「ダニエルよ。あなたは終わりの時まで、このことばを秘めておき、この書を封じておけ。多くの者は知識を増そうと捜し回る。」(ダニエル12:4新改訳)
ダニエル書には七〇週の預言など、解明しきれないものが少なくない。理由は本書が神の権威によって封じられているからである。▼多くの人々が興味をもっていろいろな解釈をしているが、無理にそうする必要はない。この書にある預言が完全に解けるのは、反キリストが出現する大患難期であり、そのときの信仰者たちが守られ、救われるためである。だから私たちにすべてが明らかでないのは、まだ終わりになっていない「恵みのとき」にいるからで、それだけ幸福だともいえる。▼反対に、黙示録には、「この書の預言のことばを封じてはいけない」(黙示録22:10同)と記されている。私たちは黙示録に記されたことが読んでわかる時代、再臨直前の時代に生きているということは確かで、それだけにキリストのはなよめとして備える責任がある。いずれにせよ、すさまじい終末が切迫している。目をしっかりさましていよう。◆「多くの者は知識を増そうと捜し回る」と御使いは言ったが、21世紀の今ほど、このみことばが当てはまる時代はないであろう。コンピュータ、人工知能の発達により、今まで人類が蓄えて来た知識、情報の総量をはるかに超える知識が、加速度的に加わろうとしている。その結果、便利になったかもしれないが、人間が最終的に得たのは何かといえば、皮肉にも「混乱と疲労」ではないか。◆いみじくもソロモンは述べた、三千年も前に・・・。「実に、知恵が多くなれば悩みも多くなり、知識が増す者には苛立ち(いらだち・ストレスであろう)も増す」(伝道1:18同)。そして彼は言う、「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである」(伝道12:13同)と。◆三千年も前に結論が出ているのだから、それに従う生き方のほうが賢いに決まっている。
「彼は先祖の神々を心にかけず、女たちの慕うものも、どんな神々も心にかけない。すべてにまさって自分を大いなるものとするからだ。」(ダニエル11:37新改訳)
ここはシリヤ王、アンティオカス・エピファネスについての詳細な記述である。彼は異常なほど自己賞揚の精神に満ち、すべての神よりも偉大であると宣言、その象徴であるゼウス神(ギリシャ神話の最高神)をエルサレムの宮に建て、礼拝を強要した。明らかに反キリストの予型である。▼「この王は、思いのままにふるまい、すべての神よりも自分を高め、大いなるものとし、神の神に向かってあきれ果てるようなことを語り」(36)とあるが、黙示録13章に出て来る獣の姿に酷似していることに驚かされる。だが幸いにもアンティオカスの暴政が短かったように、反キリストのそれも数年しか続かないであろう。そのあとには輝かしいイエス・キリストの地上再臨が続く。苦難の中でも、人々はダニエル書を読み、希望と忍耐をもって主のおいでを待ち望むにちがいない。◆エピファネスはゼウス神をエルサレム神殿に据え、礼拝を強要したが、パウロは「不法の者は、すべて神と呼ばれるもの、礼拝されるものに対抗して自分を高く上げ、ついには自分こそ神であると宣言して、神の宮に座ることになります」(Ⅱテサロニケ2:4同)と記し、反キリスト自身がエルサレム神殿内に座ることを預言している。このようなことをした歴史上の人物はなく、後にも先にも彼が初めてである。これはまさに、悪魔自身が神の座に座ったこととおなじで、彼が最初に罪を犯したときから望んできたことであり、それが患難期に実現するのである。その恐怖は私たちの想像を絶するものとなるであろう。◆かつてAD1~3世紀、ローマ皇帝は全国に皇帝礼拝を強要したが、それは「まず皇帝を神としてあがめ、香をささげよ。そのあとであれば、自分の信じる神を拝んでも良い」というものであった。しかし反キリストは「我を唯一の神として礼拝せよ、他の神々への礼拝行為は一切認めない」というものであろう。それを全世界の人々に徹底したかたちで強制するものと思われる。患難期、特にその後半が歴史上かつてなかった残虐性をともなうのは、まさにその点なのである。◆世界中の人間は一人一人が完全に把握され、逃れる場所はなくなる。そして彼への礼拝を拒む者は抹殺される。あるいは生きる権利をすべて剥奪される。主が「ユダヤにいる人たちは山へ逃げなさい。屋上にいる人は、家から何かを持ち出そうと、下に降りたり、中に入ったりしてはいけません」(マルコ13:14,15同)と言われたことは、なんと適確なおことばであったか、その日にわかるであろう。古今未曾有の大迫害が世界規模で始まることを、私たちは今から知っているべきである。そして主は結ばれる。「あなたがたは、気をつけていなさい。わたしは、すべてを前もって話しました。」(マルコ13:23同)
「私は彼の語る声を聞いた。彼の語る声を聞きながら、顔を伏せて地に倒れ、深い眠りに陥った。」(ダニエル10:9新改訳)
ダニエルは三週間の聖別と祈りをした後、幻の中で栄光の主にお会いしたが、気絶し、ほとんど死にそうになった。ここからわかるのは、御子がナザレのイエスとして地上に現れたのは、人間に対する大きな愛とあわれみによる、ということだ。もし主がダニエルに臨んだように、直接この世界に来られたとしたら、その御姿に接しただけで、すべての人は即死していたであろう。神が聖であるとはそういうことなのだ。▼それなのに、人々はナザレのイエスと会話を交わし、そのお体に触れることができた。そればかりか、「わたしを見た者は、父を見たのです」(ヨハネ14:9同)と、父なる神にお会いすることもできたのである。▼地上に生きる人間にとり、神が血肉を持つ人になられたことほどすばらしい事実はない。ところが、当時の人々は主を侮り、「ダニエルが見たような神を見せろ」と言った。なんという愚かな求めであろうか。◆さて、ダニエルといっしょにいた人々は、栄光の主は見なかったものの、非常な恐怖におそわれ、身を隠したとある。「この幻は、私ダニエルだけが見て、私と一緒にいた人たちはその幻を見なかった。しかし彼らは大きな恐怖に襲われ、身を隠して逃げ去った。」(ダニエル10:7同)◆キリストが再臨したもうとき、これと似たことが世界規模で起きるであろう。次のように預言されている。「地の王たち、高官たち、千人隊長たち、金持ちたち、力ある者たち、すべての奴隷と自由人が、洞穴と山の岩間に身を隠した。そして、山々や岩に向かって言った。『私たちの上に崩れ落ちて、御座に着いておられる方の御顔と、子羊の御怒りから私たちを隠してくれ。神と小羊の御怒りの、大なる日が来たからだ。だれがそれに耐えられよう。』」(黙示録6:15~17同)◆先日もニュースで、世界の大金持ちたちが、税金を逃れるため、タックスヘイブンといわれる国に預金を移したり、種々の方法で資産を分散していることが報じられていた。税を徴収する者とされる者との知恵比べが世界中でくりひろげられているという。彼らはダニエルのように、輝く栄光の主に(十字架の贖いなしに)お会いしたとき、どうするつもりなのであろう。「終わりの日に財を蓄えた」(ヤコブ5:3)罪の大きさと愚かさを知り、愕然(がくぜん)とするであろうが、そのとはすでに遅いのに。