白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
天主の十戒の紹介は終わりました。いわゆる自然法なのです。人々の霊魂に刻印されている自然法なのです。
一方、法に関する講座をした時、教会は法を制定することができるということを見てきました。いわゆる実定法あるいは制定法であり、自然法を前提にして、追加される法なのです。
天主の十戒は人間の本性の一環になっていますので、これらを変えることもできないし、変わることもありません。天主の十戒を変えることがあり得るのなら、人間の本質を変えることができることを意味するようなことになり、人間が人間でなくなるというような意味を持つのです。
一方、追加される法、つまり教会が制定する法律は時代時代でかわることはあります。そして実際に教会が制定してきた法律(教会法)は変わってきました。
現代でも「教会の掟」はありまして、これらの掟が命じることは深刻な義務となっています。つまり、違反したら大罪となるほど、強く義務づけられています。
現代の教会の掟を要約するには、六つにまとめることができます。
第一と第二は守るべき祝日とこれらの祝日の聖化に関する掟となります。
第三と第四は聖体拝領と改悛の秘跡に関する掟となります。
第五と第六は教会内における償いに関する掟についてです。
まず、第一と第二の掟は守るべき祝日に関する掟です。
カトリック教会は特別に祝い、聖化し、守るべき祝日を指定することを是としました。なぜでしょうか?カトリック教会のそれぞれの祝日には、それぞれ特別の恩寵が与えられているからです。例えば、私たちの主、イエズス・キリストの人生の場面を記念する祝日になると、各々の出来事に固有の恩寵が与えられています。同じように、聖人を祝う時、天主は称えられて、聖人が崇敬される上、各々の聖人の個別の天主へのとりなしによって、特別な恩寵が私たちに与えられています。
要するにカトリック教会においては最初から守るべき祝日が存在してきました。時代が下り現代に至ると、厳密にいう「守るべき祝日」は十にまで制限されるようになりました。1917年の教会法において、普遍教会には十の守るべき祝日が指定されています。一通り取り上げてみましょう。
12日25日、ご降誕の祝日。いわゆる、クリスマスです。イエズス・キリストのご降誕です。
クリスマスの8日後、割礼の祝日があります。一月一日なのです。
主のご公現の祝日。1月6日です。私たちの主、イエズス・キリストのはじめての公けの現れを記念する祝日です。三人の東方の博士(国王)は主のみもとに来て、主に贈り物を捧げます。
御昇天の祝日。私たちの主、イエズス・キリストはこの世を去り、父なる天主の御右に座るために、天にお昇りになられた日です。
聖体の祝日。『Corpus Christo』と呼ばれる祝日です。この日に、聖体においてこの世にましまして実存される私たちの主、イエズス・キリストを荘厳に礼拝する祝日なのです。
以上は5つの祝日であり、私たちの主、イエズス・キリストについての祝日です。
そして、この5つの祝日の他にさらに5つあります。
二つは聖母マリアの祝日です。聖母無原罪の御宿りの祝日です。これは聖母の特権であり、つまり原罪を負ったことがない聖母の特権です。12月8日です。
それから、聖母の被昇天の祝日、聖母の多くの特権中の特権です。つまり、身体と霊魂を一緒に、地上を去り、天に昇られる聖母になりましたが、それを記念するのが8月15日の祝日です。
それから、もう一つの祝日は聖ヨゼフの祝日です。聖母マリアの主人である上、私たちの主、イエズス・キリストの養父です。3月19日の祝日です。普遍教会においてこれも守るべき祝日です。
それから、カトリック教会の二柱である聖ペトロと聖パウロの祝日です。6月29日の祝日です。
そして、最後に諸聖人の祝日です。つまり、すべての聖人を祝う日です。11月1日です。
以上は普遍教会の十の守るべき祝日です。フランスではピオ7世とナポレオン一世の間に結ばれた条約によって、4つにまでさらに制限されてしまいました。フランスにおいては、守るべき祝日は四つにまで制限されました。要するに、国ごとに、多少、守るべき祝日は違ったりします。フランスの場合、ご降誕の日、昇天の日、被昇天の日と諸聖人の祝日なります。【日本においても同じように、この四つの祝日は守るべき祝日となります。】
