Guapa

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ハイドリヒ暗殺の英雄たちを偲ぶ国民的記念碑

2017-11-01 23:12:53 | チェコ

何年も温めていたパンフレットの和約に挑戦してみました(英文パンフは先月アップしました)

以下、目次とは順序を入れ替え、事件の経過からアップします。

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聖キリルとメソディウス東方正教会  プラハ

 ハイドリヒ暗殺の英雄たちを偲ぶ国民的記念碑

 

目次

新たな国民的記念碑   4

小さな教会による偉大な行動  6

東方正教 大聖堂の歴史    14

 

小さな教会による偉大な行動

 

1941年9月27日、チェコの国土がファシストドイツに占領されてから2年が経過していた。親衛隊大将で警察庁長官のラインハルト・ハイドリヒはナチスドイツ帝国で最も恐れられた男の一人だった。ハイドリヒはボヘミアとモラビア保護領の護民官に任命された。

 

彼がプラハに来た理由は、ファシストドイツに対する抵抗運動のわずかな気配さえ鎮圧するとともに、チェコ国民を、ドイツ化、再定住、虐殺というもっとも激しい方法で粛清するというヒトラーの計画を開始することだった。彼の残忍な手法は、非共産主義者の抵抗運動にも妥協を許さず、ロンドンの亡命政府による軍事的な行動を支援する具体的な手段をとらせた。1941年にスコットランドで重要な使命が準備されて以降、英国空軍の支援をうけて、多くのチェコスロヴァキアのパラシュート隊員たちがチェコスロヴァキアに降下した。最初の成功がかなったのは、“アンソロポイド:類人猿(ヤン・クビシュ軍曹とヨゼフ・ガブチーク軍曹による)”と“シルバーA:銀A(アルフレッド・バロス中尉とヨゼフ・ヴァルイック軍曹、イリ・ポトウジェック伍長)”が1941年12月28日の夜から29日にかけて降下した時だった。“類人猿“の任務はハイドリヒを暗殺することであり、“銀A”は諜報集団だった。クビシュとガブチークは多くの抵抗運動のメンバーの援助を受けて彼らの任務遂行のための準備をした。

ハイドリヒ暗殺の企ての軍事作戦は、1942年5月27日、水曜日、午前10時30分に実行された。プラハのリーベン地域のⅤホレショビッツ通りの曲がり角だった。ヴァルイック軍曹の援助で(彼は鏡で合図を送った)、ハイドリヒの車への攻撃はガブチーク軍曹(彼はトミーガンを撃とうとしたが故障していた)とクビシュ軍曹(手榴弾を車に投げ入れた)によって実行された。ハイドリヒは手榴弾が爆発した破片で背中を負傷し、その傷がもとで1942年6月4日に死亡した。

 

Kurt Daluegeは、今や臨時の帝国護民官となり、チェコ人に対する空前の規模のテロを爆発させた。国民的な抵抗運動が広がることを止め、深刻な損害を国民に負わせ、そして物質的にも道徳的にも破壊することを企図していた。1000万クローネ(コルネ)の報償が加害者の居場所や行方を告げることに対して申し出られた。ハイドリヒの追悼式―6月7日、プラハ―に続いて、ベルリンで6月9日に葬儀が執り行われた後、ナチの激怒は最高潮に達し、リディツェ村の破壊が行われた。1942年6月10日、リディツェは完全に破壊された。リディツェの惨劇は340人の命を犠牲にした。173人の男性たちはその場で撃たれた、さらに26人のリディツェの住民は後にプラハで処刑された。88人の子どもたちは、ポーランドで殺され、53人の女性たちは強制収容所で死んだ。プラハにおけるハイドリヒ暗殺は、ヨーロッパでドイツファシズムに征服された国による抵抗運動の最初の軍事行動であり、戦勝者ヒトラーに対する最初の一撃だった。

 

