白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様によるお説教をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
ビルコック(Billecocq)神父様の説教
2020年11月22日
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて
聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
いと愛する兄弟の皆様、典礼暦の最後の主日である本日の福音は有名な文章で、世の終わりについての預言です。この福音を聴くと、我々人間の現世欲から生じる好奇心に由来するのだろうと思いますが、人々はよく、イエズス・キリストが使徒たちに予言した世の終わりはいつどこでどうやってくるのかを知ろうとします。また、今は終末に近いのだろうかとか、アンチキリストの時代になったのだろうかというような好奇心を持ちがちです。
しかしながら、このような好奇心は虚しくて無駄なものです。この世の終末はいつどこでどうやってくるのかを知ることはだれ一人として不可能だからです。イエズス・キリストが明らかに仰せになられたように、世の終わりについて知るのは天主のみです。
更に言うと、イエズス・キリストの預言には多くの事柄が混ざっています。終末についての預言もあれば、エルサレムの神殿の破壊についての預言もあります。イエズス・キリストが終末を予言するとき、我々にいつ死ぬかということを知らせるためではありません。個人単位でも我々の臨終の時と場所を知らせないし、天使より知らせることもありません。イエズス・キリストが明らかに仰せになったように、泥棒のように、死の時は我々に訪れるのです。
本日の世の終わりの福音においてのイエズス・キリストの目的はいつもと変わりません。同じ教えを届けるためです。この世は戦いであり、戦闘であるという教えです。我らの主、イエズス・キリストはこの福音で、世の終わりまでずっと広い陰謀が存在するという事実を改めて仰せになります。この陰謀の首謀者は他でもない悪魔です。そしてこの戦いの相手は我らの主、イエズス・キリストです。
ですから、本日の福音の趣旨は終末がいつどこで起きるかというよりも、「悪魔の力が非常に強くなる時がいずれかくるだろう」ということです。その時代になったら、「選ばれた者ら(正しい者ら)すら惑わそうとする」ほどに悪魔が有力になる時代が予言されているのです。
以上の陰謀の起源はどこにあるでしょうか?悪魔の嫉妬にあります。これこそを念頭に置きましょう。思い出しましょう。最初に天使らが創造されました。それから人が創造されました。そして、聖伝によると、天使らの三分の一ぐらいは天から落とされました。罰されて堕落しました。その罪は自分自身の力だけで、自分の幸せを得ることができると自慢して天主のように振舞おうとした結果、堕落しました。そして堕落した天使ら、すなわち悪魔は、天主が人々にもたらした多くの善や聖寵や永遠の命の約束を見て、嫉妬してやまないのです。
その結果、嫉妬の心に燃やされて悪魔は絶えることなくできるだけ多くの霊魂たちを地獄に引きずり落とそうとして自分と同じ不幸に貶めようとするのです。これは、世のはじめから世の終わりまでやまない悪魔の業です。要は、悪魔は全力を尽くして、人々が天主に対して反逆するように誘ってやまないのです。悪魔は、天主の持ち物である霊魂たちをなるべく多く奪おうとしているのです。
我々を地獄に導くために悪魔は二つの武器を使います。それは我々の中にある現世欲とこの世の多くの誘惑です。
まず悪魔は現世欲を武器に使います。人には必ず色欲などの多くの現世欲があります。このような乱れた現世意欲を利用して、悪魔は「この世で幸せになれる。この人生には幸福というものがある」ということを我々に信じ込ませようとしています。「荒らすもののいとわしいものが聖所に立つ」という恐ろしいことがなぜ実現するかは、まさに以上の誘惑に負けた時におきます。つまり、人々はこの世で自分の力だけで本物の幸せを得ることがあり得ると信じ込んでしまった時、恐れ多くも聖所に立つということです。