以上、教会の第一の掟についてでした。
教会の第二の掟は主の日を聖化するためにどうすべきかについての掟です。
天主の第三戒については、すでに触れましたから、手短にします。ただ、強調したいのは、天主に相応しい礼拝、創造主なる天主に恩返しとして捧げるべき礼拝を実践するのは自然なことであるということです。天主は私たちの創造主であり、私たちのあるじであり、子供は親に対して孝行を実践すべきであることと同じように、あらゆる被創造物は各々の分に応じて、創造主に対して礼拝すべきです。これは自然法です。
教会の第二の掟とはこの自然法的な規定を明確化するということです。つまり、具体的にどうやって天主を礼拝すればよいかということを明らかにします。
方法は前述したように二つあります。主日にミサに与ること。それから、主日に肉体労働をやらないこと。これが第二の掟です。
つまり、分別がついた信徒には、日曜日、それから、先ほどの守るべき祝日、ミサに与ることは重要な義務であって、違反すると大罪になるということです。もちろん、この間に見たように、やむを得ない正当な理由があってミサに与ることはできない場合、免除されることもあります。
以上、教会の第一と第二の掟でした。祝日と主日の聖化を助ける掟です。
第三と第四の掟は二つの秘跡に関する掟です。聖体拝領と告解です。
教会の第三の掟は改悛の秘跡について規定します。カトリック教会は信徒が最低、年一回に告解に行くことを義務づけしています。年一回という少なさから、カトリック教会がどれほど寛大であるかお分かりかと思います。この掟の趣旨は分かりやすいと思います。つまり、分別がついた洗礼者、つまり善悪を区別できる信徒は最低年一回、大罪を犯した場合、告解へ行くようにという掟です。
カトリックは信徒たちのために人間の本来の目的地である至福を常に求めています。つまりカトリック教会は信徒たちの永遠の命の取得を渇望しています。そのためには、天国に入るために成聖の恩寵にある必要があります。そして、成聖の状態を得るには告解が必要です。この掟はカトリック教会がどれほど善き母であるかを示しています。
一方、年一回の改悛の秘跡に与るよう命じながら、それ以上に義務化していません。つまり、かなりの自由を信徒に与えているのです。要するに、この掟のお陰で、救済を得るための告解の秘跡の必要性を教会は強調していながら、同時にこの少ない一回の告解を求める以外、カトリック信徒に対しては告解に行くことに関して広い自由を与えています。
つまり、カトリック教会は「救済を得るために告解は必要ですよ」と想起してくれると同時に、信徒の意志をも尊重しています。この第三の掟は均衡をとった掟であり、かなり中庸をとった掟なのです。繰り返しますが、最低、年一回の告解に行くことだけを洗礼者に義務づけているのです。
当然ながら、復活節の間に告解にいくことに越したことはありません。とういのも、第四の掟は年一回、復活節の間、聖体拝領をすることを洗礼者に義務づけているのです。告解に関する掟は年間通してのいつの時期か規定されていないのですが、一方、聖体拝領の掟については、復活節の間という時期が規定されています。
なぜ、聖体拝領をするようにカトリック教会は勧めるでしょうか?聖体拝領をする信徒は私たちの主、イエズス・キリストの聖なる生贄と一致するからです。そして、イエズス・キリストの十字架上の聖なる生贄こそは天国を開けてくださった犠牲であって、悪魔の影響から私たちを引き出し、罪から解放し、天主に戻してくださる贖罪のみ業だった生贄だったからです。
従って、聖体拝領をするということは、聖体において実際に現存されている天主を信徒が受け入れるということになります。そうすることによって、自分は聖化されて、霊魂を養うのです。聖体拝領というのは霊魂の糧なのです。ですから、カトリック教会が信徒に向けて「霊魂を養うように」命じている理由もわかるでしょう。
