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ファリサイ人になるかならないか?「反省入門」キリスト信徒が実践すべきこと、してはならないこと

2021年07月08日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、動画「2020年8月9日聖霊降臨後第10主日」をご紹介します。
※この動画は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

ビルコック神父様によるお説教 2020年8月9日聖霊降臨後第10主日


ビルコック神父様によるお説教
2020年8月9日 Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて

ファリサイ人になるかならないか?「反省入門」キリスト信徒が実践すべきこと、してはならないこと(ルカ、18、9-14)

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
愛する兄弟の皆様、本日の福音書において、我らの主、イエズス・キリストは、毎日、寝る前、天主の前に我々が行う反省を具体的にどうすればよいか教えておられます。

特に、福音書の中に登場するファリサイ人の欠点と短所をイエズス・キリストは強調します。これらを見ていきましょう。
福音書の構成を見ると、ファリサイ人についての部分は比較的長い一方、税吏についての部分は比較的短いです。つまり、我らの主は今日、何をやってはならないかを示してくださいます。

ファリサイ人は最初、何をするでしょうか?まず、自分を他人と比べます。「天主よ、私は他の人のような者ではなくあなたに感謝いたします」とファリサイ人が言います。思い出しましょう。彼は神殿にいます。「二人の男が祈ろうと神殿に上がった」と我らの主が仰せになっています。そして、神殿とは天主の家です。ですから、本来ならば、神殿にいくと、天主へ直接にお祈りして、他の人と自分を比べるわけにはいきません。

しかしながら、ファリサイ人は違います。神殿に行って、天主へ目をあげ、天主を眺め、自分の切なさを反省することなく、ファリサイ人は何と、他の人々を眺めて、自分と比べます。最初は、他の人々と自分を比べますが、一般的に比べることになります。言いかえると、ファリサイ人は当時の社会を見て、この世の堕落を眺めて、「私は他の人のように、貪欲な人、不正な人、姦通する者ではなく」と言います。

現代において、カトリック信徒がやりがちなことであるかもしれません。確かに、現代の堕落の前にいて、これらの短所と欠陥を指摘することはたやすいです。今も昔も短所、欠点、欠陥はこの世に蔓延っているから驚くことではありません。我々もいつも確認できて経験しています。だから、指摘してもなんともなりません。

では、ファリサイ人はなぜこの確認をした上に、自分を他の人と比べるでしょうか?「私は他の人にあるような短所はないよ、私は他の人のような者ではないよ」ということで、天主の前に自分を高めようとします。しかしながら、ファリサイ人はそこにとどまりません。一般的に、当時の人々を自分と比べるだけではなく、ファリサイ人は特定の人、隣の税吏と自分を比べます。「またこの税吏のような人間でもないことを、あなたに感謝いたします」

いとも愛する私の兄弟よ、以上のような欠点は我々にもあるのではないでしょうか?自分を他人と比べる癖。というのも、自分を他人と比べることによって、自分を安心できる手段になるから、周りの短所を見て、自分を高める良い気持ちになるから、このような短所に陥ることは多いのではないでしょうか?

ことに、聖伝へ忠実であり、信仰を守り、どうしても信仰を最期まで守り切る覚悟を持つ我らカトリック信徒、また我らの信仰の中心と柱となる本物のミサに与っている我らカトリック信徒は、この世を見渡して、他の人々を眺めて、「これよりも我々は遥かに善い」と言い切ることは簡単なことです。



もちろん、ある意味で、この確認は正しいです。いとも愛する兄弟の皆様よ、カトリック信徒でいられることは、他のすべてに比べたらはるかに善いことであるのです。それは間違いないのです。当然です。というのも、唯一、カトリックという宗教を通じてしか天国に行けない宗教を仰いでいるからです。ですから、部分的にこのような確認は正しいです。

が、だからといって、我々は正しい者になっているのではありません。その逆です。恵みを貰えばもらうほど、最期に求められる責任と総計は重くなるわけです。つまり、我ら、カトリック信徒は多くの恵みを貰う分、天主によって厳しく裁かれるということになります。
だからこそ、他の人、また罪人と自分を比べてはいけません。また、カトリック信徒の間にお互いに比べ合うこともさらにだめです。

本日の福音書において、ファリサイ人は税吏と自分を比べる時、神殿の中にいながら、振り返って、税吏を見て「私はこのような人間ではない」と思うのですね。この癖、この短所に対して警戒しましょう。兄弟同士で、カトリック信徒同士で、このような比較を行う誘惑は時に強いかもしれない、この短所に傾くことは簡単かもしれません。つまり、隣人の短所を見て、「自分が持たないな」と思って、自分が安心するという。まあ、このような安心を求めるのは自然な傾向だと言えましょう。また、この傾向に行くのもたやすいです。

