ファチマの聖母の会・プロライフ

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イエズスのみ名は全能_地獄は揺らぎ跪かざるを得ないほど恐れ多い

2020年10月12日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理 第九十八講 第二戒について



第二 なんじ、天主の名をみだりに呼ぶなかれ。

これは、第一戒の帰結だと言えます。天主は礼拝されるべきです。そして、天主を愛するということは天主にかかわるすべてを愛することを意味します。ですから、天主のみ名を尊重することは自然で当たり前のことです。

一般的にいうと、名前というのは名前を持つその存在のことを言い、またその存在を想起させるものです。例えば、私たちは、自分の苗字と名前の意味を直感的に知っており、そして誰かが自分の名前を呼ぶときは、自分の心にどんな響きが跳ね返ってくるかを皆経験しているなど、名前はそれにすぎるものではないことを知っていますね。天主のみ名に関しても同じです。名前を尊重するのは、その名前を持つ存在を尊重することを意味します。当然といえば当然ですが、天主への礼拝の一環として、天主のみ名への崇拝があります。

み名にかかわる祝日は二つあります。公教会が制定した「いと聖なるイエズスのみ名の祝日」と「いと聖なるマリアのみ名の祝日」です。特に、イエズスのみ名ですが、イエズスのみ名が響きわたるだけで「全地獄は揺らぐうえに、膝をおらざるを得ないほど恐れ多い」と書かれているほどにイエズスのみ名は全能なのです。また、イエズスで呼ばれるキリストを尊敬すべきであるゆえに、その名前を尊敬すべきであるのです。



そして、第二戒は虚しいようなあるいはおとしめるような意図で天主のみ名を唱えることを禁じている戒です。
このように濫りに天主のみ名を扱うやり方はおもに四種類があります。厳密にいうと、み名だけではなく、み名とその名誉に対する不適切な扱いをも含んでいます。

第一、天主のみ名の悪用。
第二、天主に対する冒涜的な言葉であり、よく知られている罪です。
第三、少し第二戒から外れるように見える罪かもしれませんが、「偽りの宣誓」というものもあります。簡単にいうと、天主のみ名を利用して、実現させる気持ちが乏しいあるいは弱い約束などを通して、天主のみ名に対して侮辱を与え、あるいはその名誉を傷つけるような罪です。そして、もちろん、天主のみ名を侮辱するということは、天主ご自身を侮辱することになります。
第四、「誓願を破ること」です。誓願とは、天主の前に何かを誓うことであり、それはとりもなおさず、天主のみ名を誓いの保証として唱えることになります。したがって、誓願を破るということは、天主のみ名の名誉を傷つけることになります。

以上が第二戒に対する主な罪です。これを次に詳細に見ましょう。

第二 なんじ、天主の名をみだりに呼ぶなかれ。

第一、聖なる天主のみ名の悪用の実際を見てみましょう。み名の悪用というのは、とるに足りないことであったり、重要はない時に天主のみ名をわざわざ持ち出すようなことです。つまり、根拠もなく、適切な畏怖も持たないまま、天主のみ名をあえて持ち出す時に天主のみ名の悪用となります。深い考えもなく、天主のみ名をことさらに言い出すようなかたちの悪用です。これは、天主のみ名を踏みにじるような扱いとなりが、不注意での悪用であり、ほとんどの場合、小罪となります。



また、天主のみ名だけではなく、天主のみ言葉、つまり、聖書の言葉を軽々しく用い、悪用するときも該当します。
例えば、道徳に反する目的のためにみ言葉を用いる時、あるいは異端を正当化させるために用いる時、大罪となります。この場合、天主のみ言葉を歪曲することになるので、涜聖の罪となるからです。
以上は実際の聖なる天主のみ名の悪用でした。

次に、冒涜的な言葉があります。これは第二誡に対する一番中心となる罪です。み名を汚す罪です。具体的には、天主を侮辱するような言葉で天主をののしる罪です。これには聖人や宗教に対するののしりも含まれます。「冒涜的な言葉」とはギリシャ語で「名誉を傷つける」という意味です。冒涜的な言葉は天主、それから宗教、それから聖人の名誉を傷つける言葉であり、言葉をもって侮辱することになります。「言葉」といった時、もちろん口頭あるいは文章の両方を指すのですね。この罪は深刻です。非常に深刻です。ことに天主に対して直接に向けられるとき、なおさらです。つまり、天主のみ名を馬鹿にすることは、天主を馬鹿にするということになるのです。