軍事作戦が実行される前にパラシュート隊員たちのもっとも親しい仲間たちは彼らがどこに隠れることができるかについて考えた。隠れ場所を見つける仕事を委ねられた人たちの一人、ペト・ファフェクは結核協会で働いていた。同じ事務所で働いていたヤン・ソネヴェンドは、プラハのレソロヴァ通りにある聖キリルとメソディウス教会の長老評議会の監督官だった。ファフェクはヤン・ソネヴェンドに、警察に登録されていない人たちをかくまうために助けてほしい、それは祖国のためなのだと訴えた。ソネヴェンドがその問題をチェコ東方正教会の司祭、ウラジミール・ぺトレック師にうちあけ、議論しているときに、パラシュート隊員たちを一時的に教会の地下聖堂にかくまうことを思いついた。ハイドリヒへの軍事作成が行われた後、もう一人のパラシュート隊員、ヤン・ゼレンカ‐ハイスキーという名の同志がソネヴェンド同志とぺトレック師を訪れ、計画の遂行とパラシュート隊員たちが到着することを伝えた。両人は計画に同意した。1942年5月30日、ヤン・クビシュ軍曹が最初に隠れ家に到着した。続いてヨゼフ・ガブチーク軍曹、アドルフ・オパルカ中尉、ヨゼフ・ヴァルチク軍曹、ヤロスラブ・シュヴァルク軍曹、ヨゼフ・ブブリーク軍曹、そしてヤン・ハルビィ軍曹が着いた。ぺトレック司祭は一人ひとりのパラシュート隊員たちを迎え入れ、食べ物と新聞を彼らのために手に入れた。そして多くの時間を彼らとの会話に費やした。そして暗殺未遂に関係した人々や友人たちと連絡をとる仲介者として行動した。彼はまたクビシュをメガネ屋のミラダ・フラントーヴァに検査を受けるために隠れ家から外へ連れ出した。東方正教会の司教、ヴァーツラフ・チクルと聖具室係のヴァーツラフ・オルネストはかくまわれているパラシュート隊員について、後になるまで知らなかった。ゴザード主教(マチェィ・パヴリク)は、チェコ東方正教会を復活させた人だが、彼はパラシュート隊員たちが地下聖堂にかくまわれていることを1942年6月11日に知らされた。個人も、抵抗運動のグループも双方がパラシュート隊員たちを支援した。最終的に、毎日のように行われた処刑と恐怖政治の抑圧のもとで、一人のパラシュート隊員、カレル・チュルダが同志たちを裏切った。彼は暗殺計画に関与していなかったし、仲間がどこにかくまわれているかについて知らなかったが、膨大な量の情報をドイツに密告した。

 

6月18日、午前2時、聖キリルとメソディウス東方正教会を包囲するよう、命令が下った。ゲシュタポは800人の兵士を7人のパラシュート隊員たちにむけて配置した。360人はプラハSS(親衛隊)の護衛大隊だった。作戦は午前4時15分から始まった。命令は、パラシュート隊員たちを生きたまま捕虜にすることだった。3人の隊員(オパルカ、クビシュ、ブブリーク)は、午前7時まで教会の身廊で防衛した。彼らは倒れ、地下聖堂がいったん発見されると激しい攻撃が行われた。残った4人の隊員たち(ヴァルチーク、ガブチーク、シュヴァルク、そしてハルビィ)は、最後までたたかい続けた。4発の銃弾を自分たちのために残して。

 

聖堂の激しいたたかいの間、ウラジミール・ぺトリック司祭とヴァ―ツラフ・チクル司祭、長老会の議長であるヤン・ソネヴェンド、そして聖具室係のヴァ―ツラフ・オルネストらは家族とともに逮捕された。ゴザド主教はすぐに逮捕者と聖堂への激しい攻撃について知らされた。翌日、1942年6月19日、彼はすぐに3通の手紙を書いた。ヤロスラブ・クレイーチ首相、エマニュエル・モラヴェック・教育・国民文化大臣、そして護民官事務所宛てに。教会を守り、逮捕者の生命を守るために、そしてテロによる犠牲を終わらせるために。彼は書いた。“私の人々が証言をしたことについて認め、私はいかなる処罰も受ける覚悟をしています。たとえ死であろうとも”。彼は自己犠牲の道を選んだ。それは我々にはなじみのある、イエス・キリストへの信仰のために自らの命を他の人々のために捧げた聖なる殉教者の伝記として。しかし、返事を受け取ることはなかった。6月25日、金曜日、午前5時、彼は逮捕され、数か月に渡って拷問をうけた。

 

