私自身が幼かった時代、さらに今は亡き親父さえ自前の車をまだ持っていなかった時代の昭和35~36年頃。まさしく、世間は高度経済成長時代を謳歌。当時の歌謡曲も、吉永小百合、橋幸夫、舟木一夫等々………未来での明るく、且つ薔薇色の世の中の到来を本気で信じ、熱く期待していた内容が非常に多かったですね。(微笑)
しかしながら、これらの予想は見事に大外れ。特殊詐欺の頻発や新型コロナウイルス禍、ロシア🇷🇺軍によるウクライナ🇺🇦侵攻、そして今般のKDDI(au)による大規模通信障害、また先の2回に亘る大震災、東海豪雨禍等々、インターネットの悪用事件、とても薔薇色の現代とは言えまい。
さて、こうした古きよき時代の名鉄沿線。今ではすっかり廃れた三河湾観光地付近の西蒲線のほか、何と三河海線にも多彩な観光列車が当時の新名古屋駅方面から一時は直通していたらしい。
西蒲線については、あの初代のツートンカラー姿の5500系、時には7000系や7700系も頻繁に運行され、当初は基本的には一般特急でしたね。
確かに今と比べれば実に質素な電車や駅舎でしたが、東幡豆駅などの駅務員は連日、生き生きとした表情で多くの子供連れ観光客を出迎え、猿ケ島や兎島への渡船乗り継ぎ案内をしていたものでした。
あれから、もはや60年ぐらいか。今は残念ながらも、その跡形さえ無くなり、寂しくなりましたねぇ………。
蒲郡線方面の観光直通列車のルーツは、初代モ3600形や3900系、3850系だったらしい。車内に冷房や扇風機こそ無かったが、車窓さえ開ければ今よりも遥かに凌げたような気がしますよ。
河和線や知多新線も今は1600系の全廃もあり、特に季節的な臨時名称列車こそないが、2200系や、特に平日昼では真新しい9500系等がどうにか観光特急の後を引き継いではいます。しかしながらも昔と比べたら、やや寂れた印象も否めませんね。
そう言えば、常滑線の太田川~新舞子間の辺り。昭和40年頃までは西知多コンビナートもなく、電車は特に長浦~日長間では、海岸線すれすれに運行。長浦、日長の両海水浴場では多くの日帰り観光客で大賑わい。私自身も日長駅近くにて潮干狩りを楽しんだ思い出もあります。辺りは、まさしく白砂青松そのものでしたね。こうした純日本風の美しい自然景観を一度でも人為的に壊してしまえば、もう決して二度とは戻るまい。
あれからも仮にまだ何年も亘って高度経済成長時代が続いていたら、野間、小野浦、内海や矢梨、片名、河和、豊浜、山海付近さえも恐らくはコンビナートだらけになり、今のような中部国際空港も存在しなかった可能性が高いね。こちらは何とか昔のままの白砂青松の姿が残れて、本当に良かった!!
また、さらに大昔は、これら東対岸の碧南や玉津浦、衣浦、高浜等にもかなり美しい海水浴場があったらしく、新名古屋駅から刈谷経由で碧南や吉良吉田方面に観光直通列車が向かっていたようだ。
こちらの電車はAL車やOR車が中心の西蒲線とは対照的に、専らHL車での運用。あの冷房付きの3780系が来れば上等だったとか。後には7300系も加わったり、時折、5500系や7700系も姿を見せていましたね。
昭和40年頃には三河海線内では各駅停車だったものの、なぜか快速特急を標榜する観光列車も走ったようだ。
残念ながらも、私自身は衣浦コンビナート出現前での玉津浦や高浜、碧南付近の状況は全く分かりません。どうやら、玉津浦駅の付近はもともと海水浴場だったものの、跡形もなく埋め立てられてしまったらしいね。
三河海線は確かに一時は座席指定特急“みかわ”も7700系で僅かに運行されたが、もともと、あまり座席指定の観光特急とは縁が無かったとしか言いようがなかろう。この“みかわ”は休日だけの運行で、確か新鵜沼駅始発だったと記憶しています。
やはり三河山線ともども国鉄線からの貨物列車が多く乗り入れていたから、観光特急の設定はかなり難しかったのかもしれない。これが、碧南~吉良吉田間の早期廃止の引き金になった?? また、棚尾駅付近の矢作古川鉄橋の著しい老朽化もあり、修繕あるいは架け替えには莫大な費用が掛かるとの事情もあったようだ。
今なお残る寺津駅付近の高架線。三河海線が碧南駅から衣浦港(臨海鉄道の碧南市駅付近)まで単線でも良いから路線延伸でも行わない限りは、いつまでたっても“碧南の万里の長城”そのものだ。何だか見苦しいよ。今後は、なるべく早く解体した方が良かろう。
蒲郡市内のあの高架線が将来、そうならないように祈ってやまない。
なお、新名古屋駅から蒲郡駅までの直通列車は西尾線がもともと直流600ボルト電化だったため、当初は複電圧対応のモ3600形の運行に限られていたとか。この電車は同様の広見線や小牧線、各務原線、竹鼻線にも乗り入れていましたし、デキ371、372は複電圧対応だったとも聞きます。
その関係からか蒲郡線への直通運行は、ごく一時的には刈谷、碧南経由になったことも。
そして昭和35年には西尾線が昇圧。また40年までには八百津支線をも含めた広見線や各務原線、竹鼻線、小牧線も本線系に線路が繋がっているため相次いで昇圧され、何とか直流1500ボルトに統一。7000系も堂々とこれらの支線に入れるようになりましたね。但し、孤立している瀬戸線だけは、さらに12年は待たされたが。うん。
ちなみに、一時は名鉄路線の一部だった豊橋鉄道渥美線は、それからさらに20年後に昇圧。一方の田口線はもともと直流1500ボルトでしたが、沿線の過疎化や水害などもあり、昭和43年までには全廃されています。
なお、西尾線昇圧時には恐らく分岐していた安城支線や、近隣の平坂支線もその可否を検討されていたとみられます。しかしながら、モーターリゼーションや代替公共交通機関の整備もあり、結局、昇圧は断念か。昭和36年頃までにはこちらも全廃されていますね。私自身は、これらの路線については全く覚えていませんが。