白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
第一と第二の戒めに続いて、第三の戒めについてみていきましょう。
第三 なんじ、安息日を聖とすべきことをおぼゆべし。
天主を奉仕するよう、この戒めは命じます。第一と第二の誡めでは、天主を知るよう、それから、天主を愛するよう、天主を畏怖するよう、という掟でした。そして、この第三の掟は、行為をもって実際に天主を奉仕しなければならないというものことです。つまり、内面的に天主を讃えるだけでは足りないということでありのです。前述したように、具体的な行動において、また習慣化した形で、つまり徳になって、天主への崇拝が実践されなければならないということ第三の掟です。
天主への崇拝を具体的に表すために、天主ご自身はどうすればよいか十戒においてお示しになり、そして、公教会はそれを踏襲しました。
第三 なんじ、安息日を聖とすべきことをおぼゆべし。
この掟はそれほど単純ではないのです。なぜかというと、この掟の一部はが自然法に属しているものの、自然法に属していない部分もあるからです。言いかえると、この掟には自然法的な部分の他、制定法的な部分もあるということです。こういった二重性がは第三の戒の難しいところです。
第三 なんじ、安息日を聖とすべきことをおぼゆべし。
旧約聖書の出エジプト記脱出の書出エジプト記において、天主は次のように仰せになりました。
「六日の間、働いて、自分の仕事をせよ。七日めは、天主なる主の、安息日である。どんな仕事もするな。おまえも、息子も、娘も、しもべも、はしためも、家畜も、家にいる他国人も同じことである。」
このように天主は命じました。この第三の戒には自然法に属する部分があります。つまり、人間なら皆、天主への崇拝を捧げるべきだということに関して、自然法の一つの掟です。そして、さらにその上、制定法に属する部分もあります。天主はが特定の日を制定するという意味において掟こととして、制定法であり、。追加法でもあるのです。厳密にいうと、自然法を明示する追加法といえます。
そして、旧約聖書にはよると、天主はこの特定の日を明示なさいました。「七日め」という日です。
「六日の間、働いて、自分の仕事をせよ。七日めは、天主なる主の、安息日である。」
あるいまたは、「六日の間は仕事をする日であるが、七日めは、主のために全てく休みとする日である。」
要するに、週の最初の六日はあえて言えば、人間のための日だと言えます。そして、最後の日、七日めの日は天主のための日であるということです。聖なる七日めだからです。本当に「聖なる」日なのです。天主ご自身が「聖なる日」だと仰せになったからです。また、天主は安息日を祝福し給うたのです。つまりこのように、天主は週の七日めを天主への礼拝のために特別に割り当てられた一日なのです。旧約聖書では、ヘブライ語民では、「サバト」と呼ばれており、それは安息日という意味です。休む日を意味する「サバト」です。
~~
では、天主はなぜ安息日を制定したのでしょうか?
まず、天主を礼拝することは必須要不可欠だからです。人間の一つの義務です。そして、当然ながら、毎日のように人々が働いているのなら、いずれすぐ、その挙句のはてに天主への礼拝を捧げることを忘れて、礼拝を怠る羽目に必ず陥ることになります。現代社会を見るとこの現象は著しいです。そして、天主を礼拝しなくなると、人間の霊魂は堕落していきます。残念ながら、現代において、これも深刻に確認できる現象なのです。
第二の理由は、天主はこの上なく善い天主だからです。つまり、天主は自然をお創りになって、自然の巡りを決定なさったので、自然の巡りにそって安息日を制定されしました。つまり、我々の身体を休むませる必要があると同じように、我々の霊魂をも休ませるむ必要があるので、善き天主は霊魂の休みのため、安息日を制定なさいました。
第三の理由は、安息日を活かすことによりして、我々は天主のことを深く勉強するように天主がお望みになられたからでした。要するに、我々は、善き天主からの恵みをどれほど頂いているかを、定期的に改めて認識し、天主への報恩の念を深めるために安息日は与えられたのでもあります。
旧約聖書の時代、ヘブライの民はエジプトからの脱出を成就なさった天主の多くの恵みを黙想していましたが、それは安息日があればこそでした。天主を讃えるため、天主からの多くの恵みと恩恵を思い出すための日でもあります。
新法では、新約では、つまり、新約聖書では、天主への崇拝の義務の実態は変わりませんが、安息日はもはや土曜日ではなく、日曜日となりました。日曜日は週のはじめの日となります。旧法では安息日は週の最後の日でしたが、新約聖書によって週のはじめの日となりました。つまり、安息日の日にちが変えられました。
なぜでしょうか?思い出しましょう。サバトという安息日は天主の制定法によって命じられたのです。というのは、制定法、あるいは実定法なのですから、追加法という性格を持っていますので、自然法ではないということです。従って、制定法であるがゆえに、その制定法を改定する権限、権威をもった者によって、改定可能の掟となっているのです。
そして、実際には、使徒たちは安息日の日程を改定しました。なぜできたかというと、使徒たちは天主より与えられた権限があったからです。その権限を使って改定しました。使徒行録には次のとおりに記されています。
「週のはじめの日、私たちはパンを裂くために集まった。翌日出発するはずだったパウロは、彼らと語り合い夜半まで語り続けた。」
そして、使徒たちは安息日の日にちを変えました。なぜでしょうか?法自体が変わったからです。つまり、旧法でなくなり、新法の時代になりました。もはや旧約はなくなり、新約が結ばれました。そして、新法において、旧法に比べて特に何が変わったでしょうか?
