ファチマの聖母の会・プロライフ

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祈りとは何でしょう?祈る時にはどうすればよいでしょう?

2021年01月17日 | カトリック
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理 第百七講 祈りについて



前回の講座では、聖寵とは何であるかを紹介しました。第一、聖寵の状態、すなわち「平常の聖寵」とは天主の三つの位格が私たちの霊魂にお住いになることによって、「天主の生命という賜物を天主が人間に与える」という恩寵です。第二、「助力の聖寵」とは一時的な助けの聖寵です。助力の聖寵を通じて、善き天主は私たちがある行為を実践するために、あるいは悪い行為を躊躇するための一助を与え給うということです。
そして、聖寵を得るための主な手段は祈りと秘跡なのです。

今日は祈りについて見ていきましょう。祈りとは何でしょうか。
公教要理が記す通り、祈ることとは、父に話しかけると同じように天主に話しかけるということです。この定義は本当によくできています。(くりかえしますが)祈ることとは、父に話しかけると同じように天主に話しかけるということです。そういえば、私たちの主は祈ることを教えている際、「あなたたちはこう祈れ、〈父よ〉」(ルカ、11、2)と使徒たちに仰せになりました。

要するに、天主に話しかける時に重要なことは「父なる存在に話している」ということを思い出すことです。天主に話しかけるのは一体なぜ「父に話す」と同じことなのでしょうか?これも注意すべきことなのではっきりと説明しておきましょう。私たちの霊魂においてお住いを構え給うた善き天主は、私たちの友人になる恩恵を与え給うだけではなく、私たちの父になり給うからです。

聖寵の状態というのは、天主が私たちの父になっているという状態です。これは大切なことです。現代、いわゆる曖昧な「エキュメニズム」が流行しているせいで、「皆、同じ天主を父として頂いている」かのように信じ込む羽目に陥ることが少なくないでしょう。しかしながら、それは正確ではありません。より厳密にいうと、人々は全員、皆、同じ創造主としての天主を頂いています。

このように、人間なら必ず天主による「創造のみ業」より生じたということです。しかしながら、本来の「父」という意味では、人々は皆、同じ父を頂いていないわけです。聖寵の状態にいる人々のみ、同じ父を頂いているのです。言いかえると、つまり、聖寵という「大家族」に属する人々だけが同じ父を頂いています。ですから、狭義でいう「兄弟」、つまり本来の意味の兄弟となっている人々は同じ父を頂いている人々に限られるのです。つまり、聖寵の状態にいる人々は本当の意味での兄弟です。

言いかえると、聖寵の状態にいるカトリックの信徒たちです。カトリック信徒たちは聖寵を得ていない人々の兄弟ではありません。カトリック信徒たちはカトリックではない人々の兄弟ではありません。50年前ぐらいから、「皆、兄弟だ!」という誤謬は広まりましたが実際はそうではありません。言葉の意味を曖昧に使うことによってそのあたりが曖昧になりましたから、注意が必要です。



家族において、兄弟になっているという意味は「血統でつながっていて、つまり同じ父を頂いている」という意味でしょう。なぜこのような意味になっているでしょうか?同じ父によって生まれて生きているからです。つまり、一番厳密な意味でいうと、狭義な意味でいうと、兄弟になるためは、聖父なる天主によって超自然の命として生まれた時に限ります。つまり、超自然としての命にまだ生まれていない人は天主を父として頂いていないのです。従って、イエズス・キリストを兄弟として頂いていないのです。したがって、キリスト教徒を兄弟として頂いていないのです。

そして、父として天主を頂いていない人は、当然といえば当然ですが、聖父なる天主の遺産(これは天国あるいは救霊ですが)を相続する権利はありません。当然と言えば当然ですが、このような基礎知識はよく覚えておきましょう。基礎中の基礎ですから。
皆、必ずしも兄弟ではないということを忘れてはいけません。カトリック信徒たちのみ、兄弟となっています。そして、聖寵の状態の内に生きている人々に限って、天主は父となっています。