第四の掟もかなりの均衡をとった掟で、年一回だけの義務となります。その上、信徒の自由に任せられています。では復活節とはいつからいつまででしょうか?基本的には復活祭の二週間前から復活祭の二週間後までの期間です。言いかえると、ご受難の主日からよき牧者の主日までの期間です。場合によって、カトリック教会はその期間を長くすることが多いです。一般的にいうと、灰の水曜日から、つまり復活祭の40日間前から復活祭後の50日間以上の三位一体の主日までの期間に拡大されることが多いです。
以上、聖体拝領に関する掟でした。
もちろん、聖体拝領するためには、成聖の恩寵にある必要があります。そうではないと、冒涜的な拝領になります。そして、冒涜的な拝領をしても第四の掟を満たすことにはなりません。そして、もしもの場合、復活節の間に聖体拝領をしなかった信徒はその期間外にでも聖体拝領をする義務が生じます。大罪になることは言うまでもありませんが、それでも掟を破ったことを償うために、なるべく早く聖体拝領をしなければなりません。
最後に、第五と第六の教会の掟は改悛についての掟です。悔い改めるというのは、キリスト教徒の義務です。洗礼者聖ヨハネは悔い改めるように説教してきました。また私たちの主、イエズス・キリストも悔い改めるように私たちに要請していて、そして、イエズス・キリストご自身は具体的に償いの行為をなさって、模範を示してくださいました。また、「自分を捨て、自分の十字架を担って従え」とイエズス・キリストは命令しました。十字架こそが私たちのために天国を開けてくださるのです。従って、カトリック信徒は必ず償わなければなりません。
この二つの掟においてもカトリック教会はカトリックの叡智を活かして、カトリックの寛大さを示している掟を制定しました。償いを義務化しながら、同時に人々にとって重くならないように、負担にならないように教会は制定しました。過剰な苦行などを要求するのではありません。この掟は評価すべきもので、本当の意味でカトリック教会の叡智を表す掟です。まさに均衡を持った掟です。大切な償いの義務をなくさないでそれを維持しながら、信徒に無理な負担をかけないようにしているのです。あえていえば、掟のお陰で、償い、苦行は穏やかなことになるために、しいていえば快適な苦行になるかのようです。
償いに関して、第五と第六の掟があります。
第五の掟は大斎です。第六の掟は小斎です。第一に、大斎です。現代では大斎という義務は非常に少なくなりました。年に二日間だけ大斎を義務化しているにすぎません。ただ、この二日間に大斎を行わなければ大罪となります。灰の水曜日と聖金曜日です。信徒にたいして無理な苦行を要請している教会だということは全く言えないほどに軽い掟でしょう。年に二日間だけなのですから。
では大斎とは何でしょうか。一日の内、普通の食事を一回だけ取るということです。ただ、その普通の食事の上、小さなおやつをを二回まで取ることは可能です。大斎の本質は一日に一回だけの普通の食事をとるということです。
それから、小斎の掟もあります。小斎とはなんでしょうか?動物の肉体をたべることを遠慮するということです。つまり、簡単にいうと肉と肉類の汁です。ただ、小斎の日に乳牛類や魚や卵などは食べてもよいことになっています。つまり、川あるいは海に生まれて生きている動物を食べてもよいのです。
小斎の義務は基本的に毎週金曜日と大斎の日です。聖金曜日は金曜日なのでいうまでもありませんが、灰の水曜日も小斎の義務があります。つまり、大斎の日は必ず小斎にもなりますが、小斎の日は必ずしも大斎になるわけではないということです。
それはともかく、小斎の意味は軽い形での償いへの招きであります。また、毎金曜日に小斎する理由はイエズス・キリストが十字架上に死に給うた日だからです。つまり、小斎には本当の根拠、理由があって、しかもご受難をより善く黙想するために霊的にも心理的にも助けとなる掟です。これもカトリック教会の叡智を表しているのです。つまり、金曜日になると、イエズス・キリストのご受難を黙想して、肉を食べないことにより犠牲を捧げましょうということです。小斎とはかなり軽いでしょう。魚はおいしいし、量的に普通に食べてもいいですし。
以上、教会の掟でした。
