白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
ミサ聖祭、その制定
Gabriel Billecocq神父
洗礼と堅振の次に、ミサ聖祭を見ていきましょう。
前にもご紹介したように、秘跡を理解するために、秘跡を「自然の人生の流れ(誕生、成長、養い)」に例えてみることができます。
洗礼とは超自然の命を与えます。つまり、超自然における誕生なのです。堅振とは超自然の生命を成長させて、洗礼者をキリストの戦士にすることによって、完成化させます。
それから、今回からご紹介するミサ聖祭、あるいはご聖体という秘跡は超自然の生命を養うのです。言いかえると、超自然の人生における補給なのです。
ミサ聖祭の秘跡はかなり難しい秘跡であり、複雑でもあります。ミサ聖祭には主に二つの異なる現実が重なっていて、この二つの側面をちゃんと理解すべきですから、これから一つずつじっくりとご紹介していきたいと思います。
第一、秘蹟としてのミサ聖祭です。ミサ聖祭は秘跡中の一番偉大なる秘跡となります。一般的にいうと、「御(ご)聖体」の秘跡といいます。
そして、第二、ミサ聖祭という秘跡は「犠牲」あるいは「生贄」を執行することによって実現する秘蹟だということです。要するに、生贄としてのミサ聖祭も次に説明することになります。一般的に、「ミサ聖祭」といった時、犠牲としての側面を重視します。
とりあえず、秘蹟としてのミサ聖祭を見ていきましょう。
~~
ミサ聖祭は秘跡です。まず、ミサ聖祭を指す別の言い方は、フランス語で「Eucharistie」がありますが、ギリシャ語での意味は「感謝の表明」、または「恩返しを施す」、つまり「感謝する」というような意味です。ですから、ミサ聖祭という秘跡を通じて、天主に感謝して、天主への恩返しを実践するような意味があります。
それはともかく、ミサ聖祭の定義は厳密にいうと次のようになります。「ミサ聖祭は一つの秘跡です。その秘跡には、我らの主、イエズス・キリストの御体、御血、ご霊魂、ご神性が葡萄酒とパンの外観の下に、本質的に実際に真に、在(ましま)し給う【あるいは現存し給う】のです」
以上の定義にあるすべての言葉は大事であって、その意味に注意しましょう。
ミサ聖祭には私たちの主、イエズス・キリストは「実際に」、つまり現に目の前にいらっしゃるという意味です。「真に」、つまり、本当の意味で、イエズス・キリストのままにイエズス様はいらっしゃるという意味です。「本質的に」いらっしゃるという意味は後で詳しく説明します。
それから、「イエズス・キリストの御体、御血、ご霊魂、ご神性」がましますということは、イエズス・キリストの全体、人としてのイエズス・キリストと天主としてのイエズス・キリスト、その全てが本当にいらっしゃるという意味です。ただし、目に見える形は普通の体ではなく、「葡萄酒とパンの外観の下に」、イエズス・キリストのすべてはいらっしゃるという意味です。
さて、これから、以上の定義を見ていきましょう。すべての秘跡と同じように、ご聖体の秘跡も「物質的な印」、「天主による制定」、「聖寵の施し」という三点からなっています。
思い出しましょう。秘跡の定義は「我らの主、イエズス・キリストによって制定された物質的な印であって、秘跡は聖寵を施すために制定さた」という定義でした。ミサ聖祭も秘跡なので以上の定義に当てはまります。
つまり、ミサ聖祭は「私たちの主、イエズス・キリストによって制定された物質的な印であって、聖寵を施すために制定された」秘跡です。
さてに最初、イエズス・キリストのミサ聖祭のご制定について見ていきましょう。
~~
ご存じのように、我らの主、イエズス・キリストはミサ聖祭を制定なさったのは死に給った前日、聖木曜日です。マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書にも明記されているほか、聖パウロの手紙においても記述があります。
「私があなたたちに伝えたことは主から預かったことである。すなわち主イエズスは裏切られた夜、パンを取り、感謝したのちそれを裂き、『これはあなたたちのための体である。』」(コリント人への第一の手紙、11、23-24)
我らの主、イエズス・キリストはミサ聖祭を制定なさったことによって、まず、イエズス・キリストは彼がなさった約束を果たし給ったのです。かなり明白にミサ聖祭を制定することを約束なさったのです。実は、約束なさったとき、聞いていた人々はびっくりしてショックを受けていました。聖ヨハネの第六章に記されている場面です。