私たちの主、イエズス・キリストはこの世にいらっしゃって、人類の贖罪を全うなさったのです。ですから、十字架上の私たちの主の生贄を境に、決定的にいろいろ変わりました。そして、旧法と違って、聖なる日はもはや週の最後の日、創造した後の休みの日、七日めの日ではなくなりました。新法では、安息日は週のはじめの日であり、創造の最初の日であります。要するに、ご復活に合わせて私たちの主が私たちを再創造したもうた日が聖なる日となりました。
このように理解しましょう。
公教会は週のはじめの日を聖なる日にすることによって、まず、万物の創造主と万物の維持者(保全者)として、全能なる御父なる天主を讃えるのです。また、ご復活をもって悪魔と罪への隷属から我々を解放し給うた我々の救い主として、天主の御一人子、イエズス・キリストを讃えるのです。
私たちの主は日曜日に蘇りました。それから、公教会は週のはじめの日を主の日にすることによって、我々の霊魂において成された新しい創造、つまり、恩寵において創り直された霊魂を産みたもう聖霊をも讃えるのです。そういえば、神父がミサを捧げる際、ミサの奉献文の一つの祈祷にはこの新創造が「最初の創造よりもいとも素晴らしい」と唱えます。聖霊によって、罪という「無」から引っ張り出された霊魂たちは、聖霊降臨の際、新しい生命の息吹を賜り給いました。そして聖霊降臨も日曜日にあった出来事です。
ですから、使徒たちは新しい主の日を週のはじめの日にすることを決定しました。サバトと違って週の最後の日ではなく、週のはじめの日です。強調しますが、現代人はつい、日曜日は週の最後の日だと思いがちですが、週のはじめの日であることを忘れてはなりません。とはいえ、使徒が形式的に決定したものの、イエズス・キリストご自身がはそうするようにすべてを明示なさいました。復活という出来事も、聖霊降臨と出来事も日曜日に行われたのですし、そして御父なる天主を讃えることによってもお示しになりました。
ですから、週のはじめの日を聖なる日にする根拠は非常に強くて重いのです。繰り返しますが、週の最後の日である土曜日ではなく、週のはじめの日こそがは新しい聖なる日となりました。旧約聖書と違って、日曜日での礼拝のお陰によってこそ、明確に三位一体を讃えられるのです。日曜日という日は、創造という御業において、父なる天主を讃えて、復活によって我々にもたらされ齎した救いにおいて、子なる天主を讃えて、そして、人々の霊魂の再創造において、聖霊を讃えるのです。
繰り返しますが要するに、日曜日は週のはじめの日です。つまり、日曜日とはまさに、このお陰で、この新しい週のために新しい生命を流すように、週のはじめの日にあたる安息日ということになります。それはいわゆる、単なる「安息日」にとどまらずだけではなく、使徒の霊魂に聖霊が降臨したように、聖霊による新しい息吹をも毎週、私たちに降臨することとなるのです。
~~
第三 なんじ、安息日を聖とすべきことをおぼゆべし。
以上の掟をみると、またかなり一般原則であるというか、まだそれほど明確なものとはいえ特定化されていません。
第三 なんじ、安息日(主の日)を聖とすべきことをおぼゆべし。
前述したように、主の日は日曜日です。つぎは、日曜日には具体的に何をすべきでしょうか?
言いかえると、「主の日を聖とすべきこと」とは一体何を意味しているのでしょうか?