これで、道徳の部は終了します。次回から秘跡の部に入ります。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
公教要理 第百五講 教会の掟
天主の十戒の紹介は終わりました。いわゆる自然法なのです。人々の霊魂に刻印されている自然法なのです。
一方、法に関する講座をした時、教会は法を制定することができるということを見てきました。いわゆる実定法あるいは制定法であり、自然法を前提にして、追加される法なのです。
天主の十戒は人間の本性の一環になっていますので、これらを変えることもできないし、変わることもありません。天主の十戒を変えることがあり得るのなら、人間の本質を変えることができることを意味するようなことになり、人間が人間でなくなるというような意味を持つのです。
一方、追加される法、つまり教会が制定する法律は時代時代でかわることはあります。そして実際に教会が制定してきた法律(教会法)は変わってきました。
現代でも「教会の掟」はありまして、これらの掟が命じることは深刻な義務となっています。つまり、違反したら大罪となるほど、強く義務づけられています。
現代の教会の掟を要約するには、六つにまとめることができます。
第一と第二は守るべき祝日とこれらの祝日の聖化に関する掟となります。
第三と第四は聖体拝領と改悛の秘跡に関する掟となります。
第五と第六は教会内における償いに関する掟についてです。
まず、第一と第二の掟は守るべき祝日に関する掟です。
カトリック教会は特別に祝い、聖化し、守るべき祝日を指定することを是としました。なぜでしょうか?カトリック教会のそれぞれの祝日には、それぞれ特別の恩寵が与えられているからです。例えば、私たちの主、イエズス・キリストの人生の場面を記念する祝日になると、各々の出来事に固有の恩寵が与えられています。同じように、聖人を祝う時、天主は称えられて、聖人が崇敬される上、各々の聖人の個別の天主へのとりなしによって、特別な恩寵が私たちに与えられています。
要するにカトリック教会においては最初から守るべき祝日が存在してきました。時代が下り現代に至ると、厳密にいう「守るべき祝日」は十にまで制限されるようになりました。1917年の教会法において、普遍教会には十の守るべき祝日が指定されています。一通り取り上げてみましょう。
12日25日、ご降誕の祝日。いわゆる、クリスマスです。イエズス・キリストのご降誕です。
クリスマスの8日後、割礼の祝日があります。一月一日なのです。
主のご公現の祝日。1月6日です。私たちの主、イエズス・キリストのはじめての公けの現れを記念する祝日です。三人の東方の博士(国王)は主のみもとに来て、主に贈り物を捧げます。
御昇天の祝日。私たちの主、イエズス・キリストはこの世を去り、父なる天主の御右に座るために、天にお昇りになられた日です。
聖体の祝日。『Corpus Christo』と呼ばれる祝日です。この日に、聖体においてこの世にましまして実存される私たちの主、イエズス・キリストを荘厳に礼拝する祝日なのです。
以上は5つの祝日であり、私たちの主、イエズス・キリストについての祝日です。
そして、この5つの祝日の他にさらに5つあります。
二つは聖母マリアの祝日です。聖母無原罪の御宿りの祝日です。これは聖母の特権であり、つまり原罪を負ったことがない聖母の特権です。12月8日です。
それから、聖母の被昇天の祝日、聖母の多くの特権中の特権です。つまり、身体と霊魂を一緒に、地上を去り、天に昇られる聖母になりましたが、それを記念するのが8月15日の祝日です。
それから、もう一つの祝日は聖ヨゼフの祝日です。聖母マリアの主人である上、私たちの主、イエズス・キリストの養父です。3月19日の祝日です。普遍教会においてこれも守るべき祝日です。
それから、カトリック教会の二柱である聖ペトロと聖パウロの祝日です。6月29日の祝日です。
そして、最後に諸聖人の祝日です。つまり、すべての聖人を祝う日です。11月1日です。
以上は普遍教会の十の守るべき祝日です。フランスではピオ7世とナポレオン一世の間に結ばれた条約によって、4つにまでさらに制限されてしまいました。フランスにおいては、守るべき祝日は四つにまで制限されました。要するに、国ごとに、多少、守るべき祝日は違ったりします。フランスの場合、ご降誕の日、昇天の日、被昇天の日と諸聖人の祝日なります。【日本においても同じように、この四つの祝日は守るべき祝日となります。】
