたら電話も申し込むつもりや!!』引っ越し先は大阪府寝屋川市とのこと。私は慣れ親しんだ小学校を転校し大阪市内から大阪府寝屋川市へ・・『来週、その団地、家族で見にいくで・・ほんで軽く、掃除くらいしよ。ホレ!1』父は、おもむろに新居の鍵を見せたのです。
私は本当に勉強を、しない子でした(^^;;学校から帰ると玄関先からランドセルを投げて、すぐ遊びに出掛け宿題も忘れては翌日、先生から叱られ廊下に立たされる常連さんでした。そんな私を心配してか母は学習塾へと通わせたのです。ビンボーだったのに(・・;)今、思うと感謝です。歩いて15分くらいの小さな塾は、どこかの集会所を借りて経営してたようです。毎週2日
夕方4時頃から開始で当時は子供も多く塾は活況でしたね。低学年コースで基本は教科書の予習と復習がメイン(^^)学校の宿題はクラスによって違いがあるので、やはり塾では行なわず自宅でするよう塾の先生から言われ、こんな私が学校、塾と終えて自宅で宿題するわけはありません。そんな塾の日常で学校でも同じクラスの女の子と仲良くなりました。秋も深まり塾が終わると外は暗くなる季節です。ある日、塾が終わって帰ろうとするわたしに『Y君!一緒に帰ってくれへん?外、暗いし、ウチ、怖いねん。』私も、その子のこと、少し意識してたんでしょうね。いきなりでしたが『かまへんで(^^)』と答え、二人で塾をあとにしたのです。帰り道にクラスの担任の先生のこと。学校のことを話しながら帰る途中で『ウチ、こっちやねん。お父さん、お店してるし』当時は魚屋さんとか食堂、乾物屋さんとか小さな、お店が固まって商売している小規模市場もあり、その子の家も小さなお店をしているとのことでした。『Y君、男のコやろ?ウチの家の近くまで送ってくれへん?』もしかしたら私は、その子のことが好きなのかも?そう心で呟きながら『かまへんで(^^)』と了解してお店の明かりが見える方向へと歩いたのです。小規模市場はまだ買い物客で賑わっていました。すると(O_O)女の子が急に私の手を取り路地に入ると、『ウチ・・・Y君のこと好きや(#^.^#)Y君は?』突然の告白に驚いた私は、ただ呆然としてると『ウチのこと、嫌い?』呆然としながらも私も、まんざらでもなかったので黙って首を横に振ると『ほんま?ほな好きなん?』初めて、女の子から好きだと言われ。それも、まんざらでもなかった子からの告白は子供ながらに緊張感一杯でした。ウブだったんですね(^^)好きかと聞かれ即答は、おろか俺も好きや!とは、なかなか言えず、困っている私に『じゃあ、ここに書いて!好きか、嫌いか』当時の路面は今のようにアスファルトは少なく土の地面が普通なので、女の子は、そこいらを見つめ落ちてるアイスクリームの棒を持ってきて私に渡すのです。とにかく自分の方から好きだと意思を伝えることに恥ずかしく、なかなか書かないでいると女の子はヤキモキしばじめて『ウチは気持ちを言ったやん、女の子からやん(・・;)Y君は?ウチのこと好きなんやったら【す】嫌いやったら【き】だけでいいから』私は小さな声で『す』と言うと『ありがと(^^)今日、送ってくれて、ウチ、嬉しい』そんな、やりとりの、あと2人は別れて帰り、そして翌日、いつものように学校に行きました。彼女は友達と談笑していたのですが教室に入った私に気づきお互いの目があった瞬間、彼女は顔をプイッとして、そのまま友達と談笑し盛り上がっているのです。私は訳も分からず、以来、彼女は私に口をきいてくれなくなりました。今に思うと煮え切らない私に対して好きから嫌いに変わってしまったんだろうなと思うのです。でも良い想い出です。そんなら彼女も今では50歳半ばのおばさんですが、幸せに、暮らしていることを静かに祈っています。淡い純粋な想い出をくれた彼女に今でも、ありがとうと。
夕方4時頃から開始で当時は子供も多く塾は活況でしたね。低学年コースで基本は教科書の予習と復習がメイン(^^)学校の宿題はクラスによって違いがあるので、やはり塾では行なわず自宅でするよう塾の先生から言われ、こんな私が学校、塾と終えて自宅で宿題するわけはありません。そんな塾の日常で学校でも同じクラスの女の子と仲良くなりました。秋も深まり塾が終わると外は暗くなる季節です。ある日、塾が終わって帰ろうとするわたしに『Y君!一緒に帰ってくれへん?外、暗いし、ウチ、怖いねん。』私も、その子のこと、少し意識してたんでしょうね。いきなりでしたが『かまへんで(^^)』と答え、二人で塾をあとにしたのです。帰り道にクラスの担任の先生のこと。学校のことを話しながら帰る途中で『ウチ、こっちやねん。お父さん、お店してるし』当時は魚屋さんとか食堂、乾物屋さんとか小さな、お店が固まって商売している小規模市場もあり、その子の家も小さなお店をしているとのことでした。『Y君、男のコやろ?ウチの家の近くまで送ってくれへん?』もしかしたら私は、その子のことが好きなのかも?そう心で呟きながら『かまへんで(^^)』と了解してお店の明かりが見える方向へと歩いたのです。小規模市場はまだ買い物客で賑わっていました。すると(O_O)女の子が急に私の手を取り路地に入ると、『ウチ・・・Y君のこと好きや(#^.^#)Y君は?』突然の告白に驚いた私は、ただ呆然としてると『ウチのこと、嫌い?』呆然としながらも私も、まんざらでもなかったので黙って首を横に振ると『ほんま?ほな好きなん?』初めて、女の子から好きだと言われ。それも、まんざらでもなかった子からの告白は子供ながらに緊張感一杯でした。ウブだったんですね(^^)好きかと聞かれ即答は、おろか俺も好きや!とは、なかなか言えず、困っている私に『じゃあ、ここに書いて!好きか、嫌いか』当時の路面は今のようにアスファルトは少なく土の地面が普通なので、女の子は、そこいらを見つめ落ちてるアイスクリームの棒を持ってきて私に渡すのです。とにかく自分の方から好きだと意思を伝えることに恥ずかしく、なかなか書かないでいると女の子はヤキモキしばじめて『ウチは気持ちを言ったやん、女の子からやん(・・;)Y君は?ウチのこと好きなんやったら【す】嫌いやったら【き】だけでいいから』私は小さな声で『す』と言うと『ありがと(^^)今日、送ってくれて、ウチ、嬉しい』そんな、やりとりの、あと2人は別れて帰り、そして翌日、いつものように学校に行きました。彼女は友達と談笑していたのですが教室に入った私に気づきお互いの目があった瞬間、彼女は顔をプイッとして、そのまま友達と談笑し盛り上がっているのです。私は訳も分からず、以来、彼女は私に口をきいてくれなくなりました。今に思うと煮え切らない私に対して好きから嫌いに変わってしまったんだろうなと思うのです。でも良い想い出です。そんなら彼女も今では50歳半ばのおばさんですが、幸せに、暮らしていることを静かに祈っています。淡い純粋な想い出をくれた彼女に今でも、ありがとうと。