白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
「われは、天地の創造主、全能の父なる天主を信じます」
前回、人間の本性について見てきました。限りなく素晴らしい本性です。というのも、人間はその知性 と意志をもって、天主の知性と意志に参与するからです。聖書によれば、人間は「天主に象って創られた」とある通りです。創られました。
そこで、人間の霊魂は、直接に天主がこれを創ったことを念に置くべきです。したがって、我々一人一人の霊魂は、物質からなるのではないのです。霊魂は霊的な存在です。不滅です。
つまり、天主は、存在を与え給うた一人一人の人間のために、一個の霊魂を創るわけです。それで、霊魂は、肉体に宿りに来るような感じです。天主は、人間の霊魂の創り主です。人間の霊魂は、肉体よりも両親よりも生まれるのではありません。人間の霊魂は、或いは人類として特徴づける霊魂は、動物系の系統より生じていません。
更にいうと、信仰をもって信じるべき信条もあります。教会の教義となっているこの信条を信じるべきです。
つまり、すべての人間は、ただ一つの夫婦より出でる信条です。単元説と呼ばれています。要するに、すべての人、つまり人類全般は、皆、アダムとエワ(英語で外自然のと言う)より出ると。天主に最初に創られた男性と最初に創られた女性より皆人間は出ています。これは信条です。つまり、この真義を拒絶するのなら、異端者になってしまいます。人は皆がアダムとエワより出ます。
天主は、創造の御業の最後に、人間を創り給うたのです。アダムです。その最初の人は、幸福のうちに創られたわけです。創造のすべての主(ぬし)として人が創られました。アダムこそが、それぞれの動物を名付けました。また、すべてがアダムに従っています。
楽園に置かれて、至福、幸福、罪の無い状態で創られました。そこで、「人間は一人きりでいるのは良くない」と聖書にあるように、天主は男の伴侶として女を創りました。良く知られている場面ですが、天主はアダムを眠りに入らせて、アダムのあばら骨一本からエワを取り出します。最初の女性です。人類の母のエワです。
~~
つまりアダムとエワは、地球に住んだ最初の夫婦です。罪の無い状態で創られた二人ですが、至福と幸福の場所なる楽園に住んでいました。天主は、二人に対して特別な恵みを与え給いました。前に既に見たように、先ず、人間の本性を与え給いました。つまり、肉体と霊魂を与え、両方の間の完全な調和がありました。さらに、その上に、天主の寛大なことに、他にいくつかの賜物を人間に与え給いました。
先ず、超自然的な賜物があります。人間本性を遥かに超える賜物です。天主の御計(はか)らいは「人間を御自分の神性なる御生活に参与させる」という神意なのです。だから、「聖寵」と呼ばれる恵みを与え給いました。言い換えると、天主の命の何らかを聖寵として与え給いました。それで、天主と共に、天主の内に生きることができるように、また、天主の神聖なる生命との交りがあるように、聖寵を与え給いました。前に紹介した三位一体の生命を分かち合うためです。
要するに、天主は超自然な賜物を与え給うたのです。言い換えると、自然に属さない賜物で、我々人間を限りなく超える賜物のことです。「聖寵」と呼ばれます。
アダムとエワの霊魂において、かかる「聖寵」が宿っていました。つまり、「天主の生命」がアダムとエワの霊魂に絶えずに流れ溢れていたかのようです。そのお陰で、常に天主と共に生きることができていました。
聖寵のおかげで、天主の生命はもちろん、その上に、聖寵に従って行動できる能力も備わっていました。これは超自然的な聖徳とも呼ばれています。天主は、アダムに超自然的な聖徳、つまり信徳、望徳、愛徳をも与え給いました。これらについてはまた、いずれ、触れたいと思います。
その上に、道徳上の聖徳も与え給いました。それらの聖徳のおかげで、アダムとエワは、人間の力だけで行動するよりも、遥かに優れた振る舞いをすることができました。
~~