ゴザド主教の逮捕の前日、6月24日、ラインハルト・ハイドリヒ暗殺の報復として、ナチはレジャッキー村の成人33人を銃殺し、14人の子どもたちをドイツに強制的に連れ去った。村はあとかたもなく壊滅した。

 

1942年9月3日、チェコ東方正教会の代表者たちの審理がプラハで行われた。翌、1942年9月4日、ゴザド主教、ヴァ―ツラフ・チクル司祭、長老会の議長であるヤン・ソネヴェンドはプラハのコビリッシィ地区の処刑場で午後2時35分、射撃分隊によって処刑された。第2司祭、ウラジミール・ぺトリック司祭は、翌日、1942根9月5日、正午に処刑された。ドイツのゲシュタポ(秘密警察)はテレジンの小要塞にさらに263人のチェコ国籍で、パラシュート隊員たちを支援したと逮捕された人たちを集めた。1942年10月22日、彼らはマウスハウゼン強制収容所へ移送され、10月24日、1日で全員が射殺された。その中には我々の教会の信徒会、プラハ2区、レソロヴァ9、の9人も含まれていた。

マリー・シクローヴァ:聖堂の首席司祭の妻

マリー・グルジノーヴァ:ゴザド主教の秘書であり、聖歌隊のメンバー

マリー・ソネヴァンドーヴァ:長老会の議長の妻

ルドミラ・リソーヴァ:旧姓ソネヴァンドーヴァ、聖歌隊のメンバー

ヴァーツラフ・オルネスト:聖堂の聖具室係

フランチスカ・オルネストーヴァ:聖堂の聖具室係の妻

ミルゼ・オルネストーヴァ:聖具室係の娘、聖歌隊・青年グループメンバー

カレル・ロウダ:聖歌隊のメンバー

マリー:ロウドーヴァ:聖歌隊と青年グループのメンバー

 

 1942年9月27日、ボヘミアとモラビアの保護領総督は命令を下した。それによって、チェコ東方正教会は閉鎖され、財産はドイツに没収された。東方正教会の司祭たちはゲシュタポに連れ去られ、ドイツで強制労働をさせられた。そして信者たちは彼らの司祭たちを奪われた。東方正教会は13人の最愛の息子と娘を失った。

 

 ゴザドはモラビア、シレジアの最初の東方正教会の主教であり、その殉教は、この地域での彼の21年に渡る聖職を乱暴に終結させた。我々の教会の信者と司祭たちは、主教とともに、彼らの人々と国家のために、その未来を信じて自らを犠牲にしたのだ。1987年、ゴザド主教は地方東方正教会によって聖者としてたたえられた。

 

 戦後直ちに、チェコの世論は、これらすべてのハイドリヒ暗殺の犠牲に対して、すぐさま偉大な畏敬と感謝を与えた。そのときに書かれたものだが、“チェコ人が畏敬の念を持って接しなくてはならない2つの記念すべき場所がある:リディツェ村と聖キリルとメソジウス教会である”。訴えは次のようなものであった“東方正教は、完全に解放されたチェコの人々のための巡礼の場になっているという功績によって、この場所こそが、最初のすさまじい一撃が、我々の国民的抵抗運動に与えられた場所であった”。(“人々の権利”NO.33、1945年6月19日、と“小さな教会による偉大な行動”プラハ、1945年27頁)

 

 やがて、多くのことは忘れられていく。もしくは多くのことを忘れるべきだともくろまれてきた。しかし今日、我々は大きな声で、また誇りを持って宣言することができる。それはまさに小さな教会による偉大な行動である。ギリシアの宣教師として我々の国家、民主主義、そして文化をもたらした聖キリルとメソジウスの伝説を1000年後に再びよみがえらせたのだ。聖キリルとメソジウスの仕事が、その時代のモラヴィア王国に偉大な貢献をしたように、小さな東方正教会の行動は我々の共和国にファシズムの暴力に対して精神的な勝利をもたらしたのだ。

 

 スラブ民族、チェコ、そしてギリシアの旧教会の祈り、―それは人間の勇気、悪に対する葛藤、犠牲と高潔を後世に伝える現場で持たれた礼拝の間に行われていた―は聞き届けられた。こうして今日の行為は、象徴的かつ精神的に、遠く、そして近い過去の両方を結合、関係づけられる。人々は毎日、記念の飾り額に花を飾り、過去に対する畏敬の念を記憶し続けるだろう。