現世欲は過剰に快楽を求めて、この世の利益を追求します。また、自分自身のためにだけ、そして自分自身の力で、「福利」を得て、自分自身が自分自身の幸せになることを追求するという意味です。しかしながらこれは現実に反します。天主ご自身のみが人間の目的地であって、ご自身に向かわせています。人々の目的地は自分自身ではなく、天主にあって、天主に生まれながら向かわせています。
残念ながら、現世欲を利用して悪魔は私たちを誘っています。「さあ、自分自身の力で快く楽しめるだろう。だから、幸せになるために自分自身の力で、自分の幸せを得なさい」と誘っています。要は、現世欲による行為をみたら、結局すべては、自分自身を目的にしているという共通点があります。つまり、「自分自身の幸せは自分自身の力で与えられる、得られる」という迷信になります。その結果、「荒すもののいとわしいものが聖所に立つ」ことになるのです。というのも、我々の霊魂は聖所でもあるからです。天主が我らの霊魂にお住みになることを望んでおられるからです。
それから悪魔が武器として利用するのは、金銭の誘惑です。いわゆる富裕への誘惑です。富裕への誘惑を利用して、「あなたの幸せのために必要となるすべてはこの世にあるよ」ということを悪魔が我々に信じ込ませようとします。つまり、天主からの贈り物や宝物がなくても幸せになれるという迷信を示そうとしています。つまり、この世の財産や物質的な物事を取得することで幸せになれるという幻想を悪魔が抱かせようとします。
悪魔は聖寵がなくても、望徳という超自然の徳がなくても幸せになれる、この世にある財産や物事によってのみ、我々が満足できると悪魔は信じ込ませようとします。
愛する兄弟の皆様、現代ではこの誘惑は強いでしょう。過剰な贅沢において生きている現代人はこの誘惑に陥りやすくて、それよりも何でもかんでも手段が多くて便利な社会にある現代ではすべて簡単に得られることを信じて、何でもかんでも取得できるということを信じやすくなるから注意しましょう。つまり、聖寵は必要でもない、聖寵は二次的になっているといったことを信じ込みやすい時代になりました。
そして、悪魔が武器として使っている第三の現世欲は、権力より生じる傲慢さなのです。そして悪魔は権力へのあこがれと権力より生じる傲慢さとともに、人間的な尊敬を悪魔が利用しています。権力より生じる傲慢さとは「自分の力で、何でもできる」と信じこむことです。これにおいて、悪魔は最大に「この世」を利用しています。悪魔はあちこちの幻想に向かわせて霊魂たちを堕落させようとしているのです。
権力より生じる傲慢さを通じて、悪魔は弱い霊魂を支配しようとします。また、権力より生じる傲慢さを利用して、信仰が足りない霊魂を騙そうとします。我らの主、イエズス・キリストは仰せのとおりです。「(艱難の日々が)もし縮められないならば、救われる者はないであろう、しかしその日は選ばれた人のために縮められるであろう。」
統治を利用して支配することを通じて、その傲慢さを使い、悪魔は多くの霊魂を堕落させようとするのです。愛する兄弟の皆様、現代はこれこそを軽々しくみているのです。現代の権力は完全に悪魔の支配下にあります。権力者たち、それから地上におけるイエズス・キリストの統治権の代表者らは、というかその代表者になるはずの人々は、悪魔の支配下にあります。悪魔の言いなりになっています。
悪魔の支配を示すのは、「我々が覇権であり、なんでも決める権力がある」と思い込んでこのように命令したりします。まさに全体主義の現れですね。言いかえると、全体主義とは「われわれがすべてを支配できる」という悪魔的な誘惑に負けた権力者や指導者たちの現れなのです。悪魔の誘惑に負けて「自分の権力は絶対的であり全能である」と思い込む指導者たちの姿はまさに悪魔の支配を表すのです。この結果、全体主義的な政治、独裁政治になって、多くの人々を絶望させて、場合によっては、選ばれた人々の信仰でさえ揺るがす羽目になります。
このような覇権主義、全体主義は本当に恐ろしいです。というのも、霊魂たちを悲しみに追い込ませて、絶望させるから恐ろしいのです。
幸い、我らの主、イエズス・キリストは希望と喜びを我々にもたらし給っておられます。
