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堕落(原罪)について 【公教要理】 第十六講

2019年01月26日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理-第十六講  堕落について




楽園では、人間は幸福でした。人間の本性と調和して、無条件に寛大に天主から給った聖徳や聖寵といった超自然の賜物のおかげで、それから前回に見てきた外自然の四つの賜物(天賦の知識、保全、平安、不死)のおかげで、人間は幸福でした。当時の人生は、計り知れないほどに光彩陸離、光が乱れ輝き、まばゆいばかりに美しいものでした。

要するに、楽園にアダムとエワは住んでいて、楽園の世話をすることを一任されていました。
この楽園では、特別な樹木が二本ありました。一本目は、「生命の樹」と呼ばれています。この樹の果実は、アダムとエワは食べても良く、人間の不死性を維持させていた果実でした。あるいは、体の絶えざる若さの維持を可能にした果実だとも言えます。そのお陰で、アダムとエワが不死のままにいられました。しかも、アダムとエワがこの果実を食べない日があっても、死ぬことは決してなく、単に、静かに、無碍に、地上より天に昇って、天主の内に、見神の至福を享受できることになっていました。

しかしながら、もう一本の樹木がありました。試練の樹木です。「善悪を知る木」でした。そうなのです。この樹木の果実を指して「食べてはならぬ」という掟を天主は仰せになりました。要するに、楽園において、この木だけは果実の摂取禁止で、立ち寄ってはいけない樹木は唯一この「善悪を知る木」だけでした。考えてみると、どれほど小さな禁断、小さな掟でしょうか。アダムとエワにして、どれほど小さな試練だったでしょうか。

しかしながら、永続的な試練だったとも言えます。一時に限っての試練ではなく、つまり例えば「一週間の間にこの木の実を食べてならぬ」というような天主の掟ではありません。いや、その木があって、「一切、いつまでも、この木の実を食べてはならぬ」という掟でした。アダムとエワに限らないで、子孫も含めて「食べてはならぬ」という掟でした。しかも、「その木の実を食べたら、必ず死なねばならぬからだ」と天主が警告したわけです。

そこで、「善悪を知る木」と呼ばれている樹木は、所謂「知識」を得しめる木ではありません。天主が、アダムとエワに対して、ある知識を奪ったことでもありませんから。全く違います。この「善悪を知る」といった表現は、「実践的に、実際に悪を経験する」という意味に他なりません。残念ながら、知識でもなんでもありませんね。「悪を知る」というのは、「悪を経験し実践する」ということで、知識だとは言えません。堕落に他なりません。従って、「この木の実を食べてはならぬ」との掟を天主が仰せになります。

ところで、アダムとエワが誘われることになります。先ず、エワが悪魔に誘われました。聖書の創世記において、この誘惑の話があります。史実、実話です。ヘビの姿をとって、悪魔が登場してくる有名な場面です。で、ヘビがエワに声をかけて、話し合いが始まります。



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「『園のどんな木の実も食べてはいけない』と、天主に言われたそうだが、本当か」と悪魔が質問します。

女性がこう答えます。「園にある木の実は食べてもいいのです。ただ、園の奥にある木の実だけについては、『それを食べても、それに触れてもいけない、そうすると死ぬことになる』と、天主に言われました」。

そして、ヘビはこう言い返します。「いや、そんなことで死にはしない。」これは嘘ですね。「いや、そんなことで死にはしない。お前たちがその実を食べれば、そのとき目が開け、善と悪を知る天主 のようになると、天主は知っているのだ」。「天主のようになる」と。誘惑の仕方は流石ですね。

「天主のようになる」と悪魔が誘います。前にも見ましたが、その悪魔こそが、自分に「天主と同等」になろうとして、誘惑に負けたのです。この悪魔が、「自分自身において、自分のやり方で、幸せを見つけ」ようとしたのです。大天使聖ミカエルが、それに対して、「天主に等しい者などいるものか」と言い返したほどです。要するに、悪魔は、エワに向けて、自分と同じ誘惑を言い出すわけです。「天主のようになる」と。

因みに、この誘惑こそは、全人類史を眺めてみたら、いつも確認できる大誘惑なのではないのでしょうか。つまり、天主になろうとする欲望ですね。被創造界と全宇宙の主になろうとする誘惑ですね。天主を捨ててまで、天主のようになりたいと強い誘惑になっています。

余談はさておいて、元のお話に戻りましょう。
「善と悪を知る天人のようになる」。でも、エワは、既に、なんと素晴らしい賜物を享受していたことでしょうか!聖寵を通じて、ある意味で、もう既に天主のようになっていたなのではないでしょうか。

毎日、天主と話し合うことができていたのです。楽園において、天主がアダムとエワと話すために頻繁にいらっしゃっていたとあるからです。その時に、天主に直接にどうすれば良いか、聞いてみたらよかったのに。それほど親しい存在でしたので、簡単でした。しかも、それほど多い賜物の享受を享受していることも、エワが自覚して、ちゃんと知っていたことなのに。

「天主のようになる」。それから、「女には、その木の実がうまそうで、見ても美しく、成功をかち取るには望ましいもののように思えた。そこで女は、その木の実を取って食べ、一緒にいた男にも与え、男もそれを食べた」。堕落です。罪です。なぜ罪なのかというと、アダムとエワが、天主の掟を破ってしまったからです
この罪の特徴は、勿論、第一に天主に対する反逆であるものの、また「見ても美しく」等からわかるように、悪い欲望としての色欲の罪でもあります、しかしながら、それよりもその上に、ひと先ずに傲慢としての罪なのです。