これについても公教会はその中身を明示しました。旧約聖書にある掟などを踏襲しました。つまり「仕事をするな」という掟を踏襲した上に、追加である掟を制定しました。これは「ミサに与ること」という掟です。
つまり、日曜日を聖とするために、二点があるということでります。ひとつはいわゆる主に肉体労働をしないことです。もうひとつはそれから、ミサに与ることです。肉体労働あるいは現代風にいうと金儲けするための仕事をしてはいけないこと。これは旧約聖書から引き継がれました。
思い出しましょう。旧約聖書には、ある人はサバトの日に、家の炉のために薪を拾いに行ってきたという話があります。そして、以上の事件をモーゼに報告されて、どう対応すべきかをモーゼに尋ねられています。そして、モーセは天主にどうすべきかをお伺いした聞いた結果、天主から峻烈な答えを頂きました。「投石に処せよ」と天主が仰せになりました。そして、犯罪者は投石の死刑に処されました。このようにわかるように、天主を軽んじて馬鹿にしてはいけません。
そういえば、ラ・サレットで聖母がご出現された際、日曜日に対する尊重の重大性を改めて想起されて、その重要性について特にいろいろ仰せになりました。
現代、日曜日に対する一般となってきた侮辱を見て、どれほど現代社会が堕落しているか、また、「日曜日に労働するように勧められている政策」を行う我々の指導者と為政者をみると、かれらの責任はどれほど重いか、どれほど天主のみ前にその責任が大きいかがわかるでしょう。
このような責任はいずれ問われることになります。個人としてだけではなく、指導する社会としても人前で裁かれる時がいずれきます。日曜日に労働を許可して勧めることによって、人々は罪を犯す機会が増えてしまうので、彼らの責任はその分、より重いのです。
~~
日曜日には「肉体労働をしてはならない」という掟があると言いました。では何を意味するでしょうか?それは、霊魂よりも身体の方が重んじられる仕事を日曜日にしてはいけないという意味です。厳密にいうと、「奴隷的な仕事」との意味の「肉体労働」とは「精神より身体の方が第一になる」というような仕事です。
つまり、一般的にいうと、霊魂の善よりも、身体の善のためにする仕事だということです。つまり、例えば、奉仕人がいれば、奉仕人にやってもらうような仕事です。または奴隷にやってもらうような、労働者にやってもらうような仕事なのです。
つまり、霊魂よりも身体のためにある仕事なのです。つまり、おもに知性によって行われる「無償」の働きではない「肉体労働」であり、または現代風にいうと、金儲けのための仕事です。
例えば、農業での野良仕事、あるいは企業に関係する作業、機械づくり、あるいは労働的な仕事などなどがあります。日曜日にはこのような仕事をやってはいけません。霊魂より身体が中心となる仕事だからです。というのも、日曜日は主の日であるから、我々の霊魂を聖化するための日なのです。また、司法にかかわる仕事も(裁判、判決執行、捜査などなど)日曜日には禁止されています。また、市場の開き、それから売買という仕事なども日曜日には禁止されています。以上は「肉体労働」という大枠に属するいくつかの仕事です。
当然ながら、公教会は我々の母なので、生活に必要不可欠な仕事は日曜日でも許されていまるのです。例えば、家族のために主婦が引き続き子供の世話をしたり、料理をしたりすることのは必要不可欠です。このような仕事は「肉体労働」として認められていないのです。また、例えば、移動する、あるいは狩りをする、あるいは漁するなどといった働きは許可されています。要するに、日常に必要不可欠となっている活動などは「肉体労働」としてみなされず成り立たなくて、日曜日にも許可されています。しかしながら、いわゆる「余分」の肉体労働は、必要不可欠の義務を越えた労働としては禁止されています。
それから、日曜日を聖にするために、ミサに与るように公教会は信徒に要求します。
つまり、日曜日に天主を礼拝するために、この上なく相応しい秘跡であるミサを荘厳に公教会は捧げて、キリスト教徒の参席を義務付けています。
ミサに与ることは義務なのです。そして精神上に与ることも義務です。
つまり、身体をもって参席する上に、霊魂を以て与るということです。つまり、実際に足を運んでミサに与ることは必要です。つまり、中継でも、家のソファに座っているまま、ミサを見ていることは十分ではありません。これだけでは、身体をもってミサに与ることにならないので、義務は果たされていません。
身体を以てミサに与るために、ミサが捧げられている場所にいるか、そのすぐ近くにいるかということが必要です。例えば、ある教会が満席になって、中に入れなくて、教会の門前でミサに与る場合は、大丈夫です。つまり、身体上にいうと秘跡からある程度の至近の短距離であれば大丈夫です。
それから、霊的にもミサに与るべきです。言いかえると、霊魂をもってミサに与るという意味です。また、ミサに与ろうとしている意志がなければなりません。つまり、例えば、ある人は教会にはいって座ってミサに与っても、ミサ中にずっと読書しているのなら、ミサに与る義務を果たされていないことになります。そしてそれは重い深い罪を犯すことになります。また、例えば、ミサはつまらないと思うから、ミサに集中するよりも何かの小説を読んだらだめです。その人は「ミサに与った」と思っても、形式に留まっており、霊魂をもって与らなかったから、義務を果たさなかったことになるのですります。
そして、ミサに与る義務を果たすためには、ミサへの参席は身体を以て、霊魂を以て、その上に、継続的に参席する必要があります。つまり、ミサの最初から最後まで与る必要があるという意味です。最初から最後までというのは具体的に何でしょうか?
