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公教会について・入門 【公教要理】第五十八講

2019年09月08日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理-第五十八講 公教会について・入門



今日は信経の第九条に移りたいと思います。私たちの霊魂における聖化の御働きと聖霊を前回ご紹介したので、今回は、聖なるカトリック公教会に関する信条をご紹介します。

信経において、聖なる公教会に関する信条は次の通りです。
「聖なる公教会、諸聖人の通功を信じ奉る」。

第九条は二つの部分に分けられていて、両部分を区別するのは大事です。
ところが区別しても一つの信条を成します。「聖なる公教会を信じ奉る」というのは、第九条の前部です。
「諸聖人の通功を信じ奉る」というのは、同じ第九条の後部です。
つまり、別々の二つの信条ではありません。一つの信条です。前部と後部とも同じ「聖なる公教会」という真理について語りますが、「二つの違う側面から見て」その真理を語るということです。
従ってこれから数回にわたって、公教会あるいはカトリック教会についてご紹介しますが、混同せずにしっかりと整理すべき二つの違う側面から公教会を見ていきます。混同せず同時に整理するのは、微妙に難しいところかもしれません。

それで、第一の側面は「聖なるカトリック教会を信じ奉る」という前部です。
第二の側面が「諸聖人の通功を信じ奉る」という後部です。
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第一の側面「目に見える位階制」としての公教会を語る内容です。言い換えると、この天下においてよく知られている公教会のことです。言い換えると、天国に行くために一員となるべき「社会上の事実」としての公教会のことです。「聖なるカトリック教会を信じ奉る」。これが信条の前部です。

「諸聖人の通功を信じ奉る」という後部は、同じ公教会の違う現実あるいは側面を強調します。つまり、この後部は「神秘的事実」としての公教会のことです。「諸聖人の通功」という神秘的事実です。

ところが、この「神秘的事実」としての公教会こそ、「社会上の事実」としての公教会に目的を与え、「社会上の事実」としての公教会をその目的に向かわせるという関係があります。だから、「社会上の事実」としての位階制の公教会と「神秘的事実」としての霊魂たちの通功なる公教会との間に何の矛盾もありません



両方の間は、次の関係にあります。社会上の存在としてのカトリック教会は、公教会に属する霊魂たちあるいは公教会の一員となっている霊魂たちが「諸聖人の通功」の内に生きることが出来るようにする、可能にする社会上の事実としてあるということです。

言い換えると、天下において、今、公教会というのは、必然的に、先ず社会上の事実です。社会上の事実である公教会に属さない限り、諸聖人の通功の内に生きられないし、その通功を享受することもできません。この「諸聖人の通功」というのは、天国に入って初めて永遠となります位階制の公教会は厳密にいうと「地上に属する」社会上の存在です。「諸聖人の通功」というのは天国の専有物です。

だからこそ、両方の側面を混同してはいけません。さらにいうと、天下のこの地上における公教会は単なる「通功(コムニオン)」というか、俗に言われている単なる「一致」とか「共同体」であるなどと信じてはいけません。こういった間違った考え方となる誤謬は、第二ヴァチカン公会議における「教会憲章(Lumen Gentium)」という文章にかなり出てきます。その文章によると、公教会とは、暗に、単なる「通功」のことを言っています。しかし、公教会は「通功」である以前に、先ずこの地上において、位階制の社会上の事実です。ですから、この前部なる側面をじっくりと勉強しなければなりません。

公教会が本当の意味で完全に「通功(コムニオン)」であるのは、天国においてでしかありません。勿論、この地上においても公教会が「通功」でもあるということは言いますが、「社会上の事実」としての公教会に属して初めて、「通功」を享受することは可能となります。言い換えると、公教会は「諸聖人の通功」を可能にするために、先ず必要な「社会上の事実」です。この二つの側面を混同しないで区別するのは非常に大事です。

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天主なる私たちの主イエズス・キリストは、人間の本性を尊重なさいます。「人間の尊厳」などによるものではなく、天主はこのように人間を創り給い、ご自分の創造なさった本性通りに働かれるのです。
「生まれつきの政治的な動物」としての人間を、良き天主は創造し給うたのです。言い換えると、人間が「社会的な動物」であることは、自分の本性に織り込まれているので、「自然に」社会的存在です。