世の終わりの本日の福音を読んで、悲しくなってはいけません。絶望に落ちてはいけません。確かに、悪魔は現世欲から生じる我々の弱点を最大に利用したとしても、この世にあるすべての権力と支配を握ったとしても、悪魔がわれわれの霊魂への力が皆無であることを忘れてはいけません。我々の内面には悪魔は何もできません。我々が悪魔を霊魂に積極的に意図的に向かえ入れない限り、悪魔はわれわれの霊魂を支配することは不可能です。
ですから、カトリック信徒なら我らの主、イエズス・キリストは常にわれわれの霊魂の主であり、支配し給うことを信じるのです。外の社会はどうなっても我らの主はいつも我らの喜びと希望の泉です。我らの主は我らの霊魂を司り続けるために主に一つの手段を用いられます。それは福音に現れる印です。「そのとき人の子の兆(しるし)が天に現れるであろう。」人の子の兆(しるし)とは他でもない十字架のことです。人の子の兆(しるし)は贖罪の御業です。愛する兄弟の皆様、人の子の兆(しるし)は十字架上の生贄の再現であるミサ聖祭です。これを忘れてはいけません。
ずっと思い出さなければなりません。現代では「荒すもののいとわしいものが聖所に立つ」からこそ、また罪によって現代人の多くの霊魂という聖所にも立つからこそ忘れてはいけません。残念ながら、外だけではなくて、教会においても「荒すもののいとわしいものが聖所に立つ」ということです。新しいミサによるとんでもない弊害、すべての儀式の非聖化の弊害、また、残念ながら、聖職者の非聖化の弊害のせいで、教会においても「荒すもののいとわしいものが聖所に立つ」ようになりました。残念ながら、「荒すもののいとわしいものが聖所に立つ」ということはローマにもたってしまいました。信仰を守り宣言し、霊魂たちを守るべきキリストの代理者であるはずの人自身は残念ながら、グローバリズムという死をもたらすイデオロギーを広めるお先棒をかついでいます。
しかしながら、我らの主は十字架を遺し給い、また聖伝ミサを遺し給いました。我らの主は死ぬ前に、使徒たちに新しい約束を結び給い、ミサ聖祭を制定さないました。つまり、ミサ聖祭、霊魂の糧として御血と御体という遺産をわれわれに与え給いました。暗い現代においての我々の遺産は聖伝ミサなのです。愛する兄弟の皆様、フランスでは政府がミサを禁止しようとするのですよ。確かに、悪魔なら何よりもミサ聖祭を禁止すべきところです。的確です。ミサ聖祭こそはこの上なく人の子の印なので、悪魔はどうしても消えてほしがるわけです。
愛する兄弟の皆様、ですから必ずいつまでもミサ聖祭を大切にし続けましょう。ミサ聖祭こそが聖寵の泉です。ミサ聖祭こそがすべての喜びの泉です。ミサ聖祭こそが現世欲を治す薬です。色欲であろうとも、財産などのこの世の現世欲であろうとも、権力の現世欲であろうとも、ミサ聖祭こそがわれわれの霊魂においてこれらの現世欲を治す薬です。また、ミサ聖祭こそがこの世の堕落と腐敗を治す薬です。
愛する兄弟の皆様、1979年の叙階五十周年記念の際のルフェーブル大司教の説教を改めて拝聴することをお勧めします。その説教の中でアフリカの宣教活動の際、目撃したことを述べておらます。つまり、ミサ聖祭に与るに連れて、どれほど現地のそれぞれの社会は変化してきたことを述べます。
ミサ聖祭によって、霊魂に深く染み入って、霊魂たちは聖化されます。そして、ミサ聖祭によって、家庭に深く染み入って、家庭も聖化されます。そして、最後に、社会に深く染み入って社会も聖化されます。ですから、「恐れるな、小さな群れよ」(ルカ、12、32)とイエズス・キリストが仰せになる通りです。
愛する兄弟の皆様、現代では多くの堕落した霊魂たちがいるかもしれませんが、我々は恐れてはいけません。我々の主、イエズス・キリストは十字架を持って勝利し凱旋し給い、そして遺産として我々に十字架を継ぎ給いました。十字架は我々の勝利なのです。
愛する兄弟の皆様、我らの主、イエズス・キリストの十字架を大切にし、何よりこの上なく十字架とミサ聖祭を愛しましょう。なるべく多くの御聖体を拝領し、多くの犠牲を払い、犠牲を払うことを通じてどんどん愛していきましょう。犠牲こそは生命の泉であり、犠牲こそはすでにこの世において勝利の泉である上、それよりも天国における永遠の勝利の泉でもあります。