その前日、我らの主は大きな奇跡を行ったのです。いわゆる、パンの増加の奇跡です。ちなみに、このパンの増加はミサ聖祭を準備する奇跡でもあり、つまりご聖体の玄義を知らせるための奇跡であって、そうすることによってご聖体への理解を助けるためになされたパンの増加の秘跡です。そして、その翌日は準備された人々へご聖体をはっきり示し、約束されます。
カファルナウムという町にいましたが、前日の奇跡、パンの増加のことを見ていた人々、それからその話を聞いていた人々が多く、我らの主のもとに来ます。パンの増加だけでも、現地の多くの人々はイエズス・キリストの天主性を自覚しました。そして、集まっている大衆はイエズス・キリストに「これからもまたずっとずっと、昨日のようにパンを与えてください」と主に頼みに来るという場面です。
その依頼に応じて、イエズス・キリストは次のように答えます。「命のパンはわたしのことだ。」(ヨハネ、6、35)
ご覧のように、我らの主、イエズス・キリストは奇跡を通じて、つまり普通のパンの増加を通じて、目に見えない別の現実を示し給うたのです。「命のパンはわたしのことだ。」と仰せになって、また「私は天から下ったパンだ」(ヨハネ、6,41)とも仰せになります。ここに、旧約聖書のマナになぞらえるのです。マナとは40年間ずっと、聖地に入る前に砂漠にいたヘブライ民族が食べられるために、毎日、天から下った食べ物です。粉のようなマナで、それでパンを作って、そのおかげでヘブライ民族は長年にわたって砂漠にいてもマナを食べて生き残り、聖地にやっと入れました。
「私は天から下ったパンだ」と仰せになります。
さらに、イエズス・キリストは次のことを付き加えます。その時の目撃者にとって、かなり謎めいたお言葉だったと思いますが、そのあとの経緯を見ると意味がはっきりするのです。
「私は天から下った生きているパンである。このパンを食べる者は永遠に生きる。」
繰り返します、ご自分を指して、「私がパンだ」と仰せになっていますね。「私は天から下った生きているパンである。このパンを食べる者は永遠に生きる。」そして、つづいて、
「私の与えるパンは世の命のために渡される私の肉である。」(ヨハネ、6、51-52)と仰せになります。このパンは「生かす」パンだからです。
当時の人々にとってかなり謎めいたお言葉でしたが、そのあとの歴史を知っていると、かなり明白なお言葉です。
ちょっと、当時の人々の反応を想像してください。我らの主、イエズス・キリストは「私は天から下った生きているパンである。このパンを食べる者は永遠に生きる。私の与えるパンは世の命のために渡される私の肉である。」と仰せになります。肉ですよ。当時の人々はこのようなことが言われてもまずピンと来ないことは言うまでもありませんが、非常にショックを受けるのです。なにか、このようにして「私の肉をあなたたちに与えるので、養うパンのようになるので、私を食べてください」というようなことですので、ちょっとこれをはじめて聞いたらびっくりするでしょう。
面白いことに、聖ヨハネは人々の反応を記していますが、意外と人々は何となくわかっていた様子だったのはわかります。「ユダヤ人は互いに議論し合った」。ということは理解しようしていました。謎だったものの。
そういえば、以上の場面の時、使徒たちは追加の説明をイエズス・キリストに頼んでいないのは特徴的です。謎めいたお言葉ですが、あとになって何となくわかっていたということを表します。福音書において、使徒たちは主の箴言がわからないとき、遠慮なくイエズス・キリストにその追加の説明を聞いてみることが多いので、以上のお言葉に対する使徒の反応は例外です。しかも、上の言葉は箴言ではなく、現実のことについて仰せになります。
その時、福音書の次の場面にはこうあります。「そのときから、弟子の多くは退いてイエズスについて来なくなった。【多くのユダヤ人たちはイエズスのお言葉を聞いてショックで受け入れなかったことを表す】イエズスは十二人に向かい、『あなたたちも去っていきたいか」といわれた。シモン・ペトロは『主よ、だれのところにいきましょう。あなたは永遠の命の言葉を有しておられます。また私たちは、あなたが神の聖なるお方であることを知っていますし、信じています。』」(ヨハネ、6、66-69)
以上の場面はイエズス・キリストがミサ聖祭を制定することを約束する場面です。同じ場面のイエズス・キリストのお言葉は次の通りにあります。