公教会の使命は「本性・自然」に付き加わる「恩寵・超自然」を与えるということにあるのですから、「本性・自然」を否定せず、破滅させないどころか、むしろ「恩寵・超自然」は「本性・自然」とそのすべての「能力・良質・徳」をそのまま受け入れて、それら聖化・精華・完成化し、「超自然の次元」まで高めるという聖寵の働きを助けることです。
「聖寵」というのは「本性」を完全に受け入れるのみならず、更には、本性を治し、精華し、完成化し、高めます。人間は、本性的に「政治的な動物」ですから、良き天主は政治的な動物である本性を当然のことに尊重します。
だからこそ、良き天主は公教会を位階制のある社会として制定しました。人間は、人間として社会で生きる必要がある本性をもつので「恩寵の内に生きている」ことができたとしても、その本性に従って社会において生き続けなければなりません。

また後述しますが、確かに信徒は二つの社会に属します。一方では地上の共通善のためにある国家に属し、他方では天上の至福のために、単なる「通功」だけではない位階制のカトリック公教会にも属します。

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「通功」としての公教会は、位階制としてのカトリック教会が追求している目的です。
要約すると、一つの信条「聖なる公教会、諸聖人の通功を信じ奉る」です。真理として一つしかありません。
全体としての公教会は、地上と天国(と煉獄)にある唯一の公教会です。唯一の玄義です。
カトリック教会という玄義です。
言い換えると、私たちの聖化の玄義、永遠の至福に至らしめる玄義としてのカトリック教会です。
しかしながら、二つの違う側面がしっかりと区別されていて混同してはいけません。
以上、「聖なる公教会、諸聖人の通功を信じ奉る」という信条への入門でした。



これから、まず「聖なるカトリック教会」をご紹介します。
この部分は一番長くなります。というのも、救済を得るために地上にて「聖なるカトリック教会」という社会現実に属すべきという前提ですから、じっくりと見る必要があります。
そして、その後、永遠の至福の専有物である「諸聖人の通功」としての公教会を見ていきます。

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先ず、カトリック公教会ということに時間をかけてご紹介しましょう。まず「教会」という言葉を使う時、ご存知の通り、幾つかの意味があります。
勿論、まず「建物」を指して「教会」といいます。祈るためとか儀式に与るためとか、天主を礼拝するために信徒たちが集まる物質的な場所を指して、「教会」といいます。

それからより広義の意味もあります。聖書に書かれている「教会」はその意味に属します。
つまり、「ある特定の国・ある特定の地域の信徒全員」を指して「教会」という意味で使われています。
例えば黙示録では「ラオディケの教会に知らせに行きなさい」という記録があります。また特定の地域の信徒たちをさして「パリの教会」とか「リオンの教会」とか言われています。あえて言えば、特定の「教区」と理解していただいたら結構です。第一の意味より、この意味はより広義となります。

それから、カトリック教会というのは、以上の意味よりさらに広義です。まさに「公」の付いている公教会ですが、すべての信徒を指し、厳密に言うと「同じ信仰を宣言し、同じ秘蹟を授かり、正当な牧者に従う、すべての信徒たちの社会」です。

つまり、公教会を特徴づける要素は三つあります。
第一、信仰の一性・単一性。それについてまた後述します。また、第二、同じ秘蹟を授かること。つまり同じ信仰と同じ秘蹟。そして、第三に正当なる牧者に対する従順という要素です。この第三の要素は、公教会が「位階制の社会」であるということを示します。つまり、混沌し、ごたまぜになっている信徒たちの大衆・集まりではなく、言わば、多少「民主主義的な集り」ではなく、公教会は頭をもつ社会的な存在です。この頭は「教皇」です。後述しますが、教皇は、諸司教に囲まれて世界を司ります。

以上、公教会が何かをご紹介しました。位階制の社会で、その頭となる権威者は教え、統治します。他方で、カトリックの民は教皇に教えを受け導かれます。カトリック教会です。

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