「私の最初の弁明の際、だれも私を支持してくれず、みな私を見捨ててしまいました。どうか、その責任を彼らが負わせられることがありませんように。」(Ⅱテモテ4:16新改訳)
最初の弁明とは、たぶんローマで開かれた第一審のことであろう。そこで彼はひじょうに不利な立場に立たされた。いろいろな人々が参考人として意見を求められたが、自分を守ろうとするあまり、パウロを積極的に弁護(べんご)しなかったと想像される。▼主もそうであった。ユダヤ人たちがピラトに手きびしく主イエスを訴えたとき、だれもイエスのそばに立つ人はなく、弟子たち、アリマタヤのヨセフやニコデモたち国会議員まで見捨てたのだった。こうして神の子は十字架につけられ、最後には最愛の天の父にまで捨てられたのである。▼私たちも御国に入りたいと願うなら、孤独を覚悟すべきである。場合によっては父母、妻子、友人知人、もっとも信頼してきた人々に裏切られるかもしれない(ルカ12:52、53)。だがそうされた者たちを待ち受けるのは、天にある栄光の冠とハレルヤの大歓声である。