「まことにまことに私は言う。人の子の肉を食べず、その血を飲まなければ、あなたたちの中には命がない。私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を有し、終わりの日にその人々を私は復活させる。私の肉はまことの食べ物であり、私の血はまことの飲み物である。」(ヨハネ、6、53-55)
聖ヨハネの福音書の第六章は以上に見た通りに明白です。ミサ聖祭を前もって示す場面です。ここでは、我らの主は霊魂のために霊魂の食べ物としてご自分を与えることを約束なさいます。要するに、ミサ聖祭の約束です。
次に以上の約束を我らの主は果たされます。聖木曜日になってミサ聖祭を制定することによって、御約束を果たされます。最後の晩餐のさい、セナクルで、12人の使徒たちに囲まれて制定なさいます。
制定なさるときも、非常に明白に制定なさいます。周知のように福音においてのミサ聖祭の制定を記す記述には、パンを手にとって「これは私の体である。」と仰せになります。
つまり、私たちの主は「これは私の体に似ている。」あるいは「これは私の体の外観である」あるいは「これは私の体を象徴するものだ」というようなことはおしゃっていません。「これは私の体である。」と仰せになります。
そういえば、私たちの主はいつもいつもはっきりとお言葉を発して、いつも明白でぴったりと現実をそのままに仰せになっています。真理について仰せになっています。「これは私の体である。」と仰せになります。
そして、ご存じのように葡萄酒の杯を手に取って「これは私の血である」と仰せになります。
以上は、我らの主、イエズス・キリストの遺言です。遺言というのは、後世の人々のために遺された宝です。また私たちのために引き継がれた遺産です。私たち、洗礼者が受け取れるこの遺産は何でしょうか?イエズス・キリストの御体です。イエズス・キリストの御血です。言いかえると、イエズス・キリストのおん命です。というのも、前にも紹介したように、おん体とおん血とご霊魂とご神聖はミサ聖祭の秘跡において本当にましますので、イエズス・キリストのすべての生命です。
以上ミサ聖祭の制定を紹介しました。
また、三つの福音書以外にも、聖パウロはコリント人への第一の手紙において、ミサ聖祭の制定を語ります。主な点において福音書と同じ描写となっています。そして、聖パウロもコリント人にはっきりと明白に次のことを言っています。
「だから、相応しい心なしに主のパンを食べ、この杯を飲む者は。主の御体と御血を犯す。」(コリント人への第一の手紙、11、27)
つまり、聖パウロの言葉も明白です。ミサ聖祭では、本当の意味で我らの主、イエズス・キリストの御体と御血が、パンと葡萄酒の外観のもとに、実際に本当に現存なさっておられるのです。
また、ミサ聖祭の制定とその現実はすべての教父たちは揃って改めて確認して断言します。パンと葡萄酒の外観のもとに、実際に本当に現存なさっておられるということはもちろん玄義であって、理性で理解しようともできないわけです。
そして、このような玄義は本当に現実であることのさらなる根拠は、歴史においての多くのご聖体のお陰での奇跡です。ご聖体による奇跡は数えきれないほど多くあって、いつでもどこでも確認されています。最近でも、いわゆる御血が流されて、その血を検査の結果に、本当に血であることが証明されたりしました。
あるいは、逆に、異端者などがご聖体を冒涜した時にちゃんと実証された奇跡が多く起きたことも確認されています。ここにいう奇跡はカトリック教会によって認定されたものだけであって、つまり確認されてしっかりと実証された奇跡のことを言います。今でも見られる奇跡もあちこちあるので、巡礼の地にもなっていることが少なくありません。
あとは、具体的に有名な奇跡でいうと、いわゆるルルドでの多くの奇跡がありますね。ルルドでは司祭は顕示台に安置されているご聖体を捧げながら、病者たちの前に通行するという儀礼があります。そこで、ご聖体をもって十字架を病者の上に切ります。
ルルドで実証的に確認された奇跡は非常に多いわけです。ご興味あったら、どうぞご確認ください。非常に多いので確認しやすいのです。このような奇跡はご聖体には本当に我らの主、イエズス・キリストが現存しておられることを証明する、さらにご聖体の現実を根拠づける奇跡です。