当然のことながら、この世に生きている限り、人間ならだれでも聖寵の状態の内にいずれの日にか生まれ変わることが期待できますし、望ましいことです。私たちが兄弟になることを教会が深く望んでいるからこそ、宣教があり、福音を伝えるのです。そのため、「善き知らせ」を伝えていくのです。「天主は私たちを養子にしてくださった!」という善き知らせです。「天主の子になった!」という善き知らせです。

要するに、祈りをするとき、父なる天主に話しかけるのです。そして、父に話しかけるとおなじように、天主に話しかけるのです。
この短い定義においては、祈りとはどれほど単純なこと、自然なことであるかが語られています。ときどき、祈ろうとするとき、物事を無駄に難しくする傾向が少なくないでしょう。「どうすればよくいのれるのか?どういった言葉を使ったらよいか」とか。それを一旦わすれて、単純に素直に祈るのがよいです。祈る時、私たちの父である天主に話しているということを思い出しましょう。

さて、祈ろうとしたらどうすればよいでしょうか?
第一、天主を礼拝しましょう。というのも、天主は私たちの父であると同時に、私たちの創造主であることに変わりはないからです。天主は私たちの父になり給うたお陰で、あるいは私たちは天主の子になることによって、私たちは超自然の次元に引き上げられているということを忘れてはいけません。つまり、人の力だけで、到底に取得できない宝を天主のお陰で取得したということです。ですから、祈る時、第一に、天主を礼拝しましょう。本来ならば、キリスト教徒ならあたりまえの習慣になっていることですが、天主に祈りをささげる際、まず天主の偉大さを認めて唱えて、礼拝するのです。
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残念ながら、近代主義による悪影響もあり、「天主は私の仲間、わたしの友達」といったような意見が意外と多くなっているようです。天主はなにか、何の遠慮もなく、何の礼儀もなく、何でも「会話」できるような存在であるかのような。それはありませんよ。父に話しかける時、丁寧に話すでしょう。友達ではないからです。この世は私の父のお陰で、生きているわけです。そして、父から生命を受けているし、人生においていつまでも父に依存する部分があるし、つまり多くの恩を受けています。

このように、天主の場合も同じです。天主は単なる「友達」ではありません。砕けたような口調で話しかけるのは論外でしょう。善き天主は善き天主なので、偉大中の偉大な存在です。「自分を欺いてはいけない。神を侮ってはならない」(ガラツィア人への手紙、6、7)。
当然ながら、天主との親しみはもちろんあります。ありますが、この親しみはいわゆる馴れ馴れしくなることはないというか、粗野な砕けたような関係ということにはなりません。

そして、「天主はいとも優しい御方なので、どれほどダメな傾向が私にあったとしても、許してくれるからさ、私のレベルに卑下してくれるからさ」ということはありませんよ。



普通の家族において、父の仕事は子供たちを引き上げて、高めてあげることにあるのです。つまり父は卑下してはならないのです。なにか、大人でなくなって、子供になるかのように、父が自分を貶めて、卑下することはありませんよ。もちろん、一時的に、父が「子供のレベルに自分を貶める」ことがあります。しかしながら、それはいわゆる、子供のレベルまで下がって、子供を引き上げるためです。そして、同じように、子供もどんどん高まってほしくて、全力を尽くして努力します。たとえば、子供は大人の会話に混じることによって自分がより大人っぽくなりたいということです。聖パウロがおっしゃる通りです。「私はこどものころは、子どものようにはなし、子どものように考え、子どものように論じたが、大人になってからは子どもらしいことを捨てた。」(コリント人への第一の手紙、13、11)