狭義のミサ実態の構造は三部からなっています。奉献の部。聖変化の部。拝領の部。その中に一番大事なのは、聖変化と拝領であることはいうまでもありません。ですから、ミサに与るために、最低限、奉献の部と聖変化の部と拝領の部に与る必要があります。それは最低限の最低限です。
最低限なので、非常でもはないのに、もしも一人が最低限の要求にとどまって十分に義務を果たさないのなら、今度は、不敬という罪を犯すでしょう。
それは当然と言ったら当然ですが、天主への礼拝をぞんざいに片付けるようなことですので、すくなくとも不敬にあたりますね。天主に対する侮辱のようなもので、天主に対する罪です。宗教の徳に対する罪でもあり、天主への不敬を表す行為なのです。第一から第三の戒は天主への愛に関する掟なので、天主への礼拝をぞんざいに片付けるのは天主の愛徳に対する罪でもあります。当然といったら当然ですが。
それはともかく、奉献の部、聖変化、拝領の部のいずれにも与らない信徒は義務を破って、大罪を犯すことになります。このように不可能ではない限り、非常ではない限り、日曜日にミサに与ることは義務です。
ミサに与る義務は大事です。制定された掟として公教会は定めたのですから、分別がついた人々を対象にしています(一般的に、6-7歳以上)。そして、この義務は制定法の一種なので、つまり実定法の一種なので、その義務から免除されることはあり得ます。また、免除される事情があります。
繰り返しますが、忘れないでおきましょう。制定法、つまり実定法、言いかえると、追加法である限りにおいて、どうしてもいつでもどこでも適用されるのだということはありません。非常に重い支障がある場合、その義務から免除されます。例えば、病気で、あるいは不自由で、移動できない人。あるいは感染しやすいような病気の人は免除されます。あるいは、ミサ会場は遠いから、飛行機に乗らないとミサに与れないような人。このような場合は、身体上の差し支えがあるゆえに、ミサに与る義務から免除されています。当然ながら、この場合、出来ないから、無理してミサに与らなくてもいいですし、ミサに与らなくても、この場合、罪にならないのです。7歳以下の子供はミサに与る義務はありません。分別はまだないので義務の対象者外です。
また、愛徳の施しのためにミサに与らない場合、罪になりません。例えば、医者、看護士婦、消防士などが愛徳の施しを行う時、あるいは主婦が病気の子供を看病している時、ミサに与ることは免除されます。また、例えば、両親の高齢化で一人でいられなくなって、傍にいなければ身の危険がある場合でも義務から免除されています。
このようにしてみると、愛徳というのは一つしかないことが見えてくると思います。すでに説明したことですが、隣人への愛と天主への愛は一致しています。要するに、隣人への愛を実践する場合、ミサに与る義務から免除されることがあります。どうしても、このようにやむを得ないことがあって、日曜日にミサに与れない時に、その代わりに、できるだけ、何かの祈祷なり、崇拝なりを捧げることに超したことはありませんが、ミサに与る義務自体から免除されています。
それから、公教会はいくつかのことをお勧めしています。お勧めなので義務でも何でもありませんが、一応簡単に紹介します。つまり、日曜日は主の日だと言います。ですから、ミサ以外にも日曜日の用事・活動などは霊的であると何より善いことです。例えば、日曜日を機に、何か霊的な読書をするか、あるいは何か霊的なことを勉強するか、あるいは、何かの形で天主に自分の身をよりよく奉献するような活動。日曜日はそのためにあります。日曜日は主の日なのです。
残念ながら、現代では、殆どの場合、日曜日は人間への崇拝の日になりがちです。なんか、人々は休みの日だから、スポーツあるいはショッピングあるいはスターの出る番組(コンサート?)?になったりして嘆かわしいですね。スターにとんでもない金を払って、単なる身体上のショーを日曜日に挙げて嘆かわしいです。永遠の栄光は何もならないのに、嘆かわしいです。これは悲惨なことです。天主への畏怖と報恩の念を失わせた近代社会はかわいそうです。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
公教要理 第九十九講 第三戒について
第一と第二の戒めに続いて、第三の戒めについてみていきましょう。
第三 なんじ、安息日を聖とすべきことをおぼゆべし。
天主を奉仕するよう、この戒めは命じます。第一と第二の誡めでは、天主を知るよう、それから、天主を愛するよう、天主を畏怖するよう、という掟でした。そして、この第三の掟は、行為をもって実際に天主を奉仕しなければならないというものことです。つまり、内面的に天主を讃えるだけでは足りないということでありのです。前述したように、具体的な行動において、また習慣化した形で、つまり徳になって、天主への崇拝が実践されなければならないということ第三の掟です。
