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「賢明の徳」―四つの枢要徳の妃  【公教要理】第八十七講

2020年04月12日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理-第八十七講 賢明の徳


信徳、望徳、愛徳からなる三つの対神徳を見てから、これから、枢要徳と呼ばれている徳をご紹介していきたいと思っております。
枢要徳とは対神徳ではありません。なぜかというと、天主を直接に対象にする徳ではないからです。枢要徳の対象は基本的にこの世にあって、被創造世界の内にあるための徳なのです。「道徳的な徳」だと区別されています。なぜかというと、具体的にどう行為すべきか(それは道徳の分野ですが)を決めるために助けてくれる徳なのです。道徳という語源は「風俗」にあり、「振る舞う、行為する」という意味です。

そして、道徳的な徳に属する徳は非常に多いですが、いずれか四つの基本的な徳に帰することになります。その四つの基本的な徳を指して、「枢要徳」と呼ばれています。なぜかというと、ラテン語の語源は「Cardo」ですが、これは扉の「肘金」という意味で、まさに「とぼそ(枢)」という意味です。その「肘金」で扉が開閉するように、すべての道徳的の徳は枢要徳を枢軸にしています。

枢要徳には四つからなっています。道徳生活の全部は四つの枢要徳を中心に展開しているということです。枢要徳が四つあるのは、原罪によって我々の四つの大事な能力が傷つけられているためであり、その大きな傷を治すための枢要徳なのです。四つの枢要徳は次の通りです。すなわっち賢明の徳、正義の徳、剛毅の徳、節制の徳です。

賢明の徳とは我々の「実用的な理性」を律する徳です。つまり、具体的な場合に何を決めるべきかを助ける徳です。
それから、正義の徳は意志を律する徳です。つまり、善へ意志を傾かせることを助ける徳です。
剛毅の徳は艱難において感情などを善に向かわせることを助ける徳です。
最後に、節制の徳は欲望などの抑制を助ける徳なのです。以上の四つの枢要徳を基盤に、ほかの多くの徳があります。公教要理においては枢要徳を中心にご紹介することにとどめます。取り敢えず、枢要徳を一つずつご紹介しましょう。

第一の枢要徳は賢明の徳です。枢要徳の内に一番大事な徳だといえましょう。
賢明の徳とは、「正しい基準に基づいて具体的な一つ一つの場合に、何をすべきかを決めることを助ける徳」だという定義です。要するに、公教要理において教わっている多くの原則、原理、信条などを実際の場合に適用することを助ける徳です。

というのもそれらの原理は普遍的なので、そのままの形で賢明の徳に頼るということです。つまり、賢明の徳のおかげで、「Hic et nunc」つまりここ、今、何をすべきかを決めて実行します。つまり、具体的に、今、ここの固有の場合においてどうすべきだろうかということです。

要するに、賢明の徳によって、人生においての多くの具体的な場合にあって、何をすべきかを決めて実行することを助ける徳であります。言い換えると、賢明の徳は現実において、実際の場合、そして具体的な事情に置かれて、普遍的な原理をどう適用すればよいかを明らかにするための徳です。というのも、不動なる不変なる普遍的な原理を適用するのは容易なことではありません。だから、賢明の徳というのは、実用的な理性の完成を助ける徳です。なにをすべきかを教えてくれる徳です。

そういえば、賢明の徳を抜きにして道徳的な徳は存在しないのです。ちなみに、賢明の徳を指して「枢要徳の妃」と呼ばれることが多いです。なぜかというと、もちろん、剛毅、正義、節制に従って行為しなければならないのですが、結局、すべてにおいて、具体的な固有的な場合に適用すべき徳だとして、賢明の徳をも必ず作用するのです。

要注意なのは、適用するからといって、それらの徳や原理は変わることはありませんよ。ただ、事情に合わせて最適にそれらの原理原則を活かすという意味です。
したがって、正義、剛毅、節制を作用する際、それらの事情を考慮するという意味で、賢明の徳も作用しています。つまり、必ず、賢明の徳はかかわってきます。

例えば、節制するように頑張る人が断食することにするとしましょう。その時、賢明の徳は問います。「断食することは可能ですか」つまり、健康を考慮するという意味での可能性。それから「断食しても君の使命を果たし続けられるだろうか」と問います。「断食したら病気になるかどうか」と問います。たとえば「断食したら、相手のために果たすべき義務を果たしうるままになるだろうか」と。などなど。
要するに、節制の徳を適用するときに、賢明の徳は節制の徳を律することになっています。

全く同じく、賢明の徳は正義の徳を律するのです。たとえば、「ある物をある人に返す義務がある」としましょう。「自白して返すべきどうか」「そのもの自体を返すべきか、あるいは違う形でかえすべきか」、事情を考慮するとき、賢明の徳は働きます。従って、賢明の徳はすべての徳の妃なのです。賢明の徳がなければ、他の徳を作用することは不可能となりますから。

