「サウルはダビデの家に使者たちを遣わし、彼を見張らせ、朝に彼を殺そうとした。ダビデの妻ミカルはダビデに告げた。『今夜、自分のいのちを救わなければ、明日、あなたは殺されてしまいます。』」(Ⅰサムエル19:11新改訳)
ダビデのいのちは薄氷(はくひょう)を踏むかのように、危険と隣り合わせになった。しかし何とふしぎなことか。サウルの息子ヨナタン、娘でダビデの妻となったミカルが彼を間一髪(かんいっぱつ)救い出す働きをしたのである。この時のダビデのつらさ、苦しさは言葉にあらわせないものであった。なにしろ信頼していた王に理由もなく生命をねらわれ、あちらにこちらに逃れなければ助からなかったのだ。このような苦しみがなぜ自分に襲いかかるのか、理解に苦しんだことと思う。▼だがこの苦しみと試練が、後にダビデ王としての寛容(かんよう)と忍耐を陶冶(とうや)することになったのであった。▼人は権力や統治の頂上に立てば立つほど、敵が増え、心は孤独(こどく)の牢獄(ろうごく)につながれる。それを耐え忍べるかどうかは、若いときに患難辛苦(かんなんしんく)をどこまで経験したかによる。▼新約の光から見れば、サウルの心を捕らえていたのは「油注がれた者に対するねたみ」だったことはあきらかである。これは悪魔から出ており、ユダヤ人指導者たちが人の子イエスに対し、持っていた性質と同じであった。ダビデやヨナタンにはわからず、不思議そのものだったが、私たちにはよくわかる。このねたみと言う火炎は悪魔が滅亡するときまで、絶えることはない。今はキリストのはなよめとして選ばれたキリスト者と教会に注がれている憎しみと迫害の炎である。しかしそれによって美しいキリストのはなよめの衣装が織りなされているのだ。神の御知恵の深遠さという御計画である。