天主への崇拝を具体的に表すために、天主ご自身はどうすればよいか十戒においてお示しになり、そして、公教会はそれを踏襲しました。
第三 なんじ、安息日を聖とすべきことをおぼゆべし。
この掟はそれほど単純ではないのです。なぜかというと、この掟の一部はが自然法に属しているものの、自然法に属していない部分もあるからです。言いかえると、この掟には自然法的な部分の他、制定法的な部分もあるということです。こういった二重性がは第三の戒の難しいところです。
第三 なんじ、安息日を聖とすべきことをおぼゆべし。
旧約聖書の出エジプト記脱出の書出エジプト記において、天主は次のように仰せになりました。
「六日の間、働いて、自分の仕事をせよ。七日めは、天主なる主の、安息日である。どんな仕事もするな。おまえも、息子も、娘も、しもべも、はしためも、家畜も、家にいる他国人も同じことである。」
このように天主は命じました。この第三の戒には自然法に属する部分があります。つまり、人間なら皆、天主への崇拝を捧げるべきだということに関して、自然法の一つの掟です。そして、さらにその上、制定法に属する部分もあります。天主はが特定の日を制定するという意味において掟こととして、制定法であり、。追加法でもあるのです。厳密にいうと、自然法を明示する追加法といえます。
そして、旧約聖書にはよると、天主はこの特定の日を明示なさいました。「七日め」という日です。
「六日の間、働いて、自分の仕事をせよ。七日めは、天主なる主の、安息日である。」
あるいまたは、「六日の間は仕事をする日であるが、七日めは、主のために全てく休みとする日である。」
要するに、週の最初の六日はあえて言えば、人間のための日だと言えます。そして、最後の日、七日めの日は天主のための日であるということです。聖なる七日めだからです。本当に「聖なる」日なのです。天主ご自身が「聖なる日」だと仰せになったからです。また、天主は安息日を祝福し給うたのです。つまりこのように、天主は週の七日めを天主への礼拝のために特別に割り当てられた一日なのです。旧約聖書では、ヘブライ語民では、「サバト」と呼ばれており、それは安息日という意味です。休む日を意味する「サバト」です。
~~
では、天主はなぜ安息日を制定したのでしょうか?
まず、天主を礼拝することは必須要不可欠だからです。人間の一つの義務です。そして、当然ながら、毎日のように人々が働いているのなら、いずれすぐ、その挙句のはてに天主への礼拝を捧げることを忘れて、礼拝を怠る羽目に必ず陥ることになります。現代社会を見るとこの現象は著しいです。そして、天主を礼拝しなくなると、人間の霊魂は堕落していきます。残念ながら、現代において、これも深刻に確認できる現象なのです。
第二の理由は、天主はこの上なく善い天主だからです。つまり、天主は自然をお創りになって、自然の巡りを決定なさったので、自然の巡りにそって安息日を制定されしました。つまり、我々の身体を休むませる必要があると同じように、我々の霊魂をも休ませるむ必要があるので、善き天主は霊魂の休みのため、安息日を制定なさいました。
第三の理由は、安息日を活かすことによりして、我々は天主のことを深く勉強するように天主がお望みになられたからでした。要するに、我々は、善き天主からの恵みをどれほど頂いているかを、定期的に改めて認識し、天主への報恩の念を深めるために安息日は与えられたのでもあります。
旧約聖書の時代、ヘブライの民はエジプトからの脱出を成就なさった天主の多くの恵みを黙想していましたが、それは安息日があればこそでした。天主を讃えるため、天主からの多くの恵みと恩恵を思い出すための日でもあります。
新法では、新約では、つまり、新約聖書では、天主への崇拝の義務の実態は変わりませんが、安息日はもはや土曜日ではなく、日曜日となりました。日曜日は週のはじめの日となります。旧法では安息日は週の最後の日でしたが、新約聖書によって週のはじめの日となりました。つまり、安息日の日にちが変えられました。
なぜでしょうか?思い出しましょう。サバトという安息日は天主の制定法によって命じられたのです。というのは、制定法、あるいは実定法なのですから、追加法という性格を持っていますので、自然法ではないということです。従って、制定法であるがゆえに、その制定法を改定する権限、権威をもった者によって、改定可能の掟となっているのです。
そして、実際には、使徒たちは安息日の日程を改定しました。なぜできたかというと、使徒たちは天主より与えられた権限があったからです。その権限を使って改定しました。使徒行録には次のとおりに記されています。
「週のはじめの日、私たちはパンを裂くために集まった。翌日出発するはずだったパウロは、彼らと語り合い夜半まで語り続けた。」
そして、使徒たちは安息日の日にちを変えました。なぜでしょうか?法自体が変わったからです。つまり、旧法でなくなり、新法の時代になりました。もはや旧約はなくなり、新約が結ばれました。そして、新法において、旧法に比べて特に何が変わったでしょうか?