旧法では、つまりモーゼの法では、冒涜的な言葉に対する刑罰は死刑でした。レビの書には「主の名を汚す者は、死罪に当たる。」 とあります。
そういえば、ユスティニアヌス法典にも、また革命以前のフランス刑法にも、冒涜的な言葉という罪は厳しく罰させられていました。なぜでしょうか?冒涜的な言葉というのは、天主の復讐を招く罪だからです。当然ながら天主は馬鹿にされるのは大嫌いです。聖書には「神を侮ってはならない。人はまくものを収穫するからである。」 とあります。これは、天主のみ名をみだりにつかってはならない、あるいは軽々しく扱ってはならないということを意味しています。

一つ注意しましょう。昔、冒涜的な言葉として認識していた表現でも今になっては冒涜的な言葉として用いられなくなった例もあります。たとえば、現代になって、この冒涜的な意味は忘れられたか、あるいは用いられたとしても冒涜的な意味としては誰もとらまえられなく場合があります。



具体的にはフランス語独特の「Morbleu」があります。もともと「Morbleu」とは「Mort de Dieu(天主の死)」から転じた言葉であり、本来の意味は忘れられているような表現です。現代では、殆どの場合、これらが使われても本来の意味が知られていません。もちろん、もしも、本来の意味を知って、わざとその意味で使うなら、罪です。しかしながら、このような言葉の意味を知らない時、つまり冒涜する意図もなくて、また冒涜する同意もない場合、罪とはなりません。ただし、曖昧にだけ知りながら使うと、小罪となります。当然ながら、意味が忘れられたとしても、天主のみ名であることに関して変わりがありませんので、これらの古い表現を避けた方が良いです。

以上、冒涜的な言葉についてでした。加えて、冒涜的な言葉に並んで、「呪い」「「呪詛」があります。つまり、怒りあるいは憎しみをもって、隣人あるいは自分自身に対する加害を望む言葉です。「呪い」がなぜ天主のみ名に対する罪の一つになるかというと、「呪い」の前提には「悪を言う」ということがあるからです。ちなみに呪いのラテン語の語源は「(誰かの)悪(いこと)を言う」という意味であり、「呪う」時、その害悪をもたらすのは天主だと望む罪なのです。つまり、隣人に対して弊害を望むだけではなく、天主がその弊害を及ぼすことを望むことだからこそ罪は重いのです。一方で、「祝福」するというラテン語の語源は「善を言う」、「誰かのために善いことを言う」という意味です。つまり、祝福するとき、天主のみ名を唱えて、天主の善が祝福される対象に及ぶように願うということです。



ここで、福音のある場面を思い出すことにしましょう。それは、私たちの主、イエズス・キリストが使徒に二人ずつ、宣教せよと命じてあちこちの町に使徒を送り込む場面です。そして、使徒ヨハネと使徒ヤコブはイエズスの下に戻ります。そして、ある町に行って宣教してみたのですが、何の成果はなかったという報告をします。二人の使徒はちょっとガッカリして、いらいらしながら報告に上がるという感じの場面です。

「主よ、この町をごらんください、だめですよ。この町に天の火を投げていただきたいくらいです」といったような。これはまさに呪いですね。これはまさに「害悪をもたらすことを主に頼んでいる」のです。そして、われらの主、イエズス・キリストは二人の使徒を「雷の子よ」という呼び名を使うほど厳しく叱ります。つまり、「このようにやってはいかん」と主が叱るわけですね。

もちろん、天主ご自身はいくらでも「呪う」ことはできます。全能なる天主なので、あらゆる物事の主(あるじ)であるのですから、いくらでも「呪う」ことはできます。【この場合、「創造主として裁いて罰して」というような意味ですね。】一方、人間は呪ってはならないということです。以上、呪いあるいは呪詛についてでした。

第三、「偽りの宣誓」という罪があります。まず、「宣誓」とは何ですか?「天主を証人にたてて、行っていることが真であることを断言する」という定義です。言いかえると、ある真実を断言したいとき、ある約束をするとき、ある行為を行うことを約束するとき、天主を証人としてそれに巻き込むということです。もちろん、善い宣誓、正しい宣誓はあります。しかしながら、偽りの宣誓もあります。