聖父と聖子と聖霊のみ名によりて。アーメン
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
本物の陰謀とは?(マテオ、24、15-35)
ビルコック(Billecocq)神父様の説教
2020年11月22日
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて
聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
いと愛する兄弟の皆様、典礼暦の最後の主日である本日の福音は有名な文章で、世の終わりについての預言です。この福音を聴くと、我々人間の現世欲から生じる好奇心に由来するのだろうと思いますが、人々はよく、イエズス・キリストが使徒たちに予言した世の終わりはいつどこでどうやってくるのかを知ろうとします。また、今は終末に近いのだろうかとか、アンチキリストの時代になったのだろうかというような好奇心を持ちがちです。
しかしながら、このような好奇心は虚しくて無駄なものです。この世の終末はいつどこでどうやってくるのかを知ることはだれ一人として不可能だからです。イエズス・キリストが明らかに仰せになられたように、世の終わりについて知るのは天主のみです。
更に言うと、イエズス・キリストの預言には多くの事柄が混ざっています。終末についての預言もあれば、エルサレムの神殿の破壊についての預言もあります。イエズス・キリストが終末を予言するとき、我々にいつ死ぬかということを知らせるためではありません。個人単位でも我々の臨終の時と場所を知らせないし、天使より知らせることもありません。イエズス・キリストが明らかに仰せになったように、泥棒のように、死の時は我々に訪れるのです。
本日の世の終わりの福音においてのイエズス・キリストの目的はいつもと変わりません。同じ教えを届けるためです。この世は戦いであり、戦闘であるという教えです。我らの主、イエズス・キリストはこの福音で、世の終わりまでずっと広い陰謀が存在するという事実を改めて仰せになります。この陰謀の首謀者は他でもない悪魔です。そしてこの戦いの相手は我らの主、イエズス・キリストです。
ですから、本日の福音の趣旨は終末がいつどこで起きるかというよりも、「悪魔の力が非常に強くなる時がいずれかくるだろう」ということです。その時代になったら、「選ばれた者ら(正しい者ら)すら惑わそうとする」ほどに悪魔が有力になる時代が予言されているのです。
以上の陰謀の起源はどこにあるでしょうか?悪魔の嫉妬にあります。これこそを念頭に置きましょう。思い出しましょう。最初に天使らが創造されました。それから人が創造されました。そして、聖伝によると、天使らの三分の一ぐらいは天から落とされました。罰されて堕落しました。その罪は自分自身の力だけで、自分の幸せを得ることができると自慢して天主のように振舞おうとした結果、堕落しました。そして堕落した天使ら、すなわち悪魔は、天主が人々にもたらした多くの善や聖寵や永遠の命の約束を見て、嫉妬してやまないのです。
その結果、嫉妬の心に燃やされて悪魔は絶えることなくできるだけ多くの霊魂たちを地獄に引きずり落とそうとして自分と同じ不幸に貶めようとするのです。これは、世のはじめから世の終わりまでやまない悪魔の業です。要は、悪魔は全力を尽くして、人々が天主に対して反逆するように誘ってやまないのです。悪魔は、天主の持ち物である霊魂たちをなるべく多く奪おうとしているのです。
我々を地獄に導くために悪魔は二つの武器を使います。それは我々の中にある現世欲とこの世の多くの誘惑です。
まず悪魔は現世欲を武器に使います。人には必ず色欲などの多くの現世欲があります。このような乱れた現世意欲を利用して、悪魔は「この世で幸せになれる。この人生には幸福というものがある」ということを我々に信じ込ませようとしています。「荒らすもののいとわしいものが聖所に立つ」という恐ろしいことがなぜ実現するかは、まさに以上の誘惑に負けた時におきます。つまり、人々はこの世で自分の力だけで本物の幸せを得ることがあり得ると信じ込んでしまった時、恐れ多くも聖所に立つということです。
