しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
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聖日の朝に <山に向かって>

2025-01-05 | みことば静想
「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る。」(詩篇121:1新改訳)

私たちの生涯には、時として解決不可能な問題、絶望とも思える困難が立ちはだかる場合がある。そのような時、どうすればよいのだろうか?▼ここで詩人は「山に向かって目をあげよ」と勧める。私の住む所には、すぐそばにI川がゆったり流れ、700m級のM山がある。私は散歩しながら、ときどき立ち止まっては川沿いの道から山を仰ぐと、なぜか心が落ち着くのである。Ⅿ山は富士山やアルプス連山から見れば、じつに小さな山で、山のうちに入らないかもしれない。▼だが、そんな山でも、人間には造れないだろうな、と思う。仮にブルドーザー何千台で土を積み上げても、ものすごい工期と手間がかかるだろうし、千年以上崩れないで形を保つことはおよそ不可能だ。Ⅿ山には無数の木々が生え、四季折々の山姿は見飽きることがない。その上、数知れぬ動物、鳥類、小さな生き物まで生息し、暮らしている。私はそう思いながら山を眺めると、天地を造り、今も保っておられる創造主のはかりしれない偉大さを思わずにいられないのである。▼天の父と呼ばれるこの創造主が、小さな小さな私にもいつくしみのまなざしを注ぎ、日々守っておられる事実は、なんとすばらしい平安であろう。そう考えるだけで、ふしぎにも、目の前の困難がいつのまにか消え去って行く。川沿いの道を歩きながら、私は最初の聖句を知らず知らずにくり返すのである。すると、続いて詩篇のことばが浮かんでくる。「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」(詩篇1:2,3同)▼願わくは、今日一日の歩みに、平安と安心、喜びと確信の実が豊かに結ばれますように。