要するに、祈る時に、最初の目的は、天主を礼拝し、天主のいと高き威厳を積極的に認めることにあります。
それから、祈りの第二の目的は天主に感謝することにあります。当たり前といったら当たり前ですが、それほど多くのことを頂いているから、感謝するのは最低の最低でしょう。考えてみると、天主は私たちのようなちっぽけな存在を超自然の次元にまで引き上げてくださることになさるなんて、信じられないことでしょう。また、恩寵を私たちに与えてくださるなんて、冷静に考えると本当に信じられないことです。その分、感謝しましょう。

そうすることによって、父という関係の上に、天主は私らにその親交関係を結び、ある程度の対等性を与えてくださるわけです。どれほど素晴らしいことでしょうか。天主のみ内に天主が私たちを入れ給うなんて!これを思い出すと、天主を感謝することはいつまでも十分にできなくて物足りないでしょう。ですから、出来る限り、よく感謝していきましょう。また、善き天主は感謝の意を大御心のなかで受けるのです。これを思い出しましょう。善き天主は感謝の意を大御心のなかで受けるのです。ですから、感謝をよくしていきましょう。

そういえば、現代の社会では感謝することが珍しくなりました。というのも「人権」をはじめ、「現代人には権利がある」といって、「すべて得て当然だ」といったような空気なので、感謝することがなくなりつつあります。なんか、個人が権利を貰っているのが当然であるかのように、個人がすべてを貰っているのが当然であるかのような空気です。そして、天主に対するこのような態度はときどきあります。天主は人間に物事を与えるのは当然であるかのように、人間の言いなりになるべきだというような態度。それはまったくありません。逆です。人間こそは天主に仕えて、従っているのです。ですから、感謝してください。そうすると、天主によって恵まれることになります。

思い出しましょう。福音において、10人のハンセン病がわれらの主のもとに来る場面を思い出しましょう。その時、「治してほしい」という願いですが、われらの主は善き御方なので、当然ながら10人とも治してあげます。そして、10人は治りました。10人ともうれしいですが、そのうち、われらの主に感謝を表したのはたった一人だけです。感謝するのは人間にとってどれほど難しいかこれでお分かり頂けたと思います。

経験に照らしてもそうでしょう。そして、その10人の内、たった一人のみ、私たちの主の下に戻って、「ありがとうございます」といいます。そして、私たちの主は「10人を治したのではなかったのか?残りの9人はどこにいったのか」と仰せになります。残りの9人は恩知らずな人々でした。感謝を表さないのです。そして、感謝しに来た一人のために、イエズス・キリストは彼の身体を治した上に、今度、彼の霊魂を治すのです。素晴らしいでしょう。善き天主に感謝を表したから、更に私たちの主はより多くの賜物を送るのです。

あと、周知のように、親は子供が「ありがとう」といわせるためにどれほど苦労を掛けているかを見ても明白でしょう。そして、このように躾のある子、よく「ありがとう」といってくれる子に会う時、その子により多く与えたくなっていきますね。この子は、現実の「依存」をありのままに認めているから、ありがたいことですね。
要するに、礼拝し、感謝しましょう。祈りの一つの目的は天主に感謝することにあります。
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それから、祈りの第三の目的は一番知られているところでしょう。つまり願いを立てる目的ですね。恵みを乞う目的です。よく礼拝しないでよく感謝しないことが多いため、願っても成就することはまれでしょう。それでも、どうしても私たちは恵みを希っていますね。そして、私たちが天主に意外と多くの恵みを希っているのが常ですね。

そして、臨終の時、天主のみ前に来る時が来たら、いよいよどれほど天主から頂いたかということに気づくことになりますが、私たちは驚くでしょう。そして、なぜ、私たちの願いがあまり成就されていなかったのかもわかるでしょう。つまり、私たちが願っている多くのことは私たちのためにならないから与えられるわけがないということです。

ですから、これは多くあることでしょう。私たちの救霊とあまり関係ないことを願ったりすることが多いでしょう。あるいは、救霊を得るためにまったくためにならないことを意外と願っていることも少なくないでしょう。しかしながら、天主は私たちのために気づかない内に与えてくださった多くの物事をはじめて分かった時、皆、驚くでしょう。要約すると、祈りの第三の目的は恵みを希うことにあります。