以上、教会の第一の掟についてでした。
教会の第二の掟は主の日を聖化するためにどうすべきかについての掟です。
天主の第三戒については、すでに触れましたから、手短にします。ただ、強調したいのは、天主に相応しい礼拝、創造主なる天主に恩返しとして捧げるべき礼拝を実践するのは自然なことであるということです。天主は私たちの創造主であり、私たちのあるじであり、子供は親に対して孝行を実践すべきであることと同じように、あらゆる被創造物は各々の分に応じて、創造主に対して礼拝すべきです。これは自然法です。
教会の第二の掟とはこの自然法的な規定を明確化するということです。つまり、具体的にどうやって天主を礼拝すればよいかということを明らかにします。
方法は前述したように二つあります。主日にミサに与ること。それから、主日に肉体労働をやらないこと。これが第二の掟です。
つまり、分別がついた信徒には、日曜日、それから、先ほどの守るべき祝日、ミサに与ることは重要な義務であって、違反すると大罪になるということです。もちろん、この間に見たように、やむを得ない正当な理由があってミサに与ることはできない場合、免除されることもあります。
以上、教会の第一と第二の掟でした。祝日と主日の聖化を助ける掟です。
第三と第四の掟は二つの秘跡に関する掟です。聖体拝領と告解です。
教会の第三の掟は改悛の秘跡について規定します。カトリック教会は信徒が最低、年一回に告解に行くことを義務づけしています。年一回という少なさから、カトリック教会がどれほど寛大であるかお分かりかと思います。この掟の趣旨は分かりやすいと思います。つまり、分別がついた洗礼者、つまり善悪を区別できる信徒は最低年一回、大罪を犯した場合、告解へ行くようにという掟です。
カトリックは信徒たちのために人間の本来の目的地である至福を常に求めています。つまりカトリック教会は信徒たちの永遠の命の取得を渇望しています。そのためには、天国に入るために成聖の恩寵にある必要があります。そして、成聖の状態を得るには告解が必要です。この掟はカトリック教会がどれほど善き母であるかを示しています。
一方、年一回の改悛の秘跡に与るよう命じながら、それ以上に義務化していません。つまり、かなりの自由を信徒に与えているのです。要するに、この掟のお陰で、救済を得るための告解の秘跡の必要性を教会は強調していながら、同時にこの少ない一回の告解を求める以外、カトリック信徒に対しては告解に行くことに関して広い自由を与えています。
つまり、カトリック教会は「救済を得るために告解は必要ですよ」と想起してくれると同時に、信徒の意志をも尊重しています。この第三の掟は均衡をとった掟であり、かなり中庸をとった掟なのです。繰り返しますが、最低、年一回の告解に行くことだけを洗礼者に義務づけているのです。
当然ながら、復活節の間に告解にいくことに越したことはありません。とういのも、第四の掟は年一回、復活節の間、聖体拝領をすることを洗礼者に義務づけているのです。告解に関する掟は年間通してのいつの時期か規定されていないのですが、一方、聖体拝領の掟については、復活節の間という時期が規定されています。
なぜ、聖体拝領をするようにカトリック教会は勧めるでしょうか?聖体拝領をする信徒は私たちの主、イエズス・キリストの聖なる生贄と一致するからです。そして、イエズス・キリストの十字架上の聖なる生贄こそは天国を開けてくださった犠牲であって、悪魔の影響から私たちを引き出し、罪から解放し、天主に戻してくださる贖罪のみ業だった生贄だったからです。
従って、聖体拝領をするということは、聖体において実際に現存されている天主を信徒が受け入れるということになります。そうすることによって、自分は聖化されて、霊魂を養うのです。聖体拝領というのは霊魂の糧なのです。ですから、カトリック教会が信徒に向けて「霊魂を養うように」命じている理由もわかるでしょう。