以上の聖徳の他に、聖霊の賜物も与えられました。これも、また、今度詳しく紹介しますが、上智、聡明、賢慮、剛毅、知識、孝愛、敬畏からなっています。
要するに、天主は御自分の生命の何らかをアダムとエワの霊魂に注ぎ給うたわけです。なんと素晴らしいことでしょう!なんという恩寵!なんという天主から人間への賜物でしょうか!ちなみに、これらの賜物自体は、人間という被造物への天主の特別の愛の証に他なりません。
しかも、さらに追加の賜物をさらに与えることになさいました。この賜物は超自然的ではありません。つまり、人間の本性を完全に超える別次元に属する賜物なのではないのですが、自然(natura)の外にある・横にある(praeter)、「外自然・過自然(praeter-naturalis)」と呼ばれる賜物を与え増しました。要するに、自然次元に属する賜物であるものの、大自然の法則を挑むかのような賜物という意味です。
四つの外自然の賜物がアダムとエワの霊魂に与えられていました。この賜物を見て、人間なら、かなり羨ましく思うことがあります。
第一の賜物は、天賦の知識です。アダムとエワは、大人の状態で創られ、成人に相応しい、必要とされる知識を既に注入されていたことは、ある意味で当然です。ちなみにいうと、これらの賜物は、勿論、(原罪を犯さずにアダムとエワに子供が生まれていたとしたら)子供たちにも与え続けられるはずでした。勿論、子供は習わざるを得ませんが、天賦の知識の賜物のお陰で、容易に速やかに習得しえたはずでした。残念ながら、我々なら、余りにもそうは行きませんね。容易に習得しただけではなく、喜びに溢れて習えたはずです。
第二の賜物は、保全という賜物です。分かりにくいかもしれません。要するに、意志が感覚的・感情的欲望を完全に支配できる能力、という賜物です。前回見た通りに、動物の次元に属する感情である、愛情、欲情、嫌悪感、憤怒感などを支配します。前回に並べた感情のことです。それらは、アダムとエワにとって、意志により良く抑制され、完全に調整されていたわけです。感情的になって過剰に反応したり、溢れ出したりことはなかったのです。完全に一定方向に導かれていました。「支配」とは、圧倒されるという意味ではなく、ある一定方向に導くという意味での支配です。完全に調和されているという意味です。これが保全の賜物です。
今の我々人間は、この賜物を経験したことはありません。感情が溢れ出して、どうしても意志がそれを支配しきれない時があります。だれでも、経験したことがあるところです。なにか、非常な恐怖を感じたり、満ち溢れた歓喜を経験したりしますね。または、どうしても重苦しい悲しみとか。非常な怒りとか。いずれにしても、誰でも経験したように、非常に強くて溢れ出してしまう感情です。その経験らを見ても、我々の意志が、感情を完全に導く能力を失ったことをよく示します。保全の賜物のお陰で、当初はできましたが。
御覧の通りに、これが超自然上の賜物ではありません。外自然で、自然の水準に属するのですが、何か余分のことを自然に足すという感じですね。
第三の賜物として、平安の賜物と呼ばれています。この賜物こそ、特に羨ましく思うかもしれません。というのも、平安の賜物のお陰で、アダムとエワは、苦しみも病いも知らなかったからです。幸いなる状態でした。
にもかかわらず、天主は、更に第四の賜物を与え給いました。苦しみからも病からも守ら得ていましたが、その上に、不死の賜物をも与え給いました。つまり、我々が経験しているように、死を悲痛のようなこととして、アダムとエワは当初のままなら経験しなかったはずでした。死というのは、張り裂けることでもなんでもなくて、単に死が存在しなかっただけです。アダムとエワは不死でした。
天使と同じく、以上のような至福な状態のままに創られました。楽園で、人間的至福のままの状態で創られました。
しかしながら、天使のように、人間のためにも、試練は用意されていました。この試練次第で、天主への忠実が試されて、そして、彼らの今度の人生も決まってきました。次回に、この試練をご紹介したいと思います。