そして、祈りの第四の目的は、私たちが犯した罪の赦しを希うことにあります。これも非常に大切です。親は子どもがなにか罪あるいは過失を犯したとき、謝罪を要求するのと同じです。そして、謝罪して、赦しを希うのは、慎みの行為なのです。つまり、天主のみ前に、私たちはどれほど小さいかを認める行為だからです。

謝罪すること、赦しを希うことは大事です。現代の社会では赦しを希うことがまれになっています。いわゆる、謝罪するよりも、裁判に訴えて賠償金を貰うのはむしろ普通になりつつあります。天主に赦しを希うのは大事であって、そしてその分、多くの恵みを頂くのです。

以上は祈りの四つの目的でした。第一、礼拝すること。第二、感謝すること。第三、恵みを希うこと。第四、罪の赦しを希うこと。
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キリスト教徒には祈ることが義務です。「祈らない人は救われない、祈る人は救われる」とは聖アルフォンソ ・デ・リゴリのことばです。
祈りというのは、信徒と天主の間の親交を大切にする手段です。維持・持続する手段です。たとえば、二人の親友はお互いに大事な方だと思ったら、よく話し合うでしょう。その関係を大切にするため、よく手紙を交換したり、あるいは会話したりするでしょう。このような関係がなくなったら、親交はどんどん薄くなっていき、ある時、絶交になるでしょう。

逆に、このような関係を大切にして、よく話し合ったりすると、親交を保つたけではなく、その親交を深めていくのです。その絆を強化していきます。これは祈りの役割です。ですから、祈りはキリスト教徒の義務です。祈ることによって天主との絆を強化していきます。また、祈ることによって、聖寵の状態が確固たるものとなっていきます。つまり、よく祈っているキリスト教徒は信仰において、聖寵において毅然として強くなっていきます。そして、祈れば祈るほど、罪を犯すことも少なくなっていきます。このように考えると、聖アルフォンソの言葉の意味が分かります。「祈らない人は救われない、祈る人は救われる」。要するに、祈りは義務です。

それから、いつ祈ればよいでしょうか。もちろん、なるべく頻繁に祈るのがよいです。聖パウロが言う通りです。「絶えず祈れ」(テサロニケ人への第一の手紙、5、17)。もちろん文字通りには無理ですけど、なるべくよく祈ることです。
良い習慣として、起きる時、一日を天主に捧げるために祈るのがよいです。また、寝る前に、一日にいただいた恵みを感謝して、罪の赦しを願うために祈るのがよいです。それから、日中、時々祈るのがよいです。悲しみがある時、苦しみがある時、危険がある時、誘惑がある時、祈るのが重要です。

そういえば、日曜日のミサに与る戒め以外に、教会は祈祷に関して細かく規定することはありません。たとえば、「必ず毎日三回祈れ」というような規定はありません。もちろん、祈れば祈るほどよいことで、それに越したことはありませんね。というのも、親友を愛すればするほど、頻繁に会いたくなってよりよく話したいと同じように、天主を愛すればするほど、祈りたくなっていきます。天主はなによりも、この上なく貴重なことですから。ですから、天主に近づこうとすればするほど、よく頻繁に祈っていくことになります。

そして、よく祈るためには、注意深く、慎み深く祈ることが重要です。礼拝することは慎みの行為です。同時に天主を信頼して安心感を以て祈ることが大事です。また、一番難しいところであるかもしれませんが、忍耐強く絶えず祈り続けることが大事です。よくあることでしょう。恵みを得るために祈りますが、叶わないからといって、祈りを止めることが少なくないでしょう。



