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詩編50番:ミゼレレ・メイ・デウス(天主よ私を憐み給え!)

2021年04月25日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様によるお説教をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

天主よ、私を憐み給え!Miserere mei Deus

ビルコックBillecocq神父様の説教
2021年3月7日・四旬節の第三の主日
「天主よ、私を憐み給え!Miserere mei Deus」
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン

いと愛する兄弟の皆様、四旬節の間、毎日の聖務日課において、詩編50番の「天主よ、私を憐み給え!Miserere mei Deus」を唱えるようにカトリック教会は用意してくださいました。

詩編50番はこの上なく改悛の詩編です。また望徳に満ちて罪を償う重要な詩編です。
ちなみに、この詩編の番号は「50」となるのもたまたまではありません。というのも、旧約聖書では、天主の命令に従い、50年おきに「大赦の年」がありました。ですから、詩編50番は罪人の望徳を語り、罪人が犯した罪の赦しと聖寵の取り戻しへの望徳を表します。

この詩編はダヴィド王によって作成されました。深刻な罪を犯した際にこの詩編を作りました。いや、厳密に言うと一つの罪ではなく、いくつかの罪を犯したときにダヴィド王がこの詩編を作りました。



ご存じのようにダヴィド王はエルサレム王国を統治するようになって、国の安泰を確保するために、王国のあちこちの拠点を強化して王座を固めるためにイスラエル民の敵と戦っていきます。そして、ある日、軍は敵の都市を包囲していたのですが、ダヴィド王は首都エルサレムに残っていました。そして、ある夜、たまたま眠ることができなくて、屋上に出ました。そして、隣にあった家の屋上に入浴しかける美女が見えました。その時点でダヴィド王の悪い視線はすでに色欲に満ちていました。最初の大罪です。視線による大罪です。



続いて、不潔な欲望を満たそうとする意志の大罪を犯しました。

残念ながら、不潔な欲望を行為に移して不倫を犯しました。三番目の大罪となります。ダヴィド王は連続に三つの大罪を犯したということになります。

それだけでは終わりませんでした。不倫を犯してから、ダヴィド王はこの女性に関する情報を調べて、一人の士官と結婚していることが判明しました。夫は敵の都市の包囲の中で戦って首都にはいませんでした。不倫を隠すため、ダヴィド王は何とかして士官を首都に呼び戻して夫が妻と一緒に寝させたいところです。しかしながら、士官はその呼び戻しを拒否します。軍人なので国王の寵愛を得て戦わないことは論外ですが、仲間たちが戦っている間、自分だけが家に帰って戦えないことが耐えられなかったのです。しかしながら、国王の命令に従わないわけにもいかなかったので、結局、首都に帰りながらも、自分の家には入らず玄関の前に寝ることにしました。要するにある種の苦行というか、とにかく妻と会わないことにします。

ダヴィド王はあらゆる方便を尽くして、士官は妻と寝るようにさせようとします。ダヴィド王は士官に酒を飲ませて酔っ払わせることまでやります。つまり、さらに士官を騙して飲ませる罪を犯しました。

しかしながら、それでも策略は失敗して、士官はダヴィド王の思い通りに妻と会わないままに終わります。ダヴィド王はどうしようもなかったのです。そして、士官は前線に戻る時が来たら、ダヴィド王が現地の司令官宛の書簡を士官に預かってもらい、ヨアブと呼ばれる司令官ですが、司令官に渡すように命令します。

士官の名前はウリアといいますが、渡した指示の中身は恐ろしいものでした。つまり、ダヴィド王は司令官に次のように命じました。「無謀の攻撃を命令し、使者の士官を戦いの一番危ない場所で戦わせるように」という指示です。つまり、ダヴィド王は戦場でウリアという士官を死なせようとしています。そして、ダヴィド王の思い通りにウリアは死にました。ウリアは手紙の中身がわからないまま、司令官に渡し、司令官は無謀な危ない攻撃を命令して、その前線にウリアを置いたのです。そして、ウリアは戦死しました。