イエズス・キリストは本当に、実際に、ご聖体におられるのです。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
公教要理 第百十一講 ミサ聖祭、その制定
ミサ聖祭、その制定
Gabriel Billecocq神父
洗礼と堅振の次に、ミサ聖祭を見ていきましょう。
前にもご紹介したように、秘跡を理解するために、秘跡を「自然の人生の流れ(誕生、成長、養い)」に例えてみることができます。
洗礼とは超自然の命を与えます。つまり、超自然における誕生なのです。堅振とは超自然の生命を成長させて、洗礼者をキリストの戦士にすることによって、完成化させます。
それから、今回からご紹介するミサ聖祭、あるいはご聖体という秘跡は超自然の生命を養うのです。言いかえると、超自然の人生における補給なのです。
ミサ聖祭の秘跡はかなり難しい秘跡であり、複雑でもあります。ミサ聖祭には主に二つの異なる現実が重なっていて、この二つの側面をちゃんと理解すべきですから、これから一つずつじっくりとご紹介していきたいと思います。
第一、秘蹟としてのミサ聖祭です。ミサ聖祭は秘跡中の一番偉大なる秘跡となります。一般的にいうと、「御(ご)聖体」の秘跡といいます。
そして、第二、ミサ聖祭という秘跡は「犠牲」あるいは「生贄」を執行することによって実現する秘蹟だということです。要するに、生贄としてのミサ聖祭も次に説明することになります。一般的に、「ミサ聖祭」といった時、犠牲としての側面を重視します。
とりあえず、秘蹟としてのミサ聖祭を見ていきましょう。
~~
ミサ聖祭は秘跡です。まず、ミサ聖祭を指す別の言い方は、フランス語で「Eucharistie」がありますが、ギリシャ語での意味は「感謝の表明」、または「恩返しを施す」、つまり「感謝する」というような意味です。ですから、ミサ聖祭という秘跡を通じて、天主に感謝して、天主への恩返しを実践するような意味があります。
それはともかく、ミサ聖祭の定義は厳密にいうと次のようになります。「ミサ聖祭は一つの秘跡です。その秘跡には、我らの主、イエズス・キリストの御体、御血、ご霊魂、ご神性が葡萄酒とパンの外観の下に、本質的に実際に真に、在(ましま)し給う【あるいは現存し給う】のです」
以上の定義にあるすべての言葉は大事であって、その意味に注意しましょう。
ミサ聖祭には私たちの主、イエズス・キリストは「実際に」、つまり現に目の前にいらっしゃるという意味です。「真に」、つまり、本当の意味で、イエズス・キリストのままにイエズス様はいらっしゃるという意味です。「本質的に」いらっしゃるという意味は後で詳しく説明します。
それから、「イエズス・キリストの御体、御血、ご霊魂、ご神性」がましますということは、イエズス・キリストの全体、人としてのイエズス・キリストと天主としてのイエズス・キリスト、その全てが本当にいらっしゃるという意味です。ただし、目に見える形は普通の体ではなく、「葡萄酒とパンの外観の下に」、イエズス・キリストのすべてはいらっしゃるという意味です。
さて、これから、以上の定義を見ていきましょう。すべての秘跡と同じように、ご聖体の秘跡も「物質的な印」、「天主による制定」、「聖寵の施し」という三点からなっています。
思い出しましょう。秘跡の定義は「我らの主、イエズス・キリストによって制定された物質的な印であって、秘跡は聖寵を施すために制定さた」という定義でした。ミサ聖祭も秘跡なので以上の定義に当てはまります。
つまり、ミサ聖祭は「私たちの主、イエズス・キリストによって制定された物質的な印であって、聖寵を施すために制定された」秘跡です。
さてに最初、イエズス・キリストのミサ聖祭のご制定について見ていきましょう。
~~
ご存じのように、我らの主、イエズス・キリストはミサ聖祭を制定なさったのは死に給った前日、聖木曜日です。マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書にも明記されているほか、聖パウロの手紙においても記述があります。
「私があなたたちに伝えたことは主から預かったことである。すなわち主イエズスは裏切られた夜、パンを取り、感謝したのちそれを裂き、『これはあなたたちのための体である。』」(コリント人への第一の手紙、11、23-24)
我らの主、イエズス・キリストはミサ聖祭を制定なさったことによって、まず、イエズス・キリストは彼がなさった約束を果たし給ったのです。かなり明白にミサ聖祭を制定することを約束なさったのです。実は、約束なさったとき、聞いていた人々はびっくりしてショックを受けていました。聖ヨハネの第六章に記されている場面です。