これは過ちです。天主は私たちに与えるべきこと、与える義務はまったくありません。その逆です。私たちはすべてを天主により賜っているので、恩返しする義務があって、祈る義務があるのです。いわゆる、私たちの祈祷が成就するか否かにもかかわらず、いつまでも私たちは天主に依存して、また天主に深く恩に来ている事実は変わりません。

従って、いつまでも祈り続けることが大事です。忍耐強く祈り続けることが大事です。福音ではこれについての立派なたとえがあります。ある人が夜中に友人の家まで来て戸を叩く話です。いま不足している物を友人に頼みに来ました。夜中だし、騒ぎになるから、起きざるを得ないその友人に対する願いです。そして、私たちの主はこのように仰せになります。この友人は友人として頼まれたことを与えないとしても、静かに寝ることができるために与えるだろうと。このたとえを通じて、私たちの主は「忍耐強く、あきらめることはなく祈り続けなさい」と教えるのです。つまり、「正当な頼みであるかぎり、いずれか成就してあげるから」という意味を込めたたとえ話です。
要するに、祈る時に、注意深く、慎み深く、信頼して、忍耐強く祈っていきましょう。

それから、祈る時、まず、自分自身のために祈ることが大事です。聖寵を失わないように、信仰において忠実であり続けるように祈るのがよいです。それから、生きている者と死んでいる者とのためにも祈ることが大事です。死者は既にその運命は裁かれたので、煉獄からなるべく早く解放されるように信徒の死者のために祈るのが大事です。

そして、何よりも大事なのは、生きている人々のために祈ることです。生きている人々が天国に入れるように祈りましょう。これこそ重要です。罪人のために祈るのが重要です。聖母は何度もこれを私たちに頼んでいます。Pontmainのご出現の際でも涙をながし、ファチマの際に聖母が子供に地獄を見せて「そうならないように、罪人のために祈りなさい」と頼みました。永劫は非常に深刻なことで、取り消しのない状態ですから。そして、生きている人々の間に、愛徳の順番に従って、第一に、私たちに近い人々のために祈りましょう。家族、親、兄弟姉妹、友人、それから信仰において私たちに近い人々のために祈りましょう。「親交においての同胞者」とでも呼ばれうる人々のために祈りましょう。お互いのために祈り合うことが重要です。祈るということは自分自身のためだけではありません。お互いのために祈ることが大事です。そして、教会の構成員の皆さんのために祈るのも大事です。
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祈ることに当たって何を願えばよいでしょうか。一番重要なことを願いましょう。つまり、私たちの救霊のために必要である物事を願いましょう。
地上の物事あるいは現世の利益はいつまでも続かないし、いつか終わるから、現世の利益は救霊のために必ずしも必要ではない物事です。従って、祈りにおいて、何よりも超自然な恵みを願いましょう。

祈りには二種類があります。心の祈りと声の祈りです。この区別を理解すると、聖パウロの「絶えず祈れ」という命令の意味をも理解できます。「声の祈り」とは、言葉を以て発声して、また体の姿勢をもって行う祈りを指します。いわゆる、言葉をもっての祈りです。知るべき「声の祈り」には次の重要な祈りがあります。「アヴェマリア」あるいは「天使祝詞」と呼ばれる祈祷。天使聖ガブリエルがいとも高き聖母に祝いの言葉を知らせたことから「天使祝詞」と呼ばれます。そして、天主の言葉に追加された形で、聖エリザベートの言葉に続き、最後の部分は教会によって追加された部分から構成されています。


「めでたし 聖寵充ち満てるマリア、
主御身とともにまします。
御身は女のうちにて祝せられ、
御胎内の御子イエズスも祝せられたもう。」
以上、前半の部分は天使ガブリエルと聖エリザベートの言葉です。そして、後半は教会が追加した祈祷です。
「▲天主の御母聖マリア、
罪人なるわれらのために、
今も臨終のときも祈り給え。アーメン。」