現世欲は過剰に快楽を求めて、この世の利益を追求します。また、自分自身のためにだけ、そして自分自身の力で、「福利」を得て、自分自身が自分自身の幸せになることを追求するという意味です。しかしながらこれは現実に反します。天主ご自身のみが人間の目的地であって、ご自身に向かわせています。人々の目的地は自分自身ではなく、天主にあって、天主に生まれながら向かわせています。
残念ながら、現世欲を利用して悪魔は私たちを誘っています。「さあ、自分自身の力で快く楽しめるだろう。だから、幸せになるために自分自身の力で、自分の幸せを得なさい」と誘っています。要は、現世欲による行為をみたら、結局すべては、自分自身を目的にしているという共通点があります。つまり、「自分自身の幸せは自分自身の力で与えられる、得られる」という迷信になります。その結果、「荒すもののいとわしいものが聖所に立つ」ことになるのです。というのも、我々の霊魂は聖所でもあるからです。天主が我らの霊魂にお住みになることを望んでおられるからです。
それから悪魔が武器として利用するのは、金銭の誘惑です。いわゆる富裕への誘惑です。富裕への誘惑を利用して、「あなたの幸せのために必要となるすべてはこの世にあるよ」ということを悪魔が我々に信じ込ませようとします。つまり、天主からの贈り物や宝物がなくても幸せになれるという迷信を示そうとしています。つまり、この世の財産や物質的な物事を取得することで幸せになれるという幻想を悪魔が抱かせようとします。
悪魔は聖寵がなくても、望徳という超自然の徳がなくても幸せになれる、この世にある財産や物事によってのみ、我々が満足できると悪魔は信じ込ませようとします。
愛する兄弟の皆様、現代ではこの誘惑は強いでしょう。過剰な贅沢において生きている現代人はこの誘惑に陥りやすくて、それよりも何でもかんでも手段が多くて便利な社会にある現代ではすべて簡単に得られることを信じて、何でもかんでも取得できるということを信じやすくなるから注意しましょう。つまり、聖寵は必要でもない、聖寵は二次的になっているといったことを信じ込みやすい時代になりました。
そして、悪魔が武器として使っている第三の現世欲は、権力より生じる傲慢さなのです。そして悪魔は権力へのあこがれと権力より生じる傲慢さとともに、人間的な尊敬を悪魔が利用しています。権力より生じる傲慢さとは「自分の力で、何でもできる」と信じこむことです。これにおいて、悪魔は最大に「この世」を利用しています。悪魔はあちこちの幻想に向かわせて霊魂たちを堕落させようとしているのです。
権力より生じる傲慢さを通じて、悪魔は弱い霊魂を支配しようとします。また、権力より生じる傲慢さを利用して、信仰が足りない霊魂を騙そうとします。我らの主、イエズス・キリストは仰せのとおりです。「(艱難の日々が)もし縮められないならば、救われる者はないであろう、しかしその日は選ばれた人のために縮められるであろう。」
統治を利用して支配することを通じて、その傲慢さを使い、悪魔は多くの霊魂を堕落させようとするのです。愛する兄弟の皆様、現代はこれこそを軽々しくみているのです。現代の権力は完全に悪魔の支配下にあります。権力者たち、それから地上におけるイエズス・キリストの統治権の代表者らは、というかその代表者になるはずの人々は、悪魔の支配下にあります。悪魔の言いなりになっています。
悪魔の支配を示すのは、「我々が覇権であり、なんでも決める権力がある」と思い込んでこのように命令したりします。まさに全体主義の現れですね。言いかえると、全体主義とは「われわれがすべてを支配できる」という悪魔的な誘惑に負けた権力者や指導者たちの現れなのです。悪魔の誘惑に負けて「自分の権力は絶対的であり全能である」と思い込む指導者たちの姿はまさに悪魔の支配を表すのです。この結果、全体主義的な政治、独裁政治になって、多くの人々を絶望させて、場合によっては、選ばれた人々の信仰でさえ揺るがす羽目になります。
このような覇権主義、全体主義は本当に恐ろしいです。というのも、霊魂たちを悲しみに追い込ませて、絶望させるから恐ろしいのです。
幸い、我らの主、イエズス・キリストは希望と喜びを我々にもたらし給っておられます。