私たちの主、イエズス・キリストはこの世にいらっしゃって、人類の贖罪を全うなさったのです。ですから、十字架上の私たちの主の生贄を境に、決定的にいろいろ変わりました。そして、旧法と違って、聖なる日はもはや週の最後の日、創造した後の休みの日、七日めの日ではなくなりました。新法では、安息日は週のはじめの日であり、創造の最初の日であります。要するに、ご復活に合わせて私たちの主が私たちを再創造したもうた日が聖なる日となりました。
このように理解しましょう。
公教会は週のはじめの日を聖なる日にすることによって、まず、万物の創造主と万物の維持者(保全者)として、全能なる御父なる天主を讃えるのです。また、ご復活をもって悪魔と罪への隷属から我々を解放し給うた我々の救い主として、天主の御一人子、イエズス・キリストを讃えるのです。
私たちの主は日曜日に蘇りました。それから、公教会は週のはじめの日を主の日にすることによって、我々の霊魂において成された新しい創造、つまり、恩寵において創り直された霊魂を産みたもう聖霊をも讃えるのです。そういえば、神父がミサを捧げる際、ミサの奉献文の一つの祈祷にはこの新創造が「最初の創造よりもいとも素晴らしい」と唱えます。聖霊によって、罪という「無」から引っ張り出された霊魂たちは、聖霊降臨の際、新しい生命の息吹を賜り給いました。そして聖霊降臨も日曜日にあった出来事です。
ですから、使徒たちは新しい主の日を週のはじめの日にすることを決定しました。サバトと違って週の最後の日ではなく、週のはじめの日です。強調しますが、現代人はつい、日曜日は週の最後の日だと思いがちですが、週のはじめの日であることを忘れてはなりません。とはいえ、使徒が形式的に決定したものの、イエズス・キリストご自身がはそうするようにすべてを明示なさいました。復活という出来事も、聖霊降臨と出来事も日曜日に行われたのですし、そして御父なる天主を讃えることによってもお示しになりました。
ですから、週のはじめの日を聖なる日にする根拠は非常に強くて重いのです。繰り返しますが、週の最後の日である土曜日ではなく、週のはじめの日こそがは新しい聖なる日となりました。旧約聖書と違って、日曜日での礼拝のお陰によってこそ、明確に三位一体を讃えられるのです。日曜日という日は、創造という御業において、父なる天主を讃えて、復活によって我々にもたらされ齎した救いにおいて、子なる天主を讃えて、そして、人々の霊魂の再創造において、聖霊を讃えるのです。
繰り返しますが要するに、日曜日は週のはじめの日です。つまり、日曜日とはまさに、このお陰で、この新しい週のために新しい生命を流すように、週のはじめの日にあたる安息日ということになります。それはいわゆる、単なる「安息日」にとどまらずだけではなく、使徒の霊魂に聖霊が降臨したように、聖霊による新しい息吹をも毎週、私たちに降臨することとなるのです。
~~
第三 なんじ、安息日を聖とすべきことをおぼゆべし。
以上の掟をみると、またかなり一般原則であるというか、まだそれほど明確なものとはいえ特定化されていません。
第三 なんじ、安息日(主の日)を聖とすべきことをおぼゆべし。
前述したように、主の日は日曜日です。つぎは、日曜日には具体的に何をすべきでしょうか?
言いかえると、「主の日を聖とすべきこと」とは一体何を意味しているのでしょうか?
