ファチマの聖母の会・プロライフ

お母さんのお腹の中の赤ちゃんの命が守られるために!天主の創られた生命の美しさ・大切さを忘れないために!

公教会はいつ制定されましたか? 【公教要理】第五十九講

2019年09月11日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理-第五十九講 公教会の制定について



「公教会、諸聖人の通功を信じ奉る」
今回は、信経の第九条第一部について、時間をかけてご紹介しましょう。
「聖なる公教会を信じ奉る」

イエズス・キリストは良き知らせをもたらしに地上に来たり給いました。
「良き知らせ」とは、ギリシャ語で「エヴァンゲリオン」で「福音」です。要するに、福音は「人類が贖罪された」という福(よ)き音(おと)ずれに他なりません。私たちの主は贖罪を人類にもたらし給うと共に、御教えをもたらし、私たちに聖化の方法と聖化の道具をも与え給うたのです。

贖罪・御教え・聖化の方法を与えに来たり給うのですが、主はご自分のなし給うた御業を世々に至るまで続けるように配慮されました。地上におられる間、イエズス・キリストは使徒たちと弟子たちを選びました。彼らに教え、秘跡を託し、聖化の方法を与え給い、使徒たちを通じて、使徒たちを柱にして、真の社会である公教会を制定なさったのです。

その制定の目的は、私たちの主イエズス・キリストの御教えと聖化の方法がいつまでも引き継がれて存続するためです。直接によってイエズスに選ばれた委託を受けた人・代理者・牧者と、これらの選ばれた聖職者らが選ぶ歴代の継承者(聖職者)たちを通じて、御教えと聖化の方法とが継承され続けられるようになさったのです。

公教会はいつまでも時間において存続できるように制定されました。
いや、より厳密に言うと、公教会のおかげで、とりわけ委託を受けた聖職者のおかげで、イエズス・キリストの御業はいつまでも時間において存続できるようになりました。委託を受けた聖職者はイエズス・キリストによって選ばれた使徒たちとその歴代の継承者たちです。

イエズス・キリストの委託を受けた人たち(聖職者たち)は、公教会において、恩寵を本当の意味で授かり、注ぎ広める者です。言い換えると、恩寵を、また、天主の生命を人々に与え、霊魂たちを聖化するために、イエズス・キリストが特定の聖職者たちを選んだのです。一般に信じられがちなことと違い、私たち一人一人の聖化は個別の霊魂と天主なるイエズス・キリストとの直接な関係だけで行われることではありません

当然ながら天主は全能ですが、全能なる天主は人間という副次的原因を通じて恩寵を注ぐことを望まれたのです。良き天主はご自分の恩寵を授与するために、多くの道具を使うことにしたのです。
こういった召使を通じて御業を行うということは、天主の全能さを裏返しに証明しています。つまり、ある国王は完成していればいるほど、ある指導者やある権威者は、完成していればいるほど、あえて言えば、多くの歯車の媒体を通じて司るのです。権威があればあるほど、容易にあっさりに指導権を実行するより、多くの道具・機構・召使を使うのです。

同じように、人間の本性を尊重し、特に社会及び政治的という本性の側面を考慮し、私たちの主は、ご自分の恩寵という天主の生命を私たちの霊魂に注ぐために、特にご自分の委託を受けた人たちを、召使・授与者・道具として使うことになさったのです。
従って、第一の結論を出しておきましょう。使徒たちとその歴代の継承者である、キリストから委託を受けた人たちは、つまり時間において歴代教皇と司教たちこそが恩寵の代理授与者たちです。言い換えると、恩寵はこれらの委託を受けた人である聖職者を通じて人々に与えられるのです。
~~