 

 

 


ハイドリヒ暗殺の英雄たちの国民的記念碑―聖キリルとメソジウス教会 プラハ

2017-09-27 22:26:25 | チェコ

2002年、ハイドリヒ暗殺というチェコスロヴァキアのレジスタンス行動の60周年記念行事として

新しい国民的記念碑―和解の場として

聖キリルとメソジウス教会と関連施設が整備されました。

A Place of Reconciliation とは 「和解の場」という日本語のなるのでしょうか

どういった和解なのか、何を、そして誰とだれが和解するのかという疑問をぬぐいさることができなまま

年月だけが過ぎ去って行きましたが、

改めて歴史的できごとをどう理解するのかということだと思わされます。

教会を見学した際に、タイトルのパンフレットがあり、英語版をいただいてきました。

日本語で紹介されたものは某週刊誌の旅レポート者のコピーだったのとても残念に思いました。

そのパンフに掲載されていた資料や写真などは

プレートとなって展示室でみることができるようになっているようです。

プラハ城からみたブルタヴァ川とプラハ市街

この美しい街を守るための苦しく悲しいたたかいがあったことを

胸にきざみたい

 

                     〈表紙 p1〉

〈p2〉                  〈p3〉Table of Contents/ 目次  

 

〈p4〉A NEW NATIOAL MEMORIAL ーA PLACE OF RECONCILIATION

〈P6〉A GREAT ACT BY A SMALL CHURCH

〈P8〉                    〈P9〉

 

〈P10〉               〈P11〉

〈P12〉                         〈P13〉

 

*****************************************

 〈P14〉A HISTORY OF THE ORTHODOX CATHEDRAL    〈P15〉

〈P16〉                          〈P17〉

 

〈P18〉 THANKS TO ALL THE FOLLOWING・・・・・・

 

to be continued


ハイドリヒの暗殺 リディッツェ村の惨劇をおとずれる

2017-09-25 21:57:03 | チェコ

2004年夏 プラハからバスに乗り リディッツェ村へ

バスはガラガラ 降りたのは友人と2人

運転手のおじさんが、バスを降りたらあっちだよ

といってくれたらしい

その方向に歩いていくと

なだらかな丘の下からさわさわと風が上がってきて

なぜだか突然、全身に鳥肌がたちました

そしてその当時から村の再建・再現が試みられ

アウシュビッツに送られた子どもたちを偲ぶモニュメントが創られていました

 

一人ひとりの表情まで再現したいと時間をかけた製作が続きます。

Hiroshima City 大量殺戮の悲劇にみまわれた町として広島市と姉妹都市になっています。

                       帰りのバス停の傍には実りを迎えた麦畑が広がっていました。

                     友人と私は無言でその麦畑の前にたたずんでいたのです。

                                                 リディッツェ村

                                                                 to be continued


聖キリルとメソジウス教会 プラハ

2017-09-24 23:45:55 | チェコ

「ハイドリヒを撃て」を観た興奮から覚めることのできない自分がいます

私が友人とはじめてプラハを訪れたのはなんと2004年夏

すでに13年が経過しています。

しかし、その時に聖キリルとメソジウス教会をおとずれた衝撃は忘れ難く、

今を生きる私たちができること―平和な日本が平和であり続け、平和のリーダーとして世界で尊敬される地位を持つために頑張ります―みたいなメッセージを書いておいてきました。

  

 

2年後の冬に行ったときには、プラハはEUに加盟し、観光案内も整備されて街もきれいで明るくなっていました。

 

教会はクリスマスの礼拝が厳かに行われていました。

こうした年月を、監督はこの映画をつくるために専心していたのですね。

今ではツアーの観光地として大勢の人が訪れ、多くの写真がサイトにアップされています。

この出会いを今の私なりに向き合って考えを整理したいと考えます。

 

National Memorial to the Heroes of the Heydrich Terror

NATIONAL MEMORIAL TO THE HEROES OF THE hEYDRICH TERROR

 