これはダヴィド王の五つ目の罪となります。殺人です。ご覧のように、ダヴィド王は連続で大罪を犯し続けます。不潔の視線、不潔な欲望を満たす意志、不倫、詐欺、殺人。聖なるダヴィド王の話ですよ。聖徳に満ちたダヴィド王ですよ。

そのあと、天主はナタンという預言者を出現させたまい、ダヴィド王の下に派遣したもうたのです。そして、ナタンはダヴィド王に謁見され、ある話をします。ご存じのように、よき天主はよくたとえ話を通じて教えを垂れ給いますね。旧約聖書においてもよくありました。


このようにナタンは二人の人についての話をします。一人は貧乏人であり、もう一人は金持ちです。金持ちの者は多くの家畜の持ち主です。貧乏人は子ヤギ一頭しか持たないのです。貧しいですから。貧乏人はこの子ヤギを非常に可愛がっています。彼の唯一なる財産だからです。そしてある日、一人の外国人が訪れたのです。金持ちの家を訪れて一泊のおもてなしを願います。(旧約聖書において、外国人、旅人をもてなすことは最低限の常識でほぼ慣習的に義務化されていました)そうすると、金持ちは貧乏人の子ヤギを奪って、外国人に御馳走させます。

以上の話を聞いたダヴィド王は憤怒しました。「この金持ちの人とはだれなのか?私が彼を罰するから」とナタンに聞き出します。そしてナタンは答えます。「この金持ちの人はあなたです」と。要は、「ダヴィド王よ、あなたエルサレム王国の国王であり、強く大勢の軍隊を持つ者よ、自分の欲望を満たすためにある人の唯一なる妻を奪ったのではないでしょうか。」とナタンが言わんばかりです。

そのとき、ダヴィド王の反応は自慢あるいは傲慢ぶりの要素はほとんどありませんでした。ダヴィドはむしろ謙遜になって頭を下げました。平伏して「主の前に罪を犯した」と認めました。そのあと、詩編50を作成しました。ぜひともこの詩編を読んで、四旬節の間、何度も読み直すように推奨します。この詩編は、現代の我々にとっても、改悛するための模範となります。

この詩編においてダヴィド王はまず、天主の御憐みを平伏して希います。ダヴィド王は自分が犯した罪を認めて、罪の深刻さを理解して痛感します。どれほど罪のせいで不正、不義を犯したか、天主を侮辱したかをダヴィド王は深く感じて自覚して理解しました。

一般的に思われていることと違って、罪は単なる個人的な問題ではないのです。個人にかかわる問題だけではありません。何らかの形で、罪は必ず周辺へ広がり、社会と共通善への弊害を及ぼします。ダヴィド王の犯した罪の場合はかなり自明ですが。

ダヴィド王は最初、天主のみ前に犯した罪を明かしてこれを認めます。「我はなんぢにむかひて獨なんぢに罪ををかし聖前にあしきことを行へり」Tibi soli peccavi domine。「あなたに向かってあなたに対してのみ罪を犯した」。ダヴィド王は自分が犯した罪を認めます。明かします。

いと愛する兄弟の皆様、四旬節の間、我々が覚悟すべき第一の心構えです。自分が犯した罪を認めて明かすことです。つまり、我々は罪人であることを自覚することですが、それだけではなく、具体的に犯した罪を認めることです。罪は天主に対して犯すものです。かならず。というのも、罪は天主を侮辱するからです。「主よ、あなたに向かってあなたに対してのみ罪を犯した」。

過失を自白するお陰でこそ、ダヴィド王は天主の赦しを希うことは可能となります。ダヴィド王は「私は罪人だから、天主の御赦しを願い」とは言わないのですよ。「罪を犯した」と自白します。つまり、具体的な罪を考えて天主のみ前に告白します。いわゆる、「一応罪人」であるから、「まあ、一応の大まかな罪」を認めるだけでは足りません。具体的な罪、つまり天主に対する不義、不正などを意識して痛感することが大事です。