その前日、我らの主は大きな奇跡を行ったのです。いわゆる、パンの増加の奇跡です。ちなみに、このパンの増加はミサ聖祭を準備する奇跡でもあり、つまりご聖体の玄義を知らせるための奇跡であって、そうすることによってご聖体への理解を助けるためになされたパンの増加の秘跡です。そして、その翌日は準備された人々へご聖体をはっきり示し、約束されます。
カファルナウムという町にいましたが、前日の奇跡、パンの増加のことを見ていた人々、それからその話を聞いていた人々が多く、我らの主のもとに来ます。パンの増加だけでも、現地の多くの人々はイエズス・キリストの天主性を自覚しました。そして、集まっている大衆はイエズス・キリストに「これからもまたずっとずっと、昨日のようにパンを与えてください」と主に頼みに来るという場面です。
その依頼に応じて、イエズス・キリストは次のように答えます。「命のパンはわたしのことだ。」(ヨハネ、6、35)
ご覧のように、我らの主、イエズス・キリストは奇跡を通じて、つまり普通のパンの増加を通じて、目に見えない別の現実を示し給うたのです。「命のパンはわたしのことだ。」と仰せになって、また「私は天から下ったパンだ」(ヨハネ、6,41)とも仰せになります。ここに、旧約聖書のマナになぞらえるのです。マナとは40年間ずっと、聖地に入る前に砂漠にいたヘブライ民族が食べられるために、毎日、天から下った食べ物です。粉のようなマナで、それでパンを作って、そのおかげでヘブライ民族は長年にわたって砂漠にいてもマナを食べて生き残り、聖地にやっと入れました。
「私は天から下ったパンだ」と仰せになります。
さらに、イエズス・キリストは次のことを付き加えます。その時の目撃者にとって、かなり謎めいたお言葉だったと思いますが、そのあとの経緯を見ると意味がはっきりするのです。
「私は天から下った生きているパンである。このパンを食べる者は永遠に生きる。」
繰り返します、ご自分を指して、「私がパンだ」と仰せになっていますね。「私は天から下った生きているパンである。このパンを食べる者は永遠に生きる。」そして、つづいて、
「私の与えるパンは世の命のために渡される私の肉である。」(ヨハネ、6、51-52)と仰せになります。このパンは「生かす」パンだからです。
当時の人々にとってかなり謎めいたお言葉でしたが、そのあとの歴史を知っていると、かなり明白なお言葉です。
ちょっと、当時の人々の反応を想像してください。我らの主、イエズス・キリストは「私は天から下った生きているパンである。このパンを食べる者は永遠に生きる。私の与えるパンは世の命のために渡される私の肉である。」と仰せになります。肉ですよ。当時の人々はこのようなことが言われてもまずピンと来ないことは言うまでもありませんが、非常にショックを受けるのです。なにか、このようにして「私の肉をあなたたちに与えるので、養うパンのようになるので、私を食べてください」というようなことですので、ちょっとこれをはじめて聞いたらびっくりするでしょう。
面白いことに、聖ヨハネは人々の反応を記していますが、意外と人々は何となくわかっていた様子だったのはわかります。「ユダヤ人は互いに議論し合った」。ということは理解しようしていました。謎だったものの。
そういえば、以上の場面の時、使徒たちは追加の説明をイエズス・キリストに頼んでいないのは特徴的です。謎めいたお言葉ですが、あとになって何となくわかっていたということを表します。福音書において、使徒たちは主の箴言がわからないとき、遠慮なくイエズス・キリストにその追加の説明を聞いてみることが多いので、以上のお言葉に対する使徒の反応は例外です。しかも、上の言葉は箴言ではなく、現実のことについて仰せになります。
その時、福音書の次の場面にはこうあります。「そのときから、弟子の多くは退いてイエズスについて来なくなった。【多くのユダヤ人たちはイエズスのお言葉を聞いてショックで受け入れなかったことを表す】イエズスは十二人に向かい、『あなたたちも去っていきたいか」といわれた。シモン・ペトロは『主よ、だれのところにいきましょう。あなたは永遠の命の言葉を有しておられます。また私たちは、あなたが神の聖なるお方であることを知っていますし、信じています。』」(ヨハネ、6、66-69)
以上の場面はイエズス・キリストがミサ聖祭を制定することを約束する場面です。同じ場面のイエズス・キリストのお言葉は次の通りにあります。