第四の掟もかなりの均衡をとった掟で、年一回だけの義務となります。その上、信徒の自由に任せられています。では復活節とはいつからいつまででしょうか?基本的には復活祭の二週間前から復活祭の二週間後までの期間です。言いかえると、ご受難の主日からよき牧者の主日までの期間です。場合によって、カトリック教会はその期間を長くすることが多いです。一般的にいうと、灰の水曜日から、つまり復活祭の40日間前から復活祭後の50日間以上の三位一体の主日までの期間に拡大されることが多いです。
以上、聖体拝領に関する掟でした。
もちろん、聖体拝領するためには、成聖の恩寵にある必要があります。そうではないと、冒涜的な拝領になります。そして、冒涜的な拝領をしても第四の掟を満たすことにはなりません。そして、もしもの場合、復活節の間に聖体拝領をしなかった信徒はその期間外にでも聖体拝領をする義務が生じます。大罪になることは言うまでもありませんが、それでも掟を破ったことを償うために、なるべく早く聖体拝領をしなければなりません。
最後に、第五と第六の教会の掟は改悛についての掟です。悔い改めるというのは、キリスト教徒の義務です。洗礼者聖ヨハネは悔い改めるように説教してきました。また私たちの主、イエズス・キリストも悔い改めるように私たちに要請していて、そして、イエズス・キリストご自身は具体的に償いの行為をなさって、模範を示してくださいました。また、「自分を捨て、自分の十字架を担って従え」とイエズス・キリストは命令しました。十字架こそが私たちのために天国を開けてくださるのです。従って、カトリック信徒は必ず償わなければなりません。
この二つの掟においてもカトリック教会はカトリックの叡智を活かして、カトリックの寛大さを示している掟を制定しました。償いを義務化しながら、同時に人々にとって重くならないように、負担にならないように教会は制定しました。過剰な苦行などを要求するのではありません。この掟は評価すべきもので、本当の意味でカトリック教会の叡智を表す掟です。まさに均衡を持った掟です。大切な償いの義務をなくさないでそれを維持しながら、信徒に無理な負担をかけないようにしているのです。あえていえば、掟のお陰で、償い、苦行は穏やかなことになるために、しいていえば快適な苦行になるかのようです。
償いに関して、第五と第六の掟があります。
第五の掟は大斎です。第六の掟は小斎です。第一に、大斎です。現代では大斎という義務は非常に少なくなりました。年に二日間だけ大斎を義務化しているにすぎません。ただ、この二日間に大斎を行わなければ大罪となります。灰の水曜日と聖金曜日です。信徒にたいして無理な苦行を要請している教会だということは全く言えないほどに軽い掟でしょう。年に二日間だけなのですから。
では大斎とは何でしょうか。一日の内、普通の食事を一回だけ取るということです。ただ、その普通の食事の上、小さなおやつをを二回まで取ることは可能です。大斎の本質は一日に一回だけの普通の食事をとるということです。
それから、小斎の掟もあります。小斎とはなんでしょうか?動物の肉体をたべることを遠慮するということです。つまり、簡単にいうと肉と肉類の汁です。ただ、小斎の日に乳牛類や魚や卵などは食べてもよいことになっています。つまり、川あるいは海に生まれて生きている動物を食べてもよいのです。
小斎の義務は基本的に毎週金曜日と大斎の日です。聖金曜日は金曜日なのでいうまでもありませんが、灰の水曜日も小斎の義務があります。つまり、大斎の日は必ず小斎にもなりますが、小斎の日は必ずしも大斎になるわけではないということです。
それはともかく、小斎の意味は軽い形での償いへの招きであります。また、毎金曜日に小斎する理由はイエズス・キリストが十字架上に死に給うた日だからです。つまり、小斎には本当の根拠、理由があって、しかもご受難をより善く黙想するために霊的にも心理的にも助けとなる掟です。これもカトリック教会の叡智を表しているのです。つまり、金曜日になると、イエズス・キリストのご受難を黙想して、肉を食べないことにより犠牲を捧げましょうということです。小斎とはかなり軽いでしょう。魚はおいしいし、量的に普通に食べてもいいですし。
以上、教会の掟でした。
これで、道徳の部は終了します。次回から秘跡の部に入ります。