福音を読んでみると、私たちの主イエズス・キリストは使徒たちに三つの使命を与えたことが明らかになります。この三重の使命から、三重の権威が生まれ、それぞれの三つの使命に、天主なるイエズス・キリストがそれぞれ違う権威を公教会に与え給うたのです。イエズス・キリストが使徒たちに与えた第一の使命は「教える」という使命です。教える使命から、教義上の権威が与えられました。たとえば、聖マテオの福音の第28章にこう記されています。使徒たちに「行け、諸国の民に教え よ」との命令を出し給うのです。
聖マルコも、第16章においてこの「教えよ」というイエズス・キリストの命令について記録しています。「あなたたちは全世界に行ってすべての人々に福音をのべ伝えよ。信じて洗礼を受ける者は救われ」 と仰せになりました。この「信じて」というところに、教える権威が暗に織り込まれているのです。信じるということはある教えに積極的に同意して、ある真理に積極的に同意するということです。つまり、「信じる者が救われる」ということです。イエズス・キリストは使徒たちに「教える」という第一の使命、「教える」権威を、教義上の権威を与え給うたのです。



イエズス・キリストが使徒たちに与えた第二の使命と権威は、「聖化する」という使命と権威です。
司祭上の権威と呼ばれています。福音に現れる第二の使命です。
先ほどの聖マテオの引用の続きですが、イエズス・キリストはこう仰せになりました。「行け、諸国の民に教え、聖父と聖子と聖霊の名によって洗礼を授けよ」 と。要するに、教訓する権威、教義上の権威のさらに上に、霊魂たちを聖化する権能と権威をも与え給うたのです。「聖父と聖子と聖霊の名によって洗礼を授けよ」。
私たちが天国に行ける条件として「信仰を持つこと」というのは勿論ですが、その上に「洗礼を受ける」ことも必要です。信じて洗礼を受ける者だけが救われます。「信じて洗礼を受ける者は救われる」 と仰せになりました。つまり、一般信徒の立場に置いて、救霊を得るために上の二重の権威の許に自分を置くべきです。
司祭の権威である「聖化する」権威と、教義上の権威である「教える権威」の二重の権威の下に自分を置き、救われるために「洗礼を受け」「信じる」ことが必要です。

以上イエズス・キリストが使徒たちに与えた第二の使命と権威ですが、福音の別の所では、イエズスは使徒たちに「聖霊を受けよ。あなたたちが罪をゆるす人に罪がゆるされ、あなたたちが罪をゆるさぬ人は罪をゆるされない」 と仰せになりました。これは、聖化するもう一つの与えられた権能と方法です。「改悛の秘跡」です。また「告解」ともよばれています。告解というのは、天主によって自分の犯した罪がゆるされるために、自分が自分自身を断罪するという秘跡です。霊魂たちを聖化するために与えられた秘跡なのです。また、使徒たちにイエズス・キリストが与え給うたもう一つの司祭上の権能は、最後の晩餐の時に与えられました。つまり、パンとワインを聖変化なさったときに、主は使徒たちに「これを行え」 と命令なさいました。「これを行え」 とは「今やったこの聖変化を」これからもいつまでも「私の記念としてこれを行え」 という明白な命令です。これはその上なく司祭の権能であるミサ聖祭を捧げる使命です。言い換えると、イエズス・キリストに続いて、改めて、パンとワインを私たちの主の御体と御血とに聖変化するという司祭の権威であり使命です。

以上、使徒たちに私たちの主のイエズス・キリストが与え給うた「聖化する」という第二の権威と使命のご紹介でした。


聖福音に記録される第三の使命と権威は指導権です。あえて言えば「導く」権威とも言えます。ここも、先ほどの聖マテオの記録の続きにあります。「行け、諸国の民に教え、聖父と聖子と聖霊の名によって洗礼を授け、私が命じたことをすべて守るように教えよ」 。
「私が命じたことをすべて守るように教えよ」 。

言い換えると、私たちの主は使徒たちに「指導する権威」を与え給うたのです。また、イエズス・キリストの命じたことを守る為に「法律を制定する」という権威も与えられたのです。「法律を制定する」権威を与え給うたことによって、「指導権」あるいは「指揮権」をも与え給うたのです。
以上に見たように、福音に基づくと、公教会、さらに教会において恩寵を授与する委託を受けた人なる聖職者たちは三重の権威を持つということが明らかになります。「教える」権能と「聖化する」権能と「指導」する権能との三重の権威です。