これについても公教会はその中身を明示しました。旧約聖書にある掟などを踏襲しました。つまり「仕事をするな」という掟を踏襲した上に、追加である掟を制定しました。これは「ミサに与ること」という掟です。
つまり、日曜日を聖とするために、二点があるということでります。ひとつはいわゆる主に肉体労働をしないことです。もうひとつはそれから、ミサに与ることです。肉体労働あるいは現代風にいうと金儲けするための仕事をしてはいけないこと。これは旧約聖書から引き継がれました。
思い出しましょう。旧約聖書には、ある人はサバトの日に、家の炉のために薪を拾いに行ってきたという話があります。そして、以上の事件をモーゼに報告されて、どう対応すべきかをモーゼに尋ねられています。そして、モーセは天主にどうすべきかをお伺いした聞いた結果、天主から峻烈な答えを頂きました。「投石に処せよ」と天主が仰せになりました。そして、犯罪者は投石の死刑に処されました。このようにわかるように、天主を軽んじて馬鹿にしてはいけません。
そういえば、ラ・サレットで聖母がご出現された際、日曜日に対する尊重の重大性を改めて想起されて、その重要性について特にいろいろ仰せになりました。
現代、日曜日に対する一般となってきた侮辱を見て、どれほど現代社会が堕落しているか、また、「日曜日に労働するように勧められている政策」を行う我々の指導者と為政者をみると、かれらの責任はどれほど重いか、どれほど天主のみ前にその責任が大きいかがわかるでしょう。
このような責任はいずれ問われることになります。個人としてだけではなく、指導する社会としても人前で裁かれる時がいずれきます。日曜日に労働を許可して勧めることによって、人々は罪を犯す機会が増えてしまうので、彼らの責任はその分、より重いのです。
~~
日曜日には「肉体労働をしてはならない」という掟があると言いました。では何を意味するでしょうか?それは、霊魂よりも身体の方が重んじられる仕事を日曜日にしてはいけないという意味です。厳密にいうと、「奴隷的な仕事」との意味の「肉体労働」とは「精神より身体の方が第一になる」というような仕事です。
つまり、一般的にいうと、霊魂の善よりも、身体の善のためにする仕事だということです。つまり、例えば、奉仕人がいれば、奉仕人にやってもらうような仕事です。または奴隷にやってもらうような、労働者にやってもらうような仕事なのです。
つまり、霊魂よりも身体のためにある仕事なのです。つまり、おもに知性によって行われる「無償」の働きではない「肉体労働」であり、または現代風にいうと、金儲けのための仕事です。
例えば、農業での野良仕事、あるいは企業に関係する作業、機械づくり、あるいは労働的な仕事などなどがあります。日曜日にはこのような仕事をやってはいけません。霊魂より身体が中心となる仕事だからです。というのも、日曜日は主の日であるから、我々の霊魂を聖化するための日なのです。また、司法にかかわる仕事も(裁判、判決執行、捜査などなど)日曜日には禁止されています。また、市場の開き、それから売買という仕事なども日曜日には禁止されています。以上は「肉体労働」という大枠に属するいくつかの仕事です。
当然ながら、公教会は我々の母なので、生活に必要不可欠な仕事は日曜日でも許されていまるのです。例えば、家族のために主婦が引き続き子供の世話をしたり、料理をしたりすることのは必要不可欠です。このような仕事は「肉体労働」として認められていないのです。また、例えば、移動する、あるいは狩りをする、あるいは漁するなどといった働きは許可されています。要するに、日常に必要不可欠となっている活動などは「肉体労働」としてみなされず成り立たなくて、日曜日にも許可されています。しかしながら、いわゆる「余分」の肉体労働は、必要不可欠の義務を越えた労働としては禁止されています。
それから、日曜日を聖にするために、ミサに与るように公教会は信徒に要求します。
つまり、日曜日に天主を礼拝するために、この上なく相応しい秘跡であるミサを荘厳に公教会は捧げて、キリスト教徒の参席を義務付けています。
ミサに与ることは義務なのです。そして精神上に与ることも義務です。
つまり、身体をもって参席する上に、霊魂を以て与るということです。つまり、実際に足を運んでミサに与ることは必要です。つまり、中継でも、家のソファに座っているまま、ミサを見ていることは十分ではありません。これだけでは、身体をもってミサに与ることにならないので、義務は果たされていません。
身体を以てミサに与るために、ミサが捧げられている場所にいるか、そのすぐ近くにいるかということが必要です。例えば、ある教会が満席になって、中に入れなくて、教会の門前でミサに与る場合は、大丈夫です。つまり、身体上にいうと秘跡からある程度の至近の短距離であれば大丈夫です。
それから、霊的にもミサに与るべきです。言いかえると、霊魂をもってミサに与るという意味です。また、ミサに与ろうとしている意志がなければなりません。つまり、例えば、ある人は教会にはいって座ってミサに与っても、ミサ中にずっと読書しているのなら、ミサに与る義務を果たされていないことになります。そしてそれは重い深い罪を犯すことになります。また、例えば、ミサはつまらないと思うから、ミサに集中するよりも何かの小説を読んだらだめです。その人は「ミサに与った」と思っても、形式に留まっており、霊魂をもって与らなかったから、義務を果たさなかったことになるのですります。
そして、ミサに与る義務を果たすためには、ミサへの参席は身体を以て、霊魂を以て、その上に、継続的に参席する必要があります。つまり、ミサの最初から最後まで与る必要があるという意味です。最初から最後までというのは具体的に何でしょうか?