スラブの魂を描く~ミュシャ展@新國立美術館

2017-04-13 23:40:19 | チェコ

 世界初の海外展示

ミュシャの描いた大作「スラブ叙事詩」が国立新美術館で開催されています。

それにしてもきれいな青です

スラブ民族が乗り越えてきた闘いの歴史を

血みどろで描くのではなく、怒りと不安をひとりひとりの農民や市民の

表情や情景いを丁寧に描いています

  

それにしても大作

入場前からすごい人の列で混雑していました

写真が許可されている部屋があって

驚きました

いっせいにスマホやデジカメの灯りがついて

絵をみるのもちょっと苦労しました

プラハのミュシャ博物館ではパリ時代の

アールヌーボー作品が中心に展示されていました。

入口で支配人が

「こんにちは」と出迎えてくださいました

いかに日本人観光客が多いかですよね

プラハ・ミュシャ博物館のHP ↓

http://www.mucha.cz/index3.phtml?S=home&Lang=JP

国立新美術館のミュシャ展の紹介 ↓

http://www.mucha2017.jp/slav/index.html#link

スラブ叙事詩の作品などを口実に

民族主義者だとナチ・ゲシュタポに逮捕され、命を縮めたミュシャ

今の時代は彼の眼にはどのように映るでしょうか


plastic penguins in Praque

2011-06-21 00:24:03 | チェコ

プラハで黄色いプラスチックのペンギンの彫刻が盗まれました。

a penguin sculpture とあるからひとつだけ盗んだんですね。きっと。

プラハのブルタバ川沿いにあるカンパと呼ばれている瀟洒な地域に近代美術館があります。

その美術館の石の外壁の上に並べておかれていたもののひとつで、夜は灯りがともりました。

ペンギンを盗むために2m以上ものフェンスを乗り越えなければならなかったそうです。

ペンギンが盗まれたのは6月4日の早朝5時頃で、警察は2日後から捜索を開始。20代の外国人3人を逮捕しました。逮捕まで4日しかかからなかったと警察はウェブサイトで自慢しているそうです。ちなみに、ロシア語、スペイン語、フランス語を話す3人とか・・・どうやって相談したんでしょうか。そして、なんでまた、ペンギンを盗んだのか。金額による損失は7万コルン、約35万円となっています。(^^;

 


チェコ軍隊の派遣で日本から避難

2011-06-20 00:20:29 | チェコ

福島第1原発での事故発生以降、ヨーロッパ各国が飛行機をチャーターして、とりわけ子どもと妊娠している女性を優先して、帰国を支援、促していました。とくにフランスがほぼ強制的とも言える対応だったとか。その理由は、日本政府の原発事故への情報の非公開性だったと報道されていました。

やっぱりチェコも軍隊の飛行機を派遣していました。

3月16日の新聞では、軍用機2機を派遣し約106人のチェコ人(関係者)を東京からプラハに移送したとのこと。

41人はチェコフィルのメンバーです。フィルのメンバーのうち、何人かは影響のない、西海岸に残り、チェコ市民と結婚している2人のスロバキア人とポーランド人、ブルガリア人、朝鮮人が避難飛行の乗客になりました。

残ったチェコフィルの方々はコンサートですばらしい曲をひろうしてくださったのでしょうか。

未だに収束の目途のたたない原発から、何を教訓とするのか・・・世界中から注目されていますね。

 


プラハで日本の地震と津波被害者のためのコンサート

2011-03-25 22:44:07 | チェコ

Koncert pro Japonsko (Concert for Japan)

A ship is left stranded in a residential area after being washed ashore by tsunami in Ofunato, Iwate Prefecture, northeastern Japan, on March 24. (ČTK)
The Prague Symphony Orchestra plays a Concert for Japan at Obecní dům's Smetana hall on Sunday, 27 March, raising money for victims of the recent earthquake and tsunami
Sun 27th Mar 2011 at 19:30
Price: 200-400 CZK

Conducted by Jiří Kout, the FOK's program features perhaps the two most popular works by Czech composers -- the Vyšehrad, Vltava and Šárka sections from Bedřích Smetana's Má vlast together with Antonín Dvořák's ninth symphony, From the New World.

The Prague Symphony Orchestra are regular visitors to Japan and spent several days in Sendai, one of the cities worst-affected by the disaster, as recently as last year.