以上から転じる大事な結論があります。私たちの主は、公教会の制定時に、位階制の社会であるように制定されたということです。言い換えると、教会において真の位階制があるのです。つまり、指導する者もあれば、従う者もあるのです。まさに位階制は、「指導者」と「従順者」があるという前提があるのですから。

この位階制をより良く理解するために、さらにより細かく説明してみましょう。
私たちの主イエズス・キリストご自分自身が、公教会の頭として至上の指導者を選定して置き給うたことです。つまり聖ペトロを公教会の頭として選び給うたのです。

私たちの主は聖ペトロに首位権を約束されました。「私は言う。あなたはペトロ(岩)である。私はこの岩の上に私の教会を立てよう。地獄の門はこれに勝てぬ。私はあなたに天の国の鍵を与える。あなたが地上でつなぐものはみな天でもつながれ、地上で解くものは、みな天でも解かれる」 と仰せになりました。聖マテオの第16章です。そういえば、この場面では、イエズス・キリストは使徒「シモン・バルヨナ」を改名し新しい「ペトロ(岩)」の名前を与えます。「ペトロ」は岩という意味ですから、イエズスに改名された聖ペトロこそ教会の岩になって、聖ペトロというその岩の上にイエズス・キリストがカトリック公教会を立てたということを意味します。

聖ペトロこそが、カトリック公教会がその上に立てられた岩です。また、周知のように、ご復活の後に私たちの主が三度も聖ペトロに問う場面からも、聖ペトロの首位権が示されています。この三度の問いは聖ペトロによる三度の否認という罪を償わせるためでもありましたが、「ヨハネの子シモン、あなたはこの人たちよりも私を愛しているのか」 と聖ペトロにイエズスが問い給い、聖ペトロは三度も「主よ、そうです。あなたのご存知の通り、私はあなたを愛しています」 と答えます。
この場面における聖ペトロの答えは以前と違って傲慢心とかが全くなく、謙遜の心のままに答えます。聖ペトロはイエズス・キリストに対する愛を宣言するたびに、二度にわたって主は「私の子羊を牧せよ」 と命令なさいます。そして、三度目の命令は「私の羊を牧せよ」 です。「私の子羊を牧せよ」「私の羊を牧せよ」。要するに「信徒たちを牧せよ。牧者たちを牧せよ」ということなのです。牧者たちというのは、また後述しますが信徒なる子羊を牧すべき全ての牧者(司教たち)を指すのです。
以上、御覧の通り、私たちの主は聖ペトロにすべてにおいて首位的な権威を与え給うのです。

実際においても、公教会の歴史を見る限り、初代から歴代教皇の至上権は常に真の権威として発揮されつづけました。使徒行録を読むだけでも明白です。
使徒行録ではイエズス・キリストに与えられた至上の権威を常に聖ペトロが発揮します。例えば、自殺した使徒ユダの後継者を選ぶのは聖ペトロに他なりません。また、エルサレムに集まった歴史上の最初の公会議を主宰したのも聖ペトロに他になりません。聖ペトロは公教会の頭です。

第一に、イエズス・キリストの委託を受けた人である、選ばれた聖職者たちこそが、天主の恩寵を授与する代理者であることを見ました。
第二に、これは第一の帰結ですが、公教会は位階制の社会であることを見ました。
そして、以上を見て、私たちの主が制定した通り、お望みの通り、第三の結論を言います。
イエズス・キリストは、位階制の公教会を制定しただけではなく、その上に、「君主制」の公教会を制定しました。語源的な意味での「君主制」です。「頭は一つしかいない」という意味です。公教会の唯一の頭(君主)は聖ペトロとその継承者である歴代教皇です。歴代教皇たちは聖ペトロの正当上の継承者たちです。そして、事実上、歴代教皇がカトリック教会の頭です。教皇は聖ペトロの継承者であり、カトリック公教会の君主・元首・頭・指導者なのです。

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。