しかしながら、この傾向は悪い傾向です。それに抵抗すべきです。なぜでしょうか?このようなことをすると、本来ならば天主しか「ある人を正しい者だ」と言い切れないのに、自分を他人に比べるというのは、自分自身が自分自身を「正しい者」と判断するから悪いのです。

これこそ、ファリサイ人の欠点です。ファリサイ人は自分を正しい者と勝手に判断します。しかしながら、これはやるべきではありません。天主の前に、自分のありのままに参って、天主は私たちを正しくし給うことになります。

例えば、告解に行くとき、私たちは私たちの罪を明かし、自分を咎めるべきですが、言い訳を述べるべきではありません。また、我々が犯した罪を明かして、自分を咎める際、これらの罪を自分で許せるわけがありません。それは天主がなさることで、また我々を正しくなし給うのです。言いかえると、我々は聖化していけるのは、我々の力によってではなく、天主の聖寵によってだけなのです。また、言いかえると、聖寵の状態にさせるのは、天主のみです。我々の力でこのようなことはできません。



要するに、以上はファリサイ人の第一の短所です。天主の前に自分をありのままにさらすのではなく、他人と自分を比べる短所。
第二の短所は第一の短所につながっていますが、ファリサイ人は比較して他人の短所を非難します。しかしながら、本来ならば同質のことを比較すべきです。異質なことを比較しても意味がありません。つまり、他人の短所を比較するのなら、自分の短所と比較すべきです。が、ファリサイ人は他人の短所を見ながら、自分の長所と比べます。これも悪い癖です。この比較は不公平です。

残念ながら、このような短所に陥るのはよくある話です。
何かを見た時、最初、つい「非難してしまう」ことがよくあるでしょう。一般的に、誰かの外的な短所を非難したり、それから性格あるいは道徳的な短所を非難したり、そして時に、何も根拠もないにもかかわらず、他人の意図を非難したりすることもあるでしょう。

しかしながら、一方、自分を見る時、短所などを無視して、長所と良い部分をみて自慢することが多いでしょう。で、他人に対して行う非難は自分に対してどうしても同じような非難を加えることができないことが多いでしょう。

福音書の別の場面において、我らの主、イエズス・キリストははっきりと仰せになります。「なぜ、兄弟の目にあるわらくずを見て、自分の目にある梁に気をとめないのか?」(マテオ、7、3)

要するに、このファリサイ人は誤った比較を行います。その結果、ファリサイ人の反省は誤っているのです。
いとも愛する兄弟よ、このような悪い傾向になりやすいので、注意しましょう。つまり、自分の長所だけを見て、短所を忘れて、長所に自慢して「自分が正しい者」と言い切ることが多いでしょう。もちろん、皆、長所があるので長所を見て正しく認めることがいいことですが、長所があるからと言って、それで「正しい者」になるのではありません。天主のみ、人々を正しくさせ、聖寵の状態に入れ給うのです。

それから、ファリサイ人の第三の短所はなんですか?他人と比較する結果、ファリサイ人は他の人々から自分を排除します。
「このような人間ではなく感謝いたします」とファリサイ人が言っています。つまり、いつも否定形を使っています。「残りの人々のような者ではない」あるいは「この税吏のような人間ではない」。

言いかえると、このファリサイ人にとって、はっきりと区別された二つの人がいるということです。「自分」対「ほかのすべての人々」。ですから、ファリサイ人は反省しようとしますが、自分がほかの人々のようなものではないので、反省から自分を排除します。このように、自分を正しい者と判断するのは、ファリサイ人自身であるだけではなく、またエゴイスティックな営みとなってしまいます。この短所は愛徳を傷つけます。愛徳に背きます。なぜでしょうか?愛徳は輝いて発散するからです。

いとも愛する兄弟よ、このような傾向になりやすいかもしれません。いわゆる引きこもるというか、我々の身内と一緒にしか交流を持たないで、外に行かないという。いわゆる、外に福音を運ぶことを怠るという。もちろん、慎重にして、自分の信仰を守るべきですから、外の世に出て、信仰、教義、ミサなどについてもちろん、一切妥協すべきではないのです。ただ、外へ我々が引き継いだ大宝、愛徳を隣人へもたらすために、そとへ出ていかなかったらどうやって届くでしょうか?