Sam Beckwith
sam@prague.tv

PROGRAM
Bedřích Smetana
Vyšehrad, Vltava, Šárka

Antonín Dvořák
Symphony No. 9 "From the New World"

TICKET INFO
Tickets are available from Obecní dům and through the official FOK website.

TICKET PRICES: 200 CZK, 250 CZK, 300 CZK, 400 CZK

START TIME: 7:30pm

RELATED WEBSITE: http://www.fok.cz/


 

 


ミュシャ<スラブの叙事詩>が東京で・・・? 

2010-03-12 23:14:42 | チェコ

                 続いてチェコと日本の話題 

  チェコ人でアールヌーボ―を代表する画家として有名なアルフォンス・ムハ・・・

  日本ではミュシャと呼ばれ、美しい女性と花の絵で多くのファンを魅了しています 

  ムハは<スラブ叙事詩>というスラブ民族の歴史を描いた20枚の大作を描きましたが、NHKプロモーションが日本での公開を働きかけているというのです 

             

   パリで大きな名声と、アメリカ時代を過ごし、故郷、チェコに戻ってきたムハは

                 スラブ人の苦境を目の当たりにし

          スラブ人の歴史と誇りを連作で仕上げることに挑戦します

                 2012年の公開を計画しているようですが

                  ムハのお孫さんが反対しているとか

           サーカスのような見せものではないといっているそうですが

               すばらしい作品とスラブ人の魂、強い意志を

                 世界の人たちに見せてあげてほしいと

                         願っています。

               みんながチェコに行けるわけではないですもの

             私は、きれいな花と女性の絵ももちろん好きですが

    スラブ人の子どもたちすべてに教育を保障するための資金づくりにとしたいと

                計画された宝くじのチケットに描かれた

                     「教科書を持つ少女」の

                学ぶことへの強い意志を示すまなざしが

                         忘れられず、

  何度も友人と本屋さんに通い(最も彼女は本を買うために行ったのですけれど)                  

               少女の載った作品集を買ってしまいました

                         *・*・*・*・*

         なお、スラブエピックは下記のアドレスで見ることができます

       プラハ・ムハ美術館のHPです(Gallery に5枚のepic があります)

            http://www.muchafoundation.org/MGallery.aspx

       どなたかは存じませんが、20枚全部を紹介しています  

          http://www.pricejb.pwp.blueyonder.co.uk/slav-epic/Gallery.htm

 

 


Women's International Day in Praque

2010-03-10 23:43:19 | チェコ

                      

         3月8日、国際婦人デーについて世論調査をしています

 2/3はこの日を記念すべきと考え、1/4を超える人々が今でもお祝いしている

            (世論調査 by the STEM/MARK agency).

 調査はまた、この日についてチェコ人がそれぞれ違う接近をしていることも明らかにしました。かつての共産時代の体制に近いところにいたためという人もいれば、一方、この日に花を贈り、贈られるという機会を歓迎している人たちもいます。.

 18%はこの日をお祝いする理由を近しい人たちを喜ばせるためといい、もっとも多い回答でした。

 13%は、国際女性デーをお祝いするのは意味のあること

 同じく13%は子どもたちを育て、家事の世話をしてくれる女性たちに感謝する日だと答えています。

 11%はこの日が女性の解放の記憶と平等のための闘いの日を祝うといいます

  8%の人たちは女性は1年中、尊重されるべきだと主張しています.

 一方、6%は5月の第2日曜日、母の日がビロード革命以降、復活されたことについて触れています

 さらに4%はもし国際男性デーが認められるのであれば、国際女性デーも理解できると述べています

   30-59 歳の女性に聞きました.

 若い人たちは母の日と混乱し、そのうち半分の人が3月8日が休日であることについて意識をしていませんでした。

 この日は、1908年3月8日、ニューヨークでお針子たちのストライキと何千という女性たちが社会的、経済的、そして政治的な権利を求めて立ち上がったこちを思い起こす日です。

 3月8日、国際女性デーはその2年後にコペンハーゲンで開催された第1回国際女性会議で設立され1911年に初めて開催されました。国連が承認したのは1975年です。この日はチェコ共和国の重要な日として列挙されています