キリスト教徒にとって重要中の重要な祈祷です。そして、非常に覚えやすい祈祷なのです。そして、司祭として経験を述べさせていただくなら、老人あるいは病者の世話をする時、疲労していたり、病気のせいで何もできなくなっている状態でも、何も読めない覚えられない状態でも、アヴェマリアは最期まで残ります。臨終の人々の大きな慰めとなる祈祷なのです。

「めでたし 聖寵充ち満てるマリア、
主御身とともにまします。
御身は女のうちにて祝せられ、
御胎内の御子イエズスも祝せられたもう。」

それから、キリスト教徒なら必ず知るべき祈祷は主祷文です。天主は使徒たちに向けて直接に教えられた祈祷なのです。「あなたたちはこう祈るのがよい」(マテオ、6、9-13)

「天にましますわれらの父よ、
(願わくは、)御名の尊まれんことを、
御国の来たらんことを、
御旨の天に行わるる如く地にも行われんことを。
▲われらの日用の糧を、今日われらに与え給え。
われらが人に赦す如く、われらの罪を赦し給え。
われらを試みに引き給わざれ、
われらを悪より救い給え。アーメン。」

この祈祷には常に私たちの父なる天主に願い出るべき項目はすべて揃っています。以上、声の祈祷でした。もちろん、祈りは数えきれないほどに、その他たくさんありますね。栄唱などの短い祈祷、あるいは聖ベルナルドの素晴らしい「聖母への祈り」、そのほか多くの連祷は無数なほどあります。カトリック教会は非常に多くの祷りを受け入れました。好みもあってよいですし、いくつかを覚えておくといいですし。

それから、心の祈りという祈祷の種類もあります。その呼称通り、より内面的な祈りになります。もちろん、声の祈りも内面を含めて心を込めての祈りですが、心の祈りの特徴は発生する言葉はないという意味です。心の内にだけ祈るという。要するに、霊魂は天主のご現存を心に迎えるという祈りです。信仰の行為、希望の行為、愛徳の行為を内面的に行い、霊魂に天主を迎えるということです。そうすることによって、天主を礼拝するのはもちろんですが、そして感謝し、そして天主は霊魂にご自分自身を与え給います。
黙想あるいはとも呼ばれる祈りです。霊的な祈りの達者とされている聖アヴィラのテレサはこういっていました。「毎日、15分の黙想をする人は天国に入ることが確実です」。



黙想あるいは心の祈り、あるいは内面的な祈りは「静寂主義」という誤謬ではありあません。「静寂主義」は誤謬としてカトリック教会によって断罪されました。つまり、「静寂主義」といのはすべてにおいて消極的で、静寂しながら天主の間に動かないまま、15分の間に何もしないでそのまま立っているような感じですが、それは心の祈りではありません。黙想になりません。いや、それはなくて、黙想というのは、信仰の行為、希望の行為、愛徳の行為を込めて、天主を迎える状態にするということです。自分の霊魂を天主に捧げて、天主を迎える積極的な祈りです。そうすることによって、天主は霊魂にご自分自身を捧げることは可能となります。

たとえてみると、ちょっとだけ似てはいますが、こう言いましょう。母が食事の準備をしているとしましょう。台所にいて準備していいます。そして、二歳の子供は傍にいて母のやっている事をじっと眺めています。二歳の子供はそして話しかけます。おぼつかない言葉で。そして、母を手伝おうとしても何もできないのです。まあ、卵を下手に壊して、粉を散らかすぐらいですね。しかしながら、子どもができるのは母のそばにいることです。そして、いることだけで、母は喜びます。また子供も喜びます。そして、二人は実は消極的ではなく、お互いにいることによって喜びます。子供は具体的にあまり何もできないとしても、消極的にならないわけですね。興味津々になって、母を手伝おうとします。
もちろん、これはかなり弱いたとえにすぎませんが、心の祈りはこれとちょっと似てはいます。天主のご現存を心に迎える心の祈りです。
以上、祈りについてでした。


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