天主と同等なるぞという傲慢に他なりません。つまり、被創造物が、被創造物にもかかわらず、創造主の場所に立とうとする傲慢です。創造主に何も恩義などない!と信じ込んでいる被創造物の傲慢です。また、自分自身において、自分のすべての生命と存在を見つけることができる!という傲慢です。傲慢は、最初の男と女の犯した、最初の罪です。この罪を指して、原罪と言います。大罪です。この罪を犯してしまったせいで、即座に天主の敵に回ってしまいました。天主に対する反逆に他ならないからです。

「天主のようになる」。「いや、そんなことで死にはしない。善と悪を知る天主のようになると、天主は知っているのだ」と。
要するに、以上の誘いを受けいれてしまったせいで、自分自身において、天主との関係なしに、自力で、自分のすべての幸せと存在を手に入れるために、天主と離れてしまったわけです。この傲慢なる罪のせいで、天主を捨てて、被造物を高揚してしまいました。大罪です。また、今度詳しく見ますが、大罪の定義は、まさに、天主と離れてしまうことです。まさに、アダムとエワがやったことです。

「天主のようになる」。言い換えると、「天主に頼らなくても何とかなる」と信じてしまったからです。そこで、禁断の実を食べてしまいました。
天主を捨ててしまったと同時に、天主との親睦をも失ったのです。もう極まりない悲惨、大惨事でした。未曾有の大惨事でした。この傲慢の罪としての原罪は、色欲の罪と好奇の罪と反逆の罪でしたが、アダムとエワにおいて、凄まじく恐ろしい状態を産みました。当然です。天主を捨ててしまいました。天主を追い出して、その代わりに、自分が天主の同等だぞと言い出してしまいましたからです。

天主を追い出したと同時に、天主より無条件に与えられたすべての賜物をも捨てたわけです。すぐさまに、無条件に与えられていた賜物も消えてしまいました。聖寵も、信仰と望徳と愛徳なる聖徳も、聖霊の賜物も。これらは、人間の霊魂に置かれた天主の生命そのものでしたので、天主を捨てたら、その生命をも捨ててしまいます。これらの無条件の賜物を失ったわけです。

しかも、同時に、余分に与えられていた外自然の賜物をも失ってしまいました。寛大に、無条件に豊富に天主より賜っていた賜物です。天主を追い出すことによって、同時に、天主から給っていた無条件性をも捨ててしまいました。

聖書に「二人の目が開け」とあります。天賦の知識も保全も失い(つまり、人間の情欲は意志に対して反逆するようになり)、平安も不死も失いました。
「二人の目が開け」に続いて、「自分たちが裸でいるのが分かった」と聖書に強調されています。勿論、以前にも、お互いに裸だったことが見えていたわけですが、しかしながら、まだ色欲などは一切なかったわけです。保全の賜物のお陰で、意志がすべてを調和的に律していたからです。まだ、何の欲望もありませんでした。下は上にちゃんと従っていたからです。つまり、体が霊魂に従い、それから、霊魂が天主に従っていたからです。

しかしながら、原罪のせいで、天主と切り離されたわけです。従って、霊魂は自分自身へ向いていましたが、霊魂が天主と切り離されたもう一つの結果として、下のレベルも、感覚上のレベルも、同様に霊魂から切り離されたのです。また、意志と知性が天主に反逆したと同様に、霊魂に対して肉体も反逆するようになりました。肉体も反逆してしまいました。それで、初めて色欲が、アダムとエワの霊魂に生まれました。「自分たちが裸でいるのが分かった」と。悲惨でした。凄まじい大参事でした。

とはいえ、我々が、アダムとエワの代わりにいたのなら、彼らより旨くできたはずとは信じてはいけません。彼らは、出来るだけの、最大の賜物を享受していたからです。にもかかわらずに、自由意思をも持っていました。残念ながら、堕落しました。原罪です。

第一に、無条件に与えられて賜物を失いました。それだけに留まらずに、自然的な能力においても、傷つきました。
「傷ついた」という時に、つまり、我々の諸自然能力などは、ある目的のために作用する諸能力ですが、まっすぐであったのに、もうそうではなくなりました。もう、かかる能力を作用することが、辛くなり、辛うじてできるようになってしまったのです。もう、知性を作用することも難しくなってきました。常に、善を求めることも難しなってきました。人間の意志にして、自分の感覚上の情熱を改めることは難しくなってきました。人間の情欲を調整することも難しくなってきました。

なにか、人間の心が乱れ、常に大騒ぎになっているかのように、あちこち遠心的に引き裂かれたかのようになってしまい、それを律するのが難しくなってきました本性が傷ついたとは、以上の意味です。

しかしながら、本性は、本質的に、悪となったわけではありません。人間の本性は、そのままに一貫して保全されています。人間というと、霊魂と体との両方を持っているままです。既にみたことですが、この本性は人間を特徴づける自然的な賜物です。本性は即自に善のままなのです。傷ついたのは、本性ではなく、その作用です。その実践なのです。

要するに、原罪のせいで、ある生々しい傷を霊魂に受けてそれが残ったままであるかのようです。しかしながら、傷があるからとはいっても、霊魂は霊魂として悪になったわけではないのです。
霊魂の作用の実践において、うまく行かなくなってしまったので、そのおかしな仕方は悪を生みます。しかしながら、霊魂を持っていることが悪いのでは決してありません。
原罪の結果は、以上に見たとおりです。



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