「まことにまことに私は言う。人の子の肉を食べず、その血を飲まなければ、あなたたちの中には命がない。私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を有し、終わりの日にその人々を私は復活させる。私の肉はまことの食べ物であり、私の血はまことの飲み物である。」(ヨハネ、6、53-55)
聖ヨハネの福音書の第六章は以上に見た通りに明白です。ミサ聖祭を前もって示す場面です。ここでは、我らの主は霊魂のために霊魂の食べ物としてご自分を与えることを約束なさいます。要するに、ミサ聖祭の約束です。
次に以上の約束を我らの主は果たされます。聖木曜日になってミサ聖祭を制定することによって、御約束を果たされます。最後の晩餐のさい、セナクルで、12人の使徒たちに囲まれて制定なさいます。
制定なさるときも、非常に明白に制定なさいます。周知のように福音においてのミサ聖祭の制定を記す記述には、パンを手にとって「これは私の体である。」と仰せになります。
つまり、私たちの主は「これは私の体に似ている。」あるいは「これは私の体の外観である」あるいは「これは私の体を象徴するものだ」というようなことはおしゃっていません。「これは私の体である。」と仰せになります。
そういえば、私たちの主はいつもいつもはっきりとお言葉を発して、いつも明白でぴったりと現実をそのままに仰せになっています。真理について仰せになっています。「これは私の体である。」と仰せになります。
そして、ご存じのように葡萄酒の杯を手に取って「これは私の血である」と仰せになります。
以上は、我らの主、イエズス・キリストの遺言です。遺言というのは、後世の人々のために遺された宝です。また私たちのために引き継がれた遺産です。私たち、洗礼者が受け取れるこの遺産は何でしょうか?イエズス・キリストの御体です。イエズス・キリストの御血です。言いかえると、イエズス・キリストのおん命です。というのも、前にも紹介したように、おん体とおん血とご霊魂とご神聖はミサ聖祭の秘跡において本当にましますので、イエズス・キリストのすべての生命です。
以上ミサ聖祭の制定を紹介しました。
また、三つの福音書以外にも、聖パウロはコリント人への第一の手紙において、ミサ聖祭の制定を語ります。主な点において福音書と同じ描写となっています。そして、聖パウロもコリント人にはっきりと明白に次のことを言っています。
「だから、相応しい心なしに主のパンを食べ、この杯を飲む者は。主の御体と御血を犯す。」(コリント人への第一の手紙、11、27)
つまり、聖パウロの言葉も明白です。ミサ聖祭では、本当の意味で我らの主、イエズス・キリストの御体と御血が、パンと葡萄酒の外観のもとに、実際に本当に現存なさっておられるのです。
また、ミサ聖祭の制定とその現実はすべての教父たちは揃って改めて確認して断言します。パンと葡萄酒の外観のもとに、実際に本当に現存なさっておられるということはもちろん玄義であって、理性で理解しようともできないわけです。
そして、このような玄義は本当に現実であることのさらなる根拠は、歴史においての多くのご聖体のお陰での奇跡です。ご聖体による奇跡は数えきれないほど多くあって、いつでもどこでも確認されています。最近でも、いわゆる御血が流されて、その血を検査の結果に、本当に血であることが証明されたりしました。
あるいは、逆に、異端者などがご聖体を冒涜した時にちゃんと実証された奇跡が多く起きたことも確認されています。ここにいう奇跡はカトリック教会によって認定されたものだけであって、つまり確認されてしっかりと実証された奇跡のことを言います。今でも見られる奇跡もあちこちあるので、巡礼の地にもなっていることが少なくありません。
あとは、具体的に有名な奇跡でいうと、いわゆるルルドでの多くの奇跡がありますね。ルルドでは司祭は顕示台に安置されているご聖体を捧げながら、病者たちの前に通行するという儀礼があります。そこで、ご聖体をもって十字架を病者の上に切ります。
ルルドで実証的に確認された奇跡は非常に多いわけです。ご興味あったら、どうぞご確認ください。非常に多いので確認しやすいのです。このような奇跡はご聖体には本当に我らの主、イエズス・キリストが現存しておられることを証明する、さらにご聖体の現実を根拠づける奇跡です。
イエズス・キリストは本当に、実際に、ご聖体におられるのです。