犯した罪の御赦しを平伏して希うと同時に、ダヴィドは天主との仲直りである霊魂における「聖寵の復活」に期待して望徳を実践します。これは、毎週の日曜日の歌ミサの時、詩編50の一部を歌っています。「Asperges me, Domine, hyssopo et mundabor」「主よ、ヒソプもて私に注ぎたまえ、私は浄められるであろう。私を洗いたまえ、私は雪よりも白くなるであろう。」これはダヴィド王の望徳を表します。罪を告白して悔い改める上、天主は赦し給うことへの望徳に満ちています。




いと愛する兄弟の皆様、四旬節の間、我々も望徳に満ちましょう。四旬節は苦行だけではありません。いわゆる辛くて厳しいから絶望を招くような時期ではありません。その逆です。我々が犯す罪を見て、認めて、悔い改める心ができたら、望徳もあふれ出していきます。天主の御憐みへの望み、期待に満ちます。

我らの主は仰せになりました。「医者が要るのは健康な者ではなく病人である。義人ではなく、罪人を招いて悔い改めさせるために私は来た」(ルカ、5、31-32)キリスト教徒の生活を送り、あふれ出す望徳はそこにあります。また、正直に痛ましく自分の罪を明かして告白して、認めて、悔い改めることによってあふれ出す望徳です。

以上は詩編50番の前半に当たります。後半においてダヴィド王は「行動、行為を改めることを約束する」ということです。そうするために、犠牲を捧げます。大事なのは、外面的な生贄だけではありません。ダヴィド王は明らかに綴るのがこの詩編のミソなのです。いわゆる、羊などの生贄だけでは足りません。「あなたはもう生贄を好まれず、供え物をしてもあなたは喜ばれない。天主への生贄とは痛悔する魂である。ああ天主よ、あなたは悔い改め、へりくだる魂を軽んじられない。」

天主は何をお望みでしょうか?もちろん、外面的な犠牲もお望みです。ですから、苦行なども四旬節の間に特に行います。しかしながら、それでは足りないとダヴィド王がこの詩編を通じて教えます。苦行は善いことですが、足りないということです。
「ああ天主よ、あなたは悔い改め、へりくだる魂を軽んじられない。」つまり、痛悔する心、へりくだる心を天主は軽んじないのです。

要するに、外面的にだけ告白して、外面的な償いだけでは足りません。外面的な告白と償いは必要ですが、この上に内面的な痛悔も必要です。言いかえると、自分の罪を認めて、これらを見て告白することによって心が痛むこと、悔いて痛い心になることという意味です。つまり、罪は天主を侮辱するとともに、自分もこのような罪によって悲しまれるということです。天主からの愛を痛感している魂は天主の愛を蔑ろにする罪を悔います。これは罪の痛悔です。

いと愛する兄弟の皆様、要約すると詩編50番において、改悛するために持つべき三つの態度、心構えが教えられています。ダヴィド王は示した模範ですが、現代に至ってもまったく重要であり、倣うべきです。単なる旧約聖書の詩編ではありません。普遍的な教訓を示す詩編です。

三つの教訓です。罪の告白。天主の御憐みへの希望。へりくだって改める心という内面的な犠牲。というのも、実際、内面的に悔い改めたら、罪を償う意志はできて、具体的な償いにもつながるからです。

いと愛する兄弟の皆様、ですから、何度も詩編50番を読むようにしましょう。聖職者なら、聖務日課の朝課で毎日、詩編50番を唱えるのです。痛悔の精神、改悛の精神を深く身に染みるようになるためです。詩編50番は簡単に見つかるはずです。ぜひとも、興味を持って読んでいただくように。黙想していただくように。素晴らしい詩編です。

この詩編を頻繁に黙想すると、かなり深刻な罪を犯したダヴィド王の具体的な事例を通じて、痛悔の精神、改悛のやり方が身についていきます。また、どれほど大きな罪を犯したとしても、天主の御赦しを得られることもダヴィド王の事例からの教訓であり、慰めになりましょう。罪の告白と内面的な痛悔の心による償いはあればどの罪も赦されえます。

ですから、聖母マリアに祈りましょう。引き続き、熱心に四旬節を過ごし続けられるように。また、へりくだる魂、痛悔の心で過ごせるように。アーメン。

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン



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