宣誓という制度の存在理由はある誓い、ある言葉の誠実さを保証するためにあるのです。ですから、場合によって正当な宣誓もあります。ことに、非常に大事な誓いと言葉、それに関わる重要な事実と真実の時にはまさに宣誓が正当です。簡単にいうと、宣誓正当であるための条件を述べてみましょう。まず、疑いなく、真理・真実・真に関する宣誓でなければなりません。つまり、悪いことについてや真ではないことのために宣誓するのは必ずしも正当ではなく、やるべきではありません。このような宣誓はされたとしても何の価値もありません。

旧約聖書には、ある士師(判事【注・天主によって選ばれたユダヤ人のリーダー】)が戦争から帰った時、勝利したゆえに誓ったことがあります。このように天主に誓っていました。それは「これから、遭遇する最初の人を天主に生贄として捧げることを約束します」という宣誓でした。そして、最初に遭遇した人は判事の娘でした。この宣誓にはそもそも価値がなくて拘束力がありませんでした。というのも、宣誓の中身自体が何もよいことではなかったからです。

要約すると、宣誓が正当になるためには、中身が真であり、また正しく、そして何よりも慎重な判断に基づかなければならないということです。つまり、深刻なことについて、また必要不可欠の時にのみ宣誓するという条件です。これらの条件が満たさなければ「悪い宣誓」となります。あるいは「偽りの宣誓」、あるいは「軽率な宣誓」あるいは「無用な宣誓」となりします。このばあい、天主のみ名を冒涜することですから、悪い宣誓はよくありません。悪い宣誓、あるいは偽りの宣誓は言うまでもないのですが、軽々しく宣誓することもよくありません。
以上、第二戒に対する第三の罪でした。



最後、第四の罪を手短に説明しましょう。デリケートな罪なので、簡単に説明してみます。「誓願を破ること」という罪です。自分が約束した誓願を破ることです。誓願という厳密な意味は「宗教上の行為」です。つまり、「ある人はより良い行為をやるように天主に約束する」ということです。天主に誓願を立てることはよいことです。また、天主を讃えるために良いことを行うことを望むこともよいことです。それは当然です。

誓願が成り立つには、条件が四つあります。まず、約束が必要です。それから、約束を破ったら、罪になることを了知することです。そして、よりよい善のために誓願することです。そして、慎重に熟考の結果、誓願を立てることです。つまり、軽々しく誓願を立ててはならないということです。また、誓願を立てるには、必ず聖職者、あるいは司祭、あるいは相応しい上位のだれかの相談を得なければなりません。非常に重いことですから、勝手に軽々しく行うようなものではありません。

誓願を破ることがなぜ深刻で重いのでしょうか?
それはは宗教を侮辱して、宗教に対する罪になるからです。つまり、直接に天主に反対する行為です。ある意味で、わざわざ天主に約束したのに、それを蔑ろにしているような行為です。また誓願を破る時、誓いに背くことになります。宣誓違反になります。要するに、誓願が成り立つためには、熟考が必要であること、よりよいことを約束し、破ったら罪になるということを承知することが必要だということです。(つまり単なる約束ではないのですね。)

これと違って、小さなことで、天主に何か約束しても、これは誓願にならないので、「破ったら罪になる」というようなことはありません。繰り返しますが、誓願を立てるということは、破ったら罪になることをあえて承知した上に約束することになりますので、重い約束です。
もちろん、誓願は非常に善いことで、秀でています。修道士は誓願を立てています。司祭たちも誓願を立てています。助祭に叙階される場合、司祭は貞潔の誓願を立てます。修道士の場合、明らかにはっきりと「従順、貞潔、清貧」の誓願を立てます。これは非常によいことで値すべきです。そして、この三つの誓願のゆえに、修道士の生活はその上なく聖なるものになります。しかしながら、その分、修道士が誓願を破った場合、それは宣誓違反になり、大罪になるのです。ですから、誓願というのは軽いものではありません。誓願を軽々しく立ててはなりません。

誓願を破るということは、自分が誓ったことを破るだけではなく、天主に誓われたものですから天主に背くことになります。つまり、誓願の内容を天主に直接に宣誓して約束したのに、これを破るということは自分がした宣誓を馬鹿にして、天主を侮辱することを意味します。加えて、誓願というのは、天主との契約のような性格があり、契約であるがゆえに、誓願を立てる側と天主にも義務が生じます。要するに、誓願を破ることは契約反となります。そして、天主に誓われた宣誓違反は、天主のみ名を侮辱して、天主の名誉を傷つけることにもなるのです。
以上は、第二戒に対する罪でした。


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