公教要理-第十五講 楽園について
「われは、天地の創造主、全能の父なる天主を信じます」
前回、人間の本性について見てきました。限りなく素晴らしい本性です。というのも、人間はその知性 と意志をもって、天主の知性と意志に参与するからです。聖書によれば、人間は「天主に象って創られた」とある通りです。創られました。
そこで、人間の霊魂は、直接に天主がこれを創ったことを念に置くべきです。したがって、我々一人一人の霊魂は、物質からなるのではないのです。霊魂は霊的な存在です。不滅です。
つまり、天主は、存在を与え給うた一人一人の人間のために、一個の霊魂を創るわけです。それで、霊魂は、肉体に宿りに来るような感じです。天主は、人間の霊魂の創り主です。人間の霊魂は、肉体よりも両親よりも生まれるのではありません。人間の霊魂は、或いは人類として特徴づける霊魂は、動物系の系統より生じていません。
更にいうと、信仰をもって信じるべき信条もあります。教会の教義となっているこの信条を信じるべきです。
つまり、すべての人間は、ただ一つの夫婦より出でる信条です。単元説と呼ばれています。要するに、すべての人、つまり人類全般は、皆、アダムとエワ(英語で外自然のと言う)より出ると。天主に最初に創られた男性と最初に創られた女性より皆人間は出ています。これは信条です。つまり、この真義を拒絶するのなら、異端者になってしまいます。人は皆がアダムとエワより出ます。
天主は、創造の御業の最後に、人間を創り給うたのです。アダムです。その最初の人は、幸福のうちに創られたわけです。創造のすべての主(ぬし)として人が創られました。アダムこそが、それぞれの動物を名付けました。また、すべてがアダムに従っています。
楽園に置かれて、至福、幸福、罪の無い状態で創られました。そこで、「人間は一人きりでいるのは良くない」と聖書にあるように、天主は男の伴侶として女を創りました。良く知られている場面ですが、天主はアダムを眠りに入らせて、アダムのあばら骨一本からエワを取り出します。最初の女性です。人類の母のエワです。
~~
つまりアダムとエワは、地球に住んだ最初の夫婦です。罪の無い状態で創られた二人ですが、至福と幸福の場所なる楽園に住んでいました。天主は、二人に対して特別な恵みを与え給いました。前に既に見たように、先ず、人間の本性を与え給いました。つまり、肉体と霊魂を与え、両方の間の完全な調和がありました。さらに、その上に、天主の寛大なことに、他にいくつかの賜物を人間に与え給いました。
先ず、超自然的な賜物があります。人間本性を遥かに超える賜物です。天主の御計(はか)らいは「人間を御自分の神性なる御生活に参与させる」という神意なのです。だから、「聖寵」と呼ばれる恵みを与え給いました。言い換えると、天主の命の何らかを聖寵として与え給いました。それで、天主と共に、天主の内に生きることができるように、また、天主の神聖なる生命との交りがあるように、聖寵を与え給いました。前に紹介した三位一体の生命を分かち合うためです。
要するに、天主は超自然な賜物を与え給うたのです。言い換えると、自然に属さない賜物で、我々人間を限りなく超える賜物のことです。「聖寵」と呼ばれます。
アダムとエワの霊魂において、かかる「聖寵」が宿っていました。つまり、「天主の生命」がアダムとエワの霊魂に絶えずに流れ溢れていたかのようです。そのお陰で、常に天主と共に生きることができていました。
聖寵のおかげで、天主の生命はもちろん、その上に、聖寵に従って行動できる能力も備わっていました。これは超自然的な聖徳とも呼ばれています。天主は、アダムに超自然的な聖徳、つまり信徳、望徳、愛徳をも与え給いました。これらについてはまた、いずれ、触れたいと思います。
その上に、道徳上の聖徳も与え給いました。それらの聖徳のおかげで、アダムとエワは、人間の力だけで行動するよりも、遥かに優れた振る舞いをすることができました。
~~