世の終わりの本日の福音を読んで、悲しくなってはいけません。絶望に落ちてはいけません。確かに、悪魔は現世欲から生じる我々の弱点を最大に利用したとしても、この世にあるすべての権力と支配を握ったとしても、悪魔がわれわれの霊魂への力が皆無であることを忘れてはいけません。我々の内面には悪魔は何もできません。我々が悪魔を霊魂に積極的に意図的に向かえ入れない限り、悪魔はわれわれの霊魂を支配することは不可能です。
ですから、カトリック信徒なら我らの主、イエズス・キリストは常にわれわれの霊魂の主であり、支配し給うことを信じるのです。外の社会はどうなっても我らの主はいつも我らの喜びと希望の泉です。我らの主は我らの霊魂を司り続けるために主に一つの手段を用いられます。それは福音に現れる印です。「そのとき人の子の兆(しるし)が天に現れるであろう。」人の子の兆(しるし)とは他でもない十字架のことです。人の子の兆(しるし)は贖罪の御業です。愛する兄弟の皆様、人の子の兆(しるし)は十字架上の生贄の再現であるミサ聖祭です。これを忘れてはいけません。
ずっと思い出さなければなりません。現代では「荒すもののいとわしいものが聖所に立つ」からこそ、また罪によって現代人の多くの霊魂という聖所にも立つからこそ忘れてはいけません。残念ながら、外だけではなくて、教会においても「荒すもののいとわしいものが聖所に立つ」ということです。新しいミサによるとんでもない弊害、すべての儀式の非聖化の弊害、また、残念ながら、聖職者の非聖化の弊害のせいで、教会においても「荒すもののいとわしいものが聖所に立つ」ようになりました。残念ながら、「荒すもののいとわしいものが聖所に立つ」ということはローマにもたってしまいました。信仰を守り宣言し、霊魂たちを守るべきキリストの代理者であるはずの人自身は残念ながら、グローバリズムという死をもたらすイデオロギーを広めるお先棒をかついでいます。
しかしながら、我らの主は十字架を遺し給い、また聖伝ミサを遺し給いました。我らの主は死ぬ前に、使徒たちに新しい約束を結び給い、ミサ聖祭を制定さないました。つまり、ミサ聖祭、霊魂の糧として御血と御体という遺産をわれわれに与え給いました。暗い現代においての我々の遺産は聖伝ミサなのです。愛する兄弟の皆様、フランスでは政府がミサを禁止しようとするのですよ。確かに、悪魔なら何よりもミサ聖祭を禁止すべきところです。的確です。ミサ聖祭こそはこの上なく人の子の印なので、悪魔はどうしても消えてほしがるわけです。
愛する兄弟の皆様、ですから必ずいつまでもミサ聖祭を大切にし続けましょう。ミサ聖祭こそが聖寵の泉です。ミサ聖祭こそがすべての喜びの泉です。ミサ聖祭こそが現世欲を治す薬です。色欲であろうとも、財産などのこの世の現世欲であろうとも、権力の現世欲であろうとも、ミサ聖祭こそがわれわれの霊魂においてこれらの現世欲を治す薬です。また、ミサ聖祭こそがこの世の堕落と腐敗を治す薬です。
愛する兄弟の皆様、1979年の叙階五十周年記念の際のルフェーブル大司教の説教を改めて拝聴することをお勧めします。その説教の中でアフリカの宣教活動の際、目撃したことを述べておらます。つまり、ミサ聖祭に与るに連れて、どれほど現地のそれぞれの社会は変化してきたことを述べます。
ミサ聖祭によって、霊魂に深く染み入って、霊魂たちは聖化されます。そして、ミサ聖祭によって、家庭に深く染み入って、家庭も聖化されます。そして、最後に、社会に深く染み入って社会も聖化されます。ですから、「恐れるな、小さな群れよ」(ルカ、12、32)とイエズス・キリストが仰せになる通りです。
愛する兄弟の皆様、現代では多くの堕落した霊魂たちがいるかもしれませんが、我々は恐れてはいけません。我々の主、イエズス・キリストは十字架を持って勝利し凱旋し給い、そして遺産として我々に十字架を継ぎ給いました。十字架は我々の勝利なのです。
愛する兄弟の皆様、我らの主、イエズス・キリストの十字架を大切にし、何よりこの上なく十字架とミサ聖祭を愛しましょう。なるべく多くの御聖体を拝領し、多くの犠牲を払い、犠牲を払うことを通じてどんどん愛していきましょう。犠牲こそは生命の泉であり、犠牲こそはすでにこの世において勝利の泉である上、それよりも天国における永遠の勝利の泉でもあります。
聖父と聖子と聖霊のみ名によりて。アーメン