ファリサイ人は「このような人間ではない」という言うことによって、他人と自分との間に壁を建てます。他の人々から自分を排除します。
自然な次元でいうと、このような行為によって、政治的な生活を営むことは無理となります。ファリサイ人たちのそのあとの歴史を見ても、これは残念ながらも明白です。しかしながら、その上、愛徳の施すことも無理となります。愛徳は周りの人々へ伝わるものです。

いとも愛する兄弟よ、ですから、このような短所に陥る危険があるから、注意しましょう。つまり、心地良い場所にいられて、どうしてもそこから出ないようにして、いつも引き籠るように防御態勢を取るような傾向。
これはいけません。カトリック信徒は孤立してゲットーに閉じられるような存在ではありません。その逆です。公教会は普遍的です。そしてその普遍性はカトリック教会を特定できる一つの特徴なのです。普遍性はギリシャ語で「カトリック」といいます。つまり、教会はカトリックであるのは、普遍的であるからです。

もちろん、カトリック信徒はみんな一般人と一緒ではありません。というのも、我々は信仰を持っているから、信仰を持たない人々と違います。しかしながら、だからと言って、信仰を持たない人々と自分を比較するよりも、信仰を持たない人々を憐んで、涙を流すべきです。つまり、壁を置くのではなくて、できるだけ愛徳と真理をもたらすことが急務です。
要するに、ファリサイ人の第三の短所は他の人々から自分を排除します。そして、エゴイズムに陥って孤立してしまいます。

最後に、ファリサイ人の反省をよく見ると、もう一つの問題があります。表面的な反省にすぎないという点です。ファリサイ人は何を言っているのかを思い出しましょう。「私は週に二度断食し、全所得の十分の一を捧げています」。これは善い行いです。それだけを見ると、現世意欲から離れて、苦行しているように見えています。少なくとも、このような行いは犠牲なので、善い模範になるはずです。

では、なぜファリサイ人のこの発言に問題があるでしょうか?彼は自分の外的な行いのみを見ているという点が問題です。我々も告解を準備するため、あるいは毎日の反省の時、このように我々にとって一番難しい努力になるかもしれません。つまり、夕方の反省の際、この一日の行為を振り返ってはいます。これはもちろんやるべきですし、よきことですが、まだ足りないということです。

というのも、罪というのは、行為にあるのではなく、意志にあるわけです。罪は第一に、意志において根源をもっています。意志から生じます。そのあと、行為に移しますが、罪はもともと意志にあります。つまり、罪は必ず、内面的な行為から始まります。言いかえると、天主から背く意志、思いは罪の始まりです。

そこで、ファリサイ人は自分の心の底まで見ないことにします。他の場面では我らの主はファリサイ人を指して「白く塗った墓のようだ」(マテオ、23、27)と仰せになります。まさにその通りです。外面はピカピカですが、内面は腐っているという。この危険もあるので、注意しましょう。警戒しましょう。毎日の反省を十分にやらないで、改悛という徳を十分に実践しないと、このような傾向になりかねません。

つまり、表面的な反省に留まり、われわれは何をやっているかだけを見ながら、我々は心の中にどうしているか十分に見ない、外的な行為を見ながら内面的な行為を十分に見ない危険があります。つまり、表面的な事柄を見ながら、心の中の我らの深い意図を見ない危険。
しかしながら、罪も聖寵も心においてこそありますので、注意しましょう。

いとも愛する兄弟よ、以上のような点は一例にすぎませんが、これらの短所と傾向を改善するように努力しましょう。深い人間になるように努めましょう。数週間前の福音には、イエズス・キリストが聖ペトロに「Duc in altum」と命令しました。「奥深い物事へ導け」という意味を込めた命令です。



霊的な生活は深い生活なのです。表面的な生活ではありません。もちろん、我々は人間であるから、霊的な生活は身体を通じて、外的に必ずなりますが、このような外的な営みは内面的な状況を反映しなければならなくて、外面と内面は一致すべきです。

いとも愛する兄弟よ、ですから、いとも聖なる処女、マリアにこのような傾向にならないようにお祈りしましょう。そういえば、聖母マリアはこのファリサイ人の逆のことを表します。福音において、一度も聖母マリアは自分を他の人と比べたことがありません。その逆です。エリザベートに聖母マリアが訪問した際、エリザベートは「主の御母が私を訪問してくださったのですか」と聖母マリアに言います。で、聖母マリアは「確かに、私は女の中で祝福された」とは言わないのです。天使に言われた通り、確かに女の中に祝福された方であるのに、聖母マリアはそうは言いません。
聖母マリアは「確かに、私は女の中で祝福された」とは言わないのです。このような自慢と比較をしません。隣人を非難しません。隣人から自分を排除しません。「私の魂は主をあがめます」とおっしゃるのです。そして、聖母マリアは聖エリザベートに愛徳をもたらします。言いかえると、内面的な深い生活をもたらします。

ですから、いとも聖なる処女なるマリアに、このような深い内面的な生活ができるようにお祈りしましょう。このような深い内面的な生活こそ霊的な生活の実践なのです。アーメン

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン


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