賢明の徳をよくうまく作用するために、三つの点が必要となります。つまり、完成された賢明の徳を作用するには三つのことが必要です。賢明の徳には次の三つの要素は不可欠なのです。それは、助言力、判断力、実行力という三つの要素です。
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助言力は賢明の徳の第一の段階だといえましょう。相応しい人から助言を得る段階です。ときどき、何をすべきかについてわからない時があります。自分の理性と経験だけで判断しかねる場合が少なくないのです。だから、相応しい人々に頼って助言を得ます。国王などが「輔弼」を仰ぐということはまさにその意味です。「輔弼会」を設けて、諫言、助言、顧問を聞かせます。それぞれの意見を聞かせてくれます。だから、「賢人」に頼って、豊かな経験のある先輩や老人の助言を求めるのは普通です。そういえば、聖書においてこのような場面があります。ソロモン国王の死後、新しい若き王は年長者たちに頼って助言を得ることをやめて若手からの助言を得ることにします。つまり、経験のない英知のない若手の顧問を受けることにします。案の定、結果は悲惨となりました。

しかしながら、助言を得たからと言って、それだけで賢明に行為したことにならないのです。次の段階は、賢明の徳を作用しようとしている人が判断する必要があります。多くの助言と意見の内に判断して選ぶ必要があります。判断して何をすべきかを決めるという判断力です。それは容易なことでもないのです。なぜかというと、判断する人は判断するときに独りぼっちです。彼の代わりに誰も判断しえないのです。助言を受ける時、多くの人々に囲まれているのですが、判断する際、自分の心において一人で判断することになります。統治者は所詮、多くの諫言や顧問や助言を受けて、どうするかを自分で判断するしかありません。彼が責任者なのです。

で、判断したときに、まだ賢明の徳を完全に作用したとは言えません。第三段階として、判断を実行すべきです。だから、完成なる賢明の徳は、ある個別の行為において完成されています。助言を得た上に判断したことを実行したときにこそ、賢明の徳の作用は完全に完成されました。賢明な人はこのような人です。要するに、助言を得た上に、何をすべきか判断して、実際に行為において実行した人です。

賢明の徳というと、個人的な徳として存在します。つまり、自分の人生において何かについて決める場合、助言を得て判断して実行するときです。しかしながら、同時に賢明の徳は政治的な徳でもあります。賢明の徳は統治者の一番肝心要の徳となります。本物の「頭(かしら)、君」は賢明な人でなければなりません。善き指導者は善き側近を作って、善き助言者に頼るという。非常に政治的な徳なのです。というのも、賢明の徳のおかげで、統治者は善き命令、善き法律を決めて実行できるということです。

賢明の徳に対する罪があります。徳が欠如する場合の罪と徳が過剰な場合の罪があります。つまり、賢明の徳が欠如する場合の罪です。助言を得ないですぐに決めてしまうということで「あわただしくなる」という。言い換えると、助言などを得ないで、あわてて判断して実行するという罪です。第二の欠如は軽率なのです。判断力が足りない時です。第三の欠如は移り気ということです。つまり、判断したのに、実行が中途半端に留まって判断を取り消して別のことを判断するような。第四の欠如は実行においてぞんざいに実行するという。

それから、賢明の徳が過剰な場合の罪もあります。賢明すぎる時です。第一、「肉体の賢明」という過剰罪があります。つまり、物質的あるいは世俗的な利害を重んじすぎるせいで霊的な利害を無視する罪といいます。つまり、天主の名誉を第一に考えるよりも周りの人々はどう考えているかを気にしすぎるような罪。「肉体の賢明」と呼ばれています。場合によって深刻な罪になることもありますよ。

それから、詐欺という罪です。相手をごまかすときです。

それから世俗においての「過剰な配慮」という罪もあります。肉体の賢明との共通点もありますが、つまり、自分の「イメージ」あるいは「評判」に配慮しすぎる時です。いわゆる経済でいう「レピュテーション」というやつですか。なんかの「ブランディング」というやつですね。この世の利害だけを考えて、世俗的なことだけを考えて、配慮しすぎる時です。周りの人々にどう思われるかどう見えるかに配慮しすぎる罪です。

最後に世俗的な、この世的な「将来に関する過剰な配慮」も罪です。つまり、この世での将来について全力を尽くしているのに、天国に入るための準備を忘れるような罪です。要するに、天主のみ前に良くいられることよりも、この世においてよくいられるために配慮しすぎる時です。賢明の徳の過剰です。

以上、賢明の徳をご紹介しました。


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