以上の聖徳の他に、聖霊の賜物も与えられました。これも、また、今度詳しく紹介しますが、上智、聡明、賢慮、剛毅、知識、孝愛、敬畏からなっています。
要するに、天主は御自分の生命の何らかをアダムとエワの霊魂に注ぎ給うたわけです。なんと素晴らしいことでしょう!なんという恩寵!なんという天主から人間への賜物でしょうか!ちなみに、これらの賜物自体は、人間という被造物への天主の特別の愛の証に他なりません。
しかも、さらに追加の賜物をさらに与えることになさいました。この賜物は超自然的ではありません。つまり、人間の本性を完全に超える別次元に属する賜物なのではないのですが、自然(natura)の外にある・横にある(praeter)、「外自然・過自然(praeter-naturalis)」と呼ばれる賜物を与え増しました。要するに、自然次元に属する賜物であるものの、大自然の法則を挑むかのような賜物という意味です。
四つの外自然の賜物がアダムとエワの霊魂に与えられていました。この賜物を見て、人間なら、かなり羨ましく思うことがあります。
第一の賜物は、天賦の知識です。アダムとエワは、大人の状態で創られ、成人に相応しい、必要とされる知識を既に注入されていたことは、ある意味で当然です。ちなみにいうと、これらの賜物は、勿論、(原罪を犯さずにアダムとエワに子供が生まれていたとしたら)子供たちにも与え続けられるはずでした。勿論、子供は習わざるを得ませんが、天賦の知識の賜物のお陰で、容易に速やかに習得しえたはずでした。残念ながら、我々なら、余りにもそうは行きませんね。容易に習得しただけではなく、喜びに溢れて習えたはずです。
第二の賜物は、保全という賜物です。分かりにくいかもしれません。要するに、意志が感覚的・感情的欲望を完全に支配できる能力、という賜物です。前回見た通りに、動物の次元に属する感情である、愛情、欲情、嫌悪感、憤怒感などを支配します。前回に並べた感情のことです。それらは、アダムとエワにとって、意志により良く抑制され、完全に調整されていたわけです。感情的になって過剰に反応したり、溢れ出したりことはなかったのです。完全に一定方向に導かれていました。「支配」とは、圧倒されるという意味ではなく、ある一定方向に導くという意味での支配です。完全に調和されているという意味です。これが保全の賜物です。
今の我々人間は、この賜物を経験したことはありません。感情が溢れ出して、どうしても意志がそれを支配しきれない時があります。だれでも、経験したことがあるところです。なにか、非常な恐怖を感じたり、満ち溢れた歓喜を経験したりしますね。または、どうしても重苦しい悲しみとか。非常な怒りとか。いずれにしても、誰でも経験したように、非常に強くて溢れ出してしまう感情です。その経験らを見ても、我々の意志が、感情を完全に導く能力を失ったことをよく示します。保全の賜物のお陰で、当初はできましたが。
御覧の通りに、これが超自然上の賜物ではありません。外自然で、自然の水準に属するのですが、何か余分のことを自然に足すという感じですね。
第三の賜物として、平安の賜物と呼ばれています。この賜物こそ、特に羨ましく思うかもしれません。というのも、平安の賜物のお陰で、アダムとエワは、苦しみも病いも知らなかったからです。幸いなる状態でした。
にもかかわらず、天主は、更に第四の賜物を与え給いました。苦しみからも病からも守ら得ていましたが、その上に、不死の賜物をも与え給いました。つまり、我々が経験しているように、死を悲痛のようなこととして、アダムとエワは当初のままなら経験しなかったはずでした。死というのは、張り裂けることでもなんでもなくて、単に死が存在しなかっただけです。アダムとエワは不死でした。
天使と同じく、以上のような至福な状態のままに創られました。楽園で、人間的至福のままの状態で創られました。
しかしながら、天使のように、人間のためにも、試練は用意されていました。この試練次第で、天主への忠実が試されて、そして、彼らの今度の人生も決まってきました。次回に、この試練をご紹介したいと思います。