狭義のミサ実態の構造は三部からなっています。奉献の部。聖変化の部。拝領の部。その中に一番大事なのは、聖変化と拝領であることはいうまでもありません。ですから、ミサに与るために、最低限、奉献の部と聖変化の部と拝領の部に与る必要があります。それは最低限の最低限です。
最低限なので、非常でもはないのに、もしも一人が最低限の要求にとどまって十分に義務を果たさないのなら、今度は、不敬という罪を犯すでしょう。
それは当然と言ったら当然ですが、天主への礼拝をぞんざいに片付けるようなことですので、すくなくとも不敬にあたりますね。天主に対する侮辱のようなもので、天主に対する罪です。宗教の徳に対する罪でもあり、天主への不敬を表す行為なのです。第一から第三の戒は天主への愛に関する掟なので、天主への礼拝をぞんざいに片付けるのは天主の愛徳に対する罪でもあります。当然といったら当然ですが。
それはともかく、奉献の部、聖変化、拝領の部のいずれにも与らない信徒は義務を破って、大罪を犯すことになります。このように不可能ではない限り、非常ではない限り、日曜日にミサに与ることは義務です。
ミサに与る義務は大事です。制定された掟として公教会は定めたのですから、分別がついた人々を対象にしています(一般的に、6-7歳以上)。そして、この義務は制定法の一種なので、つまり実定法の一種なので、その義務から免除されることはあり得ます。また、免除される事情があります。
繰り返しますが、忘れないでおきましょう。制定法、つまり実定法、言いかえると、追加法である限りにおいて、どうしてもいつでもどこでも適用されるのだということはありません。非常に重い支障がある場合、その義務から免除されます。例えば、病気で、あるいは不自由で、移動できない人。あるいは感染しやすいような病気の人は免除されます。あるいは、ミサ会場は遠いから、飛行機に乗らないとミサに与れないような人。このような場合は、身体上の差し支えがあるゆえに、ミサに与る義務から免除されています。当然ながら、この場合、出来ないから、無理してミサに与らなくてもいいですし、ミサに与らなくても、この場合、罪にならないのです。7歳以下の子供はミサに与る義務はありません。分別はまだないので義務の対象者外です。
また、愛徳の施しのためにミサに与らない場合、罪になりません。例えば、医者、看護士婦、消防士などが愛徳の施しを行う時、あるいは主婦が病気の子供を看病している時、ミサに与ることは免除されます。また、例えば、両親の高齢化で一人でいられなくなって、傍にいなければ身の危険がある場合でも義務から免除されています。
このようにしてみると、愛徳というのは一つしかないことが見えてくると思います。すでに説明したことですが、隣人への愛と天主への愛は一致しています。要するに、隣人への愛を実践する場合、ミサに与る義務から免除されることがあります。どうしても、このようにやむを得ないことがあって、日曜日にミサに与れない時に、その代わりに、できるだけ、何かの祈祷なり、崇拝なりを捧げることに超したことはありませんが、ミサに与る義務自体から免除されています。
それから、公教会はいくつかのことをお勧めしています。お勧めなので義務でも何でもありませんが、一応簡単に紹介します。つまり、日曜日は主の日だと言います。ですから、ミサ以外にも日曜日の用事・活動などは霊的であると何より善いことです。例えば、日曜日を機に、何か霊的な読書をするか、あるいは何か霊的なことを勉強するか、あるいは、何かの形で天主に自分の身をよりよく奉献するような活動。日曜日はそのためにあります。日曜日は主の日なのです。
残念ながら、現代では、殆どの場合、日曜日は人間への崇拝の日になりがちです。なんか、人々は休みの日だから、スポーツあるいはショッピングあるいはスターの出る番組(コンサート?)?になったりして嘆かわしいですね。スターにとんでもない金を払って、単なる身体上のショーを日曜日に挙げて嘆かわしいです。永遠の栄光は何もならないのに、嘆かわしいです。これは悲惨なことです。天主への畏怖と報恩の念を失わせた近代社会はかわいそうです。